XXIV “前夜祭”

【“テッサ”――MSCトラソルテオトル・機関室内のワークショップ】


 ヤニ臭い匂いが手元から立ち上り、被りっぱなしだった潜水艦のキャップが、額から滴り落ちてくる汗を防いでくれました。


 久々に握ったハンダゴテはこれでなかなか楽しいものがありまして、状況を忘れてついつい作業に熱中してしまった。小さな基盤に灼熱のハンダゴテを押しつけるたびにジュウと、のろしのような白い煙が立ち昇り、その度にヤニ臭さが香るのです。


 機関室の一角にあるという立地上、ここワークショップの目と鼻の先では、発電機がフル稼働していました。なるほどケティさんがここに巣作りする訳です。騒々しくて仕方がない。


 ですが水密扉をキツく閉じれば、かなり騒音はシャットダウンできましたし、わたし個人としましては、むしろこの適度な雑音は心地いい。


 森の木々のさえずりよりも、機械的ノイズに安心を覚えてしまう。わたしってば、ほとほと技術屋体質であり、そして船乗りであるみたい。


 あの強引な傭兵契約から数時間後。結論から申しますと、わたしはノルさんたちに力を貸すことになりました。


 CIAがカリ・カルテルの真の黒幕。


 状況証拠が織り成すわたしのそんな推理は、ノルさんたちにそれなりに納得してもら得たみたい。ですが自惚れてもいられない。


 これまで通りにカルテルに喧嘩を売ってみる、そんなノルさんの無鉄砲で戦略性皆無な作戦よりも、わたしの提案した作戦の方が理路整然としていて何となく良さげ・・・・・・そういう後ろ向きな判断基準が、わたしがこの船に残れた最大の理由とみてまず間違いないのですから。


 いきなりしたり顔でやってきた、ついさっきまで人質であったはずの女。バウティスタくんなる男の子は、こんな帝国主義者になにができると息巻いてましたが、


“では兄さんの計画通り、1000人と正面きって戦うがよろしいでしょう”


 というハスミンちゃんの一言によって、その後の流れは決定づけられました。


 とはいえ、実はスタジアムを襲撃するという大まかなプランは、ノルさんのものからまったく変わっていなかったりします。


 ですがわたしの作戦立案能力って、ボーダ提督やマデューカスさん、マッカランさんにカリーニンさんなどなど、超一級の指揮官たちを教師として、あーでもないこーでもない切磋琢磨されてきた技術なのです。


 あの場当たり的でお粗末な誘拐からしても、ノルさんのこういうのは苦手という言葉は真実なのでしょう。方針はそのまま、ですが細部はもはや原型を留めないほどに大改革させてもらいました。


 でもこれって、つまりノルさんがこれまで握っていた指揮権を横から掻っ攫うわけで・・・・・・ましてや彼とやり合ったのは、そう遠い昔ということでもありません。


 やはり出てけといつ言われてもおかしく無い。ですが、彼女あらため彼は、最後にはわたしを受け入れてくれた。


 かくしてバージョン2.0となった作戦の準備がはじまりました。


 軍人としてのわたしの経験を主軸に、追われる側であるノルさんの犯罪者としての知恵と、追う側であるヤンさんの捜査官としての知識で逐次、作戦内容を補正していき、電子戦のプロであるメリッサがさらりと調べ上げてくれたキャッスル・フルーツ・カンパニーの部外秘の資料なども参照しつつ、作戦は練り直されていきました。


 もう少し彼らと出会うのが早かったら、あるいはカルテルの粛清担当たるザスカーが街に戻ってくるのがせめてあと1週間遅かったら、もっとやりようはあったでしょう。


 完璧とは言い難い作戦案。ですが・・・・・・ミスリル時代だって、その場にあるものでベストを尽くしてきたのです。やるしかありません。


 挨拶の暇もなく、謎の銀髪女に総動員されてしまった他の子たちも、他ならぬハスミンちゃんの指示ならば仕方がないと、各々の役割をちゃんとこなしてくれました。ですが専門家集団であったミスリルのようには、当然ですけどやっぱりいかない。


 まさに猫の手も借りたい状況。よってその足りない手を補填するべく、こうしてわたし自らハンダゴテなぞ握っているのでした。


 ちょっと肩が凝ってくる。


 乙女にあるまじきボキボキ音などを奏でつつ、ちょろっと肩を回してみる。ついで首回りのストレッチ。すると、思いがけずワークショップの中を眺め渡すことになってしまった。


 本来の用途としては、ちょっとした修繕作業のために利用されていた船本来の工作室ワークショップ。ですが今となっては、ケティさんの秘密基地と化していました。


 内装からは、どこか生活感すら感じられます。例によってお菓子のゴミの山ですかとか、無造作に置かれたプラスチック爆弾の箱ですとか、壁掛けされてるアイルランドの国旗ですとか、粘土細工にしては精巧にすぎるガラガラヘビの像ですとか、もう利用者の個性爆発といった感じ。


 ・・・・・・ええそうですね。このガラガラヘビの素材って、ぜったいに粘土じゃなくてプラスチック爆弾ですよね。


 他にも見所はたくさん。工学に強いと自惚れていたわたしを嘲笑う、複雑怪奇な手書きの図面なんかもありました。


 もし無人発射台を設計しろと言われたら、わたしならまずバッテリー問題をどうするかから考えます。なのにこの子ときたら、動力源としてさも当然のようにゼンマイを持ち出し、それを完璧に機能させてしまうのだから困ってしまう。


 えーと他には・・・・・・やはりアレは避けて通れませんか。


 あの大きなバッテン印の書き込まれた大判写真。どう見ても被写体は、イギリス政界の中心地たるウェストミンスター宮殿にしか見えません。ええ、ガイ=フォークスが爆破しそこねたあの建物です。


 本当にあの子ってガイ=フォークスの子孫なのかしら? いえそれよりも、わたしは果たしてケティさんを更生させることができるのかしら? 


