XXVI “ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ポーツマス”

【“過去”――ニューハンプシャー州ポーツマス郊外・テスタロッサ宅】


 私はずっとあの土地で過ごしてきた。他の局員たち・・・・・・すなわち、デスクに座りながら世界を操れるなどと自惚れている、あの間抜けどもとは違う。私は、この目で現実を見てきたのだ。そもそも馬鹿らしい話だと思いませんかな? バージニア州から全世界を操れるなどとは。


 どうかな。陰謀論者たちは、ピーナッツの名産地兼世界を裏からあやつる秘密結社の本拠地だと、本気で信じ込んでいるようですが。


 はっはっは。実のところ、私もそう信じたい。だが現実は非情なものですよ中佐。我々は陰の政府シャドーガバメントからは程遠い。度し難いほどにカンパニーというやつは小役人の集まりなのですよ。自分たちは万能などと自惚れておきながらその実、頭の中にあるのはどうやって予算を増やし、大統領ポータスに気に入られるかでしかない。小指の先ほどのリスクすら恐れ、それどころか耳にしただけで顔面が蒼白になる。


 “危険を冒すものが勝利するWho Dares Wins”ですか。


 そう、小癪なイギリス人ですら、時にリスクを踏むべきだと心得ている。だが奴らは人命重視という名の美辞麗句のもと、怯えて縮こまっているだけだ。親愛なるわが政府ワシントンと同じくね。


 どこも同じですね。


 ほう、海軍さんもですかな?


 目と鼻の先にで助けてくれと叫んでいる人々すら、予算がどうの、政治的リスクがこうので助けることができない・・・・・・時折、自分が何をやってるのか分からなくなる日もあります。


 制度の壁ですか。


 ままならないものですよ・・・・・・まあこれが、シビリアンコントロールの代償なんでしょうが。民主主義国家、なによりアメリカ国民に仕える軍人としては、むしろこの首輪は積極的に守っていかなければならない宝でもある。


 そう頭では理解しているが、同時に苛立ちも感じている?


 国家という枠組みはときに腹立たしいほど動きが鈍いですからね。もし政治のしがらみを越えて純粋に人助けだけをできる機関・・・・・・そうですね、例えば国際救助隊みたいなものがあればと妄想したくなる日もあります。


 中佐殿も案外、可愛らしい想像をなされるものだ。


 実はサンダーバードのファンでして。


 ふふっ、なるほどそうでしたか。


 とにかく、予算の割き方について苦言を呈したいのは、どこの組織も同じという訳ですね。どうやら初めて海軍とCIAの意見が一致したらしい、乾杯。


 CIAとは一体なんの話か分かりませんが、乾杯・・・・・・話は変わりますがね中佐。まったくもって中南米の病根は、どうしようもなく根深いものでしてね。


 そこまで酷いのですか。


 あちらの人間ときたら、安っぽい反米主義にかぶれて悪辣なアメリカ人グリンゴこそが諸悪の根源だと叫んでいるが、だが問題の源はそんな浅いものじゃない。血と暴力こそがあの地域の本質なのですよ、中佐。

 なるほど、ヒッピー共がドル札握りしめて麻薬を買いあさったせいでカルテル共は勢いづいたでしょう。ですがそれ以前から太陽神なんぞを崇めたてて生贄を捧げる原住民どもが、かの地には跋扈していた。


 ・・・・・・。


 人は生まれながらに邪悪だとは思わない。ただ、邪悪に育つだけなのですよ。その理論に基づくならば、かの地の水は淀んでいる。あの水を飲んで育った者はすべからく、血と暴力に飢えた獣となる。

 例の、バージニア州ラングレー在住の自称楽観論者オプチミストたちの話ですがね。奴らは浅はかにも麻薬戦争に勝利できると本気で信じている。だが何も理解してはいない、勝ち負けの問題ではないのだ。

 あれは、なのですよ。

 インカやアステカの王たち、コンキスタドール、独裁者、革命家、そして麻薬カルテル・・・・・・次から次へと支配者たちの肩書は変わるが、どれも揃って虐殺以外の政策を持たない狂人の群れだ。そいつらが何処から現れたかといえば、彼奴らはあの土地によって産み落とされたのですよ。


 以前、陸軍の友人と話していたら、パナマ絡みでたまたま麻薬戦争の話題に及びまして。陸軍U.S.アーミーに任せてもらえば、南米の問題ごときすぐに片がつくと息巻いてましたよ。


 それはテスタロッサ中佐。友人の名を騙った、あなたのご意見では?


 私は潜水艦乗りサブマリナーです。陸は専門外ですよ。


 おっと、これは申し訳ない。私の周りには皮肉屋しかいないものでしてな。どうにも私自身、知らずしらずのうちに毒されていたようだ。


 お気になさらず。それで? 我がアメリカ合衆国陸軍に任せたら、この世から麻薬は根絶できそうですか?


 微妙な線ですな。なんやかんやと一世を風靡したアヘンは、万国阿片条約によって姿を消しましたから、政府の努力次第ではあるいは・・・・・・おっと、アヘンはいまヘロインと名を変えたのだったか。だとすれば答えは、NOですな。19世紀から引き摺ってる問題が昨日今日で解決できるはずもない。

 よしんば米軍の総力を挙げて中南米を平定したところで、待っているのはベトナムの再来でしょう。ベトナム、アフガン、そして中南米。この世には、大軍をもってしても攻略し得ない特異点がいくつもあるのですよ。

 いわゆる獣の国ビースト・ネイションが。


 武力の限界というやつですね。撃たれるかもしれないという恐怖が相手にあるうちなら意味はあるが、これが撃たれても構わない、それより立ち向かうべきだと覚悟されてしまった時、その瞬間から武力なるものの効力は急速に失われていく。


 中佐は、武力は行使するためにあらず、抑止力のために存在しているとお考えかな?


 核ミサイルの横で寝起きする生活を繰り返すと、自然とそうなるものですよ。


 死を恐れぬ者たちに武力は通用しない、か。もっともその先に待っているのは、生存権を賭けた度しがたい殲滅戦ですがな。

 “戦争とは、敵の意思を屈服させることを目的とする武力行使である”


 クラウゼヴィッツですね。


 ふふっ、真に知的な人物と話すことほど幸せなことはない。


 それはまた、過分なお言葉で恐縮してしまいますね。どうです? もう一杯?


 頂きましょう。“戦争は一つの政治的行為である”とはいうが、アメリカという国は生来の戦争好きでしてな。独立戦争によって自由を勝ち取ったという自負もあるのでしょうが、これが結果的に、問題解決手段としてつねに武力を選択してしまう悪癖をも生じさせてしまった。


 まあ、第2次世界大戦までなら現実的な解決策でしたしね。


 国家には責任者というものがいる。究極的には、その責任者を殺すなり捕らえるなりすれば戦争は終わった、そう“かつては”ですがね。だが東西冷戦の勃発から今日に至り、戦争は、国家同士の縄張り争いから思想の対立となった。


 イデオロギー思想の対立?


 わたしもかつてはそう考えていましたよ。ですが・・・・・・世界をこの目で知って、己の間違いを思い知った。昨今の目覚ましすぎるほどの科学技術の発展で、勘違いしてしまったんでしょうな。人間それ自体は、長い歴史のなかで手に入れた自らのテクノロジーほどには賢くはないのだ。


 ・・・・・・。


 そう、世界はおぞましいほどシンプルに出来ている。すべては単なるなのですよ。


 感情?


 技術の発展によって個人の力は、第2次世界大戦以前とは比べられないほどに高まった。その結果、戦争を実行するための敷居は国家から組織、さらには少グループから個人にまで引き下がっていった。

 私はねテスタロッサ中佐、米ソの対立なぞ表層的なものにすぎないとそう考えておるのですよ。私は戦場でロシア人なぞついぞ見たことがない。代わりに見てきたのは、シンプルな動機で戦う男や女たちだ。怒りこそが現代の敵、いや古来からあった闘争の概念が今度は、テロリズムという名の衣をまとって現れたにすぎない。


 テロ、ですか?


 そうとも。字すら読めない無学な者どもが、インテリをこじらせたドイツ人が組み立てた共産主義思想なんてものを真に理解できるはずがない。現代のテロ屋、あるいはゲリラ屋共が戦争をやらかす動機の根っこのところは、低俗な憤怒にすぎないのですよ。


 解決し得ない貧困や不平等をスタート点に、恥ずかしながら、わが祖国アメリカをはじめとする勝者という名の傲慢が彼らをさらに焚きつける。


 喜びは一瞬で過ぎ去るが、トラウマは永遠につき纏う、それが人の性というものだ。なにせ動機がシンプル極まりないから簡単に伝播する。時に感情は土地に染みつき、子々孫々にまで受け継がれミーム化すらする。中南米ラテン・アメリカがそうであるように。これこそがアメリカの真の敵なのだ。


 私は、紛争の根っこは環境にあるものと考えてましたが。


 それには同意ですな。

 だが残念ながら、世界のあまねく人々が金持ちとおなじ水準で生きられないのは自明の理だ。この惑星にそれほど潤沢な資源はない。環境を改善することに限界があるのならば、一定の紛争は永久に続くものだと諦めるしかないのだ。

 だが手をこまねいて眺めている訳にもいかない。良くも悪くも獣の国ビースト・ネイションから恨まれる側の人間として、とこしえに続くこの闘争にどう向き合うべきかを考える他ないのだ。

 ただでさえ個人で扱える武力はより強力に、より安価になったのですからな――実はですね中佐、私はソ連の崩壊は間近だと感じておるのです。


 それはまた、大胆な仮説ですね。


 いや、そうでもない。ソ連にとって先の内戦はギリギリの延命治療策だった。あの内戦は、ロシアという多民族国家を束ねていた共産主義という支柱がすでに食い尽くされ、虫食いだらけになっているという良い証拠だった。


 確かにアフガンへの再侵攻こそ果たしたが、ベルリンの壁は崩れて東ドイツは西側に飲み込まれてしまった。東側諸国ワルシャワ・パクトもくすぶりを抱えている。


 そう、末期のがん患者がそうであるように細胞は徐々に朽ちていき、いずれは心臓の動きすら止まらずにはいられない。


 だからこそ第3次世界大戦のリスクもあるとも思うのですが?


