XⅥ “hermana menor”


「よし、ルールは簡単だ」


 訓練施設の中で、ロシア訛りの声がこだまする。


 タンクトップ姿の巨漢のロシア人は、右に左にと、集められた子どもらを眺めながら演説していった。


「これを見ろ。使い方を知っている者も多いと思うが、念の為に説明しておく」


 ロシア人は高くピストルを掲げながら言った。


「後ろの門のようなこの部位に、正面の突起にある白いドットを合わせるだけでいい。あとは引き金をまっすぐ後ろに絞れ、それだけでこの共は死ぬ」


 俺たち子どもたちと、ロシア人を挟んでちょうど対岸には、項垂れている大勢の大人たちが手を縛られ、膝立ちになって一列に並べられていた。


 それがロシア人が言うところの標的であるらしかった。


「知っているはずだ」


 これまでの胴間声とは打って変わって、静かめな声量。なのにその声は頭の奥底まで染み渡っていった。


「貴様らの人生はどん詰まりだ。だからこそこの船まで流れ着いてきたのだと、誰よりも自分自身が心得ていることだろう。

 お前たちの何人かは、俺が怪物のように見えているに違いない。それは正解だ。

 だが生まれながらにして貴様らを虐たげてきた貧困や格差、子どもを殴ることでしか自分を慰められない両親と、われわれが決定的に異なる点がひとつある。

 このイニシエーションを越えさえすれば――」


「クタバレ!! 外国人グリンゴが!!」


 口汚いスペイン語の叫びに、ロシア人は眉をひそめながら拘束されている大人たちの1人に目を留めた。刺すような眼光、だが何をするでもなくすぐ俺たちに向き直る。


 こんな風に歯向かえばどうなるか分かっているはずなのに、だからこそ悪態をつくことによって、その褐色の肌をした大人は最後のプライドを守ろうとしていた。


「・・・・・・もう察しはついてるだろうが、イニシエーションの内容は簡単だ。この馬鹿どもの頭を弾くだけでいい。体格や性別を気にしてる者もいるだろうが腕力などいらん、指先の力だけで十分だ。

 ついでに気持ちを楽にするため注釈もつけておこう。集められたこの標的共は、どれもがカリ・カルテルに歯向かった間抜けなコントラどもであり――」


「説教だとッ!? カネで雇われた人殺しごときが、この俺に説教するのか!! 殺すならガキなんて使うな女々しい奴めプータ・マドレッ!! 男らしく、自分の手でやってみせたらどうだッ!?」


「・・・・・・すぐ済む」


 つかつかとブーツの音を鳴らしながら、ロシア人は喚き散らしていた男の前に立ちはだかった。さっきまで私たちに使い方を説明していた拳銃を、その男の眉間に押し当てる。


 結末は喚いた男自身、誰よりも知っていたはず。目は血走って、鼻息荒く興奮しきっている。当然だ、これから死ぬのだ。でも、どれほどみっともなくともその男は、決して銃口から目をそらそうとはしなかった。


 勇敢だった。


 その姿にロシア人はどうしてか急に考えを改めたらしく、拳銃を握った手を下げて、そのままズボンのウエストバンドに凶器をしまい込んでいった。そして次の瞬間、ナイフを引き抜き、喚いていた男の鼻を削ぎ落としにかかる。


「――ッ!! ――ッ!!」


 まるで豚のように声にならない奇声をあげながら、男が身をよじっていく。泣きわめき、縛られてるなりにロシア人から逃げ出そうと床を這いずっていく。


 男のスボンには染みができていて、すぐアンモニアの匂いが鼻をついた。


 尊厳を得るどころか、死の間際にどうしようもない恥を晒している男の頭を、今度こそ素早い抜き撃ちでロシア人は精確に撃ち抜いていった。でも多分、わざと急所を外したらしい。


 轢き殺された野良犬のように、男は痙攣しながら床をのたうち、じっくり数分間もかけて死んでいった。


「見たか? いやガキどもにじゃない、お前ら敵に捕まったトンチキ共に言っている。

 捕まった時点でお前らはもう死んでいる。貴様らに権利が残されているとしたら、それは楽に死ねるかどうかに過ぎん。

 そこで素直に的になってろ。でなきゃ、また見せしめをしなくちゃならん」


 横で処刑風景を淡々と眺めていた他のロシア人たちが、手早く死体をプラスチックで出来た樽のなかに押し込み、隅に追いやっていった。


 それが“標的”たちの棺桶であるらしい、樽の在庫はまだまだたくさんあった。そして場合によっては、俺たちもあれに押し込められるのだろう。


「どこまで話したか・・・・・・ああ、そうだった。

 血の繋がりなんて忘れろ。あんなものは、真の絆に比べたらくだらんものだ。

 お前らがこのイニシエーションを越えた先、そこには組織に加われるという特典以上のものがあるのだ。

 断言してやろう、死によって結びつけられた絆に勝るものはないと。

 この世には嘘つき共がウンザリするほどいる。カネに目がくらんで、友人を売りさばくような奴らもな。だが死は、死だけは絶対なのだ。

 自分の命を預けられる戦友ほど、この世で信頼に値するものはない――今日ここでお前たちは絆によって結び付けられた兄弟カルナルとなるのだ」


 ロシア人はそこで言葉を切り、俺たちに向けてピストルのグリップを差し出してきた。


 向こうが選んだりはしないらしい。誰が最初に歩みだすか、それを見定めるつもりのようだ。


 輸送途中にちょっと話をしただけだが、正直、ここに集められたガキどもの何人かはすぐにでも人を殺せるタイプだった。そうやってスラムを生き抜いてきたストリート・チルドレンたち。


