Vol3 忘れられない極北からのメモリア

PROLOGUE “intermedio”

【???????】


 やあ君。


 分かっている、分かっている。こう思っているのだろう? なんだこの怪文書はと?意味が分からない。唐突すぎる。つまり何が言いたいんだ? そもそもここはどこだ? どれもが正鵠を得た、的確な意見だろう。


 だから詳細は省いて、要点だけ語らせてもらう。これから言う文面を正確に覚えないと君は死ぬ。


 ひどい話だ。理不尽にも程がある。だが自分が今どこにいるのかすら分からないのに、どうやってこの運命から逃れるつもりなんだ? ん?


 では、始めよう。生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められると、人間というのは信じられない能力を発揮するものだ。ぜひ君にもそれを期待したいね。


 準備はいいかね?


 まだ駄目?


 もうそろそろ・・・・・・ああ待て、コーヒーを飲みたい。口元を湿らせないと。


 よろしい、では始めよう。これから朗読する内容をちゃんと覚えるんだ。





“ あなたの魂は選ばれた風景画、その景色を魅惑的なマスクとベルガマスクが歩みいく。リュートを弾いて踊りながらも、幻想的な変装の下でどこかもの悲しい”




 

 この詩を何度もなんども頭のなかで反芻したまえ。君の頭では難しすぎる課題なのは、重々承知している。だが覚悟を決めろ。これを完全に覚える以外に、君が生き延びる術などない。人を人たらしめるのは、肉体ではなく頭脳だけなのだ。


 ではさらばだグーテンターク、またの日に再会しよう。その時こそがきっと、君にとっての審判の日となる。





✳︎ 





【“テッサ”――静謐なる地、モンドラゴンの邸宅カンポ


 これが賭けであることは、百も承知でした。わたしの提案を聞いたノルさんは、潜水艦のなかで何度も正気なのかと繰り返したものです。


 ええ、至って正気ですとも。だって他にどんな選択肢があるっていうんですか?


 もう二度と歩けないかもしれない、そう診断されてしまったノルさんの背中の大怪我。それだけでも大問題なのに、わたしたちはどうしようもなく女子どもの集まりで、装備もなければお金もないのです。


 銀行の隠し口座から非常用のお金を回収できさえすれば・・・・・・ですがミスリルUSAは、正規の命令のもと動いている。市内は彼らが網を張ってるでしょうし、政府公認ともなれば、コロンビアの警察もまたわたしたちの敵であると考えるべきでしょう。


 民間軍事会社と警察機関、同時にふたつに追われながら逃げ切る自信は、わたしにはありません。


 では、ジャングルに逃げ込むのは? コロンビアの国土の大半は、熱帯雨林で占められています。伝統的に反乱分子の隠れ家として利用されてきたジャングルならば、追跡をかなりの長期間に渡って躱すことが出来るでしょう。


 こちらには、SRT隊員たるもの万能たれというテーマのもと、サバイバル技術を身につけたヤンさんが居られますし、その点は安心なのですが・・・・・・どう考えても先がありません。敵に見つからなくとも、こんなの自分から遭難生活をするようなもの。貧弱なわたしはもちろんのこと、年少組だって辛いでしょうし、そもそも怪我人のノルさんに耐えられるはずもない。


 わたしたちに必要なのは衣食住だけじゃありません。口の堅い医療機関にコネを持ち、かつミスリルUSAの武力をものともしないほどの戦力を有している組織。そんな条件を満たせるのは、世界広しといえど麻薬カルテル――とりわけモンドラゴン・ファミリアぐらいのものでしょう。


 正直に言いますと、これで良いのかもう少し策を練りたかった。ですがノルさんの容態は、刻一刻と悪化していったのです。


 消毒剤に清潔な包帯、それに抗生物質だってちゃんと飲ませました。ですがあの頑丈なノルさんですから意識が朦朧とするほどの高熱は、一向に引く気配がなかった。もう一刻の猶予もない。


 テオフィラさんがわたし宛に送ってきた招待状。そこに書かれていたナンバーに電話してみたところ、迎えはほんの30分足らずで到着しました。


 指定された先が空き地だったので、もしやと思ってはいたのですが・・・・・・やはりヘリコプターが山間部から現れた時には、いささか驚いてしまった。


 今は亡きソ連きってのベストセラー。卵型の胴体にヘリコプターのパーツをくっつけたみたいな輸送ヘリことMi-8“ヒップ”から降り立ったのは、機会な格好をした兵士たちでした。


 一見すると、特殊部隊風の装備で身を固めた男たち。ですが正規軍の人間ならば、腰元のベルトにハロウィンマスクなんて引っ掛けていないはず。それが彼ら護衛隊のトレードマークなのでした。


 中南米で最悪と称される、軍事組織化した麻薬カルテルこと――モンドラゴン・ファミリア。その実戦部隊は、護衛隊エスコルタと呼称されていました。


 いわゆる荒くれ者揃いという麻薬カルテルのよくあるイメージに反して、護衛隊の兵士たちは、とてもよく訓練されていました。


 お金さえかければ、見掛け倒しの軍隊はいくらでも作れます。ですが本当の実力を見定めたいならまず耳をそばたてるのが良いと、かつてわたしは教わったものです。


 もし歩くたびに装備がガチャガチャ鳴るようなら、その時点で失格。音というのは、想像以上に敵に情報を与えてしまう重要な要素なのです。そんなことも知らないということは、訓練不足か実戦経験がゼロということに他ならない。


 その点、護衛隊の兵士たちは合格なんてものじゃありません。装備の端々までテープで留めて、所によっては防護材まで巻いている。そしてあの歩き方です。踵から着地して、足全体に体重を分散させながら歩行する。ああすると足音が出ずらくなり、かつ上半身が安定するので移動射撃がしやすくなるそうなのです。


 マガジンが斜めに突き刺さる、変わった形状のブルパップライフルを構えながら兵士たちは、即座に周囲へと展開していきましたが・・・・・・聞いた話とは違うと、いささか困惑しているように見えました。


 招待されたのは、テオフィラさんのそっくりさんであるわたしだけの筈なのに、どうしてか広場には、13もいたのです。


 もちろんちょっとした押し問答になりました。わたしだけでなく、予定外の客を大勢連れて帰るなんて、兵士たちからすればそうそう頷ける要求じゃありませんから。


 ですがここは、独裁体制が仇になったという感じかしら。自分たちで勝手に判断して、テオフィラさんが気分を害されたらどうするんですか? と、わたしが意地悪げに問いかけると、兵士たちは互いに顔を見合わせて、わたしたちをヘリへと乗せていったのです。


 見るからに女子どもの集まり。事前に武器は放棄させていたので、非武装なのは明らかでしたし、服はヨレヨレで疲れ切ってもいる。とてもじゃありませんがDEAの潜入捜査官には見えないでしょう。


 いざとなれば簡単に制圧できる。そういった自信があるからこその玉虫色の結論だったのでしょう。そしてわたしたちを乗せたヘリはぐんぐん高度を上げていき、街の光を背にしながら、ジャングルの奥深くへとわたしたちを誘っていったのです。


 噂には、聞いていました。というか昔ノルさんに、雑談がてら尋ねてみたことがあったのです。モンドラゴンの農場カンポって、なんなんですかと。


 なんでもこれは、あだ名みたいなものなんだそうです。


 彼いわく、モンドラゴン・ファミリアのボスであるドン・ハイメは、誰にも邪魔されないようジャングルの奥地にカルテルの本拠地となる要塞を築いた。その場所はどうしてかカンポと呼ばれているそうだが、名前の由来は知らない。


