XV “船倉の家なき子”

【“テッサ”――MSCトラソルテオトル、隠し区画内】


 DEAから支給された、スイッチ1つであらゆる電灯が消せる尾行専門の乗用車。そんな車のシートに身体を沈み込ませながらヤンさんは、暗視機能付きの単眼鏡で船の偵察をしていたそうです。


 バンを降り、わたしを抱えたノルさんは船の半ば、幾重にもコンテナが重なる人工の山脈のまえではたと足を止めたかと思えば、コンテナの横腹にあった隠しドアをおもむろに開け放ち、そのまま中へ消えていった。


 ついさっき聞いたばかりのこの証言のお陰で、わたしたちのおおよその現在地が判明しました。ここは船首付近のコンテナの中、ただしその中ときたらもはや迷宮で、施設の全容はようとして知れない。


 一旦落ち着いたわたしたちは、あえてシンプルに考えてみました。左舷のドアが駄目なら、反対側の右舷はどうか? 


 仮にドアがあったとしても、高確率で同じように爆弾が仕掛けてあったでしょうが、あいにく確認することはできませんでした。だって右舷にたどり着く前に、わたしたちは新たな隠し扉を見つけてしまったのですから。


 装飾的だった他のドアから一転、堂々とスタッフオンリーと書かれた無骨な扉が、壁のなかに埋め込まれていたのです。


 こっちのドアには爆弾は仕掛けられておらず、おそらく客が不用意に開けぬよう、鍵だけが設置されている。


「開きました」


 もっとも一般的なシリンダー錠なんて、ヤンさんとキーピッキングツールの手にかかればこんなもの。


 あっさり開いた死の娼館の裏舞台は、残念ながら位置関係的に外へつづいてるとは思えない。だって扉の先にあったのは、下向きの急角度がつけられた階段だったのですから。


 深い、とても深い下り階段でした。この秘密区画は、どうやら何階層もあるみたい。


 虎穴に入らずんば虎子を得ず・・・・・・とは言うものの、地下というのはついつい本能的な恐怖がせり上がってきてしまう空間です。ましてやこの先には、ノルさんが居られるはずなのですから。


 かといって他に抜け道もなく、わたしたちは先に進むしか選択肢がありませんでした。


 階段を降りた先は、スプリンクラーに散水されたらしくびしょぬれ。おまけに停電中と、すべてが上階の娼館と同じ条件だったのですが、異なる点もありました。


 屋外作業用の電源ケーブルが壁にそって這わされ、点々と作業灯が吊るされていたのです。後から付け加えられた道しるべ、これを辿ってノルさんは、日常的にこの区画を行き来していたのでしょう。お陰でわたしたちも道に迷わずに済む。


 地下の秘密空間。


 色々と想像力をかき立てられるワードですが、実際に見てみると屋内型の貸倉庫と見分けが付きませんでした。実際、機能的にも倉庫としての役割が主みたい。


 警戒しながら移動しつつも、開きっぱなしの扉の中をわたしはそれとなく覗いていきました。どこもかしこも、味も素っ気もないダンボール箱が山積みになっています。


 濡れて崩れたダンボールの端からは、よく分からないウニョウニョしたゴム製品がこぼれ落ちかけていた。手にとって調べてみようとするわたしを慌てて止めたヤンさんのとっても気まずげな顔から、すぐわたしはどうもHなものらしいと気づき、即座に赤面してしまう。


 そうですよね、娼館のすぐ下にある倉庫区画なんですもの。収容物はどれもくだらない品ばかりのよう。


 ノルさんがすぐ側に隠れているかもしれない。当初こそ、そういった懸念から警戒度マックスで歩きまわっていたのですが、ここはどうしようもなく何もない倉庫区画なのでした。


 湿気がこもり、腐った匂いもする、横にも下にも広大な地下世界。これではむしろ、ノルさんに遭遇できるかどうか危ぶむ気持ちすら出てきます。だってさらに下へつづく階段をわたしたちは見つけてしまったのですから。


 ヤンさんが管理棟から仕入れてきた情報によれば、この船の全長は318m。全幅は42mあり、型深さに至っては21mにも達するとのこと。


 高さだけでもマンション6、7階分。船の大きさで比較するなら、タイタニック号よりも大きいレベルのまさに巨船なのです。


 6,000TEU超えの積載量。つまりどんぶり勘定で6,000個ものコンテナが積載できる計算になるのですが、当初わたしは、そのすべてがコンテナハウスに改装されているはずはないと高をくくってました。


 でも今は・・・・・・ちょっと自信がなくなってくる。だって階段だけでなく、エレベーターまで併設されてましたから。


「・・・・・・」


「・・・・・・」


 これまで目にしてきた普通のものとは異なるタイプ。そこにあったのは、工事現場に設えられるような簡易的なエレベーターでした。


 ただしサイズは十分な感じでして、横倒しにした冷蔵庫をいっぺんに4個は運べそうな本格派でした。


 実のところ輸送船の中に秘密基地というのは、珍しくあってもありえなくはないのです。誰あろうわたし自身、偽装補給船として改造したコンテナ船を使ってましたから。


 ですが、こうまで密度たっぷりなのは聞いたことがありません。だってエレベーターが必要なほどに広いということでしょう?


 どう判断すべきか、エレベーターの前で呆然となりながら顔を見合わせる元プロの傭兵マーセナリーであったわたしたち。


「ヤンさん・・・・・・聞きそびれてたんですけど、船上に人影って見えました?」


「上部構造物に明かりは灯ってましたが、どの窓もカーテンが閉じられていて人影までは」


 上部構造物とは操船のためのブリッジですとか、船員が生活するための空間がひとまとめにされている建造物――軍艦でいうところの艦橋に相当する部分のことです。


 コンテナ船などの商船の場合、積載量を限界まで増やすため、それ以外の区画をすべて上部構造物に集約するのが普通です。上はブリッジ、最下層は機関室、というレイアウトはトラソルテオトルも例外ではないはず。


 無人でないと見せかけるために明かりを点けておくのは、防犯対策としても一般によく知られた手法です。ノルさんのこと、偽装工作の一環としてやっていても不思議ではありませんが・・・・・・この辺りの惨状を思うと、ノルさんたちは上部構造物に住んでいると考えるのがベターでしょう。


