旅行編
恋バナ
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病室で大量に読んだうちの一つに過ぎないラブファンタジーの少女漫画。その脇役であり悪役の伯爵令嬢に転生すると知ったら、前世の自分はいったいどう思うだろう。
今より健康な身体が手に入るなら不満はない、と受け入れるだろうか。それとも、どうせ少女漫画の世界に転生するなら、お気に入りの学園ラブストーリーものの世界が良かったと文句を言うだろうか。
しかし、実際に転生してみて言えることは、アリシア・リアンノーズという人間は、人・環境・容姿に恵まれた幸せな人物であるということだ。
そう、例えば前世では全く縁のなかった「恋愛についての悩み」を持てるほどには──。
「アリシア様、さっきあたしに『ミントティーとラベンダーティーとカモミールティーがあるけど、何が飲みたい?』って聞いてきましたよね?」
王宮メイドとして働くニーナが、頬をぷくっと可愛らしく膨らませて不満そうな声を上げた。
グランリア王国の王宮内にある広大な庭園。
婚約者である第一王子とのティータイムが習慣化して以来、その一角にあるハーブ園を訪れることがアリシアの中で決まりになっている。
訪れて何をするかまでは決まっていないが、たいていは庭師のミハイルと雑談したり、おすすめのハーブティーを教えてもらったり、単にハーブを眺めて癒されるといった感じだ。
そして今日は、たまたま出会った、友人のニーナを誘ってプチお茶会をしている。既にイルヴィスとのティータイムを済ませた後なので、アリシアにとっては本日二度目のお茶だ。
「ええ、言ったわね」
アリシアはニーナのティーカップに注いだのと同じお茶を自分用に注ぎながら彼女の質問に答える。
「ですよね。それであたしは『じゃあラベンダーティーを飲んでみたいです』って答えましたよね」
「そうだったわね」
「で、今あたしの目の前にあるこのお茶は何ですか?」
「カモミールティーよ」
「いや何故!?」
アリシアはティーカップを持ち上げ香りをかぐ。優しくて良い香りだ。
「カモミールティーも美味しいわよ」
「いや知ってますけど、あたしが言いたいのは──」
ニーナはバンっとテーブルを叩く。その振動でカップの中のカモミールティーが零れそうなほど波打った。
「どうしてわざわざ、一度淹れたラベンダーティーを捨てて、カモミールティーに変えたのかってことです!」
「失礼ね、捨ててないわ。ミハイルさんとノアが飲んでくれているはずよ」
「別にあたしはラベンダーティーの行方を気にしてるわけじゃないですよ……」
はあっと息を吐いたニーナは、疲れたというようにカモミールティーをすすり、「あ、美味しい」と呟いた。
「で、何があったんですか?」
「何って?」
「知ってますかアリシア様。香りと記憶って強い繋がりがあるんですよ。例えばあたしは、コンソメスープの匂いで孤児院の夕食を思い出します」
「ああ、なるほど。確かにそういうことはよくあるわね」
「でしょう?特定の香りをかぐことで、以前その香りと共に経験したことが思い出されるんです。ところで……」
ニーナはニッコリと口角を上げる。
「先ほどアリシア様は、最初に淹れたラベンダーティーの香りをかいで顔を真っ赤にしてらっしゃいましたね。それから慌ててカモミールティーを淹れなおしてました」
「っ……」
「ラベンダーティーの香りで思い出す、耳まで真っ赤になってしまうような出来事って何ですか?」
アリシアは、ニヤニヤしながら見つめてくるニーナから思わず目をそらす。
何とか上手く話を変えようと考えを巡らせているうちに、ニーナが楽しそうに言った。
「まあ、きっとイルヴィス殿下関係だろうと察しはついていますが」
「えっ、どうしてわかっ……あ」
「ふふーん、図星ですか。ハーブティーの香りで思い出すことだから、もしかして殿下とのティータイム中に何かあったのかな?っていう勘です。ご自分で認めてくださりありがとうございます」
