XI “バタフライ・エフェクト”

【“テッサ”――スラム街、安宿】





 (要約)・なにがわが身に降りかかったのか?





 ノルさんにいわく、この世にはテオフィラさんなる人物がおられるそうです。


 あまり大きな声では言えない世界最古の職業に就いていたという、メキシコの片田舎出身であられるテオフィラさんは、美しい白い肌と銀髪が自慢の器量よしであったとか。


 そんな女性にひょんなことから惚れ込んでしまったのが、中米ベリーズ出身にして、近代特殊部隊の礎を築いた英国特殊空挺部隊SASの元特殊部隊員という異色の経歴をもつハイメ=モンドラゴン――すなわちモンドラゴン・ファミリアの創設者その人だったんだそうです。


 その入れ込み具合ときたらもう、妻子をちゃかちゃか粛清し、苦言を呈してきた側近すらも片っぱしからひき潰す(比喩でなく)ほど深いものであったとか。


 恋は盲目とはまさにこのこと。それが麻薬王ともなれば、迷惑の度合いは一段と跳ね上がるものであるらしく・・・・・・そうしてついたあだ名が、聖書の故事にならった“魔性の淫婦”という名であったとか。


 王朝に喩えられるほど血族経営に固執しているモンドラゴン・ファミリアにおいて、家長であるドン・ハイメの正妻の座というのはたいへん大きな意味を持ちました。具体的には、序列的には限りなくナンバー2にひとしい位置に、テオフィラさんはたった一晩で上り詰めてしまったんだそうです。


 そう、これがすべての問題の源なのでした。


 テオフィラさんは例えるなら、つい最近まで一般人だったのにいきなり王室に入ってしまったようなもの。


 膨大な財力と権力をポンと渡されても、別に自分で築いてきたわけじゃありませんから、それらが持つ力の意味をなかなか自覚できないでいる。これに彼女の能天気にすぎる性格が加わると・・・・・・まあ、色々な問題が起きてしまったそうなんですよ。


 自由奔放な彼女に振り回される側としたらたまったものじゃありませんが、さりとて苦言を呈して生活態度を改めさせたいと思っても、彼女のバックには麻薬帝国に君臨する無慈悲な愛妻家がついている。


 かくして、ふらり1人旅がご趣味だとかいうテオフィラさんは、今日も世界を股にかけて、どこかで遊び呆けているに違いないんだそうです。


 さて、もうお分かりですね?なにがわが身に降りかかったのか? 導き出せる結論とはただ一つ――何もかも偶然だった。


 たまたまお節介なジェリーおじさまの策謀によってコロンビアを訪れてしまったわたしの容姿は、たまたまメキシコで歪んだ玉の輿にのってしまったテオフィラさんの顔と瓜二つで、たまたまカリ・カルテル傘下の高級ホテルに居合わせていたノルさんはそれを見て勘違い、それだけでなくモンドラゴン・ファミリアの永遠の宿敵たるカリ・カルテルもまた敵のがたまたま懐に飛び込んできたと思い込み、これ幸いに拉致しようと汚職警官の一群を差し向けてきて・・・・・・どうやらそういった経緯であるようです。


 偶然が偶然を呼び、偶然の地崩れが他の偶然を呼び覚まし、必然的な偶然へとわたしを導いていった。


 初めての経験でした。完璧なまでに状況を理解できたというのに、まるで納得がいかないというのは・・・・・・なんですか、コレ? わたし、ただひたすら巻き込まれただけの被害者じゃありません?





(結論)・すべては偶然だった。





 納得できますかこんなことッ!!


「ノルさん・・・・・・あの、ですね、信じられないでしょうけども・・・・・・」


 とにかく何とかしなければ。


 その一念でとにかく言葉こそひねり出してみたものの、歯切れは悪い。わたしらしくもありません、結論を考えずまず言葉だけ先行させてしまうなんて。


 こんな調子では、鬼の首を取ったようなノルさんの耳にはまるで届きませんとも。


 すべては偶然だった。それが真実であると知ってなお合点はまるでいっていないわたしです。そんなわたしが、どうやって人をテオフィラ=モンドラゴンだと勘違いしたままのノルさんを説得することができるというのでしょうか?