「ヤンさん、あなたならこんなビショビショの暗所に住みたいですか?」


 唐突な質問。それもちょっと突拍子のないものでしたから、ヤンさんはちょっと面食らっていた。


「いえ、何の話です?」


「スプリンクラーがある場所はたぶんどこも水浸しでしょう。つまり、施設全体が。

 もちろん油断は大敵ですけど・・・・・・スプリンクラーのパイプが通っている場所は、まず無人地帯だと断言してもいいはず」


 上部構造物もここと同じくびしょ濡れな可能性はありますが、開放的なぶん後処理は俄然楽でしょう。


 長期間の航海を想定してるのだから当然ですが、船の設計段階から上部構造物には、数十人の船員の衣食住に満たすのに必要な施設がすべてが詰まっている。わたしならこんな所より、そっちに拠点を据えるでしょう。


 道しるべのように灯る作業灯。電源の出どころがずっと疑問でしたが、防水ケーブルを目で追っていけば、エレベーターシャフトの底まで垂れ下げられていました。


「電気系統を復旧するのでなく、わざわざこんな作業灯なんて吊るしたのは、それだけ人手不足ということでしょう」


「まあ、今のところ確認できた誘拐犯は2人きりですからね」


「もしかしたらこの施設全体を放棄したのかもしれません」


 かつてはともかく、今となってはノルさんにからすれば通り道以上の意味がないのでしょう。だからこのように、おざなりに作業灯を吊るすだけで後は放置している。


 そう、ここは見捨てられた区画なのです。


「反乱を起こしたとか言ってましたよね」


 ポロッとわたしがこぼしたノルさんの事情。それを踏まえて、ヤンさんが言いました。


「こうなったのはカリの内部抗争のせいでしょうか?」


「どうかしら、ノルさんはこの船についてまるで言及してませんでしたから。それよりもヤンさん、誘拐犯は2人だけじゃないわ」


「そう、断言する理由を窺っても?」


「ノルさんは何度も出かけてたんです。本命のアジトの受け入れ態勢を整えるため、連絡する必要があるとか言って」


 わたしが濡れないよう、ベッドの上に敷かれていたあのビニール。あれを敷いたのはノルさんたちとは別口の、第三の人物に違いない。


「義憤にかられて、殺されようとしてる娼婦たちを助けたとかないかしら」


「大佐殿、ストックホルム症候群うんぬんはともかく、ちょっと誘拐犯たちに肩入れしすぎです。

 連中はシカリオと名乗ったのでしょう?」


「ええ・・・・・・」


「カルテルの内部抗争なんてありふれたものです。奴らは自分の欲望を満たすためなら血を流すことを厭わない。コロンビアはもちろん、メキシコなんてどこも内ゲバで血みどろですよ」


 一線を敷け。もっともな助言をヤンさんはずっと繰り返してました。


「分かってます。スプリンクラーが作動したのに、どこにも火災の形跡がないとか、他にも不気味な点もありますけど」


 わたしは慎重に、商業用のエレベーターよりずっと隙間の多い柵から頭だけ突き出して、エレベーターシャフトの最深部を睨みました。


 継ぎ足された電源ケーブルが各階層にバイパスされてましたが、どうも本体は一番底にあるものみたい。


「ちょっと濡れただけで区画全体が停電してる。ということは、ここは防水仕様の電気系統は敷設されてないんでしょう。

 なのに、この作業灯が通電しているということは」


 SRTをはじめ、特殊部隊SFの隊員というの本質的にインテリなのです。ヤンさんとは古馴染みということもありますが、こちらの言いたいことをすぐ察してくれてとても話しやすい。


 上部構造物に明かりが灯っていた、そう話していたのは誰あろうヤンさんですから。


「ケーブルを辿っていけば、いずれは船本来の電源設備までたどり着く。ですがその推測が正しいとしたら大佐殿、この施設はどこかで上部構造物と繋がってることになりますよ?」


「ありえないと思いますか?」


「・・・・・・」


 コンテナ船全体を横断する隠し通路。


 潜水艦乗りサブマリナーとしては、やはりせせこましい通路を思い描いてしまいますが、もっと想像を絶する形式の通路が現れても驚かないでしょう。


「隠し通路から数百メートルかけて船を縦に横断し、上部構造物から外へと抜ける。

 他に選択肢がないから仕方ないですが、このルートだと誘拐犯たちと遭遇する確率が跳ね上がってしまいますね」


 ノルさんが食事の準備をしているのが、船本来の調理施設だとしたらこうも時間がかかっている理由も分かるというもの。


 ですがタイミング的に、お盆を抱えたノルさんとわたしたちが通路でばったりという可能性も十分にありうる。


「それはわたしも気がかりですけど、この施設の規模を見るに隠れてやり過ごすというのも、十分に現実的な選択肢だと思うんです」


 ノルさんたち誘拐犯グループは最低3名。


 人経費を削るため、これほどの規模の巨船であったとしても船の乗組員は多くて20人ほどしかいません。それに合わせて上部構造物の部屋もまた限られている。


 相部屋にすればもっと詰め込めるでしょうけど、そこまで人員に余裕があるようにはノルさんたちは見えなかった。だって慎重な彼女にしてはありえないことに、わたしの監禁場所に見張りの1人も立てていなかったのですから。


 たぶん多くても10人かそこら、もっと少ないかもしれません。


 捜索範囲が広がるほど発見率というのは下がるものです。エレベーターだけは電源が接続されているらしく、目の前でチカチカしてる豆電球がこのエレベーターは地下6階まで降りていけると示してました。


 この秘密区画内だけでも隠れるところに苦労しなさそう。上部構造物にしても、居住空間はともかく、入り組んだエンジンルームでなら無限にかくれんぼすることが出来るでしょう。


 むしろ隠れることより、道に迷う心配のほうが必要かもしれない。ここは想像よりずっと広そう。


「ノルさんはいずれわたしが監禁されてた部屋に食事を届けにやってきます。彼女と入れ違いに通路をつき進み、一気に上部構造物へと抜ければ――」


「数は少ないが、連中の戦闘力は大したものです」


 ヤンさんは、この船に至るまでノルさんたちが残してきた破壊の爪痕をさんざん目にしてきたのです。


 この意見は正しい。統合力ではSRT隊員に敵わないでしょうが、あの2人の戦闘力は場合によってはSRTのそれを凌駕しかねません。何よりも2人揃って、殺人に躊躇がない。