 首をめぐらし終えて、ため息をつく。だってここ、控えめにいっても爆弾魔のセーフハウスにか見えませんもの。


 自分を棚にあげて顔面タトゥーの少女の未来を憂いてしまうあたり、意外とわたしも余裕があるのかもしれませんね。


 作業に戻ります。


 スタンド付きのライト+ルーペを動かして、手元を灯す。もうほとんど完成しており、もう一息といったところ。ハンダゴテを握り直したところで、タイミングよく傍らに置いたラジオからアナウンサーさんの叫び声が響きました。


『――なんというッッッ展開でしょうかッ!! 挑戦者ラロイ・ブラザーズが、ついに王者を下しましたっ!! まっ!! 6対1だから当然でしょうか!! だから六つ子は卑怯だと俺はあれほど――』


 スペイン語は話せるものの、ネイティブからほど遠いわたしです。そんなわたしからすると、この巻き舌のアナウンスはとっても聞き取りづらい。多分、地元の方でも難しいんじゃないのかしら。


 しかし、どうして格闘技系のアナウンスって、どれも巻き舌なのかしら? 不思議な伝統ですよね。


 さあ作業再開という矢先に手を止めて、ちょっとラジオに聞き入ってみる。仕方ありません、これも作戦の内でしたから。


 実況中継はまさにスタジアムその場所からなされているらしく、アナウンサーさんの声をかき消すほどの歓声がラジオから流れてきました。


 お祭り好きな国民性もあってか試合は大盛り上がり。新興のスポーツですらこれなのですから、国技たる明日のサッカーの試合ともなれば、盛り上がり具合は一段と跳ね上がることでしょう。


 日本では野球、アメリカならアメフトと、どこの国にでも頭ひとつ突き抜けて人気を集めるスポーツがあるものですが、ここ南米においてはサッカーがそれに当たるのですから。その愛の深さときたら、サッカーが原因で国同士の戦争が起きるほど。


 現に明日の開催が予定されているサッカーの試合は、すでに全席完売と聞いています。


 これがわたしたちの作戦にどのような影響を与えるかといえば、このAS同士のプロレス試合が終わっても運営側は、まるで気が抜けないということです。


 なんでもASの殴り合いのショックを和らげるべく、今のグラウンドは泥で覆われているのだとか。ですがまさかサッカー選手に泥まみれのグラウンドを提供するわけにはいきません。これから徹夜で、泥と芝生を入れ替える衣替えの作業がはじまることでしょう。 


 業者の方がたくさんの重機とともに出入りし、芝生の敷設作業が夜を徹しておこなわれる。その間にスタンドでは、観客が残していったゴミの清掃作業や土産物屋さんの商品を補充したり、食料品の搬入なども同時並行して進められていくはず。もちろん売り金の回収も忘れずに。


 一晩中つづく、誰もがてんてこ舞いになる膨大な作業。運営側にとっては悪夢でも、わたしたちにとっては好都合な展開がこれから始まるろうとしているのです。


 ノルさんの本来の計画では、決行日は明日、まさにサッカーの試合の真っ只中の予定でした。試合を見るためにたくさんの観客が入り、紛れ込むのに好都合だからです。


 ですがわたしたちの真の狙いたるカルテルの隠し金庫は、スタッフオンリーの看板の向こう側、スタジアムの裏側に隠されているはず。なのに観客に紛れてみても、さして意味はないでしょう。


 ですが今なら? こちらの準備期間はよりタイトになってしまいますが、裏方総動員で作業にあたってる今ならば、トラックでスタジアムへ直に乗りつけることすら可能でしょう。作業服という迷彩効果を利用すれば、忙しさに忙殺されている警備員たちの警戒も緩む。


 そしてこれは個人的な願望なのですが・・・・・・子どもたちを関わらせなくても作戦が成立するタイミングは、まさに今だけなのでした。


「スタジアムの方は楽しそうですね・・・・・・」


 敵も味方もみんな忙しい状況の中、そんな物憂いたげな言葉がワークショップの隅から聞こえてきました。発言者は誰あろう、元ミスリルの精鋭にしてDEAの現役捜査官たるヤンさんでした。


 わたしにとってヤンさんのイメージとは、不屈の人です。


 かつてのSRTの隊員の中では、メリッサはじめとするウルズ三人衆を除けば、わたしともっとも親しいのはヤンさんであるかもしれません。


 日本へ出張した折には、テロリストによる襲撃でわたしを庇って撃たれ、つづくメリダ島への総攻撃の際にもわたしを守って銃弾に貫かれ・・・・・・思い返してみれば、ヤンさんの不幸の影にはいつもわたしが居た気がしてなりません。


 どうしましょう、たいへん申し訳ない気持ちになってきました。だってリアルタイムで2度あることは3度あるを実践しているまっ最中な訳ですし。


 わたしがこれからやらかそうとしている事は、法的に見たら違法なんてものじゃありません。


 わたしにも大義はあります。あの子たちの味方をすると決めた以上、とことんまでやり尽くす所存です。ですが客観的に見れば、わたしは地元の武装勢力と手を結んだ外国人の傭兵に他ならないのです。


 ええ、ええ、全方位からツッコミどころ満載な立場なのは百も承知ですけど、でもプラスチック爆弾に囲まれておきながらどう言い訳しろというんですか?


 DEAにまでカルテルはその触手を伸ばしている以上、警察は頼りにならないでしょう。この船について通報したところで揉み消されるのが関の山。そもそもカルテルに不利になる証拠を残さぬように徹底されてもいた。


 超法規的相手には、超法規的手段を取るしかない。そうしなければ会って間もない彼、彼女らを見捨てることになるのです。この理屈については、ヤンさんも渋々納得してくれたようなんですが・・・・・・自分の命以外に何も持ち合わせてないわたしと異なり、ヤンさんには社会的地位というものがあるのです。


 わたしが違法な外国人の傭兵だとするならば、今のヤンさんは犯罪者と結託した汚職警官そのもの。関与が知れれば、その時点でキャリアのすべてが失われてしまうのです。


 そういったリスクを承知で、ヤンさんはまだ船に残ってました。


 どれもこれもわたしの我儘、むしろ関わらない方がいいと説得してはみたのですが・・・・・・今もヤンさんは、軟体動物よろしくぐてーとパイプ椅子に腰掛けている。


 その姿を一言で言い表すならまさに、虚無の一字に尽きました。


「あの何回も言いましたけど、別に付き合ってくれなくても・・・・・・いいん、ですよ?」


 もう何度目かしれない念押し。最初は警告だったのに、今は本気で大丈夫ですか? という心配にニュアンスが変わってきている。


 ヤンさんが言いました。


「ここで出て行ったら僕はとんだ卑怯者になるじゃないですか・・・・・・」


「ですから、わたしはそんなこと思いませんって」


「つまり大佐殿以外は思う訳ですね・・・・・・」


 揚げ足取り、揚げ足取りでした。


 SRT隊員とは心身共に強靭なもの。実際、この船に乗り込んでからもずっとヤンさんはプロフェッショナルらしく冷静に対処してきたのに、今はこの鬱々具合。


 原因はわたしにあると分かってますので・・・・・・とても気まずい。


 冗談ではなく、ヤンさんはこのまま行けば刑務所送りの可能性がとても高いのです。それでもなお彼は船に残ってる。理由は単純、ヤンさんは善人だからでしょう。


 信念を貫く、美しい言葉です。ですがそれで割り切れないのが人生の難しさ。どうもヤンさん、職務上の仇敵にして、ついさっきまで格闘戦を演じたシカリオことノルさんと組むことに、引っ掛かりを覚えてるみたい。