 ふふっ、とノルさんが初めて会った時のように蠱惑的に笑われる。


「メキシコ、ベリーズ、そしてコロンビア。中南米を股にかける多国籍カルテルをたった一代で築き上げてみせたドン・ハイメ。

 そんな傑物でも、人生を賭してまで猫可愛がりしてる愛妻が誘拐されたと知れば、大慌てで身代金を支払ってくれるでしょうねえ。だってポケットマネーで1億ドルぐらいポンと出せちゃう御人ですもの」


「それは・・・・・・無理だと思いますよ?」


 本物ならともかく赤の他人ですから。


 しかし、まさに聞く耳持たず。悪い顔したノルさんはもう止まりません。


「自分の資産価値をもうすこし高く見積もったらどう? 世界最大規模の豪華ヨットにLOVE・テオフィラ号とか恥ずかしげもなくつけるようなお方に愛されてるんだから。

 まあ、その自己評価の低さのせいでこうして捕まってしまったのかもしれないけどね。まさか噂通りにたった1人でひょこひょこお忍び旅行してるなんて・・・・・・街娼時代からの急激な変化に、まだ意識が追いついていないのかしら?」


 また誤解が誤解を生んでいく。


 山の上から転がり落ちた小石が、ふもとにたどり着く頃には壊滅的な土砂災害にまで膨れ上がってしまうように。もはや状況は、人の手の及ばない自然災害の様相を呈してました。


 まだハッキリ明言こそされていないものの、ノルさんはカリ・カルテルと対立関係にあるみたい。組織に雇われていたシカリオであった筈の彼女がなぜ? どういった経緯で離反したのか? そんなもっともな疑問は、このさい一端脇に置いておく他ないでしょう。


 過去よりも現在のほうが、リアルタイムな分だけ厄介なのですから。


 経緯はどうあれノルさんは、強大な麻薬カルテルに喧嘩を売ってしまっている。ここで当人は大真面目なものの、はたから見れば狂言誘拐そのものな脅迫を別のカルテルにしようものなら・・・・・・八方塞がりにも程がある。


 モンドラゴン側はテオフィラさん――もちろん本物の――の所在をよくご存知でしょうから、わたしの顔面に銃口を突きつけて見せたところで鼻も引っ掛けないでしょう。


 いえ、それは良いパターンの場合。最悪の場合ですと、プライドの高いラテン系の組織が、不埒な自称誘拐犯にお灸をすえてやろうと報復を画策するかもしれない。本からの受け売りとはいえ、モンドラゴン・ファミリアが自分たちを侮辱しただけの地元の名士の家にASまで送り込み、一家全員を惨殺したのは紛れもない史実なのですから。


 ノルさんは類まれ戦闘能力を持つとはいえ、圧倒的な組織力を前にしてはとても歯が立たないでしょう。それも2つ同時にともなれば・・・・・・。


 ノルさんは単なる犯罪者、一介の無法者アウトローにすぎません。高級ホテルの騒動でわたしを助けたのも、結局はお金目当てにすぎない。でも、どこか、説明のつかない喉に小骨が刺さっているような違和感がある。


 カリの幹部を殺すために。


 ノルさんは自分がホテルに居合わせた理由をそう説明していました。元からカリと絶賛対立中な彼女は、ここにきてさらにモンドラゴン・ファミリアのボスまでをも脅迫しようとしている。


 わたし以上に地元の事情に精通しているに違いない彼女が、たしかに目論見通りにいけば懐に大金が舞い込むでしょうが、どう転んでもその代償として二大カルテルから命を狙われてしまうこんなリスキー極まりない誘拐を計画するほどに追い詰められている、その理由が分かりません。


 前言撤回。今を知るためには、過去から探りを入れるしかないみたい。


「・・・・・・どうして」


「何がどうしてなのかしら、セニョーラ?」


「・・・・・・仮に身代金を手に入れたとして、それをノルさんは何に使うおつもりなんですか?」


 カッコいい車を買って、豪邸に住んで、残る人生を遊んで暮らす。そんな甘い夢を見れるほど、彼女が現実を知らないとは思えない。


 プロとは、現実に対処する能力が誰よりも高いものです。こうあってほしいという願望を一切合切、廃して、冷徹にとことんまで実利を追求する人々。ノルさんもその一員のはず。


 犯人と被害者が接触する機会がもっとも多いのが、この誘拐という犯罪の特徴です。身代金の交渉を進めるためには、定期的に人質の生存証明プルーフ・オブ・ライフを提示しなくてはならず、電話やメールなどで逐一連絡を取らなくてはならない。体よく話が纏まったとしても、身代金の引き渡しのために犯人側と被害者側が一度は顔を合わせることになる。


 この間にも犯人側は、人質を隠しているアジトを突き止めようとする捜査の手を恐れ続けなくてはなりませんし、人質の健康を維持しつつ、物資を補給するなど手間をかける必要がある。ここらへんのセオリーは、警察が相手でもカルテルでもさして違いはないでしょう。