「正直なところ、遭遇したら手加減できる自信はありません」


 冷たい、兵士の口調でヤンさんが告げました。


「ですが良いニュースもあります。だって上部構造物には恰好の脱出装置があるんですもの」


「は?」


「救命艇ですよ」


 外洋を航行する船舶の場合、ハリケーンにも対応できる全周囲型救命艇を設置するよう法的に義務付けられている。


 大嵐の中、船がこれから転覆するかもというシチュエーションにおいてすら簡単に操作できるよう、救命艇の脱出手順は極限まで簡略化されています。具体的には乗り込んでレバーを引くだけ。それだけで滑走台のような仕掛けダビットから救命艇は水面へと真っ逆さまに落ちていき、あとはエンジンを吹かしてどこへなりとも自走していけるのです。


 ノルさんは色々と常人離れしてますが、流石に水の上を走って追ってきたりはできないでしょう。


「なるほど・・・・・・“ノル”とかいう身代金狙いの誘拐犯に、それとは別口だとかいう目的不明なカリ・カルテル。

 前者はともかく、後者は市内に網を張ってるでしょうから、水上を行くというのは良いアイデアですね。尾行を気にしなくて済む」


「ヤンさんには感謝してますけど、車で脱出するというプランはリスキーだと思うんです。

 あれほど尾行対策に余念がなかったノルさんの潜伏先すら、どうやってかカリ・カルテルは的確に突き止めてみせた。

 最悪、市街地に入った途端にカーチェイスなんてことにもなりかねません」


「救命艇で海岸伝いを進み、適当なところで上陸。あとは大使館に直行するだけ・・・・・・悪くない手ですね」


 カルテルが国家内の国家と化している土地において、頼りなるのは自分たちだけ。なんでしたら救命艇で国境を越えるという選択肢も生まれますし。


「リスクに見合う、大きなリターンがある良い作戦だと考えます。

 まあ、埠頭に停めっぱなしの自分の車はどうしたものかと、ちょっと悩んでしまいますが・・・・・・」


 変なところで気にしいですね。


 わたしもミスリルを離れてから金銭感覚が劇的に変わった口ですので、借金地獄もあってか、ヤンさんもまた退役後に貧乏性になってしまったのかも。


 トゥアハー・デ・ダナンが搭載していた巡航ミサイル“トマホーク”。あれのお値段ばざっと187万ドル2億円ほどありまして、かつてのわたしはそれをポンポン発射させていたものです。


 当時も予算面からミサイルのお値段はちょっと気になってましたが、それより部下の命ほうが大切と、使うのを躊躇したことなんて一度もありません。それは今も同じ、わたしだけでなくヤンさんの命だって懸かっている一大事なのです。


 ですからちょっと、呆れたように話しかけてしまった。それって命より大切なことですかと。


「そんなの後で適当に回収すればいいじゃないですか、船の強制捜査の最中とかにちょこちょこーと」


「ですけど、ここを見つけた経緯が経緯ですから、正式な手続きを踏まえて捜査に踏み切れるのは当面先のことになるでしょうし、DEAが関与できるかどうかも不透明で・・・・・・」


「ヤンさん、誘拐グループの総数は分かりませんが、ノルさんたった1人でも危険極まりない戦闘能力の持ち主なんですよ?

 まさかわたしの話を疑ってるんですか?」


「まさか!! そんなことは・・・・・・ありませんけど」


「なら自分たちの安全をまず最優先に考えるべきです。ノルさんと戦うことに比べたら、車なんてどうでもいいでしょう!!」


「でも、あの車はDEAの所有物ですし」


「ハァ・・・・・・分かりました。でしたら大使館に到着したあとにタクシーでも呼んで、港に戻って回収すれば――」


「今タクシー代の持ち合わせとかないんですよね、自分」


 あまりに寂しげな物言いに思わず絶句。いえ、そんなまさか、そこまで困窮してるなんてことは、口をパクパクしていると、


「いつも月の始めに袋詰めラーメンを箱買いしたら、残りの給料はすべて借金返済につぎ込んでしまうので・・・・・・こっちに赴任して以来、電気代もケチってるので最近はずっと携帯ガスバーナーで夜をしのいでます。

 支給された車を紛失したとなれば最低でも減給、下手したら降格処分。それはちょっと困るんですよね・・・・・・」


 困窮してました、それもおぞましいレベルで。


 ど、どうしましょう、元部下の窮状に嫌な感じに心臓が高鳴ってしまう。顔面蒼白なこちらと引き換えに、いっそ場違いなほどあっけらかんとヤンさんは言いました。


「ま、港まで歩いて戻ればいいか。どうせ交通費ケチるためにいつも下宿から支局まで朝晩40km歩いてるんだし。うん、この作戦で行きましょう大佐殿」


 軽い口調で言わるのが逆に痛々しくて、怖くてなりません。


 かつてミスリルに属していた者たちにとって今は戦後。人生のその後を決めるのは個々人の自由であり、自己責任というのがメリッサの言い分。


 とはいえ、物には限度というものがある気もする。


「あの、タクシー代・・・・・・わたしが立て替えましょうか?」


 おそるおそる提案してみる。


 ポシェットはノルさんに没収されたままでしたので、大使館にATMがあるかどうかにすべては懸かってますが、ヤンさんが気にされたのはそういう実務的なことでなく、年下からの施しというただ一点であったみたい。


 ヤンさんはまるで仏様のような慈悲あふれる微笑みで、わたしを見つめ返してきました。


「大佐殿。自分をこれ以上に惨めにすると、膝を抱えて隅の方でうずくまってしまうのでどうか気をつけてくださいね」


「あっ、ハイ。すみません・・・・・・」


 人生を振り返ってみても、これほど気まずい瞬間が他にあっただろうかとつい自問自答してしまった。


 気まずい、ひたすらに気まずいです。


 開けるなキケン。とりあえず安全が確保されるまで、この手の話題は避けて通ることに決める。動揺いっぱいのわたしを尻目に、ヤンさんが手早く方針をまとめていきました。


「戦闘は可能なかぎり避けつつ、上部構造物に密かに移動して救命艇を奪取するまでがフェーズ1。そのまま洋上をたどって在コロンビア米大使館を目指す、これがフェーズ2。それでよろしいですか?」


