XIII “闇の奥”
【“テッサ”――????】
目覚めると、真っ赤な部屋の中にわたしはいました。
気怠い身体で身をおこし、頭を振る。最後に覚えているのは・・・・・・そう、お尻の鈍痛。
筋弛緩剤よりもずっとリスキーな麻酔薬まで使って、ノルさんは人の意識を奪い去った。そして、ずっと連行してやると宣言していたアジトへついにわたしを連れ込んだのでしょう。この狭いベッドルームが、どうやらわたしの新たな監獄であるよう。
赤い壁紙、赤いカーペット、天井にあるライトだけが赤という法則から逃れていましたが、黄昏色の光りはどこか心をざわつかせる。
調度品も最低限。部屋のスケールに相応しくない大きさのクイーンサイズ・ベッドに、ベッドサイドテーブルとゴミ箱ぐらい。どうにも、人が暮らすための部屋に見えません。品不足なホテルの部屋というのが一番しっくりくる表現でしょうか。
変わったところは他にも、この部屋にはなぜか窓がないのです。その代わりというわけでもないでしょうが、換気扇のファンが天井付近でゆるやかに回転している。
赤、赤、赤・・・・・・血のような赤。
これなら鉄格子付きの監獄の方がまだ心おだやかに過ごせそう・・・・・・そんな不気味な部屋に、わたしは拭い去れない気持ち悪さを感じてしまう。
手のひらから伝わってくる感覚が、そんな感想を強めさせます。
「湿ってる・・・・・・」
わたしが寝かされていたクイーンサイズのベッドはびしょびしょ。カーペットに足を降ろしてみれば、いつのまにか靴が脱がされていたようで、わたしは素足のまま、水を吸った生暖かい布地に触れてしまった。
不気味な雰囲気と、生理的な嫌悪感の合わせ技。そこに薬物による夢見の悪さも合わさって、ちょっと吐き気までこみ上げてしまう。
わたしを閉じ込めるにあたり、ベッドルームにわざわざ水を撒いていった?
そんな陰湿な嫌がらせをノルさんがする理由がさっぱり分かりませんし、わたしが濡れないようにでしょう、ベッド上にはビニールが敷かれてもいる。
つまり、部屋を水没させてしまったのはノルさんの本意ではないのでしょう。
ここで一体何があったのか・・・・・・バケツの一杯の水でどうにかなる湿り具合ではありません。果たしてその答えは、天井にありました。
ヴィクトリア朝風味な装飾で統一されている部屋の雰囲気にくらべ、互いに絡み合い、天井に張り巡らされているパイプ丸出しの配管たちは、まるで工場にあるような実用本位なもの。
いくつかのパイプからシャワーヘッドのようなものが生えており、今でもちょびちょびと水を滴らせている物も見受けられました。スプリンクラーです。
でも消火用の設備だけにしては、パイプの数があまりに多すぎる。上下水道といった設備を壁の裏ではなく、わざわざ天井に這わせている? そんなの意味不明でした、これではまるで、古い潜水艦のようなレイアウトじゃありませんか。
目覚めた直後こそ、また毛色の違うホテルの一室に閉じ込められたみたいと思っていたのに。頭がシャッキリしていくにつれて、刻々と認識が改められていく。
――この部屋は、何もかもが普通ではない。
ジャラと、足元から音が聞こえてきました。何を踏んだのか見下ろしてみれば、ベッド下から鎖がはみ出している。
引っ張ってみると、どうやらベッド底部に穿たれた穴に繋がっているみたい。鎖の先端には手枷、あるいは足枷かしら? どちらにせよ拘束具らしき皮具が取り付けられていました。
設計段階から人を拘束するように作られたベッド。ノルさんが
自分はあくまでシカリオであり、誘拐はこれが初めてみたいなことをノルさんは言っていました。あの言葉が真実ならば、ここは誘拐ビジネスに備えてあらかじめ作っておいた監禁部屋というわけでもないでしょう。そもそもそういった雰囲気でもありませんし。
なんと表現すべきか・・・・・・淫靡さをテーマにしている、そんなデザインな部屋なのです。
見た目よりもずっと狭そうな部屋。そこを、身体のだるさが消えるまで座って眺めていきました。するとベッドサイドテーブルの上に、唯一の光源である電気ランタンに照らされたエナジーバーとミネラルウォーターのボトル、そして置き手紙を発見しました。
手紙を手に取り、文面に目を通す。
“取り急ぎ失礼。本格的なのは、あとでちゃんと用意するわ”
この手紙の書き手はノルさんで間違いないでしょう。ベッドサイドテーブルも部屋と同じく湿っていたため、メモはちょっとふやけてました。
メモの横にわたしの腕時計を見つけ、時刻を確認しました。安宿で見たニュース番組の時刻表示が間違いでないのなら、わたしはここで2時間ほど寝こけていた計算になる。
エナジーバーというのは、あまり好きな食品ではないんですが・・・・・・包装紙を破き、遅すぎる朝食兼昼食をパッパッと済ませることにします。
窓もなく閉め切られた個室の中というのは、あんな小さな換気扇1つではどうにもならないほど蒸し暑い。もう夜なのにこの閉鎖空間はまだまだ真昼の陽気を封じ込めており、汗は止まらず、吸う空気からは腐った匂いがしました。
この部屋の不快指数がどのぐらいなのか考えたくもありません。
ましてや口の中は溶けたチョコのせいでネチャネチャ。自慢のワンピースは汚れて弾丸ですとか火の粉のせいで穴だらけ。身体は全体的にキシキシ痛む。
それでも食というのは偉大なものみたい。綺麗さっぱりエナジーバーを食べきり、ミネラルウォーターを空っぽにする勢いで飲むと、不快感はいっとき頭の隅に追いやられ、部屋を歩き回る気力が戻ってきました。
ランタンを手にとって高く掲げみると、この部屋にはドアが2つあると分かりました。
開くかどうか? 開くならドアの先には何が広がっているのか? 確認しておいても損はないでしょう。
どちらも木製でしたが、一方は鍵穴付きの頑丈そうなドアでして、もう一方はレバータイプのノブがつけられた簡素なドア。
前者が部屋の外に出るためのものなら、後者はおおかたバスルームにでも続いているのでしょう。それからの展開はある程度、予想がつきましたが、とりあえず手近なので鍵穴付きの方から試してみましょうか。
床をくまなくランタンで照らしてみれば、靴下が丸めて押し込められたわたしのスニーカーがベッド脇に綺麗に揃えて置いてありました。手早く履いて、踵をトントン。ドアに向かって歩いていきます。
無駄と承知でとりあえずドアノブを捻ってみる。やはり鍵がかかってます。
手錠よりずっと複雑な形状であろうシリンダー錠にわたしの鍵開け技術が通用するかどうか、試してみたいところですが、そもそも安全ピンは没収されてしまったらしく、試すチャンスすらありません。
次の扉へ向かいます。
打って変わって、あっさり落ちるレバー式のハンドル。そもそも鍵が掛けられる仕様ではないみたい。開けてみれば予想通りにそこはバスルーム――なのでしたが、ホテルにあるような浴室とは、まるで趣きの異なる空間でした。
ぱっと監獄のシャワールームというイメージが頭に浮かぶ。
床も壁も、一面が打って変わって真っ白いタイル張り。全体的に味も素っ気もないデザインなのに、隅にある猫脚の豪華なバスタブだけが、ここは赤いベッドルームと地続きの空間なのだと教えてくれている。
バスルームは広く、下手をすればベッドルームよりよほど広大に感じられます。
バスタブ、シャワー、トイレ・・・・・・どれもが当たり前の備品なのですが、床に水が漏れることが前提なのか、床自体に排水溝が設けられているのはあまり見かけない設計です。
それにステンレス製の棚が設置されてるのも奇妙でした。中には一体、何が収められているのでしょう?
