I “おはよう、では始めましょう”


 夢を見ていました。


 そう、これは夢です。ですが夢であると自覚していても操れたりはしません。どうも明晰夢は明晰夢でも、わたしの意思が反映されないタイプのものであるみたい。


 意思に反して、映画のように場面が移ろっていく。


 視界は見渡すかぎり真っ白でした。背後を仰ぎ見れば、わたしの足跡が点々と刻まれてました。雪です、わたしは雪原を歩いている。


 わたしの両脚を包んでいる、このうさぎ柄のモフモフしたスノーシューズには見覚えがありました。懐かしさがついつい込み上げてくるこの靴は、子ども時代に履いていたものに違いない。


 考えてみますと、どうにも足も短い気がする。そういえば頭身も低い。


 今更ながら過去なのだと気がつきました。ここは冬の・・・・・・ポーツマス。ならここは、自宅の周辺なのでしょう。


 もう失われてしまった、無邪気でいられた最後の時代。


 不思議な感覚でした。視点は一人称なのに、感じかたはまるで他人を見下ろしているようでした。


 過去のわたしは、どうやら息を切らして走っているみたい。ですが子どもの足には深雪はあまりに深く、そして重いものでした。まるで亀のようにノロノロと丘を登っていく。


 吐く息は白く、そろそろ肺が痛くなってもいた。なのにどうしてそうも必死に走っているのかしらと他人行儀に考えてしまう。まったく夢というのは、奇妙なものです。


「テレサ」


 急に声が聞こえてくる。子どもらしいキーの高い声なのに、ひどく大人びた響きのある声。丘の上に目を向けるとそこには兄――レナードの姿がありました。


 すでに人を寄せ付けない雰囲気こそありましたが、そこに冷たさはまだありません。だって背も低ければ、声変わりすらしていないのですから。大人びているのは、内面ばっかり。


 郷愁とともに思い出す。兄にだって、わたしと一緒に遊ぶような子どもらしい時代はあったのだと。


 もっとも一緒に遊ぶという部分こそ事実でしたが、兄からすれば遊んであげているという気持ちの方がきっと強かったことでしょう。外に出ることは滅多になく、主にインドアで思索に暮れるのが兄の趣味でしたから。


 でもわたしがどうしてもとせがめば、忙しい両親に代わって、それこそ実の親以上に親らしく、一緒に遊んでくれたものです。


 あの当時すでに頭脳の面でも身体能力でも、兄はわたしの上をいっていました。丘の上から幼少のわたしを見下ろす兄は、息切れひとつしていない。わたしが追いつくのをただ待っている。


 兄の刻んだ足跡を踏みながら、時に転けながらもやっとの思いでたどり着く。


 飄々と登頂してみせた兄とは正反対。わたしときたらまなじりからは涙を零し、防寒服は雪まみれな有様でした。それを見て兄は、フッと笑って雪を払ってくれたものです。


 そう・・・・・・最後は殺し合うことになってしまったわたしたちですが、兄妹の絆なんてちょっと気恥ずかしいものを一度は持っていたのです。あの時のわたしたちにとって未来はまだ遠く、そしてあやふやなものでした。


 昇りきった丘の上からは、そう遠くない所にわたしの生家が見えました。


 まるで絵本みたいなデザインのお家です。木組みで作られ、横には煙突が生えている。あの煙突・・・・・・父はなんども自分の手で煙突を直そうとしては、いつも工具を出しっぱなしで仕事に引き戻されていたものです。


 その煙突から煙が立ち昇る――そんな筈ないのに。


 父が死ぬ数日前、今度こそと、何度聞いたかしれない台詞をわたしは確かに耳にしていたのですから。


 その父が家の玄関から飛び出してきました。上着も羽織らず、寒そうに真っ白な息を吐いてる父は、どうしてか道の向こうを見つめ、それからハッとした表情でわたしたちに向かって叫びだす。


 そう・・・・・・分かりました。これは1993年の記憶、トラウマの追体験なんだわ。


 父は軍人であり、おそらくはウィスパードの危険性について世界でもっとも早く認識した人物でした。ですからホームディフェンスによく気を配っていた。父が叫んでいたのは合言葉です。すぐ家に戻り、わたしたちにパニック・ルームに隠れろという警告の言葉。


 わたしは咄嗟に戻ろうとして、どうしてか足を止めてしまう。


 ? そんな筈はありません。兄はすぐさまわたしを引っ張って、家の地下に作られたパニック・ルームへ母とともに隠れたはずなのに。夢はわたしの記憶を裏切り、違う展開をもたらしてきたのです。


 兄が何やら喋っている。


 なのに、先ほどと違ってまるで言葉が聞き取れない。頭が割れるように痛む。


 その痛みときたら・・・・・・思考に難がでるほどで、わたしは頭を抑えながら地面にうずくまってしまった。


 ズキン、ズキン、ズキンと、誰かが頭の中で金槌を叩きつけてるみたい。痛みのあまり吐き気すら出てくる。何度かえずくたびに雪原には唾液と、何やらカラフルな品々が落ちていきます。


 クレヨン? ありえない、どうしてそんなものが?


 眼前に今度は、一枚の画用紙が提示されてくる。書かれているのは子どもらしい寸足らずの画力の絵。ですが専門家が目にすれば――ひと目でECSの基礎理論だと看破できることでしょう。


 この設計図を元にして後にクェートが核攻撃され、数十万人もの人々が焼き殺されるのです。このクレヨンで描かれた絵こそが、わたしの罪の始まり・・・・・・。


「さぁ、よく思い出して」


 それは兄の口から発せられてるのに、男の子のものとはまるで違う、女性の声をしていました。


?」


 ――そこでわたしは、目を覚ました。









【“テッサ”――コロンビア、港】


 バッと起き上がるとそこは、トラックの助手席でした。どうやら居眠りをしていたみたい。


 全力疾走していた訳でもないのに息が切れている。車内は空調が効いてるのに汗びっしょり・・・・・・意外かもしれませんけど、あの日の悪夢なんてわたしは初めて見ました。


 人生は誰だって、山あり谷あり。ですがわたしの場合、その山と谷の間隔があまりに狭すぎて、夢を見るひますらなかったのです。


 メリッサのアパートに住んでいた頃は、時間こそありましたけど、逆にその時間が重しになって、何かしよう、何かしなければという焦りが先に立ち、夢を見た記憶がぜんぜんない。


 客観的に見れば、悲惨な過去でしょう。ですが当事者たる自分はどうにも根が図太いのか・・・・・・PTSDとは無縁でした。いえ、無縁でしたか。どうして今さらこんな夢を?


