別れの時



 ふんわりと湯気の立つティーカップ。


 ほんの数日前まで、こうやってお茶を淹れるのはカーラの仕事だった。


 彼女がいなくなった今、きっとすぐに次のお茶係が雇われるのだろう。


 だが今日は、そんなお茶係の代わりに、色々あった末に友達になった、隣国の伯爵令嬢がディアナにお茶を淹れてくれている。


 貴族の令嬢ならば、お茶は淹れる側ではなく飲む側だろうと思っていたが、彼女はお茶を淹れるのが得意らしい。


 慣れた手つきで用意されたティーカップをアリシアから受け取った。


 ゆっくり口を近づけ、一口すする。


 すると口いっぱいに、紅茶ならではのほのかな甘みと豊かな香りが広が──



「にっっが!!」



 ──らなかった。

 そのお茶の味は、ディアナが想像するものとはかけ離れていた。


 苦い。苦すぎる。これまでの人生で口にした何よりも苦い。



「な、何ですのこれ……」



 ゴホゴホとむせながら問う。


 よく吐き出さなかったな、と近くにあった水を飲みながら思う。


 アリシアはそんなディアナを見て満足そうに笑った。



「『アリシアスペシャル・ルリーマ王国ver.』です」


「何ですって?」



 よくぞ聞いてくれたとばかりに得意げにされるが、意味がわからない。

 頭にはてなマークを浮かべていると、アリシアの隣に座っていたイルヴィスが、堪えきれなくなったというように笑いだした。



「はは、なるほど。こそこそ何かしていると思ったら、また作っていたのか」


「はい。ここにしかない珍しい薬草もありまして、この前作ったものよりさらに苦味が増しているはずです!」


「この前のもかなりの味だったらしいが……そうか、さらにか……」


「殿下も試してみますか?」


「いや、遠慮しておく」



 何故か盛り上がっているが、ディアナには話が見えない。

 首を傾げると、イルヴィスが説明してくれた。



「これは、アリシアなりの仕返しなんだ」


「仕返し?」


「そうだ。アリシアは自分をあんな目に遭わせたことをああ見えて恨んでいる。だからその仕返しがその苦い薬草茶なんだろう」



 薬草茶。とても飲み物であるとは思えないほどに苦いが、本当にお茶なのか。しかも油断させるためなのか、色だけは紅茶っぽいところに悪意を感じる。


 アリシアはディアナの考えを汲み取ったように、嬉しそうな笑顔を浮かべたまま言う。



「大丈夫です。味は苦いけど、毒になるような薬草は全く入れていませんし、むしろ身体には良いですよ」


「そ、そうなんですの……」



 そんなことを言われても、この苦味を再び味わおうという気にはなれない。



「ディアナ、後腐れなくアリシアの友達になりたいなら飲んでおいた方が良いかもしれない」



 ティーカップに手を伸ばそうとしないディアナに、イルヴィスがこっそり耳打ちする。



「先程言った通り、これはアリシアなりの仕返しだ。裏返せば、この薬草茶を飲み干せば、完全に許そうと思っているはずだ」


「っ、なるほど」



 ディアナがアリシアにしたことを思えば、ずいぶん可愛らしい復讐にも思える。


 これで許してもらえるのなら、とディアナはカップを手に取り、一気にあおる。



「うぐっ……」



 一瞬で口の中に広がる苦味。前言撤回。全然可愛らしくない。

 ディアナは飲んだお茶の倍の量の水をすぐさま飲む。お茶を淹れているのに、何故となりに水入りのグラスがあるのかと思っていたが、このためだったのか。



「の、飲みきりましたわ……」


「ポットにあと三杯分くらい残ってますよ」


「嘘ですわよね……」



 ディアナが絶望に満ちた声を上げたところで、イルヴィスとアリシアに声がかかった。



「イルヴィス殿下、アリシア様。馬車の支度が整いました」



 そう。今日は二人が国に帰る日だ。


 馬車の準備が終わるまでお茶を飲みながら少し話をしよう。アリシアにそう誘われ時間を作っていたのだ。まさかこんなに苦いお茶を飲まされるとは思っていなかったが。



「行ってしまわれるのですね」



 一気に寂しさが押し寄せてくる。もうしばらく会うことはないだろう。



「アリシア。すっかり言いそびれていたのですが、使用人たちが貴女にずいぶん酷いことをしていたようですね。ごめんなさい」


「気にしていませんよ。それに、彼女たちがわたしに嫌がらせをしたのは、ディアナのためなんですよね?愛されてるじゃありませんか。きっと愛されているのは、『王女だから』ではなく『ディアナだから』なんでしょうね」


