あの日の記憶 Ⅳ
□
目を覚ましたとき、アリシアは今自分がどこにいるのかわからなかった。
何度かまばたきをしてから、ぼんやりする頭で、イルヴィスのことを待っていたんだと思い出す。
少しうとうとするだけのはずが、すっかり眠ってしまっていた。
「目は覚めたか」
突然頭の上から声が聞こえた。
「ふぁっ、あ、えっ?」
誰かがいるとは少しも思っていなかったアリシアは、驚いてとび起きる。
すぐ隣で、イルヴィスは笑いを噛み殺しているような表情をしてアリシアを見ていた。
「で、殿下!?あの、いつから……ていうかわたしっ」
「まったく。この国で第一王子の肩を借りて眠っても許されるのなんて、貴女くらいだ」
「肩っ……!も、申し訳ありません!!」
彼が部屋に入ってきたときに気がつくどころか、隣に座られても目を覚まさず、あろうことか肩を借りて寝ていたというのか。
(やっちゃったあああ!どうしよう、さすがにヨダレを垂らしたりはしてないわよね……)
恥ずかしさのあまり顔が上げられない。
「お、起こしてくだされば良かったのに……!」
「あまりに気持ち良さそうに寝ていたから躊躇われてな」
「っ……!」
寝顔までバッチリ見られている。その上気を使わせてしまった。
「お、お湯沸かしてきます」
アリシアはいたたまれなくなって立ち上がる。とりあえず一人になって落ち着きたい。
しかし、何故かイルヴィスも一緒に立ち上がって言った。
「私も行っていいか?」
「えっ」
「私も何か手伝いたい」
心なしか目がキラキラと輝いているように見える。今までそんなこと言わなかったのにいきなりだ。
(そういえば……)
アリシアはその目を見てふと思い出した。
(何年か前、リリーさんのカフェで知り合った年上の少年も、こんな風に手伝いたがっていたわね)
アリシアがCafe:Lilyに入り浸っていた頃、多くの常連客と知り合ったが、皆大人ばかりだった。
そんな中、珍しくアリシアとそう歳の離れていなさそうな少年が一時期店によく来ていたのだ。
顔も名前もすっかり忘れてしまったが、今頃は恐らくイルヴィスと同じくらいの年齢になっているだろうか。
(まさか……ね)
アリシアは一瞬頭に馬鹿げた考えが浮かび、慌てて振り払った。
王子があんな場所にひっそりとある、庶民向けのカフェに通うなんてこと、あるはずがない。
「えっと……それなら、お湯はわたしが準備するので、殿下は調理場で氷を分けてもらってきてください」
「氷だな。了解した」
根負けしたアリシアが頼むと、イルヴィスはどこか嬉しそうにうなずく。
そして、アリシアがお湯の準備を終えて戻ってくるのとほぼ同時に、大きめのガラスのボウルに大量の氷を入れて持ってきた。
「ずいぶん多いですね」
「いきなり訪ねたからか驚かれてな。全部持って行ってくれと渡された」
「あ、あははは……」
突然王子がやってきて「氷をくれ」などと言われ、騒然とする調理場の様子が目に浮かぶ。
調理場にいた皆さんには悪いことをしてしまったかもしれない。後でまたお詫びしておかなければ。
「それで、今日は何のハーブティーを淹れるんだ?」
「今日はですね……これを」
アリシアはテーブルに置いていた瓶を開けてイルヴィスに見せる。
「ラベンダーティーを淹れます。暑いのでアイスティーにしますね」
「ラベンダー、か」
「殿下はラベンダーがお好きなんですよね。お口に合えば良いですが」
前に、アリシアはどうして自分が婚約者に選ばれたのかと尋ねたことがあった。
その質問に、彼は「ラベンダーが好きだから」と答えていた。
答えになっていないし、適当に誤魔化したくて言っただけなのだろうが、ラベンダーが好きだということ自体は嘘ではないだろう。
だからアリシアは、イルヴィスに会うときは、いつも必ず香水代わりのラベンダー水を付けている。
「ラベンダーだけだと香りが強いし、味も飲みにくいので、ニルギリの茶葉をベースにドライラベンダーで香り付けする感じにします。氷で薄まるのでお湯はいつもより少なくして濃く出して……」
「『ラベンダーの香りは強すぎたら飲みにくいが、楽しめるぐらいには香らないと意味がない』か?」
「そうなんです!!この調節が難しくて……って、よくご存知ですね」
「まあ、勘だ」
そう言ったイルヴィスは、懐かしいものを見るかのように目を細めて笑っていた。
数分蒸らしてポットの蓋をとると、湯気と共に優しい香りが漂い、鼻腔をくすぐる。
アリシアはガラスのコップに氷をたっぷり入れ、熱々のラベンダーティーを注いだ。
ピキピキ、ジュワっと氷が溶ける涼しげな音がする。
蜂蜜を少量加え、スプーンでくるくるとかき混ぜてから、イルヴィスに差し出した。
「どうぞ。ラベンダーのアイスティーです」
彼はよく冷えたグラスを受け取り、光に透かすようにして少し眺めてから、ゴクリと一口飲んだ。
「なるほど。爽やかで夏にちょうどいいな。美味しい」
そう言って、半分くらいまで一気に飲み、テーブルに置いた。
それだけの動作なのに、彼にかかればものすごく絵になる。不覚にも見とれてしまった。
イルヴィスはそんなアリシアの視線に気づいたようで、微笑を浮かべながらアリシアを見た。
「どうした?」
「なっ、何でもないです」
アリシアは頬が熱くなっているのを感じながら、視線をそらし、自分の分のラベンダーティーに手を伸ばす。
だが、伸ばした手がグラスに届くことはなかった。
その手は、イルヴィスに柔らかく握られた。
謎の行動に再び視線を戻したそのすぐ後だった。
イルヴィスの端正な顔がゆっくりと近付き──アリシアの唇にそっと口付けた。
唇に触れる、温かくて柔らかい知らない感触に、アリシアの思考はしばらく停止する。
やがてそっと顔を離したイルヴィスが、頬をほんのり赤く染め、照れたように手を口許にやり目をそらす。
見たことがない彼のそんな表情に、アリシアはたった今起きた出来事を理解した。
(えっと……今、もしかして)
顔の熱と鼓動の速さが、信じられないくらい高まっていく。
そっと、手で自分の唇に触れてみる。
不思議と、まだ飲んでいないはずのラベンダーティーが、ふんわりと香るような気がした。
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