 大体、隣には夢よりよっぽど非現実的な存在がハンドルを握っているんですし。


 相手に違和感を抱かれないようにだとか称して、いつもの女装癖を発揮してるチャイナドレス姿の麗人が、トラックを操ってました。なんともシュールな光景です。


「うなされてたわよ?」


 そう、でしょうね・・・・・・だって夢見は最悪でしたもの。


 きっと疲れているからに違いない。今の所はそう結論づけることにして、目頭を揉んで頭をしゃっきりさせようとする。ですが、ガンガン響いてくるこの頭痛ばかりはどうにもなりません。


「すみません。頭痛薬アスピリンって、どこやりましたっけ?」


 あるいは悪夢の原因はこれかもしれませんね。


 夢の中まで追ってきたこの頭痛ときたら、ここ最近なにかと頻発していました。南米に滞在してもう3ヶ月あまり。慣れない異国での生活に、不調をきたしてもおかしくはないでしょうが。


 ノルさんはハンドルから一瞬だけ手を離して、わたしの目の前にあるダッシュボードを指差しました。そうでした・・・・・・ここに放り込んでいたんでしたっけ。


 ドリンクホルダーのミネラルウォーターのボトルをひっ掴んで、さっと薬を喉奥に流し込んでいく。


「根を詰めすぎなのよ」


 クールなハスキーボイスが突き放し9割、心配1割といった配分で語りかけてくる。もう3ヶ月も一緒に暮らしてることもありますが、やはりノルさんってとても話やすい。


 こんな格好こそしてますが、当人の性自認はれっきとした16歳の男の子。割とズケズケと話しかけくるタイプですが、悪意がないのでまるで嫌味になりません。


 それでいて・・・・・・やはり色々と言い訳を並べ立ててきましたけど、あの格好はやはり無視し難いものがある。どうにも年下の男の子というより、ただの変な人というイメージが先立ってしまい、こちらも壁を感じずに自然に話すことが出来るのです。


 上官と部下とはまた違う、語弊を恐れずにいえば共犯者という間柄は、わたしにとって初めての人間関係かもしれません。


 これがミスリル時代であれば、上官らしく弱みは見せまいと毅然と振る舞ったでしょうけど、わたしはスルスルと本心で話していく。


「休むのも指揮官の仕事のうち。だから睡眠はキチンと取っているつもりなんですけど・・・・・・最近どうにも頭痛が収まらなくって」


「それ、なんか大きな病気じゃないの?」


 確かに頭痛というのは、大きな病の初期症状としてよく見られる症状です。わたしだって少し不安になり、かつてトゥアハー・デ・ダナン――潜水艦の方のですよ?――で船医を務めてくれていたゴールドベリ先生に電話でもろもろの症状を伝え、アドバイスをしてもらっていました。


 いわく、聞くかぎりでは恐らくストレス性のもので大丈夫だとは思うけど、できるだけ早くちゃんとした病院で検査してもらうのがベスト、とのことでした。


 それにこの頭痛、唐突に始まりすぐ収まるのが特徴でして、現にもう痛みは嘘のように引いている。残るのはちょっとした疲労感のみです。


「遠からず子どもたちの健康診断もしたいですし・・・・・・その時に合わせて、わたしもお医者さまに診てもらおうかしら」


 表面上はみんな元気ですけど、ノルさんも含めて怪しげな人体実験に巻き込まれていたのです。いずれ検査はしておきたい。そうでなくとも健康診断というのは、して損のあるものじゃありませんし。


「それはいいけど、具体的にどこの病院に通うわけ?」


「もっともな質問ですけど、すいませんまだ未定です。ちなみにですけどノルさん、病院にまでカルテルが浸透してたりは・・・・・・しませんよね?」


「聞いたことないわね。逆に正規の病院に通ったら警察に捕まるからと、カルテル専用の私設病院を建てた麻薬王のことなら小耳に挟んだことはあるけれど」


 相変わらず、この土地のスケール感は違いすぎて戸惑ってしまう。3ヶ月程度の生活では、このカルチャーギャップはなかなか埋まらない。


「まあ、どっちみち目先の問題を片づけないとお話にならないんだろうけど」


 ノルさんの言葉にわたしは、首肯を返しました。そう、まだ問題は解決していない。今はいわば、小康状態というのが正確な表現でしょう。


 わたしの足元にはブリーフケースが置かれてました。その中身は、100万ドルもの大金でした。


 トラソルテオトルあらためデ・ダナンⅡには、今なお12人の子どもたちが暮らしています。


 勝手に救ってやろうと首を突っ込んだ身の上。わたしは彼、彼女らの命を背負い、将来に渡って責任を取らなくてはなりません。ですがこれが一筋縄でいかないのが辛いところなのです。だってあの子たちはカリ・カルテル、ひいてはCIAの犯罪の生き証人なのですから。あの子たちを助けるにはもう一手、手を打つ必要があるでしょう。


 ですがそれとは別の問題もある。例えば、今朝方この港に入港してきたビューティフル・ワールド号なる輸送船。あの中には、人体実験に使うため買われた子どもたちが、100人も閉じ込められているのです。


 ミスリル時代のように、船を武力制圧するなんて端から考えてはいませんでした。わたしたちにとって優先すべきは子どもたちの安全であって、犯人の逮捕ではありませんから。


 ならお金を素直に支払って子どもたちを引き取り、まだわたしたちの問題を知らない彼らを信頼のおけるNGOへ預ける。これが一番安全だとわたしは踏んだのです。


 運よくも、といいますかカリ・カルテルの秘密体質が逆効果に働き、ビューティフル・ワールド号側は、いまなおMSCトラソルテオトルがカルテルの支配下にあると信じ込んでいる。それはやり取りしたメールの内容からも明らかです。


 ですからわたしが素知らぬ顔してカルテルの名代として取引を行なっても、お金さえし払えば、商品を引き渡してくれるはず。ですがこの奇策にも欠点もあります。


 今のところ騙されている様子ですが、相手もプロなのです。交渉の過程で違和感を抱かれれば、即座に荷を捨てでも逃亡を図るであろうこと疑いの余地がありません。それに戦力差の問題もあります。


 プロのシカリオであるノルさんとケティさん、そして元SRT隊員たるヤンさんの戦闘力にケチはつけません。ですが頭数の少なさは如何ともし難いのです。もし交戦するとしたら狭い船内で、まず確実にこちらより多勢を相手に戦うことになるのです。