「え……」


「わたしは、ディアナがどのような選択をしても応援しています」



 アリシアは、そう言って優しく微笑む。


 ディアナは胸元でギュッと拳を握った。



「はい」



 アリシアは立ち上がり、イルヴィスの後について馬車の方へと行く。

 最後まで見送ろうとディアナも立ち上がると、その途中でカイもやってきた。



「そうか。二人はもう帰るんだな」



 こちらは全然寂しそうではない。


 放浪癖のある兄ならば、隣の国くらい、思い立ったその日に最低限の従者だけ連れて行ってしまいそうだ。



「お世話になりました。とても楽しかったです」


「それは良かった」



 カイはにやりと悪戯っぽく笑う。



「また来ると良い。そうだな、次に来るとしたら……新婚旅行か?」



 アリシアは困ったような表情を見せるが、イルヴィスは「考えておこう」と口角を上げてうなずいた。


 そして二人が馬車に乗り込むと、馬車はゆっくりと動き出す。


 ディアナはその姿が小さくなるまで、カイと一緒に見送った。



「イルのことは諦めたんだな」



 馬車がすっかり見えなくなった頃、隣でカイが小声で聞いてきた。



「ええ。だってアリシアに敵うはずありませんもの。……でも少し残念なのは、アリシアはイル様にどれだけ愛されているのか気づいていないところですわね」


「はは、確かにな」



 カイは愉快そうに笑った。そして、ふと真剣な表情を浮かべてディアナを見た。



「……ディアナ。すっかり話をし損ねていたが、聞いてもいいか?」



 何となく話の内容に察しがつき、ディアナも表情を引き締めてカイの方へ体を向ける。



「何でしょう」


「自分の出自について、いつから知っていた?」



 「ディアナは自分が本当の王女ではないと知っている」という話は、恐らくアリシアづてに伝わっている。


 そのうち聞かれるだろうと思っていたので、ディアナは落ち着いて答えた。



「10歳の誕生日を迎えた時です。母上と二人で話す機会があって、そこで聞きました」


「……そんなに前に」


「もともと、父上とも母上とも、そして兄さんたちとも似ていないというのは何となく感じていましたから、ショックだった反面、納得もしました」



 母は真実を告げた後、それでもディアナは自分の娘だと言って抱きしめてくれた。そのおかげで、まだ落ち着いて受け入れられたと思う。

 このことは他言してはならないと強く言い聞かされたので、ずっとそのことは自分の中にしまいこんでいた。


 だが──



「ねえ兄さん。私、これからどうするべきなのでしょう」



 これまで通り、王女として周囲を欺き続けるか、それとも真実を公表するのか。


 ディアナがどのような選択をしても応援しています。アリシアはそう言ってくれた。


 じっとカイを見つめて答えを待つ。


 と、彼はディアナが少しも想像していなかったことを口にした。



「俺と結婚する、というのはどうだ?」



 しばらく意味が理解できなかった。言葉の意味はわかるが、突然すぎて頭が全く追いつかない。



「突然だと思うかもしれないが、俺は昔からずっと、お前のことが好きだった」


「は……?でも、私たちは兄妹……いえ、実の兄妹ではありませんけど……でも今までそんなこと一度も……」


「それは、お前が自分の出自について知らないと思っていたからだ。お前から王女という地位を奪ってまで想いを伝える気にはなれなかった。だが──」



 カイはそっとディアナの頭を抱き寄せて、額にキスを落とした。



「知っていたのなら、もはや遠慮するのも馬鹿らしいからな」


「っ、でも」


「やはり、俺のことは兄としてしか見られないか?」


「それ、は──」



 不安そうな目をしてディアナを見つめるカイに、思わず言葉を詰まらせる。


 誰かを好きになり、その想いを伝えることに勇気がいるというのは、ディアナもよく知っている。ましてや今まで兄妹として過ごしてきた相手に気持ちを告白するのは、いったいどれだけ勇気がいるのだろう。



「……わかりました。ではこうしましょう」



 ディアナはふーっと息を吐いてカイを見上げる。



「これから頑張って、私を口説き落としてくださいな。その結果もし私が兄さんのことを男性として好きになってしまったら……まあそれから色々考えますわ」



 カイは驚いたように目を見開き、しだいに嬉しそうな色に染まっていく。



「それは、俺がお前のことを好きになっても良いという許可だと思っても?」


「っ、言っておきますけど、私の初恋を見たらわかる通り、理想は高いので!」



 慌てたようにそう付け足したディアナの頭を、カイは「望むところだ」と言ってそっと撫でた。




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