第一王子に、転生令嬢のハーブティーを
町川 未沙
婚約編
伯爵令嬢、アリシア・リアンノーズ
□
「アリシア!大変だ!」
父であるオリヴィオ・リアンノーズ伯爵の焦ったような声に、庭で水やりをしていたアリシアは、思わずその手を止めて振り返った。
水を浴びていた植物の葉に付いた雫が、太陽の光を反射してキラキラと光っている。濃い紫色の花を咲かせたラベンダー。アリシアのお気に入りの花の一つだ。
「そんなに慌ててどうしたのです、お父様?」
普段の落ち着き払った父とは異なる興奮した様子に、アリシアは少し眉をひそめる。
アリシアのそばに控えていたメイドの一人も、心配そうな面持ちでオリヴィオにコップ一杯の水を差し出した。
「ア、アリシア。落ち着いて聞いてくれ」
「わたしは落ち着いていますよ。落ち着いていないのはお父様の方です」
「つい先ほど、知らせが来たのだ」
オリヴィオは差し出された水を一口含んでから言う。手には
「王室からの手紙だ」
「ああ…」
なるほど、どうりで立派な紙であるはずだ。そうなると気になるのは内容なのだが。
オリヴィオは再度確認のためというように、一度その手紙に目を通してから、まっすぐアリシアの目を見た。
「第一王子であらせられるイルヴィス様が、お前を正式に妃として迎えたいとのことだ」
「……え?」
少しも予想していなかった話に、アリシアは言葉を失う。
(第一王子が、わたしに求婚…?)
衝撃と動揺でクラりとする。
周囲で話を聞いた使用人たちが、驚き、祝福しているようだが、アリシアの頭にその声が入ってこない。それどころか、クラりとした感覚が、次第に頭痛のようなものに変わってきた。
(第一王子のイルヴィス・グランリア様…そして、その婚約者のアリシア・リアンノーズ…つまりわたし)
頭が鈍く痛む。だがこの感覚には覚えがある。頭の奥底に眠っている記憶が、呼び起こされようとしている時、このような痛みを感じることがあるのだ。
そう、これは頭の奥底に眠っている記憶だ。
「黒髪、メイド…」
アリシアは、すぐ近くにいる父や使用人たちにさえ聞こえないような小さな声で呟いた。呟いたというより、自然と口から漏れ出たという感じだ。
「だから、2日後に一度登城するようにとの…」
父の声が、次第に遠のいていく。
グラリとふらついたかと思うと、アリシアはその場でうずくまるように倒れた。
「お嬢様!どうなさったのです!?お嬢様!お嬢様!」
「アリシア!?聞こえるか、アリシア!おい、医者を呼べ!」
明らかに様子のおかしいアリシアを見て、父や使用人たちが慌てふためいている。
(ああ、どうして気が付かなかったのよ)
アリシアは苦痛に顔を
(アリシア・リアンノーズ。そんな名前のキャラが出てくる漫画、読んだじゃない)
決して主人公ではなく、むしろ脇役、というか悪役。しかも中盤までしか出てこない。そんなキャラクター。
それが記憶の奥底にあった『アリシア・リアンノーズ』の姿だった。
□
12歳までのアリシア・リアンノーズは、どこか可愛げのない子どもだった。
身分に恵まれ、容姿に恵まれ、その上家族にも恵まれていた。
若くて美しい母に、落ち着きのある優しい父。二人の姉とは母親が違うが、年の離れた彼女らは、アリシアのことを可愛がってくれた。
そんな恵まれた環境に身を置きながら、アリシアはいつも退屈していた。正確に言えば、この世は退屈なものであると思い込んでいた。
勉学をすればそこそこできるし、音楽に関しても同様。ただ、何をするにしても飛び抜けた才能が発揮されることは無かった。
きっと自分も姉たちのように、どこかの有力家に嫁いで、何事もなく平和で退屈に人生を終えるのだろう。漠然とそんな風に思いながら日々を送っていた。
──それが変わったのは、12歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。
アリシアは酷い熱を出し、5日間ほど寝込んだ。
心配する家族の声に、甲斐甲斐しく世話をする使用人たち。医者の話し声と独特な消毒用の
身体は熱くて苦しいし、一方で寒くて寂しい。
ここまで身体が辛いのは人生で初めてだと思ったが、何故だかこの感覚を知っているような気がした。
高熱にうなされている間、少し眠るたび夢を見た。いや、夢にしてはかなり生々しく、どちらかといえば忘れ去られた大昔の記憶が流れ込んできているような感じだった。
だがその内に、その記憶は「アリシア」のものではないと分かった。
その記憶は、アリシアの前世のもの。
熱がひいた頃、アリシアなほぼ完全に前世の記憶を取り戻していた。
アリシアの前世は、日本人の女の子だった。享年17歳。
生まれつき病弱だった“彼女”は、その短い人生の大半を病院で過ごした。
入院を繰り返していたため、満足に学校へも行けず、仲の良い友達もいない。唯一の心の拠り所が、母が持ってきてくれる大量の小説や漫画だった。
物語の中にいる間、“彼女”は自由だった。時には世界を旅し、またある時には魔法を使う。難解な事件に巻き込まれることもあれば、平和な日常を送ることも。