 それでも彼らなら勝てるかもしれませんけど、最悪のパターンは、100人の子どもたちが人質にとられてしまう展開でしょう。


 対テロの専門家であるヤンさんならともかく、大量破壊しか知らないノルさんとケティさんのコンビでは、そういった状況に上手く対処はできません。


 ですが、ようは交渉を決裂させなければ良いのです。カルテルの人間を演じきり、顔に作り笑いを貼りつけながら、明朗会計ののち握手してさようなら・・・・・・つまりは、わたしの演技力にすべてが掛かっている訳です。

 

 今からもう手に汗がにじみます。


 だって、かつて交渉を担っていたのは強面のロシア人であったのに、急きょわたしのような小娘がしゃしゃり出てくるのです。違和感は抱かれて当然でしょう。まずはわたしという新たな交渉担当を、修羅場をいくつもくぐり抜けてきたに違いない密輸業者たちに納得させなくちゃいけません。


 ですから小道具の手助けがいる。


 トラックのダッシュボードの中にはお薬だけでなく、今回の取り引きのために用意してきた小道具も収まっていました。誰でも掛けた途端、ちょっと悪ぶれてしまうステキアイテム。すなわちサングラスです。


「どうですノルさん? わたし、凶悪な犯罪者のように見えますか?」


 サングラスを掛け、自分なりに悪どい表情を作ってはみたんですが・・・・・・ノルさんたら渋い顔。


「オタク娘が似合いもしないのに、無理してレザボア・ドッグスのコスプレしてるようにしか見えないわ」


「・・・・・・犯罪者同士の取り引きの参考になるからって、あの映画を見せてきたの紛れもなくノルさんご自身なんですけど」


 血まみれ、残虐シーン満載で、何よりお下品。メリッサならともかく、わたしの感性にはまるで合わない映画だったのですが・・・・・・参考になるというから頑張って研究したのにこの言い草ですよ。


「あの映画は、正確に犯罪者の生態ってもんが描かれてるわ。みんな銃を抜いてすぐ撃ち合いたがるんだから」


 微妙に参考にならない感じの教訓話でした。


 わたしが知りたいのは、どうやったらその銃撃戦を回避できるかなのに。そういうことなら、もういいですよ・・・・・・サングラスを外して元あった場所に戻していきました。


 サングラスの方は不評でしたが、やり手の犯罪者っぽく黒のタイトスーツで決めてきたのは、どうも正解だったみたい。とりあえず文句の声は出ていません。バックミラーで確認する限り、我ながらまさに馬子にも衣装とはこのこと、ちょっとは様になってる気がする。


 ですけど小道具頼りには限界があります。やはり作戦の成功の鍵は、わたしの演技力次第なのです。


「ノルさん、もうウンザリなのは分かってますけど、もう一度だけ相手の船長さんのお話を聞かせてください」


「奴の話はどれも教官からの伝聞よ。それも酒に酔った勢いで聞かされたものだから――」


「“あやふやで不正確”。分かってますって、情報を再確認したいんじゃなくどちらかといえば、覚悟を決めるための儀式みたいなものなんですから」


 たとえ作戦計画書を一字一句暗記したとしても、ついつい落ち着きたいがために何度も目を通してしまう。もしかしたら悪癖なのかもしれませんけど、それで作戦の穴を見つけた経験もある以上、これは馬鹿にできない儀式なのです。


「奴の名前すら知らないわ」


 ノルさんの専門はあくまでカルテル関連の荒ごとだそうでして、例外的に幾度か“ママ”の護衛をしたことがあるものの、それは代打の意味合いが強かったのだとか。


 ですからビューティフル・ワールド号についてのノルさんの知識は、当人の言うとおり二次情報のみ。でもわたしからすれば、貴重であることに変わりはない。


 取り引きに同行したことはない、あらためてそう断りを入れてからノルさんは話し始めました。


「ただ教官は、あの訛りからして同郷だろうと踏んでいたわね」


 ロシア系・・・・・・ということでしょう。


 今だに謎なのは、どうやらMSCトラソルテオトルの管理者たちはロシア、今でいう旧ソ連と関係が深かったらしいということなのです。


 コンテナ船の出本は明らかにロシアの造船所ですし、人員構成もかなりロシア系に偏っていた。ですが船内で行われていた実験内容からして、トラソルテオトルの支配者層はきっとカルテル関連というよりも、CIAに近い存在だったのでしょう。


 かつて亡命キューバ人に軍事訓練を施し、世界中で工作活動を担わせていたCIAのことです。ソ連対策として立てていた何らかの非合法作戦が諸事情でポシャり、その人材が流れてきたとか、想像の翼をはためかせることはいくらでも可能です。


 ですが決定的な情報を結局、わたしは“クレイドル”の中にすら見出すことはできませんでした。


 どうやらトラソルテオトルでの実験は、カルテルの経営から半ば独立して行われていたらしく、あくまでカルテル自動経営プログラムであった“クレイドル”の守備範囲外だったのです。


 そして船内に残されていた情報もまた、ノルさんの“反乱”によってことごとく消失してしまった・・・・・・永遠の謎と呼びたくはありませんが、今のところそうならざる終えなさそうで、思うところはある。

 

 奥歯に物が挟まる感覚はずっとしていますが、この問題はいったん脇に置くべきでしょう。今は、100人の子どもたちに集中すべきなのです。


「テッサの前任・・・・・・って、設定になってるミハイル教官は、いかにもロシアの軍人って風貌だったわ。

 熊みたいな大男。防弾衣を羽織ってたとはいえ、平然と自分の胸に実弾を叩き込める豪傑が、どうしてかあの船長の話題になるとらしくもなく顔を曇らせていた。

 いわく――“あの男の前では、誰もが道を譲るだろう”。そんな恐るべき男だったてね」


 顧客のオーダーに基づいて世界中から子どもたちを買い集め、2大陸に子会社を作りながらその実態を当局にまるで察知されていない辣腕家。真に優れた犯罪者は、まるで幽霊のように姿が見えないもの。そう言ったのはノルさんだったかしら? それともヤンさん? 