なんとなくホラー映画のセットのような、現実感が絶妙に欠けているお部屋。
清掃用なのか、壁から生えている蛇口にホースが巻きつけられています。その横を通りすぎて、わたしは銀色の棚へと近寄って行きました。
手を添えただけで、スライド式の棚のドアは簡単に開くと分かりました。でも、開けるのをちょっと躊躇してしまう。
嫌な予感だけではありません。視界の端にまた鎖が見えもしたからです。
このバスルームには天井から人を吊るすための設備があり、何もかも洗い流せるようホースや排水溝が備えつけられている。そして棚の中には、赤錆にまみれた糸鋸が放置されていて――。
逃げるようにバスルームを離れ、わたしは扉を思いきり閉めてベッドに座りました。
自分が見たものより、この部屋でかつて起きていただろう行為に身震いしてしまう・・・・・・この部屋は、拷問のために作られたに違いありません。それも情報を得るための作業目的では断じてなく、ただ快楽を貪るためだけの拷問・・・・・・。
わたしは戦争の悲惨さを嫌になるほど見てきました。そのせいで暴力への感覚は、一般の方々よりもずっと麻痺しているに違いない。
それでも慣れられないものもあるんです。人の悪意だけは、どれほど死を目の当たりにしてきても、慣れることなんてできやしないのです・・・・・・。
この部屋のありようは、わたしが経験してきた暴力とはまるで異なる陰湿さに彩られてました。分かるのはその断片だけ、全容を知り得ないのは自分にとって救いなのかどうか分かりませんでした。
ノルさんは、なぜわたしをこんなところに? いえそれ以前に、どうして彼女はこんな場所を
この世のすべてには、ロジカルな説明がつくとわたしは信じています。だとしても手元にある情報は少なすぎて、自分を取り巻く今の状況は、ただただ不条理なだけに思える。
これまで通りといえばそう。ですが・・・・・・これはちょっと雰囲気が違いすぎる。
SMという、身体を傷つけることで性的快楽を得るという遊びがあることは、知識としては知っています。ですがまさか、ムチやロウソクならまだしも糸鋸なんて使わないでしょう。この部屋は十中八九、
ダメだわ・・・・・・生理的な嫌悪感が先立って、頭がうまく働かない。
発想を転換しなければ。今のはまるで、ガウルンの思考回路を理解しようと試みるようなもの、そんなこと常人に出来るはずがないのです。
恐ろしい想像が浮かぶ。わたしがノルさんと出会ってからまだほんの半日足らず。彼女が本当に抱えているものが何であるのか、わたしに理解できる保証なんてどこにもないと今、気づいてしまったのです。
気持ちは急速に、脱出へ傾いていました。ここはあまりに、わたしの知っている世界とは違いすぎる。
どう逃げるのか? 堂々巡りの思考に見切りをつけて、わたしはもっと即物的な考えに心を砕いていきました。
頭上を見上げます。
カラカラ回る換気扇。あれを外せばあるいは・・・・・・いえ無理ですね、絶妙な小ささです。小柄なわたしでもくぐり抜けられるかどうか。そもそもボルトの留め具をどうやって外せばいいのか見当もつきません。
湿気をものともせず頑丈さを保ってる木製ドアは、ひ弱なわたしの力ではとても突破は不可能。そのうえ窓も一切ない。
脱出口を探して視線を彷徨わせていると、どうして気づかなかったのか不思議になるほど巨大な絵が、ベッドを見下ろすように掲げられていました。
重厚な額縁に封じ込められているその油彩画は、実際より二回りは大きく見える風格のある、さながらどこかの教会に飾られていそうな荘厳な宗教画。ただしこれは、キリスト教とは縁もゆかりもないコピー品のようでした。
この構図、どこかで見たことがあります。
あれは確か、ミスリルの研究所に籠もりながら、クウェートで起きた惨劇の罪悪感から逃れようとしていた時のこと。この世のすべての知識を身につけてやると息巻くことで現実逃避していたわたしは、気まぐれで芸術の本なんかに手を出しこともあったのです。
埃を被っている知識を掘り起こし、近しい構図を探し出していく。ウラジーミルの生神女、それがこの絵の構図に一番近いでしょうか?