 この国に来てからたというもの、色々と変なものを目にしてきましたが、まさかジャングルの奥地に要塞とは・・・・・・007ダブル・オー・セブンじゃあるまいにと、ちょっと呆れてしまったことを覚えてる。


 ですが行き場のない子どもたちを従えながら、完全武装した兵士たちに睨まれ、今はこうしてそのカンポに逃げ込もうとしてる。人生一寸先は闇とは、よく言ったものですね・・・・・・。


 Mi-8の丸窓から外を見ていましたが、到着した時刻はちょうど早朝。まだ太陽はアンデス山脈の険しい山々に隠されていましたし、霧のように濃い朝靄がジャングル全体を取り巻いているせいで、施設の全体像を掴むのはちょっと無理そうでした。


 それでもほぼ視界ゼロのなか、なんの問題もなくヘリコプターが着陸できた時点で、かなり設備が整っている場所なのは明らかでした。


 着陸したヘリポートは、まるで正規の空港のように高強度なアスファルトに覆われている。この辺りだと土を焼き固めだけの簡易滑走路が普通であるらしいのに、この時点でもうかなり異様さが漂っていました。


 とにかく広い、というのが肌でわかる。ジャングルのど真ん中にあるはずなのに、木々の圧迫感をまるで感じませんでしたから。まるで草原にいるような気分。


 ヘリから降りた子どもたちの顔には、疲れ以上に不安が浮かんでました。まるで審判の日を待つがごとく、先導していく護衛隊の兵士たちの背中をわたしたちは、無言で追いかけていく。


 最初はずっとゴツゴツとしたアスファルトを踏みしめていたのに、急に道が柔らかくなり、土の匂いが香ってきました。

 

「花畑・・・・・・?」


 そう思わず呟いてしまうほどに壮観なお花畑が、そこには広がっていたのです。ジャングルの真ん中だというのに・・・・・・どこか現実感のない景色。この靄の影響もあるでしょうが、どこまでも広がっている真っ黄色な花々は、幻想的とも不気味とも、どちらの解釈も成立しそうな感じがしました。


 いい匂いとは、とてもじゃありませんが呼べない刺激臭が鼻をつく。その美しさからどれほど愛されようとも、この花々――マリー・ゴールドという品種は、防虫作用すらある香りのせいで、あまり大量に植えられる植物ではないと聞きます。ですがここ南米においては、ちょっと特別な意味合いを持つお花なんだそうです。


 今世とあの世をつなぐ、死者に手向けるための供物オフレンダ。誰あろうノルさんがこの花をサンタ・ムエルテの祭壇に捧げていたからこそ、わたしはその名前を知っていたのです。


 現実から遠く離れた、黄泉の国。なんとなくそんなイメージが湧いてくる。


 野道のように見えて、その実態はよく整備された歩道を歩いていく。どこもかしこもそうです、自然に溢れているように見えて、実際には隅々まで人の手が及んでいる。


 地形から何まで、ここにあるものは全て人工物なのでしょう。靄のむこうからいきなり姿を見せた近代的な建物のおかげで、その推測に自信が湧いてきました。


 ガラスとコンクリートで組み上げられた、ジャングルという環境にまるでそぐわない四角形をした巨大な建築物。なんとなく現代美術館という言葉を連想してしまう。あれです、ルーブル美術館の前庭に設置されたルーブル・ピラミッドぐらいのミスマッチ感を感じました。


 本当にどうして、これが農場カンポと呼ばれてるのか・・・・・・あえてネーミングセンスに異議は唱えませんけど、不可思議ではあります。


 兵士たちが透明なガラス扉を押し開くと、足元に冷たい冷気が流れてきました。煌々と灯る照明といい、この冷房といい、どこかに大規模な発電施設でもあるみたい。


 夜空に浮かぶ星々のおかげで方角は分かってましたし、推定される飛行速度と時間から、カンポのおおよその位置は把握していたつもりでした。ですがここまでとは・・・・・・ちょっと自信がなくなってくる。本当にここジャングルの真ん中にあるのかしら?


 真っ赤な絨毯を泥の足跡だらけにしながら、わたしたちは応接間らしき場所へと通されました。


 いかにも現代のお金持ちが好きそうなデザイン。空間は広くとって、物は少なめに見せるのが昨今の流行りだと聞きます。


 まさにミニマリズムそのもの。どこかのデザイナーブランドらしきソファーとテーブルを除けば、この場で家具と呼べそうなのは、なんとも未来的な白一色の壁に埋め込まれている暖炉だけでした。


 ソファーに座るよう勧められたりはしませんでした。壁際に立たされたわたしたちの周囲を、それとなく兵士たちが固めていきます。まるで囚人のような扱いですが・・・・・・彼らからすれば、わたしたちなんて招かれざる客そのものなのです。彼らからすれば、当然の対応でしょう。


 それでも最後の温情のつもりなのか、ヘリに備え付けられた担架に乗せられたノルさんが、兵士たちの手で連れてこられました。


 もっともその扱いは乱暴そのもので、ドスンと無遠慮に床へと担架が置かれていく。その襲撃でノルさんが微かにうめきました。測るまでもありません。顔は真っ赤で、汗びっしょり。意識は朦朧としすぎていて、自分が今どこにいるかも分からないでしょう。早く治療を受けさせないと。


 ある意味でここからが本番です。玄関口までは通してもらえましたが、これからもここで保護してもらう為には、今ひとつ手を打つ必要があるでしょう。


 わたしはほら、良くも悪くも鉄火場慣れしてますから兵士たちに囲まれても平静を装えていました。ですが子どもたちの何人かは、不安を隠せずにいる。特にバウティスタくんはガタガタと震えてました。


「大丈夫です、わたしに任せて」


 バウティスタくんを励ますべく小声で話しかけますが、可哀想なほどに青ざめた顔は、一向に改善されません。


「わ、わかってないな・・・・・・アイツら、ゲリラにだってお構いなしなんだぞ」


 どうにも噂を耳にしたという雰囲気じゃありません。この子は元FARCの少年兵だったのです。もしやゲリラ時代にモンドラゴン・ファミリアと遭遇していたのかもしれない。


 バウティスタくんと仲がいいカロリナちゃんが、そっと少年の手を握りましたが、やはり効果は見られない。


「来たのは間違いだ・・・・・・お、オレは何度もそう言ったのに」


 言われた記憶はありませんでしたが、でもそうですね。ノルさんに意識があれば、きっと同じことを主張したに違いない。


「情けない。男ならもっとシャンとなさい」


 むしろこの状況下で気丈すぎる、いつも通りなハスミンちゃんがハッパをかけますが、バウティスタくんの声はますます震えを増していく。


「う、うるさい。そっちこそ女らしく、悲鳴でもあげて物陰に隠れてろよ」


「黙れ」


「・・・・・・うぅ」


 いつもの掛け合いもどこか覇気がない。


 すると、応接間に力強い足音が近づいてきました。規則正しい間隔から軍人上がりと予想しましたが、新たに入室してきた痩せ型の男は、その期待を裏切らない雰囲気を身に纏ってました。


