XXV “善玉、悪玉、卑劣漢”


【“テッサ”――MSCトラソルテオトル甲板】


 海水とマングローブ林の腐臭が夜風にのって鼻をつく、いかにもジャングルの下流らしい港の香り。急に吹いてきたちょっとした強風にあわや被っているキャップが飛ばされそうになり、慌てて手で抑えつける。


 以前とまったく同じ場所でタバコを吸いつつ、黄昏ているノルさんの姿が見えました。


 まるでデジャヴのよう。ですが戦いに赴くような先ほどの気分とは打って変わって、わたしたちの関係は大きく変わりました。そう信じたい。


 さっきまでは他人でした。ですが今は、リスクを共有してるいわば一蓮托生な間柄。横に並んだわたしを、もうノルさんは追い出そうとはしませんでした。


「ノルさん、イングランド国王のジェームズ1世は、タバコを地獄から立ち昇る業火の煙と表現して、国民の健康被害を減らすためにタバコに重税を――」


「言われたことは全部やった。急な要求にしては小道具もまあそこそこ万全、いざという時のために大量の輸血パックと医薬品をかき集めたし、闇医者も手配しておいた。もちろん例の装置デバイスうんぬんもな」


 とっても事務的な報告を、タバコの煙を吐きながらする彼。困ったものです。


「俺の分のノルマはちゃんと全部こなした、ケティの方もほとんど終わったそうだ。今頃ハシケに載せた装備を陸揚げして、トラックに載せ替えているはず」


「順調で何よりですね・・・・・・」


「そんなにタバコが嫌いなのか?」


「違います。いえ違いませんけど、違うんです」


 ハスミンちゃんの謎かけがまだ引っかかっていたわたしの返答は、どこが歯切れが悪い。


「とまあ、俺たちがやるべきことは終わった。あとはそっち任す」


 いわば作戦の準備フェーズが終了、いざ実行の段階に移ったわけです。この綱渡りが過ぎる作戦の肝は、実はわたしだったりするのです。


 わたしが動かなければ、ノルさんたちも行動しようがない。


「テッサ、本当にこれでいいのか?」


「発案者に尋ねることじゃありませんよ、それ」


「・・・・・・よしんば作戦通りにすべてうまく運んだとしても、本当にやり切れるのかという不安がある」


「あら、わたしクソ度胸だけは自信があるんですよ?」


 なんやかんやと、ノルさんはまだ元傭兵というわたしのキャリアに疑問があるみたい。自分の容姿が世にいう傭兵のイメージとかけ離れてる自覚はありますから、当然ですけれど。


「十代の女の子が潜水艦の指揮をとる。そのために必要とされる素質はたくさんありますけど、やっぱり度胸が一番大きいんですよ」


「クソ度胸ね・・・・・・」


 経験者は語る。本物の証言というのは多くを語らずとも、ああこれは本当なんだなと感じ取れるものです。ノルさんだって、わたしが見かけによらないと感じ取っているからこそ、作戦参謀なんて大役を任せてくれたはずなのですから。


 会話が途切れる。誰にでも不意に訪れる意図しない気まずい沈黙。この場合、わたしにとってはそれは好都合なのでした。


 会話のトーンをちょっとシリアス寄りにして、夜風に煙を吹かす彼に尋ねました。


「ノルさん、真面目に答えてもらえますか――あなたどうしてそこまで、女装にこだわるんですか?」


 ひらひらとチャイナドレスの裾が風に揺れてました。真面目な顔して聞くにしてはちょっと筋違いなのでは? という疑問も当然でして、ノルさんは呆れ果てた顔をされる。 


「もっと他に聞くことがあると思うんだが・・・・・・」


 ごもっとも。


 ですがいきなり確信の質問を投げかけるのは、ノルさんの心に土足で踏み込むことと同義に思えてつい躊躇してしまったのです。


 まず段階を踏んでから、それにこれはこれで真剣に尋ねたい内容でもある。ハスミンちゃんの証言によれば、ノルさんは潜入の訓練も受けているそうです。女装もまたその一環なのかしら。


「これ見よがしに停まってるマッスルカーとか、普通は気になるもんだろう」


 ノルさんが顎で指し示した方角を見てみれば、埠頭に停まってるにしては怪しすぎる真っ赤な車の姿が見えました。マッチョ趣味の化身のような暴力的なフォルム。いかにもその筋の人が好きそうなデザインの車です。


「予定通りな展開にいちいち驚いてなんていられますか」


「まあ、そうだがな」


「それより質問に答えてください」


「嫌だ」


「もしかして気に触りましたか?」


「そうじゃないが、なんか癪だ」


 また訳のわからないことを・・・・・・。


「まだわたし、ノルさんの性格を掴みきれてないみたい。どうしてでしょう?」


「そのまんまの言葉を返すぞ。初めて会った時は、浮世離れしたただの間抜けな娘だと思ったのに・・・・・・今やこの堂々たる指揮官ぶりだ、訳がわからん」


「間抜けな娘・・・・・・」


「場の空気に流されて、いかにも怪しげなホテルのマネージャーにあっさり連れ去られるなんて、なんて生命力が低いんだと思ったものだ」


「ですけどあれは・・・・・・」


「ちょっと走っただけで息切れするような低体力に、平面の床ですら転げるようなナマケモノ以下の運動神経の無さを併せ持つ、ある意味で奇跡的な存在」


「・・・・・・」


「こういうのは大抵は足りない身体能力を頭脳で補うもんだが、賢いは賢いが、致命的にこの土地についての知識が不足してるせいで、自分から危険に突っ込んでいってることにまるで気づかない。

 誘拐しといて何だが、そんな危機意識でよくもまあこの歳まで生きてきたものだと感心するほどに――」


「てっきり下げてから上げる前フリだと思ってだまって聞いていれば!! どこまでわたしを貶めれば気が済むんですか、あなたは!!」


「あと仕草がいちいちあざとい」


「あざッ!! ・・・・・・そ、それの何が悪いっていんですか!?」


「媚び売ってるようにしか見えないから同性受けは最悪だ」


「だ・ん・せ・い・のあなたが知ったような口を聞きますね!? わたし、そんな指摘されたことないんですけど」


「テッサって、周りに年上の女しか居なかったろう?」


 あまりに的確な指摘につい固まってしまう。ミスリルには16歳以下の隊員は1人も居ませんでしたからねぇ。


「いえ、まあ、そうですけど・・・・・・なぜそれを」


「ハニートラップは俺の専門分野のひとつだからな。人間観察能力で勝てると思うな」


 あ、やはりそうでしたかと納得してしまう。


 意外と露出度が低いこのチャイナドレスですが、やはり高級ホテルという環境にこのセクシーさはよく馴染んでいたものです。彼女ではなく彼。そうと知っていてなお、わたしやはりノルさんの容姿に女性的魅力の方を感じてしまうのです。


 ですが皮肉、と表現すべきなのかしら? 


 同世代の男性とこうも気楽に喋ることなんて、普段のわたしには出来ないでしょう。やはりどこか一線を敷いてしまう。ですがノルさん相手だと、これが不思議と自然体で話せてしまう。


 いえ、不思議でもなんでもありませんね。なんやかんやと見た目の影響は大きいもの。


「あと異性にも受けが悪いな」


「えっ?」


 衝撃でした、話はまだ続いてる。


「より正確にいうと、好き嫌いが激しい印象だな。

 あざとい、子どもっぽい仕草というのは庇護欲を誘う。この子は自分がどうにかしなければならない、男側がそういった父性の強いタイプなら有効な戦略となるが、テッサのように外面と内面が真逆な、実際には無駄にタフな精神構造をしてるインテリともなると――」


「とも、なると?」


「まず相手に引かれる」


「し、知ったような口をきくじゃありませんか・・・・・・」


「もしこれが的外れな意見だったら、そんな風に声を震わせたりはしないだろう?」


「あのですねノルさん、これってば本題からズレてる気がするんですけども」


「とりわけ強い女に惹かれるタイプには、最悪なアプローチの仕方だな」


 脳裏を過ぎるのは、頬の十字傷が特徴的な彼。わたしの動揺をノルさんは目ざとく読み取っていました。


「そういうタイプが欲してるのは対等な相棒パートナーであって、上下関係じゃないからだ」


「うっ」


 思い当たる節が多すぎて心がチクチクする。


 ふとガハハハなんて、女性らしからぬ笑い方がイヤに様になっている友人が思い起こされる。最近はちょっと気まずくて、顔を合わせてられていないんですけど。


 そんな素振り見せた記憶はないのに、どうしてかノルさんはわたしのトラウマを的確に抉りにきていました。


「・・・・・・参考までに伺いたいんですけど」


「目を泳がせながら聞いてくるということは、まさか図星か」


「参考までに伺いたいんですけども!! 

 仮に!! ノルさんが仰るような根も葉もない推測が事実だったとして・・・・・・わたし、ど、どう立ち回れば良かったんでしょう?」


標的オブジェティボの情報は?」


「・・・・・・べ、べつに特定の誰かというわけじゃないんですけどね? あくまで仮定の話でして、実在の人物・団体とは関わりのない、この場限りのよた話なんですが・・・・・・」


「そいつにフラれたのか」


「そろそろ本題に戻りましょうか」


「フラれたんだな」


「だまらっしゃい」


 言い訳がましく聞こえるかもしれませんけど、本題から逸れているのは事実でした。


「じゃあこうしましょう、交互に質問しあっていくんです。そうすれば互いの疑問が氷解するうえに、わたしのトラウマも刺激されずに済むわ」


「こっちの利点があまり感じられないんだが・・・・・・まあいいか。これが腹を割って話せる最後の機会だろうし」


の機会ですよ」


「楽観主義は最悪だ」


「そうでしょうか?」


「自分の屋敷に、自分の肖像画を飾ってる麻薬王の次に最低だ」


 価値基準が独特すぎでした。いえ違いますね、彼にしたらこの例えの方が自然なんだわ。カルチャーギャップはどこにでも潜んでいる。


「では先行はわたしから」


「セコいな」


「といいますか、どうしてそうも女装に執着するのかまだ理由を聞かせてもらってませんよ?」


「別に大した話じゃない。

 むかし警戒心は強いが、女癖の悪いごろつきナルコスが居た。カリはどうしてかソイツを消さなくちゃならなかった。で、いつものようにウチにお鉢が回り、ソイツのお眼鏡に叶うような美貌の持ち主がたまたま俺しかいなかった。それだけだ」