 これで共産主義の理想に彼奴らがまだしがみついているのなら、敗北を認めないがために全世界へ核を放って無理心中などという最悪のシナリオもあり得たでしょう。

 ですが、親愛なるゴルビーにクーデターを仕掛けた奴らは、結局のところ自らの保身のためにコトを起こした俗物に過ぎない。

 おそらく権力を抱いたまま奴らは死に絶えるでしょう。時流を読んだ軍人たちにクレムリンの中庭に引き出され、銃殺刑に処されるその瞬間まで、自分たちは助かるかもしれないとありもしない幻想を抱きながら。


 あなたの論点はその後のこと、いわばポスト冷戦にあるのでしょうか?


 まさに慧眼。ところでご存知でしたかな? 実はつい先ごろ、かのパブロ=エスコバルが当局に射殺されましてね。


 いえ初耳です。


 まさしく、そのお言葉が麻薬戦争の実態を物語ってますな。彼奴が死んでも世界は変わらなかった。

 伝説の麻薬王キングピンが死んだことで米国に流入する麻薬の量が減ったかといえば、むしろ増えているのが現実だ。DEA、軍、コロンビア政府そしてCIA。これらのタスクフォースが莫大な戦費を費やして麻薬王1人をこの世から抹殺するのに20年。その成果がこれだ。不毛と評する以外にどう表現しろというのか?


 ・・・・・・。


 私は、なんとか上役どもを説得しようとした。ジャングルを焼き払ってゲリラを追い回すのも、DEAの保安官ジョン=ウェイン気取りどもの言いなりになって麻薬カルテルの撲滅なんて不毛な作業にも関わるべきでないと・・・・・・口を酸っぱくして、何度も何度もね。

 かといってカンパニーCIAの本分に立ち返り、往年の政府転覆機クーメーカーの悪名よろしく、いつか西側基準の善良な政権が生まれるはずだと信じて革命ごっこを支援するのもカネの無駄というものだ。ただでさえ予算は目減りする一方なのですからな。

 私は言った、正しい道を今からでも選ぶべきであると。たとえそれが、どれほど汚いダーティー選択肢であったとしてもだ・・・・・・。


 何やら、秘策がありそうな口ぶりですね。


 ええ。それはもう素晴らしい策でした・・・・・・だが奴らは理解しなかった。一定の理解を示してくれたのは、あろうことかあのミネソタ出の田舎者だけという始末でしてね。


 田舎者?


 ああ・・・・・・その、“アレ”は一応は私の上司でしてね。何とも得体の知れない男なのですよ。切れ者かと思えば、次の瞬間には愚かなラバに変身して世に醜態を晒している。

 アレがボゴタ支局長だった時、あろうことか護衛もなしにちょっと観光に行ってくるなどと浅薄な台詞を残して、姿を消してことがありましてね。周りを大層、慌てさせたものです。


 大丈夫だったのですか?


 大使館を出て5分で行方不明に。3日後、FARCファークから犯行声明が届きましたよ。返してほしくば身代金を寄越せと、お定まりの文句をね。


 ・・・・・・まさか今も捕まってたりしませんよね?


 それが・・・・・・更にその1週間後、妻への贈り物だとかいう謎めいた18世紀のサーベル片手に、コロンビア自衛軍連合AUCの指導者みずから運転する4WDに乗り込んで意気揚々と帰ってきまして。一体何があったのやら、捉えどころのない男という評判を通り越してあれは、もはやラングレーに巣食う妖怪のようなものでしてな。正直、この話題はここらへんでご勘弁願いたい。一晩程度では語り尽くせませんので。


 では、また次の機会ということで。


 それが良いでしょうな。ああっと、どこまで話したか・・・・・・。


 私の理解ですと、ポスト冷戦と麻薬戦争にどう対処するかだったと記憶してます。


 そうでしたね。いやはや、こうも飲み込みが早いと話し甲斐があっていい。


 いやいや、単なる努力の賜物というやつですよ。昔から気になることがあると、とことんまで調べ尽くさないと落ち着かない性分でして。海軍兵学校アナポリスに居たころも、分からないことがあるとすぐ教官を引っ掴まえては、根掘りは葉掘り尋ねていたものです。そのせいであらぬ疑惑が立ち上がりまして。


 ほう? 疑惑ですか。


 ええ、教官たちの間に“もしやコイツは向学心に溢れてるんでなく、単に俺の授業中に寝てたんたじゃないか?”というヒドい疑惑がね。


 はっはっはっ!!


 寝てたりしません。単に頭が足りず、授業についていけなかっただけです。まったくもって失礼千万な話ですよ。


 いやはや中佐。仕事柄、海千山千の者どもと大勢出会ってきましたがね。あなたほど知的でユーモラスな方は他には・・・・・・うん? ああ、これは奥様。お邪魔しております。


 盛り上がってるみたいね。


 あっ、やあマリア、もう帰ってきたのかい?・・・・・・言ってくれたら荷物運び手伝ったのに。


 お仕事の邪魔をしちゃ悪いと思って。


 いや、別に仕事という訳では・・・・・・ああ、こちらは家内のマリアです。そしてこの方は――


 キャッスル。


 あら、名字だけ?


 横着者でして。名字だけなら署名も早く済む。


 そう、変わってるいらっしゃるのね・・・・・・アップルパイが残ってるの、お食べになります?


 是非に。


 すこし待っていてくださいね。


 ・・・・・・なるほど中佐。そろそろ家族サービスのタイミングが迫っているようですな。


 あははは・・・・・・これも、自分の不徳がいたす所でして。妻にはいつも迷惑をかけています。仕事と仕事で、我ながら家庭を顧みないダメ夫を地で行っている。


 安全保障業に身をおく者の宿命ですな。亡き妻はよく言ってましたよ、私の夫は自分とエージェンシー、2つの家庭を持っているとね。


 仕事柄、手を抜けば誰かが死んでしまう。普通の家庭なら仕事を減らせばそれで済むのでしょうが・・・・・・妻もこちらの事情は重々承知してますから、それでますます溝が深まってしまって。

 あー、うまく折り合いをつけるしかないんでしょうが、そうですね。長期休暇でもとって、家族一緒に羽でも伸ばしますか。


 お子さんの年齢は?


 兄と妹、2人揃ってそろそろ10歳になります。双子でしてね。妻が帰ってきたということは子どもたちも一緒でしょう。あとで紹介しますよ、ただちょっと上の子は気難しいんですが。


 それは楽しみだ。


 Mr.キャッスル、あなたはお子さんは?


 息子が1人、もうとっくに成人してます。私も負けず劣らず家庭人としては落第点でしたが、息子とはそれなりに上手くやってますよ。最近はすこし、あっちの家庭の事情でゴタゴタしていますが・・・・・・実は今、あれは海軍ネイビーに籍をおいてましてね。


 なんと。今度からは、乗組員名簿からキャッスルの名前を探す必要があるのかな?


 はっはっはっ。ご心配なく。あれは海軍は海軍でも、銃を持って走り回るタイプでしてね。


 ネイビー・シールズNavySEALsですか? それはまた、逞しいことだ。


 どうも親よりアグレッシブな仕事に就きたかったらしい。なにせ私の仕事はアクションとは無縁ですからな。ひたすらベラベラと喋り倒すのが職務の九割方ときてる。仕事柄、高級料理店に入り浸って公費で食べ放題という役得も、ありはするんですがね。


 なかなか羨ましく聞こえますが?


 ブランデーを何杯飲んだのか書面にして提出しろとせっつかれさえしなければ、私も喜色満面に自慢したでしょうが。報告書よりもこちらを優先しろというのだから、官僚主義もここまでくれば病的だ。


 上手く行かないものですね、何事も。


 まったくですな。


 ・・・・・・あっ、良いところに来たね。こっちにおいで。

 

 娘さんですかな?


 ええ。テレサです。


 やあ、テレサちゃん。はじめまして。


 すいません、人見知りでして。慣れたら誰とでも元気に挨拶できる子なんですが、それまでが大変で。


 いやいや。私も大概、子どもに好かれる外観をしていない自覚はありますからな。

 だがねテレサちゃん、意外かもしれないが、私も君の父上と同じように正義の味方なんぞをやっているんだ。人というのは見かけによらぬものだよ。


 ・・・・・・先ほどのお話ですが。


 うん?


 例の秘策の件です。


 ああ、あれですか。まあ、ああいった土地がある限り、悪が消え去ることはない。だから私は逆転の発想をすべきだと、そう主張したのですよ。

 “悪を滅せられないのであれば、利用すべきだ”

 私はねテレサちゃん? 君のような素晴らしい子が平和に過ごせるためなら、どんな犠牲も厭わないつもりなんだ。ただ、悲しむべきことに命というのは――平等じゃないのだよ。









【“テッサ”――シモンボリバル・スポーツ・アリーナ・VIP室】


 とっても古い夢を見ていたような気がする。


 ゆっくりと意識が覚醒していく。どうやらわたしは、豪奢なソファーに身を横たえていたみたい。


 起きてまず最初に感じたのは鈍痛でした。身を起こすとその拍子に氷嚢アイスバッグが転げ落ち、わたしは自分の額に大きな絆創膏が貼られていることに気がつきました。そういえば、頭がズキズキと痛む。


 ザスカーが駆るフロッグマンに捕らえられた拍子に頭を打って、それからこの部屋で簡単な治療を受けていた? まだ頭が本調子じゃない。


 無意識にアイスバッグを拾おうとして足元を見てみましたが、見当たらない。


 頭を振って、霞みがかった視界をどうにかする。床にあるわけがありません、だって落ちた先は如何にもお金が掛かってそうなヴィンテージ・テーブルだったのですから。


 やっと意識がハッキリしてきました。


 アイスバックから視線を横に逸らせば、テーブルの上には備えつけらしい、これまた高級そうな空の灰皿が置かれてまして、さらにその横にわたしのポシェットの中身が整然と並べられてました。


 なんとなく、事故原因を調査するために倉庫で組み立て直されてる飛行機の残骸を連想する。バッテリー切れの衛星電話。お財布。割れてしまったサングラス。それに車のリモコンキーが括りつけられた鍵束がそこにはありました・・・・・・。