「っ、やられたわね」
忘れていたが、ニーナは頭の良い少女だ。しっかり意識していないと感情がすぐ表に出てしまうアリシアにかまをかけることなど造作もないのだろう。
アリシアは大きくため息をついた。
彼のことで何日も悶々と悩んでいることは事実だ。相談するとしたら彼女が一番適任であるような気もする。
そう結論付けたアリシアは、意を決して口を開いた。
「ねえニーナさん。世の殿方は恋愛感情のない相手にキスってできるものなのかしら……その、唇に……」
「え?キス?」
「ええ。手の甲にとかなら、第二王子のロベルト殿下なんかも挨拶気分でしているようだし、あんまり気にするのもなって思っていたのだけど……。一瞬ではあったけど唇にっていうのは……初めてだったし……」
話している間にもだんだん顔が熱くなってくる。
アリシアの手を優しく握る、細いながらもしっかりとした指。少し熱を帯びた緑色の瞳。唇に触れる柔らかな感触。
もうあれは、かれこれ一週間以上前のことになるだろうか。
一度だけ、それに一瞬触れるだけのものだったし、その後イルヴィスは何事もなかったかのように平然としていた。もちろんアリシアも懸命に平静を装っていたが、実は心臓が飛び出そうなほどドキドキしていて、彼の顔をまともに見ることができずにいた。
今もニーナが指摘する通り、ラベンダーティーの香りをかぐだけで唇の感触が蘇って頬が熱くなる。
「あのぉ、アリシア様……その、キスだけですか?それも一瞬の」
恥ずかしさに悶え、頭を抱えるアリシアに、ニーナは恐る恐るといった感じで尋ねる。
「え?そうだけど……」
「なんだぁ」
何故かニーナはガッカリしたように天を仰いだ。
「あーえっと?男が好きでもない相手にキスできるのか、でしたっけ?さあ、できる人もいるんじゃないですかー?あたしは男じゃないので知りませんけど」
「いきなり雑じゃない?」
「だってもっとカゲキな感じの期待してたので」
「過激?」
「うーん、そうですね。例えば……」
ニーナは少し考え込み、やがてニヤッと笑った。
「人目のない部屋で、ふとした瞬間目に入った婚約者の綺麗なうなじに、求めるように唇を何度も落としていく殿下。だけどそのうち物足りなくなって、アリシア様のドレスを脱がせようと手を伸ばす。それに気がついたアリシア様は、こんな時間に、しかも自分たちはまだ結婚していないのだと抵抗を試みる。しかしそれも虚しく──」
「待って待って待って!」
何だか不穏な感じになってきたので、アリシアは慌てて止める。
ニーナは「ここからが良いところなのに」と不満そうである。
「ニーナさん、あなたそれ下手したら王族を侮辱した罪に問われるわよ」
「アリシア様が言わなければバレようがありませんよ」
「それはそうだけど……ああ何だろう、だんだんわたしの中であの漫画の主人公のイメージが音をたてて崩れていくんだけど」
『黒髪メイドの恋愛事情』
それが、悪役令嬢アリシアが登場する漫画の名前だ。そして、題名にある黒髪メイド、つまり
しかもニーナには、アリシアと同じように前世の記憶がある。
アリシアと違い、前世でこの漫画を覚えるほどに読んでいた彼女は、この世界を漫画のストーリー通りに進めるこのにこだわっていた。
今でこそ和解し良き友人であるが、そのこだわりのせいで邪魔なアリシアを排除しようとするなど、一時対立したこともある。
「もう、そんなこと言ったらあたしの中の悪役令嬢のイメージもかなり前からガッタガタに崩れてますからね!」
イメージが崩れると言われたニーナは、心外だとばかりに口を尖らせ言い返してきた。
「そ、そう?」
「そうですよ!何ですか自由奔放で毎日が楽しそうな心優しい『アリシア様』って!……そんな貴女が大好きですよっ!」
「えっと……ありがとう……?」
責められているのかと思ったら褒められていた。これがツンデレというやつなのだろうか。
ニーナは「冗談はこのくらいにして」と一つ咳払いする。