 俺も似たようなものだから、殺すか殺されるかになれば、躊躇なく相手を消せる自信はあった。あの諦めきった大人たちだって、立場が違えばロシア人のように敵を痛ぶりながら殺せるタチに違いない。


 だが・・・・・・まだ困惑していた。すべてがいきなりだった。


 保護施設から連れ出されたかと思えばいきなりこんな場所に集められて、意味不明なロシア人の演説を聞きながら、無抵抗な大人どもを虐殺しろと命じられてる。


 ・・・・・・人の頭ごなしに命令してくる奴なんて、大ッ嫌いだ。


「誰が最初だ!!」


 弱みを見せるような奴は失格だ。そういうのはスラムではすぐ死ぬ。最後まで意地を張れる奴だけが最後まで生き延びる。


 だから疑ってる奴が大部分だった。連中の要求どおりにしたところで、何が変わるっていうんだ? 結局のところこれは全部ゲームに過ぎず、気が向いたらさっきの男みたいに俺たちも殺されるだけなんじゃないか?


 こいつらはカリ・カルテルだと自分から名乗っていた。奴らのやり口はよく知ってる。コロンビア・ネクタイされた親父を見て、この国にありふれた浮浪児になったのは8歳の時だったからだ。


 ロシア人はまた何か叫んで、発破をかけようとした。ぐずぐずと周りの出方を見守ってばかりの俺たちに愛想を尽かしたらしい。


 叫びちらして、それでも動かないようなら誰かしら選ぶつもりなんだろう。賢いやつほど身をすくめて、鼻をすすって泣くばかりの臆病者どもを前に突き出すようにして隠れだす。


 最悪、銃を奪って逃げたす算段を立てている奴らもいそうだ。加わるなら、俺もそっち側がいい。


 くるくる頭をしてもう隠すことなく泣いている女、たぶん俺とそう歳は変わらない9歳か10歳ほどのガキの背に、俺はそれとなく潜伏することにした。


「これをこなせばカルテルに入れるんだぞ!!」


 よく聞く文句だ。スラムから抜け出したいガキには3つの道がある。


 1つ目は必死こいて勉強して出世する。ただしスラム出というレッテルを貼られず、うまい具合に学校に潜り込まないと意味がない。そこまでやっても会社が雇ってくれるとは限らないし、出世も無理だ。どうせ真っ当な家庭に生まれたエリートに一生顎で使われるだけ、スラムの犬の地位なんてそんなものだ。


 2つ目は、サッカー選手になる。正直いってコイツも論外だ。この道を目指してる奴らは多いが、時おり野良試合に顔を出す、ちゃんとした施設で訓練を受けた連中に環境の差ってやつを見せつけられ、大概はすぐ挫折する。普段、食ってるものが違うと体格だけでも勝負にならない。


 そして最後に、一番ありふれていてもっとも成功率が高い、カルテルに加わるという道が顔を出す。どうせほとんどは使い捨て、20まで生きられたら良いほうだが、少なくともその間に手に入ったカネでカッコいいスニーカーは履ける。そして上手くすれば、本当の大物になれる。


 だからカルテルに入れるというなら諸手を挙げて歓迎したいところなのだが・・・・・・ここがどこかも分からないのだ。このロシア人がまさか同郷とも思えない。コイツらコロンビア人に見えるようなら、そいつの目ン玉は腐ってる。


 カルテルは地元の人間か、血の繋がりしか信用しない。外国人が手下として雇われることは多いが、そのどちらかの要素がないとてっぺんには登れないと、ガキである俺ですら知っていた。


 なのにどう見ても、この場所を仕切っているのは奴らだった。この鉄の棺桶みたいなだだっ広い空間にいるのは、子どもらを除けばすべて白人グリンゴばかりなのだ。


 ロシア人がまた何か叫ぼうと、大きな口を開いた。


 だが、


「ミハイル」


 それを優しい女の声が制止した。


「あまり大声を出さないように、ほら? みんな怯えてしまっているわ」


「・・・・・・はっ」


 謎だった。拳を振るえば一瞬で首がへし折れてしまいそうな中年女に、あの巨漢のロシア人はかしこまったように頭を下げたのだから。いや、それだけじゃない・・・・・・どこか怯えみたいなものすら見える。


 場違いな女だった。レース生地の黒いドレスを着込んで、亜麻色の髪を垂れ下げている40ぐらいの白人女。肌があまりに白すぎるせいで、目の前に立っているというのに現実感を感じられないほど、どこか神秘的だった。


 血と尿の匂いが漂っている処刑場に、ゆるく、優しく微笑みながら登場できるなんて、俺にはとても普通の人間には思えなかった。


 いや普通は余計かもしれない――本当に同じ人間なのだろうか?


「泣かないで」


 黒衣の女は俺のすぐ側に膝をつき、甘い匂いがする香水が鼻をつく。


 でも女の目当ては俺じゃなかった。隠れ蓑にしていたくるくる頭の女の子の涙を、指で優しく拭っていく。


「お名前は?」


「・・・・・・ヨラナ」


 黒衣の女から俺みたいに不気味なものを感じないのか、くるくる頭あらためヨラナは、求められるがまま自己紹介をしていった。


「怖い?」


 ヨラナが頷いた。当たり前だ、拉致同然に連れてこられて周りには銃を持ったロシア人がひしめいている。ビビってないフリはできても、誰だって恐怖は抱く。


「でもね――」


 何かを言い掛け、そのまま口をつむんだと思いきや、ふふと黒衣の女は急に笑い出した。


「困ったわね。実はさっきのミハイル教官の演説で、わたしの言いたいことは全部なの。

 彼らしい軍人流のアレンジは入っていたけれど、その内容そのものは、実は私が考えたものなの」


「・・・・・・」


 どう答えればいいのか困惑したように、ヨラナは上目遣いで話を聞いていた。コイツは最初からそうだった。大人を見るとまず身をすくませて、それから殴らないでとでも言いたげに頭を垂れるのだ。