 そこまでやってお金を手にしたとしても、今度はせっかく手に入れた大金を持ち出さなくては意味がない。


 マネーロンダリングは必須です。カルテルから強請って手に入れたお金だとしても、結局のところ使うさきは普通の世界なわけですから。現金でぱーっと買い物を続けていれば、いずれはどこでそのお金を手に入れたのかとお役所が怪しみだす。


 もちろん執念深いカルテルが誘拐犯の追跡を諦めるはずがない。ノルさんの望みどおりにわたしがテオフィラさんであったとしても、こういったリスクが彼女には一生ついてまわる。


 知らないはずがないのです。彼女は自他ともに認めるプロなのですから。そうまでしてお金を欲する理由を、わたしはやはり聞かねばならないでしょう。

 

「関係ないでしょ」


 素っ気ない返事。


 彼女らしくもありません。まるで自分の心にいきなり踏み込まれて、不快感を示しすように黙りこくる。


「カルテルを脅迫しようとしてるんですよ? どう転んでもこの誘拐、ハッピーエンドにはなりえないわ。

 そのリスクを誰よりも心得ているはずのあなたが、どうしてそうまでお金を欲するのか。それも・・・・・・3ヶ月とかリミットを設けてましたよね。

 何かあるんですか? 3ヶ月以内にお金が必要な理由が」


「関係ないでしょ」


「あります。わたしはあなたに殺されるかもしれないんですよ」


 一心に、チャイナドレスの麗人がわたしの顔を見つめてきました。


「そう言う割に、怯えた素振りをまるで見せないのね」


「怖いは、怖いです。わたしが死んだら多くの人が悲しむでしょうし・・・・・・でも、申し訳なくは感じても、わたし自身はやっぱりあまり恐怖は感じてませんね。

 やるべきことはもうやり遂げた。そういう、気持ちがどこかにあるみたい」


 そう、ケリはもうついている。


 世界に残っているのは、わたしの才能が産み落とした傷跡ばかりなのですから。


「・・・・・・なら、別にいいでしょ」


 まるで感情を浮かべず、ノルさんはまるで独り言のように呟かれる。


「“もう自分に果たすべき役割なんて残ってない”。そういう自覚があるなら、残った命を自分以外に使ってもバチは当たらない」


「それはわたしの事を言ってるんですか? ・・・・・・それともノルさんご自身の?」


 シカリオ。命の恩人。プロの犯罪者。年下の少女に無下に扱われている残念美人。そのどれもが合わさってノルさんという人物像を形作っていく。ですが、わたしにはまだこれらの要素が上っ面をなでているだけに感じられる。


 まだ彼女の本質を、わたしは見えていない。そう感じる。


 ですが、とりあえずここで死ぬつもりはない。先ほどの言葉はどれも本心ですけど、やっぱり残される人々に申し訳ないですから。


 椅子に縛られたままわたしの視線は、わたしの質問に答えを返してこない、ただ押し黙るだけのチャイナドレスの麗人からちょっとずつ逸れていき、廊下へとつづく部屋のドアに向けられていきました。


 あの場所こそが、この部屋から出られる唯一の脱出ルート。そんなドアの横には、ホテルの備品と思しき汚れたドアストッパーが放置されていました。


「ノルさん」


 感情に訴えるなんて、プロとしては愚の骨頂です。人の気持ちほどあやふやなものもなく、なによりカルテルと関わりある人間に慈悲を求めることほど、お門違いの行為もないでしょう。


 でも、これがラストチャンスでした。


 どうにも私利私欲のために身代金を狙ってるとは思えない、どこか嫌いになれない彼女たちを説得するためには・・・・・・捨て身の攻撃も止む得ない。そう覚悟を決める。


「わたしの本名はテレサ=テスタロッサといいます」


 いきなりの告白に、ノルさんは訝しむ顔をする。


「・・・・・・マンティッサじゃなかったの?」


「それは偽名ですよ。ですから、こう察していただけると幸いです。わたしは詳細は明かせないものの、偽名を使わなければならない身分なのだと。

 テオフィラさんとわたしの容姿が驚くほど似ているのは認めます。正直、自分でもびっくりしました。

 ですがノルさん、解像度の低いその写真以外に、あなたはテオフィラさんの姿を目にしたことがあるのですか?」


「・・・・・・」


 回答はまたしても沈黙。ただし、先ほどとは違って答えたくないからではなく、答えられないから。そういう細かなニュアンスが感じ取れました。


 写真というのはよく嘘をつくものです。光のさじ加減一つで、実の家族すらまったくの別人に見えたりもする。


 わたしとテオフィラさんは、服飾センスがとても似通っていることは明らかです。それとぱっと見、目につきやすい髪色と髪型もよく似ている。ですが・・・・・・自分で言うのもなんですけど整った顔というのは、一周回って逆に無個性になったりするものなんです。


