あの日の記憶 Ⅲ
そんな日々が続いていたある日。
いつも通り店でしばらく過ごしていたが、珍しくアリアが姿を現さなかった。
だが珍しいとはいえ、今までもそんな日はあったので、何か用事があったのだろうと思い、イルヴィスは諦めて学園に戻るため席を立った。
外は小降りながらも雨が降っており、時々雷鳴が響いていた。
本格的に降ってきたら厄介だ。そう思って急ぎ足で歩いていたが、結局雨足が強まってきたため一度軒下に入った。
今日はもう授業を受けるのは諦めようか。そう考えながら足下を見て、思わずギョッとした。
誰かが小さくうずくまっている。耳を塞ぎ、顔を伏せていたがすぐにわかった。
「アリア……?」
店には来ていなかったが、まさかずっとここにいたのか。
彼女はイルヴィスの声に気づかず、うずくまったまま震えている。
「アリア」
今度はコンと肩を叩いた。
ビクリと肩を震わせてから上げたアリアの顔は、恐怖にこわばり、今にも叫び出しそうだった。
イルヴィスは思わず彼女の口を押さえて言う。
「落ち着いてくれアリア。私だ」
「イル……さん?」
「こんな所でいったいどうしたんだ?」
アリアは呼吸を整えるように数回深呼吸をする。
「あ……えっと」
ようやく口を開いたとき、空がピカっと眩く光った。それからすぐにゴロゴロと腹に響くような音がする。
「割と近くに落ち……」
「いやあっ!」
イルヴィスの声を遮るようにして叫んだアリアが、ギュッと抱きついてきた。
「アリアっ!?」
動揺して上ずった声が出る。
袖にしがみついているアリアの手は小さく震えていた。
「もしかして……雷は苦手なのか?」
問いかけると、彼女はガクガクと何度もうなずいた。
再び雷鳴が轟くと、しがみつく力がいっそう強くなる。
「大丈夫だ、私はここにいる。ゆっくり息を吸えるか?」
アリアはその言葉に従い、ゆっくり深呼吸を繰り返す。
次第に落ち着きを取り戻してきたようだが、依然雷鳴は止まない。
イルヴィスはそっとアリアを抱きしめた。
この少女のことを守りたい。怯えた顔をさせたくない。
ハーブティーのことを語るときのような笑顔をずっと見せていてほしい。
そんなことを強く思った。
「イルさん……ありがとう。もう大丈夫」
やがてアリアはそう言ったが、イルヴィスは聞こえないふりをして抱きしめ続けた。
(ああ……)
唐突に理解した。
(私は、アリアが……この少女のことが好きなんだ)
自分が誰かに恋をするなど、考えたことすらなかったから今まで気づけなかった。
彼女とこうやって過ごせる時間が永遠に続いてほしい。
──だが残酷にも、「イル」が「アリア」に会ったのは、その時が最後だった。
その日王宮に戻ったイルヴィスは、「国王が倒れた」と伝えられた。
原因は過労。幸い命に別状はなかったが、医者からは長期間の休息が絶対、回復しても今までのような身体に負担を掛けすぎる働きは禁物だと言われた。
「イルヴィス、しばらくお前に公務全般を任せたい」
国王である父は、イルヴィスを呼び出し、病床から弱々しく言った。
すぐには答えられなかった。今まで父を手伝うという形で公務に関わったことはあるが、完全に任されるのは初めてである。
たった16の未熟者に、そのようなことができるのだろうか。
それでも、賢王と呼ばれ、国民からの信頼も厚い父がこうも弱っている姿を見せられては、迷いがあるはずもなかった。
「お任せください、陛下」
それ以来、忍んで街へ出るどころか学園すらも辞めて、王代理として完全に公務に集中する生活が始まった。
学園はもともと社交場という性格が強いもので、優秀なイルヴィスには教育の面では何も支障はなかった。
王がほとんど公務から手を引いたにも関わらず、大きな問題もなく国が回っていたのは、国王の臣下の力添えはもちろんだが、イルヴィス自身の優秀さによるところが大きい。
すっかりと変貌した生活の中で、初恋の少女の存在は薄れつつあった。
ただ、結婚話が出てくると、決まって彼女の顔が頭をよぎった。そのせいか、持ちかけられた結婚話は無意識のうちに突き返していた。「まだ妃など必要ない」と。