 一瞬で軍人に戻れるのは、ヤンさんがプロと名乗れる所以でしょう。わたしも艦長と呼ばれていた時代を思い出しながら感情を押し殺し、冷徹な声で答えていきます。


「とにかく戦闘だけは避けてください。これは感傷じゃありませんよ? 相手は軍とは系統こそ異なるものの、荒事と戦闘のプロなんです。決して舐めてかからないで」


「了解」


 短く応じて、ベレッタの薬室をチェックしていくヤンさん。


 そうです、感傷じゃない。でも強く願ってもいました。わたしの大切な部下と、ノルさんが戦うようなシチュエーションが訪れないことを。


「それで・・・・・・」


 ヤンさんの目が泳ぎ、左右を行き来しました。


 当面の方針は立てたものの、肝心の細部ときたらさっぱりな虫食い作戦プラン。とりあえず、まずはどの道を進むべきか決めなくてはいけませんでした。


 左手には、真っ暗な階段が口を開いており、右手には、エレベーターがピカピカ光っている。


「ヤンさん」


 ぴしゃり、はっきりしたわたしの物言いにヤンさんは兵士の本能か、背筋を伸ばされる。


「はい」


「わたしがこの旅で学んだことがあるとすれば、それはエレベーターには絶対に近づくなということです」


 過去の経緯を大胆にはぶいてしまったせいで、なかなかに素っ頓狂な物言いになってしまいました。ヤンさんも困惑気味に問いかけてくる。


「ええと・・・・・・それまたどうして?」


「チャイナドレス姿のシカリオに誘拐された時点で、わたしはこの辺りの風土について理解することを諦めました。

 それでも人は経験から学ぶべきです。その経験から言わせてもらうなら、エレベーターには絶対に近づいてはいけません」


「・・・・・・なんだか、説明になってないような気が」


「なっています」


「なって・・・・・・るんですか?」


「なっていますとも!!」


 もちろん感情論トラウマ以外の理由もちゃんとありました。 


 エレベーターが動いていたら、どの階からでも丸わかりになってしまいます。それはすなわち、ノルさんに発見されるリスクが跳ね上がるということ。


 それにもっとも可能性が高そうな仮説を立ててはみましたが、実際に上部構造物までつづく通路があるかどうかは、足を運んでみなくては分からないのです。


 でしたら慎重に、自分たちのペースで進める階段のほうがずっとマシ・・・・・・なんですが、やっぱり一番の理由はトラウマの拒否反応でした。


 だってこの国、エレベーターの周りでろくでもないことが頻発しすぎなんですもの。



「運動不足の解消にもうってつけですし、かえって好都合というものです。さあ、行きま――きゃあ!!」


 湿った床に足を滑らせ、あわやの所でヤンさんに腕を支えられ難を逃れる。


 前途多難。この運動音痴というわたしの持病は、ホントに空気を読まないので困ってしまう。


「い、行きましょう」


 声を上擦らせながらも、階段に目指してわたしは歩いていきました。





〈*〉



 


 まるでダンジョン探索みたい、そんな思いは刻一刻と強まっていました。


 頭の中のマップにこれまで歩いた距離や、自分が見たものを書き込んでいく作業をずっと続けてましたが、一向にこの施設の底が見えないでいる。


 殺人を売りにした外道たちの娼館。


 糸鋸などの状況証拠からして、その疑いは濃厚だったのですが、階段を降りた先でわたしたちを待ち受けていたのは、糸鋸を越える確固たる証拠の数々でした。


 地下1階が倉庫区画だとするなら、その真下にある地下2階もまたある意味においては倉庫であったようです。ただし鉄格子付きの扉で仕切られたここに貯蔵されていたのは断じて物資などではなく・・・・・・生きた人間であったみたい。


 ただし今は、鉄格子の向こう側には人っ子一人見当たりません。


 その事実を歓迎すべきなのかどうか迷いながらわたしたちは、監房としか表現しようのない部屋をときおり覗きこみつつ、区画を抜けていきました。


 ざっと見たところ収容人数は100人前後。監房の床のうえには水を吸っているマットレスが敷かれているだけで、他に家具らしきものはありません。


 この場所こそが、トラソルテオトルが現代の奴隷船であったという証拠でした。


 まだ誰かが囚われていたのならすぐにでも助けて、事情を聞くことができたかもしれません。ですがすでに辺りは廃墟そのもの。ここに囚われていた人々がどこに消えたのか、その痕跡すら見いだせませんでした。


 上とは異なり、この区画をすすむ間中わたしとヤンさんの間に会話は一言もありませんでした。隠れなければならないという事情以上に、慰霊碑を前にしたような厳粛な空気がわたしたちの口を自然と閉ざさせていたのです。


 わたしたちにはできることも、やれることも、もうここには何もありませんでした。


 電源ケーブルの道しるべに従い、ただ次なる階層へと降りていく。次は地下3階――上の収容所とは一転してそこは人の息遣いが感じられる、まるで都市のような空間でした。


「ここに人員を丸ごと住まわせてたのか・・・・・・」


 ヤンさんが感嘆と呆れ、半々の割合いで呟きました。


 そこは居住区でした。


 コンテナがベニヤ板などで覆われることもなく堂々と露出され、1コンテナにつき1人という配分で、個室として整備されていみたい。ところどころ広場のような空間もあり、そこにはテレビとソファーが設置された娯楽室や、コンロが並ぶ調理室といったものまでありました。


 直上にある監獄とは大違い。狭いながらも楽しい我が家、そうしようと努力した形跡がそこかしこに見受けられました。


 このミニチュアの街には、一体何人が暮らしていたのかしら? 監獄よりずっと1人あたり居住スペースが広いですから人数は抑えめでしょうけど、それでも3、40人ほど暮らしていたみたい。


 ここの住人たちこそが、この船の管理者たちだったに違いない。ですが上の監獄と同じく、ここもまた無人でした。


 わたしは言いました。


「機密保持のためと、やはり移動基地みたいな運用を想定していたのかしら?」


 わざわざコンテナの中で生活するなんて不便を受け入れるには、相当な理由があるはずでした。そこにくると商船というのは偽装基地としてはうってつけです。


 当局の捜査を避けつつ、港から港へとビジネスの手を広げていた?


「しかしここも火災の形跡がないし、争った形跡だってまるで見当たりませんね」


 ヤンさんの疑問は、わたしもずっと抱いているものでした。


 闇に慣れてきた目で辺りを見渡すと、生活の痕跡がいやでも目に付きます。きっと食堂のテーブルだったのでしょう。その上には3分の1も燃えていないタバコの吸い殻が水びたしの灰皿の上をたゆたい、ぶよぶよに膨れたスナック菓子がヒドい臭気を放っている。


 まさにマリー・セレスト状態。


 朝方の冗談が時をおいて現実のものになるなんて、なんとも皮肉な感じですけど・・・・・・ノルさんが反乱を起こしたにしては、この場所はおかしく感じられる。


 これで分かりやすく死体でも転がってれば話は早いのですけど、空薬莢や弾痕すら見当たりません。ここで戦闘は起きなかったということ?