ですが単なる
ベールを被って赤子を抱く聖女の顔が、髑髏に書き変えられていたのです。
右手に愛しげに赤子を抱きながら、左手には天秤を抱えている――サンタ・ムエルテの絵。ノルさんの右腕に続いて、またしても死の聖女がわたしの眼前に姿を現してました。
これもまたただの偶然。その一言で片付けられるかもしれません。
他人の空似でここまでの大騒動に巻き込まれた矢先でしたから、その考えはますます現実味を増していく。ですが、どうしてこんな時にザスカーなんて危険人物の言葉をわたしは思い出してしまったでしょうか・・・・・・。
“誰も彼も話が噛み合ってねえのに目指してる方向だけは一緒”
このサンタ・ムエルテの姿についわたしは、何者かの意思を感じてしまうのです。
銃を突きつけられる恐怖とはまた異なる、名状しがたい悪意に気持ちが萎えかける。鎖、糸鋸、そしてサンタ・ムエルテ・・・・・・とんだホラーショーだわ。
急に、世界に自分がたった1人取り残されたような妄想が鎌首をもたげ、わたしの理性を刈り取ろうとしてくる。脱出する、考えるべきはそれだけで十分なのに。
ノルさんの事情について気にかかりはしますが、わたしはこの部屋に一刻として居たくない。そう自分を鼓舞しましたが、一度意識するともう無視できない。この絵をなんとかしなければ。
ランタンを元のテーブルに置いて、スニーカーを履いたまま水っぽいベッドのうえに登り、額縁に手をかける。重い・・・・・・ですけど、ぎりぎり持てそう。
絵に怯えるなんてまるで子どもみたいですが、背中からサンタ・ムエルテの視線を感じながら探索を続けるなんて、わたしにはとてもできそうにありませんでした。せめて逆向きにしておきたい。
マットレスのバネがふわふわ揺れて、あやうく絵ごと転がり落ちそうになる。ですが自分の運動神経にしては稀有なことに、あわやのところでバランスを保てました。
皮肉なことに額縁の角が壁にあたって、ちょっとした支えになってくれたお陰。しかしその代償としてガリガリと、嫌な音が壁から聞こえてきました。
当初の予定通りに壁と絵が睨めっこするような形で隅に放置してから、ぶつけてしまった箇所の被害状況を確認してみると、なんと壁に穴が空いてました。
いや、そんな馬鹿な。そこまで激しい衝撃ではなかったはずなのに、いくらなんでも脆すぎます。スプリンクラーのせいで腐ってしまったとか? そんな仮説を立てつつ穴に手を這わせてみれば、表面の壁紙こそ豪勢なものなのに、なんと壁材はベニヤ板ではありませんか。
「・・・・・・」
しばし呆気にとられてしまう。ついさっき見かけたばかりのスラム街の方が、よほど良い建材を使ってましたから。
やはり水を吸っているせいでしょう。壁は手であっさり掘り進めることができました。豪華な内装と反比例するような、安普請すぎる建材。
一瞬、このまま隣の部屋か何かに通じてくれればと期待しましたが、そうは問屋がおろさないみたい。ペラペラのベニヤ板の裏から防音材らしきクッションを引き剥がしていくと、鉄の壁がすがたを表したのです。
ランタンを持ち出し、壁の中を観察していきました。
なるほどこの隙間のなさなら、壁の裏に配管を隠すとかできませんよねと変なところで納得する。ベニヤと防音材、それと細い電源コードしか収められないほどの省スペースしかここにはない。
どうしてこうも窮屈な設計になってしまったのか、それはこの鉄の壁が原因のようでした。波打ってる鋼板、それをコツンと叩いてみれば、鈍くも軽い音が返ってきます。
わたし、これが何の壁だか知っています。
「コンテナだわ・・・・・・」
わたしは、コンテナハウスの中に閉じ込められている?
そんなことありうるのかしら? 豪華な内装をしたコンテナハウスなんて過分にして聞いたことがありません。安上がりこそがアイデンティティの建築様式のはずなのに・・・・・・そもそもコロンビアの市街地のどこに置くにしても、とっても目立ちそうです。
赤レンガの町並みの中にででんとコンテナハウスが立っていたら・・・・・・目立ちます、よね? ましてやそんな奇っ怪な建物にチャイナドレス姿の麗人が定期的に出入りしようものなら、観光名所になってしまうでしょう。
この部屋で行われていたことを鑑みれば、目立つなんて、この施設の生みの親たちの望むところではないでしょう。
とりあえずコンテナという謎めいたチョイスは置いておくにしても、発覚したこの新事実は、特にわたしの脱出の手助けになってくれなさそうなのが残念でした。コンテナということは、全方位をこの輸送用の頑丈な鋼板に囲まれていることになるわけで、とてもじゃありませんが手で掘り進めるなんて不可能でしょうから。
とりあえず壁材の問題は置いておくことにして、壁の裏を這い回っている電源コードに目を向けてみる。これ、コンセントに行きつく壁内配線とは別系統みたい。
濡れた部屋と電源コード。引っ張ってみたいという本能をひとまず置いて、安全対策のためにスニーカーを脱いで両手に嵌めてみました。
わざわざキャンプ用品らしきランタンが置かれていたあたり、たぶん通電していないでしょうが、念のため。ゴムの靴底がいざという時の感電を防いでくれるはず。
靴底の溝に引っ掛けるようにして細い電源コードを捕え、力任せに引っ張ってみる。どこかでボキッと嫌な音がしたかと思えば、するすると手元に引き寄せられてくる電源コード。
コンテナの壁にぶつかって多少、変形こそしていましたが、電源コードの先にあったそれは隠しカメラと見てまず間違いないでしょう。
小指大のレンズをプラスチックのカバーが覆っているような超小型カメラ。上から降ってきたということは、この部屋全体を俯瞰できる位置に隠されていたみたい。
監視用・・・・・・かしら?
電気が通ってない以上、わたしのプライバシーは最初から保たれていたみたいですが、かつてこの部屋を利用した客たちは別でしょう。
自分の歪んだ妄想を実現させるためなら、お金を出すことを躊躇しない富裕層。盗撮というのは、そういった客層の急所を握ると同時に、いざという時の安全保障にもなる一挙両得の策だったのではないでしょうか?
確証はありません。ですが、そう的外れでない推理のはず。ただそんなものひけらかしたところで、逃げ道が見つからない事実は如何ともし難いのですが。
脇にあったゴミ箱に隠しカメラを投じてから、わたしはベッドに腰掛けました。
「ふぅ・・・・・・」
ため息というより、ただただ疲れた息を吐く。どうにも、この部屋から自力で脱出するのは無理そうです。
となると、看守ことノルさんが食事を運んでくるまで待つのが得策な気がします。扉を開けられないなら、扉を開けてくれる人間の待つべし。
これまでのノルさんの態度を思えば、丁寧に頼み込めば最低限、もっと常識の範囲内の部屋に移してもらえる可能性は高いでしょう。そして、この部屋の来歴について尋ねることもできるかもしれない。
人は見かけによらぬもの。もし帰ってくる答えが、ノルさんが管理者側の人間であったという告白だったなら・・・・・・どうすべきなのか。そこまで考えが及ばずにいる。
疲れと疑問が山のように溜まっている。だけど今は、思考を纏めるのに恰好のタイミングかもしれない。せめてもそうポジティブに考えようとする。考えることは他にも山積みなんですから。
“あんたがセリョリータ・テスタロッサちゃんだろう?”