 あの装備といい、一見すると護衛隊の兵士の一員に見える。ですが、


「こ、こ、こいつらか?」


 と、吃音まじりながらも兵士たちに尋ねていくその態度は、まさしく上官のそれでした。


 願わくば、テオフィラさんかドン・ハイメその人と話したかったのですが、この色黒の肌をした人物はそのどちらでもないでしょう。


 頬は痩けていて、全体的に痩せ型。周囲の兵士たちと同じくパウチがたくさんついたプレートキャリアを羽織っていましたが、その体格のせいでなんとなく服に着られてる感が漂っている。それなのに分隊支援火器のなかでは、軽量な部類とはいえ、IMI社製のネゲブ機関銃なんて重量級の武装にとても長い100連箱型弾倉をはめて使ってました。


 肌こそ色黒でしたが、その顔立ちはラテン系というよりかは、中近東あたりの出に見えます。多国籍の部下を従えていた自分の経験から判断するに、おそらくイスラエル出身ではないかと推測しました。


 そういえば・・・・・・闇市で見かけた、麻薬カルテルをテーマにしたあの謎めいたトレーディング・カードに、モンドラゴン・ファミリアに属する謎のイスラエル人というカードが混じってた気がする。


 あれがどれだけ現実を反映しているか微妙な線ですが、頼りになる麻薬カルテルの専門家ことノルさんは寝込んでますし、あいにくとヤンさんもこの場にいない。


 誰にも頼れない・・・・・・すべて自分でどうにかするしかないのです。


「テオフィラさんにお目にかかりたいのですが、わたしは――」


 礼儀にのっとって挨拶しようとして、イスラエル人の護衛隊員の黙るようにというジェスチャーに止められてしまう。


「だ、誰が話していいと、い、言った」


 ひどい吃音症のようですが・・・・・・オドオドしてるイメージはまるでありません。明らかにその言葉の裏には、殺人をなんとも思わない冷酷な戦士の顔が潜んでました。


 それが分かったからこそ、不用意に言葉を続けられなくなってしまう。すべては、この銃を持った男たちの気分次第。ここでの法律は彼らなのです。


 バウティスタくんが怯えながらも、わたしにだけ聞こえる声で言いました。


「あ、あれってイスラエリーだ・・・・・・」


 イスラエル人イスラエリーとは、何ともひどいあだ名もあったものですが、別にバウティスタくんはその名前に怯んでいるわけじゃないでしょう。


「あれはモンドラゴンの序列第3位、護衛隊の指揮官コマンダンテなんだぞ」


「あの人が?」


 思わず問い返すわたしに、こっくりとバウティスタくんが頷きます。


「キャンプに残ってた仲間は、み、みんなアイツに吊るされた」


 色々と腑に落ちました。それならあの迫力も納得です。


 幹部クラスを外国人が占めているなんて、こういった犯罪組織ではあまり前例がないでしょう。つまり、その地位に値する実力者だと判断するしかありません。


「き、聞いてたより多いぞ」


 こちらを完全に無視しながら、イスラエリーが部下の兵士と話を続けていく。


「きゃ、きゃ、客人は1人のはず。ど、どうしてしょ、小学生なんか引率してる?」


「それより他にも問題があるぞ」


「な、なんだ?」


「奴らをピックアップする時に、近くを不審な車両が通り過ぎていった」


「ふ、不審な車両?」


 護衛隊の兵士が、上官に頷きを返しました。


「1台ほど捕まえて、乗ってた奴の皮を剥いでみたんだが」


 カラカラと拷問を自白しますね・・・・・・いかにもカルテルらしい言い草ですけど、この言葉に比喩表現はまったく含まれていないんでしょうね。


「奴らが死ぬまえに言ったことが本当なら、連中は民間軍事会社の傭兵コンストラクターで、なんでもインタポールの指示のもとテオフィラ様の拘束に来たんだそうだ」


 訝しむような視線がわたしに突き刺さってくる。


「単なるひ、ひ、人違いか?」


「こんな写真を持ってた」


 おそらくミスリルUSAの追跡班に配られていたであろう写真を、兵士がポーチから取り出して、それを上官に手渡していきました。


 まじまじと写真とわたしの顔を比べていく、イスラエリー。


「ぱ、ぱっと見は似てるが、雰囲気が全然違う。これはテオフィラ様の写真じゃない」


 無造作に写真が、テーブルに捨て置かれました。


 お陰で中身を盗み見ることができましたが、その写真に写っていたのはなるほど、わたしの顔そのものでした。それも日本を訪れた際に温泉旅館でカナメさんたちと撮った集合写真から、どうやらわたしの顔部分だけを切り抜いたもののようです。


 あの写真は、メリッサのアパートにしか置いてないのに・・・・・・押し入られたか、はたまたメリッサから回収したのか。どちらのパターンも考えたくありません。


「それに連中が聞かされていた身体的特徴も違いすぎる。なんでも目の色は灰色だそうだ」


「・・・・・・て、テオフィラ様の瞳は青だ」


「メキシコ警察は、テオフィラ様の詳細な特徴を掴んでる。DEAもFBIも、もちろんインタポールだって知ってるはずだ。なのに、あの傭兵どもは知らなかった」


「で、デコイか、容姿が似てるのを単なる言い訳に使われたか」


 優秀という評価は、ちょっと控えめすぎたかもしれません。すべては単なる推測でしょうが、恐ろしいほどに真実の一端をつかしめている。


 彼らは、これまで世界中の警察機関にこれまで追い回されてきたのです。きっと研ぎ澄まされた警戒心が、意図せずして真相にたどり着かせたのでしょう。彼らの疑念は、正しい方角を向いている。


 わたしが言い訳する暇すら与えず、護衛隊の指揮官たるイスラエリーは、結論に至ったようでした。


「や、奴らの狙いは、この女自身か」


 その通り。モンドラゴン・ファミリアは、この件についてはまるで関係のない完全なる部外者なのです。彼らには、わたしを匿うことで得られる利益なんて一切ない。


「「・・・・・・」」


 意味深に、イスラエリーとその部下が互いに目配せしました。次いで、どこか疫病神を見るような目つきでこちらを睨んでくる。


指揮官コマンダンテ、いつでもは開けるぞ?」


「ど、どうせいつものテオフィラ様のき、気まぐれだ」


 雲行きの怪しさをひしひしと感じてました。この優秀すぎる男たちは、能力だけでなくその忠誠心もまた高いのでしょう。だからこそ、みずからの主人の危機を未然に防ごうとしている――彼らの知る唯一の方法でもって。


 今のわたしの武器は、言葉だけ。焦りは大敵とはいえ、この展開はまるで想定していませんでした。現場の暴走なんて、果たして舌先三寸で丸めこめるものなのかしら? 


 その時でした。ひたひたと裸足で歩きまわる謎の男が現れたのは。


 わたしたちよりも完全武装した男たちの方が、その第2の男の登場によほど緊張していました。一斉に背筋を正していくその姿は、どこか教師が教室に入ってきたときの生徒のように見える。


 その人物は想像していたよりも、いえかなり予想外の格好をしてました。


 裸足だって十分にあれですけれど、その鍛えられた肉体を守っているのは、なんとバスローブただ一枚だけなのです。ボクサーパンツを履いているのは、せめてもの救いでしょう。


 短く刈り上げられた髪は、どこか軍人然とした印象を形作っていました。そのイメージをさらに助長するのは、首から下げられている認識表ドックタグの束でしょう。


 ファション品として使われることもあるそうですが、わたしにとって認識表といえば、どこまでも実用的なもの。


 遺体すら返ってこず、生きた証があの標識だけになってしまった部下もいるのです。ですからいくらカルテルのボスとはいえ、数十人分もの認識表を首から垂れ下げるなんて悪趣味にも程がある・・・・・・最初はそう思ったのですがよく見ると、全体的にひどく薄汚れてました。


 ちらほら焼け焦げも見当たりますし、そういうデザインとは思えません。

なら本物ということ?