「本当ですか? 切っ掛けはそうでしょうけども」


 今だに化粧してチャイナドレス姿である理由にはならない気が。


「でっかいお屋敷に、自分の肖像画なんて飾ってるような奴は死んで当然だ」


「そうじゃなくて・・・・・・あのノルさんって、自分が男性の身体に生まれてしまった女性であるとか、そう思ったことってあります?」


「なに言ってるんだおまえは・・・・・・」


 ここまで白眼視されるほど奇異な質問じゃないと思うのですが、この反応からしてハスミンちゃんの証言は正しかったみたい。ノルさんは性同一性障害ではない。


「任務のため変装する必要があった、というのは理解できますけど、別にそれを継続しなくてもいいでしょうに。

 ノルさん、男装もよくお似合いになると思いますよ? パンツ・ルックですとか」


「この脚線美を前にしてよくそんな台詞を吐けるな」


「いえ、それはまあ綺麗だとは思いますけど・・・・・・」


「永久脱毛済みだぞ」


「そう、ですか・・・・・・ちなみにノルさんっておいくつでしたっけ?」


「16だけど」


「・・・・・・わたし、年下の男の子と脱毛がどうのの話をする羽目になるなんて、夢にも思いませんでした」


 ノルさんはナルシストと証言したのはハスミンちゃんですが、なるほど鼻にかけるに足る美貌であるとは思います。ですが得てして美貌というのは、年齢を覆い隠ししまうもの。


 そうですか・・・・・・16ですか。この容姿でノルさんってば、わたしより4つも下なんですね。逆の方がよほど納得されそう。そのことを喜べばいいのか、嘆けばいいのか、自分でもよく分かりませんでした。


「テッサのようなエターナル処女ですら騙くらかせたんだから、この格好は戦術的にも有効ということなんだろう」


 失礼な物言いに顔を真っ赤にして反論したくなりましたが、それこそ相手の思う壺。あえて涼しい顔して躱そうとしましたが、あの細められた目つきからしてこちらの意図は見透かされているみたい。


 し、仕方ないでしょう、わたしの恋愛事情の悲惨さときたらトラウマレベルなんですから。好きでこんな風になったんじゃありませんよ。


 しばしのクールタイムを挟んでから、ノルさんは話を再開する。


「女装の理由は・・・・・・俺だって、最初は抵抗感はあった。だが――」


 不自然に言い淀むノルさん。彼はしばし、きっと無意識に腕に刻まれたタトゥーに目を落とす。死の聖人サンタ・ムエルテは夜のコロンビアの空の下で、蓄光塗料によってほのかに光り輝いてました。


「生きてようが死んでようが、周りから気にも止められない野良犬として過ごしていると、自分の価値を認めてくれるというのは、どんな形でも嬉しいものだ」


 ノルさんの言葉の裏にある人影がチラつきました。わたしは顔も知りませんが、死してなお“ママ”の存在感は、この船のそこかしこに残留思念となって居座っている。それこそノルさんの腕の中にすら。


 相手が生きているなら面と向かって否定することができる。ですが死者は語れません。残された者には生前の記憶を都合よくつなぎ合わせて、その意図に想いを馳せることしかできないのです。


 残虐な実験、それを上回る陰惨な娼館の経営者。わたしにとって“ママ”というあだ名ワークネームには、そういうネガティブなイメージしか抱けません。ですがノルさんにとって“ママ”という名は、それ以上の意味があるに違いない。


 だったらなぜ・・・・・・ノルさんは反乱を起こしたのかしら。その結末として“ママ”を殺害したのは、誰あろうノルさんである筈なのに。


「まあ理由はこんなところだ。それよりも、こっちのターンだな」


 そうでした。そういえばこの会話ってターン制でした。ルールを決めたのはわたしなのに、つい頭からすっぽ抜けてました。


 意外と律儀なノルさんですけど、この女装についての質問、いまいち納得しきれていない気もします。ですがまあ約束は約束ですか。


「ではどうぞ。公序良俗に反しない限りにおいて、なんでもお答えします」


 するとノルさんは質問が多すぎて絞りきれてない、そんな悩み顔を浮かべる。


「本当に、極秘の傭兵部隊なんて意味不明な存在を率いてたのか? 

 いやこれは後回しでもいいか、それよりも・・・・・・指示されるがまま準備してきた後で言うセリフでもないだろうが、カリを裏から操ってるのがCIAだなんて、どうしてああも確信ありげに断言できたんだ?

 それは証拠らしきものは色々あげてたが、どれも決定打に欠ける」


「今さらそれ聞きます?」


「・・・・・・どうなんだ」


 子ども達には口が裂けても言えないある事実、この作戦が上手くいく保証はないのです。むしろ失敗する可能性の方が遥かに高い。


 ですがノルさんなら、すべてを打ち明けても構わないでしょう。だってわたしたちは一蓮托生、どちらかが死ねば共倒れになるのは目に見えている。そもそもこの質問の機会を設けたのはわたしの方ですし、ね。


「そうですね、いい機会かもしれません。でもどこから話したものかしら・・・・・・ちなみにですけどノルさんって、ミスリルという組織をご存知ですか?」


「知ってる」


「えっ? 本当ですか?」


 知ったかぶりでなく? 訝しむわたしにノルさんは答えました。


「噂だが、ベリーズにあったモンドラゴン・ファミリアの本拠地を叩き潰した傭兵組織がそう名乗っていたらしい」


「ああ・・・・・・そういう繋がりですか」


 ミスリルは創設当初から、徹底的に自分たちの存在を秘匿しづつけてきました。


 ですが完全無欠にあれほどの巨大組織を隠し続けることなんてとかく不可能です。ですからミスリルは自分たちの痕跡を消すことはもちろんの事こと、あえて怪しげなカバーストーリーを流すことによって世間を騙くらかしていたのです。


 そんな欺瞞情報を自動生成するAIは、今だにどこかの企業のサーバーで絶賛稼働中だったりします。お陰でミスリルはイルミナティやエリア51と並び、新たな都市伝説に昇華しつつあったりします。


 これはミスリル関係者にとって吉報でしょう。消滅してなおミスリルを裏から援助してきた協力者たちの多くはまだその地位を保っているのですから。各国の軍や政府中枢のメンバー、ミスリルにとって最大の援助者であったマロリー卿亡きあと、彼らが実質的には口止め料にあたる元隊員たちの年金や、先ほどのAIの管理などを担っているのです。


「割とミスリルの存在って都市伝説化してると思うんですが、よく信じる気になりましたね?」


「政府が公にしたくない死の部隊なんて南米にはゴロゴロしてる。だから極秘の傭兵組織なんてのが実在してても、特段に驚きはしないな」


「本当にもうこちらの常識って・・・・・・」


「だがまさか中身がコレとは」


「コレとは何ですか、コレとは」


「礼を言っておく。テッサの古巣が余計なことしてくれたお陰で、家なき子になったモンドラゴン一党がうちの国に大挙して押しかけてくることになった。ありがとう」


「それは他の戦隊の仕業です、わたしに責任は一切ありません」


「タチ悪いな」


 素のノルさんってけっこう口が悪いですね。それとも見た目のトリックは口調にも波及してるのかしら。言ってることが同じでも大人の女性の口調ですと、毒気が低減されるとか。


 ですが実際問題、わたしは本当に知らないんです。


 わたしの守備範囲から中南米は遠く離れてましたし、大佐という地位にこそあれ、ミスリル全体からすればわたしなんて、巨大組織を動かす歯車のひとつにすぎなかったのですから。


「すみません、組織の詳細についてはお話しできないんです。わたしはともかく、下手に情報を漏らせば、部下たちに危害が及んでしまうかもしれませんから」


「・・・・・・それだ。その部下たちとかナチュラルに言ってのけるから、嫌な説得力があるんだ」


「そうでしょう、そうでしょうとも。自慢できることじゃありませんけど、ほんの一時なんて最高司令官を務めたぐらいなんですからね」


 もはや自虐でした。


 まっとうに上り詰めわけでなく、他に責任を取れる人が居なくなったからというひどく消極的な理由でしたし。


「テレサ=テスタロッサ、階級は大佐。ミスリル西太平洋戦隊の戦隊長にして、強襲揚陸潜水艦“トゥアハー・デ・ダナン号”の艦長兼生みの親」


「親?」


「あのTDD1は、わたしが設計しましたから」


 ノルさんはちょっと混乱してるみたい。ミスリルについてだってまだうまく飲みこめていないのに、西太平戦隊ですとか、この世にふたつとない艦種である強襲揚陸潜水艦ですとか、ズラズラ用語を並べ立てられてしまったのですから。


 わたしからすれば、ちょっとした自己紹介。ですがこれでわたしは、ミスリルと結んだ機密保持契約の重大な違反者になってしまった。


「あーあ、なんてことかしら、機密を破ってしまったわ。これでわたしの年金はご破産です、どうしてくれるんですかノルさん?」


「この程度でか?」


「この程度でもですよ。

 ミスリルは時代の要請のもと立ちあがった組織です。冷戦コールド・ウォーが終わった今となっては、もはや関係者にとって重荷でしかありません。

 本音をいえば、機密保持の名の下でなされる膨大な出費をすぐにでも削減したくて仕方がないでしょう」


 明日にでも起こりうる第3次世界大戦。その危機感があったからこそ、各国の内諾を受けつつミスリルという超法規的集団は立ち上がったのです。


 ですがどんなに言葉を繕ったところで、法に照らせばミスリルという組織は、国際法に山ほど引っかかる私兵集団以外の何物でもありません。


 組織としてのミスリルは崩壊しきってますが、厳しい罰則規定だけは今なお生きている。ミスリルが都市伝説にあらず、実在していたと暴露されると誰もが――前述の通り元隊員にとどまらず、各国の政府高官とかも――被害を被るわけで、ペナルティだけは存続せざる終えなかったのです。


 合言葉は、文句を言うならお金はあげない、そんなところかしら。

 

「テッサって年金で生活してたのか?」


「いけません?」


「なんとなくいけないような気もする」


 紛争地帯で育ってきた十字傷の“彼”もそうでしたけど、極端な環境に置かれると否が応でも知識は偏ってしまう。


 ノルさんは、こんな船を家と呼んでいた。ですから年金という言葉を聞き齧ったことはあっても、具体的にどうとは分からないみたい。


「金回りの話はよく分からない。なにせ人生で一度も給料とか貰ったことないし」


 あの杓子定規に過ぎる身代金を思い出す。作戦予算を与えられ、その範囲内で行動しろと求められることはあっても、自由にお金を使う機会なんてこれまでなかったのでしょう。


 ですがそれで士気を保てるのでしょうか、という疑問は残ります。


 この船の管理者たちはノルさんたちを奴隷扱いしていた。ですが古代ローマにおいてすら、奴隷たちは最低限のお給金は貰っていたわけで、まさかそれが反乱の理由じゃありませんよね?