 ですがその仮説が正しいのなら、この船長さんは年齢はおろか性別すら不詳な、まさしく幽霊としか評しようのない謎めいた人物なのです。


 相手の出方がまるで読めないまま、わたしは命懸けの交渉に及ぼうとしている。これは潜水艦の指揮とは、似て非なる緊張をわたしに強いていました。だって、これからわたしが発する一語一句にたくさんの人命が懸かってるのですから。


 まだ日が昇りきっていない早朝。朝もやに包まれたコンテナヤードを進むトラックのフロントガラスに、さる大型輸送船の船尾が映りこみはじめました。


 ビューティフル・ワールド号なんて、人身売買を行なう船に名付けるような感性を持つ相手。そんな相手とわたしはこれから舌戦を交えなければならない。でも、大丈夫。相手がどんな偏屈なロシア人であろうとも、わたしは絶対に負けたりしません。









「俺はスウェーデン人だこの間抜けめッ!!」


「・・・・・・」


 わたしの目の前に立っているお髭ボーボーで汚らしく、品性の悪さを全身からみなぎらせる、ロシア語訛り強すぎなビューティフル・ワールド号の船長たる中年の男性は、そうツバを飛ばしながら叫んだのでした。


 自己紹介しただけなのにこの展開、まさに前途多難でした。


 ここはビューティフル・ワールド号の船倉。幾つもの小型コンテナが収容されており、例えるならデ・ダナンⅡのせせこましい版にして、ひどく小汚いバージョンと呼べる空間でした。


 大量の牽引用の鎖が天井からは吊り下げられ、天井からは水滴が滴ってきます。どことなく邪な雰囲気。薄暗くて、湿り気もひどい。


 そんな船倉の中央に不釣り合いなビクトリア調の猫脚テーブルが置かれ、一方にわたしが、その対岸にロシア人の・・・・・・あらため、スウェーデン人の船長さんが腰掛けている。


 これだけでも十分に犯罪の取引現場といった風景でしたが、わたしの背後にはライフル抱えた完全武装なノルさんとヤンさんが。船長さんの方にも、重武装な船員たちが十数人も並んでいる。


 人数差はありますけど、わたしの背後を守るのは一騎当千の猛者ばかり。ですから恐怖より心強さの方が先に立つ。そうです恐れる必要なんてないのです・・・・・・たとえ交渉相手が、誰もが道を譲るような恐るべき男だったとしても。


「全部ハリウッドのせいだ!! 奴らスウェーデン人の役者を見たら、すぐロシア人役でキャスティングしやがるッ!! ロシアにはロシア人が住んでる、スウェーデンにはスウェーデン人が住んでる。なんで国名が違うと思う? スウェーデン人とロシア人は違う民族だからだよ!! ちょっと国が近くにあるからって安易に同一視しやがって!! ヤンキーてのはどうしてどいつもこいつも地図が読めないんだ!? ハリウッドでちゃんとスウェーデン人をスウェーデン人として描いてるのは、コーエン兄弟だけだ!! あの2人は最高だ!! ちゃんとスウェーデン人の本質の何たるかってもんを心得てるッ!! スウェーデン人てのはみんな金髪で背が高い冷酷なサイコパスの集まりで、映画の途中か最後に、直接的にかあるいは間接的に、スティーヴ=ブシェミを殺すもんだってなッ!!」


 ・・・・・・ええ、このノリわたし知ってます。酔いどれたダメな大人が周囲に管を巻いて、心の底から迷惑がられているアレに酷似している。


 ああ、誰もが道を開けるってそういう・・・・・・。


 アルコールは入ってないでしょうが、いえ、だとしたら素面のままでこうも飲み屋の迷惑客になれる船長さんの人格は、ある種の才能を感じずにはいられない。こう、社会にまるで寄与しない方向の才能が。


 船長さんの背後に控えている船員の幾人かが、また始まったよとでも言いたげにかぶりを振りだす。この病気に部下たちも辟易しているようです。


 そんな船員たちの1人・・・・・・勇敢にもババを引く覚悟を固めたらしい中年男性が、おずおずと自分たちのボスの背中に声をかけました。


「ですが地理が近いからスウェーデンにはロシア系も多く住んでいて、他ならぬ船長自身がそのロシア系だって、前に話してましたよね? 第一言語がロシア語だとも」


 部下からの思いがけない言葉に、憮然とした表情のままスウェーデン人の船長さんは振り返りました。まじまじと、いきなり会話に割り込んできた船員さんを見つめられる。


「・・・・・・お前誰だ?」


「トミーです」


「トミーだと? 聞いたこともない名前だな」


「あなたの下で12年も働いてる一等航海士のトミーです」


「・・・・・・そうか。分かった。よく聞け野郎どもッ!!」


「ドリスは女ですよ」


「誰だドリスってのは?」


「あなたの副長です」


「黙れこのトミー野郎が!! いいかお前ら!? これから何か悪いことが起きたらクソッだとか、ファックだとかの悪態の代わりにトミーと言うんだッ!! 

 足の指を机の角にぶつけたらトミーめと叫べ!! 傘を持ってないのに突然雨が降り出したらまさにトミーな天気だと言うんだ!! 分かったか!?」


「船長・・・・・・一度、精神科医に診てもらったほうが良いのでは?」


「うるせえトミー野郎!! お前のおふくろはまさにトミーなトミーで、お前自身もまさにトミーなんだ!! 分かったかこの・・・・・・トミーめ!!」


「ええ、俺がトミーです。それと船長が言ってるコーエン兄弟の映画に出てるスウェーデン人てのがピーター=ストーメアを指すなら、彼がビッグ・リボウスキで演じた役柄はドイツ人ですよ?」


「黙りやがれッ!!」


 わたしの耳には、どうしてもロシア語訛りにしか聞こえない英語でもって、その船長さんは延々と罵倒語を叫び続けていました。もうこんなの、呆気にとられて見つめる以外どうしろっていうんですか。


 トントンと、ノルさんが静かにわたしの肩を叩きました。まさにラテン美人といった風貌をした彼がひそひそ声で話しかけてくる。


「・・・・・・本当にこのまま進めてもいいの?」


「言わんとしたいことは、痛いほどよく分かりますけど・・・・・・お金を払って、子どもたちを無事に受け取るまでの辛抱です」


「・・・・・・そもそもアレと会話が成立する?」


 どんなに交渉術の勉強を重ねたところで、会話が成立しないなら意味はない。なんて恐ろしい相手なのかしら。想像とはかなり別次元でしたが、なるほど、恐ろしい相手ではある・・・・・・。


「それで、いつものロシア人はどうした? 本物のロシア人のことだぞ!!」


 やっと交渉を再開してくれる気になったようですが、船長さんは警戒心を隠しません。それはそうでしょう、以前なら強面のロシア人が担当していた仕事の後任が、わたしみたいな小童なんですから。