 いえ、当然といえば当然なんですけどね? むしろ誘拐犯たるノルさんに親しげに接してるわたしの方がおかしいのです。


「ここで帰ったところで、どうせ汚職にどっぷり浸かってる上司に媚び売りながら、ひたすら借金を返済するだけの生活なんです。

 業務内容にしたってカビ臭い保管庫にすし詰めにされて、使い道のない捜査資料をまとめてラベルを貼りなおすだけの日々。

 来る日も、来る日も、狂る日も・・・・・・」


 根っこは純粋な義侠心。ですが動機はそれだけでない気もしてきました。


 もしかしてヤンさん、パワハラを受けていたのかしら? 歴史編纂室とかに普段は詰めておられるそうですし。


 ですがここら辺を深く追求しだすとさらなる闇を発掘してしまいそうで怖い。ええと、この辺はノーコメントを貫くほうが、お互いのためになる気がしました。


「ご、ご迷惑をおかけしまして・・・・・・」


「こうなったらとことんまで付き合いますから、とにかく万万全だけは期してください」


 幽鬼のような声で言われてしまっては、もはやわたしに出来ることは背中を丸めてハンダ作業に向き合うことのみ。誓ってこれは現実逃避ではありません。元部下が壊れかけてる現実から、ちょっと目を逸らしたかっただけなのです。


 心の底から申し訳なくはある。ですがヤンさんが参加するか否かで、わたしの立てた“作戦”の成功率が大きく変わってしまうのも、また事実なのでした。


 ノルさんは超人じみた戦闘力の持ち主ですが、いかんせん専門分野が犯罪と暗殺に偏りすぎていて、判断能力に不安が残る。ケティさんは生来の器用さでなんでもこなしてくれますけど、ノルさんに輪を掛けてその判断能力ときたら・・・・・・もはや絶無。


 トドメにこのコンビ、電子機器にめっぽう弱いときてるのです。この2人にすべてを委ねるのは、ちょっとを通り過ぎて不安にすぎる。


 そこにきますとSRTとは万能たれというテーマのもと、あらゆるテクニックを満遍なく収めてるヤンさんは、やはり頼りになるのです。


 急造すぎてチームワークに難のあるわたしたちですが、そこにベテランの下士官であるヤンさんが加わってくれれば、上手くいけばチームの潤滑油として活躍してくれるかもしれません。そういう目論見があることも否定はしない。


 部隊を縁の下から支える力持ち、ヤンさんには打ってつけの役回りでしょう。


 ですが・・・・・・わたしだってヤンさんが言われたように万全を期したのは山々なんですが、物資に時間と、あらゆる面でやはり余裕がなさすぎる。


 綱渡りするような、まさにギリギリマージナルな作戦。今更ながら、ミスリルはほとほと恵まれていたのですねーなんて、郷愁に囚われてしまうほどに厳しい戦局でした。


 ミスリル時代だって物資不足に悩まされたことはありましたけど、わたし自ら手作業するほどに手が足りてないのは流石に初体験。


 なにせ実質、この作戦のメンバーって4人だけですから。普通ならこれほどの小所帯でこなす作戦ではないのです。


 連戦つづきということもあり、貴重な作戦要員としてノルさんには直前まで休んでもらいたいのは山々なんですが・・・・・・街中を出歩けるのはノルさんだけというのが痛いところ。


 今現在えーっと“彼”は、物資を調達すべくぜっさん外回りの真っ最中だったりする。その相棒たるケティさんもまた、この船からさる物資を搬出するべく働いてる真っ最中。


 こうしてぐだーとしてるぐらいなら、何かしら手伝いがしたいというのがヤンさんの本音でしょう。実際、つい先ほどまで作戦に使うための装備の確認作業をしていたのですが、ここで思い出してみてください。ノルさんは、そもそもスタジアムを襲撃するというプランを前々から温めていたということを。


 わたしの誘拐劇が例外すぎるだけで、ノルさんは本来ならとても用意周到な方です。その証拠にスタジアムの青写真なんて事前に盗み出していたぐらいですから、彼が装備の保守整備を怠るはずがないのです。


 “以外ですが”なんて前置きの後、ヤンさんはこう報告してくれたものです。“武器庫の中を覗いてみましたがどれも状態は良好。あいつら意外とまめまめしいですね、シカリオの癖して”


 ちょっと刺々しいコメント。やはりヤンさん、ノルさんの職業が気になるのでしょうか・・・・・・。


 そもそも参加人数4人の少所帯ということもあり、チェックすべき装備の量も最低限。作業はすぐ終わってしまったのだとか。不思議なものです。当人はやる気十分、たくさんスキルだってお持ちなのに、絶妙にやることがないなんて。


 英気を養うのも兵士の大切な仕事の内。理屈はそうですが、子どもたちすら忙しく働いてるのに、そのすぐ横で暇してるしかないなんて、わたしだったら不貞腐れたくもなりますね。


 いかにSRTとはいえ、基盤に向き合いながらハンダゴテを振るう訓練なんて受けてませんから、わたしの仕事を代わってあげる訳にもいかず・・・・・・などとつらづら考えているうちにやっと小道具が完成しました。


「ふぅ・・・・・・」


 凝った目元を揉みほぐす、身体が疲れはじめてました。


 それもそうでしょう。誘拐され、街中を引きずりまわされ、その過程にさまざまなアクションにも巻き込まれてきたのですから。むしろよく倒れませんねと、自分を褒めてあげるべきなのかもしれない苦行の数々。


 背筋を伸ばしてふたたびストレッチをしていると、水密扉がゆっくり重たげに開いていって、小柄な人影が顔を半分だけ覗かせてきました。


「あ、あの・・・・・・」


 扉に隠れつつ、蚊の鳴くような声でおずおず話しかけてきたのは、カロリナちゃんとハスミンちゃんから紹介された大人しい感じの女の子でした。


 ノルさんとケティさんをはじめ、トラソルテオトルには12人の子どもたちが居ます。船内を彷徨っているうちに見かけたあの収容施設・・・・・・あの施設の規模からすればあまりに少ない人数ですが、それでも彼らは生きている。


 そんな知り合って間もない子たちですが、実はこのカロリナちゃんとわたしの間には、ちょっとした縁があったのです。


 窓から花瓶の水を投げ捨てたのは、生意気全開といった感じの元ゲリラの少年バウティスタくんですが、実はヤンさんのスーツをびしょびしょにしたその事件に、この子も居合わせていたのです。


 とはいえカロリナちゃんに罪はありません。バウティスタくんの行いを咎めてましたし、そもそも彼女は窓の下にわたしたちが居たことについて知りもしないはず。ですからヤンさんを一目見て彼女の顔に浮かんだ怯えの正体は、明らかに別のところにありました。