 それはないと信じたい。実際、そうでないとノルさんはあっさり否定されました。


「ただ株は持ってたな」


「あの、ちょっと話が飛躍してる気が・・・・・・」


 ストックオプションじゃあるまいに。困惑するわたしに、ノルさんはさも当然という風に返してくる。


「ん? 別におかしくないだろ? カルテルの構成員がカネを出し合って、仕入れ値でヤクドロガを幾らか買い取るなんてのは昔からやってる」


「それが株式の話とどう繋がるんですか?」


「産地から離れれば離れるほどヤクの価格は倍々に跳ね上がっていく。末端価格にもなれば、その価値は数千倍にすらなりかねない。

 だから自分が投資した商品をちゃんと買い手に届けられさえすれば、その差額を組織から払ってもらえるんだ。普通に報酬を貰うよりもずっとギャラは大きくはなるが、もちろん当局に押収されたら丸損ていう、でかいリスクもある」


「構成員の懐は温まり、カルテルからすれば、勤労精神とついでに忠誠心も一挙に買えると・・・・・・よくまあ思いついたものですね」


 ノルさんの仰るとおり、株という表現は的確すぎでした。いえもはやまんまですね、ようは配当金制度じゃないですか。


「俺たちがこなしてきた仕事1件につき、その“株”が俺たち名義で買われてた・・・・・・らしい。その口座番号さえ知っていたら、こんな出鱈目な誘拐なんてしなくても済んだろうに」


「そんなに?」


「ミハイル・・・・・・ロシア人の教官いわくだけどな。人生を2、3度やり直せるぐらいの金額はあったらしい。それが俺だけでなく兄弟カルナル全員分だから、総額は相当なものになるだろう」


 希望をチラつかせていいように働かせていただけ、そういう穿った見方もできますけど。


「あの、麻薬密売について詳しく知らないんですけど、そこまで濡れ手に栗で儲けられるものなんですか?」


 言葉は悪いですが、下っ端が一方的に設けられる構造をカルテルが維持していたとは思えませんから。


「うん、まあそこは他の商売とさして変わらないらしい。当たればデカイが、ただし失敗しても正規の商売じゃないからセーフティネットなんてまるで無い。尻を拭えるのは自分だけだ」


「やっぱりそうですよね」


「コロンビアから目的地たるアメリカまでヤクを届けるには、二通りのルートがある。

 一つ目は内陸に沿って、中米経由でメキシカン・カルテルに商品を預けて国境を越えてもらうパターン。こっちはルートが確立されてるから成功率は高いが、そのルートを抑えてる各国の犯罪組織にもろもろの諸経費を払わなくちゃならない」


 いわゆる中間搾取、これがコロンビアからメキシコに麻薬戦争の最前線が移り変わっていた最大の理由でした。メキシコを経由しなければ商品を届けられないのですから、自然とメキシカン・カルテルの財力は肥え太っていく。


「だから儲けは雀の涙だ。パブロ=エスコバルの時代は遠くなりけりだな、堅実にやろうとするほど儲けるどころかその日の暮らしすら怪しくなる。

 それでも法律に沿って真っ当に生きようとすれば餓死する他ないスラム街の住人からすれば、それ以外の選択肢もないんだが」


「ですが、カリ・カルテルはずいぶん羽振り良さそうに見えるわ」


「カリブ海ルートを使って国際展開してるからな。船ならメキシコ人に税金を巻き上げられる心配もない。

 ただこっちのルートはまさにハイリスク・ハイリターンでな。莫大な投資をして潜水艦なんか作ってみたところで、沿岸警備隊アメリカーノのハイテクには敵わない。カリブ海は奴らの庭だから見つかればそこでお終いだ。

 税金を取られるどころか、商品すべて没収されて手元には一銭すら残らない」


「ということは、先ほどの株式を活かすためには、当局に没収されない正しいルートを見つけだす必要があると」


「飲み込みが早いな」


 ここら辺も本当に株式みたい。正しい銘柄を買い続ければ誰でもお金持ちになれますが、それが出来たら誰も苦労はしないというお話です。


「カリは、といいますかこの船の管理者は、絶対に当局にバレないルートを知っていたりするのかしら?」


「そんなものある訳ないだろう」


「です、よね」


 そうでなければ、カルテル流の株式制度なんて成立しないでしょう。


「これまでずっと安全だったのにある日突然、当局の手入れがあって破産した麻薬業者なんてごまんと居る。

 飛行機に潜水艦にモーターボート、そしてもちろんコンテナ船。なまじ一度にたくさん運べるせいで、摘発されたら被害は尋常じゃないレベルになる。かといって少量ずつ運べば輸送費用で足が出る。メキシコならトラックで国境を何度も往復すればいいだけだが、船だとそうもいかないからな。

 トラック一台の被害はせいぜい数万ドル、だがこれが船だと数千万ドルは軽い、下手をしたら億ドル単位だ。その負債が一気に組織にのしかかってくるんだ。カリという組織全体なら儲けも出るが、末端の奴らにとっては致命的だ」


「ですが上手くいけば」


「だからハイリスク・ハイリターン。最後にものを言うのはいつだって運なのさ」


「それなら、どうやって人生を何度も買えるほどの金額を貯めることができたのでしょう?」


「別に不思議じゃないさ・・・・・・だって“ママ”は預言者なんだから」


 予言とはまた、ファンタジックな話が飛び出てきたものです。


 ハスミンちゃんも言ってましたけど・・・・・・しかし何が不思議かといえば、ハスミンちゃんもノルさんも、神秘主義者には見えないことです。むしろこのまるで似ていない義兄弟は、2人揃ってひどく現実主義者に思える。


 なのに“ママ”が預言者であったという話をなんでもない事のように、そう、まるで単なる事実のようにノルさんは語っていた。


「・・・・・・ノルさんあの」


「CIAとカリとの繋がりについて、まだハッキリ答えてもらってない」


「そう、でしたね」


 踏み込むこともでしたでしょうが、まだわたしには怖かった。


 この船で行われていた非人道的行為の元凶である“ママ”は、絶対悪であり死んで当然。そんな単純な構図ではないと、ノルさんの態度から察せられてしまう。死してなお、いえだからこそ、彼は“ママ”という存在に強く引きずられている。そうとしか思えないのです。


 不思議でした。“ママ”というあだ名はもちろん、この船で訓練された兄弟カルナルと呼ばれたシカリオたちといい、奇妙な家族主義が透けて見えるのです。


 ノルさんのご両親は亡くなられている。ハスミンちゃんも、カロリナちゃんもそうでしょう。あの子たちは皆、両親にあまり良い感情を抱いているとは思えない。なのにノルさんを兄さんと呼んで、擬似家族になろうとしている。


 どれほど疎遠になろうとも、家族という最初の他人の影からは、人は逃れられないのかもしれません。


 兄と殺し合ってしまったわたし自身、あれは仕方がないことだと納得していながらも同時に引っ掛かりを感じてもいる。どういう感情なのかうまく言葉にできないんですけど、ね。

 

 それに兄ほどでないにせよ、わたしの母についてもそうです。


 母がその死の間際に取った行動が、その後どれほど多くの人々の人生を狂わせていったことか。酷い母親だったと責められても仕方のない行為・・・・・・ですが現実はいつだって灰色なのです。


 黒と白、善と悪はいつも複雑に混ざり合っている。


 あの最後の決断を許すべきではない。ですがわたしと母との間に素晴らしい思い出がないかといえば、嘘になるのです。わたしの実母と、ノルさんが思い描いている母親ママは、もしかしたら似通っているのかもしれない。


 そう簡単に踏み込んで欲しくはない、重く切ない思い出という部分が。


「カリ・カルテルがどうしてCIAの支配下にあると気づけたのか・・・・・・実はそれってズルチートみたいなものだったんです」


 ノルさんがなんのこっちゃという顔をする。


 完全無欠なファムファタールという妖艶さはそのままに、そんなとボケた顔するものだから、わたしはつい笑ってしまう。


「ふふ。ノルさん、6次の隔たりってご存知ですか?」


「まさか煙に巻こうって魂胆じゃないだろうな」


「安心してください、そんな難しい話じゃありませんよ? むしろ知ったらそうなのかと、誰もが興味深く感じられる素晴らしい理論なんです」


 わたしはパッパッと、6次の隔たりについて解説していきました。


「平たく言えば、人類みな兄弟という理論ですね」


「分かりづらい」


 6次の隔たりとは社会心理学者のスタンレー=ミルグラム氏によって提唱されたスモールワールド理論の派生でありうんたらかんたら。


 やれと求められれば、こんな風にどこまでもアカデミックな解説もできはするんですけど、ノルさんの反応を見るに、平均仲介数の数式とかズラズラひけらかすのは逆効果ぽそう。


「そのまんま何ですけどねえ・・・・・・世間は狭い、という表現の方が的確だったかしら?

 一個人の触れられる社会なんて狭いものです。友人や職場の同僚、どんなに交友関係の広い人でも、本気で友だち100人なんて作ってる人は数えるほどしかいない。

 ですが見えないところで世界は繋がっているんです。平均して6から7人を間に介すと、全人類はどこかで繋がりを持つものなんですよ」


「ふーん。なら、俺の知り合いの知り合いの知り合い×6を辿れば、ヤポン・ニンジャとどこかで繋がりがあるかもしれないという訳か」


「好きですねニンジャ」


「ニンジャは凄いんだぞ」


 沖縄に住んでいたこともあるので、わたしのニンジャ像は日本の方々とさして変わらない、バイアスが一切かかってないものです。ですから日本以外の土地でしばしば見受けられる、それってどうなのというニンジャ像がどうにも受け入れられなくて。


 なんなんでしょうね、この謎めいたニンジャ崇拝は。


「ふむ、ニンジャが凄いのは分かったが」


「わたし、ニンジャの話なんて一切した覚えないんですけど」


「見えないだけで人類はどこかで繋がってる、だっけか。それはいいんだが、俺として話の繋がりの方を重視してほしいな。どうしてこんな話をした」


「・・・・・・父は米海軍に属する、ロサンゼルス級原子力潜水艦の艦長でした。

 でも一介の軍人にとどまらない、とても広い交流関係を持つ人だったわ」


 わたしの苦みのある語り口に、聡いノルさんはすぐ察しがついたみたい。茶化したりせず、真剣そのものにこう聞いてくる。


「幸せな死に方はしてなさそうだな」


 またズケズケ聞いてくるものです・・・・・・ですが嫌味は感じない。以前に聞かされたノルさんの身の上話、あれは真実なのでしょう。

 

 この土地には悲劇がありふれている。そう、わたしの故郷であるアメリカよりもずっと。はるか古代から暴力の連鎖サークル・オブ・バイオレンスが後をたたず、いつまでたっても血と暴力から抜けきれないでいる土地。


 だからこそカラカラと悲劇を受け止める土壌が、ここにはある気がするのです。


 ずっと蓋をしてきた自分の家族の話をしようと思ったのは、そういう風土も影響しているのかもしれませんね。メリッサにすら明かしたことがないのに、まだ知り合って間もないノルさん相手ですと、こうも口が軽くなるのが不思議でした。


 似たもの同士、というのもあるのかしら。


「そう、ですね。父が望んだ最期では絶対になかったでしょう・・・・・・わたしの生家、ポーツマスにある実家はとても風光明媚な所にありました。

 海に面してたのはここと同じですけど、気候は正反対。いつも寒くて雪ばかりでした。ですが厳しい寒さと引き換えに、とても静かで落ち着ける場所だったわ」


「雪か・・・・・・そういえば生で見たことないな。ありがたいことに、高地での仕事はなかったから」


「すごく良い場所ですよ? いつかノルさんたちを招待したいわ。でも、もうわたしの生家は焼け落ちてしまったから、泊まるならホテルを予約しなきゃダメでしょうけど」


「・・・・・・」


「父も自慢だったんでしょうね、よく友人を家に招待してました。

 友人や上官、それに部下たち、変わったところでは、遠くイギリスから尋ねてくることもあったみたい。ふふ、当時のことはあまり覚えてないのが口惜しいんですけどね。まだ小さかったから」