「死は絶対なのよ。決して巻き戻らない、だからこそ記憶にこびりつき、その経験を共有する者たちを家族に生まれ変わらせる」


「・・・・・・家族?」


「そうよ」


 そう言って、傷を癒やすように黒衣の女はヨラナの首筋を静かに撫でた。


 俺の立ち位置からだと、細い首筋にびっしり刻まれているタバコの焼印がはっきりと見えた。


「カルテルに入れるなんて、ミハイル教官も下手なアレンジをしたものよね」


 変わったアクセントの女の言葉遣いは、どうしてか耳から離れなかった。ヨラナだけじゃなくよく見てみれば、いつの間にか疑心暗鬼にかられていたはずの誰もが、黒衣の女の一挙手一投足に目が釘付けになっていた。


「あんな言い方じゃ、まるで義務を強制しているように聞こえてしまう。でも実際は違うのよ、家族というのは互いに助け合うものなの。

 あなたは私の娘にそっくり。最初はどうしようもなく不幸な境遇だった、でも今は? 姉妹同士で互いに助け合っている。

 この世界は冷酷だわ、でも家族さえいればどうにでもなる。

 これからあなたは多くのことを経験するでしょう。でもここで誓わせて頂戴? どんな時であろうとも、母としてあなたを全力で愛すると」


「・・・・・・“ママ”?」


 ヨラナのうめき声のようなつぶやきに、黒衣の女は満面の笑みを作った。それは誰から見ても――本物の愛情に満ちた笑みにしか見えなかった。


「ええそう・・・・・・わたしはみんなから“ママ”と呼ばれてるわ。よく分かったわね」


 並べられた標的の1人が急に身じろぎした。その姿を“ママ”と名乗った黒衣の女が、横目で眺めていく。


「・・・・・・さあよく考えて、あなたが決めるのよ。誰も強制したりやしない。

 このまま残って私たちみんなと家族になるか、それとも、元居た世界に帰っていくか」


 どこもかしこも地獄だった。これまで与えられてきた選択肢といえば、せいぜい撃たれて死ぬか、刺されて死ぬかの違いぐらい。そうとも手足を縛られ並べられている標的とそう変わらない境遇だったのだ。


 そこに戻る?


 ヨラナは悩んでいた。だが、以前とは違ってもう怯えてはいなかった。“ママ”の声は蠱惑的、聞くだけで勇気づけられる。


 銃声が鳴る。死体が倒れる。そのあとに母親の声で「よくやったわね」という掛け声がなされ――時には本心からの褒め言葉に、本気で喜ぶ奴が出る。それがこれから30分間のルーティンとなっていた。


 みんな魔法に掛かったかのように、尻込みしていたイニシエーションをこなしていった。そしてついに俺の番がきた。


 疑いの心はまだあった。どうしようもなく胡散臭く感じてもいる。だが、ここで断ったところで何が変わる? おふくろは死んだ、親父も墓の中で腐ってる。俺もあと数年で同じ道をたどる。アバラの浮き出た腹がそう予言してる。


 誰も俺を救ってくれやしないと嘆きながら、路上で横たりながら野良犬のように死んでいく。そうすれば俺のプライドは守られるのかもしれない。そう、最初にくたばった男のようなプライドが。


「あなたのお名前は?」


 黒衣の女は、これまで出会ってきた他の大人と違って怒鳴ったり、いきなり殴りかかってきたりもしなかった。実の母親にすら向けられたことのない安心で俺を包み込もうと、ただ静かに微笑むだけだった。


 だから・・・・・・俺は答えた。自分の名前を。


「・・・・・・ノル」


「そう、それが貴方の名前なのね。・・・・・・さあノル、次はあなたの番よ――奴らを殺して一緒に家族になりましょう」


 


 




 


 

 


 


 


 


 













【“テッサ”――MSCトラソルテオトル、極秘研究所】


 標準作戦手順SOPと呼ばれるものがあります。


 およそ軍人ほど、その場の気分で決断を下してはいけない職業もありません。基本的には法律に寄り添う形で、ですがその内実は、実戦の中で磨きあげられてきたノウハウの積み重ねでもって判断を下す指針――それを標準作戦手順SOPと呼ぶのです。


 ですからヤンさんは、見るからに脅威にならなさそうな片目片足の少女といえど、まず拳銃を向けたのです。


 子どもでも人は殺せるのだと感情を切り離して判断すること。その手助けを標準作戦手順SOPはしてくれるのです。


動くなノウ・セ・ムエバス


 ささやき声のような警告、ですが十分な迫力もある。


 プロの兵士に凄まれて、ましてや銃口を向けられている。だというのにこの少女ときたら、どこかのんびりとした空気すら漂わせているのが不思議です。


「別にスペイン語でも構いませんが、ご欄のようにこのハスミン、生まれは東南アジアの方でして。英語で話しても構いませんよ」


 この子、ハスミンちゃんというみたいなんですが・・・・・・なんでしょう? そこはかとなく漂うこの大物具合。


 ヤンさんが横目でどうしましょうと、わたしに問いかけてきました。


 隻眼、片足欠損、両手は松葉杖でふさがっていて、薄手のワンピースには武器はもちろん通信機などが隠せるスペースがあろうはずもなく、そのうえ、松葉杖にはランタンですとか、何やらデリバリー品とおぼしきピザマーク付きのビニール袋が提げられている。


 仮に襲われたとしても、わたしですら勝てそう。これって相当なことですよ?


