帰り道 後編


「その、前に貴女の許可を得ず思わず唇を奪ってしまったことがあったのだが……いや、忘れているならそれで良い」



 アリシアはカッと頬が熱くなるのを感じる。この前の話をしているのかはすぐにわかった。



「忘れてるわけないじゃありませんか……。なかったことにした覚えもありませんし……。むしろずっと気にしていたというか」


「気にしていた?そんな様子少しも見せなかったように思うが……」


「気をつけていたんですよ!顔に出ないように!」



 つい大きな声で言ってしまい、慌てて口を押さえる。


 イルヴィスはきょとんとした表情で「何故だ?」と問う。



「だって、殿下の方こそ全く気にする様子もなくて……深い意味はなかったのかも、わたしだけ色々考えてるのなら馬鹿みたいだと思って……」



 ああ、どうしてこんなこと言わされているのだろう。


 恥ずかしさに耐えきれず、両手で顔を覆う。



「……そうか。悪かったな」



 イルヴィスは穏やかな声で謝罪を口にしながら、顔を隠すアリシアの手をとる。


 そしてまた、彼の端正な顔がゆっくり近づいてきた。



「殿下……」



 またキスをされる。そう思って再び目を閉じた。


 しかし、アリシアの唇に触れるより前に彼の動きは止まった。

 薄く目を開くと、イルヴィスはごく近い距離でアリシアの目をじっと見つめていた。



「呼び方……」


「え?」


「カイのことは早々に名前で呼んでいたし、ディアナに至っては呼び捨てにしていた。だが私のことは、いつまで『殿下』なんだ?」


「あ……」



 言われてみればそうだ。『殿下』と呼ぶべき対象が何人かいる時は名前を付けていたが、そうでなければ、イルヴィスのことはいつも『殿下』と呼んでいる。


 しかしそうは言われても、どう呼ぶのが正解なのだろう。名前に「様」を付ければ良いのだろうか。さすがに王子のことを呼び捨てで呼ぶ勇気はない。


 少し迷った結果──



「イル様」



 カイやディアナのように愛称で呼んでみた。そういえば、前に一緒に街を歩いた時もこう呼んでいた気がする。


 イルヴィスは満足そうに口角を上げた。そして、つい油断してしまっていたアリシアの唇を奪う。



「そ、そろそろ勘弁してください」



 求めるように、唇を何度も繰り返し重ねられ、アリシアはとうとう弱々しい声で訴えた。

 ほとんど涙目になっており、それを見たイルヴィスは不安げな色を浮かべた。



「……嫌だったか?」


「っ、いえ、全然嫌ではないですけど」



 嫌ではない。だが、色々と限界だ。


 この間まで自分の気持ちの正体すらハッキリとわかっていなかったアリシアは、実際の恋愛に関して言えば、初心者中の初心者。


 前世の少女漫画、今世のロマンス小説で得た知識は、他人の恋愛へアドバイスするのに役立つことはあったかもしれないが、自分のことになるとまるで役立たない。



「今の状況に、頭が追いついていない感じ、です……」


「すまない。少し焦りすぎてしまったか」



 イルヴィスは苦笑して、顔を離した。代わりにアリシアの髪をそっとすくい、唇を落とす。



「ようやく想いが通じたのが嬉しくて、少々抑えが効かなくなっていた」


「……一つ、お聞きしてもいいですか?」



 前から感じていた違和感。何となく聞きそびれていたが、この際聞いておきたいように思った。



「わたしが殿下……イル様と初めて顔を合わせたのは、例の妃探しを兼ねたお茶会のとき……ではないんですか?」



 恐らく意識しているわけではないのだろうが、彼は時々、まるでもっと前からアリシアのことを知っていたかのようなことを言う。


 今の発言もそうだ。『ようやく』。その言い方に違和感が強まった。



「……」



 アリシアの問にに、イルヴィスは意外そうな表情を浮かべた。


 数秒の間迷ったように視線を落とし、軽く息を吐いてから言った。



「あのカフェの店員、確かリリーという名だったか。彼女は元気にしているか?」


「…………え?」


「私がまだ学園に通っていた時だから、四年ほど前か。あの裏道にあるカフェには足繁く通ったものだ」


「待ってください話が見えない……えっと、まさかおっしゃっているのは【Cafe:Lily】のことですか?」



 アリシアが行き慣れたカフェの名前を出すと、彼は静かにうなずく。