 人見知りとはまた違う、明確な恐怖心。ノルさんたちのブリーフィングに出ていた時にはおどおどこそしてましたが、もっとはっきりとした口調で話していたのに、今は目線を合わすことすら出来ずにいる。


 彼女は意識してわたしだけを見るよう心がけていました。その理由を察したヤンさんは押し黙り、気まずげに頭を掻いている――この子は、大人の男性が怖いのです。


 カロリナちゃんは何しに来たのか? その理由は彼女が手にしてる料理トレーを見れば、言わずもがなでした。


 わたしは出来る限りおだやかに少女に話しかけていきました。


「食事、持ってきてくれたんですね」


 トレーには、銀色のアルミホイルや魔法瓶、二人分のコップがのっています。この子の背丈を思えばちょっと大きすぎるトレーを両手で抱えながら、わたしの問いかけにぶんぶんと頭を縦に振っていく。


「は、は、ハスミンねぇが、持ってけって、そ、それで・・・・・・」


「ありがとう、ちょうどお腹がぺこぺこだったんです」


 カロリナちゃんはこの船の栄養管理の一切をその小さな肩で担っていると、ハスミンちゃんから聞いていました。つまりこの船のお料理番なのです。


 本心からのお礼でした。ここ最近の食事らしい食事といえばエナジーバー一本のみ、疲れ切った身体には大歓迎でした。本当にもうハスミンちゃんの采配には舌を巻くばかり。


 食べれる時に食べ、眠れる時に眠れ、次の機会があると思うなとは、兵士の格言です。そもそもこの美味しそうな匂いに抗うのは、わたしには不可能そう。


 ありがたく受け取りさっそくアルミホイルを解いてみれば、ぶわっと湯気が立ち昇り、ソースの香ばしい匂いが襲いかかってきました。まだ熱い真っ白な薄焼きのパンの間には鶏肉かしら? たくさんの香辛料とともに炒められたお肉が挟まってました。


 おいしそう・・・・・・ですが、南米料理に馴染みがないわたしには、このお料理の名前がさっぱりわかりません。


「これは、トルティーヤかしら?」


 トルトゥーヤとはトウモロコシ粉から作られるパン生地の名称であり、ひいては料理そのものの名前でした。


 アメリカにとって隣国にあたるメキシコ料理の代表格としてこちらでもたいへん人気でしたから、これぐらいなら知っている。とりあえずメジャーどころから攻めてみる姑息な戦術です。


 ですがわたしの知るトルトゥーヤってクレープとさして変わりのない生地の厚さをしていたはずなのに、目の前にあるこのお料理は、どうみてもハンバーガーぐらいのサイズ感なのです。


 さながら猛獣への餌やりのように、床に置いたトレーをモップの柄でヤンさんの方へと押し込んでいるカロリナちゃんは緊張から一転、わたしの質問にちょっとだけ顔を綻ばせる。


「あっ、それは、えと」


「ゆっくりで大丈夫ですよ?」


 まだ見知らぬ大人への恐怖心は窺える。ですが、この子は本心からお料理が好きなのでしょう。恐怖を押しのけて、楽しいそうに語り始めました。


「えと、えと、これはアレパといって、材料はトルティーヤと一緒なんですけど・・・・・・み、南に行くほど生地が厚くなってアレパに変わって、逆に北だとどんどん薄くなってトルトゥーヤになる、とか、ないとか・・・・・・」


「なるほど、ぜんざいとおしるこみたいな関係性ですね」


 材料は一緒なのに調理方法はまるで異なる、いわゆる地域差。文化学の面白いところですね。ですがわたしの喩えはちょっと日本ローカルすぎて、カロリナちゃんはピンとこなかったみたい。


「ん、いけるな」


 一足先にアレパを頬張っていたヤンさんが、飾り気のない感想を漏らされる。そうですね、では遠慮なくとわたしもアレパに口をつけてみる。


 一口目を嚥下してすぐ察しました、これは危険な味です。止めどきを見失い、お腹いっぱいでもついつい完食してしまう、そういう魔性の食べ物リストがまた増えてしまった。


 空腹というのもあるでしょうが、それだけでは説明がつかない味。


 料理というのは、シンプルであるほど味を引き出すのが難しいものです。パンと炒めたものオンリーなんて素朴極まりない材料でよくこの味を、ましてやこの齢で実現するとは・・・・・・この子ってば、冗談抜きで料理の天才なのではとつい疑ってしまう。


 あっ、と気がつく頃には手の中からアレパは消失し、わたしは深い満足感に覆われていた。そこにすかさず差し出されてくるのは、魔法瓶に入っていた温かいコーヒー。何といういたれりつくせりぶり。


「あのー、カロリナちゃん?」


「おかわりですか? すぐご用意できますよ」


 例によってモップの柄でヤンさんにコーヒーを届けていたカロリナちゃんが、また心憎いことを言ってくれる。


 これまで出会ってきた子たちはよくも悪くもアクが濃すぎるのもあって、ますますカロリナちゃんが輝いて見えます。この子は天使か、はたまたダメ人間製造機? ずっとお世話されていたい、そんな誘惑がふつふつと・・・・・・。


「料理、得意なんですね」


 乙女の嗜みとして、わたしもちょこっとお料理を齧ったことがあったんですが、この道を極めるためのモチベーションを確保しきれなかったのです。


 ええまあ、どこまで行こうともカナメさんの腕には敵いっこありませんから・・・・・・失恋に伴い、自然と足が遠ざかってしまいまして。どのみちわたしの腕前って下手の横好きよりちょっと上という程度でしたし、12人分の食事を小さな身体でコツコツ毎日つくり続けてきたカロリナちゃんに料理力で水を開けられても、嫉妬心なんて湧きようもありません。


 継続は力なのです。


 わたしの静かな称賛に、どうやらちょっとずつ場に慣れてきてくれたらしいカロリナちゃんは顔を綻ばせる。


「わ、私、これしかできませんから・・・・・・」


「過ぎたる謙遜はいけませんよ? これなら十分にお店でも通用するわ」


「そ、そんな!! アメリカに居た頃からやってただけで、それは褒めすぎです・・・・・・」


 意外な言葉でした。


 この船の公用語はスペイン語と英語です。ノルさんをはじめとする12人の子どもたちは皆この2つの言語を流暢に話します。ですがなるほど、注意深く聞いてみればカロリナちゃんの発音はどちらかといえば英語寄りな気がする。


「アメリカに住んでいたの?」


 とくに深く考えずわたしはオウム返しに尋ねてしまった。もし幸福な家庭環境であったなら、この船に辿りつく筈がないと知っていたのに。


 少女はあっさりと、さも当然のように答えました。

 