 とりあえず脅威にはなりえないでしょう、この子からは敵意も感じられない。他にも目を向けるべき要素がもうひとつ――この秘密研究所の中で初めて出会った、生きた人間ということです。


「えっと、ハスミンちゃん、でいいのかしら?」


 彼女の要望どおりに英語で話しかけてみました。すると知性で鋭く光る、切れ長の目をした少女が答えてきます。


「はい、ハスミンです。そちらは兄さんが言っていた人質さんでしょうか」


「お兄、さん?」


「性癖に不安が残るものの自慢の兄ですとも。ところでご夕飯をお届けに参りました」


 そう言って、ピザの袋を揺らすハスミンちゃん。


 ・・・・・・この子が、ノルさんが受け入れ態勢を整えるために連絡していたとかいう相手、なのかしら? 消去法で考えるならそれしかないですが。


 このピザの箱からして、夕飯はあとで届けるというメモの内容とも符合してます。そういえば、別に自分で届けるとは一言も書いてありませんでしたね。


「どうします大佐殿、念の為に拘束を?」


「そんなにハスミンに逃げられるのが恐ろしいですか?」


「大声を上げるのも勘弁してくれ。悪いけど、もし叫ぼうしたら猿ぐつわをかますしかない」


「まさか松葉杖の小娘に負けるほど足が遅いとは・・・・・・ご同情申しあげます」


「えっ。いや、別にそういう訳じゃないけど」


「ところでハスミンを殺しておかないんですか?」


「まさかそんなこと!!・・・・・・いや、君がたとえば大佐殿や僕に危害を加えよとするなら、その時は僕も躊躇しないよ」


「そうでしょう、そうでしょう。ハスミンの凶悪さときたら、国際指名手配されるほど悪逆非道ですから」


「下手な冗談だ」


「・・・・・・」


「なんだい?」


「・・・・・・」


「どうして黙るんだ」


「・・・・・・」


「おい、まさか」


「冗談です」


「大人をからかうのも大概にしなさい!!」


「こうもあっさり子どもにからかわれるとは、あまりに貫禄が無さすぎる大人にも問題があるのでは?」


 溶け落ちた人間バレルの山、秘密研究所、殺人娼館、そしてノルさんとケティさんにつづく第3の“兄さん”なる人物の出現・・・・・・すべての答えをこの片目片足の少女がもたらしてくれるとは思いませんが、せめて道順ぐらいは教えてもらえるでしょう。


 ただし不安材料があるとするなら、一筋縄ではいかなさそうなこの子の性格でしょうか。ヤンさん、あっさり手のひらで踊らされてましたし。


 ですが・・・・・・わたしはヤンさんに目配せしました。この子を一時拘束して、事情を聞き出しましょうと。


「今の意味深な目配せ、これはハスミンを拘束する流れですね。ポケットにマスク代わりのバンダナが突っ込んでありますから、どうぞそれで思うさまハスミンの口を塞ぐがよろしいでしょう」


「・・・・・・」


 物分りが良すぎですこの子。


 形の上では、鉄砲を突きつけられて無理やり従わせてるのこちら側な筈なのに、なんでしょうかこう、この子に手綱を握られている気分です。


 大人びてるというよりは、そうですね。人を食ったようなという表現が的確そう。それがわたしのハスミンちゃんへの第一印象でした。


 とはいえ標準作戦手順SOPは絶対。とりあえずヤンさんは規定通り、少女の身体検査ボディチェックをしていきましたが、やはり脅威は発見できません。見つかったものといえば、1人前のペパロニ&ソーセージのピザぐらいのもの。 


「申し訳ありません。人質は1人と聞いていたもので、手配したピザも一人前だけでした」


 罪悪感からかしら、顔を伏せる少女に堪らずわたしは言ってしまった。


「そんなこと気にしなくていいんですよ」


「あと1枚でポイントカードが貯まったのですが」


「・・・・・・」


 人間だったものがたくさん収まってるバレルに囲まれておきながら、この少女が考えることといえばポイントカードのことみたい。


「お察しします。シュールな状況ですよねこれ」


 人の心を見透かしたかのような一言でした。初めて遭遇するタイプに、戸惑いを隠せません。どうしてこうも平然としていられるのかしら・・・・・・。


 とりあえず、このおぞましい虐殺現場から離れることにしました。


 尋問のために良い場所がないか考えてみたのですが、あまり気が進まないものの先ほどの観察室が適当そうでした。


 ブースの方ではなく、ベッドが並んでいた方の部屋です。壁一面を覆っているあのクッションならば防音材としてもうってつけ、密談には都合が良いのです。調度品の少ないお部屋ですが、テーブルとイスぐらいならありましたし。


 ヤンさんには、扉の近くで警戒しててもらうことにしました。これまでの会話から尋問役としてちょっとどうかと思いましたし、単純に戦闘力この中で一番高いですから。


 ベレッタをいつでも使える体勢ロー・レディで構えたまま外を睨んでいるヤンさんの横で、ひと足お先に席についてる片目片足の少女の対岸に、わたしもまた腰掛けていく。


 これで一応、ちょっとは尋問の雰囲気が整ったのかしら? 尋問というより、不良よりもずっとたちの悪い生徒に振り回されてる、新人教師の面談風景になるかもしれませんけど。


 とにかく、尋問をスタートさせていきました。


 聞きたいことは色々と。上部構造物へ向かうための道順ですとか、ノルさんの居場所などをやっぱり最優先すべきかしら・・・・・・ですが本音では、この施設について聞きたくて仕方がありませんでした。