「目が覚めたかね?」


 投げかけられた年老いたしゃがれ声によって、急速に神経が張り詰めていくのがわかりました。わたしはこの声の主を知っている。


 そうです、腑抜けてなんていられない。今のわたしは囚われ身なのですから。


 ですが虜囚の身である割には、丁寧に扱われていたようです。だって治療だけでなく、わたしのお腹の上には毛布まで被せられていたのですから。


 左腕の腕時計に目を走らせてみれば、わたしがザスカーに捕らえられてからざっと3時間ほどか経過していました。


「もう帰ってもよろしいですかな?」


 最初の声とは別の、恐縮しきった声が響く。お医者様というのは不思議なもので、国を越えてもどこか似たような雰囲気を持つものです。この太めの男性が手当てをしてくれたのようですが、しかしお礼を言える雰囲気でもありません。


 部屋の中を見回す。とりあえず、ここが病室でないのは明白でした。


 ひと目見て展望階という言葉が浮かぶ。前面には壁一面に大きなガラス窓がはめ込まれていて、ここからでもスタジアムの観客席がよく見えました。窓の前に置かれているあの角度のついたソファーに腰掛ければ、試合風景がよく眺め渡されることでしょう。


 わたしは結論を口に出していきました。


「ここはVIPルーム。それも、シモンボリバル・スポーツ・アリーナの・・・・・・」


 まるで寝起きのかすれ声みたいでしたが、発音だけはしっかりしていたつもりです。


 わたしの声を聞き取ったお医者様は、ちょっと安堵したようにこちらを眺めている。空調がよく効いているのに、どうしてか汗だくでしたけど。


「気分はどうかね?」


 こちらの返答も待たず、ペンライトで人の瞳孔を照らしてくるお医者様。


「・・・・・・ええ、大丈夫です」


「そうかね・・・・・・ほら、ここは設備が限られてるから、その・・・・・・私なりに万全は尽くしたんだがね」


「?」


 なんでしょう、その態度からはどこか焦りみたいなものを感じる。


「大きな怪我じゃなかった、後遺症もないだろう。だが万が一のことを考えると、念のために病院で精密検査を受けたほうがいい。その、あくまで自己責任の範囲でね」


ドクターdoctor


 まだ本調子じゃないわたしに向けて言い募るお医者様。その性急さを制したのは、年老いたしゃがれ声が発する英語でした。


 そういえば、このお医者様は英語でわたしに話しかけていました。見るからに地元出身のようなのにわざわざ・・・・・・それに態度からして、英語話者であるわたしを慮ってとも思えない。


 配慮しているとしたらそれはわたしではなく、展望窓から外界を見下ろして、ずっとこちらに背を向けているスーツ姿の男に対してでしょう。


 相変わらずのしゃがれ声でスーツ姿の男は言いました。その言語は、とてもナチュラルなアメリカ英語でした。


「君が最善の努力をしたことを疑うつもりはない。私としても、こんな時間に無理を言ったと自覚している」


「・・・・・・きょ、恐縮ですボスパトロン


 パトロン――ザスカーもそう言っていたものです。ボスの元にわたしを連れていくと。


「だからそうくどくど言うのはやめたまえ。そうまで責任回避に奔走されると、私もあらぬ誤解をしたくなる」


「そ、そんな、私はそのようなつもりは、決して・・・・・・」


 両者の間には、明確な力関係がうかがえました。


 上司と部下と呼ぶのも憚れる、恐怖心が隠し切れていない異様な関係性。その原因はすぐさま理解できました。


 このVIPルームに出入りするためには、どうやら1本しかないエレベーターを用いるしかないようです。そのエレベーターの前には、さながら守護神のように2人の男が立ちはだかっている。


 紺色の作業服のうえから弾倉がたくさん詰まったチェストリグを羽織り、頭には“SEGURIDAD警備員”との野球帽を被る男たち。その手には当然のように、AK-47Sアサルトライフルが握られている。


 その警備員たちは、カリ・カルテルの表の看板として知られるB.S.S.のワッペンを付けていました。銃を持った強面の男たち・・・・・・これだけでもお医者様に緊張を強いるには十分だったでしょうが、そこに加えてVIPルームに設えられている瀟洒なミニバーには、場所柄に似つかわしくない安っぽいビール瓶を傾けているザスカーまで居るのです。あのどもり具合にも納得がいくというものでした。


 いつでも人を殺せる男たちに囲まれ、平静を保てる方がおかしいのです。ですかわたしの内面はお医者様とは正反対――どこまでも凪いでいた。


 自分が置かれている状況が危険であると認識した途端に、スッと冷静さが頭に満ちていく。こんなわたしの方がよほど異常なのかもしれません。


 パトロンと呼ばれた初老の男性がぞんざいに手を振りました。すると、ホッとしたようにお医者様は急ぎ足でエレベーターの中へと消えていく。彼からすれば、こんな場所に1秒だって残りたくはなかったのでしょう。


「・・・・・・」


 エレベーターの扉が閉まり切るのを確認してから、初老の男性はどこか気まずげにわたしに向けて喋り始めました。きっと、わたしの鋭い視線を背中に感じているからでしょう。


 どう考えてみても、この男こそがこの場のトップ。いえそれどころか、コロンビア暗黒街の顔役であることに疑いの余地はないのです。


「外見は母上譲り、だが内面は・・・・・・どうやら父上の影響が色濃いようだね、Ms.テスタロッサ」


 その言い草に、わたしはちょっとした驚きを覚える。 


「・・・・・・いいんですか? 見ず知らずの小娘を気まぐれで助けてやっただけとか、適当な言い訳ができる最後のタイミングだと思うんですけれど」


「無駄な努力はしない性分でね。何より、君の目をみて確信したよ。ホテルの時と異なり、今は私のことをちゃんと思い出したようだとね」


「・・・・・・」


「やはり父親譲りだな君は。天才児ギフテッドだとは話に聞いていたが、たった一度だけ、それも幼い頃に一目会っただけの相手をよく覚えていられたものだ」


「あなたこそ、父の親友という訳ではなかったでしょう? どうしてこうまでわたしを・・・・・・」


 まだ記憶が抜けている可能性はありますが、わたしとこの男との間の接点はあまりに少ない。そう一度ばかしわたしの実家を訪ねてきた、ただそれだけの間柄なのです。


「そうとも、大学の講演会で意気投合して家にお招きに預かった。それだけが君の父上と私の関係のすべてだった」


 あまりに短く、そして関係性の薄すぎる接点です。なのにこの男ときたら、まるで古い友人を悼むような痛切な口ぶりでして。


「だが忘れらない思い出だ。まるで10年来の友のように語り明かした相手が、それからわずか1ヶ月も経たずして、美しい妻と愛らしい双子とともに悲劇的な死を迎えてしまったのだからね――クソッタレサノバヴィッチのテロリストどもの手によって」


 やっと男が振り向きました。


 鏡のように反射するアビエイターサングラスは男の表情を完ぺきに隠しきってました

。まるで仮面のように。


「君は知らなかったようだがね。私と君の人生はいくどもニアミスを繰り返していたのだよ、テレサ=テスタロッサ


「どうしてその肩書きを、とは聞かないわ。どうせこれから説明してくださるのでしょうから」


「そう身構えることはない、と言っても無駄か」


 サングラスの男が展望窓から離れ、こちらにゆっくりと歩み寄ってきました。その途上で見せた額を摩るジェスチャーは、わたしの絆創膏を指し示しているのでしょう。


「まずは謝罪すべきだろうな。そこのMr.ザスカーは忠実でありかつ優秀な男でもあるが、今回のケースに向いたスキルをあまり持ち合わせていないのだ」


  自分の上司からの酷評ともとれる評価を、この頭の痛みの元凶にして、今日一日だけでもたくさんの命を奪い去っていきた男は、さも面白そうに受け止めていた。


「くっくっ、何せ俺ゃ、破壊の天使エンジェル・オブ・デスなもんでしてねぇ」


「アルコールは慎め。まだ貴様の仕事は終わってはいない」


了解シー、パトロン」


 ビール瓶を傾けて了解の意を示すザスカー。態度こそ不真面目そのものでしたが、それでも宣言通りに口をつぐむ。忠実という評は、間違えではないようです。


「ご覧の通りだ。獣のような男だが、一方で口を紡ぐタイミングもよく心得ている。だから心置きなく、君のかつての職業について語り合おうではないか」


「まるでわたしの実の叔父にでもなったように話すのね」


 そう、最初からその声音には、姪っ子を心配する叔父のような気安さがありました。わたしのトゲのある言葉遣いにサングラスの男は――Mr.キャッスルは、苦笑いを浮かべる。


「聡明な君のことだ。わたしはただ、あのホテルからずっと君を助けようとしていたと、今はもう気づいているはずだ。

 このような乱痴気騒ぎに発展させるつもりなど、こちらとしてはさらさら無かったということに」


 それは、そうでしょう・・・・・・首尾一貫してカリ・カルテルの人間は、わたしを無傷で連れ出そうとしていました。もしわたしが他人を簡単に信じてしまう愚直な女であれば、そうですね、こうも話は拗れなかったかもしれない。


 あの大使館職員と名乗った汚職警官たち。あまりに怪しい言動をしてましたが、彼らの主張どおりに本気でわたしをただ、空港にチャーターされていただろう飛行機に乗せようとしていただけなのでしょう。ただ上司に命じられるがままに。


「君の危機本能はある意味で正しい、私も使いの選定を誤ったと後悔しているよ。

 ちゃんとした英語が話せるうえに、デルタとSASに訓練を受けたアメリカ流の礼節を知っている特捜隊プロケ・デ・ブスケダ上がり。そう自慢しておきながらこれだ。

 まさか女装癖のシカリオよりも信頼されないとは、あの警官どもはどんなポカをやらかしたのやら。かといって――」


 Mr.キャッスルが顎をしゃくった先には、VIPルームの隅で最新型のワークステーションに陣取っている第3の男がいました。


 筋骨隆々な警備員たちにザスカー、そういったアクの濃い面々に比べると、場に合わないほど大人しげで痩せている。


 わたしも仮にもエンジニアの端くれなので、あまり偏見を助長する言い方はしたくないのですが――誤解を憚らずにいえば、外見からしてコンピューター・オタクナードにしか見えません。