「生まれはほんじゅらす? なんだそうですけど、すぐ養子に出されちゃったみたいで。生まれた国のことはぜんぜん覚えてないんです」


「養子・・・・・・ですか」


「はい。それでア、アメリカに行って、生まれの違う子たちと一緒に暮らして、そこでもご飯作ってて。だからあんまりここでの生活も違和感がないんです。

 むしろ昔より食材がたくさんあって良いぐらいで」


「食材がたくさん?」


 嫌な予感が止まりません。


 あえて深入りせず、適当な話題に変えるほうがお互いのためかもしれない。ですが、それができるならこの船にわたしは居ません。


「ごめんなさい。話したくないなら言わなくてもいいんですけど・・・・・・でも」


「いえいえ!! みんな苦労してるし、私の話なんて大したことないし」


 この船の子どもたちの関係性について、会って間もないので見えてこない部分はまだたくさんある。ですが、どこにも行く場所がない同族意識だけは共有していると思うのです。


「あの、私たちの里親って、ぜんぜん私たちに興味がなくて、食事とか服とか必要最低限しかくれなかったんです。あの人たちが興味があったのは、お金だけでしたから」


「・・・・・・」


 似たような境遇の子がたくさん居たという発言から、わたしはてっきりカロリナちゃんが引き取られたのは教会などの慈善施設だとばかり思っていたのですが、この口ぶりから違うと確信する。


 無言のまま話を聞いていたヤンさんには、思い当たる節があったようで、彼は憂いた声でこう言いました。


「助成金狙いか」


「あっ、は、ハイ、そんな感じ、です」


 アメリカでは、養子1人につき政府から助成金が支払われます。本来なら養育費を軽減するために行われている政策なのですが・・・・・・うまく悪用すれば、懐に入れることもできる。


 トラソルテオトルに限らず、世の中にはこういった人種はいくらでも存在するのです。子どもたちの食事代をケチることで、利益を最大化できると考えられる輩が。


「でも人数が増えてくると、どうしても食べられる量が減っちゃって、それでみんなガリガリになって・・・・・・」


「他の大人に助けを求めたりとかは?」


「もしかしたら、助けてくれたかもしれませんけど、どうやればいいか分からなかったし・・・・・・そもそもあの家に私たちを連れて行ったのも大人でしたし」


 ノルさんがあくまで自分たちだけで解決しようとした理由の一端が、垣間見えた気がしました。


 生きるということはしがらみが増えるということ。わたしみたいに、あっさり命を捨てでも子どもたちを助けようなんて覚悟できる人は、そう多くはありません。


 だって誰にでも家族が居るのですから。


 わたしにだって、かけがえないのない人たちは居ます。ですが、わたしの家族はもうただの1人も残っていないのです。父も、母も、兄も、誰もこの世にはいない。


「それで逃げ出そうという話になったんですけど、すぐ見つかっちゃて。それでみんな売られちゃったんです、そしてこの船に」


 嘆くでもなくありのままに自分の境遇を受け入れている、そんな口調。


 ですがそれはカロリナちゃんが強いからでは決してなく、ただそういうものなのだと諦めに支配されているからだと、その表情から窺え知れました。


「こっちはこっちで色々と大変でしたけど・・・・・・お料理がいっぱいできるのは楽しいです。みんな、おいしいって言ってくれますし、殴られないし・・・・・・わ、わわ」


 驚くカロリナちゃんをギュッと抱きしめてしまった。


 人生とはままならないもの。ですがわたしの人生は、いつも自分の意志と共にありました。どこへ向かうべきか、自分で自分の人生を選び取れる自由があった。この子たちはそれすらも与えられてこなかったのです。


「大丈夫」


 彼女だけでなく、自分自身に言い含めるようになんども呟いた。


「大丈夫ですからね」


 すこし嫌そうにカロリナちゃんがわたしの腕の中で身動ぎする。慌てて、その小さな身体を離しました。


「あっ、ごめんなさい」


「・・・・・・ちょっと苦しかったけど、嫌じゃなかったから」


 感情に任せて踏み込みすぎてしまいました。


 ワークショップに入ってきたばかりの頃はずっと苦笑いで誤魔化していたのに、今はちょっと恥ずかしそうに、はにかみ笑いをカロリナちゃんは浮かべていました。


 生まれてからずっと大人の都合でいいようにされて、社会から見てみぬふりをされてきた子どもたち。そんなもの世界にありふれているかもしれません・・・・・・ですが今、この子たちを認識してるのはわたししか居ない。


 わたしの一挙手一投足に12人もの命が懸かっているんだわ。


「一切合切わたしがどーんとどうにかしますから、カロリナちゃんは安心していいんですからね?」


 わたしの胸の内に不安はある、いつだってそうです。ですがそんなもの意地でも出してやるものかと、自信たっぷりに言い切ってみる。これまたいつものことです、久しく忘れていた艦長時代の習性でした。


 オイル臭いワークショップにしばし流れる穏やかな時間。微笑みあうわたしとカロリナちゃんに魔を差したのは、水密扉の影に隠れるあらたな人影でした。


「み、見たぞ、オレ様は見たからな!! そこの銀髪レズ女が、カロリナを襲ってる場面をなッ!?」


 水密扉に半身を隠しながら、何をどうしたらそういう解釈になるのか逆に聞きたくなるような見解をひけらかした少年は、見間違うはずもなく明らかにバウティスタくんその人でした。