 最初の一手をどうすべきか、あれこれ悩んでいるうちにハスミンちゃんに先制されてしまう。


「あなたが噂のさんですね」


「・・・・・・テレサです。テレサ=テスタロッサ」


「おや失敬」


 まったくもって人のペースを乱すのが得意な子ですね・・・・・・。


「テッサ、で構いませんよハスミンちゃん」


「分かりましたさん」


「あのですねハスミンちゃん・・・・・・人の名前をわざと間違えるのは、とっても失礼な行為にあたるんですよ」


「そうなのですかテレサさん」


「そうです。ですからわたしの名前はテレタだと何度いえば――えっ、あれ?」


 この子はもう、ほんとどうしましょう・・・・・・下手な質問をしてもあっさり躱されてしまいそう。


 はてさて、どういったアプローチを取るべきか。尋問とはいえ、相手が被害者と加害者とでは、接し方がまるで変わってきますから。


 ハスミンちゃんは誘拐犯であるノルさんの仲間としか考えられない。だってお使いを頼まれ、船内を自由に歩き回ってる訳ですから。これでわたしと同じように囚われの身なのだとしたらあまりにふてぶてしすぎというもの。


 彼女は一応は加害者側――ですがそう断じるには、不自然な傷痕が邪魔をしてくるのです。どうして彼女は、目とそして片足を失わなければならなかったのか・・・・・・。


 いえ、考えすぎるのわたしの悪い癖だわ。


 そもそもわたしは尋問の専門家というわけでもありません。せいぜい参考としていくつか本を読み、実際の尋問風景をちょこっと見学した程度。


 この子のしたたかさを思えば、普通の子にするみたいに、ただ優しく語りかけていくのも違う気がする。


 この子は、これまで大きな苦難に巻き込まれてきたに違いない。なら・・・・・・参考になりそうなのは、11歳の頃の自分の気持ちでしょうか。


 あの頃のわたしは、表面上はとっても可哀想な女の子でした。


 強盗たち、実態はどこかの諜報機関の男たちによって父と母を殺されてしまった女の子。大人の誰もが同情して、大丈夫かと意味もなく声をかけてくる――それが嫌で嫌で仕方なかったことを思い出す。


 悲惨な目に遭いました、それは疑いの余地がない。


 ですが、わたしの個性はただの被害者というだけなんでしょうか? バカにしないでもらいたい。可哀想だとしても、そんなものでわたしの全てを推し量られてたまるもんですか・・・・・・そうやって肩肘張っていたものです。


 ハスミンちゃんもそう、あの頃のわたしとどこか似た雰囲気を感じるのです。


 勝手に自分の尺度をこの子に当てはめてるだけかもしれませんけど・・・・・・ですが、相手を被害者あつかいするのは逆効果に思える。自分と対等の相手として話してこそ、信頼は芽生えるのではないか? わたしはそう考えたのです。


「ノルさんから連絡を受けて、わたしの受け入れ態勢を整えていたというのはあなたですね」


 少女が眉を上げる。


 ふにゃふにゃした小娘の癖にやるではないか。ダナンの再設計を手掛けていた時、

さんざん目にしてきた大人の仕草によく似てます。


 感嘆と警戒が入り交じる、そんな表情。


「そうです、よくご存知ですね。

 もっとちゃんと掃除したかったのですが、そもそも忌み地として長らく放置されてた場所でしたので、ビニールのベッドシーツでなんかで誤魔化してしまい申し訳ありませんでした」


「いいえ・・・・・・お陰で濡れずに助かりました」


「ハスミンも、ちょっとあなたについて存じております。

 銀髪、三つ編み、あざとい仕草、幼年期を脱しきれていない証のでかリボン。兄さんに窺った通りの容姿すぎて、さすがは電話越しの描写力すら兄さんは卓越しているなと、ハスミンはおもわず感嘆のため息をついたものなんですよさん」


「・・・・・・もう。そのふてぶてしい態度、どこで学んだんですか?」


「主に産まれ落ちたスラム街で、でしょうか。面食らった大人ほど扱いやすいものはないので、これも一種の処世術というやつですね」


「そうですか。わたしも似た感じでしたから、ちょっと分かります」


「・・・・・・まさか」


「嘘じゃありませんよ。無駄に知識をひけらかして大人を煙に巻く。それで自分が強くなったような気分に浸る。そんな大人気ない青春時代もわたしにはあったんです」


「共通点を見せつけて、ハスミンを味方に引き込む算段ですか?」


「違います。一方的な自分語りですよ」


 この子は賢い。知識がたくさんあるという意味の賢さではなく、思慮深く、慎重に人を見極めようとしているという意味での賢さです。


 少なくとも同じ年頃のわたしより、ずっと強い心持ち主なのは確かでしょう。なんやかんやとわたしはたくさんの人たちに保護され、支えられていたのですから。


 わたしは恵まれていました。


 両親が亡くなった直後にはもうジェリーおじさまに保護され、何不自由なく過ごしてきた。あの戦いのあとで聞いたことですが、実は父の旧友であったというマデューカスさんもまた、両親が亡くなったあの事件の直後、すぐわたしの身を案じ、遠くイギリスからわざわざポーツマスまで足を運んでくれたのだから。


 そうです、わたしは多くの素晴らしい人々にこれまでずっと助けられてきた。だからこそ、16そこそこで潜水艦を駆って戦いに赴くなんて大それたことを、恐れることもなく決断できのです。