 ですがMr.キャッスルが指摘したいのは、彼の服装センスの方でしょう。突いたら折れそうな貧弱な肉体にドクロ柄のゴールデン・チェーンとは、あまりに不釣り合いに映る。


「見たまえ。三つ子の魂百までもというが、南米に居ながらにして、日焼けのひとつすらしていない貧相極まりないエンジニアでさえ、あのように馬鹿丸出しのチェーンを光らせている。

 カルテルの人間というのは、どいつもこいつも露悪趣味で困る」


 上司のそんな言説を耳にしたザスカーが、くっくと含み笑いをしてました。


 人の歯が付いたカウボーイハットを被り、背中いっぱいに特注ホルスターの束を張りつけ、よく見れば義務であるかのようにゴールデン・チェーンまでもが首から垂れ下げられている。


 なるほど、あれほど露悪趣味を体現している男もそうは居ないでしょう。もしあのバーで最初に話しかけてきたのがザスカーであったなら、わたしは無言で回れ右して逃げ去っていたに違いない。


「隠さないんですね」


「何をだね?」


「カルテルと自分はなんの関わりもないとか、真顔で言い切りそうな顔つきをしてますから。今のうちに釘を刺しておきます」


「父上ゆずりのユーモアセンスだな。だがつい先ほど言ったように、君の前職については承知している。正体を隠しながら上手く事を運ぼうとして、ご覧の有様になったのだからな。失敗からは学ぶたちでね」


 ミスリルの存在は、今なお世間に秘匿されています。


 もちろん都市伝説としては広く知られてますから、名前そのものは知られていても不思議じゃありません。ですがサングラスの男はわたしを“大佐”と呼んだのです。小娘には似つかよしくない称号。それを知っているのは、少なからずミスリルの内部事情に通じている者だけでしょう。


 組織の規模もあって先進国の諜報機関などからミスリルは、ほとんど公然の秘密扱いされていたと聞きます。


 だとしたら、CIAの人間であるMr.キャッスルがミスリルについて知っていても、さして不思議ではないでしょう。ただ戦隊長としてそこそこ名が知れていたとはいえ、わたしの階級を正確に言い当てたのは解せませんけど。


「ミスリルはその設立当初から、各国政府の内諾を受けながら活動していた。それは知っているね?」


「ですが、独立性は維持していたわ」


「そうとも、私にとって今なおミスリルは雲を掴むような組織のままだ。だが中南米は古くからカンパニーCIAの裏庭だった。

 ある時ベリーズで怪しい動きがあると報告があってね、さっそく我々は調査に乗り出したよ。そこにミスリルの訓練キャンプがあるとも知らずにね」


 ベリーズ。中南米で唯一の英語圏であり、Mr.キャッスルの言う通り、かつてミスリルが隊員の選抜試験を行うための訓練キャンプを設けていた土地です。


 こっちだってMr.キャッスルの詳細なキャリアは存じていませんが、まさか中東部門に属していたとも思えません。やはり籍を置いていていたのは、中南米部門であったはず。


 だとすればベリーズは、彼からすればまさに管轄権内だったことでしょう。


「妙なことに上からそれとなく調査をやめるよう促されたが・・・・・・知ったことか。我々はくだらない政治をしてるんじゃない、アメリカを守るための戦争をしているのだ。

 われわれ中南米部門としては、世界各地から腕の立つ傭兵どもが、つぎつぎとモンドラゴン・ファミリアのお膝元に入国していくのを黙って見ていられはずもない。

 だが妙なことが起こった。

 カルテルが傭兵を雇いれることは珍しくもない。だがその傭兵たちはカルテルに与するどころか、世界の10年先をいく兵器を駆使して、あれほど我々を手こずらせてきたモンドラゴンどもを瞬く間にあの国から一掃してみせたのだ」


「・・・・・・それと今の状況に何の関係が?」


「カンパニーにとっては好都合な展開ではあった。政府、それも同盟国と癒着している麻薬カルテルを一掃することほど、難しいことはないからな。

 しかし好都合とはいえ、得体の知れない武装集団をのさばらせる訳にはいかん。我々の裏庭でなにが起きているのか知るべきだ、そういう確信のもと調査を進めたのだが・・・・・・だが結局、私は調査を中止させた」


「なぜ?」


「ある人物が訪ねてきたんだ。水兵から提督まで上り詰めてみせた叩き上げにして、退役後は、アルなんとかいう警備会社の社長を務めている、さる元海軍の重鎮がね」


 まさか、という気持ちとともに、わたしにとってはもはや親代わりである人物の名前が心に浮かぶ。


「まさか、ジェリーおじ――ボーダ提督があなたに接触コンタクトを?」


 意外な人物の登場に、流石のわたしも動揺が隠せません。


 父の上官であったとはいえ、あの事件のあとにわたしを保護してくれたジェリーおじさまとわたしの個人的な関係について、この男に知る術があったとは思えない。


 ですが嘘とも思えません。誰かから教えられでもしなければ、こうまで確信をもってわたしのような小娘を大佐呼ばわりなんてしないでしょうから。


「その丸顔の男は1枚の写真をこちらに見せてきた。

 いまより若干、幼なげだったがね・・・・・・君の容姿は変わらないなMs.テスタロッサ。ただし純粋イノセントだった少女の瞳は失われ、変わって、どこか悲壮な覚悟が目の奥からチラついてはいたが。

 それを除けばそうとも、君は変わらない」


「・・・・・・」


「泣き落としとは低俗な手だ。だが正直、あれは効いたよ・・・・・・死んだとばかり思っていた少女が、実は生きていたのだからね。

 傭兵たちの代弁者だというあの男は、多くを語らなかった。だが私にはすぐピンときたよ、モンドラゴン・ファミリアへの軍事行動もそれなら納得だ。

 かつてカールが冗談めかして語っていた国際救助隊とやらを、私の友人の友人たるその男は、本気で実行していたのだとね」


「父への敬意から、わたしを助けてやったとでも?」


「刺々しい言い方だな。まあ、その態度をあえて諫めたりなどせんよ。客観的に見れば、今の私は単なる犯罪者なのだからね。

 なにせカンパニーCIAの中南米部門からミスリル関連のデータを削除するのは、連邦犯罪に当たる。だから、なんと言われようとも構わんさ。

 だが私は昔から君の味方だという点だけは、ハッキリしている」


「その結果が――あの船ですか?」


「・・・・・・」


 そうです、善意が必ずしも善行に結びつくわけじゃありません。


 今さら嘘をついても始まらないでしょう。このサングラスの男性が父の夢を信じ、ミスリルを陰ながら支援していたという話は真実なはず。でずがその程度で、ハスミンちゃんの失われた目や足を正当化できるはずもないのです。


 僅かな沈黙。それは、Mr.キャッスルの内に僅かなりとも罪悪感がある証拠かもしれません。ですがずっと弁舌だけで生き延びてきた老練な元スパイは、すぐさま新しい言葉を紡ぎ出して、わたしの説得に再びとりかかり始めました。


「・・・・・・バルーン効果というのを知っているかな?」


 近場の椅子をずらし、Mr.キャッスルはテーブルを挟んで、わたしの真向かいへと腰掛けました。


「ミスリルの理念には共感を覚えたよ。だが同時にナイーブ過ぎるとも感じていた。

 結局のところ彼らの行動原理は、いかにも軍人ミリタリーマン的なマッチョな世界観に支配されていた。

 悪い奴らを倒せばすべて解決。まったく・・・・・・世界はもっと複雑だというのにな」


 テーブルの上へ無遠慮にMr.キャッスルが手を伸ばしてくる。そして、バッテリーが切れているわたしの衛星電話を手に取ったのです。


「安心したまえ、取りはせんよ」


 とっさに鍵束を手で押さえつけたわたしに配慮してか、微笑を浮かべたMr.キャッスルが次に手に取ったのは灰皿でした。


 灰皿に衛星電話、他にも懐から取り出されたライターやタバコの箱等、そういった小物たちがテーブルの上に三日月型に配され、雑ながらも中南米の即席地図が形作られていきました。


 灰皿がベリーズならば、上にあるライターがメキシコ、そしてあのモーリーなる銘柄のタバコの箱は、位置関係からしてコロンビアの役を務めているみたい。


「モンドラゴン・ファミリアは創設の地ベリーズから追い出された。

 だが膨らみ切って破裂した風船の破片は、他の地域に飛び火していくだけなのだ」


 並んだ小物たちをMr.キャッスルは、1つずつ指し示していきました。


「メキシコでは無数のカルテルがアメリカ国境を巡って殺し合い、コロンビアの凋落にともなってペルーはコカイン生産の主流にまで登り詰めた。

 他に変わったところでは、コスタリカでは麻薬の密輸で儲けていた者どもが、減った利益を補填するためにウミガメの卵など密売し始めた・・・・・・くくっ。どれもが、パブロ=エスコバルという風船が破裂した結果だ。

 需要があるから供給がある。アメリカ人が麻薬を買い求める限り、カルテルは幾らでも活路を見出す――そしてコロンビアだ」


 トントンと、しわだらけの指がタバコの箱を叩きました。


「ミスリルに追い出されたモンドラゴン・ファミリアは、コロンビアを侵略することで状況の打開を図った。

 結果的にはだが、ミスリルは一国ベリーズをカルテルの魔手から救いだす代償として、他の国コロンビアに麻薬戦争の再熱という災厄を振りまいてしまったという訳だ」


 ミスリルは対テロ活動において、非常に高度な打撃力を有していました。


 ですがミスリルの特色はそれだけでなく、いえむしろ、こちらの方がよほど重要かもしれません。ミスリルとは多国籍である以前に、無国籍な組織だったのです。


 ですから北朝鮮のような政治的にあやふやな地域に乗りこんで人質救出作戦なんて展開できるのは、今も当時もミスリルぐらいのものなのでした。


 ですが・・・・・・善意が必ずしも善行に結びつかないという言葉を今度は自戒を込めて、いまいちど思い出すべき時のようでした。


 ミスリルとモンドラゴン・ファミリアとの闘争なんて、TDD−1の建艦や西太平洋戦隊の立ち上げにと、てんてこまいだったわたしからすればまるで預かり知らないことです。ノルさんに語った、それは他の戦隊の責任というのは半分本音。ですが苦い気持ちが胸に染みていく。


 果たして、誰が一番悪いのでしょうか?