 ファションモデルの皆さんの顔が、一様に同じように見えるのもこれと同様の理屈。もしこの写真だけが、ノルさんの持つテオフィラさんの画像のすべてであるとしたら、あまりに情報が少なすぎるといわざるおえません。


 だってこの写真1枚だけでは、瞳の色すら判然としない。


「では仮に、わたしがテオフィラさんだとしましょう。今日、彼女はカリ・カルテルと縁のある場所だと知らずに、あのグランドハイスト・アギーラカルバというホテルに泊まろうとした」


「カリ・カルテルは秘密結社そのものだもの。ライバル組織のボスヘッフェの妻とはいえ、ホテルの背後関係を知らなくても不自然ではないわ」


「合理的に考えてみてください。

 ドン・ハイメは、近代特殊部隊の母たる元SASの隊員なんですよ? そんな彼が、いくら最愛の人の趣味とはいえ、溺愛してる女性の1人旅を本気で許すと思いますか」


「でも実際に、旅行してるわ」


「そうみたいですね。1人旅を好むということは、つまり彼女は大げさな警護を嫌ってるということでしょう。

 ですがSAS隊員というバックグラウドのあるドン・ハイメならロープロファイル警護という選択肢も当然、考慮に入れるはず」


 ハイプロファイル警護とは、武力を見せつけて他者を威圧しながら警護する形態のことです。アメリカ合衆国大統領とシークレットサービスの間柄といえば、すぐピンとくるかと思います。


 どこに行くにも装甲車に乗って、周りには銃火器を抱えたスーツ姿の男たちがたくさん。これでは安全のためとは息が詰まってしまう。わたし自身、どこに行くにも警護の方が同行していましたから、1人で好き勝手に遊び呆けたいというテオフィラさんの気持ちはちょっとだけ分かります。


 こういうクライアントからの要望に応えるため、それに目立たないことが警護に有利に働くという場面がままあることからも、ハイプロファイルの対義語たるロープロファイル警護が生まれたのです。


 周囲はもちろん、時に警護対象プリンシパルにすら気づかれず警護する、ステルス的な手法が。


 麻薬カルテルのやり方は存じませんが、特殊部隊員の思考法については、ほとほとよく知っている。


 そうです、


「やりようはあるんです。わたしなら当人の意思に関わりなく、絶対にテオフィラさんに警護をつけるわ。だって技術的に可能なんですから」


 プロ護衛ボディーガードというのは、何がなんでも警護対象を守るために行動するものです。


 かつてわたしが日本への出張が決まった時のこと。護衛を任じられた当時SRT隊員であったヤンさんは、自分たちが訪れる予定の施設だけでなく、周囲半径50キロ以内の主要施設の資料を事前に手に入れていたものです。


 病院や警察署といった緊急施設はもちろん、ホテルやレンタカー会社の所在地まで。住所から営業時間、アクセスの方法まで調べ上げ、不測の事態に備えていた。


 ミスリルの中でも最精鋭とされたSRTの基準をカルテルに求めるのはお門違いかもしれませんが・・・・・・SASの流儀をカルテルに持ち込み、コロンビア国境地帯で正規軍を相手取って一歩も引かない戦いを見せた人物が、最愛の人を守る警護に低レベルな人材を配するはずがない。


 テオフィラさんの気まぐれまで考慮に入れて、先手を取りながら影から守りつづける。大変でしょうけど、不可能ではない。


 そこに来ますと、仮に護衛対象がひょこひょこ自分たちの最大のライバルが経営してるホテルに泊まろうとしたら、何が何でも止めに動くでしょう。


「ぜんぶあなたの推測だわ」


 もっともな意見がノルさんから。ですがその意見は同時に、語るに落ちてもいた。


「世界最大規模の豪華ヨットにLOVE・テオフィラ号なんて付ける、南米の危険性を百も承知な、愛妻家の麻薬王。

 彼が無策なまま妻の自由を許しているもっともな理由を、ノルさんは挙げられるんですか?」


「・・・・・・そう言うなら、護衛がなぜ居ないのか説明責任を果たすべきなのは、あなたの方じゃないの? ?」


 わたしはちょっと苦笑いしながら言いました。


「実は、たった1人の護衛と逸れてしまいまして・・・・・・」


「それ、疑問を呈した内容に自分自身でダメ出してるって気づいてる?」


「ロープロファイル警護と専門用語を口にしても、それがどういう意味の言葉なのかまるで尋ねてこないノルさんなら、もうお分かりのはず」


 ちょっと話題はずれますけど、これだって妙な話のはず。


 つい最近までしがないプロの娼婦でしかなかったはずのテオフィラさんが、どうして警護の知識にこうまで詳しいのか?