結婚の話が出るたびに彼女を思い出すくらいなら、いっそアリアを──否、アリシア・リアンノーズを妃に迎えるべきではないか……。
それも何度も考えたが、踏ん切りがつかなかった。
リアンノーズ伯爵家は、まあまあ力のある家ではあるが、繋がりができたところで王室側のメリットはあまりない。彼女自信もまた、目立って良い成績を残したような人物でもない。
そのような彼女を突然妃に迎えれば、色々と反発が起こるだろう。
……いや、それは決心のつかない自分への建前に過ぎない。
本当に不安だったのは、自分が愛したのはカフェで出会った庶民の少女「アリア」であり、伯爵令嬢の「アリシア」ではないかもしれないということだった。
貴族の令嬢というのは、甘やかされて育った傲慢で欲深く、自信過剰な女が多い。
学園で出会ったほとんどの令嬢がそれで、イルヴィスはそんな彼女らが苦手だった。
もし貴族としてのアリシアがそのような人物だったら、思い出の中の「アリア」が消えてしまう気がする。
それならばアリシアに近づいたりせず、初恋の少女を永遠に思い出の中に留めておいた方が良いのではないか。
そんな葛藤と共に結婚話を断り続けて4年。
妃をめとらないことについて、とうとう父から苦言を呈された。民を安心させるためにも、せめて結婚の意志があることだけでも示しておけ、と。
仕事のほとんどをイルヴィスが請け負っているとはいえ、あくまで父は国王。国王の命令には逆らえない。
結局、いくらかの令嬢を招待して、茶会という名の妃探しを行うことにした。
アリシアを招待するかどうかはギリギリまで悩んだ。
悩み抜いた末、少し顔を見るだけなら、と招待することを選んだ。
茶会当日。イルヴィスは案の定、妃の座を狙う令嬢たちに囲まれる羽目になった。招待する人数が多すぎたかもしれない。
適当に彼女たちをあしらいつつ、礼儀として全員に挨拶をしてまわる。
(まだ挨拶を済ませていないのは……向こうに一人でいるあの令嬢くらいか)
何故か他の参加者と離れてお茶菓子を食べることに夢中の令嬢の方へ、軽くため息をついてから向かう。
「こんにちは、本日はご参加ありがとう……ええと」
疲弊していたせいで、お茶菓子を食べているこの令嬢の顔をきちんと確認していなかった。
イルヴィスは顔を上げて彼女の顔を見て──思わず息を止めた。
「アリシア……嬢」
あの頃と変わらない、美しいターコイズブルーの髪とパッチリした青い瞳。
顔立ちはずっと大人びて、美しく成長している。
「今日はお招きありがとうございます、殿下」
彼女がスカートをつまみ、深く頭を下げる。その瞬間、ふわりと優しいラベンダーの香りがした。
(ああ……!)
イルヴィスは目を大きく見開き、口を押える。そうしていないと勝手に頬が緩んでしまう。
心臓がドクドクと騒がしく音をたてている。
(懐かしい。変わっていない……)
彼女が目の前にいる。その事実が予想していたよりずっと嬉しくてたまらなかった。
そして実感した。やはり自分は、彼女のことが好きだ。
「楽しんでいってくれ」
気の高ぶりを悟られないよう、アリシアに告げてすぐにその場から立ち去る。
このまま彼女を見ていたら、色々と抑えが効かなくなりそうだった。
いったい、今まで何が不安だったのだろう。アリアは──いや、アリシアはどこにいようが、どんな名を使っていようが、いつだって間違いなく彼女だ。
「ねえ、殿下っ」
甘ったるい声でイルヴィスに呼びかける周囲の令嬢たちの声は、もう何一つ耳に入ってこなかった。
このとき既に心は決まっていた。
──アリシアを、妃として迎えよう。
その後すぐにわかったことだが、アリシアは4年前にカフェで出会った男のことは覚えていないようだった。
いや、覚えてはいても、その男がイルヴィスであるとは繋がらないのだろう。
どちらにせよ残念ではあったが、それでも構わないとすぐに思い直した。
また一から関係を築いていけば良い。あの頃と同じように、彼女の淹れるハーブティーを飲みながら。
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