 正義の味方気取りでカルテルをやっつけ、それが逆に組織の拡大を招いてしまったミスリル? いえそもそもエスコバルが麻薬産業を立ち上げなければ、こんな事には・・・・・・はたまた南米の貧困問題がすべての原因でしょうか? もし衣食住が足りていれば、リスキーな麻薬売買になんて人々は手を染めたりしないはず。ですが仮にそうなったとしても、共産主義ゲリラの資金源として麻薬が利用されている現実がある。そうしたゲリラを退治するためにCIAは、南米大陸の端々にまで触手を伸ばしている。


 そうです、これが現実というもの。


 無数の因果が絡み合い、互いに影響力を及ぼしながら、暴力の車輪サークル・オブ・バイオレンスをぐるぐる回している・・・・・・今、わたしが置かれている状況もまた同じことなんでしょう。


 誰もが等しく悪く、そして正しい。正解は無数にあるのに、そのどれもが間違っている。


 こうまでこんがらがると、理解することすら覚束きません。いいえ、これはわたしの悪い癖。必要のないことまで考えてしまう・・・・・・考えるべきはあの子たちの窮状をどうするか、それだけなのです。


 ですが不安感は残る――わたしもどこかで、あの子たちが陥っている窮状に関わっている部分があるのでしょうかと。


「これだけでも十分に間抜けな話じゃないかね?」


 ですがわたしの抱いた感傷とは、この男は無縁のようでした。上から目線でただただ、中南米の歴史をせせら笑うだけ。


「だが話はここで終わらない。

 当時のコロンビアは、アメリカ政府の後援プラン・コロンビアのもとコカ畑の根絶計画に乗り出していてね。ベトナム戦争よろしく枯葉剤をジャングルに向けてばら撒いていたのだよ。

 その成果は、まあ多少はあった。だがコカ畑がいくつか潰れたところで、この国は肥沃な大地に事欠かない。

 枯れた畑を捨て置いて、つぎつぎに麻薬業者どもは新たな生産拠点を目指して散っていった。だが土地に縛り付けられている貧困農家たちはそうもいかない。風に流されてきた枯葉剤が、合法的に栽培されていた農作物をも破壊してしまったのだ。

 ただでさえ儲けの少ない商売でギリギリの生活を続けていた農家たちが政府を見限り、我々のためにコカの葉を育ててくれるなら大金を出してやろうとオファーしてくるモンドラゴンに鞍替えしてしまうのも、これなら致し方ないというものだ」


 ノルさんに六次の隔たりという理論をひけらかしてから、まだそう時は経っていませんでした。ですが本当に世界はどこかで繋がっているのだと、そう思いを馳せずにいられない。


 おとぎの国なんて呼んで、ずっと自分とは遠い世界だと思い込んでいたこの場所も、蓋を開けてみれば、どこかに必ずわたしとの繋がりがあった。


 祖国アメリカを介して、ミスリルを介して、そしてサングラスの男を介して。


「かくしてコロンビアに新たな災厄が撒かれた。武装した外国人などふつう信用されやしないが、だが進退極まった農民たちからすれば、奴らの膨れた財布はまさに救世主だった。それがどのような結果をもたらすかも知らずに、な。

 橋頭堡を得たらつぎは商売の独占を目論みだす。カルテルのいつものパターンだよ・・・・・・戦争、戦争、また戦争だ」


「・・・・・・」


「認めよう、私がカリ・カルテルを取り仕切っている。だが私を責めるのは、話を聞いてからでも遅くはない」


 あくまで親しげに話しかけてくる男を拒否するように視線を逸らして、わたしはそれとなくVIPルームの中を観察し始めました。


 ここがスタジアムのVIPルームであることについて疑いの余地はないでしょうが、ですがこの部屋、設計通りの目的で使われてるようにはとても見えないのです。


 ここはリッチ客層向けの観客席というよりも、どちらかといえばオフィスの趣が強いのです。


 写真立てやトロフィーといったあの調度品は、ひどく個人的な品に見えますし、それとなく放置されているキューバ葉巻やラップトップなんかもそんな印象を強めている。


 ここでこのサングラスの男は、いわゆるカルテルののお仕事をしていたのでしょう。


 他にも違和感はあります。そう、やはりあの角にあるワークステーションがわたしは気になって仕方がない。


 外側こそよくあるデスクトップ・コンピューターですがあのワークステーション、配線が完全に壁と一体化しているのです。それもコンクリートの壁に。


 あれでは壁を丸ごと破壊しなければ、修理すら覚束ないでしょう。おそろしく使い勝手が悪そうなのに、目に見える範囲のパーツはどれもが高級品。そもそも専属の技師まで配属されているのです。とても普通の仕様では、ない。


 それとなくそんな観察をしつつ、わたしはMr.キャッスルの語りに耳を傾けていきました。


「あの日、ポーツマスで何が起こったのか私は厳密には知らない。

 個人的に調べてはみたのだがね。誰かが隠蔽したのか、はたまた襲撃者が周到に足跡を消していったのか・・・・・・犯行動機は今もって不明だ」


 対外的には、父と母の死因は行きずりの強盗たちによるものとされました。ついでに言いますとわたしと兄は、公的には今だに行方不明扱いだったりする。


 ですがわたしは知っている。あれは、プロによる犯行であったと。そうでなければ、捕らえられた実行犯たちが服毒自殺なんて最期を選ぶはずがないのです。


 その動機についても判明しています。わたしと兄のウィスパードという才能を狙ったものであると。


 色々と訳知り顔でしたが、さすがのMr.キャッスルをしてもウィスパードの存在まではキャッチしてはいないようで、わたしは安心しました。ただでさえ情勢はこんがらがっているのに、ここで更にウィスパード問題まで絡んできたら、もはや収拾がつきませんから。


「ただ確かなのは、君の父上がなんらかのテロに巻き込まれたという事実だけだった」


「話が見えないわ。まさか父と母の死が、あなたにカルテルの経営を目指させた原因だとでも?」


「そうではない。だが最後に背中を押されたのは、やはりあの事件だったのだよ。

 あの悲報を耳にした瞬間、私は自らの本分を思い出した。もう二度と、あのような悲劇を繰り返されるべきではないとッ!!」


 Mr.キャッスル、どうせこれは偽名でしょう。本名すら不詳な謎めいた男。ですが、わたしへの接し方からして、すべての言葉が本心としか思えない。


 だって父が話題に上がるたびにこの男は、あまりに苦痛に満ちた表情を浮かべるのですから。


「私がかつてCIA局員であったことは否定しない。すでに退局して久しいがな」


「“元”局員なのだからCIAとの繋がりもない、ですか。

 諜報機関がエージェントとの関係を否認するためによく使う手だわ」


「その通り。だが法治国家において、これほど効果的な手がないことも君なら知っているはずだ」


 業界用語を用いるなら、これは最もらしい否認と呼ばれています。


 誰の目からも不正行為を働いているのは明らかなのに、物的証拠がないばかりに追求することができない。政治家が“ぜんぶ秘書がやった”などとと言い逃れするパターンは、まさにこのもっともらしい否認の好例にあたるでしょう。


 そういえば、この用語を作ったのはCIAその人でしたね・・・・・・。


「証拠を100%隠滅することなど土台無理な話だ。しかし法に追求されない範囲で、工作活動を行うことは容易い」


「アメリカの工作員がカルテルを経営しているのに、責任を追求されないはずないでしょう」


「フッ、責任?・・・・・・むしろ感謝してもらいたいな」


「感謝? 感謝ですって!?」


 あの船に積み重ねられていた死と破壊。ヤンさんを見て、震えていたカロリナちゃんのが脳裏を過ぎる。あれを見て、何を感謝しろと!?


 わたしの激昂を、Mr.キャッスルは涼しい顔して受け止める。


「そうだ、感謝したまえ。私は愛国者パトリオットだ。

 間抜けな上層部どもが無視してきたテロとの脅威と戦い、これまで祖国を――君の父上のようにテロリストの毒牙に掛かろうとしている同胞を救ってきたのは、我々だけなのだ!!」


 急に熱を帯びて、積み重なったこれまでの感情を初老の男は爆発させていきました。


「みな知っていた、麻薬戦争に勝てる筈などないと。だが高官連中は、箔をつけるためだけにカリ・カルテルの壊滅を主導していった。

 バルーン効果だよ、Ms.テスタロッサ。カリとメデジン、二大カルテルが倒れればコロンビア一国だけなら平和になるだろう。だがどうせ別の国が割りを食うだけで、麻薬産業そのものは減るどころか逆に加速していく。

 誰もがそれを知り、だが昇進のために汚いものに蓋をした。しかし状況は急展開を迎えたのだ」


「・・・・・・モンドラゴン・ファミリアのコロンビア進出ね」


「そうだ!! 理念なき拝金主義の戦争集団!! パラミリタリー化した麻薬カルテルに、コロンビア政府はお手上げだった!!