 気の優しさが全身から溢れているカロリナちゃんすら、その勘違いにぶりに呆れ果てています。


「あのですねカロリナちゃん、もしやあの子ってば、あなたのことが好きだったりするのかしら?」


 だとするならこのストーキングの理由にもちょっと納得がいく。


 キャッキャうふふの恋バナに発展しかねない質問だったはずなのに、当のカロリナちゃんときたら、何とも冷ややかな眼差しをしてました。


「うーん、バウティスタをウザがらないのって私だけだから・・・・・・それで懐かれてるのかも」


 この子たち、わりとドライな関係みたいですね。


「何しに来たのよバウティスタ? またサボり?」


「何だとキサマ、このオレ様を誰だと思ってるんだ!!」


FARCファークの陣地に居た頃、ちゃんと見張るよう言われてたのに爆睡しちゃって人質みんな逃げちゃったとか、前に泣きながら言ってたじゃない」


「あれは卑劣な主義者どもがオレ様に睡眠薬を盛ったんだ!!」


「檻の向こうから?」


「空気感染でなッ!!」


 よくもまあここまで華麗に語るに落ちられるものです。


 この子の人物像あまりに分かり易すぎてどうしましょう。喩えるならあれですね、ドラ○もんでいうところの堂々たるス○夫くん枠でしょう。


 わたしたち大人とは打って変わって、カロリナちゃんがバウティスタくんに見せる態度はお姉さんというよりお母さん風味。この子の本来の姿はこっちなのでしょう。


 個性的なのは良いことだと思います。ですがバウティスタくんの場合、どうにも今のうち我が身を振り返っておかないと、あとで取り返しがつかなくなりそうで心配でした。


「もういいよそれで」


 すげない一言でした。


「どうせ伝言とか頼まれたんでしょ」


 “どうせ”に含まれる言葉の深さ。バウティスタくんはどうやらいつも伝令役を任されているようで、当人はその事にさして気にしていないみたい。悪い顔しながら言いました。


「フン!! 知りたいか~?」


「そんなんだから友だち居ないんだよ」


 カロリナちゃんの物言いには大賛成でしたけど、ちょっと口に出すのは憚られる。バウティスタくんにケティさん、この2人の問題児が少数派であるといいのですが。


「教えて欲しいなら、せめて頭ぐらい下げて――」


「頭ぐらい、何です?」


「ヒィ!!」


 飛び退った少年は、いつの間にか忍び寄っていた片目片足の少女に心のそこからの恐怖の目線を向けました。


 どうもハスミンちゃん、カツン、カツンと高らかに杖を鳴らす時もあれば、無音で忍び寄るストーキングことも自由自在のよう。


「そうですかバウティスタ、ではこのハスミンが頭を垂れてお願い致しましょう。

 どうかお願いですから、5分で終わるはずだった伝言業務は中断して、さっさと弾込めの手伝いにも行ってきやがれ、と」


「ヒィ、ひぃぃぃぃぃぃ!!」


 脱兎のごとく逃げ去っていくバウティスタくんの背中に、どうしてかわたしは様式美という言葉を連想してしまう。アニメなんかによく居ますよね? こういう小悪党・・・・・・。


「何がしたかったのよアイツ」


「きっとカロリナちゃんのことを助けたかったんだと思いますよ?」


 いきなりなわたしのフォローに、怪訝そうな顔を向けてくるカロリナちゃん。


「ずっーと扉の影に隠れてたのに、カロリナちゃんがわたしに襲われたと勘違いした途端、割り込もうとした。ちょっと腰が引けてましたけど」


「・・・・・・ただ臆病なだけだと思いますけど」


「決めつけはいけないことです。わたしだって、さんざんお前のような小娘に何ができるって決めつけられてきましたけど、ぜんぶ跳ね除けてやったんですから」


「あんまり、バウティスタと関係な気が・・・・・・」


「決めつけはいけないことですが、何ごとも使いようですよ。バウティスタくんはカロリナちゃんを助けようと飛び出した、そういうことにして認めてあげる。

 臆病と呼んだところで、臆病な人は変わりませんよ。ですがあなたは人を助けようとする勇気があるんだと言ってあげれば、もしかしたら変わるかもしれない」


「でも、もっと酷くなるかも」


「そうなったらもう当人の責任です、こちらが気に病む必要はありません。ですがカロリナちゃんだって、このままじゃいけないと思っているんでしょう?」


 それから美味しい食事の礼を言ってから、わたしはカロリナちゃんを送り出しました。これがとんだお節介で終わるか、未来はまだ分かりません。それを見るためにもわたしはこれから戦わなければならないのです。


「口が達者ですねさん、ハスミン心配になってきました」


「テレサです。それに心配ってなんですか心配って? 乙女心と同じぐらい、男子心も複雑なのが心配、ということかしら」


「ハズレです。その口の上手さで兄さんをたぶらかして、破滅の道にハスミンたちを誘っているのではないかという心配です」


「わたしが言うのも何ですけど、それはもっともな心配ですね・・・・・・だってわたし、単なる外国人の旅行客なんですから。

 けどそれを言うなら、せめて作戦開始前に言ってほしかったですね」


「・・・・・・ハスミンだってちゃんと分かってますとも。失敬、今日はずっと広い船を何度もいったり来たりしてるもので疲労が溜まっていたようです」


 相変わらず、腹の底が見えない子ですねえ。


「ところで――」


 ハスミンちゃんは見覚えのあるポシェットを肩から下ろし、わたしへ差し出してきました。


「お申し付けどおりに肩紐を修繕しました。本来ならこれを届けに来ただけなのですが・・・・・・」


「あっ、もう直ったんですね? ありがとうございます」


 修理をお願いしていたポシェットをありがたく受け取る。


 ハンダゴテですとか、こと工学系に関わる事柄ならば途端に手先の器用さが3倍になるわたしです。しかしこれが手芸関連となると、すぐさま指先が血で真っ赤になってしまう。


「礼ならうちのマリルーに」

 

 わたしはマリルーちゃんという、ふくよかな体格をした女の子を思い出していました。


 彼女が裁縫上手だったのは本当に助かりました。ちょっと肩紐を引っ張ってみると、わたしを救うためとはいえ切り裂かれてしまった肩紐は、もう二度と千切れないのではと信じたくなるほど頑丈に縫い止められている。


 引っ張ってもビクともしません。


「全てを委ねた手前、どんなオーダーにも文句はつけません。

 ですがこの修繕作業が作戦関連でなく、あくまで個人的な要望なのだとしたらこのハスミン・・・・・・おのれマザー○ァッカーめと、テレサさんを誹ることもやぶさかではありません」


「・・・・・・前々から思ってましたけど、ハスミンちゃんの言い回しってちょっと独特ですよね」


「どうなのですか?」


「安心してください。これも大事な作戦の一部ですよ」


 そもそも海外旅行用にと強靭な設計になっているポシェットです。肩紐を除けば、はほつれすら見当たらない。これなら大丈夫そうですね。


 さっそく作業机に並べていた鍵束の付いた財布ですとか、GPS携帯などの必需品をぽいぽいポシェットの中に放り込む。もちろん、さっきまでわたしがハンダゴテ片手に弄っていた作戦のキーパーツも一緒に。


 最後にたすき掛けにして装備すれば、わたしの方は準備完了です。


「それでハスミンちゃん、あなたがバウティスタくんに委ねた伝言の件ですけど」


 どこかわざとらしく、器用に松葉杖に体重を預けながらハスミンちゃんは肩を竦めました。


「兄さんが帰ってきました。甲板で待っているそうです」





✳︎





 わたしの足音に混じり、松葉杖のカツン、カツンという音が船内の通路にこだましていきます。


 どうしてか、片目片足の少女は道案内を買って出ました。


 あのコンテナハウスならともかく、上部構造物は案内板もそこかしこにありますし、道に迷うことなんてありません。それなのに道案内とは・・・・・・本音が別にあるのは明らかでした。


 これはメリッサの持論なのですが、“子どもってのは大人扱いされたがるもんよ”とのこと。そこにくるとハスミンちゃんはどうなのかしら? 