 誰かを弔うためか、それとも敵からむしり取ったトロフィーなのかしら? そのホオジロザメのように感情のない瞳からは、その意図はまるで読め取れない。


 バスローブに、薪割りようの斧まで肩にのせている。ちょっというか、だいぶ珍奇な格好ですが、でもあの纏うオーラだけは本物でした。その男――ハイメ=モンドラゴンは、わたしたちを一瞥すらせずに暖炉へと直行していく。


「ぱ、パトロン」


 ついさっきまでわたしたちの殺害計画を相談していたのに、まるで苦手な教師に接するがごとく、おずおずと自らのボスに話しかけていくイスラエリー。


 ですがドン・ハイメときたら、片手で引っ張ってきたカートから自分で割ったのだろう薪を取り出して、暖炉に放っていくのに忙しいみたい。まるで相手にしてません。


 あまりに無礼でマイペースにすぎる感じですが、ここにある全てが彼の所有物だと考えれば、その態度もちょっと納得できるかもしれません。人も、物も、彼は好きにできるのです。


「あれが、れ、例のテオフィラ様の客人ですが・・・・・・き、気になる点がいくつかありまして」


 せめて“ああ”とか、“そうか”とか答えてあげてもバチは当たらないでしょうに。ですがこの麻薬王ときたら一向に部下に向き合わず、おもむろに手を差し出したのです。


 はたから見てるわたしにしても、ちょっと意味不明な仕草。何かしらイスラエリーからすれば、尚更に不可解でしょう。


「あの・・・・・・」


 気まずそうに咳払いするイスラエル人の部下に、ドン・ハイメは一言、


「火だ」


 とだけ囁きました。


 そうですね、薪を切ってきて暖炉に放ったなら、次は火を点けるというのが真っ当でしょうけど、それ今やるべきことですかと言いたくなる。


 ですが序列1位と3位のあいだには、埋めがたい溝があるみたい。全身をまさぐって、小傷が目立つことからも長年愛用しているらしいジッポライターを慌てて取り出していくイスラエリー。


 それを無造作に受け取ると、ドン・ハイメは着火剤でぬらぬらにした薪の山へとなんと、火を点けたライターを本体ごと放り込んだのです。


 唖然とした顔をしていることからも、きっとイスラエリーからすれば大切なライターだったのでしょう。ですがドン・ハイメにとっては、消耗品扱いだったみたい。


 寂しげな部下と燃えさかる暖炉に背を向けて、やっとドン・ハイメがこちらを見据えました。


「ここにどれだけカネを費やしたか分かるか?」


 挨拶も自己紹介もすっぽ抜かして、いきなりドン・ハイメがわたしに問いかけてきました。


 試されているのか、それともはなから相手にされてないのか。ちょっと分からず、答えに窮してしまう。


「一流の設計士に、一流の建材、警備システムにも大金を費やした。なのに空調がいつも利きすぎてる。最悪だな」


「い、い、言ってくだされば、我々が調節を」


「誰か喋っていいと言った?」


 ぴしゃりと言われ、押し黙るイスラエリー。なるほど独裁者という評判は、噂通りのようですね。ついさっきまで人の皮を剥いでどうこう話していた人物が、怯えた犬のように思わず目を伏せている。


 今更ながら緊張が走ります。わたしはこれから、この人物を説得しなければならないのです。


「お前が妻のそっくりさんとやらか」


 その麻薬王からの問いに、子どもたちを自然と背に隠すように一歩前へと踏み出してから、あえて堂々と答えていく。


「お初にお目にかかりますドン・ハイメ。わたしは、テレサ=テスタロッサという者です」


「まるで似てないな」


 そう感想を述べつつ、意味深にドン・ハイメは、薪割りようの斧をまたしても肩に担ぎなおしていきました。


 イギリス連邦の一角であるベリーズの出身。その縁で英国へと留学し、近代特殊部隊の母として知られる第22SAS連隊に入隊。陸軍の一員としてかずかずの実戦を経験し、勲章をいくつも授与されたのち母国に帰還。そこで完全なる血族経営である麻薬カルテルこと、モンドラゴン・ファミリアを創設した・・・・・・わたしの知るドン・ハイメのキャリアは、たったこれだけでした。


 心理分析どころか、姿をちゃんと見たのすらこれが初めてなのです。昨日、目覚めたばかりのわたしに話してあげたいぐらいだわ。あなたは明日、麻薬王と対峙することになると。


「ここに来るまで、部下たちから報告を聞いた」


 南米で唯一の英語圏であるベリーズの出らしく、訛りの少ない綺麗な英国英語クイーンズ・イングリッシュを、ドン・ハイメは操っていました。


「大金を払ったっていうのに、俺の飼い犬である地元の警官どもは、報告を怠ってる。まさか政府の役人のほうが早いとはな。俺に電話してきて、我々が望んだわけじゃないと釈明してきた」


「釈明ですか」


 やっと会話が始まりましたが、どうにも相手のペースにのせられている気がしてなりません。

 

「なんでも、俺の土地にミスリルUSAなる民間軍事会社が入り込んできてるそうだ」


 初耳だったのでしょう。護衛隊の指揮官という職分を思い出して、ますますイスラエリーがわたしたちに警戒心を強めていくのが感じられました。


「妻は、客人ゲストとしてお前を招待した。それは一向に構わん。なんなら以前には、オーケストラを開くため楽団を丸ごと招いたこともある。

 だがガキどもに社会科見学を許可したつもりはないし・・・・・・もちろんのこと、俺の絨毯を血で汚していいとも許可した覚えはない」


 ノルさんが横たわる担架からは、なるほど血がぽたぽたと絨毯に垂れていました。なかなか観察眼のするどい人物です。


 ノルさんの容態は悪化している。命だって危ないでしょう。すぐにでも治療を受けさせてあげたいのは、山々ですが・・・・・・ここで説得しそこなえば、ドン・ハイメは躊躇なくわたしたち全員を殺害するはず。

 

「まるで難民の群れだな。俺に保護してもらいにきたのか?」


 正確にこちらの目的を読みとるドン・ハイメに、あえて堂々と答えていく。だって見るからに同情で人を助けるタイプだとは、思えませんから。


「そうです」


「気に食わん態度だ。助けて欲しいなら、頭のひとつぐらい下げたらどうだ」


 今のわたしはきっと、デ・ダナンの艦橋で歴戦の潜水艦乗りたちを前にしていたときと同じ顔つきをしているに違いない。見ようによっては、挑戦的にすら感じられるはず。


 多少の反感を買おうとも、わたしはこの態度を崩すつもりはありませんでした。だっていま目の前にいるのは、巨悪無比な麻薬王なのですから。


 同情でも信頼でもなく、相手は舐められない取り引き相手であると納得させる必要がある。それ以外にわたしたちが生き残る術はないのです。


「失礼ながら、あなたに頭を下げるつもりはありません」


「ほう?」


 わたしの態度にいきり立つ兵士たちと異なり、ドン・ハイメはちょっと興味深そうに言いました。これまでのまるで相手にしてない態度に比べると、これは大きな前進です。


「この状況で頭を下げるということは、あなたに慈悲を乞うことになります。ですがドン・ハイメ・・・・・・あなたは、無慈悲で有名なのでしょう?」


「無駄な努力はしないタイプか」


 わたしに殴りかからんばかりの表情を浮かべるイスラエリーを、他ならぬドン・ハイメその人が制止しました。


 どうやらまだわたしは、このを続けることができるみたい。


「頭は、優位な時に下げてこそ効力を生むものですよ」


「威勢はいいが、代替案がないならただの馬鹿だな。どうやって自分たちを匿えと俺を説得するつもりだ? 先に釘を刺しておくが、妻を引き合いにだすのはやめておけ」


「そんなことはしません。どうでしょうかドン・ハイメ、取引をしませんか? わたしと子どもたちの安全の保障、そして彼の治療を条件に」


「彼? そこのくたばりぞこないのことか? 女じゃなかったんだな」


「もちろん取引ですから、対価はちゃんとお支払いします」


「カネなら余ってる」


「ですが情報は別でしょう。あなたにとってはライバル組織にあたるカリ・カルテルの内部情報について・・・・・・知りたくはありませんか?」

 