 シャワーのようにスプリンクラーから水が降り注げば、誰だってあわてて避難するでしょう。もしかしたらノルさんは火災警報で敵を誘導したのかもしれません。


「ノルさんはザスカー・・・・・・いえ、それよりもガウルンと喩えたほうが、ヤンさんには分かりやすいかしら?

 ああいった戦闘狂たちとは違って戦いになれば容赦はないけれど、殺しを楽しむようなタイプには見えませんでした。

 もしかしたらノルさんは管理者たちを追い出して、船を無血占領したのかもしれませんね」


 だとしたら死体がまるで見当たらない謎にも納得がいく。彼女は、なんやかんやと優しい人ですから。


 ですがヤンさんは、無言のままわたしの希望的観測に異を唱えていた。


「誘拐犯はシカリオだと名乗ったそうですね」


「はい・・・・・・何か、含みがある感じですね」


「いえ、別に。ただ自分は、カルテルの抗争の現場をいろいろと見てきたので・・・・・・シカリオ共のやり口もよく知っているというだけです」


 ヤンさんは逡巡してました。わたしの親しすぎる物言いに、もしかしたら危うさを感じているのかもしれない。名前で呼んでいるわたしと異なり、ヤンさんはあくまで誘拐犯で一貫していた。


「にしても、いくらなんでも大掛かりすぎ施設ですね」


 ヤンさんちょっとわざとらしい感じに言いました。


 わたしとしても今は話題を変えたかったので、その言葉にありがたく乗っかることにする


 いきなり生くさい話をしますが、人件費というのはとっても高く尽くのです。


 数十人以上の職員をフルタイムで囲っておく。ましてや犯罪という後ろ暗い事情がある以上、口止め料として給料もかなり割り増さないといけないでしょう。国家や思想に寄る辺をもたない組織は、忠誠心をお金で買うしかないのですから。


 この区画に住んでいた人材だけでもかなり高くついたでしょう。本当にあの娼館だけで、これほどの人数を養えるほどのリターンを得られていたのかしら? 


 費用対効果。この疑問はまだわたしにつきまとってました。


 移動を続けます。


 コンテナ製の個室の壁にダーツボードを掲げて、投げナイフでぐさり。部屋は人の心をうつす鏡とは言いますが、残された痕跡を見るかぎり、部屋の持ち主のほとんどは分かりやすいカルテルの構成員たち、すなわち荒くれ者ぞろいであった様子。


 ですがこの船に住んでいたのはそれだけでなく、多様なバックグラウンドの持ち主たちが同時に暮らしていたみたい。


 ある部屋では、ベッドのシーツが折り目きっちり45度になってました。これは各国の新兵訓練所ブートキャンプで叩き込まれるベットメイクの習慣ですから、以前の住人は元軍人だったのでしょう。


 また別の部屋では、これでもかと棚いっぱいにレコードを溜め込んでいる癖して、肝心のレコードプレーヤーが見当たらないミステリアスなお部屋もありました。


 他にはわたしが言うのも何ですけど、元素周期表を壁に飾っているオタクぽいお部屋ですとか、壁という壁に落書きしてる情緒不安定気味――ドイツ人の上司がよほどお嫌いみたい――なお部屋ですとか、個性豊かな住人たちの痕跡が見て取れる。


 それに殺人娼館なんて経営してた割に、科学雑誌が豊富に取り揃えられているのも気になりました。ナショナル・ジオグラフィックほど、犯罪組織に似つかわしくない雑誌もないでしょう。


 軍隊上がりとかはまだ理解できますけど、麻薬カルテルって、こんなにバリエーション豊かな人材を雇用してるものなのかしら? どう考えてみても、科学者がたくさん暮らしていたとしか思えない。


 あるいは、もしかしたら、かもしれない。


 疑問は山積され、導きだされる答えはあやふやなものばかり。そんな中、わたしはあるコンテナ製の部屋のなかにバインダーの影を見出したのです。


 スプリンクラーのせいでどの紙もふやふや。本もほとんど原型をとどめていないのが普通なのに、その樹脂製のバインダーは堂々と水を弾いて机のうえに佇んでました。


 調査はわたしたちの本義ではありません。口にこそ出さないものの、ヤンさんも寄り道には反対してるみたい。ですから彼に制止される前に、するりとコンテナ製の部屋の中へと潜り込む。


 バインダーを手に持ったとたん、びしゃと水が流れ落ちる音がしたかと思えば、白い塊が隙間からこぼれ落ちていきました。インクの染みがポツポツ浮かんでることからして、その塊はかつては書類だったみたい。


 ついつい眉をひそめ、わたしのスニーカーに降り積もった紙であったものを足を振って払っていく。


「水溶紙ですね」


 一歩遅れて、コンテナに入ってきたヤンさんが言いました。水溶紙とは読んで字のごとく水に溶ける紙のこと。


「連中の常套手段ですね。証拠隠滅がしやすいので、昔からこういう手を使ってきたそうです」


「まさか書類すべてを・・・・・・?」


「もしかしたらこのスプリンクラー、火災対策以外の意味合いもあったのかもしれません」


 消防法にカルテルが強い関心を抱いていたというよりは、そっちのほうがずっと腑に落ちます。


 書類はもとより、コンピューターを破壊する用途としても水は恰好の手でしょう。データを消すための手法としてベストな選択肢ではありませんが、水浸しになったハードディスクHDDの復旧は難しいものです。


 道中、時間が経ちすぎたせいで錆まで浮いているノートパソコンを幾台も目にしてきましたから、ヤンさんの指摘につい納得してしまう。


 この水害がヤンさんの推測通りだとするなら、カルテルの周到さときたら大したものです。


「徹底していますね・・・・・・」


「奴ら、警察との知恵比べを何十年もやってきたんです。どんどんやり口が巧妙化してますよ」


 第一線のDEA捜査官の証言はためになります。テロリストとの追いかけっこもイタチごっこだったものです。


 書類が丁寧にファイリングされていた形跡はあったものの、バインダーを開いてみても、やはりゲル状になった白い何かしか残っていませんでした・・・・・・いえ。


 最後の方にどうしてか、クリアファイルが無造作に挟まれていた。

 

「うっかりミスかしら?」


 ヒューマンエラーはどの分野にもあるものです。バインダーから書類を抜き出しては、クリアファイルに入れ替えて持ち歩いていた。それがいつしか面倒になる、ついついですとか・・・・・・まあ、ミスの原因なんてどうでもいいでしょう。