「ずいぶん顔が広かったんだな」


「そうですね。実の娘の贔屓目じゃないですけど、父は、本当に周囲から慕われてる人格者だったんです」


「そうか。ところで、焦れてるわけじゃないが・・・・・・」


「本題、ですね。分かってます。

 器用な方だったと思うのに、どうしてか日曜大工だけは下手くそだった父は、自分で直すと宣言しておきながらいつまで経っても直らない暖炉の前でゆり椅子に腰掛けながら、ウィスキーグラス片手によく招いたお客様と話し込んでいました。

 昔のわたしは――ちょっと人見知りだったのもありますけど――子ども心に不思議に思っていたものです。よくまあ父は、知り合ったばっかしの相手とああも仲良く話せるものだと。

 ・・・・・・そうあれは、93年の冬のことだったわ」


 そう押し入ってきた強盗たち、おそらくはそう偽装したどこかの工作員たちによって父が殺された月のこと。


 記憶力に自信はありますが、ありがたいことに完全記憶能力ほどではない半端者なわたしです。だからこそ思い出したくない過去に蓋をして、PTSDにならずに済んでいたのですが・・・・・・今回はそれが逆効果になってしまった。


 だってホテルで出会ったあのサングラスの男の顔に、すぐピンとこなかったのですから。ですがひとたび記憶の蓋を剥がしてやれば、詳細に過去のできごとが蘇ってくるのです。


「父はいつものように友人を家に招待していたわ。その時は確か、大学の講義で知り合ったとかいう、いかにもエリート然としたスーツ姿の初老の男性でした」


「93年・・・・・・エスコバルが当局に消された年か」


「そしてメデジン・カルテルの崩壊から、当局の目がカリへと移っていった時期ですね。ほら、世界は繋がっているでしょう?」


「そんなこじつけのために身の上話を?」


「まさか。その男性は、自分はカンパニー会社で働いてると話してました。ですが企業名は一切名乗りません。ただカンパニーの人間であると、頑ななほどに主張していた」


 カンパニー、それはCIAの代表的な別名でした。


「・・・・・・当ててやろうか。そいつは、家の中でもずっとサングラスを掛けてたんだな」


「大正解」


 ノルさんがわたしから視線をゆっくりと逸らし、ずっと手に持っていたタバコを口元に押し当てて、深く、深く、吸い込んで行きました。


 6次の隔たりなど、理屈をつけることは可能です。その方がきっと運命デスティニーなんて称するより、ずっと理知的で良いはずでした。


 そんなレトリックでは割り切れない感傷を、わたしたちは今2人して持て余しているに違いない。


 だってそうでしょう? わたしの父の知り合いがCIAの人間であり、ノルさんにとってはかつてのボスに当たるなんて。奇縁にも程があるんですから。


「なるほど、それは確かにズルだな」


 ノルさんの言う通り。わたしだって僅かな証拠から答えを導きだす、名探偵を気取りたかったですとも。ですが真相というのは得てしてシンプルで、人の頭では理解し得ないものなのです。


「それならどうしてもっと早く言わなかった? ホテルで顔まで見たはずなのに」


「当時のわたしはまだ9歳でした。それに父の交友関係は広かったって言ったでしょう? 大勢いる父の友人たちを、ひとりひとり正確に覚えてなんていられませんもの。

 でも引っかかりはあったんです。どこかで見たような気がしてずっと考え込んでいたんですが・・・・・・そこにこの船の運営にCIAが関与しているらしい状況証拠が幾つも見つかって、そこからパタパタと記憶が繋がっていった。まあ、そういう訳です」


「なんて女だ」


「・・・・・・それ褒めてるんですか? 貶してるんですか? どっちです?」


「なんて女だ」


「またあなたは・・・・・・」


「だってそうだろう? ドン・ハイメの愛妻とそっくりかと思いきや、親父の旧友はCIAのエージェントで、カリ・カルテルの裏のボスだったって?」


 言われなくとも、運命がこんがらがりすぎというのは自覚していますとも。


「それと謎の声にいっつもささやかれウィスパリングていたというのも付け加えてください。わたしだって運命に翻弄されず、もっと自分の人生をコントロール出来たら良いのになーって、日々思っていますとも」


「何言ってるんだ?」


「いーえ、なんでもありません。聞き流してください」


 まったくもって人生とはままならないものです。とりわけわたしの場合、ちょっとハードモードが過ぎるのです。


 わたしが黙秘権を行使していると、ハッとノルさんはあることに気づいたようで、指先に挟んだタバコから灰が、安全柵の向こう側、海面へとこぼれ落ちていく。


「待った。じゃあ、カリの奴らがテッサを拘束したがってる理由ってのは、まさか・・・・・・」


「善意が必ずしも善行に結びつくわけじゃないということですね、きっと」


「・・・・・・」


 偏頭痛を堪えるようにノルさんは頭を抑え出す。その気持ち、よく分かります。わたしの周囲にいるのは粗雑な大人ばっかりで困ってしまう。


「あの夜、父とサングラスの男は色々な話をしてました。

 当時のわたしでは、知識不足でほとんど理解できなかったお話も、父と同じく軍人の道を歩むこととなった今なら分かります」


「・・・・・・ほとんど覚えてないんじゃ」


「わたしの記憶の仕方って、人よりちょっと変ってまして。頭の中の図書館にエピソードごと収まってる感じなんです。

 ただし古い記憶ほど歯抜けになって、どこに仕舞ったか思い出すのが一苦労なんですけどね。ですけど一度紐づけてあげれば、スルスルと必要ないことまで思い出せるんです。

 ついさっきまでは知らない言語で歌われる音楽みたいだったのに、知識の解像度が上がった今だと手に取るように分かる。やはり知は力なり、ということなんでしょうね」


「もしかして、なんだが」


「はい」


「テッサって・・・・・・天才なのか?」


「IQテストによれば、そういうことになってますね。

 でもわたしより凄い人は周囲にいっぱい居ましたし、自惚れられるほど凄い才能じゃありませんよ。

 ほら、わたしってばノルさんの身体能力にはとても及ばない運動音痴ですし、人には向き不向きというものがあって――」


「いらんフォローを入れるな」


「すみません・・・・・・」


「潜水艦を設計したうんぬんも、あれまさか本当なのか」


「もうちょっとわたしを信じてください、もう」


 閑話休題。本題に話を戻して行きました。


「あの夜の会話なんですが・・・・・・ほとんど与太話みたいなものだったわ。

 よくよく思い出してみても、わたしとノルさんの問題解決には残念ながら寄与しなさそうです。2人ともアルコールが入ってましたしね。

 ただあのサングラスの男性がひけらかした己の哲学に関してだけは、また別かもしれませんけど」


 幼心にも深く、印象に残っていた言葉。それをあのサングラスの男はどこか得意げに、父へと引けらかしていたものです、


 その言葉をわたしは、ノルさんに語って聞かせました。


「“人の命は平等じゃない”――サングラスの男はそう言ってのけてたわ」


 傲慢さが透けて見えるその発言を、ノルさんはとって分かりやすく要約してくれました。


「そう上から目線で断言できる側に居るかぎりは、そいつは魅力的な考えなんだろうな」


「・・・・・・そう、ですね」


 すべては偶然だった。


 偶然が偶然を呼び、結果的に必然となる異常事態。でもどこかこのおとぎの国らしいとも感じられる。


 だってどこかの誰かが裏からすべての糸を引いてたなんて秘密結社オチより、ずっとマシかもしれませんし。そんな存在、アマルガムのあんちくしょう共だけで十分です。


 ノルさんからの質問の答えはこれで十分でしょう。ということは、そろそろわたしのターンのよう。


「そういう裏事情があるなら納得だ。どうりであんな無茶な作戦を立てられる訳だ」


「素直に喜べばいいんですよ。これで作戦成功率が上がったぞー、って」


「なんか手のひらの上で泳がされてる気分がして、やだ」


「変なところでプライドが高いんですから。もう、素直になったらどうです? わたしに指揮権取られたのが実はまだしっくりきてないんでしょう、ノルさんてば」


「命令なら従うさ。これまでもずっとそうしてきたからな」


「・・・・・・質問の順番、覚えてますか? わたし、ノルさんときて、これで一周した形になります」


「そうだな。だが時間的にこれで最後だろう。そろそろ動かないと、スタジアムの清掃作業に乗じることもできなくなる」


「ノルさん。わたしは、あなたと似てる部分があるとさっきからそう感じてたりするんです」


「どこがだ? むしろ対極の存在だと思うけどな」


「過去に囚われている。ただその一点だけでこの際、十分だと思います」


 特にコメントはありませんでした。そろそろ吸い切ってしまいそうなタバコをただ、艶かしく口元に運ぶばかり。


「まだ全員から聞いた訳じゃありませんけど、ハスミンちゃんら子どもたちは、自分の未来のために戦っている。

 ですがあなたは・・・・・・そんな彼らのために命の危険を顧みず戦っていますけど、動機は違うところにある気がしてならないんです」


「・・・・・・」


「すべては贖罪のため何じゃありませんか? 自分が犯した間違いをせめても取り戻そうと、今こうして戦っている」


「そんな綺麗事じゃない」


「では、他にどんな理由が?」


「そっちこそどうなんだ。どうしてこの船に残った」


「さっきお話ししたでしょう。わたしだって関係者なんですよ」


「ここから先は必ず殺し合いになる。そしてもちろん、死ぬのは悪党だけじゃない」


「・・・・・・出来るかぎりそうならぬよう、作戦を組み立てたつもりです」


「そんな理想論が通じる世界じゃないと誰よりも知ってるだろう。

 まさかとは思ったさ、だがもう認めるしかない。テッサ、お前は確かに傭兵メルサナリオだ。

 こちら側の住人。義務でも強制された訳でもなく、自分の意志で敵を定めて殺す、シカリオの兄弟分だ。なるほど、確かに俺たちは似た者同士だな」


「ええ・・・・・・そうです、わたしだってロクでもない人間だわ。

 敵も味方も、多くの遺族にとってわたしは恨み言をぶつけるだけでは済まない、人殺しに過ぎません」


「慰めてほしいなら他を当たってくれ。傷を舐め合うのは御免被る」


「だけど過去に縛られてはいないわ。あなたとは違って」


 そうです、ノルさんはまだ腕のタトゥーを消せずにいる。烙印のようなそれを時たま眺めて、過去に浸っているのです。まるで懐かしむように。


「これがわたしの質問です。“ママ”という人物は、ノルさんにとってどういう人物だったのですか?」

 

「・・・・・・」


 返ってきた沈黙に、わたしはより詳細な質問をぶつけていく。


「この船の管理者たちの元締め。ということは、ノルさんが反乱を起こしてでも止めたかった出来事を定めたのも、その女性だったのでしょう?