ザスカー、あの男はわたしがテレサ=テスタロッサであると明らかに認識していた。見るからに胡散臭そうな男ではありましたが、これだけは紛れもない事実です。
彼がこちらの事情、つまりミスリルや
あのホテルに現れた汚職警官たちも右に同じ。狙いがわたしの才能ならば、怒りに任せて銃を抜き、あまつさえわたしに向けてくるなんて絶対しないはず。
ですがザスカーが続けて述べた裏事情なら、一応の説明はつきます。つまり父の旧友が実はカルテルのボスで、わたしを助けるべく部下を送り込んだという例の与太話のことです。
そんな馬鹿なと一刀両断してやりたいのは山々なんですが、ザスカーがこんな嘘をでっち上げる理由がさっぱり分かりません。わたしを安心させるための嘘なら、もっと適当なものがあったでしょうに。
・・・・・・
あのバーに居た双子の――で、いいんですよね?――の言い草ではないですが、カバとアーム・スレイブが殴り合うようなおとぎの国において、そんなの常識的にありえないなどとのうまうのは、不毛にも感じられます。
百歩譲って父の旧友がカルテルの、それもボスだとしましょう。
身も心もアメリカ軍の軍人であった父の交友関係に、コロンビア人の知り合いは居なかったと記憶しています。そもそも潜水艦乗りだった父の任地に、南米は含まれていませんし。
父の旧友、そこを起点に考えていくとやはり元軍人か防衛関連の人物が思い浮かぶ。昔からカルテルに雇われる元軍人というのは珍しくないそうで、西側の特殊部隊上がりなどが、高給に釣られて傭兵として南米に流れていったという話を聞いたことがあります。そもそもハイメ=モンドラゴンという好例が居るわけですし。
ですが外国人が麻薬組織のボスまで登り詰めることなんて可能なのかしら? 正攻法では無理でしょう、何かカラクリがいるはず。
アッシュブロンドの瞳に髪。背は高くなりましたけど、全体的なわたしの雰囲気は子どもの頃からまるで変わっていません。我ながら特徴的な容姿をしてるつもりですから、大昔に2、3度会った程度でも、わたしであると認識することはできるでしょう。
その特徴が逆効果になって、ノルさんに誘拐されてしまったわけですが、それはともかく。
まんざらありえなくもない? ですが納得するには、例によって情報量が不足している気がしてなりません。そもそも父の交友関係を隅々まで知っている訳じゃありませんから。
パズルを渡される前に、答えだけ教えられてしまった気分。どうしてこうなったのかの方程式がまるで見えてきません。
また行き止まりですね・・・・・・次は、ノルさんについて纏めてみますか。
彼女はどうやらカリ・カルテルを裏切ったらしい元シカリオである。そして184万ドルという中途半端にすぎるお金を欲するあまり、ついついわたしではなく、テオフィラ=モンドラゴンを誘拐してしまった。
・・・・・・どうしましょう。もしかして話をややこしくしてるのって、ほとんどノルさんお1人のせいなのかしら?
ザスカーの言葉を一から十まで信じるならばという注釈こそつきますけど、もしノルさんがわたしを大使館職員だと自称した男たちから庇わなければ、父の旧友であるという男の指示のもと、わたしは本来の目的地であるブラジル行きの飛行機に乗せられていた?
だって友人の娘を保護しようと企んでる相手が、わたしに危害を与えようするなんて支離滅裂にすぎますから。ということは、あの自称大使館職員たちの言っていたことは、自分たちの素性以外はすべて真実だったということになる。
あ、えーと、頭が混乱してきました・・・・・・わかりやすく、わたしを追っかけている勢力をまとめてみましょうか。
まず第一勢力――カリ・カルテル。
父の旧友を名乗る謎の男に率いられた、コロンビアでも老舗にあたる麻薬カルテル。創設者たちの逮捕後に大きく組織力を減衰させたはずなのに、モンドラゴン・ファミリアの台頭に合わせるかのように急成長。今やコロンビア最大のカルテルとしてザスカー始めとする凶悪なシカリオたちを飼いならしている。
彼らは、わたしを拉致だか保護するためだかのために街中を追い回している。明らかに素性がよろしくないので、彼らの動機がどんなにピュアなものであったとしても、絶対に捕まりたくない
次に第二勢力――ノルさん一行。
今まさにわたしを監禁してるノルさんとケティさんのコンビは、ザスカーと面識があったことからも明らかなように、かつてはカリ・カルテルのメンバーだったようですが、何らの理由で組織から離脱。今は、裏切り者として追われる身になっている。
たぶん、この裏切りの経緯が分かれば、身代金狙いの誘拐なんてやらかした理由も見えてくるのでしょうが・・・・・・ザスカーよりずっと親しみやすいとはいえ、どこまで信用すべきなのか、この部屋を見るかぎりもう分からなくなっている。
部屋の状況からして過去形で語るべきなんでしょうが、かつて
今だにわたしをテオフィラさんだと信じているノルさんが、身代金をどうやっても得られないと知った時どういう手に出てくるのか、今はもう読みきれない。
そして第三勢力は――ミスリルUSA。
いえこれは希望的観測なんですけど・・・・・・高級ホテルでの一件は、かならずやジェリーおじさまの耳に入るはず。となればおじさまのことです、かならず救出のための行動に乗り出すでしょう。
ですがこちらの願望通りの展開になったところで、ミスリルUSAがこの国でどこまでやれるかはまったくの未知数です。彼らは名前こそ同じくしてますが、かつてのミスリルとは比べ物にならない――密かに装備とか流用してるみたいですけど――単なる一企業にすぎないわけでして、どの程度の展開力を有しているのやら・・・・・・。
武装一個大隊を即座に送り込んでくるレベルか、はたまた件の無国籍風の彼女がオンボロ社用車を転がして、あてどなく街中を探す程度なのか。
腐敗した警察たちよりは頼りになるでしょうが、当てにするのは懸命じゃなさそうです。
ええっと、最後の3つ目はもしかしたらメリッサの名前に変えたほうがいいかもしれません。連絡が取れずにもう半日以上が過ぎて、異常事態が起きたと絶対に察しているはずですから。
心配性の彼女のこと、必ずやわたしを助けようと行動を起こしてくれるでしょう。合流するはずだった護衛さんという伝手もある。ですが今の彼女は単なる民間人なのです、打てる手は限られてます。
まず大使館に連絡をとって、それから古い友人に片っぱしから電話する。それぐらいが関の山でしょうか?