 本当の意味でわたしが大人になったのは、実戦の洗礼を受けたあとのことでした。そう、大切な部下が死んだあとのこと。


 命のやり取りほど、人に成熟を強いるものもないのです。


 だとするなら、この子が一足とびに“大人”にならなければいけなかった環境とは、どういうものだったのでしょうか? どうしても想像してしまうのです。


「ただ見た目はともかく・・・・・・中身はちょっと、ハスミンが聞いてたのとは違うタイプですね」


 空気が変わる。


 背筋をピンとして、何でもないように振る舞っていたのは、やはり警戒心の裏返しだったのでしょうか。


 こんな短い会話で心を許してくれたりはしないでしょうが、それでもちょっと弛緩した空気が流れ出す。ハスミンちゃんはわたしに何か見出したみたいでした。


「“アイツ絶対、澄まし顔でモーニングティーとか飲んでるタイプだぜ”というケティねえの証言は、一体なんだったのか・・・・・・」


「もしかしてケティさんがわたしを嫌ってるのって、イングランド人ぽいからとか言いませんよね?」


 モーニングティーうんぬんはともかく、おしるこドリンクと並んでわたしの好物であるハーブティーは、実は純粋イングランド人とも呼ぶべきマデューカスさん直伝だったりします。


 ひどく差別的な物言いですけど、ケティさんはIRA絡みかもしれないというわたしの推測が正しいのだとしたら、アイルランドとイングランドは宿敵同士みたいなものでしょうし・・・・・・ちょっとは気持ち、分かるのかしら?


「この船で起きたちょっとした政変ののち、幾つか新ルールが発布されたのです。

 紅茶を飲んだら殺す、ブリテン死すべしというのも、実はそのルールのひとつでして」


「その独裁ルールを導入した子、わたしすっごく心当たりがあるんですけど」


 いえそもそも、ダイレクトにケティねえとか言ってますし。


「たまにみんなで歌を歌うこともありますが、曲目は基本すべて“ロンドン橋落ちた”ですし」


「・・・・・・よく不満でませんね」


「英国王室について独創的な悪口を並べ立てると、ケティねえのポケットマネーからちょっとした甘味が支給されたりするのです。人は誰しも賄賂に弱いということですか。

 さらには毎月15日をガイ・フォークス・ナイトとして新たに制定。その日だけはみな日々の雑務をぱーっと忘れて、C4爆弾や手榴弾で憂さ晴らしをする祝日となっております」


 わたしの知るガイ・フォークス・ナイトって、軍用爆薬が使われるお祭りじゃないはずなのに。野蛮過ぎる。


「ケティさんって、いったい何者なんです?」


「兄さんの相棒ですけど?」


「元IRAとか、そういう話を聞いたりとかは?」


「驚きました。どうやって知ったのですか」


「いえもうなんか、予想通りすぎて逆にビックリですよ・・・・・・」


「父親、母親、あとおじいさんとそのおじいさんとそのまたおじいさんの従兄弟とハトコとその3人の浮気相手たちも、みーんなかつてIRAのメンバーであり、一緒に爆弾を作っていたんだそうです。 

 IRAってそもそも何なのか、ハスミンよく知りませんけど」


 どうしたものかしら。下手したら数百年単位の伝統芸能ということなら、あの仕掛け爆弾の精密さも納得できる? 一族伝来の爆弾制作術をあの子は体得しているとかでしょうか?


 ほぼ100%アイルランド国籍であろう少女が、遠くコロンビアの地に流れ着いたのかという謎も残ってますけど・・・・・・これって本題じゃないですよね?


 それに出生地問題は、ハスミンちゃんだってそうです。これ以上ないぐらいモンゴロイドな顔立ちですし、英語の訛りも東南アジアのそれ。あの地域はちょっと言語が乱立しすぎてて、訛りだけでは具体的にどこの言葉なのかは分かりませんけど。


「もっとも紅茶飲んだりしたらダメとか、口ばっかりなんですが。

 目と鼻のさきで紅茶をしばいても、嫌そうな顔するだけで何もしてきませんし」


 その時のケティさんの反応を思い浮かべて、ちょっと笑ってしまいました。だってわたしがコーヒーを飲んでる時のマデューカスさんの顔と、ついつい被ってしまったんですもの。


「あまりにうるさいようでしたら、兄さんが素早く逆さ磔の刑にしますし」


 児童虐待の証拠を発見・・・・・・ですが、さっきからつづく会話のせいで微笑ましい気持ちしか浮かんでこない。


 あんなロケット弾を躊躇なく撃ち込んでくるような、とってもサイコパスな気味な少女でしたけど、彼女の性格はそれだけじゃないみたい。


「あと“巨乳は信頼できないんだぜ!!”とも言ってました」


「セクハラでこっちが動じると思ったら大違いですよ?」


 ダイレクトにセクハラ親父である、さる老将たちのみならず、お酒を飲んだ途端に人の胸を揉み始めるような猫っぽい女性とこちとら同居しているのですから。


 断片的な情報をつなぎ合わせていく。まだピースの欠けているパズルのままですが、それでもこの船が今どういうことになっているのか、全体像は薄っすらと見え始めている。


 そしてノルさんの目指しているものもまた。


「・・・・・・少し、真面目な話をしましょうかハスミンちゃん」


「後悔しますよ」


 確固たる意思の持ち主。ずっとあれこれ迷ってるわたしなんかより、ずっと強靭かもしれない少女がぴしゃりと言い切る。


 ですがわたしも引き下がりません。


「そうかもしれませんね」


「ハスミン知っています。今のテレサさんは、善意で手を差し伸べてくる外国の方と同じです。みんな本心でした、でも最後はかならず自分の家に帰ってしまう。

 生まれは違えど、今となってはハスミンにとってここが家だというのに」


「羨ましいですね・・・・・・わたしにも帰れる場所はあります。

 でもこんなの、ハスミンちゃんからすればワガママのように聞こえるかもしれませんね。

 大切な場所ではある。なのにどうしてか、自分の居場所じゃないと感じられてならないんです」


 これまで色々な場所に住んできましたけど・・・・・・もっとも安心できる場所はどこかと聞かれたら、わたしはどうしてかトゥアハー・デ・ダナンの艦橋と答えてしまうのです。