 ノルさんの渋面は深まるばかり。彼女も心のうちで葛藤しているに違いない。このどうしようもない違和感と。


「あなたはきっと効率的に暗殺するため、警備のプロたちのやり方を学ばれたんでしょう。ならご存知のはずです、ボディガードの人数が多ければ多いほど、警護の成功率が上がるということを。

 24時間体制で対象プリンシパルを警護するつもりなら、最低でも昼番と夜番の2チームが必要になる。それなのにわたしが連れてきたのはたった1人きり」


 その1人が実は1機であり、彼なら不眠不休で100人分の働きができるというのはいいっこなし。今は、わたしがテオフィラさんでないと証明できればいいんですから。


「お金が溢れてる麻薬カルテルにしては、あまりにお粗末な警備体制だわ。そもそも愛する女性が護衛と2人旅をするなんて、ドン・ハイメが認めるはずもないもの。

 ましてやその人物ともわたしは逸れてしまいました。これって不自然じゃありません?」


 1を1と誤魔化しこそしましたが、言いたいことはちゃんと伝わっているはず。


 合理的な人間を相手取るなら、合理的な疑問をつきつけるべし。特に、話題が相手の得意分野であればさらに効果的です。


 こちらの細かい素性は話せなくとも、振り返ってみれば道理の通らない話はいくらでも転がっている。だってどれもこれも、所詮はただの偶然なのですから。


「わたしのポシェットの中を覗いたのなら、ニューヨーク初ブラジル行きのチケットも見つけたはず。ホントいいますとわたし、コロンビアに行く予定はなかったんです、ちょっとした手違いがありまして。

 わたしのお財布の中には他にも、両替してないドル紙幣やニューヨークのお店のポイントカードもあったはず・・・・・・わたしは、テオフィラさんが普段どこで暮らしておられるのか知りません。

 ですが、FBIの10大最重要指名手配にハイメ=モンドラゴンの名が記載されている以上、まさかその妻がアメリカ暮らしということはないでしょう。

 テオフィラさんの出身地はメキシコだそうですね? 彼女が自分の身分を誤魔化したいなら、ニューヨーク在住のアメリカ人だと偽るのは変じゃありませんか?

 本当の自分からちょっとズレているぐらいの嘘こそが、最も自然に相手を騙せるのですから」


「・・・・・・」


「ノルさんもうすうす感づいてるのでしょう? わたしがテオフィラさんだとするなら、矛盾があまりに多すぎるということに」


 彼女は決して愚か者ではありません。


 状況を冷静に見定め、豊富な実戦経験から最適解を導きだせるプロのはず。ただどこかで、その行動にはずっと焦りのようなものが窺える。


 ホテルでたまたま見かけたから誘拐したなんて、まさに素人そのものな杜撰な働きなのに・・・・・・おそろくエレベーターでわたしを見送ったその直後、すぐさまケティさんと連絡を取り合って、脱出手段とその後の拉致のためのツールを用意させておくしたたかさが彼女にはある。


 わたしを車に乗せたあとも尾行確認ルートSDRを執拗にたどり、さらにはこの安宿で追っ手の有無を最終確認してから、やっと本命のアジトに移動しようとしている。


 まるでアマチュアの動機をプロの技術で補うようなチグハグな誘拐劇。


 度重なるわたしの指摘にノルさんの目が泳いでました。動揺のせいでなく、必死に考えを巡らせているからでしょう。これで無理なら・・・・・・心の奥底で覚悟を決めつつ、わたしは可能なかぎり自らの身分を明らかにしていきました。


「繰り返しなりますが、わたしの名前はテレサ=テスタロッサといいます。

 年齢は20歳。ニューハンプシャー州のポーツマスで生まれ、父は米海軍の潜水艦乗りでした。スイス・オーストリアとイタリアの血を引き、今はニューヨークで同僚でもあった女性の元で居候しているアメリカ人です。