「メールで経緯はお話したはずでは?」


 鉄面皮で持って、ここに居るのが当然、そういう風に装います。


 言葉より先に物をいうのが態度です。まず立ち振舞いでもって相手を納得させてから、初めて言葉というのは効力を生むのです。


 姿勢を正し、相手の目をまっすぐに見つめながら、ビューティフル・ワールド号側とのメールのやり取りの中で構築してきたカルテルの代理人としての自分のキャラクターを巧妙に演じていく。


「取り引きの内容について変更する点はございません。このスーツケースには、お約束通りに100万ドルが詰まっています」


 テーブルの上においたスーツケースを開き、緑色したドル札の輝きを見せつける。


「こちらはお金、そちらは商品。それでもまだご不満が?」


「ああ、あるとも」


「具体的に話してもらえますか」


「商品の内容がさ」


 世界中から集められた100人もの子どもたち。そんな子たちをコンテナに詰めて輸送している男が、今さら何を言うのでしょう。


 嫌悪感を隠し切るのに苦労する。ですが感情を見せない方法は、トゥアハー・デ・ダナンを指揮していた時代にとっくに体得済みでした。


 しれっとわたしは、答えていきます。


「こちらのオーダーは明白なはずですが? それとも何か“商品”に問題でも?」


 今のわたしは、トラソルテオトルから派遣されてきたカルテルの人間。つとめて事務的に話を進めていきます。


 完ぺきな演技からはほど遠いでしょうが、自分で感じるかぎりでは、ボロは出てないはず。ですがわたしが言葉を重ねるほど、船長さんの眼差しは疑惑の色を深めていくのです。


「いーや。そっちが丁重に扱えと指示してきたから、こっちも気を使って環境を改善させてもらったとも」


「けっこう。以前、受け取った品の中には、いくつか不良品が混じっていましたから。今後はああいったことのないよう、品質管理を徹底して頂きたい」


「善処するさ、うちは顧客第一だからな。だが、これだけなのか?」


「こちらにも分かるようにちゃんと話して頂けません?

 前任者は、中途半端な引き継ぎをしてから他の任地にしまったため・・・・・・もしかしたら、わたしの知らない暗黙の取り決めをあなた方と交わしていたのやもしれません」


 旅立つとは、受け取り方によっては別の意味に聞こえますし、実際問題、以前この船長さんと交渉していたロシア人はもうこの世にいません。


 別に脅すつもりはありませんでした。どちらかというと、わたしはカルテルらしい危険人物なのだと印象づけるためのトリック。ですが船長さんの態度を見るに、この小手先のテクニックが通用したのか定かではありません。


「ハッ!! えらく格式張った話し方をする嬢ちゃんだな。まるで軍人みたいだ」


「見かけに騙されるべきじゃないということですよ」


「まあな、うちは顧客がどんな見た目だろうと気にしねえ。この小包を世界の端に届けろ。そう依頼されたら、ただ届けるだけさね」


「だからこそ、我々はあなた方を長らく利用してきたのです。ですがたかが窓口が変わった程度で取り引きを妨害するのならば、我々としては新しい仕入れ先を探すほかないでしょう」


「だが本命以外の荷も運んでくれる密輸業者は、そう多くはねえぞ? 

 これまではあんたらちょこちょこ頼んでたろう? この辺りじゃ手に入らない菓子が欲しいだの、ドイツ語の医学雑誌を大量によこせだとか・・・・・・なのに今回は、そういった細々としたオーダーがまるでない」


 なるほど・・・・・・これまではトラソルテオトルの人員がここぞとばかりに頼んでいた個人的な依頼がなかったことで、取り引きに違和感を抱いたのですか。わたしが想像していたよりも、ずっと近しい関係だったみたい。


 予想外の展開ではありますが、この程度でいちいち動揺していたら、わたしはこれまで軽く100回は死んでいたでしょう。


「だからこそ前任者は左遷された・・・・・・わたしからは、これ以上お話するつもりはありません」


「はいはい、いつもの秘密第一なカリ・スタイルねえ。じゃあ質問を変えるぜ、あんた警官か?」


 苦笑してしまう。半分は演技、残りは、ずいぶん直接的に尋ねてくるものですねという驚きから。


「そういうことでしたら・・・・・・ごきげんよう。航海の無事を祈ります」


 そう素気なく言い放ち、すぐさまわたしは緑色のお札が並べられているスーツケースの蓋を閉じて、これ見よがしに立ち上がろうとする。


 すると船長さんは苦笑いを浮かべながら、手で制してきました。


「まあ待てよ。奴らは警官に違いねえと疑ってる相手に、俺が自分の船の敷居をまたがせるとでも思ってるのか?

 アンタと、そこの東洋人。もしこの新顔の2人だけだったなら、あるいは門前払いをしてたかもしれないがな。だがそこのラテン美女を見た瞬間こう・・・・・・心を鷲掴みにされちまってよ。

 ミハイルから聞いてたよ。アンタ、たった一晩で21人もバラしたんだろ?」


22よ」


 ノルさんの答えに、満足そうに船長さんが頷きました。


 やはり本物には敵いませんか・・・・・・わたしも、民間人の格好をしていても同じ軍人であれば、どことなく匂いで分かってしまうのです。船長さんもまたプロの犯罪者として、シカリオであるノルさんの正体を肌感覚で読み取ったのでしょう。


「まさかカリの伝説にお会いできるとは、光栄だな。

 だがそうすると疑問も出てくる。どうしてアンタほどの人材がこんな低レベルな取り引きに顔を出してるんだ? こんなの初めてだ」


 その質問を横から引き継ぎます。


「こちらの内部事情をお伝えするつもりはありません」


「カリ・カルテルが所有してるってのが公然の秘密なスタジアムで、3ヶ月前に大量の死人が出る騒ぎがあった。その直後、B.S.S.がいきなり倒産したり、カリの下部組織が相次いで壊滅したりしてる」


「繰り返しになりますが、お答えするつもりはありません」


「わかってる、わかってるって。カリの奴らの秘密主義は異様だからな。雪が白だとすら認めねえ。

 だけど何かが起きてるのは間違いないんだ、疑いたくもなるだろう?」


「・・・・・・取り引きをしたいのですか? したくないのですか? どちらなんです?」


 いきなり船長さんが懐に手をやりました。一斉に走る緊張感、誰よりも早く動いたのは、ノルさんとヤンさんのコンビでした。


 ガリルARMとインベルMD97、二重類の銃口がさっと跳ねあげられ、それに応じるようにバラバラと一歩遅れ、船長さんの背後に控えている船員たちも各々の銃を構え出す。まさに一触触発。