 これがわたしの秘策でした。ノルさんたちと出会い、そして故あって新生カリ・カルテルから奪うことになってしまった“クレイドル”の情報。あれはもう手元にありませんが、まだわたしの記憶の中には残っている。


 もうわたしの役には立たないでしょうが、麻薬戦争を戦う当事者なら話はべつ。十分に魅力を感じるはず。


「カリは、闇の組織として有名です。その組織構造はもはや秘密結社化していて、DEAすらも全体像は把握しきれていない。わたしならその情報を提供できます。

 そうですね、まずは手始めとして数人の幹部の名を――」


「あれはCIAのオペレーションだろう?」


 自分がなにを聞いたのか、一瞬わからずつい固まってしまう。だってドン・ハイメは、わたしの目のまえで切り札を破り捨てていったのですから。


「今・・・・・・なんと言いましたか?」


 聞き間違えであってほしい。その思いをさもなんでもないことのようにドン・ハイメは、あっさり否定していく。


「作戦名は、“オペレーション・アニマルキングダム”。諜報機関の奴らは、どこも馬鹿みたいな名前ばかりつけたがる。

 カリを仕切っていたサングラス好きのアメリカ人の本名も、奴のフルーツ会社が単なる隠れ蓑であることもすべて知っている。俺にも情報提供者はいるのさ」


「・・・・・・それを承知していながら――」


「どうして放置していたのかか? どうせカリを消しても、別の組織が台頭してくるだけだ。だったら勝手知ったる悪魔のほうが利用しやすい」


 気づかれないように、ですがついつい唾を飲み込んでしまう。


 相手を侮っていた、それは認めるほかありません。まさかここまで情勢を把握していたなんて・・・・・・下手に裏情報を明かしても、この麻薬王はきっと小揺るぎもしないでしょう。

 

「そういえば、あのサングラス男は最近いきなりロシアに亡命したそうだな。あの件でCIAが釈明に追われていたのは笑えたが、もしや貴様が関わっていたのか?」


「だとしたら、どうしますか?」


「間抜けだと嘲笑おう。カリの裏のボスが消えても、停戦協定は破られなかった。つまり俺のビジネスには、なんの障害も起きていない。ならばこのまま放置するのが得策というものじゃないのか?」


 すべてが理路整然としていて、感情がまるで挟まれない。ここまで強敵だとは、自分の甘さに腹が立ってきました。


 別に声を張り上げたわけでもないのに明朗に、結論づける声がわたしの耳に届きました。


「このバランスを崩壊させるつもりはない。それもみすみす自分からな」


 カンと、まるで杖であるかのようにドン・ハイメが、薪割り用の斧でもって床を叩きました。すると護衛隊の兵士たちが輪を縮めて、わたしたちへと迫ってくる。


「俺が無慈悲だという評判は正しい。この屋敷を作るために大金を費やしたが、それを稼ぐために数万人を犠牲にした。いや、数十万人だったか・・・・・・まあ、どちらでもいい。

 妻には、お前はじつは詐欺師だったからお帰りいただいたと、そう説明しておく」


 もうドン・ハイメは、わたしたちへの興味を失ったようでした。こちらに背を向けて、どこかへ去ろうとする。


「待ってください」


 その背にむけて咄嗟に呼びかけますが、彼からしたらわたしなんて路傍の石同然でしょう。


 この麻薬王の興味を惹くためにはなにか、もっと巨大な爆弾を投下すべきでした。護衛隊がわたしたちを捕まえる前に、声を張りあげてドン・ハイメに語りかける。


9姉妹ナイン・シスターズ!!・・・・・・この名前に聞き覚えはありませんか!?」


 わたしの声を聞いたドン・ハイメが、無言のまま足を止めました。


「・・・・・・聞いたことがないな」


「ならこのまま立ち去れば、いいだけでしょう」


 なのにこの冷徹な麻薬王は、立ち止まった。つまりそういうことなのです。こうまでカリの内部事情に通じているのなら、その背後にいる彼女たちについても知っているはずなのです。


 だからわたしは、ここぞとばかりに言い募っていきました。


「カリはおろか、CIAすらも裏から操る秘密組織」


「そんなふざけた陰謀論が実在するとでも?」


「出方の読めない相手というのは、脅威じゃありません? わたしにとって9姉妹は敵です。敵の敵は友、とまでは言いませんけど、少しは利用価値がある思いませんか」


「あるいは、寝た子を起こす羽目になるのかもしれん」


「でしたらけっこう。あなたの最大のライバルがそうであるようにドン・ハイメ、あなたもまた謎の敵の手のひらの上で踊らされればいいわ。

 正直に申せば、この共闘がどういう結果をもたらすのかわたしには、皆目検討がつきません。ですがこの均衡状態がいつまでも続くとは、信じないほうが身のためですよ?」


 わたしが持ち合わせてる9姉妹の情報なんて、微々たるものです。あるいは、この麻薬王が手にしてる情報とどっこいどっこいかもしれません。ですが、最低でも興味を引くことには、成功した。


 現にわたしたちを捕縛して、彼らの表現を借りるなら“バーベキュー”しようとしてきた護衛隊の兵士たちを、ドン・ハイメは手で制していく。


「わたしなら、9姉妹の正体を暴けられます」


「それが取り引きの条件か」


「はい、それが条件です。ご面倒はいろいろとかけてしまうでしょうが・・・・・・これほどの武力と資産を持ち合わせているあなたならば、この程度たいした出費にはならないでしょう」


 なんども何度も、納得したように短い首肯を繰り返していくドン・ハイメ。その姿をわたしは真っ向から、子どもたちはこわごわと見つめてきます。


 こっちの手札はこれで全部。もう何も残ってません。きっと裁判長の言葉を待っている被告人もこんな気分なのでしょう。次の一言で、今後の人生のすべてが左右されるのです。


「わかった」


 短い決心を、麻薬王がつぶやいていく。それからドン・ハイメは言葉でなく、自身の態度でもって結論を述べていったのです――手にした斧で、わたしの首筋に狙いを定めるという行動をもってして。


「自分の手でやろう」


 驚く暇もありませんでした。振り下ろされる刃は、わたしの非力な身体能力では阻止しようがない。


 これで終わり? これまでどんな危険だって乗り越えてきたというのに、こんな呆気なく終わってしまうの? 極限状態のあまりわたしの両目は、迫りくる斧をスローモーションで捉えていました。