 これでもまだわたしがテオフィラさんに見えるんですか? わたしが麻薬王の妻であることを示す証拠が、見た目が似ている以外のどこにあると?」


 ノルさんは英語が話せます。だからあえて、この真の自己紹介だけは英語で行いました。だって、言葉の訛りほど偽るのが難しい要素もありませんから。


 メキシコ生まれのテオフィラさんは、なにせ合衆国と国境を接している都合上、英語が話せても不思議ではないでしょう。ですがネイティブでない以上は、どこかアクセントに違和感が残るはず。


 ニューイングランド訛りが微かに残るわたしの英語は、どうしようもなく本場仕込みのものなのです。英語とスペイン語の双方を解するバイリンガルなノルさんならば、その微妙な差異がすぐ分かるはずでした。


 わたしの真摯な問いかけのあと沈黙が場を支配していく。


 ノルさんは深く、どこまでも深く考え込んでいき、余裕のある態度をずっと崩してこなかった彼女のらしくない行動に、ケティさんすらも不安げに顔を曇らせていく。


 どうか・・・・・・祈るような気持ちで裁定が下されていくのを、わたしは固唾を飲んで見守っていた。


 どうかお願いだから真実に気づいてほしい。そうすれば、ノルさんのたちの抱えている問題は解消こそされないでしょうが、少なくとも今以上に悪化することはない筈なのですから。


「オレは――」


 いつの間にか彼女の手には、500ペソ硬貨が握られていました。


 苦しみに耐えるように一瞬、目をつむってから・・・・・・ノルさんは答えを口にしていく。震える声音はまるで、自分自身に言い聞かせるようで、凄まじい指の力で折り曲げられた500ペソ硬貨が地面へとくるくる落ちていく。


 気づいていなかったのはわたしの方。彼女はわたしをテオフィラさんだと思いこんでいるのではなく――そう信じたかっただけなのです。


「――100万と84万ドルのお金を手に入れるまで、あなたを解放する気はないわ」


 奇妙な、身代金の額でした。


 大金ではあるものの、ポケットマネーで1億ドルも払える相手から脅し取るつもりにしてはあまりに少額にすぎます。


 そんな不可思議な金額を提示していったノルさんの顔には、申し訳なさと決然とした意思が綯い交ぜになった、表現しずらい矛盾した表情が浮かんでいて・・・・・・ついわたしは目を伏せてしまった。


 これはもう、どうにもなりません。


 ノルさんは自分の中で芽をだし始めた疑問に蓋をすることに決めたのです。こうなっては、もうどれほど決定的な証拠を見せてようとも、言葉だけでは心を閉ざしてしまった彼女の意志を曲げることはできそうもありません。


 彼女がどんな問題を抱えているのかは皆目検討もつきません。どうしてそこまで、184万ドルなんて中途半端な金額に執着しているのかも・・・・・・尋ねたところで、きっともう話してくれないと思う。


 ですがやっぱり、ここで死ぬつもりだけはないんです。


 諦めの感情とともに、わたしは手の中で冷たい金属片をもてあそび始めました。


 金属片の正体。それはプレゼントと冗談めかしてノルさんが渡してきた、安全ピンでした。ただの麻薬王の妻にピッキングの知識があるとは普通は考えないでしょう。ですがわたしはテオフィラさんにあらず、有明の一件で最低限の知識は必要であるとして敵地及び敵手脱出E&Eの講習を受けた、元大佐殿なのです。


 針金一本で手錠の鍵を開けるなんてまるで特殊技能のように聞こえますけど、コツさえ分かれば子供だって出来るようになるんです。


 実のところ手錠というのは万国共通で溝が一つしかないというシンプル極まりないシリンダー錠に過ぎず、1箇所曲げるだけで安全ピンは完ぺきなキーピッキング・ツールに早変わりしてくれる。


 ケティさんはラップトップを手にしてあぐらをかいたまま。ノルさんは、動揺のあまり動きが鈍っている。


 勝算は薄いですが、逃げる機会があるだけ奇跡的。このチャンスに賭けるほかない。


 運動音痴だけが気がかりでした。そんなわたしでも、気付かれないように手錠を外して、ベッドの上でカラコロ無造作に転がっている接点復活剤のスプレーを手に取ることは辛うじてできました。


 相手の虚をつけたからとはいえ、もう一度やれと言われても成功する自信はまるでない、奇跡的な動きでしたけれど・・・・・・。


「ッ!!」


 わたしにスプレーを吹きかけられ、咄嗟に顔を覆ったさすがの反射力なノルさんの被害のほどはよく分かりません。ですが、目に直撃を食らってしまったケティさんの暴れようときたら尋常じゃものでなく。