「おい、慌てるなよ。後ろのテメエらに言ってるんだぞッ!!」


 振り返りながらそう一喝した船長さんは、懐から取り出したリボルバー拳銃の銃口をこちらに向けないよう気を使いつつ、弾倉を横にスイングアウトさせました。


 なるほど、これ見よがしに見せつけるわけです。リボルバー拳銃には弾丸が入っていませんでした。


 銃を突きつけ合う両陣営の緊張がすこし緩和されたのを確認してから船長さんは、ポケットから弾丸を1発だけ取り出していきました。


「あんたらが本当にカリの人間かどうかは、ぶっちゃけ知りようがない。

 考えてみりゃ、これまで俺たちに荷を頼んでた連中、ようはアンタが言うところの前任者とやらだって本当にカリの関係者なのか分からないんだ。詳しくは聞かない、それが商売繁盛の秘訣でもあるしなあ」


 指で摘んだ弾丸を、ゆっくりリボルバー拳銃に装填していく船長さん。リボルバー特有のレンコン型の弾倉のなかに金色の薬莢が収まり、カッコつけるように手首のスナップだけで弾倉がもとの位置に戻されていく。


「だが・・・・・・警官かどうかならすぐ分かる。だっておまわりってのは、犯罪を犯せないもんだろう?」


 相手の意図がわかりました。この方は、さんざん自分はロシア人ではないと主張しておきながら、わたしを試す手段としてロシアン・ルーレットを選択したのです。


 装弾数6発の弾倉の中に弾丸が1発。ああやって手で弾倉を回転させてあげれば、命を賭けた勝負の下準備は完了です。こめかみに銃口を当ててあとは引き金を引くだけで十分。引き金を6回引いて初めて弾丸が飛び出してくるか、はたまた1回目で大当たりを引くかは、運次第。


「サツは潜入捜査程度で命を張ったりしない。どうだ? 1回やるだけでいい。そうしたら、取り引きをつつがなく続けようじゃねえか」


「・・・・・・」


 テーブルの上をリボルバー拳銃が滑り、ちょうどわたしの手元で停止しました。


 命を張れる相手以外は信用しない。なんともシンプルで犯罪者らしいお話です。そしてわたしに迫られた選択肢もまたシンプル・・・・・・拳銃を眺めながら考える。感情を切り離し、ただ計算していく。


 勝率は6分の1です。リボルバー拳銃は構造的に、正面から見れば弾丸がどこに収まっているか丸わかりなのですが、まさか相手の目の前で覗き込むわけにもいかないでしょう。


 運のゲームに必勝法なんてありません。


 勝てばいい。勝ったなら、あらゆる問題は解決できます。だから考えるべきは、負けた場合のこと。わたしが死んでしまった時のことです。


 カリ・カルテルの解体は、わたしの組んだAIが自動進行中。たまにAIも読み間違えをするので手動での修正は適時必要なものの、ここ3ヶ月でより詳細なデータが集まったこともあってその修正頻度も低下しています。だからわたしが居なくてもこの件は大丈夫。


 デ・ダナンⅡの子どもたちについては、いざとなればメリッサが居ます。この取り引きにしても、後はノルさんやヤンさんが引き継いでくれるでしょう。


 どうせ平和な世界に馴染めず、腐っているだけの人生だったのです。わたし1人の命で100人の子どもたちを救えるなら、そう悪い取引でもありません・・・・・・鹿!!


 一瞬だけとはいえ、合理的に見えてその実ひどいネガティブ思考に染まりかけて、自分に嫌気が差す。


 “何者でもない女になるべきだ”


 そう助言してくれた彼の言葉に反することばかりしている今の自分の不甲斐なさを、身勝手な自己犠牲で晴らすとでも? それで満足するのは、わたしだけなのです。


 分かってはいるんです。このままじゃいけない・・・・・・一度は捨てようとした暴力の世界に舞い戻って、そのことにどこか充実感を覚えている今の自分は間違っていると。


 そう、このままじゃいけない。相手の口車に乗るわけにはいきません。


 ですが具体的にどんな方策を立てるべきでしょう? のらりくらり、船長さんからの挑戦を躱して、なんとか信用を勝ち取るしかないのは分かりますが、そこまでわたしに弁舌の才があるかどうか。


 そんな悩めるわたしの目と鼻の先を、死の聖人サンタ・ムエルテを模した薄く光るUVタトゥーが通り過ぎていく。


「あっ」


 わたしが驚き、戸惑っているその隙に、ノルさんの右手には件のリボルバー拳銃が収まっていました。彼はそれを躊躇なく自らのこめかみに押し当て、引き金を絞っていったのです。


 カチリ、単純な金属音。ですがこれほど心臓を締め付けられる音もありません。


 もっとわたしに運動神経があれば、こんな暴挙を許したりしなかったのに・・・・・・ですがノルさんの身体を張りすぎな行動は、船長さんにはまるで響かなかったようです。


 吐き捨てるように、船長さんが言われる。


「俺がいつ、他人に肩代わりしもらってもいい・・・・・・って・・・・・・」


 責める口調がどんどん尻すぼみに消えていく。わたしだって船長さんと同じように絶句して、唖然とノルさんの行動を見守ってしまった。


 それほどまでにノルさんが引き金を引いていく速度は速かったのです。


 1回だけではありません、2度、3度、4度、そして最後に5回も引き金をノ・・・・・・ノルさんは銃口をこめかみに押し付けまま絞っていったのです。


 最初は6分の1の確立、ですが5回目ともなると2分の1まで勝算は下がってしまう。自分の命を賭けるには、あまりに低すぎる勝率です。なのに涼しい顔してノルさんはそれをこなしてみせた。