 それなのにあなたは、まるで実の親であるかのように“ママ”という名を口にしている。どうしてなんですか?」


 自らをサンタ・ムエルテになぞらえて、あらゆる残虐非道を行なっていたMSCトラソルテオトルの主犯格。


 普通に考えれば、被害者であるノルさんはその女に憎しみを抱いて然るべきなのに、ですが現実には違う。そこには拭い去れない愛情が感じられる。そうです、本物の親子の情のようなものが。


 おとぎの国はまったくもって理解できない。そうやって上から目線で首を振ることはもはやできません。だってわたしは、彼らの事情に土足で踏み込むと決めたのですから。


 偉ぶってるタチの悪い外国女グリンゴ。ですがこの質問は、避けては通れないのです。


 だってこの船で人生に行き詰まってしまった子どもたち、その中にはノルさんの名も含まれているのですから。


 ただ救いの手を当人が望んでいるかは、また別問題。


 ノルさんはシカリオです。それが巧みに誘導され、強制されたものに過ぎないとしても、これまでこなしてきた仕事に自己嫌悪を抱いている。そうでなければ、ああもシカリオですとか無法者デスペラードについて、否定的な物言いはしないでしょう。 


 彼には、自分は加害者側なのだという前提がある。そう、それについては一概に否定できないでしょう。ですがそれが全てではないのです。


「理解できるはずがない」

 

 ノルさんはそう断言される。


「そうかもしれませんね。わたしもずっとそういう疎外感を感じてきました。自分はこの世界に必要のない人間だと。

 ですが、どうしてか友人たちは、わたしを一向に見放そうとしないんです。あなたにもハスミンちゃんやケティさんが居るでしょう?」

 

「・・・・・・」

 

「理解しあえないかもしれません。ですが知る努力はするべきだと、少なくともわたしは思うんです」


 ちょっと考え込むように黙りこくってから、ノルさんは言いました。


「・・・・・・俺だって、あの人のことはよく分からない。

 一体何をどうすればあんな破綻者になれるのか、世界最高の精神科医にだって理解できないだろう」


「破綻者?」


 それからゆっくりと、わたしでなく過去を見つめるように遠くへ目をやりながら、ノルさんは語り始める。


「年齢は50代ぐらい。だがそれよりもっと若く見えたな。亜麻色の髪をした白人で、言葉のアクセントが特徴的だった。たぶんルーツはヨーロッパ圏のどこかだ」


「地元の出じゃなかったんですね」


「そこはよく分からない。いかにも外国人ぽいのに、同時にえらく地域に通じてもいた。

 普通なら同郷の人間以外は信用しないカルテルで、それなり以上の地位についてたのも異常だ。

 もっともテッサの言う通りカリの正体がCIAなら、不思議じゃないのかもしれないが」

 

「CIAの規定では、親族が外国に居住してる場合、局員になることができないんだそうです。ですから人種の坩堝と呼ばれるアメリカの諜報機関でありながら、CIAの人員構成は、人種的にかなり偏りを抱えているとか」


「どうしてそんなに詳しいんだとか、もう理由を聞きたくもないな」


「すみません、お話に水を差してしまって」


「別にいいさ。だが、それなら“ママ”はCIAの人間じゃなかったのかもしれないな」


 すぐ側にいたノルさんですらよく分からないと零すのです。顔すら知らないわたしからすると、ますます“ママ”なる女性の人物像はあやふやなものになっていく。


 個人を形づくるアイデンティティが、まるで見えてこないのです。


「出身地問題はひとまず置いておく。

 血縁に頼れないなら、カルテル内で相応の地位に就くためには、周りより秀でた才能というやつが必要になってくる」


 それはどこの組織だってそうでしょうけど、ノルさんが言いたいのはそういう一般論でないことは、顔つきから分かりました。だから黙って耳を傾けつづける。


「100人殺してたらそれなりの地位につける。

 だがカルテルで真にのし上がりたいなら、周りの奴らに心底から恐れられる必要がある。父親の脳みそを息子に食わせたりとかな」


「・・・・・・」


「殺した人数よりも、どうやってやったかで一目置かれる業界なのさ。カリの大物は誰しも大なれ小なれ、そういった武勇伝を持ち合わせてる。

 そうやってテッペンまで上り詰めた幹部どもが、ちょっとメガネでも掛けさえすればそこらの主婦と見分けがつかなくなる“ママ”を心底から恐れていた」


「ですが、トラソルテオトルの話は外部には」


「ああ、知られてない。この船の出来事は外には漏れない、そういう仕組みになっている。どのみちカリは、互いの仕事には不干渉というのが鉄則だしな。

 だから奴らが恐れてたのは“ママ”自身の能力の方だった。先読みだ、なんて呼んで」


 例の予言うんぬんのことでしょうか?


「これは私感なんですけど、普段から命のやり取りをしている組織って、げん担ぎをよくするんです。わたしだってずいぶん教会に通ってないのに、出撃前の祈りだけは欠かさずにしてたぐらいですし」


「だから迷信深いカルテルの連中が、さながら怪しい宗教家の言いなりになるがごとく騙されていただけ、そう言いたんだな」


「ちょっと語弊を感じますけど、はい」


「うん、まあ、そういう側面も否定できないか。土地柄か、神を信じてる奴ばかりだからなこの辺りは。

 教会から犯罪者はお断りっだって締め出されて、仕方なく死の聖人を崇め出した奴らでカルテルはいっぱいだ」


「・・・・・・それで“先読み”の話ですけど」


「さっき株の話をしたろう」


「はい」


「せっかく投資したところで、そのブツがちゃんと目的地まで運ばれないと配当金は得られない。賭ける側としては、カリに無数にいる密輸業者の誰かを選んで、成功するように祈るほかないんだ。

 だがどうしてか、“ママ”の選んだ荷はかならず海を渡って、遠くアメリカまでたどり着いていた。普通ならせいぜい6割4部の確率が、“ママ”の手にかかれば95パーセントにまで跳ね上がる」


 それが事実なら、確かに異様な数値でした。


 ですがこれだけなら、詐術が入りこむ隙間はいくらでもあります。例えばですが、単純に“ママ”が失敗したケースをノルさんに話さなかった場合。


 あまりお金周りにノルさん自身、興味がなかったと話してましたし、突っ込んで聞いたところでトボけられたらそれまででしょう。


 詐欺師の上等手段にまんまとノルさんは引っかかってしまった。にしては、あまりに神妙すぎる語り口でした。


「カリの組織構造的に滅多に起きないんだが、それでも縄張りが重なる下部組織同士で、時おり会合は開かれてた。そこに俺も時々、護衛として同行してたんだが・・・・・・成り上がり者の、それも女だからな。やっぱり周囲から目をつけられていた。

 ある時、人を殴り殺すことで出世したような典型的な暴力幹部に、“ママ”が言いがかりをつけられたことがあった。育ちの悪さがよく表れてる罵詈雑言、それを“ママ”は微笑みながら受け止めて、こうポツリと言ったんだ」


「なんて?」


「1秒後にその暴力幹部が口にしようとしていた内容を、だよ」


 まさか・・・・・・そんな。


「まるで山びこのようだった。怒り狂って暴力幹部は大声を張り上げてたが、その言葉がどんどん尻すぼみに消えていった。

 暴力幹部が“クソ女め”と叫ぶ一拍前に、同じく“クソ女め”と“ママ”は囁いていった。側から見てる分には、まるで暴力幹部が“ママ”の言ってることを真似してるように見えたが、あの青ざめた顔を見れば分かる。何をいうのか、一字一句すべて先読みされてたんだ」


「・・・・・・」


「俺も不思議に思って聞いたさ、帰りの車中でどうしてあんなことが出来たのかって?

 質問すればいつだって“ママ”は丁寧に答えてくれた。彼女にいわく、時々、予知夢を見るんだそうだ」


「予知夢?」


「そう、自分がいずれ経験するであろう未来の光景、その断片を自分の目を通して見られるんだそうだ。

 だから“ママ”は隙あれば新聞に目を通していた、それか記事の切り抜きを貼り付けておいた愛用の手帳をな。

 見られる光景はいつもランダム、明日のことかもしれないし、10年後の出来事かもしれない。大抵はどうでもいい日常のふとした瞬間なんだそうだが、もし日々の生活の中で新聞を見る時間を増やしてやれば――」


「記事に載るような大事件を予見できる確率が上がる、ですか」


「ああ、“ママ”もそう言っていた」


 自己神格化のために自分が預言者であるかのように演出していた。まだそういう線は残ってはいますが、いやにロジカルなのが気になりました。


 まるで経験から導き出されたような地味な対処法で、儀式ががっていない。ですがまだその暴力幹部とやらと結託して、超能力を持っているように振る舞ったという可能性も残ってはいる。


 そんな疑問をノルさんは、即座に否定しました。


「“ママ”は言っていたよ、あの暴力幹部は3日後に死ぬって。

 なんでも新聞記事によれば、結婚式で打ち上げられた祝砲の弾丸が、弓なりの弾道を描きながら数キロ先にあった幹部の家まで降り注ぎ、運悪くもハンモックで寝転がっていたあの男の胸を貫くと。

 それを聞いた当の暴力幹部は、俺を殺すなら自分の手でやったらどうだとか、豪語してたが・・・・・・だが3日後、カリが雇っていた警察の検死官すら、暴力幹部の胸から摘出された9mm弾はどうしようもなく、結婚式場から発射されたものと一致していると断言した」


「そんな、まさか・・・・・・」


「幹部同士の殺し合いなんてカルテルじゃありふれてる。だが“ママ”が暗殺を演出したのだとしたら、問題は山積みだ。

 いつもの倍の警備体制を敷いていた屋敷にどうやって暗殺者を忍び込ませ、かつ脱出させたのか? これについては、少なくとも俺や兄弟カルナルの誰かの仕業じゃないのは明らかだ。それに弾道的に弾丸は上から降ってきたのは間違いないから、予言通りに殺したいなら容易く風に流される小口径の9mm弾を大砲よろしく頭上に打ち上げるしかない。そんな狙い方でどうやってピンポイントに心臓に命中させたのか?

 疑問点は他にもある。新郎の友人が持っていた9mmピストルの旋条痕と、摘出された弾丸は完全にマッチしていた。つまり殺害時に凶器は、10キロも向こう側にあった計算になる」


「ですが、偶然にしては出来過ぎに感じられるわ・・・・・・」


「それをお前が言うのか? まるで必然のような偶然に導かれてこの場所までたどり着いたお前が」


「・・・・・・」


 そう、偶然と呼ぶにはおぞましすぎる。


 予言なんて巷にたくさん溢れてますけど、その嘘を論破することは簡単です。固有名詞の出てこない予言なんて何の意味もありませんから。


 だとしたらこれは? 時刻、手法、どれもがハッキリと明示されている。なるほど、こんな能力があれば、どの便がちゃんと目的地まで届くのか手にとるように分かるでしょう。警察発表の記事を読み込めばいいだけなんですから。


 何かトリックがあるはず。わたしはまずそう疑ってかかり、幾つもシミュレーションを組み立ててみました。


 ですがやはり、そもそも前提となる情報量が少なすぎる。ノルさん1人からの伝聞に過ぎず、実際の現場や当時の状況を詳細に調べてみれば、穴も見つかるかもしれません。疑う余地は存分にありますが・・・・・・不気味であることに違いはない。