 これもすべて性急な和平政策が原因だ。メデジン・カルテルの壊滅に調子づいたコロンビア政府は早計にもゲリラと民兵、両者と交渉して武装解除を進めていた。

 これまで商売敵たる国外の麻薬組織からの侵略を防いできたのは、これらカルテル、ゲリラ、民兵のトライアングルだったというのにな・・・・・・ところで話は変わるがねMs.テスタロッサ。この街でモンドラゴン・ファミリアの人間を見たことは?」


「さぁ・・・・・・麻薬戦争はわたしの専門じゃありませんから、カルテルの人間を見分けることなんてできやしないわ」


「素人でも一目で分かるさ。出来の悪いハロウィン・マスクを頭に被って、鉈や小銃を振りまわす狂人の群れ。奴らがこれまで何万人を殺してきたと思っている?」


「・・・・・・」


「その虐殺を食い止めたのが私だ。崩壊しつつあったカリ・カルテルを再編し、モンドラゴンへの抑止力として機能させた。そこからコロンビア政府とモンドラゴン・ファミリアの橋渡しも行い、停戦条約まで取りつけてやった。

 これぞ必要悪というものだよ、Ms.テスタロッサ。

 もしあそこで私が歯止めをかけていなければ、今頃この国の人口は随分と減っていたことだろうね」


「カリ・カルテルの犠牲になった人々から都合よく目を背けて、よく言えたものね。コロンビアのためにカルテルを経営してやったと、そう恩着せがましく主張するつもり?」


「結果的には、そうだ。だが私と同志たちにとってこれは、副次的な成果に過ぎなかったのだ」


 パチンとMrキャッスルは指を鳴らしました。


「Mr.ザスカー、例の写真を」


「俺の国じゃあ、Mr.ミスターじゃなくセニョールって付けるんですがねぇ」


「ここはだ」


「シー、パトロン」


 相変わらずニヤニヤ笑いを浮かべながらザスカーは近寄ってきて、テーブルのうえに何枚かの写真を放りました。


「おい、良いキーホルダーだな嬢ちゃん?」


「Mr.ザスカー、もう下がっていい」


「へいへい」


 ビール瓶を手の中で弄びながらザスカーはバーに舞い戻っていく。


 人を苛立たせるために生きているようなザスカーという男から、わたしの意識は急速に写真へと切り替わっていく。望遠レンズで盗撮されたらしい写真の被写体は、誰あろうわたしとノルさんでした。


 ザスカー操るフロッグマンによって捕われる寸前、トラソルテオトルの甲板で語り合っていた時に撮影されたもののようです。角度的に盗撮したのは、マッスルカーで乗りつけた機関銃班かしら。


「君が“コレ”に同情したのは、理解できる。一見すれば、なんとも哀れな境遇だからな」


 わざとらしくノルさんを物のように呼んで、わたしの感情を操ろうとしていました。老練なスパイらしい手口です。ですがそうと分かっていても、腹が立つことに変わりはない。


「あなたの命令でさんざん手を汚させておきながら、ノルさんに責任のすべてを押しつけるつもりなの?

 ハッキリと言うわ。アナタの欺瞞には吐き気がする」


「だが私は、鉈で子どもの頭を潰せとまで命令したことはない」


「・・・・・・っ」


「初耳かな? アレが強きを挫き、弱きを助けるロビンフッドにでも見えたのかな? 

 間違っているぞMs.テスタロッサ、あれはシカリオなのだよ。

 よく調教されてはいても、いきなり気が狂って味方を皆殺しにするような、生まれながらの獣にすぎん。まあ、この土地ではさして珍しくもない存在だがね。

 カルテルの人間というのはプライドの塊だ。名誉、忠誠、裏切り者には死を。奴らの獣性は留まるところを知らない、殺せと命じれば、可能なかぎり残虐なやり方で殺す。

 だが君のご指摘通り、奴らは裏切り者だから子どもも含めて一家全員を根切りにしろと命じたのは、このわたしなのだがね。

 ――だが罪悪感など、微塵も感じたことはない」


「正気とは思えないわ・・・・・・」


「いや、どこまでも正気だったとも。なぜならば我々には確証があったのだ。その一家がカルテルの人間だというのは、


「?」


 あまりに支離滅裂でうまく飲み込めない。


 疑問に埋め尽くされるわたしの困惑顔に優越感を感じているのか、誇らしげにMr.キャッスルは口角を上げてから、答えを述べていく。


「実は、奴らはカルテルの関係者などではなく、イスラム原理主義過激派だったのだよ。アメリカ国内に潜伏し、さるちょっとした建造物ランドマークにテロを仕掛けるつもりだった。

 ニューヨーク在住の君ならよく知っていることだろう。マンハッタン島に立つ小さな2つ並びのビルに向けて、この狂人たちは飛行機で突っ込もうとしていたのだよ」


「・・・・・・」


「分かるかね私の無念が? 無能な味方というのは、有能な敵よりも遥かに恐ろしいものなのだ。

 CIAはこのテロ計画を事前にキャッチしていた。だがCIAの対テロ対策部門CTCは、当面のあいだ様子を見ることに決めた。なぜか? もしかしたらこの子連れのテロ屋どもが、都合よく国外に出てくれるかもしれないと期待したからだった。

 その理由が君に分かるかね?」


「CIAは国内で活動できない・・・・・・捜査権限がFBIに移るのを嫌がったのね」


 わたしのに指摘に、Mr.キャッスルは首肯しました。


 国内における監視活動の権限までCIAに与えたら、その力はあまりに強大になりすぎる。そこまでしたら秘密警察そのものになってしまうのです。


 ですから国外における諜報活動を担うのはCIA、国内におけるスパイ活動防止などの防諜活動を担うのは連邦捜査局FBIと、役割分担がなされていたのです。


 アメリカを守るふたつの組織。CIAとFBIはいわば矛と盾の間柄なのですが、本来ならば協力し合わなければならない両機関は、しかし創設以来ずっとライバル関係にあったのです。


 残念ながらこれは、アメリカではよくある話なのでした。


 似たような権限を持つ組織が乱立し、予算の奪い合いに明け暮れている。俺たちの方が奴らより上手くやれるのにとボヤキながら、酷いケースだと互いに足を引っ張り合いすらもする。


 ミスリルですら似たような状況がままありました。わたしの属していた作戦部と、ミスリル版のCIAである情報部のいがみ合いときたら、ちょっとした語り草になっているほど。これが世界最大の大国たるアメリカともなれば、諜報機関だけでも15個もの組織が互いに競い合っているのです。


 組織同士の摩擦はどうしても起こってしまう。


「くだらんよ」


 そんな混迷した状況を、Mr.キャッスルは一言で切り捨てました。


 そう、くだらない縄張り争いなのは確かでしょう。テロを未然に防止し、国民を守るという目的を彼らは見失い、自分たちの功績のためだけにあえてテロリストたちを泳がせていたのですから。


 これぞミスリルが生まれた一因、官僚主義の弊害というものなのでした。


「くだらん、くだらん・・・・・・だが彼らの無能の代償を支払わされるのは、いつだって国民の命だ。

 そう、君の父上のようなな・・・・・・だから我々が変わって手を下す」


 確信に満ち溢れたその言葉を聞いて、やっとわたしはすべてが繋がった気がしました。


 カルテルの経営によってCIA、いえその中の一部の不穏分子が得られるものとは一体何なのか? お金でないことは分かりきっていました。金儲けなんかよりもっと大それたこと、自らこそ正義なのだと胸を張れるような動機に違いないと、当たりはつけていましたが・・・・・・まさかこんな形だったとは。


「なんてこと・・・・・・」


 これまで語られてきた内容を繋ぎ合わせれば、答えなんてひとつしかありません。


 祖国の現状を憂いながらも、同時に失望もしている愛国者パトリオットがもし、無限に等しい工作予算を得たら何をするでしょうか? そうです、これまでやりたくとも出来なかったことをするに決まっている。


「あなたは――自警団ヴィジランテを作ったのね」


 わたしの回答に、Mr.キャッスルはニタリと口角を上げました。


 CIAの内部情報に基づいて標的を定め、ノルさんたち、すなわちトラソルテオトルで高度な訓練を受けたシカリオたちを方々に放って、“国家の敵”をカルテル同士の抗争に見せかけて暗殺する。


 この男はCIA内部の仲間たちと共謀して、世界の裏側での暗闘を指揮していたのです。ただアメリカを守るために、そういう信念のもとに。


 ですがそれは同時に、この男が守ろうとしているアメリカの民主主義を破壊するものだと、気付いていないのでしょうか?


「法を超越して、自分たちが判事と処刑人を兼任する。そんなの、独裁者と何が違うというの?」


「多くは違わないとも、だが決定的な違いもある。

 私に私欲なぞない。滅私奉公、あるのは祖国への自己犠牲の精神のみだ」


「その後大層な理念のために一体何人の――」


「――アメリカ国民を救ったのか、かね? 大切なのはそれだけなのだよ、Ms.テスタロッサ。

 君の新しい友人であるシカリオとそのお仲間たちは、CIAが大統領から禁じられてしまった暗殺活動ウェット・ワークをこれまでよく肩代わりしてくれた。

 諜報機関とは、本質的にはエゴイスティックなものだ。国家が公にできない本音を実行するための組織・・・・・・だがいつしかカンパニーCIAは、世間から正しくあることを求められてしまった。

 軍人が殺人を生業にしてるのは、公然たる秘密だ。だが彼らは殺人罪で裁かれたりせず、逆に国を守った英雄として称賛される。

 だが我々スパイは? 暗殺もした、拷問だって時にはしよう。だが軍人と違って我々は、これらを非人道的行為として断罪され、連邦法のもとで裁かれる。

 聞かせてくれ? 戦争で人を殺したことを咎められた軍人がこれまで何人いた?」


「戦犯法廷を知らないようね」


「フッ、人道的な殺人と非人道的な殺人に、本気で境目があるとでも? そこまで君はナイーブではあるまい。

 くだらんなボーシット。あるのは、勝者と敗者という境目だけだ。

 諜報機関とは、平和の中で戦争を遂行する組織だ。戦争に勝利するためには、あらゆる行為は正当化されなければならない。

 連邦法なんて平時の法に、なぜ我々がなぜ裁かれなければならないのか? 我々はいま戦争の只中にあるのだぞ? 対テロ戦争という、新しい形の戦争のな」


「わたしの質問に答えなさい。あなたのその独善的な正義のために、今までいったい何人を犠牲にしてきたの?」


 男は悪びれず、まるで誇るかのように毒牙にかけた獲物の数を告げました。


「――ほんの3000ばかしだよ」


 ・・・・・・専門家として意見させてもらうなら、対テロ対策のなにが一番難しいかといえば、敵と一般市民の見分けがつかないことにあります。


 突如として、包丁を振り回して無実の人々を刺殺しはじめる人物もいる。ですがその瞬間が訪れるまで、その人物はテロリストでも犯罪者でもなく、ただの一市民なのです。その真の正体を見分けるのは、専門家の目をもってしても不可能なのは自明の理。