ニューヨークのアパートで飛び出したい衝動を抑えながら、電話機を睨んで貧乏ゆすりをしているであろう彼女の姿を想像して、とても申し訳ない気分になってしまう。
ですがこの気持ち、一概に悪いとばかりも言い切れない。わたしは今、ネガティブな考えを振り払ってすべてが終わったあとのことを想像している。メリッサに謝り、それからなにか埋め合わせをしなければと考えている。
前向きなのは良いことです。とはいってもこの楽観思考、絶望するには情報が少なすぎるのが原因な気もしますけど。
分かったような分からないような・・・・・・まったくもって謎は深まるばかり。
急に物音がしました。思考が、耳へと集中力を移していく。
ギシッ。 やはり扉の外から物音がする。
ノルさんですかと反射的に声をかけようとしてやめます。廊下の材質は分かりませんが、ハイヒールの足音とはとても思えない。
このアジトに到着してから靴を履き替えたという可能性も無きにしもあらずですが、食事を後で届けると置き手紙していった相手が、わざわざ足音を殺して歩かなければならない理由が、わたしには分からない。
ノルさんでないとしたら、先程あげた3つの可能性のうち1つが消えることになる。
楽観主義は死への近道。ならばわたしは、部屋の外でうろついている相手が何者なのか見定めるまでは、迂闊な行動を取るべきではありませんでした。
もしかしたら、わたしとなんの縁もゆかりもない一般人かも知れない。この部屋の様相を見れば、ありえないと知ってはいても、あらゆる可能性は排除されるべきじゃないのです。
もちろんドアスコープなんてなく、扉の向こうを覗き見る方法はどこにも見当たりません。
となると、扉に耳を押し当て、音から推理するしかない。
くぐもった木の板の向こう側へ、必死に聞き耳を立てていく。
人が、近くを歩いているみたい。
廊下には多分、カーペットか何か敷かれているようですが、その人物は右往左往、時おりカーペット以外の木の板を踏んづけては、何かを探している素振りをしている。
慎重な足さばき。周りの環境音がほぼ無音でなければ、足音に気づくこともなかったでしょう。
足音がどんどん近寄ってきます。
今からでも隠れるべきか少し悩む。ザスカーの前例があったばかりです。これが最悪のパターン、カリ・カルテルの追っ手だとするなら・・・・・・。
息を殺していれば、このまま通り過ぎてくれるかもしれない。なのに急に、扉の下からフラッシュライトの強い光が差し込んできました。外にいる謎の人物が、まさかピンポイントにわたしの居る部屋を見つけてみせたとでも?
ハッとして背後を振り返る。間抜けはわたしです。もし区画全体が停電しているのなら、あのランタンの明かりのせいでこの部屋には何かあると、丸わかりになってしまうではありませんか。
この部屋は、おそらくコンテナを2、3個繋げて作られてたさして広くもない空間です。調度品の少なさとあいまって、部屋に入ってこられたら、どんなに巧妙に隠れたとしても程なく見つかってしまうでしょう。
手を触れてもいないのに、ドアノブが勝手に回りだす。
カチャカチャ。
カチャカチャ。
カチャカチャ。
鍵開けに手こずっているというよりは、キーピッキングの真っ最中といった音。イヤな汗が手のひらに滲んできます。外にいるのは、明らかにノルさんじゃありません。
ゆっくり扉から後退りながら、必死に最善の策を組み立てはじめまる。
手持ちの戦力は、運動音痴の女が1人。敵の戦力は、最低1名の謎の人物。どのみち相手が2人以上なら手も足も出ないでしょうから、敵は1人だという推定で計画を組み立てていく。
なにか武器はないでしょうか? 視線を走らせると、置物になっているデスクライトが目に入る。あれを使って首の後ろをめがけて急角度で振り下ろせば、上手くいけばわたしの細腕でも成人男性ぐらいなら昏倒させられるはず。
バスルームへとつづく扉をわざと大きな音を立てながら開き、そっと閉じる。外にいるのが誰であるにせよ、わたしがバスルームに逃げ込んだと誤認してくれるとありがたいです。
高鳴る心臓の音のせいで、ライトスタンドのコンセントを引き抜く音がどれくらい響いたのかさっぱり分かりませんでした。両手にライトスタンドを抱えつつ、慎重にドアの裏に移動していく。
カチャカチャ。
カチャカチャ。
カチャカチャ。
まだ鍵穴から音は鳴っています。
扉のひらく向きに注意しながら壁に背をあずけ、ライトスタンドを頭上に掲げて、いつでも振り下ろせる態勢のまま待機します。
万事オーケー。そう言い切りたいところですが、相手が2人なら即アウトです。狙いがちょっとでも外れてもまたアウト。威力が足りず、むしろ相手の逆上を誘うだけかもしれない。状況はなかなかにタイトでした。
アドレナリンが噴き出して口の中に苦味が広がり、手の平は汗まみれで何度もライトスタンドを取り落してしまいそうになる。もういっそ、ちゃっちゃと入ってきなさいとすら思い始めていた。
カチッ。
これまでの苦労が嘘のようにあっさり鍵が開いて、心臓が止まりそうになる。ドアがきしみ、ゆっくりと開け放たれていきます。
嫌な予感ほど的中するものです。まず部屋に入り込んできたのは、ベレッタM92拳銃の銃身でした。カリ・カルテルに雇われた汚職警官たちが装備していたものと、まったく同タイプの拳銃です。
あんな小手先の手でもやってみるものでして、相手はうまい具合にバスルームへの扉ばかり見つめ、こちらに背を向けています。
グレーのスーツを羽織った男性の背中。わたしは、日焼けあとの残る白い首筋に照準を合わせていきました。角度よし、距離よし、そしてやる度胸は――潜水艦に乗りこんだその日からとっくに準備万端です。
わたしのその謎の男に向けて、渾身の力でもって武器を振り下ろしましたが、力を込めすぎてつい目をつむってしまう。手応えは、残念ながらありませんでした。
「なっ!? ちょっと!!」
慌てたような刺客の声に、自分はやはり空振ったのだと悟ります。
相手はどうもあわてて前方に飛び退いてみたい。部屋の奥のほうから激突音みたいなものが聞こえてくる。もしや、転けた?