 ノルさんの行動に誰もが戦慄してました。命というのは、そんな平然と賭けられるものでないはずなのに。


「さて――」


 船長さんも、その背後に控えている船員たちも、その軽い口調に恐怖みたいなものを感じているようでした。


 6発しか入らない拳銃に弾丸が1発。それが5回引いて発射されなかったのですから、当然の論理的な帰結としてあと1回引き金をひけば、弾丸が飛び出てくるに違いない。


「オレの知ってるロシアンルーレットって、確か交互に引き金トリガーを引き合うものだったわよね?」


 銃口をやっと自分の頭からどけてくれたノルさんは、今度はその拳銃の矛先を船長さんへと向ける。その正確な照準に、口を固く結んで汗までかきだす船長さん。


「・・・・・・おいおい、こいつは取り引き相手を試すためのゲームであって――」


「ならフェアにいきましょう。こっちも試させてもらうわ」


「おい待っ!!」


 ふたたび、冷酷な金属音が運命を告げてきました。


 心臓を射抜かれた船長さんが椅子から転げ落ちていって、辺りは騒然となる・・・・・・わたしのそんな最悪な想像は、完全に外れてくれました。


 死人は無し。それどころか銃声すらありません。どういうことかと? 場に残るのは困惑ばかり。


「・・・・・・どうやって気がついた?」


 これで計6回目。リボルバー拳銃の信頼性の高さを思えば、たまたま拳銃が故障して不発だったというのは、まずありえないでしょう。


 ということは、これって本当にゲームだったのでしょう。恐らくリボルバー拳銃に収められている弾丸はフェイク。形だけは本物そっくりなダミーカートの類なのでしょう。


 まったく何をやってるのかしらわたしったら・・・・・・勝手に悲壮感を出して、あの弾丸が偽物だとすら見抜けないなんて。


 ノルさんはどうやってか、このカラクリを見抜いていたのでしょう。だからああも自分の頭に向けて、自信たっぷりに引き金を引くことができた。


「ちゃんとカネを持ってきたお客を試しておきながら、被害者面?」


 ついさっきまでは、自分こそが支配者だと居丈高に振舞っていた船長さんでしたが、ノルさんの行動に肝を冷やされたようでちょっと態度が萎縮してました。


 絶対に大丈夫と分かっていても、ああも迫真の表情で銃口を突きつけられたら、わたしだって雰囲気に飲まれてしまうかもしれません。格の違いをノルさんは見せつけていました。


 ノルさんから投げ返されたリボルバー拳銃を慌ててキャッチした船長さんは、先ほどまでの態度から一転、気まずけに苦笑していく。


「はっ、はははは・・・・・・あー、仕事柄、用心しないとな? ほら、分かるだろ?」


「ご覧のとおりカネは揃ってる。あんたがさっさとコイツを受け取っていれば、こんな無駄な儀式を踏まなくとも、とうにお互い笑顔で別れてられてたはずなのよ。

 それとも実弾込めてゲームを仕切り直す?」


 迫力たっぷりの美女の微笑みに、趨勢は決しました。


「・・・・・・いいや。あんたのクソ度胸に心打たれたよ。あと札びらの輝きにもな」


「そう? ならテッサ、あとはお願い」


「えっ? あっ、ハイ」


 ここ3ヶ月、カルテルを裏から操ってそれなりに犯罪者の流儀を知ったつもりでしたが、まだまだ未熟者みたい。別にプロの犯罪者になんてなりたくはありませんけど、でもなんかちょっと悔しくはある。


 演技は落第点みたい。ですがせめて実務方面だけは、ちゃんとこなすべきでしょう。


 わたしは悪逆非道なカルテル関係者であり、今日の仕事は100人の子どもたちの買いつけ。設定を再確認、はい大丈夫、もういけます。


「では早速、商品の確認を」


 冷徹なビジネスウーマンの声を再び作ってから言い放つと、船長さんは肩をすくめて船員の1人にお金の詰まったスーツケースを預けてから立ち上がり、ポケットから鍵束を取り出しました。


「ついてきな」


 コンテナが所狭しに置かれている船倉を一列になって進んでいきます。


 密輸船とはいえ、表向きは普通の貨物線のフリをしなくてはならないはず。このコンテナたちの中身は、ほとんどがきっと正規の取り引き品でしょう。


 無機物であれば、この湿度と暑さにいくらでも耐えられる。ですが同じ狭いコンテナの中には、100人もの子どもたちが詰め込まれている筈なのです。船倉でこれなら、コンテナの中の気温はどうなっていることか。


 船長さんは、品質管理を向上させたとのたまっていましたが・・・・・・不安がよぎる。子どもたちはこんな所に閉じ込められているの?


「ここだ」


 そう言って船長さんが立ち止まったのは、ありふれたコンテナの前でした。


 まだ中を確認してもいないのに、コンテナの中にすし詰めにされた子どもたちの構図をどうしてもわたしは想像してしまった。


「・・・・・・わたしは、環境を改善するようにお願いしたはずですが?」


 まさかこんな小さなコンテナの中に100人も? 演技を続けなきゃいけないのに、つい感情を抑えきれず責めるような口調になってしまう。


 するとかがみ込んで、コンテナを封鎖している南京錠にカギを差し込んでいた船長さんが、不服げにこちらに顔を向けてきました。


「どこに目ぇ付けてやがる。ちゃんと改善しただろが?」


「具体的に説明して頂けますか? わたしも・・・・・・品質管理に責任がありますから」


 咄嗟にそれっぽいことを言って誤魔化す。


 先ほどのロシアンルーレットの顛末があったせいか、船長さんもこちらの態度にあえて疑問を呈したりせず、淡々と質問に答えていきました。


「こいつはリーファーコンテナだ。そもそも一定の温度を保つように設計されてる。普段なら生肉だとか温度変化に弱いもんを運ぶための代物だが、温度計を20度に合わせてやりぁ、人間が快適に暮らせる環境の出来上がりだ――それに5.1サラウンド・スピーカーも搭載してるしな」


 それなりに考えてはいるようですが・・・・・・って、こういうシチュエーションにまるでそぐわない単語が聞こえて、ついついオウム返しに尋ねてしまった。


「5.1サラウンド、ですか?」


「おうとも。100インチのスクリーンにフルHD対応の映写機完備。3600本の古今の名作映画がストックされてる」


「そ、そうですか・・・・・・」


「それだけじゃない!! ベッドはなんとウォーターベッド。シャワーはさすがに簡易な節水シャワーだがな? シリアはアレッポで作られた世界最古にして最高峰の石鹸をストック。運動不足に備えて最新のウォーキングマシーンに、日本製の空気清浄機が24時間稼働してるからK2のてっぺん並みに清らかな空気がこのコンテナの中には満ちてやがる。そしてなによりもトイレにはな・・・・・・ウォッシュレットがついてるのさぁ」


「・・・・・・」


 これで冗談めかしていたらなら、子どもたちを物としてしか見なしていない外道と心のなかで罵ったことでしょうが・・・・・・あの顔、どう見ても自分の成し遂げたことに誇りを抱いている顔でした。