 なぜならば、人の心の奥底とは、誰にも見通せないものなのだから。


 ですがこの男は、嬉々として自分は“敵”を殺してやったのだと自慢する。どのような証拠のもとそう判断したのかについては、まるで語らないままに。


 本物のテロリストも中にはいるでしょう。ですが、疑惑はあっても無実だった人も大勢含まれているはず。


 だって西太平洋戦隊を率いていたときに、この現象にさんざん手こずらされてきたのは、他ならぬわたしなのですから。。


「・・・・・・軍人には厳格な交戦規定ROEというものがあるわ」


「忘れるな、私はその数十倍のアメリカ国民をテロの脅威から救ってきたのだ」


交戦規定ROEよ。決して軍人は、独断で引き金を引いたりしない。暴力は常に監視されなければならない。そうしなければ力は、際限なく暴走していく」


「放っておけば、守るべき人々が傷つけられると知っていてもかね? 法を悪用しているのは我々でなくテロリストの方だ。

 君の父上がかつてなんと言っていたか、この場を借りて話すべきかな」


「父もわたしと同じ軍人だったわ。同じ軍人として父と話すことはもう叶いませんけど、目的のためならあらゆる手段が正当化されるなんて、父なら口が裂けても言わないはず。

 父の死を言い訳に利用しないでください。

 その3000人が全てテロリストであるという根拠はどこにあるというの?」


「全員ではないだろうな。私は現実主義者だからね、情報の齟齬は十分にありうると考えている」


 あっさりと、無実の人々の殺害をMr.キャッスルは自供する。それこそが遠い過去に発せられた、あの言葉の真相なのでした。


 “悪を滅せられないのであれば、利用するべきだ”


「私を責める前によく考えてみたまえ。

 ポーツマスの君の実家に男たちが迫っている。彼らはアサルトライフルを携行しているが、これはアメリカの法に照らし合わせば合法だ。

 知っている筈だ。その目的が限りなく黒であったとしても、男たちが罰せられるのは、君の家に無許可で入り込んだ瞬間からだと。だがまだその瞬間とやらは訪れておらず、たとえ通報されても警察は手出しができない。それでいて、君は未来に惨劇が起きることを痛いほど知っている。

 どうするね? それでも悲劇が起こる前に奴らの頭を吹き飛ばすことを、躊躇するというのかね?」


「・・・・・・いつからあなたは預言者になったの?」


 大を生かすために小を殺す、その言葉のグロテスクさをまるで気にせず、Mr.キャッスルは言いました。


「ふん、超能力者になった覚えはないな。だが統計学なら齧ったことはある。救われる人数に比べたら、多少の犠牲なぞ許容範囲コラテラル・ダメージにすぎんよ。

 実際、この計画をスタートさせてからアメリカ国内で大規模なテロは起きていない。その結果こそがすべてなのだ。

 私は、ビースト怪物モンスターを殺し合わせることによって祖国の平和を保っているのだ」


 真っ直ぐに、無機的なサングラスの双眸がこちらを見据えてくる。


「好きなように国境を越え、他国の権限を侵害し、自らが信じる正義を実現するために力を振るう武力集団――ミスリルと私の組織、そこになんの違いがあるというのかね?」


「何も分かってないのね」


「勘弁してくれ・・・・・・感情に流されるんじゃない!! 君はそこまで愚かな女ではないはずだ!!」


 急に苛立ちを隠しもせず叫びはじめるMr.キャッスル。


「君の感じてる義憤なぞ一時のものだ!! アフリカの子どもたち飢餓から救おうなんて安っぽい宣伝文句を信じて、小銭を寄付して悦に浸っている奴らと同じだ!!

 正義感に酔って本質を見失うんじゃない。あのガキどもがなんだ!! どうせスラムで野垂れ死にするのが関の山だった奴らを、善良なアメリカ国民のために再利用してやって何が悪いというのだ!!」


「周りをよく見てみなさい」


「君は一体、何を言ってるんだッ!?」


「その傲慢エゴがすべての答えだとなぜ分からないの?」


 最初こそ父の目指したものと、この男の実現したかったものは似通ったものだったのかもしれません。ですがミスリルにはルールがありました。


 “命を賭して、他者を助けること”


 シンプル故に絶対的なそんなルールのために、わたしも隊員たちも、誰しもが必要であれば死ぬ覚悟が出来ていた。だからこそ、この場にいる誰もが知らないうちに、世界を破滅から救うなんて大それたことができたのです。


 そうです。これこそが、このサングラスの男とわたしが分かり合えない、決定的な差異なのでした。


「あなたは自分が犠牲になるつもりなんて毛頭ないわ」


「ふん、あたりまえだ。最初に指揮官が死んでしまったら組織は立ち行かん」


「だから全力を尽くして、自分の身を守るために指揮官はベストを尽くす。その点には同意します。だって指揮官が死ぬときには、部下もかならず道連れになってしまうのだから。

 ですが周りをご覧なさい。あなたのどこが身を守っているというの?」


 アメリカ人が麻薬カルテルを経営してる。それが知れ渡るだけでも大スキャンダルは免れないのに、それどころかこの男は暗殺活動まで指揮しているのです。


 このリスクを避ける方法は単純明快、表に姿を現さなければいいのです。


 そもそもCIAほど、陰謀の黒幕に徹することが得意な組織もないでしょう。幾人もの代理人を立てて、指令がどこから降りてくるのか分からなくする。高度な匿名性こそがカリ・カルテル最大の武器なのに――この男は潜むどころか、街のど真ん中のスタジアムに本部なんて構えている。


 カリという組織には似つかわしくない、まるでチグハグな行動です。


「わたしがあなたの立場だったら全力で姿を隠すわ。この工作活動が世間に露見したとき、それはすなわち、あなたとCIAの関係が明るみに出ることを意味する。

 国家の脅威はテロだけではありません。このスキャンダルが知れ渡れば、アメリカがこれまで築いてきた外交政策すら破綻しかねない」


「そうはならんとも。そのために周到に立ち回っている」


「じゃああなたはこのスタジアムで、この部屋で一体何をしているというの? 大勢を見下ろせるということは、すなわち大勢から見られることを意味しているのに」


「・・・・・・」


 ずっとMr.キャッスルは、己の正しさをわたしに訴えていました。何も理解していない小娘に世の中のことを教育してやっていると。


 言動、行動、すべてが傲慢プライドと結びついている、そんな男が硬直したのです、まるで図星を突かれたかのように。


「あなたの会社もそうです。キャッスル・フルーツ・カンパニーだなんてとんだお笑い草だわ。自分の名前を冠したダミー・カンパニーですって?」


「・・・・・・私のユーモアセンスは、少々ひねくれていてね。言うまでもないことだが、キャッスルというのは偽名であって―――」


「そうじゃない、あなたは署名を残したかっただけ。この偉業を成し遂げたのは自分であると、世間に声高に触れ回りたかっただけなのよ」


 この人物がある意味において、一角の人物であることは否定しえない事実でしょう。


 一体どうやればアメリカ人が麻薬カルテルを裏から取り仕切り、さながら古の暗殺アサシン教団よろしくの自警組織なんて立ち上げられるのか、わたしには想像もつきません。


 ミスリルもまたマロリー卿という一個人から始まった組織でしたが、立ち上げから運営に至るまで、無数の才能ある人々が関与してきました。それをたった1人、いえ当人も“我々”と称してる以上それなりに協力者は居るのでしょうが、ミスリルとは比べ物にならないごく少数のメンバーだけでここまでやり遂げて見せた。


 あるいはそれこそが、この傲慢を生んだ原因なのでしょうか。


「あなたの御高説は立派です。ですが、本当にみずからの理想に殉ずる覚悟があるなら、こうしてわたしと顔を合わせることすら避けたはず。

 個人的な名誉や栄光など一切求めず、歴史の闇に葬られることを本義とする。それこそがわたしの知っているスパイのあり方です。

 でも今のあなたは・・・・・・王よ」


「・・・・・・」


「空虚なキャッスルの頂点で玉座に居座り、人の運命を思うさまに弄ぶ――孤独な王。

 支配する喜びに取り憑かれ、自分がずっと嫌悪してきたはずの麻薬王ドラッグ・ロードそのものに成り下がった。まだわたしの質問に答えていないわ。あなたのその独善的な正義のために、今までいったい何人が犠牲になったの?」


「だから先ほど3000人ほどと――」


「あなたが輸出した麻薬のせいで、これまで何万人のアメリカ人が死んでいったのかと、わたしはそう問うているんです」


「・・・・・・」


「そう・・・・・・それが答えなのね」


 沈黙はときに雄弁に勝るもの。


 カルテルとテロリストを殺し合わせるというMr.キャッスルの構想を実現するためには、膨大な額の軍資金が必要になります。そのためのカリ・カルテルの経営なのですが、彼らがどこからお金を引っ張ってくるかといえば、アメリカで売り捌かれてきた麻薬であると子どもでも知っている。


 去年だけでも麻薬関連のアメリカ人の死者は――およそ7万人。


 7万と3000人、人の命は数字じゃないという一般論にはわたしも賛成しますが、これはとても許容できる数字じゃありません。ましてや7万人という数字は年間を通したものに過ぎず、アメリカ国外での死者はまるでカウントされていないのですから。


 Mr.キャッスルの計画がスタートしてからどれほどの年月が経過したのでしょう? 正確なところはもはや誰にも分からないでしょうが・・・・・・この計画とやらの犠牲者は、最低でも10万人を越すに違いない。その中にはもちろん、トラソルテオトルの子どもたちも含まれているのです・・・・・・。


 彼の気持ちは、少しわかります。ウィスパードという犯人たちの動機は知らなくとも、テロに斃れた父の無念が、Mr.キャッスルを突き動かしている動機のひとつであったことは紛れもない事実なのでしょう。


 ですが、権力とはとかく腐敗するもの。崇高な目的で始まったこの計画も、いつしか独善によって支配されてしまった。


 アメリカ人を守るためにアメリカ人を犠牲にする。支離滅裂で、もはや破綻している行動に彼らは気づいているのかしら? それとも知ってなお無視しているのか・・・・・・。


 Mr.キャッスルとは何者なのか? その人物像を一言で表せと求められたなら、わたしはきっとこう答えるでしょう。


 ――無限の傲慢と。


「どうせこう言い訳するでしょうから、今のうちに釘を刺しておくわ。

 “死んだのはどうせ麻薬中毒者だけ、高潔な国民の命は救われている”と。

 そうね、好きなように言いなさい。でも、あなたに命の選別をする権利なんてない。わたしがそんなもの認めやしない。

 どんなに言葉を飾って自己弁護に明け暮れようとも、あなたがアメリカにとって史上最悪のテロリストであることだけは、明らかな事実だわ」


 わたしの第一印象は間違ってなかったみたい。やはりあのサングラスは仮面なのです。


 口元はよく整えられた髭で覆い隠し、サングラスは表情をかんぜんに遮断する。そうすれば、ただ黙っているだけでも表情を読まれる心配がなくなる。


 今、Mr.キャッスルは何を考えているのでしょうか? さっきまでの饒舌が嘘のように押し黙り、感情は能面のような表情の下に隠している。


 もしかしたら、葛藤しているのかもしれません。


 彼はこの土地を獣の国と呼んでいましたが、わたしはわたしの意見は違います。ここはおとぎの国、あらゆるものが極端から極端へと流れていく、矛盾に満ちた土地なのです。


 あの子たちが良い例です。あんな悲惨な過去があるのに、当人たちときたらお気楽に見えるほど能天気に日々を過ごしていた。死と喜び、相反する概念が当たり前のような顔をして同居している。


 そのせいか、わたしは先ほどからあるおぞましい想像が頭から離れないのです。


 傲慢こそがMr.キャッスルの本質である。それはいいにしても、もしかしたらこのサングラスの男性は今なお、一般的なアメリカ人の道徳観念を保っているのではないか?