「えっと、お悩みは『いきなり婚約者のイルヴィス殿下にファーストキスを奪われたけど、もしかしたら殿下はわたしのことを女性として愛しているのかしら?』でしたね」
「……その言い方は少し悪意を感じるわね。まあ……概ねそんな感じではあるけど……」
「なるほどなるほど。ちなみに、キスは初めてということでしたが、それは前世も含めてですか?」
「ええまあ……」
「ふむふむ。では前世で誰かとお付き合いした経験なんかは」
「ないわ。前世ではまともに学校へも行けてなかったから、そもそも友だちだっていなかったし」
「ああ、重い病気を患ってらしたんでしたね。なら初恋とかは……」
「……ねえ、この質問何か意味があるのかしら?」
「いいえ?単なるあたしの興味です」
「ちょっと!」
素直に答えて損した。悔しい。
「そういうニーナさんはどうなのよ?今はデュラン殿下一筋でしょうけど」
「あー……高校生ぐらいまでは割と恋多き女でしたよ。でも漫画の中のデュラン様に出会ってからは、現実の男に魅力を感じなくなっちゃったんですよね。だから前世と合わせてデュラン様に20年以上恋してます」
「おおっ」
それはすごい。色々と。
「って、あたしの話はどーでもいいんですよ!今はアリシア様の話をしてるんですから」
ニーナは口を潤すためにカモミールティーを一口すすり、ふと真剣な表情をした。
「アリシア様は、イルヴィス殿下が自分のことをどう思っているのか気になってるんですよね?だけどまず、アリシア様は彼のことをどう思ってるんですか?」
「えっ、それは……」
ニーナの指摘に、アリシアはうっと口ごもる。
イルヴィスと共に過ごす時間は楽しい。もし彼の隣にいられなくなったらと考えたら、嫌でたまらなかった。
だけど──
「よく、わからない」
圧倒的に経験不足だったんだろうと思う。
あんなに愛されることへの憧れがあったのに、実際に自分のこととして考えるとわからなくなる。
「あの漫画で“アリシア”は愛されていなかったでしょ?だから何となく、現実の彼が優しくしてくれるのも、一緒にいて情が湧いたからかな、ぐらいに思ってて」
「つまり、婚約者同士でも恋愛感情はないと思っていたわけですね」
「ええ。いまだにわたしを婚約者に選んだ理由も教えてもらってないし」
「あれ?学園で成績優秀だったから妃の務めも上手く果たすだろうと思われたからでは?」
「それは漫画の“アリシア”の話よ。実際のわたしはそこまで優秀じゃなかったもの」
「あっ、そうなんですね」
「ねえ、これってやっぱりストーリーの強制力のようなものだったりするのかしら」
アリシアは鬱々とした気分で尋ねる。
しかしニーナは、首を振ってあっさり否定した。
「いや、それはないです」
「え?」
「だって、そんなものがあったら、あたしがこんなに苦労しているはずないでしょ?」
「あ……」
そうだ。彼女はこの世界をストーリー通りに進めるために色々と画策していた。もし強制力があるのなら、そのようなことをせずとも放っておけばいいのだ。
「殿下がアリシア様を妃に所望した理由はちゃんとあると思いますよ」
「そう、かしら」
「アリシア様が彼のことをどう思っていようが、彼の気持ちを知らないままでいようが、このまま次の春が来れば、お二人は夫婦になります。だけどそれって……ちょっと寂しくないですか?」
ニーナはふわり、と優しい笑みを浮かべる。
「アリシア様が自分の気持ちを知るのはすぐにってわけにいかないでしょうが、せめてイルヴィス殿下の気持ちは聞いておいた方が良いかもしれませんね」
そう言うと、彼女はティーカップを置いて立ち上がった。
「そろそろ戻ります。ごちそうさまでした」
「ええ、話を聞いてくれてありがとう。お仕事頑張って」
「はい!また恋バナしましょうね」
会釈し立ち去るニーナに手を振り見送る。
助言を貰えたし、気持ちも少し軽くなった。だが……
「疲れた……」
正直、彼女との恋バナはしばはく御免こうむりたい気がする。
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