 どうりでウンウンしたり顔で頷くわけですよ。船長さんの主張が事実ならば、わたしがいま泊まっているデ・ダナンⅡの船室はおろか、ニューヨークにあるメリッサのアパートよりもこのコンテナは設備が充実しています。


 ですが、物が充実しているということはそれだけスペースが狭くなるということで、ここに100人も物理的に詰め込めるのかしら? いえそもそも費用対効果的にどうなのかしらと、疑問が浮かぶ。


 冷酷ですけど、彼らは営利団体なのです。報酬100万ドルというのは中々の金額ですが、主張通りの設備を100人分も揃えたら簡単に赤字になってしまうでしょう。


 まさか子どもたちの境遇を慮ってなんてありえない。そんな気持ちがまだあるなら、こんな仕事にそもそも手を染めたりしないはず。


 わたしはその旨、船長さんに問いただしてみました。すると返ってきたのは予想外に過ぎる答えでした。


「あっ? 100人のガキだぁ? 何言ってるやがる、そのオーダーを2週間前に取り消したのはそっち側だろうが?」


 わたしはつい背後に控えてるノルさんと顔を見合わせてしまった。


 確かにオリジナルのオーダーは100人の子どもたちでしたし、ビューティフル・ワールド号側とメールでやり取りしていたわたしもそのつもりでした。なのに、途中でオーダーが変更されたですって?


 ですが技術的には、十分に可能でしょう。メールでのやり取りといってもそのやり方は少々、変則的なものでしたから。


 同じアカウントでもってWEBメールにログインして、メールの下書き機能をいわば疑似チャットルームとして利用する。そうすればログが残る心配もなく、追跡も難しい。


 もちろん専用の暗号通信に比べたらセキュリティは大きく劣りますが、世界のどこに居るかわからない見ず知らずの相手と対話したいなら、この方法がもっとも簡易的かつ便利なのです。


 ですが昨今、諜報機関や浮気者たちの間で大流行というこの21世紀の秘密通信には、ある欠点がありました。つまりアカウントにログインできれば、誰でも会話を簡単に盗み見れてしまうという点です。


 そもそもこのアカウント、“クレイドル”からサルベージした情報に基づくものですから、カルテル関係者の誰かが知っていても不思議じゃありません。


 グリニッジ標準時でお昼の12時、その時間に下書きを覗いてみて文章が書かれていたら対話開始。そういうざっくりとした取り決めのもとこれまでやり取りしてきましたから、知らぬ間に第三者がわたしに成り済ましてビューティフル・ワールド号側と対話するのは、不可能ではない。


 誰がと問う前にまず、その意図を考えるべきでしょう。目的さえわかれば、犯人は自然と絞られますから。


 罠? それが一番ありえるでしょうが、ならどうして相手は仕掛けてこないのかしら? 今のわたしたちは船の中で袋のネズミ状態なのに。


 疑惑と不気味さに、鳥肌が立つ。


「なんだ? なにか問題でもあるのか?」


 この口ぶりからして船長さんは、本当に何も知らないのでしょう。いきなり自分の三編み弄りだしたわたしを訝しげに見つめてる。


 話が噛み合ってることからも、このコンテナの中に居るのは子どもなんでしょうが・・・・・・嫌な予感がする。ですが気が変わったとここでわたしたちが帰れば、このコンテナの中に居るは、これからどうなってしまうのでしょう?


 ジェリーおじさまから多くのことを学びましたが、特に口を酸っぱくして教えられたのは、絶対に決断しろということです。


 悩むぐらいなら進め、あるいは潔く引け。その場にウジウジと留まることほどの悪手もない・・・・・・わたしが口ごもる時間が長いほどに疑惑は深まっていき、船長さんを取り巻く、銃を持った船員たちの手には力が込められていくのです。


 どうやら100人の子どもたちはここには居ないみたい。ですけど商品としての人間がコンテナに収まっているのは事実。でしたら・・・・・・まずは、目先の命から助けるべきでしょう。


 どこかわたしの預かり知らないところで、何かが動いているみたい。警戒心を心の奥底に押し込めながら、わたしはカルテルの名代としての演技を続けました。


「・・・・・・いえ。問題ありません」


 多弁を弄した嘘よりも、短い断定のほうが時には効果的。わたしのその判断は、今回は正しかったようです。


「とにかくあの不気味なガキを引き取ってくれ」


 答えに納得した船長さんは、扉を開いていく作業を再開しました。


 ガキ、と呼ぶからには、やはり荷は相変わらず子どもであるようですが・・・・・・コンテナを施錠していた大柄な南京錠が外れ落ち、ガチンと船倉の床のうえで跳ね返る。


「VIP待遇を希望ってことだからさんざん世話焼いてやったのに、ニコリともしねえ。まるで等身大の呼吸するセルロイド人形が歩き回ってるようだったぜ」


 コンテナの観音扉が左右に押し開かれていくと、船倉の生暖かく湿った空気とはまったく異なる、いかにも快適そうな清浄な空気が漏れてきました。船長さんが主張する通り、コンテナの中はラグジュアリーもかくやだった様子。


 今だに銃声も、大勢が走り回る音も聞こえません。包囲するには絶好のシチュエーションのはずなのに。


 わたしの行動それ自体が敵の目論見どおりだとするなら、まさか荷を回収させたいということ?  ですがコンテナの奥からゆっくり歩み出てきた少女をわたしは、罠だと切って捨てることはできませんでした。


 とても細い体つきでしたが、それは栄養失調といった部類ではなくて、あくまで小柄な女の子というだけのよう。亜麻色のロングヘアーに黒色のワンピース。年の頃は、10歳前後といったところかしら。


 ちょっと陰を感じますが、それは豪華とはいえコンテナの中にずっと閉じ込められていたのですから当然でしょう。ですが・・・・・・切れ長の目の奥底に見える、あの感情の正体はよく分かりませんでした。


 わたしたちを見た瞬間、激情のようなものが一瞬ばかし浮かんだ気がする。でもそれはほんとに一時のもの。今は船長さんの言葉を借りれば、お人形のように無表情を貫いている。


 変わった女の子、それがわたしの第一印象でした。


 何より変わっているのは、この年頃でしたらぬいぐるみを連れ歩くのも不思議じゃないでしょうが、この子の場合はどうしてか――空っぽのアンティーク風の鳥かごなんて奇妙なものを、とても大切そうに抱えていたのです。




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