 だからこそ、カルテルのボスとして無数の殺人を指揮しておきながら、旧友の娘であるわたしを救おうとしてくれたのではないか・・・・・・そんな想像が。


「おいおいおい嬢ちゃん、かかっ、あまりうちの上司をイジメてくれるなよなぁ?」


 半笑いの不真面目な声音。ザスカーにとっては、それが助け舟のつもりのようでした。


 正直、あまりに背景となる文化が違いすぎて、わたしにはMr.キャッスルよりもザスカーの方がよほど謎めいた存在に思えてなりません。


 この男の思考形態は、わたしにはまるで読み解けない。次の言葉がその良い証拠でした。


「パトロンは良いお方だぜ? この業界は長いんだがな、俺ゃあこんな御方に仕えたことなんて今までなかった。

 どこもかしこも血みどろなこの業界で、天辺までのし上がるなんてのは、尋常じゃねえ。なあそうだろう、お嬢ちゃん?」


「黙っていろMr.ザスカー」


 もう、乾いた笑いすら漏れそうになる。


 ミスリルに入ると決めた時、わたしはあることを決意しました。自分の罪を、決して他人に擦りつけたりしないと。


 引き金を引くのは部下たちです。ですが、殺せと命じるのはいつだってわたしの意思なのだと、片時だって忘れたことはありません。その覚悟すらもこのサングラスの男は拒否しているのです。


 この土地を獣の国なんて謗って、都合よく利益だけはかすめ取り、汚い仕事は下々のものに押しつける。ここをバナナ共和国と呼んでいた時代から何も変わっていない、ご主人様と奴隷の関係性。


「・・・・・・そうですか、よく分かりました。あなたはカルテルのボスと呼ぶのもおこがましい、単なる卑怯者だわ」


 長い、長い沈黙がつづいていきます。


 喉を鳴らしてビールを飲み干していく、ザスカーの嚥下音がいやに耳につく。遠く、展望窓越しに聞こえる建設現場のような作業音も、沈黙のせいか耳を弄するばかりに増幅されていました。


 そして長い沈黙以上に、深く熟考を重ねていたに違いないMr.キャッスルは、ついに口を開いたのです。


 それが最後通帳であることをわたしは知っていました。


「・・・・・・この世には、運命なんてものは存在しない」


 鏡のように反射するアビエイターサングラスの向こうがわに、絶対の自信を滲ませながら、掠れた声が言葉を紡いでいきます。


 どんな言葉もこの男性には届かない。最初からずっとそうでした。だって己の正しさを盲信して、ついにはカルテルのボスの座に収まった男なのですから。


「そう、したり顔で言う者もいるが私に言わせれば・・・・・・どうして電気が消えたのだねMr.サントス!?」


 ただし、せっかくの演説も停電のせいで台無しでしたが。


 同情の余地のない人物ですが、このタイミングの良さにはキレ散らかしたくもなるでしょう。誰かがいきなり電源ボタンをOFFにしたかのように、突如として発生した停電によって、辺り一面は真っ暗になりました。


 いまVIPルーム内を照らしているのは、大きな展望窓から漏れてくる作業灯の明かりだけでした。ブルドーザーですとか、作業用として稼働している縞模様のASのライトなどなど、自前で電力供給ができる機械たちのみ・・・・・・いえ他にも、どうしてか例のワークステーションだけは電源が通ってるみたい。煌々とデスクトップのメニュー画面が、背後の展望窓に照り返してました。


 この部屋のみならず、スタジアム全体の電気が消えてしまったのです。


 こうも明らかな非常事態ともなれば、わたしの相手をしてる暇もないみたい。Mr.キャッスルは指を鳴らして、サントスと呼ばれていた件のエンジニアさんに、矢継ぎ早に指示を出していく。


「“クレイドル”に損傷はないな?」


 蚊帳の外であるわたしの頭越しに、謎めいた会話が始まりました。


「それは、確実です。無停電電源装置UPSがありますし、ご存知のとおり二重の予備発電機だって用意されてます。ですから――」


「Mr.ザスカー!! そこの窓から“クレイドル”に電源がまだ通っているのか確認したまえ!!」


「それって見ただけで分かるもんなんですかねぇ? 言っちゃなんですが、俺の頭って冷凍ピザの時代で止まってるんですぜ?」


「貴様に専門技能なぞ求めてはおらん。非常電源は入り口にも通っている、だから・・・・・・クソッ、戻ったか。一体なんなのだ?」


 停電は、始まりと同じくらい終わりもまた唐突でした。次々に電化製品が息を吹き返していき、急に戻った明かりが眩しくて、わたしはつい目を瞬かしてしまった。


 停電の理由がわからず頭を傾げてるサントスさん。彼はコンピューターエンジニアであっても、電気技師ではないようです。


「あ、あの、強引な改築工事を進めてましたし、スタジアムの電源系統の大部分は当時のまま、まだ全面的には取り替えきっていません。ですから配線の腐食が進んでる可能性も――」


「黙れ。いいから貴様は“クレイドル”を点検しろ」


「必要ないと思いますが・・・・・・」


「ボスは私だ」


「・・・・・・わ、分かりました」


 急に神経質すぎる態度をみせるサングラスの男に気圧されながらも、エンジニアらしくワークステーションに向き合うサントスさん。


 これは、好都合かもしれません。


 試合を見やすくするためでしょう、そもそもこの部屋の明かりはデフォルトでとっても絞られており、薄暗い。そのせいで展望窓にワークステーションのメニュー画面がうまい具合に反射しているのは、思わぬ僥倖というものでした。


 それとなく、テーブルの上の鍵束の位置を小指で調節します。ヤンさんによって提供された車のリモコンキーの中に仕込まれた盗聴器が、より音を拾いやすくなるように。


 そう、すべて承知していました。彼らがわたしを拉致したあと、ボスの元に連れていくであろうことは。


 過去について思い出してしまえばこっちのもの。Mr.キャッスルの性格は、遠い過去にポーツマスで出くわしたその時からまるで変わっていないのです。ならば、行動を読むのはそう難しいことじゃありません。


 懐刀であるザスカーを動かした時点で、自分の関与がわたしに知れるとわかっていたでしょう。あるいはトラソルテオトルで何かを目撃するか、ノルさんから自分を標的にしていた理由を聞けば、わたしがMr.キャッスルの正体に気づく可能性は高い。


 でしたら独善的な自分の正義を信じてやまないMr.キャッスルとしては、旧友の娘に釈明せずにはいられないでしょう。そうでなくても元スパイの本能として、わたしが情報を漏らすかどうか推し量りたいはず。


 本来はノルさんの元を逃げ出すフリをして、あのマッスルカーの男たちにでも拉致られようと考えてたのですが、頭の痛みに目を瞑れば結果オーライという感じ。


 わたしは予定通り、Mr.キャッスルの元に引き出されてしまった。それもシモンボリバル・スポーツ・アリーナのVIPルームに。場所も予測通り、ここら辺はノルさんの調査の賜物でした。


 では捕まって何するのかといいますと、本来ならもっと大人しくしている予定でした。適当に時間を稼ぎながら、わたしがハンダゴテ片手に手ずから仕込んだ盗聴器で室内の音を拾い、逐次、右耳に隠した受信機でもって、“彼ら”から入ってくる無線連絡に耳を傾けるだけのつもりが、Mr.キャッスルのあまりの傲慢に思いがけず、舌戦を演じてしまった。


 身体検査は無論されたでしょうが、ノルさんが揃えていたやたら品揃え豊富なファンデーションの中には、わたしの肌色によくマッチした品もあったのです。これで小さなイヤホン型受信機を塗りたくってあげれば、耳と同化して見つからずに済む。実際、目論見どおりにな離ました。


 作戦は今のところ順調、わずかなイレギュラーを除きすべて予定通り。わたしがMr.キャッスルをスパイし、そうして得た情報をノルさんたちに流して潜入の手助けをする。


 素直に無線連絡できたらそれはもう楽でしょうが、まさかMr.キャッスルの目の前でぶつぶつ独り言を繰り返す訳にもいきません。だからこそ、こちらからの音声は盗聴器で拾い、向こうからの連絡はイヤホンで受け取るという変則的な通信方法を選ぶしかなかったのです。


 ジジ、ジジと空電音が耳のなかで響く。イヤホンの感度はやや良好、またひとつ懸案事項が減ってほっと胸をなでおろす。


 神経を耳に集中させていくと、懐かしいコールサインがわたしにだけ聞こえてきました。これが答えることは許されない、互いの信頼だけで成り立つ通信の始まりなのでした。


ウルズ9ヤンよりアンスズへ、現在、ブラインド一方通信中――』


 作戦は今まさに、始まったばかりなのです・・・・・・。




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