ならばまだチャンスはあるかもしれない。
相手が姿勢を立て直すまえに素早く二撃目を放つべく、思いきりライトスタンドを振りかぶりながら、今度はちゃんと狙うのだとおそるおそる目を開いていきました。
するとそこには――ゴミ箱に頭を突っ込んで尻餅をついているスーツ姿の男性が居るではありませんか。
わたしの攻撃を咄嗟に避けたせいで転けてしまい、なんの奇跡かゴミ箱に頭がジャストフィットして・・・・・・笑いたくとも笑えないこの状況。なんでしょう? 喉に小骨が刺さってる気分です。
あっ、そうじゃなくて、今こそ絶好の機会なのでした。
どうも後続の姿もない、単独の刺客のようですし、頭を思いきりぶん殴ってとどめを刺すべきでしょう。そうして安全を確保してから、せっかく開けてくれたあのドアから逃げ出すのです。
さあ必殺の一打を!! 気合を込めてゴミ箱頭にライトスタンドを叩きつけようとした寸前、男が叫びました。
「大佐殿、自分です!!」
マンティッサでも、テスタロッサでも、テオフィラでもなく、わたしを大佐殿呼ばわりしてくる新たな人物。その声はゴミ箱に遮られてくぐもってこそいましたが、たしかに聞き覚えがありました。
“運が良ければ会えるかもね” と、メリッサは冗談めかして言ってましたが・・・・・・人生トップクラスに不運にまみれた今日という日に、まさか本当にそんな幸運が舞い込むとは、驚きで息が止まりそうになる。
かつて西太平洋戦隊のSRTに属していた優秀な兵士にして、今は
「まさか、ヤンさんですか!?」
わたしの驚きの声にスーツ姿の人物は、たぶん頷きを返してきました。
「はい。お久しぶりです大佐殿・・・・・・ですがとりあえず、このゴミ箱を取るの手伝っていただけますか?」
懐かしい部下との再会ではありましたけど、あまりに滑稽すぎる見た目のせいで、感動のとまではいきませんでした。
*
きゅぽんとゴミ箱が取り外されて、つい耐えきれず笑い転げてしまってから5分ほど後のこと。
かくかくしかじか。
そのかくかくとはつまり何であり、しかじかってどういう意味なのという説明をわたしはヤンさんに求めました。
「大佐殿がここコロンビアで護衛とはぐれてしまい、
ちょっと予想していましたが、やはりメリッサが手配してくれた護衛というのは、ヤンさんのことであったみたい。
ホテルを尋ねてくれさえすれば、自己紹介いらずで諸手を挙げて歓迎できる最高の護衛ですもの。まだゴミ箱のあとが顔に残っているヤンさんの説明に、ああやっぱりと納得しました。
しかし、
「探してくださったのは、本当に感謝の言葉しかないんですが・・・・・・よくまあこの広いコロンビアからわたしを探し出せましたね?」
元SRTとはいえ、いくらなんでも早すぎというものです。
本来の合流予定地だったホテルはあんなことになってしまいましたし、ノルさんだって丁寧に尾行対策をしていたはずなのに。ほぼリアルタイムでわたしたちの足跡を辿って来れるなんて、大したものです。
ひたすら感心するわたしに対し、どうしてかヤンさんは恐縮げに縮こまってしまった。
「自分の実力であると、胸を張って言いたいのは山々なんですが・・・・・・」
「と、いいますと?」
「その・・・・・・破壊の痕跡を辿っていったら自然に、という感じでしょうか」
つい遠い目をしてしまった。
なにせここ半日ほど、わたしのいく先々でなぜか銃撃戦が頻発し、建物や車が爆発炎上していましたからねぇ・・・・・・これらがある意味において狼煙のように機能したと。物騒なヘンゼルとグレーテルもあったものです。
より詳細な経緯を、ヤンさんは話してくれました。
「高級ホテルまで行ったあと、現場に残された証言から大佐殿が誘拐されたらしいと判明。そこからまず自分は、DEA内部の伝手を頼って捜索の支援を求めました。
あくまでコロンビア警察への捜査協力という形で駐留してますが、DEAにも独自の捜査網がありますから。
その伝手のお陰で、誘拐犯たちのタクシーがスラム街に消えたとこまでは追えたんですが・・・・・・そこからの足取りがサッパリでして。正直だいぶ途方に暮れていたんです」
「なのに、最終的にはここまでたどり着けた訳ですよね?」
「運が良かったんですよ。スラム街で爆弾テロが起きたとか、急に警察無線が入ってきて。
もしやと思い現場に急行していたところ、国家警察の覆面ナンバーをつけたバンとたまたますれ違ったんです。現場に向かうならまだしも、逆に離れようとしているのがちょっと気になりまして。
大佐殿が最後に目撃されたホテルで、汚職警官たちが大量に病院送りにされたという情報もありましたから」
「で、あとを尾けた」
「我ながらドンピシャでしたね」
運を味方につけるためには、深い洞察力と経験が必要ということのようです。伊達にSRTに籍をおいてはいなかった、話を聞き終えてみると、自然とそんな感想が頭に浮かんでくる。
「流石、ですね・・・・・・」
感嘆混じりの称賛は、尻すぼみに消えていってしまう。気が抜けてしまったのです。自分で思っている以上に、異国で1人きりというのは堪えていたみたい。
精鋭ぞろいのミスリルにおいてすら、SRTというのはプロ中のプロと見なされてきた熟練の戦士たちだったのです、これほど心強い援軍もありません。メリッサやウェーバーさん、それにもちろん“彼”といった他のSRT隊員ほどでないにせよ、ヤンさんとは個人的な親交もあります。
腹の底が見えない人々に揉みくちゃにされること実に半日あまり。無条件にわたしの味方だと断言できる人物の登場は、途方もない安心感をわたしにもたらしていました。
おぞましい歴史を隠しもしないこの部屋から抜け出せる、そのことも心理状態に大きく影響してそう。我ながら、ずいぶん肩肘張ってたみたい・・・・・・ふっと気を抜けば、そのまま地面に倒れ込みそうな塩梅でして。
ついついへたり込みそうになりましたが、なんとか堪える。わたしの奥底に残る士官としてのプライドが蘇ってきたからでした。
不思議なもので、元とはいえ部下を前にした途端、むくむくと気力がみなぎってきたのです。それが見栄と呼ばれるものなのか、はたまた本能なのかは、ちょっと自分では判断つきませんでしたけど。
「大佐殿ご安心ください」
熟練の
「自分が必ずや、マオ元少尉のところまでお連れしますから」
なんという頼もしさ。このままヤンさんにお任せすれば、宣言通りニューヨークに帰ることが叶うでしょう、そう思えてなりません。
そう、あらゆる疑問をこの国に残したままに・・・・・・。
後ろ髪が引かれる思いがする。この騒乱の真相を見定めないまま、これでは途中下車するようなもの。あっさり囚われの身になっておきながら、そんな勝手なことばかり考えてしまう。
この異国の地で出会ったもろもろについて、見て見ぬ振りをしながら家に帰る。果たして、そんなことで良いのでしょうかと。
・・・・・・そんな浅ましい思考の数々に蓋をしました。
わたしはただの被害者。ただ助け出されるのを待つだけの存在。自分なら何か解決できるかもしれないなんて自惚れは捨て去り、現実を認めるべきなのです。メリッサの言う通り、わたしはもう大佐殿なんて大層な存在じゃないのですから。
チクリと胸が痛んだ気がした。
「・・・・・・そう、ですね」
それは宣言のようなもの。