 自分はどうなってもいい、そう本心から思えることを誇るべきなのかもしれません。ですが今は、悔しさがばかりが胸に残る。


 わたしが死んだら次は子どもたち、そしてノルさんの番なのです。彼らを救うと大見得を切っておきながら、わたしは彼らを地獄に連れてきてしまった。


 わたしは救うどころか・・・・・・もしかしたら、事態をただ引っかき回しただけなのかもしれない。そんな後悔をも死は、ただ無情に奪い去っていく。


 前髪が、斧の刃風でゆり動く。わたしは最期、きっと絶望に顔を染めながら死んでいくに違いない。きっとひどく情けない顔でしょう。ですがヒーロー気取りで子どもたちを道連れにしてしまった自分には、お似合いにも思えるのです。


 せめて涙は流すまいと目をつむる。そんな尊厳なんてかなぐり捨てて、ドン・ハイメに抱きつき子どもたちに逃げてと、叫ぶぐらいはすべきだったかもしれません。だけど敗北者であるわたしには、そんな自由すら許されていなかった。


「ハイメ!!」


 ですが、いきなり場に飛び込んできた甲高い女性の声が、わたしの命をほんのちょっぴりだけ延命してくれたのです。


 まさしく皮一枚の距離、わたしの首からほんの数ミリのところで斧が止まる。平然と人の首を刎ねようとしていたドン・ハイメは、斧を構えた格好のままでその乱入者の女性へと振り返る。


「やあハニー、寝てたんじゃないのか?」


 応接間の入り口に立っていたのは、くすんだ銀髪の女性です。なるほどわたしとよく似た容姿をしているテオフィラさん――あるいはドン・ハイメの最愛の奥方は、満面の笑みで夫の質問に答えていきました。


「さっき先生ドクトルに起こされたの!! 急用だからって!!」


 なんといいますか、言動も仕草もひどく子どもっぽい女性です。わたしより絶対に歳上でしょうに、精神年齢は10は下のような気がします。


 なのに見た目は、瓜二つ。でもきっと口を開けば、誰もがわたしたちの見分けがつくでしょう。だってちょっと性格が違いすぎますもの。


「それで・・・・・・ハイメは、こんな朝早くからなにしてるの?」


「殺人」


「うわ、ワーカーホリック~」


 わたし、ついさっきまで殺されかけてたのに・・・・・・今は一転して、麻薬王とその妻の私生活をテーマにしたリアリティー番組を生で見せつけられている。そんな気分にさせられてました。


 ですがどうやら、命拾いはしたみたい。


 妻のまえでは、きっと自分の仕事を見せたくないのでしょう。ドン・ハイメは斧をわたしの首から離してから、杖のようにもたれかかる。


「最近は夜ふかしがすぎて、生活リズムがぐちゃぐちゃになっている。そう注意してきたのは、あなたじゃなかったのか客員医師ドクトルどの?」


 先ほどからドクトル、ドクトルと呼ばれていたのは、テオフィラさんの横に立っている老人に違いありません。


 老人性色素班が目立つことからも、かなりお年を召しているみたい。ですがその背筋はシャキとしていて、知恵者らしい風格が漂っている。いかにも老医師という雰囲気です。


 ですが客員ということは、わたしたちが来る以前からカンポで厄介になっている客人、ということなのでしょうか? 話を聞くかぎりでは、テオフィラさんの体調管理を任されているようですし、それなりにドン・ハイメから信頼を寄せられているみたいですが・・・・・・明らかにわたしたちを救い出そうという行動に、この麻薬王はちょっと疑念を抱いたみたい。


 丸顔は愛嬌があるのに、その目つきときたらすぐ“最近の若者は”と言い出しそうな頑固さがうかがえる。そんなドクトル、さん? が麻薬王に向けてこう答えていきました。


「そこの女は、奥方の客人なのだろう?」


「・・・・・・一応は、そうだな」


「だったら奥方を起こすのは、筋というものだ」


「この部屋の状況を見て、なにか察するものはないのか?」


 銃を持った男たちの視線を一身に集めておきながら、この老医師ときたらますます語調が激しくなっていく。


「なんなんだアンタは!! 奥方の要望には、すべて応えろと儂に命じておきながら、命令どうりにした儂を責め立てるのか!!」


「融通のきかないジジイだ」


 相変わらずホオジロザメじみた捕食者の顔つきでしたが、老人の逆ギレにドン・ハイメは、どこか呆れているように見えます。


「まったく最近の若い者は!! あれしろこれしろと命じておいて、それをちゃんと果たしたら、どうしてこんな事をしたと責め立ておる!!」


 本当にもう、近所に1人はいる厄介なお爺さんという感じ。いえ別に実体験じゃありませんし、この方よりもっと面倒くさい老人たちを知っているので、どうにもコメントは差し控えたい感じでした。


 とりあえず、命の恩人ではあるのでしょうが・・・・・・当人に自覚症状があるかは、まだちょっと分かりません。ですがこれは、わたしたちに与えられたラスト・チャンスでした。


 パチクリと、テオフィラさんがわたしを見つめる。一瞬、姿見に自分が映っているのかと錯覚してしまいますが、この機会を逃すわけにはいきません。


 麻薬王を説き伏せるのに失敗したから、今度はその妻に媚びを売る。我ながらを情けない感じですが、手段を選んでもいられない。


「あっ、は、はじめましてテオフィラさん。わたしは――」


 ついつい声が上ずってしまう。


 だって、ほんの数秒前まで断頭台にかけられていたようなものなのです。処刑人の気まぐれで刃は止まったものの、いつでも処刑は再開できる状態にある。まだ動揺冷めやまぬわたしの舌が、ついついたどたどしく言葉を紡いでしまう。


 そんなわたしの拙い自己紹介に対するテオフィラさんの反応は、まさに劇的でした。


「にゃーーーーーーーーッ!!!!」


 いきなし奇声を発したかとおもいきや、ドタドタと迫りくる自分のそっくりさん。


 ちょっとセクシー気味なナイトガウンの裾をはためかせながら、テオフィラさんはなんとわたしを通り過ぎて――幼女というより童女という感じの、ずんぐりむっくりした妖精みたいなマリアちゃんへとハグしていったのです。


 色々と衝撃的な展開が続けざまにおきすぎて、どれに対応するべきか困ってしまう。 


 テオフィラさんにお腹を踏んづけられて一瞬、くの字に身をまげてうめいたノルさんを心配すべきか、はたまた両頬をこうぐにぐとされて、心底から嫌そうな顔をしているマリアちゃんを助けるべきか・・・・・・やめてほしいですね、こんな空気の大激変。感情がまるで追いつきません。


「かわい~」


 テオフィラさんのそのスキンシップの仕方ときたら、子ども相手というよりもペットのそれでした。餅のような頬を上下左右に揉まれているマリアちゃんは、過去最高の仏頂面で心の底から嫌そうです。


「あ、あの、テオフィラさん?」


 わたしは肩をとんとん、マリアちゃんを助ける意味もあってテオフィラさんの注意を引いてみたのですが・・・・・・この麻薬王の奥方ときたら、


「あっ、うん・・・・・・はじめまして」


 と、自分の似姿をした女にそっけなく答えたあと、あっさりマリアちゃんに向き直っていったのです。


 俗にドッペルゲンガーと出会うと死ぬなどと言われておりますが、現実には相手にもされないみたい。これには、民族学者もビックリでしょう。そうですか・・・・・・気まぐれって、このレベルの気まぐれなんですね。


 ですがこれでは、前提条件が崩れてしまいました。わたしに興味があったからこそ、テオフィラさんは招待状を送ってくれたのに。


 ちょっと前まで溺愛していたのに、次の瞬間には飽きてゴミ箱にオモチャを放る子どものようなもの。そう判断するしかありません。そんな女性にわたしは、精一杯に媚びを売って麻薬王から守ってくれるよう、お願いしなくちゃならないのです。