 耳が聞こえないがゆえにすべてを視覚に頼らざるおえないケティさんにとってこのスプレー攻撃、申し訳ないほど効果的なものであったみたい。


 誘拐犯コンビがおもわぬ事態に混乱し、動きが止まる。


 半日も座らされていたせいで萎えている両脚を叱咤しつつ、わたしはこの隙に、唯一の出口であるドアに向けて駆け出しました。


 スニーカーでフローリングを蹴立て、体当たりするようにドアに張りつく。脳内でなんども復習した通りにカギを外して、忘れずにドアストッパーも拾い上げておきます。


 錆つき、ひどく軋むドアの開閉音が2度。まず開き、続いてわたしが廊下に飛び出すと同時にすぐ閉められていく二重奏。


 カビ臭い自由の香りを満喫している暇はありませんでした。


 振り返って扉を締めていく時、わたしは確かに充血しきった目をして憤怒に満ちるケティさんと、彼女が引き抜いたTEC-9サブマシンガンの銃口と目があってしまったのです。


 13、から14歳の女の子がしてはならない殺気に満ちた顔。その鬼気迫る雰囲気ときたら、ついつい声ならぬ悲鳴をあげてしまうほど。


 プラン通り勢いよくドアを閉じていきます。扉の開く向きはとうに把握済み、ドアストッパーを下の隙間にぐいっと思い切り噛ませてあげれば、即席のバリケードに早変わりです。これで多少なりとも時間が稼げるはずでした。


 どう転んでも身代金うんぬんの交渉はこじれるでしょうし、そこから偽物であるわたしがどういう目に遭うかは・・・・・・まさに神のみぞ知る。でしたらまだしも自分の意思がおよぶ逃亡劇にすべてを賭ける方が、幾分マシというもの。


 ドアに体当たりする音が、まるで戦太鼓のように背後から響いてきます。


 そんな激突音が聞こえるたびに喉元まで悲鳴がせり上がり、後悔が頭をよぎる。しかしわたしは、すでにルビコン川を渡ってしまったのです。となれば息を切らして安宿の廊下を駆け抜ける他に、できることは何もありません。


 この安宿・・・・・・もう見るからに素性のよろしくない場所でした。


 部屋の中も相当でしたけど、廊下もまた凄い。落書きなんて序の口です、剥がれかけの壁紙ですとか、切れかけの電灯、手錠をかけられた若い女性がすぐ目の前にいるのに普通にチェックインを済ませてくれる受付のお婆さんとか、とにかく一事が万事タチが悪い。


 助けてと叫んだところで無駄に終わることは目に見えてました。通報されても逆に困りますし、別にいいんですけど・・・・・・何もかも不条理すぎて困ってしまいます。


 ですが、人質にも目隠し要らずな犯罪者御用達の宿というのは、逃げる身として好都合。道に迷うことがありません。


 蒸気の匂いがする入り口から左に折れて、つぎに右に入り、エレベーターで5階ぶん昇る。その後パチパチいう電灯の下を15歩の時点で通り過ぎて、47歩目で監禁されていた部屋の中へ。理論上、この逆をいけば出口にたどり着けるはずでした。


 ひたすら走る。


 すると45歩というわすがな誤差のあと、古めかしいエレベーターの前へとたどり着きました。


 もしかしたらかつては、ここも豪華なホテルだったのかもしれませんね・・・・・・アール・デコ調の鉄柵で封鎖されてるエレベーターが3台もありましたが、どこもかしこもサビだらけで不安がよぎる。


 またエレベーターです。植えられたばかりの新しいトラウマがうずく。


 かといって左を向いてみますと、大きな丸窓から街灯のオレンジの光が差し込んでいる袋小路があり、その逆はといえば、“階段”と書かれたプレートが斜めに傾いでる真っ暗闇が広がっている。階段の電球を差し替えるなんて、誰も思いつかないみたい。


 別にエレベーターに拘らなくとも、柔軟に逃げ道は選択されて然るべきでしたが・・・・・・どう考えてもノルさんより足が遅いわたしとしては、やはり機械に頼る他ありません。