背後のおぞましすぎる部屋の謎と、決別する覚悟を決める。あとのことはヤンさんたち、本物の警察関係者のお仕事なのだと世間では相場が決まっているのですから。今となっては単なる民間人に過ぎないわたしに、出る幕なんてない。
「ありがとうございます。そして、ごめんなさい・・・・・・こんな事に巻き込んでしまって」
「いいえ。逆の立場だったら大佐殿も同じことをしたでしょう。だからみんな、最後まであなたについていったんですよ」
「・・・・・・まずは車の免許を取らないと、尾行は出来無さそうですけど」
ちょっとした冗談は、危機的状況にこそ意味を持つ。
せいぜいB級の軽口でしたけど、わたしとヤンさんはちょっと笑い合ってしまった。精神を和らげたら、次は実務のお時間です。
「ところで、警官隊はどこにいるのかしら」
今のヤンさんは、
なのに、どうしてそこで気まずげに顔を背けますか。
「・・・・・・その、ま、まことに申し辛いことながら大佐殿」
どうしましたかその言葉の濁し具合は、なんとも嫌な感じです。
そういえば、ヤンさんは1人きりでした。軍がそうであるように警察もまた
もしかして、いえもしかしなくとも、答えは明白だったりするのでしょうか。
「まさか、1人で乗り込んできたんですか?」
汚職警官やカルテルに雇われたチンピラたち数十人を返り討ちにしてみせた、超人的な戦闘能力をもつチャイナドレス姿の怪人があたりに潜んでいるというのに、これはいくらヤンさんとはいえ油断が過ぎます。
慎重な元SRT隊員らしからぬ行いに、ついわたしは驚いてしまった。己の能力を過信しない謙虚さもまた、SRT隊員の選抜条件に含まれていたはずなのに。
「その、大佐殿の安全のためならば、今すぐにでも応援を呼ぶべきですよね?・・・・・あっ、駄目だ、電波が通ってないや・・・・・・」
懐から取り出した携帯電話を眺めるその仕草ときたら、単刀直入にいって変、でした。
これまでの流れを踏まえ、実はヤンさんもカルテルに買収されてなんて考えが一瞬たりとも浮かばないのは、彼の人徳ゆえでしょう。久々の再会でしたが、当時とまったく雰囲気が変わってませんもの。
「なにか増援を呼べない特別な理由でも? 確かにコロンビアの警察機関には腐敗が蔓延しているようですが・・・・・・」
「大佐殿、その心配はありません。DEAと付き合いのある警官たちは、あのエスコバルの脅迫にも屈することなく信念を貫いた古強者ばかりなんです。
賄賂なんてものには絶対に応じない、勇敢な奴らですよ」
「そう、ですか・・・・・・で? その頼れる警官方はどこに?」
すっごくヤンさんの目が泳いでました。花瓶を割ってしまった子どもが母親に報告するのを渋ってる、そんな感じにこう指までくるくる回してます。
とっても言い澱みながらも、ヤンさんは言葉を吐き出していく。
「その、です、ね・・・・・・自分の境遇について、大佐殿はどこまでご存知なのでしょうか?」
「メリッサからは、ちょっと保険の問題で揉めてるとだけは聞いてます」
「そうですね。ざっと1000万ドルほどの借金がありまして」
ちょっと、あまりの金額に固まってしまった。なんと自分の元部下が、日本円にして10億円もの借金をこさえてました。ノルさんの身代金が可愛く見えてくる額です。
「夢だった
な、何をらしくもないことをしてるのかしら・・・・・・退役したSRT要員の懐具合は、かなり良好なはず。それはメリッサおよびウェーバーさん夫妻の実例から明らかです。
ですがアメリカがホームベースであるメリッサと異なり、どうやら移住することを決めたヤンさんは色々と出費が重なったみたい。
夢を追いかけるための投資も相当だったみたいですし、話を聞くに医療保険に入ってなかったのは自分だけでなく、吹っ飛んでいったタイヤにぶつけかってしまった無辜のおじいさんも同様だったとか。
責任感から自分と被害者、2人分の治療費を肩代わりして、全損した車の撤去費用ですとか、諸々の費用を支払っているうちにあっさり預金が底をついてしまったそうです。
ヤンさんが、自嘲した笑いを浮かべました。
「市民権を取って、せっかくフロリダに家まで買ったっていうのに、このままいくと一歩も足を踏み入れることもなく没収されてしまいそうな勢いでして・・・・・・今は、できるだけこの仕事を手放したくないんですよね・・・・・・」
胸につまされる語り口で、ちょっと二の句が継げなくなる。
それでもゴクリとつばを飲み込み、なんとか言葉を発していくわたし。
「・・・・・・それと増援の話がどう繋がるのでしょう?」
「大佐殿、DEAの捜査権限はあくまで麻薬捜査関連にのみ限定されてまして、それもコロンビア警察に協力するという形が大前提なんです」
それはコロンビア政府からしたら当然の対応でしょう。外国の捜査機関に好き勝手ふるまわれたら、それこそ内政干渉。たまったものではありませんから。
「我々には現地での逮捕権などもなく、こうして武装して令状も取っていない場所に足を踏み込むなんてのは、バレたら一発でクビになるのはまだいい方で、下手したら国際問題にも発展しかねません」
「ですがDEA支局にはすでに報告したって・・・・・・」
「夜な夜な娼婦と遊び歩いてる、あまり素性のよろしくない
そもそも自分は表向き、今も歴史編纂室で書類整理していることになってますし」
元部下が、ちょっと不安になる名前の部署に所属していました。それ、日本流に表現すると窓際族とか・・・・・・いいませんよね?
「・・・・・・もしかして護衛の仕事も、メリッサに脅されて無理矢理とかじゃないですよね?」
「いえいえ!! 脅されたなんてまさか!! そりゃ、市民権を取得する時にいろいろと横車を押してくれたり、自己破産の仕方とか、今のDEAの職の手配とかしてもらっただけで、逆らえないなんてことはありませんよ!! あはははは。
結局は、元同僚に過ぎないわけですし!!」
「ではメリッサの馬鹿とちょっと言ってみてください」
「・・・・・・大佐殿が死ねと仰るなら、自分にはその覚悟があります」
そこまでメリッサに頭が上がらないんですか、あなたは。
年上の友人にして、同居人。彼女の謎めいた交友関係がずっと不思議だったんですが、こういう脅迫まがいの借りを作ってる相手が無数にいるのかしらと心配になってきました。
これ、やってることは精神的な金貸しって感じです。
「別にマオ元少尉の要請がなくたって、大佐殿が危ないなら自分はどこにでも駆けつけますよ。ただ・・・・・・明日の仕事も心配ですけど」
落ち着いたら元部下の相談にのってあげたくて仕方がないわたしがいました。
当人は大丈夫、大丈夫とうわ言のように繰り返してますが、よく見ればストレスのせいか以前に会った時よりも痩せているみたい。らしくもなく無精ひげがちょっと生えてたりもしますし・・・・・・大丈夫なのかしらヤンさん? その、主に精神面が。
この違法な救出活動に、ヤンさんは相当なリスクを背負っているみたい。こうなると、どうして万全の態勢を整えなかったんですかなんて文句は、引っ込んでしまった。
「何かもう、あらゆる点で申し訳ありません・・・・・・」
しゅんとなって縮こまるわたしに慌てるヤンさん。今日という一日でどれほどの人生が変わってしまったのか、もう把握しきれませんよ。
「あのーわたしが言えた義理じゃないのは百も承知なんですけど・・・・・・でしたら信頼できるコロンビアの警察官の方々に、裏ルートから連絡するという選択肢もあったのではありません?