 わたしはまだこの子が読み切れていない。普通とはまるで異なる女の子、ですがそれは致し方ありません。だって普通じゃない経験をしてきたに違いないのですから。


 なんやかんやとまだ少女と呼んでいい年齢なのですから、子ども扱いしてもいいはず。ですがこの船のナンバーツーとして辣腕を振るう彼女をそのように扱うのは、ちょっと違う気がする。


 この船の序列は例えるなら、最年長にして武勇を誇るノルさんが軍の司令官で、ハスミンちゃんは大統領といったところかしら。


 ハスミンちゃんより年上の子もいるのに、そんな立ち位置が自然と認められてしまう実力者。そんなの只者じゃありません。


「テレサさん」


「あっ、ハイ」


 三編みを弄って考えにふけっていたわたしを、振り向きながら見つめるハスミンちゃん。その目はとっても怪訝げでした。


「変ですよその態度。ハスミンは年下なのですから、何を遠慮する必要があるのです」


「わたしは誰にでも丁寧なだけですよ、それこそ年下にだって」


「性癖という訳ですね」


「・・・・・・そこは性格と表現してくれた方が、より的確な気がします」


「それよりよろしいのですか?」


「? 何がです?」


「質問するなら絶好の機会ですよ」


 本当にもうこの子ったら。


 この調子でいくとハスミンちゃん、ゆくゆくは政治家も夢じゃなさそう。むしろハマりすぎる怖いぐらい。この知性、胆力、まさに政治家にピッタリです・・・・・・それかカルト教団の教祖に。


 どうしましょう、後者の方にリアリティを感じてしまう自分がいる。

 

 ですがなるほど良い機会ではある。まだまだこの船では部外者に過ぎないわたしです、聞きたいことはたくさんあるのです。


 さて、どれから尋ねるべきかしら。


「う~ん、ハスミンちゃんは知っているかしら? その、ノルさんが女装してる理由ですかとか」


「ナルシストだからです」


「・・・・・・仲、いいんですよね? お二人って」


「はい。それはもうとてもとても仲がいいですとも。

 朝昼と行動を共にしていたのです。テレサさんには覚えがありませんか? 兄さんが自分の容姿を鼻にかけてる様子に」


「そう言われると、お風呂から露出多めで上がってきたことはありましたけど・・・・・・」


「ナルシストにして羞恥心もない。それこそが兄さんの欠点にして最大の美点なのです。素晴らしい」


「あの、もうちょっと他に褒める部分とかないんですか?」


「兄さんは完ぺきですから。その美点を褒め始めれば、太陽が昇り、そして落ち、また昇ってもなお終わることはないでしょう」


 そのハスミンちゃんの陶酔しきった顔ときたら・・・・・・愛が深すぎる。それも多分ですけど、一方通行の。


「で、ですけど、それだと女装癖の説明になってない気がするんですけど。

 わたしはですねハスミンちゃん、ちょっと難しいかもしれませんけど、ノルさんの口から男性の体に生まれついてしまった女性みたいに感じるとか、聞かされたことは――」


「性同一性障害のことですか?」


「よく知ってますね」


「ご安心めされるがいいです。兄さんの女装癖の根元は、もっとシンプルな動機ですよ」


 片目片足の少女の顔にフッと影が差す。


「単に褒めてもらったからです、“あの女”から」


 “あの女”、その発音の仕方に引っかかりを感じる。


 さまざまな感情が綯い交ぜになった、ハスミンちゃんらしからぬ悪感情を感じさせる呼び名。


「この船には兄さんはじめ、“兄弟カルナル”と呼ばれた一群のシカリオ集団が居たのはご存知ですね」


「ええ」


「なにせハスミンは不良品扱いでしたゆえ詳しくは知りません。断片的な情報の寄せ集め、それでよければお聞かせします」


「・・・・・・お願いします」


 この船が決定的な破局を迎える前夜の出来事を、わたしはついに当時のその場に居合わせた証人の口から聞くことになったのです。


「あの娼館をテレサさんもご覧になったでしょうが、あれはよくいって副業、せいぜい上等な廃棄処分の手段でしかなかったようです」


 やっぱり、そうでしたか・・・・・・分かっていても、当事者の口から聞かされると複雑な感情が浮かび上がってくる。


「研究所や訓練施設もまた枝葉のひとつ、トラソルテオトルの真の主役は兄さんたちシカリオにあったのです」


 その説明には、ちょっと引っかかりを感じました。


 CIAが研究をプロデュースしていたのなら、この船の本命ってMKウルトラの後継計画であったはず。洗脳技術の確立、およびその派生技術。これはCIAからすれば、非人道的な実験を正当化するにたる大きな利点になりうるでしょう。


 せっかくハスミンちゃんが最初に、自分の主観にもとずく断片的な情報の寄せ集めにすぎないと言ってくれたのですから、やはりそれを念頭にして聞くべきなのかしら。


「兄さんたちは、暗殺者として学ぶべきことすべてを叩き込まれていた気がします。側から見る分には、ですが」


「爆破、狙撃、侵入、そういったアレコレですね」


「あとロシア語も」


「ロシア語?」


兄弟カルナルの日常会話は、ほとんどロシア語だったのです」


「機密保持のためかしら」


 特殊部隊でも時折こういう手を使います。


 マスコミの注目度が高い事件などでは、隊員のちょっとした呟きが拾い上げられ、広く伝えられてしまうリスクがある。そういったリスクを未然に防ぐには、第三者が聞いてもわからない言語で話すというのは、シンプルにして最も効果的な対策方法なのです。


 ですが、と頭の中でつい言葉を詰まらせる。


 喉に引っかかった一本の小骨。わたしのCIA黒幕説にとっての最大の障壁は、ロシア人の教官たちの存在でした。


 この船が運営されていた時期を考えると、ソ連はまだ存続していたことでしょう。ノルさんレベルの人材を育て上げたいなら、教える側にもそれ相応の経験が必要とされるのは明らか。では、その技術のバックグラウンドはどこから来たのでしょう?


 ソ連軍の出身であったというのが、一番順当でしょう。あるいはソ連の影響下にあった東欧諸国の出であれば、ロシア出身と偽ることもできるかも知れません。


 ですが不可思議なのは、そんな特異な人材をわざわざ南米に集めなくてはならなかった理由です。


 中南米ラテンアメリカには、暗殺を専門としている部隊がひしめいていまず。それこそCIAに訓練され、息のかかった部隊だってたくさんあるのに、どうしてロシア人を雇い入れなくてはならなかったのか。この答えをわたしはまだ見出せていないのです・・・・・・。


「よく分かりません。もしかしたらハスミンたちの前でだけ、ロシア語で話していたのかも。兄さんにちょっと伺ってみたこともありますが、あまり言語の授業を受けてこなかったそうで、ロシア語はあまり話せないと仰ってました」


「そうなんですか? ノルさんって割と、しれっと話せそうなイメージがありますけど」


「言語学の授業は白人とアジア系が優先だった、というのが兄さんの証言です」


 また不思議な話が飛び出てきました。シカリオとして利用したいなら肌の色なんて関係ないでしょうに・・・・・・現に地元出身のノルさんは、色々と重用されてたみたいですし。