「まあ、目当てはあの静かな空間でも香りの良い紅茶でもなく、常連客の貴女だったがな」


「なっ、え?ええ」


「貴女は『アリア』と名乗っていたな。貴族令嬢の身分は隠していたんだったか」



 予想外の事実に混乱する。記憶を辿ろうと頭を抱えた。

 イルヴィスは頬杖をつきながら、どこか照れくさそうに笑う。



「やはり覚えていなかったようだな」


「ま、待ってください!今思い出します……!」


「私は貴女を初めて見た瞬間のことから、交わした話の内容まで全て覚えている」


「四年前ですよね……ええと……」



 四年前なら、アリシアもあのカフェに通い始めてそう経っていない頃だ。

 さすがに客のことを全員覚えているわけではない。だが、アリシアくらいの歳の客はほぼ見たことがない。まして繰り返し通っていたような人など……。


 ……いや、そういえば一人いた。アリシアの淹れるハーブティーに妙に興味を示していた年上の少年が。

 通っていたといっても、ほんの一時期のことで、顔も思い出せないが、アリシアその少年のことを確か──



「『イルさん』って呼んでいた……」



 ゾクリと鳥肌が立つ。色々と繋がった気がした。


 そうだ。あの少年をイルさんと呼んでいたんだ。それならやはり……。



「思い出したのか。そうだ、それが私だ」



 イルヴィスの声がいくらか明るくなる。



「『アリア』という少女の正体が伯爵家の令嬢であると知った時は驚いたな」


「わ、バレてたんですね」



 街に出る時はお忍びなのだが、そういえばリリーにも正体がバレていたし、自分で思っているほど上手く忍べていなかったのだろうか。


 だが、そんなことより。



「では、その頃からその、わたしのことを……」


「そうだな。好きだった。だが、あくまで庶民に身をやつしている貴女に惹かれているのだと思っていた」



 しかしそうではなかった。イルヴィスはそう言いながら、まっすぐにアリシアを見つめる。



「私は間違いなく、貴女自身に惹かれている。共に過ごす時間の長さに比例するように、想いが強まっていく」


「っ……!」



 ずっと不思議だった。どうして彼は自分を見出したのか。


 漫画のストーリーでは、“アリシア”は国一番とも称されるほどの才女で、その才能を見込まれていた。


 しかし、実際のアリシアは、興味のあること以外ろくに勉強していなかったせいか、学園で目立った成績を残すこともなかった。


 家柄だって、他の貴族に比べ特別高いわけでもない。彼の目に留まる理由がないのだ。


 物語の強制力かもしれない。その疑いもなかなか晴れなかった。



「そうだったんですか……どうしよう、すごく嬉しい」


「……なんだ、改めて言うと気恥しいものがあるな」


「あの、でもごめんなさい。わたし、その当時のこと、やっぱりほとんど覚えていなくて」


「気にすることはない。昔を思い出すより、これから過ごす時間を大切にしてくれた方が良い」


「だけど、それでは少し寂しいです」



 それはもちろん、これからの時の方が大切ではあるが、思い出だって共有できるに越したことはない。



「そうだな……どうせ帰るまで、長すぎる程の時間がある。少しくらい勝手に思い出話をしたって構わないか」


「はい。是非!」



 彼は一つ一つ、大事な宝物について教えるかのように思い出を語ってくれた。


 言われてみればそんな話をした気がする、と記憶が呼び覚まされるものもあれば、ほとんど覚えていないものもあった。



「自分の淹れた、カフェのメニューですらないラベンダーのブレンドティーを初対面の人にいきなり飲ませた……わたしならやりそうですね」


「あの時は特別美味だとは思わなかったが、今となっては一番思い入れのある味かもしれない」


「ふふ。では、帰ったら淹れますね」


「ああ、楽しみだ。不思議だな、貴女の淹れるハーブティーは、しばらく飲まないとすぐ恋しくなる」



 そう笑ったイルヴィスが、優しくアリシアの手を握った。


 気がつけば、窓の外に見える景色がずいぶん変わっている。

 行き道はあんなに面白くて仕方なかった景色がどうでもよくなってしまうほどに、彼と話すことに夢中になっていたらしい。



 嬉しいようなくすぐったいような、そんな気分で、アリシアはそっと彼の手を握り返した。


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