だって、わたしが連れ込まれるところを目撃したんでしょう?」
善意の通報者という名のタレコミ。わりと狡っからい手ですが、上手く働くのならば元SRT隊員であるヤンさんのこと、躊躇なく実行していたはず。
ですが、ヤンさんの目の泳ぎ具合ときたらますます酷くなってしまい。
「えっとですね、大佐殿。賄賂に屈しない、毎日が命懸けの警官たちにとって信頼関係というのはもっとも重要な要素なんです。
一緒に銃弾を掻い潜りながら
性病に罹ってる相棒だって言わずもながですし」
なんというか、こう・・・・・・この旅で一番、胸がしめつけられる話が続いてる気がしてなりません。
かつてのSRTの勇者が、借金漬けとなり組織の下っ端としてこき使われているなんて、こんなお話、聞きたくありませんでした。
「もちろん、緊急ダイヤルをつかって普通の警察機関にならいつでも通報はできますが――」
「誰が敵で、誰が味方が分からないと」
汚職警官というのはいわば警察署内のスパイのようなもの。それがコロンビアともなれば、時に署員すべてがカルテルのスパイであったりもするらしい。そうなると迂闊に応援要請はできませんよね。
わたしの回答にヤンさんが頷かれる。
「DEA内部にはブラックリストがありまして、逮捕できるほどの証拠はないものの、高確率でカルテルに雇われてる警官たちが無数にリストアップされてるんです。
相棒が病院に照会してみたところ、入院した警官のほとんどがブラックリストに名を連ねてました。それで、ですね・・・・・・大佐殿」
「はい」
「奴らは、まず確実にカリ・カルテルの賄賂ネットワークに組み込まれてる汚職警官たちです。普段はああも大立ち回りしたりしない、影に潜んでいる奴らがどうしたことか、一斉に大佐殿を狙って行動してる。
それは、また――」
――一体どうして? もっともな疑問提起でしたが、誰よりもその答えを知りたいのはわたしの方でした。
「分からないんです、ヤンさん。
誤魔化しじゃありません、本当にカリ・カルテルに狙われてる理由がわたしにはサッパリわからないんです」
「その、大声では言えませんが・・・・・・例の“囁き”うんぬんの可能性は、ありませんか?」
最終決戦に挑むに当たり、今さら機密保持もないとわたしは、最後まで付き従ってくれた部下たちにウィスパード関連の事情を打ち明けてました。
その反応は・・・・・・まあ様々でしたが、ほとんどは納得はできるけど理解はできないという半信半疑なものでして。ヤンさんの尋ね方からして、彼は今もまだウィスパードとそれがもたらした時間災害に懐疑的なままであるみたい。
「わたしもそれは考えましたけど」
「例えば、アマルガムの残党がカリ・カルテルに誘拐を依頼したとか?」
「わたしついさっきまでチャイナドレス姿の麗人に捕まってたんです」
「・・・・・・ええと、そいつは自分も見ましたけど」
「パブロ=エスコバルは、自首の条件として自分で建てた刑務所になら服役すると宣言し、それをどうしたことかコロンビア政府は受理してしまった」
すべてにおいて理解不能、でもそれが現実に起きたことなのだから堪りません。
「わたしはですねヤンさん。今日一日だけでも謎の双子に、チャイナドレスとカウボーイ姿のシカリオ、赤毛の爆弾魔といった、これまでの数奇な人生からしても推し量れない、ありえないレベルの奇人変人たちとたくさん遭遇してきたんです」
「は、はぁ・・・・・・」
「正直にいいますと――まだすべてが偶然なのではないかと、そう疑ってたりするんです」
おとぎの国は合理主義とは無縁。人知を超えた何かが、ここにはあるのではないかという疑問が払拭しきれないでいる。
同時に作為みたいなものを感じてしまうのも、難しいところなんですが。
「ヤンさん、増援を呼べない止むに止まれぬ事情は理解したつもりです。でしたらここを脱出してから、わたしが匿名で通報するというのはどうかしら?」
「ここの施設をですか?」
「はい・・・・・・見ましたか? この部屋の中」
「ええ」
ヤンさんが嫌悪で顔を暗くさせました。
「別の部屋でしたが、ここで何が行われていたか説明はいりませんね」
「・・・・・・これがカルテルのサイドビジネスという可能性は?」
「ない、とは言い切れませんね。南米は人身売買の本場でこそないですが、前例はいくらでもありますし・・・・・・それに、いかにもカルテルらしい陰惨なビジネスだ」
プロの軍人から捜査官に転職したヤンさんも、やはりわたしと同じ結論に至ったみたいです。
「ですがここまでの規模で行われていたケース、自分は寡聞にして知りません」
「これが初めての事例という訳ですか。ヤンさん・・・・・・じゃなくて、今はヤン捜査官と呼ぶべきかしら?」
「いえ、自分もずっと大佐殿呼ばわりしていますし、今更ではないかと」
「ではお言葉に甘えて・・・・・・ヤンさん。とにかく今はこの施設のから逃げだすべきだと考えます。それ以外の問題については、逃げたあとに考えても遅くはないわ」
ヤンさんの口ぶりからして、赤い部屋はここだけじゃない。そこまで大規模な施設なら、そう簡単に証拠隠滅はできないでしょう。
ノルさんはどうしてこんなところに・・・・・・。
「賛成ですね。ただ、ちょっと一筋縄ではいかなさそうですが」
「何か障害でも?」
「なにせここは海の上ですから」
さらりと出てきた単語に、わたしはきょとんとした顔をしてしまった。それを見たヤンさんは、やはり気づいていなかったのですかと言いたげな顔をされた。
コロンビア生活が長いためか、ちょっとだけ日焼け気味な肌をしたヤンさんが言いました。
「ここは、港に停泊しているMSCトラソルテオトルというコンテナ船の中です」
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