 いっそ深海で潜水艦に閉じ込められて、魚雷に追い回されているほうがマシ。そういう顔をしていたに違いないわたしを目にして、フォローを入れてくれたのは、ノルさんの義理の妹を自称しているみんなのまとめ役、ハスミンちゃんでした。


 なるほど、確かに彼女は片目片足という障害を負っていて、いつも松葉杖をついている。ですがその歩き方ときたら達者なものでして、まるで障害を感じさせないのです。


 松葉杖を使ってるのに足音を殺して、いつの間にか人の背後をとってみせる。そういうことを平気でやってのけるからこの子は、恐ろしいです。鈍くさいわたしだけならともかく、プロの殺し屋として活躍していたノルさんや、元特殊部隊員であるヤンさんすらも手球に取るのだから侮れない。


 そんなハスミンちゃんがどうしたことか突然よろよろと――わたしの目からとてもわざとらしい感じで――松葉杖に寄りかかりながら、テオフィラさんに近づいていったのです。


「お姉ちゃん・・・・・・」


「うーん?」


 わたしはそんな風に言われたこと無いのに、ハスミンちゃんはテオフィラさんをそう呼びました。


 お姉ちゃん、その魅惑のワードに釣られてテオフィラさんが面を上げる。そこで彼女が目撃したのは、残された片目に涙をいっぱい溜めて、愛玩動物のような愛くるしさでちょっと首をかしげる。とても憐れで、庇護欲を誘うハスミンちゃんの顔でした。


「私たち・・・・・・行くところがないの・・・・・・」


「ま!!」


 これでは乞食の戦術ですというのは、ちょっと表現が悪いかもしれませんけど、事実だから致し方ありません。


 冷静沈着というよりかは、冷酷無比という表現のほうが似合うハスミンちゃんの殺し文句に、テオフィラさんはイチコロでした。この片目片足の少女はどうも、詐欺師の才能があるみたい。


 キッと、なんてこったいと言いたげに目を見張りながらテオフィラさんが、旦那さまへと向き直る。すると間髪入れずにこの中南米で最悪の麻薬王は、部下に向かってこう指示を出していったのです。


「客人に部屋の手配を」


 かつて、これほど熱い手のひら返しを見たことがあったでしょうか?

 

 この方、ついさっきまでわたしを斧で惨殺しようとしていたのに、今では一転、客として迎えると宣言したのですから、反応に困ってしまう。


 あの短くも、激しい交渉のときと声色はまるで変わっていません。それこそ麻薬王らしい風格そのままなのですが・・・・・・なんといいますか、こちらが心配になるほど奥様に甘すぎる。


 テオフィラさんがバビロンの大淫婦よばわりされる訳ですよ。命じられた当事者ことイスラエリーは、またしても意味深な咳払いをしました。


 それはどうなのでしょうかという命令への抗議と、空気がちょっと乾燥してて思わずと、ギリギリ言い訳できるラインを攻めた、そんな感じの咳払いでした。


 正直に申すならば、わたしだってイスラエリーさんの立場なら、まったく同じようにドン・ハイメを諌めようとしたに違ありません。ですが部下の心、ボス知らず。ドン・ハイメがあの捕食者プレデターの目でもって見つめると、つーと視線をそらしたイスラエリーさんが諦めきった表情で、手早く部下たちに指示を出していきました。


 どうやら正式に、わたしたちはカンポの客人として迎え入れられることが決定したようです。喜ぶべきなんでしょうが・・・・・・どうにも納得できない感じです。


「じゃあじゃあ!! みんなで何して遊ぶ!? テニス? ジェットスキー? サッカー? 屋内ジェットコースターもあるんだよ!!」


 単なる子ども好きなのかしら? それとも新しいオモチャでも手に入れた感覚なのか・・・・・・とりあえずテオフィラさんには、子どもたちへの害意は感じません。


「わ―、たのしみー・・・・・・」


 やはりあの憐れな女の子キャラは、ハスミンちゃんの性に合ってないのでしょう。


 困惑気味な子どもたちを先導して、意気揚々と部屋から出ていこうとするテオフィラさんの横を歩きながら、ハスミンちゃんはもうウンザリしたような顔をしていました。そんな片目片足の少女が一瞬、さり際にこちらへ視線を向けてくる。


 あえて翻訳するならば、“ひとつ貸しです”っていうところかしら。あと、心配げにノルさんをみやったあたり、“兄さんを頼みます”も含まれているに違いない。


 まったく・・・・・・あの子には、助けられてばっかりです。情けない保護者ですが、せめてもノルさんだけは救わないと。


 ノルさんの容態を確かめるべく、担架の横に膝をつく。すると、ドクトルと呼ばれた老医師が近づいてきました。


「どうして、テオフィラさんを起こしたりしたんですか?」


 警戒するに越したことはありません。下手なことを喋れば、やぶ蛇になりかねません。だってここは、わたしたちにとって敵地同然なのですから。


 すると丸顔の老医師は、ふんと鼻を鳴らしながら答えてきました。


「ふむ、一応はヒポクラテスの誓いを立てた身だからね」


「それだけ・・・・・・ですか?」


 それは、世界でもっとも古い誓いのひとつ。古代ギリシャから連綿と受け継がれてきた、医師の誓いのことでした。その一節にこうあります。


“どのような家を訪れようとも、女と男、自由人と奴隷を分け隔てることなかれ”


 医者にとっては、患者こそがすべて。ヒポクラテスの誓いとは、そういう宣誓なのです。


「あの子どもらは、君が産んだ訳じゃあるまい? それなのにどうして守ろうとする?」


 そう問われてしまうと・・・・・・答えようがありません。


 無私の奉仕なんて気どりませんけど、自分の利益になるから手の差し伸べた訳じゃありませんから。


 それにしてもこの老医師は、一体どこの出身なのかしら? 


 白い肌からしてもしやと訝しんでましたが、言葉のアクセントからしてやはり地元の出身ではなさそうです。たぶんヨーロッパ系でしょうが、きっと南米で長らく生活してきたのでしょう。スペイン語の訛りが強すぎて、第一言語がなんであるかちょっと判然としない。


 どうしてこんな人がカルテルの客員医師なんかに・・・・・・普段ならそこまでズケズケと詮索はしませんけれど、敵味方の判断は慎重にしなければなりません。


 だってわたしは、ついさっき殺されかけたんですから。どうしても警戒してしまう。


 とりあえず、あの融通のきかない頑固オヤジというキャラクターは、演技の面が強いのでしょうね。先ほどの雰囲気とは打って変わって、今は冷静な医者の顔をしてました。


「あの、お名前を伺っても――」


「それよりまずは、手を貸してもらえるかね」


 本格的な救命救急キットを広げながら老医師は、手術用のうすい手袋をわたしに差し出してきました。


「最低限の医療訓練は受けてますけど・・・・・・そこまで本格的なことはできませんよ?」


「ということは、この応急処置は君がしたのかね?」


 実際には、衛生兵の資格を持っている、この場にはいないヤンさんがな処置したのですが・・・・・・。


「ええ」


 と、あえて正々堂々と嘘をつく。ちょっと眉を曲げて疑っている風でしたが、老医師はそれ以上は言及してきませんでした。


 2人揃って手袋をはめていくと、ふと老医師の袖がずれて、しわがれた肌が顕になりました。老人の左の前腕、その内側にはどうしてか、消えかけのタトゥーが刻印されていました。