「それ以来、幹部連中は“ママ”について触れようとしなくなった。平気で銃撃戦に飛び込んでいくような奴らが、“ママ”の一挙手一投足に怯えきっていた。

 幹部が死んだ日の朝、届いたばかりの朝刊を広げた“ママ”の最初の言葉を昨日のことのように思い出せる。

 “ 4・8・15・16・23・42・・・・・・”」


「なんですかその数字?」


「宝くじの当選番号だ。あの会合で“ママ”はいきなりその数字をひけらかして、さっきのテッサみたいな顔を周りにさせていたさ。

 だが次の会合の時には、誰が真のボスなのかもうハッキリしていた」


「・・・・・・」


 わたしは出来る限り、自分のことをノルさんに明かすつもりでした。ですがそれにも限界はある。


 この予言について、合理的な説明をつけることは実は可能なのです。そう――ウィスパードであるなら不可能ではなくなる。


 人類が知りえないブラックテクノロジーをささやかれた者たちウィスパード。そもそもウィスパードが生まれた原因となったとは、過去と未来どちらにもアクセスできるある種の空間、オムニ・スフィアを観測するための実験でした。


 預言者なんてありえません。ですがウィスパードの本来のあり方とは、オムニ・スフィアを自分の意思で自在に観測できること。かつて兄が決して予測しえないはずの太陽風の到来を言い当てたように、原理的に予言は実現可能なのです。


 ですが・・・・・・何を馬鹿なと心の中でかぶりを振る。ありえない話が連発しすぎて、ちょっとナーバスになっているのかもしれません。


 確かにある特殊条件を達成すれば、完璧な予知は可能かもしれません。かつてソ連が目指したように巨大な観測機器を作って、その触媒としてウィスパードが関わりさえすれば、理論的には可能なのです。


 ですがこれって現実的にみて不可能そのものです。観測機器、すなわちTAROSの設計図をどうやって手に入れるのでしょう? シベリアにあるオリジナルは廃墟と化しましたし、あれを一から設計できる人材はもはやほとんどこの世に残っていない。


 そういった特殊条件をことごとくクリアして、真の意味での予知能力を手に入れたとしてもですよ? そんなスーパーパワーを使ってやることがカルテルの幹部にマウントを取るだけなんて、あまりにみみっちすぎです。


 そもそもこれって、“ママ”がウィスパードであるという前提がクリアされなければ意味がありません。


 誰もが無意識でオムニ・スフィアと繋がっていますが、明確に干渉できるのはやはり、能力者たるウィスパードだけなのです。


 そしてそのウィスパードとして能力が発現できたのは、今は亡きソ連、ヤムスク11で行われた事故の余波を受けてしまった新生児だけなのです。それも該当するのは、秒単位のタイミングで生まれたきた子どもたちだけなのですから、ノルさんが語った恐らく50代というプロファイリングからして、“ママ”なる女性がウィスパードであるはずがない。


 わたしと同い年でなければ、能力は発現し得ないのです。


 その暴力幹部さんとやらの会話パターンを分析して、予測した成果でもって舌戦を制する。そのあと一見すればありえなさそうな暗殺を裏で仕組んで実行した・・・・・・とか?


 どうもしっくりこない結論ですね。宝くじの件とか、もうお手上げ状態ですし。


 聞けば聞くほど、“ママ”という女性が分からなくなる。普通は逆なのに、どうしたものか。言い知れぬ不気味さばかり増していく。 


「あの人の本名だって誰も知らないんだ」


 ノルさんは、そう語られる。


「名乗ったことは一度もない、“ママ”というあだ名にしても周囲が、俺たちが勝手につけた名だ」


「その由来を窺っても?」


「単に母親みたいだったからさ。手料理を振る舞ってくれたり、本を読み聞かせてくれたりとかな。腕に注射痕のない大人の女性はみんな初めてだった」


「・・・・・・ですがその裏では」


「矛盾だな。だがそんなのこの国ではありふれてる。

 パブロ=エスコバルだってそうだ。度のすぎる愛妻家、誰よりも家族を愛し、同時に数千人を殺しても眉一つ動かさない。

 それと何も違わない。あの人の中では、愛情とムエルテは等価値だったんだ。

 親に殴られることしか知らなかったガキたちと食卓を囲み、その頭を撫でて愛情を注ぐことも、直後その頭を銃でぶちまけることも、あの人の中ではまるで矛盾していなかった」


「理解、できないわ・・・・・・」


「だろうな。この世界のすべてを心の底から愛しておきながら、同じ場所に火を放つことをまるで躊躇しない。

 だから言ったろう、破綻してたって」


 何をどうすればそんな人格が成立するのか、怖気のようなものが背筋を駆け上がっていく。


 ですがこの船の異様さに、ある程度の説明がつく気もします。一から十まですべて、MSCトラソルテオトルのあり方はこの“ママ”という女性の思想のもとに成り立っていたのでしょう。


 カルテルやCIA、そういった制約から外れたところにある、女王を頂点とした蝿の王国Kingdom of the Flies


「だが」


 ノルさんは、感情の読み取れない顔をしていました。


「生まれた時から世界は残酷だと思い知らされてきた奴らからすれば――あの人は紛れもなく母親ママだったんだ・・・・・・」


 奴ら、その中に他ならぬノルさん自身が含まれていることは、あえて指摘するまでもないでしょう。


 無数の矛盾。そのすべてを抱えながら最後にノルさんは、そうまで慕った人物を自らの手で殺害したに違いないのです。


 だってノルさんは、何もかも自分1人で抱え込んでしまうタイプであると、十分に思い知らされていましたから。


 ここまであえて指摘してきませんでしたが、先のテオフィラさんとの交渉の席で、ノルさんは減額を申し出ました。


 最初は100万ドル、すなわちビューティフル・ワールド号なんて皮肉が過ぎる現代の奴隷船に乗せられた子どもたちの分を、次いでもう7万ドル、すなわち1人分の密入国費用―――自分の分を減らすとそう提案したのです。


 困りました・・・・・・。


 わたしの専門分野は多岐に渡ります。ですがその中に人間関係が含まれていないのは、わたしの乏しい交友関係からも明らかです。


 ましてや異文化が過ぎるこの土地をどう解釈すべきか朝からずっと頭を悩ませているというのに、ここでいきなりノルさんの心の中に踏み込むなんて・・・・・・すべきなのかしら。


 ですがそう、無視もできません。だって自分の分の密入国費用を減らしたことといい、頭に拳銃を突きつけてわたしに迫ったことといい、無視していい筈がないのです。


 ノルさんには―――自殺願望がある。


「・・・・・・ノルさん」


「ん、何か言ったか?」


 やっとの思いで絞り出したか細い声は、わたしの躊躇のせいで波音にかき消されてしまった。


 もしちゃんと発声できていたとしても、一体どう言葉を続けるつもりだったのか自分自身でも見当がつきません。代わりに出てきたのは、お茶を濁す情けないワード。


「・・・・・・タバコ、そろそろ捨てた方が良いですよ」


 なんて当たり障りのない言葉でした。


 長すぎる会話のせいで、タバコの火はもうすぐノルさんの指まで達しようとしている。ノルさんも気付いていなかったみたい。チラッとこちらを見つめてくる。


 すぐ察する。普段はきっと、ピンとタバコを海面に放りでもして処理していたのでしょう。ノルさんの美貌と相まってそれはもう絵になる仕草でしょうが、論ずるまでもなくいけないことです。


「もう、次からはせめて携帯用の灰皿を持ち歩いてくださいね」


「てっきり吸ってること自体を説教してくるかと思った」


「それをいま我慢してるところです。せっかく運動神経に秀でてるんですから、肺機能を低下させるタバコを愛飲するのはどうかと思うんです。

 見た目からはとても信じられませんけど、ノルさんってまだ10代なんですし・・・・・・その、社会通念的にも」


「“ママ”みたいなことを言うな・・・・・・熱っ」


 ノルさんにとっては何気ない軽口、ですが先ほどの会話を踏まえると、一筋縄ではいかない感情が押し寄せてくる。


 もう限界ギリギリ、褐色肌の指先をちょっと焦がしてしまったノルさんは、意図せず海面に向けてタバコを取り落としてしまいました。


 巨大なコンテナ船と埠頭の狭間、まるで狭い水路のように見える緑色の海面に向けてタバコはくるくるこの葉のように落ちていく。すると、ただでさえ小さな物体はすぐさま水の泡とぶつかって、見えなくなってしまいました。


 ある種当然の結末。ですがその直後に起きたことは、とても普通の事態じゃありませんでした。


「ん?」


 まずノルさんが、安全柵の向こうに首だけ乗り出しながら呻く。


 わたしもすぐ異常を察しました。今は微風なのに、水面がひどく荒れている。それも私たちの眼下にある水路のような海面だけに、奇怪な渦がとぐろを巻いていくのです。


 まるで巨大なにかが水底に潜んでいるが如く。


「ワニか?」


 自然と野生動物に事欠かないコロンビア。ましてやこの港の立地は、海と川の中間地帯なのです。野生のワニの1匹や2匹ぐらい、居てもおかしくはないのでしょう。


 ですがわたしは、違うと断言できました。


「いいえ、生き物なら気泡が浮かんでくるはずだわ」


 なのに泡なんてまるで見受けられません。ただ、渦を巻いているばかり。


 暗いから見落としたというのもまずありえないでしょう。確かに時刻は深夜帯、暗いは暗いのですが、コンテナヤードを照らす人工灯はいまだ直視したら目が焼けてしまうほどに激しい光量を保っている。


 ゆらり、やはり水面下で何かが蠢めいている。


 泡は相変わらず浮かんでこないのに、どうしてでしょう、渦の大きさと激しさは加速度的に増していき――本能的な警戒心が、柵に添えられたわたしの手のひらをじんわりと湿らせていく。


 “中に戻りましょう” そう言いかけた矢先のことです。


 海面からではなく、港方面から燃えるの光の連なりがわたしたちに襲いかかってきたのです。


「!!っ」


 ノルさんが何がしかを叫びながらわたしを組み伏せ、甲板へと引き倒していきます。聞き取れやしません、だって周囲では弾丸が弾けまわっているのですから。


「きゃ!!」

 

 わたし短い悲鳴は、すぐ船壁に叩きつけられていく着弾音によってかき消されてしまった。ざらつく甲板に頬を押しつけられながらわたしは、安全柵の隙間から弾丸の出本を探りました。


 先ほど見かけたマッスルカーの方角で、パッパッと炎が瞬きます。見間違えようもありません、あれは銃口炎マズルフラッシュだわ。


 途切れのない発射間隔からして、敵を雨のような銃弾で射すくめることを目的として設計された、分隊支援火器SAWに違いありません。その気になれば何百発も連射できるマシンガンの一種。


 ですが射線が高すぎる・・・・・・これではわたしたちには当たらないでしょう。その割に、曳光弾の軌跡は正確そのもの。敵の目的はどうやら、わたしの殺傷ではなく確保にあるようです。


「兄さん!!」


 ハスミンちゃんの心配する叫び声が聞こえてきました。あの子、もしかして近くで聞き耳を立てていたのかもしれません。


 わたしが出てきた船扉の向こう側に立っているハスミンちゃんは、そこから一歩も動けずにいました。


 マッスルカーの銃撃位置からすれば扉の内側は死角、ですが僅かでも身を晒せば、すぐさま蜂の巣になってしまうでしょう。明らかにあの機関銃SAWは、扉付近に弾幕を張ることを企図している。