 ひとまずエレベーターの呼び出しボタンを押してから背後を振り返りました。


 まだ追っ手の影は見当たらず、わたしが走り抜けてきた廊下の先に、チカチカ点滅しているEXITのサインが見えました。


 いきなりしくじりました・・・・・・非常階段がすぐ真横にあったのに、気づかずこちら側まで来てしまった。昼間の間には見えなかったのは汚れのせいかしら。


 立ち止まってはじめて見えてくる、自らのポカ。


 ポシェットの回収も忘れてました。ステートIDはともかくお金はとっても有用だったのに。


 ですがこの失態を逆用することもできる。スニーカーを脱いで足音を消しつつ元と来た道をたどり、ノルさんたちがエレベーターに惹きつけられている隙に非常階段から逃げるですとか。


 そんな小賢しいプランを思いつきはしたものの・・・・・・鋭い銃声をまえに、机上の空論はあっさり雲散霧消してしまった。


 ノルさんかケティさん――切れ目のない銃声からしてTEC-9サブマシンガンを持っていたケティさんでしょうが、誘拐犯のどちらかが蝶番を撃ちやぶって、ドアそのものを破壊する強硬策に出たみたい。


 蝶番だったものを廊下にばら撒いて、反対側の扉まで弾痕まみれにしていく連射音。あそこを通りすぎるなんてとてもとても・・・・・・これはもう、四の五のいってられなさそう。


 幸運とは無縁のこの旅路ですが、今回ばかりは運がこちらの味方をしてくれる。


 オンボロな見た目に反してよく通るベルの音が聞こえて、わたしは何とも救われた気分になったものです。大喜びで振り返ってみれば、そこには左右にスライドしていく鉄柵の向こうから差し込んでくる光が。


 到着したばかりのエレベーターは、階段と異なって真新しい電球を使っているみたい。その眩しさときたら、ついつい手で遮ってしまうほどでした。


 すぐにでも乗り込みたかった。


 すでに木材の破砕音は一段落しており、カッカッカッとハイヒールが疾駆する音が迫っていましたから。ですがわたしは、その場に呆然と佇みつづけていた。


 なぜ乗らなかったのか? 壁に背を預け、こちらに皮肉げに笑いかける先客がエレベーターに載っていいたからです。


やあハウディ


 褐色の肌をしたラテン系の男性でしたが、テキサス風のアクセントをした英語とガラガラ声の合わせ技にくわえ、時代錯誤な使い古されたテンガロンハットを被っているせいで、地元の人間にはとても見えません。


 歳は50代前後。人生経験は顔のシワに刻まれるといいますが、気の早い総白髪も相まって、全身から酸いも甘いも噛み締めた渋さがにじみ出ている。なのに若々しい雰囲気が同時に感じられるのが不思議です。


 この男をわたしは知っている。会うのは二度目、最初はあの空港近くのホテルの入り口ででした。


「あんたがセリョリータ・ちゃんだな?」


 男はそう、ひどくフランクなテキサス訛りで問いかけてくる。


 西部劇から飛び出てきたとしか思えない、カウボーイとしか形容できない風体をした男性は、明らかにわたしを名指ししていました。


 男のテンガロンハットを飾り立てている黄色く濁った歯のようなものが“誰”のものなのか、尋ねるだけ野暮でしょう・・・・・・。


 明らかにカタギの人間ではありません。まして今は完全装備状態でしたから尚更そう見える。腰元の革製ホルスターに、黒色火薬で銃弾を打ち出す西部開拓時代のリボルバー拳銃コルト・ドラグーンなんて差していたのですから。


 直感が告げていました。この男はカリ・カルテルの刺客シカリオであると。


 ついエレベーターから後ずさってしまった。


 背後から迫るノルさんだって危険人物であることに変わりはないでしょうが、こうまでこれ見よがしに匂わせていたりは・・・・・・待って。


 ――どうしてこの男、なんてわたしの本名を知ってるのですか?


 全身の毛が総毛立つ。半分は恐怖で、残り半分は不可解さのあまりに。わたしが狙われているのは、テオフィラ=モンドラゴンだと誤認されていたからじゃ、なかったのですか?


 疑問と恐怖が渦巻きますが、本能はとにかくここを離れろと命じてくる。


 ですが今の状況は、まさに前門の虎、後門の狼。わたしはついにハイヒールの足音に追いつかれてしまいました。


 為す術なんてありません。何が起こるのかただ身をすくめて待つばかり。すると影が眼前に躍り出てくる。


 後ろから殴られるぐらい覚悟していたのに・・・・・・実際にはカツン!! と高らかに、そして決然とした意思をもってハイヒールが床に叩きつけられ、ノルさんはわたしを庇うようにカウボーイ男の前に立ちはだかったのです。


「あらザスカーお久しぶり。いつこっちに帰ってきたの?」




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