 ノルさんも入れてますけど、ドクトルのそれは実用品としてのタトゥーのよう。無味乾燥な数字がいくつも並んでました。


 ドキュメンタリーの知識で恐縮ですけど・・・・・・年齢といい、ヨーロッパ風のアクセントといい、あれは――ナチス・ドイツが絶滅刑務所の収容者たちに施した、収容者番号であったはず。


 わたしの視線に気づいて、そっと老医師がタトゥーを隠すように袖をあげていきました。


「撃たれのかね?」

 

 不躾な視線だったかもしれません。誰にでも触れてほしくないことは、あるものです。ですから事務的なその問いに、わたしもすぐさま応じていく。


「はい。ちょうど脊椎を横から掠めるように貫通したらしくて」


 手首に指を当てて、おおよその脈拍と血圧を測っていくのは、まさしく熟練の医師の手際そのものでした。名医かどうかはまだ分かりませんが、とりあえずヤブ医者ではなさそうです。


「持ち上げろ」


 わたしも手を貸して、背中を見やすいようにノルさんの身体を横倒しにしていく。彼のされるがままの態度が不安を誘う。


「当て推量だが、L3かL4の脊椎損傷だな。どのみち精密検査しなければ、確かなことは何も言えん。綺麗な射出口GSWだから、この熱は急性の鉛中毒じゃなさそうだが・・・・・・抗生物質は飲ませたのかね?」


「もちろん。ですが、撃たれてから時間が経っていて」


「正しい応急処置をしておるが、応急処置というのはあくまで、病院へ運ぶための時間稼ぎにすぎん。ドン・ハイメ、ボゴタの総合病院から医療スタッフを招聘したい、よろしいですかな?」


 カルテルの息のかかった病院に運び込むですとか、そういうパターンは想像していたものの・・・・・・そうですか、医者の側を呼びつけられるほどの権力を持っているのですね。本当にもう一国の王のよう。


「きゃ、客員医師ドクトルごときが勝手に話を、す、す、進めるな」


 イスラエリーが抗議の声を上げますが、それにドクトルはすぐには答えず、まずはテオフィラさんが去っていた方角を意味深に見つめていく。


「ならテオフィラ様にお伺えを立てよう。手続きが煩雑化するだけで、どうせ結果は変わらんだろうが・・・・・・そうまでテオフィラ様を不機嫌にさせたいなら、儂は止めんよ」


 この老医師、カルテルの力関係をよく心得ているみたい。イスラエリーはぐうの音も出ず、鼻筋をひくつかせるばかり。


「さっさと医療スタッフを呼びたまえ。人の命がかかっておる」


 ドン・ハイメがぞんざいに顎をしゃくって、やっとイスラエリーさんも諦めがついたみたい。無線機を手にして、どこかに連絡していく。


「ここで手術するんですか?」


 偏見かもしれませんけど、北欧にありそうな現代建築風のお屋敷であるカンポで、そんなこと可能なのかと訝しむ。そんなわたしの疑念をドクトルは、素早く汲み取ってくれました。


「お嬢さん、ここはもはやひとつの街みたいなものでね。およそ考えうる施設がすべて揃っとるんだよ」


 つまり発電施設はもちろんのこと、上下水道や食糧生産施設に、もちろん医療施設だって充実している。そういうことなんでしょう。


「レントゲンはもちろん、MREまである。その気になれば、あらかたの手術は可能だ」


 なんとまあ、驚くほかありません。どのみち相手にすべてを委ねるしかない立場ですし、異論を唱えるべき場面でもないでしょう。


「少し出かける」


 一方その頃、なんて呼びたくなるぐらいには、ドン・ハイメとわたしたちの間には、もう埋めがたい距離感ができていました。


 なし崩し的にわたしたちを客人として迎えると決めたものの、この麻薬王は本音では歓迎なんてしていないのでしょう。そういうムードが口調からダダ漏れてました。


「ど、ど、どちらへ」


「そこの小娘を追いかけてきた傭兵どもに、釘を刺してくる」


 一方的に押しかけてきて、あげく傭兵たちの矢面に立たされる。ドン・ハイメからすれば、わたしはとんだ疫病神でしょう。


「ドン・ハイメ」


 ですから去り際にわたしから声をかけられても、相手をする気分じゃないかもしれません。ですが一瞬だけこの麻薬王は、背後を振り返ってくれました。


「まだ欲しいものがあるのか?」


「あります――お礼をいう機会をください」


 それからわたしは、冗談ではなく数万人を殺害している犯罪者のなかの犯罪者に、深々とお辞儀をしていったのです。


「匿っていただき、ありがとうございました」


 相手は極悪非道という表現すら、裸足で逃げ出すような御仁かもしれませんけど・・・・・・それでもわたしの性格か、助けられたお礼はしないと背中がムズムズ

してくるのです。


 とくに反応を示さず、わたしのお辞儀をただ黙って見つめてくるドン・ハイメ。


「先ほどとは、打って変わって、ずいぶん殊勝な態度だな」


「さきに頭を下げては、締まりませんから」


「優位に立ってこそ・・・・・・か」


 これは打算ではないんですけれど、あんなやり取りのあとなのです。そう言われても仕方がないでしょう。


 どこかへ去っていくドン・ハイメを追って、イスラエリーも姿を消していく。ただし最後にわたしへ射殺すような憎しみの視線を向けてから、いつも見張っているぞというジェスチャーをしてくる始末。どうにも恨まれてしまったみたい。


 ふう、と思わず息を吐いてしまいましたが、まだぜんぜん終わってません。


 イスラエリー、ドクトル、テオフィラさんにドン・ハイメ・・・・・・誰もが本心が読みきれない、腹に一物を抱えた御人たちの予感がします。だって相手は、正真正銘の麻薬カルテルなんです。それはもう一筋縄ではいかないでしょう。


 ですがこれしか選択肢はありませんでした。結果だけ見るなら、とりあえず間違ってはいなかったと信じたい。


 客員医師に指示されるがまま、内心ではどう思っているか分かりませんが、それでも護衛隊の兵士たちは、唯々諾々とノルさんを担架ごと持ち上げていく。


 もうノルさんは、うめき声すら上げてませんでした。真っ赤な顔をして、忙しなく呼吸するばかり。こういう場面で治るがどうか尋ねられても、お医者さまとしては困るだけでしょう。


 ですが、やっぱり、尋ねずにはいられない。


「治りますか?」


 ドクトルは、安易に期待をもたせるようなことを言いませんでした。答えはあくまで客観的で、冷静そのもの。それが逆に信用がおける気がしました。


「初期対応に救われたようだ。熱の原因は、そこまで深刻じゃない感染症だろう。全力は尽くすつもりじゃし、ここにはしかるべき施設も揃っとる。だかやはり最後に物を言うのは――患者の体力だろうな」


 楽観はできませんけど、思わずちょっと笑ってしまい、老医師に怪訝な顔をされてしまう。


「いえ、ただ頑丈さだけは、折り紙付きな人ですから・・・・・・きっと大丈夫だと思います」


 ふむ、とドクトルは顎に手をやりました。


「まあ、結論を出せるのは、どのみち1週間は先になるじゃろうて。手術の結果がどうなるとも、それぐらいの期間は目を覚まさんはずだよ」


 1週間ですか・・・・・・たった1日で情勢はこうまで様変わりしてしまったのです。体勢を立て直すためにも、どうか穏やかな7日間であって欲しいものです。わたしは、そう胸中で祈りながら、カンポの奥深くへと足を踏み入れていきました。


 ここが魑魅魍魎の巣であると知りながら。




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