 戦争なんて二度とごめんです。ですが、平和の中にわたしの居場所があるかといえば、たまらない違和感があって。


「それが、ハスミンとどんな関わりがあるのでしょう」


「あなたたち・・・・・・あなたやノルさん、それにケティさんやのことですよ」


「・・・・・・」


「あなた方が警察に行けない理由は、察しがつきます。でもそれって、もしかしたら適切な相手を選べなかったからじゃないかって、ちょっとそう思ったんです」


 わたしが救ってやるなんて大口叩けやしません。ですが、相談に乗ることならできます。NGOの職員よりもずっと深く、時には法律すれすれな手段もわたしなら提案できるかもしれない。


 自分の見た目に風格がないのが悔やまれる。ずっとそうですけど、これでもわたしはその道のプロなんですから。


「・・・・・・テレサさんの瞳って、灰色なのですね」


 ちょっと長めに考え込んでから、ハスミンちゃんはふっと笑いながら言いました。


 やっぱり気づいていた。彼女は、わたしがテオフィラ=モンドラゴンでないことに。


「スペイン語を覚えるためにラジオをよく聴いていますと、しばしば麻薬王を讃える歌が流れてくるのです。

 麻薬讃歌ナルコ・コリード

 ウケ狙いのためにひどく誇張されてる歌詞だと兄さんは言ってましたけど、それでもすべてがデタラメではないでしょう。たとえば、“――気高きドン・ハイメは、メキシコからやって来た青い瞳の花嫁にかしずいた”ですとか」


「・・・・・・」


「もしかしたら誇張かもしれません。歌手が、そう信じたかっただけかもしれない。

 メキシコ出身のはずなのに訛りの残るスペイン語。無学な娼婦なはずなのに、教養が感じられる言葉遣い。どれもテレサさんが、この南米大陸とは縁もゆかりもないことを指し示している。

 そしてトドメは、そこの男性です。

 もしボスの奥方を助けるために参上した護衛隊エスコルタの方ならば、ハスミンはとうに死んでいたでしょうから。密告者1人を消すために町中で虐殺を働くような組織が、今さら子ども1人口封じするのを躊躇するはずありませんもの」


「・・・・・・わたしの住んでる家に、ロニーていう男の子がいるんです。彼もハスミンちゃんのようにとても賢い子だったわ。

 最初は心配でしたけど、今は学校にも馴染んで、どうやらわたしには秘密の将来の夢もあるみたい」


「テレサさんは、そのロニーなる少年のように、ハスミンたちを助けるつもりなんですか?」


「そんな風に自惚れられたら人生も楽なんでしょうけど、わたしはどうしようもなく弱い人間なんです。

 そう・・・・・・こんな施設で1人ぼっちの女の子を見て見ぬふりができるほど、強くはないの」


「お節介かもしれないとは?」


「ちょっと思ってます。ですが、わたしもそうでしたけど、人間ってときに自分のプライドを最優先にしちゃいますから。

 あなたたちがカルテルに殺されるかもしれないと恐れずに街中を歩けるなら、わたしも何も言わないわ」


「・・・・・・」


 強いというのは諸刃の刃です。


 11歳の女の子が肩肘張って、すべてを自分の手で解決してやると息巻いている。そんな過去の自分とこの子を重ねているのかもしれない。人は自分というフィルターを介してしか、世界を観測できないのですから。


 だけどやっぱり、当たらずとも遠からずな気がするのです。頼れるのは自分だけ、そう信じて他者を遠ざける幼いプライド。それに優しく手を差し伸ばしても無駄です。


 彼女の保護者ではなく友人にならなければ、心を開くことはない。わたしがそうであったように。


「無理でしょう」


 ですが頑なまでに、ハスミンちゃんはわたしの申し出を跳ね除けました。


 不信感はないと思います。むしろ親しみがあるからこそ、ハスミンちゃんは頑なにわたしを否定している。


「もうお察しでしょうが、ハスミンは異国から連れてこられたクチです。

 最初はここの文化に戸惑いましたが、すぐ慣れました。だって根っこはハスミンの故郷とまるで同じでしたから――問題を解決する方法が、この地には“死”しかないのです」


「それは、ネガティブな考えすぎるわ」


「そうでしょうか?」


 わたしのほんの僅かな迷いをハスミンちゃんは的確についてくる。


 暴力しかない人生はもう辞める。一度はそう決意したはずなのに、今こうして死の匂いが充満してる船に閉じ込められているの、誰あろうわたしなのですから。


「人の右目をスプーンで抉り出して、そのことに性的快感を得る者たち。彼らと対話ができるとでも?」


「・・・・・・」


「あるいは、口から泡を拭いてのたうち回る者を助けるどころか、ただカメラを向けて見つめるだけの科学者たちと? 試験だと称して、どこからか連れてこられた男性を撃ち殺すよう迫るあのロシア人たちと? 

 まさか――暴力は、暴力でしか解決しえない」


「どうしてそんな考え方を・・・・・・」


「他ならぬハスミンがそうだったからですよ、テレサさん。

 もし兄さんがこの船の人間を皆殺しにしなければ、ハスミンはとうに死んでいました。

 もちろんそれですべて解決したりはしません。結末を引き伸ばしただけ。

 その時間を利用して兄さんは、ハスミンたちを逃がすことばかり考えてます・・・・・・どうにかしてその連鎖から、ハスミンたちを抜け出させるために。困ったものです」


「連鎖?」


「“殺すものは、いずれ殺される”。兄さんは・・・・・・その法則が自分にも適用されると誰よりも信じているのです。だって、あの女の教えだから」

 

 だからテレサさんと、ハスミンちゃんは少し身を乗り出して言いました。


「ご好意には感謝します。ですが、その代償を支払う覚悟がおありなのですか?