 わたしたちの退路を塞ぐつもりなんだわ。


「引っ込んでろッ!! 頭を出すなッ!!」


 ノルさんがハスミンちゃんに警告を飛ばす。言われなくても賢い彼女のこと、ノコノコと姿を晒したりはしませんでした。


 他にできることがあると、自分で判断できる子なのです。


「誰か呼んでまいります!! それまではッ!!」


 身を翻して、船内に消えていくハスミンちゃん。そんな彼女を地面に突っ伏しながらわたしたちは、ただ見送ることしかできませんでした。当てないように配慮しているとはいえ、気まぐれな弾丸がいつこちらを貫くか知れたものじゃないのですから。


 まさに進むも地獄、引くも地獄という立ち位置でした。


 背後に下がりたいのは山々なんですが、船扉ではもはや射的のマトのよう。ですが他の逃げ場は、船首までつづく細く長い通路しかありません。


 匍匐前進すれば弾丸にあたらず通路を進めるでしょうが、何百メートルを這い進まなければならないのでしょう? そんな時間的余裕、敵が与えてくれるとも思えません。


 かといってここに残るのもマズいのは明らか。


 敵は加減を知らないカルテルの人間なのです。倒れた拍子に脱げてしまったTDD-1の潜水艦キャップを握り締めながら、わたしは必死に最適解を模索していました。あくまで退避する方法を。


 ですがやはり、ノルさんとわたしの考え方は違うみたい。いついかなる時でも攻撃こそが最大の防御というのが彼の哲学なのです。


 来るべきカルテルからの報復を防ぐべく、ノルさんとケティさんのシカリオ・コンビが手始めに行ったのは船の要塞化でした。例えば、救命用具入れにアサルトライフルを隠しておくなんてのもその一環なのです。


 流れ弾のせいで強度が落ちていた用具入れのドアは、伏せたままでも威力がまるで衰えないノルさんの蹴りであっさり崩れ落ち、その中からきっと潮風対策でしょう、ビニール袋に包まれたAKMSアサルトライフルがまろび出てきました。


 伏せたままビニールを破き、淀みない動作で弾倉を込めて、折り畳みストックを展開して肩にひきけるノルさん。


 頑丈さは折り紙付きですが、あまり精度の高くないライフルです。ノルさんとしても命中が目的でなく、敵の思惑と同じく牽制するのが目的なんでしょう。


「コイツで連中の頭を抑える、銃撃が止んだらその隙に――」


 ノルさんが急に言葉を切りました。だっていきなり銃撃が中断されたんですから、訝しむのも当然です。


 弾切れ? それにしては不自然でした。


 地面が揺れています。船なのですから、波で左右に揺さぶられるのは自然でしょうが、これはまるで短い地震が連続しているように感じられる――何か大きなものが、船をよじ登っているのです。


 ほんの少し前、わたしがくぐり抜けたばかり船扉へ弾丸とは比べ物にならない巨大質量が叩きつけられ、大嵐にだって耐えられる鋼鉄の扉がドア枠ごとひしゃげ、崩れ落ちる。


 安全柵を踏みつぶしながら身を乗り出してきたアームスレイヴの鋼鉄のパンチ――その腕力に掛かれば、造作もないことだったでしょう。


 一体どうやっているのか、船体に貼りついたアームスレイヴが上半身だけ身を乗り出して、こちらを見下ろしていました。上半身だけとはいえ全高7.9mの巨人に見下ろされているのです、やはり動物的な恐怖心が湧き上がってくる。


 ASはとても器用な機械です。しかし最新鋭のM9を持ってしても、ツルツルの船殻をよじ登ることなんて普通はできません。そう、普通ならば。


 ですが海中作戦を専門とする特殊部隊ネイビー・シールズの要請のもと、現場レベルセンター・クレーン局で独自に開発された、米軍の主力ASたるM6の非公式改修機――通称・“フロッグマン”の機能をもってすれば、容易いことだったでしょう。


 すべからくASは人型です。ならば、生命維持装置を兼ねた人間用の浮力・コントロール・装置BCDをそのまま大型化してASに服のように着せてやれば、最低限の改造のみで水中作戦能力を得ることができるのではないか?


 これは着せ替え人形の理屈をそのままアームスレイヴに適用したようなものですが、この発想が生まれた当時は、特殊作戦用としてメーカーの手で一から設計されていた、現在で呼ぶところのM6A3“ダーク・ブッシュネル”の開発が難航していたという事実は、ちゃんと踏まえておくべきでしょう。


 急速に世間に普及していったASは、当時すでにテロリストの手にまで渡っていました。そういった集団をネイビーシールズはじめの特殊部隊は相手取らなければならないというのに、肝心なダーク・ブッシュネルはいつまで経ってもロールアウトしない。


 テロリストが開発期間の遅延なんて考慮してくれるはずもないのです。無い物ねだりをしたところで任務は待ってはくれない。だったらその場凌ぎでも構わない、今すぐ新鋭機が欲しいという現場の気持ちも理解はできるでしょう。


 こうして、水中工作員フロッグマンの名を冠した機体が生まれることになったのです。


 通常仕様のM6に小改造を加え、特殊作戦に適用させたモデル・・・・・・ですが着せ替えという発想自体は良かったものの、現実にはシールズが呼ぶところの必要最低限の仕様を実現するまでま道のりは、それはもう遠いものだったそうです。


 当初は河川でのみの運用を想定していたはずが、いつの間にやら潜水艦からの発進が前提条件として付け加えられ、それに伴い機体の気密性の向上やウォータージェット推進の採用など、スペックをも大幅に書き換えられてしまった。


 現場の意見を取り入れる、その好悪が露骨にあらわれた感じでした。


 ワガママなシールズ隊員の要求は天井知らずであったそうでして、あーでもない、こーでもないと仕様変更を繰り返しているうちに予算は嵩み、何があったのかマニュピレーターにはイモリのよろしく、壁をよじ登るための真空吸着パッドなんて謎めいた装備まで付け加えられてしまう始末・・・・・・こうした考えなしの設計方針が、機体にある致命的な弱点まで付与してしまったそうなのです。


 コンテナヤードからの光が逆光となってシルエットしか見えませんが、身を乗り出すフロッグマンの上半身は、無理やり厚着をさせられてしまったような、ASらしからぬ特異な外観をしていました。


 そう、これこそがフロッグマンの弱点なのです。


 元は、外装をちょこっと弄るだけのお手軽オプション装備としてスタートした計画だったのに、度重なる仕様変更によって酸素供給用のパイプなど、重要な部品が機体の外に露出する形になってしまった。


 だって、そもそも機体そのものに手をつける計画はありませんでしたから、増やした装備は装甲の外に装着するしかないというのは、必然といえば必然なのですが・・・・・・初期のコンセプトによれば、上陸したら即座に水中移動用にしてパイロットの生命維持装置を兼ねているベストを脱ぎ捨て、ノーマル状態のM6そのままで作戦行動に移るということになっていました。ですがあれこれとスペックを追求しているうちにそんな当初のアイデアは忘れ去られ、お手軽改造というコンセプトから大きく外れ、けっきょくは機体そのものを弄る羽目になってしまったんだそうです。


 その過程で、最大の売りであったはずのベストの着脱すら不可能になってしまいました。だって深海航行能力まで求められてしまったのです。機体そのものと水中作戦ユニットを積んでいるベストを直結させなければ、そこまでの能力は実現できないでしょう。


 もちろんそんなことをすれば、装甲に守られていないベストは良いマトになってしまいます。設計陣もそれは想定していたみたいですが、水中作戦用という都合上むやみに機体を重くする訳にもいかず、重要なパーツの保護に防弾繊維の覆いを採用するなどしてお茶を濁す始末。


 これでは歩兵用の小銃弾ぐらいならともかくも、ちょっと大きめの重機関銃の攻撃にはとてもじゃありませんが耐えられません。現代のASの基準からすれば、これでは紙細工の装甲とさして変わらないのです。


 はっきり言って、この機体は失敗作でした。


 やっとの思いで実戦投入してみれば、シールズからの要求スペックこそ満たしていたものの、逆にいえばそれ以外の大切な部分はすべて蔑ろにされており、あまりのバランスの悪さに現場からは不評の嵐。


 なにより悲劇的だったのは、ズルズル伸びてしまったフロッグマンの製作期間の合間に、大本命たるダーク・ブッシュネルの開発が順調に推移してしまったことにあるでしょう。


 フロッグマンの配備からさして間をおかずして、ついにロールアウトしてしまったダークブッシュネル・・・・・・その後の展開は、たやすく想像がつくことでしょう。


 結局、5〜6機ほどが改修されたのち、早々に現場から遠ざかって演習用の仮想敵アグレッサーとして再活用されていったフロッグマン。その運用期間もまた短期間のうちに終わり、最後は倉庫で腐らせるよりはいっそのことと同盟国に贈与されてしまったと聞きます・・・・・・それが巡り巡ってカルテルの手に渡るとは、なんとも皮肉なものです。


 おそらくこのフロッグマンは、手足につけられた真空吸着パッドで上体を支えているに違いありません。相変わらずまるで人が台に両手をついているが如く、上半身だけ甲板上に露出しています。


 わたしを背後に庇いながらノルさんは、とりあえずAKMSの銃口をフロッグマンに向けてましたが・・・・・・この構図はまさにアリと巨人の戦い。アサルトライフル如きでは、AS相手に勝ち目なんてありません。


 これまでの酷使を物語るように、フロッグマンの機体表面の迷彩ウッドランド塗装はところどころ剥げ落ちており、銀色の下地がむき出しになっています。


 ですが中古品を乗り回すことを、あまり機体の搭乗者は気にしていないようです。にとって大切なのは、あの卑猥なアートの方なんでしょう。


 ガスタービンエンジンの駆動音が鳴り響き、海面から上がったばかりの機体から水滴が滴り落ちていきます。その滴のいくつかが、ASの頭部にペイントされた自販機サイズの、リボルバー拳銃に裸の美女がすがりつく、なんとも下品な構図のスプレーアートを過っていく。


『おいおい、いきなりロケランRPGはねぇだろう、なぁ?狼の頭領エル・ロボよう。

 危うくクソったれの安宿のエレベーターが、俺の墓場になっちまうところだったぜ、ええッ?』


 機体の外部スピーカーから垂れ流されるこの耳障りな濁声、聞き間違えるはずもありません。フロッグマンの乗り手はカリ・カルテルの粛清担当たるザスカーその人とみて、まず間違いないでしょう。


 やはり、生きていたのです。

 

 ノルさんがAKMSの引き金を絞り、目と鼻の先にいるフロッグマンの頭部のバイザー目がけて銃弾を叩きつけていきました。ですが傷ひとつつきません。


『ロケット弾を無駄遣いしたのは失敗だったな、狼の頭領エル・ロボよう。ありゃお前、人様に向けて撃つもんじゃねえぜ。ボス戦に備えて大切に取っておかねえとなッ!?』


 嘲りの言葉に、ノルさんは一言も答えませんでした。


 手で触れられる距離というのは言い過ぎにしても、数歩ばかし歩くだけで手が届く距離に、鋼鉄の巨人が鎮座しているのです。迂闊なことはできません。


 その気になればザスカーは、いつでも蚊を叩き潰すようにわたしたちを殺害できる――ですがしない。


 ザスカーはこう見えて命令に忠実な男という訳なのでしょう。オリジナルのM6からまるでデザインが変更されていないバイザーの向こう側で、メインカメラがわたしに向けてズームしていくのが見えました。


