あの日の記憶 Ⅰ
□
「お嬢様!準備は整いましたか?」
「ええ。悪いけど髪だけお願い」
アリシアは自室にノアを通し、鏡に向かって座る。
ターコイズブルーの長い髪を丁寧にとかしたノアは、鏡の中のアリシアを見てクスリと笑った。
「お嬢様、楽しそうですね」
「そう?」
少しとぼけてみるが、浮き足立っているのは自分でもわかる。
だが、それは当然と言えよう。久しぶりにイルヴィスと二人のティータイムが許されたのだから。
「もうハーブティーは、その……飲んでも大丈夫なのですか?」
ノアは嬉しそうに笑った後、思い出したように問うた。
アリシアがハーブティーや紅茶に強い拒否反応を示していたときからあまり時間が経っていない。まだ不安が残っているのだろう。
「ふふ、もう全然平気よ!『アリシア・スペシャル』を調合しているうちに大丈夫になっていったみたい」
「ああ、なるほど……」
仕返しのために用意したあの苦い薬草茶。可能な限り苦く不味くなるよう調整していたため、嫌でも味見を避けられず、どうやらそのまま克服していたらしい。
気づけば口直しにいつもの紅茶を飲んでいたくらいだから、完全に立ち直れたのだろう。
「あの人たちが薬草茶を飲んだときの表情は見ものでしたね。それにしても、お嬢様の計画があれほど上手くいくのは、見ていて少々気持ちよかったです」
「そうね。わたしも正直ちゃんと上手くいくのかどうかは自信がなかったのだけど、皆の協力のおかげだわ」
アリシアのことを陥れようとしてきたサラたちへの復讐。とはいえ、単に苦い薬草茶を飲ませただけでは、ただの個人的な嫌がらせだ。
自分たちの行いを反省させ、二度と同じようなことを考えないようにさせる。
そのためには、権力者たちの前でその行いを認めさせ、今後勝手な行動をしないよう見張ってもらうことが必要だ。
アリシアのことを彼らがでっち上げた「罪」で糾弾させ、それが虚偽であることを示せば、さらに打撃を与えられるはずだ。そう助言をくれたのはイルヴィスだった。
アリシアもそれには納得したのだが、問題はそのような場をどうやって設けるかだった。
人を多く集めることについてはイルヴィスにお茶会を開催してもらうことで解決した。ただ、あまりに突然の開催だったのと、王宮行事ではなくイルヴィス個人によるイベントという形だったため、参加を見送る者も多いと予想された。
極力人数は集めたいし、肝心のサラに参加を見送られたりしたら意味が無い。
そこで、故意に噂を流したのだ。
第一王子と婚約者の仲は芳しいものではなく、王子は新たな妃候補を探している。
そんな噂を流すに当たっては、
結果あれだけの人数が集まり、ローラン父娘もきちんと参加していた。
あとはあの日の通りだ。
アリシアは繰り広げられる会話やタイミングについても細かく練っており、概ねその通りに事が進んだ。
一介のメイドであるニーナの証言でも、イルヴィスが聞き入れる姿勢を見せれば貴族たちも
あまりに上手くいくものだから、こっそり笑いを堪えていたのは内緒だ。
余談だが、ローラン家は近年かなりまずい経済状況だったらしい。あれこれ誤魔化していたものの、領地の民からの評判も悪かったようだ。
イルヴィスに恋慕していたサラだけでなく、ローラン家全体が家の存続のために王家との繋がりを強く望んでいた。
しかしながら、今回の件で他の家からは総スカンを食らったようで、これからどうなっていくのかは不明である。
□
いつもより少しだけ時間をかけて身だしなみを整えたアリシアが王城に到着し、久しぶりに執務室を訪ねた。
しかし今日は、すっかり顔なじみになった番人に入るのを止められてしまった。
「数日溜め込んだ書類で部屋はアリシア様をお通しできる状態ではないそうです。ある程度仕事を片付けるまで客間で待っていて欲しいとのことです」
書類が溜め込まれているのはどう考えても、あのお茶会を初めとするアリシアの計画諸々に時間を割いていたからだろう。
アリシアはかなりの罪悪感を覚えつつ、王宮の豪勢な客間へ足を踏み入れ、ソファーに腰掛けた。
確か、婚約の申し出を受けて最初にイルヴィスと対面したのもこの部屋だった。
あの頃は、自分が目の前の婚約者と仲良くなり、ティータイムを心待ちにするようになるなんて思いもしなかった。
イルヴィスは仕事に区切りを付けるのにどれくらいかかるだろう。お湯は冷めてしまうだろうから温め直さなければ。客間が給湯室に近くて良かった。
そんなことを考えているうちに、ソファーの柔らかな座り心地も手伝って、強い睡魔が襲ってきた。
(少しうとうとするくらいなら構わないわよね)
イルヴィスが部屋に入ってくれば気が付くだろう。アリシアはふあっと一つあくびをして目を閉じた。
■
机に積み上げられた書類を一山分片付けてから、イルヴィスは執務室を出て客間へ向かった。
アリシアが来たと聞いてすぐ彼女の元へ行こうとしたのだが、溜め込んだ仕事をある程度片付けるまでは部屋を出さないとばかりに従者に見張られていたのだから仕方がない。
「アリシア、遅くなっ……」
客間の戸を開き、中を見たイルヴィスは思わず出しかけた声を飲み込んだ。
アリシアが、ソファーの背もたれにもたれかかりながら軽く俯き眠っていた。
(疲れが溜まっているんだな。まあ無理もない)
ここ数日、自分の無実の証明とローラン家への牽制、それからちょっとした(?)仕返しのために、情報集めから計画実行まで休む間もなく動き回っていた。
ソファーの上だというのに、イルヴィスが歩み寄り、隣に座ってみても全く目を覚ます気配がないほどぐっすり眠っている。
小声で名前を呼んでみても気づかない。
(まあ良い、遅くなってしまったのは私だ。目を覚ますまで待っていよう)
イルヴィスはそう思い、アリシアの寝顔をちらりと見た。
スヤスヤと無防備に寝息を立てる彼女に思わず手を伸ばす。
──が、その手が頬に触れる直前に、アリシアは「ん……」と小さく声を漏らし、頭を少し動かした。
起こしてしまったのか、と一瞬焦ったが、彼女は何事もなくまた寝息を立てていた。
それどころか、動かした頭をイルヴィスの肩に預けるような形でもたれかかってくる。
(やれやれ……。どうやら理性が試されているらしい)
イルヴィスは苦笑気味に息を吐いた。
引っ込めかけた手で、はらりと垂れるターコイズブルーの髪をそっと撫でてみる。
美しい色の髪だと見るたびに思う。
その髪が手からサラリとこぼれ落ちるのと同時に、ふんわりとラベンダーの香りがする。その香りに、自然と笑みが浮かんだ。
アリシアからはいつもこの優しい香りがする。
夜会のときも、茶会という名の見合いのときも、それから──初めて出会ったときも。
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