 ハスミンたちはカルテルの秘中の秘を目撃した生き証人なのです。世界の最果てまで追いかけてくるでしょう。

 裏切り者を二度と出さないにはどうすればいいか、奴らはその方法をひとつしか知りません。徹底的に、相手の大切にしているものを根こそぎ奪い去ること。

 できるのですか貴女に? 親しい人々が皆、首を切り取られてしまうお覚悟が」

 

 ほんとうの意味でのカルテルのやり方を、まだわたしは目にしていない。


 彼女が抱いている懸念がどこまで現実的な脅威なのか、わたしには判断がつかないのです。ザスカーのような男が、本当にニューヨークのメリッサのアパートまで乗りつけてくるかどうか・・・・・・想像だけでも気持ち悪くなってきますけど。


「DEAが保護しよう」


 ヤンさんが横合いから助け舟を出してくれました。


「証人保護プログラムに入ればいい。君たちがここで見聞きしたことを僕らに話せば、年齢なんて問題にならない。アメリカで新しい人生が始められるよ」


 それは魅力的な提案であるはずでした。そもそも証人保護プログラムというのは、犯罪組織からの報復を阻止するために考案されたものなのですから。


 なのにこの人を食ったような少女は、急に身を固くしていた。拳銃にも怯えなかった子が、DEAの名に警戒心を露わにしているのです。


「貴方はDEAラ・ディアの方で?」


「ああ、僕はDEA特別捜査官のヤン=ジュンギュ。だから信頼してくれていいよ」


「ならば・・・・・・アンダーソンさんは貴方の上司に当たるのですね」


 アンダーソン。その名前を聞いて、ヤンさんの動きが固まりました。まるでありえないことを目にしたように


「あっ、ああ・・・・・・アンダーソン支局長は僕のボスに当たるけど・・・・・・なぜ君が知ってるんだ」


 こんな少女とは無縁なはずの名前。ましてや、こうまで警戒心を溢れさせながら呼ぶ名前ではないはずでした。だってDEAの捜査官なのですから。カルテルとは対局の存在であるはずなのに。


 すでに彼女はもう決断していました。わたしたちを部外者のままにして、決して自分たちの問題には関わらせまいと。


「このまま一番下まで降りてください。それから反対側の扉までひたすら船倉を横断して、あとは上を目指すだけで外に出られます。こっちのルートにはトラップの心配もございません。

 折りよく準備があるとかで兄さんもケティねえも船に居ませんから、今なら簡単に逃げられはず」


「ハスミンちゃん・・・・・・」


「もう決めたのですテレサさん」


 この子はあまりに強すぎる。


 もしかしたらヤンさんの証人保護プログラムうんぬんも、この子にとっては、背をただ押しただけにすぎないのかもしれない。


「監禁場所から逃げ出したということは、テレサさんにはやはり帰るべき場所があるのでしょう、ハスミンたちとは違って。

 今はここがホーム。ですがその前は、誰もそんなものありませんでした。

 あの人買いどもの募集に応じたのだって、路上で飢えて死んだり、親に殴り殺されるよりはマシだと思ったからなんですよテレサさん」


「それはつまり・・・・・・」


 ハスミンちゃんが年に似合わない、ひどく自嘲した笑いを浮かべました。


「みんな酷いことになるだろうと感じてました。だからこうなったのも、自業自得という面もあります。

 テレサさん、わたしたちをただの被害者扱いしないでください。誰もが誰かにとっての、加害者なんですから」


 それが最後通牒でした。決意しきった小さな背中を引き止めたところで、無駄だったでしょう。

 

 結局、彼女は去ってしまった。


 一瞬、彼女を拉致してでもという不埒な考えが浮かびましたが、当人の意思に反して助けてあげるなんて傲慢、お互いに不幸にしかならないでしょう。


 もしかしたら、したたかな彼女に煙に巻かれてしまっただけかもしれません。


 去る前に彼女は、自分はそこらで時間を潰してから戻ると言ってましたが、そんなの実は真っ赤なウソで、真の目的はノルさんか、はたまた彼女が大好きだというお兄さんに通報するつもりなのかもしれない。


 可能性は無限に広がっている。中途半端に頭がいいせいで、わたしもまた色々と考え込んでしまうのです。ですから最後のひと押しするのは、いつだって直感なのです。


 わたしはハスミンが信用できると踏みました。そして、説得の余地がもうないということも・・・・・・。


「最後に聞かせてください」


 別れの言葉の代わりに、何もできない自分を認めたくないだけの、悪あがきをわたしは働きました。


「ハスミンちゃんは今、幸せですか?」


 突拍子もない質問に、ハスミンちゃんはちょっと面食らっていたみたい。


 ですが、悲惨極まりない境遇にありながら、そんな雰囲気を微塵と感じさせない飄々とした彼女はその時、はじめて年相応に恥ずかしげに微笑んだのです。


「奇妙、かもしれませんけど・・・・・・そうですね。そうかもしれません。

 血は繋がってませんけどハスミン、兄さんがこの世のなによりも大好きなものですから」


 それで十分・・・・・・わたしはそう判断したのです。


 カタッ、カタッ、カタッと、先っちょに取り付けられたテニスボールで消音されていても、精神的なショックさえなければ松葉杖の音はよく通って聞こえてくる。ですがそれも徐々に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなりました。


「大佐殿、彼女は・・・・・・」


「ええ」


 謎はまだ多いですが、こればっかりは消去法で真相に辿りつくことができました。


「あの子が、この船の商品なんだわ」




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