 どちらにせよこちらには好都合なのですから。


 クリアファイルだけ抜き出し、近場の机にそっと置いてからヤンさんに明かりをお願いしました。クリアファイルのお陰で水はほとんど防がれていたものの、やはり四隅からちょっとずつ侵食している。そのせいで文章が幾らか融解してました。


 下半分はとくに酷く、生き残った上半分を重点的に読み込んでいく。





〈被検体004〉適合化薬および筋肉増幅剤投与。自我防衛ライン低、経過良好。CLAIR DE LUNEは□□。非合法作戦部門へ移管。


〈被検体03□□□□び筋肉増□□投与。自我防衛ライン低、経過良好。CLAIR DE LUNEは機能中。□□法作戦□□□移管。


〈□□□11〉適合化薬および筋肉増幅剤投与。自我防衛ライン低なれど幻覚症状あり、隔離。CLAIR DE LUNEに微反応あり。LSD投与ののち経過観察中。


〈被検体067〉適合化薬および筋□増幅剤投与。重度の幻覚症状、MKウルトラ58・12・11の資料に類似例あり。LSD投与ののち経過観察。C□□□R DE LUNEに□□□□。回復は見られず、不適合につき廃棄□□。


〈被検体009〉適合化薬および筋肉増幅剤投与。自我防衛ライン高、CLAIR DE LUNEに□応なし。不適合につき廃棄処分。


〈被検体121〉□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□れど商品レベルに至らず、廃棄処分。


〈被検体040〉□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□自我防衛ライン□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□あり。電源コードにて自殺。要・再発防止策。業者引き取りにて処分。





 無言のままヤンさんと顔を見合わせてしまう。予想していた内容とはまるで異なってましたから。


 携帯電話のカメラをかざし、いつ消えてしまうかわからない書類を抜かりなく写真に収めてから、ヤンさんは深く考え込んでしまった。娼館の書類というには、飛び出てくる用語はまるで畑違いのものばかりでしたから。


 その戸惑いをわたしもまた共有していく。


「カルテルは技術開発にも熱心なんです。

 クリスタルメスなどの合成麻薬の市場は拡大傾向にありますし、カルテルが科学者を雇い入れ、この船で新商品の開発をしていたとかなら、色々と説明がつくかもしれません。

 書類にあるLSDというのは、合成幻覚剤として有名なものですし・・・・・・」


 確かに頷ける部分もありましたが、歯切れの悪い物言いからして、やはりヤンさん自身も納得しきれていないみたい。


 書類が英語で書かれているのは、別に良いんです。学問の世界において英語というのは、ほとんど共通語リンガ・フランカみたいなものですから。カルテルが多国籍の研究員を雇い入れていたのならば、スペイン語を強制するより英語で標準化するほうがずっと効率的だったのでしょう。


 ですが疑問は他にもある。


「新薬開発という線はあるかもしれませんけど、ですが非合法作戦部門という表記は解せないわ」


「ええ、軍事用語そのものですよね。というよりは諜報畑かな」


「そうじゃなくて。ヤンさん、カルテルが合法か非合法かなんて気にするもの? 単に戦闘部門ですとか、呼び方だって他にも色々あるでしょうに」


 法にもとずく軍事作戦の対義語、それが非合法作戦です。存在そのものが非合法な犯罪組織がわざわざ呼び名を気にするはずもありません。なのに彼らはあえて、この表記を使った。どうして?


「人体実験をしていたのは確定みたいですし、その目的もキナ臭いわ・・・・・・ここって本当にカルテルの施設なのかしら・・・・・・」


「まさか。他にコロンビアでこんなことする組織なんて、自分は思い当たりませんよ」


「ですけどこのMKウルトラというのは、の極秘――」


 いきなり視界が暗くなりました。


 フラッシュライトを素早く消灯させ、わたしを庇いながらヤンさんが扉に向けてベレッタを構えました。


 遅れてわたしの耳にも、彼をこうまで警戒させた正体――何かの物音が聞こえてきました。


 幸い、というべきかでしょうか・・・・・・音の正体はハイヒールの足音ではなく、からころカップを転がす、げっ歯類特有のキキッという鳴き声でした。不衛生な環境に食べ残しがたくさんとくれば、ネズミの一匹や二匹ぐらいどこからともなく湧いてくるでしょう。


「長居しすぎました」


 ベレッタのセイフティを戻しながら警戒を解いていくヤンさんが、そう言いました。


「先を急ぎましょう」


 後ろ髪を引かれ思いではありますが、ヤンさんの主張は正しい。


 そう都合よく、溶け落ちてない別の書類が見つかるとも思えません。このケースがずば抜けて幸運だっただけです。ヤンさんの携帯電話の中には写真もありますし、今は、これで良しとすべきでしょう。


 無言でうなずきを返すと、ヤンさんは再び拳銃を構えながら先頭に立って歩きはじめました。





〈*〉



 


 あの書類を見たあとでは、案の定と評するべきでしょう。


 上部構造物へとつづく通路を発見できなかったわたしたちは、例によって次の階層に向けて階段を降りていったのですが、扉を開いたとたん目に飛び込んできたものは、一面の白い壁でした――研究施設を清潔に保つべく、地下4階はひときわ内装に気が配られていたのです。


 もはやコンテナの原型なんてありません。丁寧な内装工事の成果として地下4階は、研究施設そのものの様相を呈している。


 区分けされたブースの向こうに造粒機、混合機に打錠機といった機材がありました。鏡のように反射する銀色の器具はどれも最新のようです。ヤンさんの見立ては正しい、ここではやはり薬を作っていたみたい。


 薬の量産設備だけでなく、遠心分離機や無数の試薬がならべられた棚をはじめ、ちゃんとした設備までありました。小ぢんまりとはしてますが、必須条件は満たしているという感じの研究施設。


 ただし、ここもまた水浸しでした。機密情報に値する書類は上の区画よりもずっと多かったみたいですが、すでに隅の方にある排水口に白いゲルとなって、たくさんへばりついている。


 幸運は2度も続かない、ですか・・・・・・読むことはおろか形を保っている書類すら見当たらず、ここで具体的に何が行われていたのかは藪の中でした。


 奥に進むつれて、わたしたちの予想を軽く上回る施設がまたしても顔を出してきました。


 これまで見てきたものを思えば、濡れすぼった顕微鏡はそこまで不自然じゃないでしょう。核磁気共鳴画像装置MRIだって、お金が溢れかえっているカルテルなら買い付けていてもおかしくはない。ですが――マジックミラーで仕切られた観察室というのは流石に妙でした。