 どこかで、パズルのピースが欠けている。


「MKウルトラの機密文書からいっても、実験を主導していたのはCIAだったんでしょうけど・・・・・・」


 ―――果たしてそれだけなのかしら。


「テレサさんが疑問に思うのもわかりますが、この件について兄さんに根掘り葉掘り尋ねるのはよしてください。あまりハスミンと持ち合わせてる情報量は、代わり映えしませんでしょうから」


 そうですね、一兵士に過ぎないノルさんが踏み込んだ情報を持っていたとは思えません。これまでの態度からしても明らかですし。


 ただ、いずれは聞かなくてはならないでしょうけど。関係者がことごとく死亡しているとはいえ、この犯罪をこのまま闇に葬り去るわけにはいけませんから。落ち着いたらいずれは、という感じかしら。


「テレサさんの仰っていたあの説、CIAなんちゃらですけど・・・・・・ハスミンにはどうにもピンとこないのです。

 あれって本当のことなのですか?」


 これについては、ちょっと苦笑いでお茶を濁さざるおえません。そんなわたしの顔を見て、不満げに眉をひそめるハスミンちゃん。


「ごめんなさい。でも、これはちょっと説明が難しいんです」


 奇縁に満ちたこの旅路ですけど、なにせこの件に関しては、とびきり不可思議な縁で結ばれているのですから。


「ですが断言できます。わたしは、100パーセントの確信を抱いていると」


 そう自信たっぷりに太鼓判を押してみたものの、ハスミンちゃんの顔色は優れない。しばし考え込むように目を伏せから、唐突に片目片足の少女はこう言ったのです。

 

「―――サンタ・ムエルテ」


 それは何度も陽炎のようにわたしの前に立ちはだかってきた、死の聖人の名前でした。


「この船のそこかしこに置かれ、隅々にまで影響力を与えている。それこそ兄さんの腕にすら刻まれている、おぞましくも厳かなその姿を、きっとテレサさんも目にしたことがおありでしょう」


「・・・・・・ええ」


「あれは、あの女の依り代アバターなのです」


 そうハスミンちゃんは告げる。


「トラソルテオトルのスポンサーがカルテルであれCIAであれ、内部にいたハスミンたちからすれば、違うという印象がどうしても先に立つのです。

 この船の支配者は誰あろうあの女・・・・・・“ママ”と呼ばれた女だけなのですから」


 “ママ”。


 その名は、ノルさんの口からも聞いたものです。


 どういった人物だったのか、わたしには今だに雲を掴むようなイメージしかありません。ですがただの管理者を超えた、どこか宗教じみたものを感じてはいました。


 ですが依り代アバターですか。崇められるように船内のいたる所に掲げられていたサンタ・ムエルテの意匠、あれを額面通りに受け取ってカルト紛いの信仰がこの船に蔓延していたと考えるよりも、その表現はなるほどストンと胸に落ちる。


 自己神格化は独裁者の常套手段ですから、そうとう支配力の強い人物だったのでしょうね。


 だとすればノルさんは、どういった気持ちでサンタ・ムエルテのタトゥーを腕に刻み込んでいったのか。あれを入れた理由って、どういったものだったのかしら? 


「まるで自分が神であるかのように振る舞っていたのね」


 不思議ではないでしょう、むしろ自然ですらある。異常者でなくとも、批判されたり責任を追及されたりしない環境を与えられたら、たやすく人格は歪んでしまうものなのですから。


 教主の名の下に集団自決まで至ってしまった人民院事件。イデオロギーを越えて医師たちが私的な人体実験に手を染めていったアウシュビッツの内情。時代も場所も異なりますけど、人は責任を放棄できる環境を与えられると、どこまでも残虐になれるのだと歴史が証明している。


 これは裏を返せば、個人というのが如何に弱いのかを物語ってもいます。罪悪感や嫌悪感によって、普通と呼ばれる人々は日頃から残虐行為にストッパーがかけられているのです。そのストッパー外して自己正当化をするためには、まずは環境を整えなければならない。


 そこに来ますと、トラソルテオトルというのは理想的な環境だったのでしょうね。


 “ママ”こそが実験の管理者であり、もしかしたら首謀者ですらあったかもしれない。ですけど、一線を越えるためのモチベーションは一体どこからきたのかしら。


 CIAのエージェントだったのかしら。それともカルテルを介して雇われた、単なる部外者だったのか・・・・・・本名すら不詳な“ママ”なる女性、その本質はわたしの目には、やはりまだ見えてこない。


「いえそうじゃないですよテレサさん」


 ここにはわたしたちしか居ないのに、ハスミンちゃん自身も気づかぬうちに声を潜めて話していました。まるで誰かに聞き耳を立てられているかのように。


「神のように振る舞っていたりはしません。あの女は、まさに神そのものだったのです」


 大袈裟な表現、そう切って捨てるのは憚れました。だってハスミンちゃんの顔には、いつもの人を食ったような彼女らしくもない、明確な恐怖が浮かんでいたのですから。


「サンタ・ムエルテやあの娼館だって、大してことありません。この土地では。あの予言にしても、ハスミン的にはどうでもいいのです」


「予言?」


 わたしの疑問について、ハスミンちゃんは答える余裕もないようでした。


「・・・・・・ハスミンが出会った大人はみんな最低でした。ですが、心底に恐ろしいと思ったのは、あの女だけです。

 支配者はみんな恐怖で人を縛りたがります。ですがあの女は恐怖の代わりに――愛情を用いたのです」


 わたしは驚いていました。いつだって豪胆だった片目片足の少女が、こうも言葉を濁しているのですから。


 真意を問いただす前にハスミンちゃんはふたたび歩き始める。彼女が今どんな顔をしているのか、少女の背中は語ってはくれませんでした。


「猟犬は、火の中に飛び込めという命令すら喜んでやるものです。恐怖からでなく、ご主人様が大好きだから。

 テレサさんのご助力にはこのハスミン、感謝してもしきれません。ですがお願いしたいことがあるんです。どうか、兄さんの2人目の飼い主にだけはならないで下さい」


 どういう意味なのかと問いかける前に、どうやら目的地に到着してしまったようです。甲板へとつづく船用扉の前でハスミンちゃんは足を止める。そしてまるでわたしの発言を封じるように、先んじてこう言ったのです。


 “詳細が知りたいなら兄さんに聞いてください”と。


「おそらくその資格があるのは、あの女の最後の息子である兄さんだけでしょうから」


 道案内はここまでだと、扉を開け放つと同時にさっさと離れていったハスミンちゃんの態度が物語っていました。


 外からは、紫煙の匂いが漂ってきました。




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