色々なジャンルの物語を楽しんだが、“彼女”がとりわけ気に入っていたのは、学校が舞台の恋愛ものだ。
誰かのことを、その人のことしか考えられなくなるぐらいまで好きになる。それはすごく幸せなことのように感じた。
すれ違うことはあっても、お互いが想いあっているから、後でさらに強い絆で結ばれる。恋愛とは、何て素敵なものだろう。
自分に縁がないものだが“彼女”は強く憧れた。
王子様が出てくるような、ファンタジー系の恋愛ものも読むには読んだが、やはり好きなのは学園ものだった。
きっと、あまり学校へ行けなかったことへの反動だろう。
体調が戻ったアリシアが最初にしたのは、鏡の前に立つことだった。
鏡の中の自分をじっと見る。
サラりと背中まで伸びたターコイズブルーのストレートヘア。パッチリとした瞳は髪より少し濃い青で、まつ毛は長め。肌は白くきめ細やかで、うすい唇の赤さが映える。
さすがに病み上がりなので、やつれてどこか不健康そうな印象ではあるが、なかなか綺麗な顔をしているな、と自分のことながら少し感心した。
(この髪の色は嫌いだったけど)
アリシアは髪を撫でながら思う。
(元日本人の“ わたし”の目から見ると、すっごく綺麗な色よね)
この国──グランリア王国では、ブロンドや茶色系の髪色が多い。青系の髪でも、そのほとんどは暗めの青で、アリシアのように緑がかった色は珍しい。
周りは美しい色だと褒めてくれるが、アリシアはもっと普通でいいと思っていた。
だが、前世の記憶を取り戻した状態では、慣れているはずの景色が全て新鮮に見えた。
ターコイズブルーの髪はうっとりするほど美しいし、そもそもこの世界は前世とは全く違う。前世の日本の感覚で言えば、中世ヨーロッパ風世界といったところか。
そして、アリシアが何より嬉しかったのは、自分が健康な体であることだった。
5日ほど高熱にうなされはしたものの、それまでは年に数回体調を崩す程度。前世の“彼女”と異なり至って健康だ。
(こんな丈夫な体でありながら、今まで何もせずに退屈して過ごしていたなんて……何て勿体ないのかしら)
何をやっても特別才能があるわけではないので、伯爵令嬢として恥じない程度の教育は受けたが、興味を持って何かに取り組んだことなどはない。
(今までを勿体ないと嘆いていても仕方がないわ。今日から心を入れ替えて、前世の病弱な“わたし”は出来なかったようなことをやらないと!)
アリシアは心に決めて、鏡の前でよし、と気合いを入れた。
その日からアリシアの毎日は変わった。
色々なものに興味を持ち、世界は常に輝いていた。
中でもアリシアが一番ハマりこんだのは、ハーブや薬草だった。前世の母はハーブティー好きで、よく良い香りのするハーブティーを飲んでいた。
しかし“彼女”は、病気や薬の影響でそれらは飲めず、いつも羨ましく思っていた。
前世では、せめて本だけでもとハーブ関連の本をいくつも読んでいて、知識だけはあった。そのため、今世でその知識を活かして実際のハーブを育てたりもした。
念願のハーブティーを飲んだ時の喜びと、その味は忘れられない。
泥だらけになってハーブの世話をしたり、乾燥ハーブを売る店を見たいと、使用人たちの目を盗んで勝手に街に出るなど、時には令嬢らしからぬ真似をすることもあった。
そのせいか、それまでのアリシアを知る人々からは「高熱を出したせいで人が変わった」などと噂されたりもしたが、自分では少しも気にしなかった。
家族も、勝手に街へ行くなどの危険な行為を咎めはしたが、それ以上にアリシアの笑顔が増えたことを喜んだ。
14歳の時からは、学園へ通い始めた。前世のものと違い、学ぶことよりも、貴族の子息令嬢たちの交流の場という性格が強いものだったが、とても楽しかった。
そして17歳──前世で生きた年齢──を迎えた年、その楽しかった学園を卒業した。その数ヶ月後、というかつい先日、アリシアは父からこんなことを言われた。
「王宮で主催されるお茶会に、お前も招待された」
話を聞くと、お茶会といっても、第一王子、イルヴィスの妃探しのためのものらしい。
イルヴィス・グランリアは、その優秀さと美しい容姿が有名で、多くの令嬢たちから羨望の眼差しを向けられている。ただ、合理的で少しばかり冷淡なところがあり、令嬢たちの中で玉砕した者も数知れず。
歳は20ほどのはずだが、今まで婚約者はいなかった。なのに何故か突然、妃探しのお茶会開催を決めたらしい。
「まあ、数合わせのようなものだろうが…招待されたからには行ってきなさい」
「………」
父は、アリシアが第一王子の妃になる可能性は皆無だと思っているようだった。
娘にもう少し期待しても良いのでは、と思わなくもないが、アリシア自身、そう自分に魅力があるとも思えないので言い返せない。
正直、行きたくはなかったが、母から「美味しいお菓子が食べられるかもしれませんよ」と言われ、渋々お茶会への参加を了承したのだった。
──まさかそれが自分の運命を大きく変えるなんて知らずに。
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