 医療施設にあるような、というよりはその観察室、警察署にある尋問室にベッドを置いたものという方が的確そう。


 コンテナを2つ並びにして、真ん中をマジックミラーで仕切ったみたい。片方には6つのベッドとテーブルと椅子だけというとても寂しい部屋が設置されており、満遍なく壁に敷き詰められたクッションからも、精神病棟という言葉を連想してしまった。


 もう一方は、観察室という名にふさわしいブースでした。マジックミラー越しに研究員が被験者を観察するための小部屋・・・・・・わたしたちはそこに入っていきました。

 

 かつては無数の観察記録が残されていたのでしょうが、クリップボードを拾い上げてみたところで、溶けた紙が床の水たまりに落ちていくばかり。コンピューターといった電子機器や、三脚に載せられてマジックミラーの方角に向けられている大型のデジタルカメラについても言わずもがなでしょう。録音機器も全滅です。


 ただし発見は皆無かといえばそういう訳でもなく、行方不明だったレコードプレーヤーが、なぜだか放送設備と思しきマイクの前に置かれているのを発見しました。


 プレーヤーにかけられていたレコードは、ドビュッシー作曲の月の光CLAIR DE LUNE


 わたしは、壁に掲げられているホワイトボードを見つめ続けているヤンさんの背後をすり抜け、棚に置いてあるプラスチック製のカードを手に取りました。


 その気になればどこでも手に入るものでしょうから、わざわざ水溶紙に印刷したりしなかったのでしょう。


 そのカードには、表面にインクの染みのような絵が描かれていた。心理テストとして一般にもよく知られている、ロールシャッハ検査のためのカードでした。

 

 製薬設備があるのは分かります。だって麻薬カルテルなのですから、理に適っているというもの。ですがこのカードは? このブースは? こんなの薬学ではなく、心理学の領分じゃありませんか。

 

「このホワイトボードに書かれているの、ドイツ語でしょうか」


 ホワイトボードに大書されてる文字列に頭を悩ますヤンさんに代わり、わたしは声に出しながらその内容を翻訳していきました。


「Ich bin es nicht, der Frankenstein erschaffen hat――“フランケンシュタインを作り上げたのは、私ではない”」


「・・・・・・一体なんなんだ」


 ずっと平静を保ってきたヤンさんすら、もう我慢の限界な様子でした。


 ただの営利誘拐だったはずなのに、気づけばこんな魔窟に閉じ込められている。その癖、謎は解決する素振りすら見せようとしないのですから、ヤンさんの苛立ちももっともです。


 わたしたちの知らないうちにこの施設は生まれ、そして人知れずに壊滅した。


 まるで考古学のよう。中途半端に見つかった碑文になんと書かれているのか、頭を悩ませているのが今のわたしたちの状況でした。


 ロゼッタストーンよろしく、都合のよい解読の鍵でもあれば、ここで何が起きたのかすぐさま理解できるのかもしれませんが・・・・・・現実にわたしたちが出来ることといえば、あれこれと想像を巡らせることのみ。


「殺人娼館、ラボ、そして怪しげな人体実験だって? こんなの・・・・・・どう解釈すればいいっていうんだ」


 ヤンさんが吐き捨てるように言葉をつづける。


「まるで繋がりが見えてきませんよ。

 ラボを隠しておきたいからこそ、研究員が周りに知られず生活できるよう、コンテナ内部に居住空間を整えたんでしょうに。そのすぐ横では、定期的に部外者を出入りさせなきゃ商売上がったりな娼館なんてものを運営していた。

 理屈に合いませんよ」


「・・・・・・わたしには、その理由が分かる気がします」


 地下3階にあった監獄を目にしてからというもの、わたしはかつて本で読んだナチスの絶滅収容所たるアウシュヴィッツと、この場所を重ね合わせていました。


 部外者からは理解不能な異常行動に見えても、当事者にとっては、どこまでも合理的な判断にすぎない。


 常識という尺度で見てはダメなのです。この施設を真に理解したいのなら、内部の異常な理屈にみずからを合わせなくてはならない。ヒントは、カルテルの目的がお金儲けという点でした。


「カルテルはあくまで利益追求団体。だったら余分な出費を嫌うはず・・・・・・」


 思い出されるのは、あの書類にあった廃棄処分という記述でした。


 あの小さな文字列の先にどんな人生があったのだろうかと思いを馳せながらも、あえてわたしは、淡々と自分の考えを述べていく。


「人体実験で薬漬けにした被験者をただ廃棄処分するより、効率的にすべきだと誰かが提案したのなら・・・・・・」


「・・・・・・」


 こうなっては、この船の本質はあの娼館にあらず、研究施設であると見なすべきでした。


 どうしてそういう考えに至ったかといえば、単純明快。この船でもっとも投資されているのが、明らかにここの施設群だったからです。


 医療器具はただでさえ値が張ります。そんな器具をこれだけ集めているのです、数千万ドルはくだらないはず。下手をしたら億に手が届くかもしれません。


 もちろんわたしは名探偵とはほど遠い傭兵くずれです。これらの推理がまったくの見当違いという可能性だって――むしろそうあってほしい――ある。ですが一方で、それを否定する材料が見つからないのもまた事実でした。


 マジックミラーの向こう側、もう誰もいない部屋を見つめたまま、ヤンさんはしばし呆然と佇んでいました。


 SRT要員の人材評価レポートを思い出す。ヤンさんは他のメンバーよりも心がけマインドセットで劣ると、そう評価されてました。つまり彼は、軍人としては優しすぎるのでしょう。


 個人としてなら素晴らしい資質のはず。ですが時に感情を殺さなければならない軍人という職務において、優しさとは諸刃の剣なのです。


「・・・・・・こんなの人間のすることじゃない」


 こちらからでは表情は窺えない。見えるのは背中だけ・・・・・・ですが、拳が白くなるほど握りしめられているその姿だけで、彼の気持ちは痛いほど理解できました。


 優しすぎるという欠点。それは、わたしにも聞き覚えのある評価でした。


 メリッサも、ジェリーおじさまも、“彼”だけでなく、わたし自身よく分かっているのです。


 わたしもまたヤンさんと同じく――人の悪意にたまらなく感情をかき乱されてしまう。それこそ、世界を焼き尽くしてでも間違いを正したいと思ってしまうほどに。


 ですが、わたしはそこで止まれないのです。


 どう評されようとも最後にはプロフェッショナリズムが勝り、一線を敷きながら目の前の現実に対処できるヤンさんとわたしは違う。


 一線を敷くとは、つまりすべての問題を解決できるなんて自惚れないということ。ですがわたしは以前、その問題を正すべくがむしゃらに潜水艦を作り上げて、世界を敵に回して戦ってしまった前科があった。