 わたしを生かしたまま確保すること、それがザスカーの変わらぬ至上命題なのです。


 決断が迫られていました。


 構図そのものは、まるで安宿の焼き直しのよう。ですがあの当時と異なって、ノルさんとザスカーの戦力差は絶望的なまでに隔絶しています。


 生身の人間がASに勝つのは、不可能に等しいのですから。AKMSなどのアサルトライフル程度では、さっきのようにお話にならないのです。


 わたしは、緊張で早鐘を打つ心臓をなだめつつ、ノルさんのチャイナドレスの背中をゆっくりと掴みました。


 あいにくと、戦場からすぐ姿を消してしまったフロッグマンの詳細なスペックをわたしは知りません。ですが機体に備えつけられているはずの集音マイクの性能は、原型機たるM6に準拠するはず。M9ほどの性能は持ち合わせてないでしょう。


 さらにこれは型落ちの中古機体、性能はさらに下がるはずでした。ならば、背中越しのささやき声ぐらいなら盗聴の心配はないはず。


 子どもたちを救う作戦は、すでに動き出しているのです。


 こんな展開になるとはまるで予想してませんでしたが・・・・・大枠でいえば、ではある。


 自分がどうすべきかは分かっています。ノルさんだって、口にせずとも承知しているはず。彼の実戦における嗅覚は、頭抜けているのですから。


 ですからたった一言だけ、ノルさんの背にわたしはこう告げたのです。


「優先順位を間違えないで」


 と。


 安宿の時とは、わたしたちの関係性はまるで異なっている。今のわたしは、ノルさんが守るべき対象ではありません――共犯者なのです。


 わたしは、軍人の本質とは命の優先順位にあると考えています。他人を守るために自らを犠牲にできること。その規範コードこそが、人殺しを生業にしつつも、軍人が殺人鬼とは一線を画する最大の理由であると、わたしは考えているのです。


 今のわたしは一介の傭兵にすぎません。ならば守るべきは、まず雇い主たる子どもたちの命な他ならない。


『ハッ!! スケコマシが!! 短い間にずいぶん仲良くなったもんだな!?』


 ザスカーのヤジにも、わたしの言葉にも、ノルさんはどちらにも反応を示しませんでした。


 案外、ザスカーも攻め手に欠いているのかもしれませんね。


 M9に標準搭載されているような電子銃テイザーでもあれば、生け捕りなんてお茶のこさいさいだったでしょうが、今はどうにかわたしをこの場から引き剥がそうと考えを巡らせているに違いない。


 時間稼ぎ的には良いニュースなものの、素直に喜んでもいられませんでした。


 これまでの行動を見るに、知性のカケラもない言動に比べてその実ザスカーは、おそろしく慎重にことを運ぶ男なのです。


 M6は、ASの中でもトップクラスに扱いやすい機体ですが、上級者が扱えば化けるぐらいの伸び代も十分に確保されている、まさに傑作機です。


 こちらに気づかれぬよう慎重に海中を泳いできたその操縦手腕からして、操縦兵としてもザスカーは一角の腕前があるのでしょう。あの派手派手しいマッスルカー、もしかしたら、本命たる自らの行動を覆い隠すための囮という意味合いも、あったのかもしれませんね。


 舐めてはかかれない相手ですが、こちらにとってすべてが不都合という訳でもありません。


 ザスカーが見た目に似合わぬ慎重派ならば、目的を達成したら余計な深追いは避けるはずでした。プロとはそういうもの、そこにつけ込むほかありません。


 ノルさんは相変わらず微動だにすらしません。ですがちょっとだけ、頭が背後を振り返るように動きました。わたしたちの背後にそびえ立っている上部構造物に、何かを感じ取ったかのように。


 やっと開いたノルさんの口は、わたしの想像していたものとは異なる言葉を紡いでいきました。


「“ムエルテだけが唯一、人に与えられた平等”だと、昔ある人が俺に教えてくれた」


 ある人。


 そんな風にボヤかさなくとも、ノルさんにここまで思想的な影響力を及ぼせる人物を、わたしは1人しか知りませんでした。


 これがノルさんの破滅願望の根っこにあるものなのか、それともてんで的外れな考察なのか、わたしには分かりません。


 ですが死者の影響力は、身にしみて知っている。


 死者は絶対に否定されることがないのです。彼らは死んでいるが故に考えを改めることもなく、その思想は時代に合わせて間違いが正されていったりもしない。


 そうです、死者の考えは誰にも否定できないのです。いつまでも変わらず、記憶の奥底にこびり付き続ける・・・・・・。


 わたしはそれを克服したつもりです、偉そうなことをノルさんに向けてのたまいもしました。ですが両親に、兄やバニ、そして部下たちといった無数の死に、やはりどこかでわたしは縛られているのでしょう・・・・・・だからこそわたしは痛いほど、自己嫌悪にも似たシンパシーをノルさんに感じてしまうのかもしれません。


 新しい人生から逃げだした挙句、戦士としての過去の自分に立ち戻ろうとしているのは、誰あろうわたし自身のことなんですから。


「だから自分の命だけは、テッサの好きに使うといい」


 そう、ですね。思うところは多々あれど、考え耽るのは後にすべきでしょう。


 先ほどノルさんが何かに気づいた素振りをしていましたが、一歩遅れてわたしも何に気づいたのか理解しました。


 壊されてしまった船扉は、逆に遮蔽物としてうまく機能していたのです。残骸のその向こう側で、戻ってきたハスミンちゃんはASの視界に入らぬよう注意しながら、わたしに見えるよう無言で高く円筒形の物体を掲げていました。


 あれは米軍が採用している、M8スモーク・グレネードで間違いありません。


 好都合なことに風向きは船首から船尾に向けて流れていました。ハスミンちゃんの立ち位置であのグレネードを炊けば、すぐさま煙幕があたりを覆い隠してくれるに違いありませんでした。


『なんだ?』


 警戒心を露わにするザスカーの声。


 上部構造物じゅうで大火事でも起きたように、もくもくと窓という窓から煙が溢れ出てきました。ですがその色合いときたら様々、緑や黄色なども含まれています。


 きっとハスミンちゃんに状況を知らされたヤンさんが、子どもたちの協力のもと一計を案じたのでしょう。ほんの数秒足らずで、ASという巨大な怪物すらも煙に覆い尽くされ、朧げな輪郭しか見えなくなりました。


 これならばマッスルカーに陣取る機関銃班だって、迂闊に発砲はできません。


 もっともM6の派生型であるフロッグマンには、熱感知機能FLIRも標準搭載されているでしょうから、こちらのチャンスはモニターを切り替える一瞬の狭間しかない。


 きっとヤンさんの狙いは、この隙に船へと逃げ込めというものなんでしょうが・・・・・・懐に飛び込まれてしまった以上、船の中に逃げ込むというのは逆効果でした。


 だって、そもそもが船舶攻撃も視野に入れて設計されているフロッグマンのスペックならば、船をまるごと沈めてしまえるのですから。ザスカーは目的達成のためなら、それぐらい平気でやる男です。


 ですから状況がエスカレートする前に先手を打つほかない。誰にも予想しえない、思いがけない方法でもって。


 M6は西太平洋戦隊でも運用してましたし、わたし自身、操縦経験もあります。ですからM6の運動性能は掌握済み、派生型のフロッグマンはオプション装備でゴテゴテなので、オリジナルよりもっと鈍いかもしれない。


 なら大丈夫でしょう。


 皮肉ですけど、あの男の操縦テクニックは信頼に足るものです。有能な敵というのは時に、無能な味方より行動に信頼が置けるのです。


 大丈夫、やれます。やらなければならない。


 わたしはしらずしらず、手にした潜水艦のキャップを握る手に力を込めていた。


「・・・・・・あとで、必ず返してくださいね」


「?」


 ノルさんの後ろ手へ、わたしの大切なキャップを強引に手渡しました。いきなり帽子を預けられたことは予想外だったようで、彼の背中から戸惑いを感じる。


「行って!!」


 ですが短いその掛け声だけで、それだけでノルさんは迷いなく、ハスミンちゃんが隠れている壊れた船扉に向けて駆け出しはじめる。


 特に互いに示し合わせた訳じゃありません。ですが、ミスリルとという多国籍傭兵集団を率いた経験から、わたしは国が違えども、プロの思考方法は似通うものだと知っていました。


 ノルさんは軍人でこそありませんが、戦闘のプロなのです。ですからわたしたちは、互いの役割を暗黙のうちに理解していた。


 風のような速さで瓦礫を飛び越え、なかなか抜けきれないスモークグレネードのピンと格闘していたハスミンちゃんを掻っ攫いつつ、ノルさんたちが船の奥へと消えていく。そんな光景を横目で見届けながら、わたしも駆け出しました――ノルさんとは正反対の方角、逃げ場のない船首に向けて。


「あっ!?」


 ですが走った途端にこれです。情けない・・・・・・足を取られ、あわや短い階段から転げ落ちるところでした。手すりを抱きしめ、なんとか事なきを得る。


 気を取り直して、たすき掛けしたポシェットを弾ませつつ一直線に甲板を走りつづけました。


 すると、駆けるわたしの影の上から、より巨大な影が覆い隠していく。


 何か巨大な物体が動くと、見えずとも圧力を肌で感じられるものです。海から上がって間もないがゆえにわたしへ向けて背後から伸ばされてくるASの巨腕からは、まだ生臭い海水の匂いが漂ってきました。


 はなから逃げられやしません。わたしの貧弱な脚力に期待しないでください。


 まさに構図はキングコングそのもの。掴まれたと感じた途端、足元がふわりと宙へと浮き、気づけばわたしはフロッグマンの手の中に囚われていました。


『命知らずな嬢ちゃんだな~、ま、嫌いじゃないがなあ』


 ザスカーなりに気を使ってわたしを掴んではいるようでしたが、それでも鋼鉄の指の締めつけはキツくて、身体の痛み以上に呼吸のし辛さが堪えました。


 ここでザスカーが三流の悪党ならば、事のついでにノルさんたちを仕留めようなんて余計な色気を出す場面でしょうが、やはりわたしの読みどおり、ザスカー操るフロッグマンは、マッスルカーの機関銃班に向けて撤退するようにと手を振りかざしていく。


ボスパトロンのところまでお連れしますぜお客さま。さあて、喋ると舌噛むぜ』


 配慮したような台詞とは裏腹に、フロッグマンの機動はとてもわたしを気にしているようには思えませんでした。船体を思い切り蹴飛ばして、港に向けて跳躍したのです。


 ASのショック・アブソーバーは優秀です。埠頭へ飛び降りたところでこの程度の高さならば、搭乗者は大して衝撃も感じないことでしょう。


 ですが掴まれたままのわたしからすれば、たまったものじゃありません。


 体感からすれば、さながら震度100ぐらいの衝撃が襲い掛かる。


 何が何だか分からないまま人形のように揺さぶられ、全身が軋む。そして不思議なのですが、頭がぶつかった瞬間だけは嫌にはっきりと理解していた。


 鈍い頭の痛み。つづいて視界が薄れていく・・・・・・悠然とトラソルテオトルから歩み去っていくフロッグマンの手中で、わたしの意識は徐々に、闇の中へと沈んでいったのです。




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