 ですから親しい人ほどわたしのあり方を心配しているのです――戦場に身を置きつづけていれば、終わらない問題にいつしかわたしは擦り切れてしまうと。


 みんなわたしを戦場から遠ざけようとしている。世界中で繰り広げられている暴力の連鎖は、一個人が抱えるにはあまりに強大すぎて、そしておそらく終わることがないのですから・・・・・・そう、ちゃんと自覚はしているのです。


 必死になって平和に適応して、不都合に蓋をする。ですが気がづけば・・・・・・わたしは今、こんなところに居る。


「大佐殿その靴は?」


「えっ?」


 ヤンさんがフラッシュライトでわたしの足元を照らしてました。いつの間にか、ヤンさんよりもずっとわたしの方が物思いに耽っていたみたい。


 光芒に導かれるまま足元のスニーカーに目を落としてみれば、真っ白いなはずのスニーカーが赤黒く変色している。


「まさか、どこかお怪我でも?」


 やはり彼にも、これが血の染みのように見えているみたい。ですがわたしには身に覚えがありません。


「身体の節々は痛みますけど、出血なんて・・・・・・」


 そう否定してから、最後に自分の靴を見たのはいつかだろうかと思い出してみる。


 そうだわ、ついさっき見たばかりじゃありませんか。上の階でバインダーを傾けた拍子に紙だったものが靴に付着して・・・・・・あの時までは確かに、これまでの騒動で多少くたびれてこそいたものの、こんな色合いはしてなかったはず。


 何か、靴が汚れるようなシチュエーションはあったかと記憶を調べていく。たとえば、水たまりを踏んづけたりですとか。


 ヤンさんにお願いしてブース前の水たまりを照らしてもらったところ案の定、水面を真っ赤な筋が流れてました。靴が染められた原因、これ以外に考えられなさそうです。


 水の流れを逆にたどっていけば、謎が解けるはず。


 脱出するつもりだったのに、どうしてかわたしたちは、必死になって赤い筋の出どころを探そうとしてました。動機は好奇心でも、もちろん野次馬根性でもないのは明らかです。


 度が過ぎるお人好しコンビが、自分たちにも何か出来ると証明したかったのかもしれません。


 自分たちの身の安全よりも、ここで亡くなった人たちの無念を、謎を、晴らしたがっていたのかもしれない。一歩間違えばそれは、傲慢に等しい感情なのかもしれないのに。


 赤い筋に導かれるまま、わたしたちはある部屋の前までたどり着きました。


 研究施設よりもワンサイズ、広そうな感じの部屋です。近くに小型のキャリーカートが放置されていることからして、かつては貯蔵庫として使われていたみたい。


 扉の隙間から漏れてくる赤い筋、その正体はドアノブを掴んで押し開いていった瞬間、明らかになりました。


 半透明の樽がたくさん置かれていました。化学薬品などを詰め込む、そういった種類のポリエチレン製の樽が。


 まるでボーリングのピンのように部屋いっぱいに並べられた樽をフラッシュライトの光が薙いでいくと、赤黒い樽の中身が顕らになっていきます。数十もある樽の中身、それはただの溶剤にしてはあまりに――生々しい血の色をしていたのです。


 部屋の片隅には、空になった苛性ソーダの空き容器がうず高く捨てられている。よく目を凝らしてみれば、樽の底の沈殿物が見えました。溶けて丸くなった金属プレートの欠片。手術で入れられた、体内インプラントの残り滓でしょう。


 これこそが、トラソルテオトルが幽霊船となった答え合わせだったのです。


「・・・・・・来たのが間違いだった」


 一個の樽に1人、また1人と落としていってその上から酸をふりかける。肉が溶け落ち、いつしかドロドロとしたシチューに変質していって、経年劣化した樽の亀裂からいつしか中身が漏れ出していき――


「大佐殿」


 避難訓練がなされていたなら、管理者たちが逃げる経路の目星はつく。この施設のどこかにあるであろう理想的な待ち伏せ地点キルゾーン。そこに誘導されてきた人々は、なにせこの閉鎖空間なのです、アサルトライフルの1挺でもあればすぐ殲滅することができる。あとは残った死体を処理するだけでいい。


 誘拐犯、シカリオ、そして――虐殺者。


 どれがノルさんの本質なのか、わたしにはもう分からなくなっていた。


「大佐殿!!」


 押し殺した警告の叫び声に、ハッと我に返ります。


 ヤンさんはこちらを向いてはいませんでした。拳銃をにぎる右手の甲に、フラッシュライトを握る反対の手の甲を押しつけながら、部屋の入口付近に照準を合わせている。


 迷いのない射撃姿勢が、あるはずもないカンテラの明かり向こう側に立っている人影を捉えてました。ヤンさんは動けば殺すと、全身でそう表明している。


 こんな大量殺人の現場でまさか民間人と出会うはずもありません。


 あの人影はまず確実にノルさんの一味であるはずなのに、ヤンさんは躊躇してました。あの大佐殿という呼び声は、わたしに注意を促すだけじゃありません。無意識にわたしに判断を仰いでもいたのです。


 部屋の入り口に、少女が立ってました。


 テニスボールが先っちょに取りつけられた、自家製らしい静音仕様な松葉杖に寄りかかる、艷やかなショートカットをした黒髪の女の子。切れながな意思の強そうな目つきに、白磁のように真っ白い肌をしています。たぶん、モンゴルなどにルーツを持つアジア系なんでしょう。


 歳は10歳ほどかしら。とっても痩せ型なので、触るだけで折れてしまいそうな、どこか痛々しい雰囲気をしてました。


 その雰囲気をさらに助長するのは、少女は右脚を失っており、髪でうまく隠されていましたが、右目もまた同じく無くしているようだったからです。


 履いているズボンの先は太腿から下が結ばれ、動くたびにぶらぶらと揺れている。だから歩くためには松葉杖が必須だったのです。


 悲惨な交通事故に遭ったのかもしれません。


 ですが片足を切断するほどの大怪我をしたはずなのに、少女の肌には他に傷らしい傷も見当たらない。そうです――まるで、糸鋸で綺麗に足だけ切除されてしまったような、そんな感じをしてました。


「そこで何をしているのですか?」


 少女からの問いかけが、暗い秘密施設の中に響いていきました。




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