Vol.2 三者三様のプロローグ
PROLOGUE “さあ、目覚めなさい”
【“過去”――ポーツマス郊外】
「いいですよ、踏んで!!」
タイヤが空転していく音を聞きながら、ボクは泥と汗にまみれつつ必死に車を押していた。
トヨタ製の乗用車は、馬力のわりに頑張ってはいたが・・・・・・舗装道路のすぐ真横、雪に覆い隠されている泥のわだちという、もはやトラップに等しい悪所が相手では、とてもじゃないが太刀打ちできない様子だった。
スタックした後輪は、相変わらず空回りを続け、車体の後ろへますます泥を跳ね散らかすばかり。車体そのものはビクともしない。
このトヨタはちゃんとスタッドレスタイヤを履いているし、そこらで拾った木の板を後輪に噛ませて摩擦もあげてある。なのに抜け出せる兆しがまるで見えない。
一瞬ばかし車体が浮いたかと思えば、すぐさま後輪に噛ませた木の板がすっ飛んでいって、車体は泥濘の中へと舞い戻る。まさにお手上げ。途方に暮れるボクの顔をバックミラーで目にしたに違いない運転席の女性は、アクセルを吹かすのを止めていった。
まったく・・・・・・気温はマイナスを指しているというのに全身が汗だくだ。靴やズボンに至っては泥に塗れて、もはや地面と同化している始末。
ウェイトリフティングで調子こいてた自分が馬鹿みたいだ。なんて無力なのだろうか。
荒がる息のままふと横を見てみると、この厄介ごとにはまり込んでしまったトヨタの乗組員、その片割れである10歳ほどの少女が、物言わぬ目でこちらを見上げていた。
「大丈夫?」
寒いだろうに、少女は白い息を吐きながら、毛糸の帽子で頭を隠しながらそこに立ち尽くしている。
「ここは危険だ。車はたやすく・・・・・・人の命を奪うんだからね」
好奇心の赴くまま、作業風景を眺めていた。子どもにありがちな距離感の測り損ない、だけどどうにもこの子の場合、そうじゃない気もした。
無口で無表情、それは初対面の時からずっとそうだった。この子には悪いけど、感情が抜け落ちた人形のようにも見える。特にそんなイメージを助長するのが、ずっと彼女が手にしてる物体だ。
テディベアを握りしめて離さない年頃だから、物を持ち歩いてるのは分かる。でも少女はなぜかぬいぐるみよりずっと嵩張り、そして重いだろう――大きな鳥籠を握っていたのだから。
このアンティーク調の鳥籠の中に小鳥でも納まっていたら、その愛着ぶりにも納得がいったのだろうけど。カバーが掛かっているから外からは分からないが、鳥籠の中からは羽音や鳴き声はまるで聞こえてこない。空っぽなのだ。
あるいは、なんらかの
本音では、この寒さだ。僕が乗ってきたレンタカーに彼女を乗せて暖をとらせてあげたいのは山々なのだが・・・・・・考えすぎかもしれないけど、ガタイの良い男というのは兎角、世間からあらぬ勘違いをもたれかねない。
人の真意は、誰にも見抜けないものだ。親は、あらゆる災厄から子どもを守るという、神聖な義務がある・・・・・・それに当初は、すぐ解決すると思っていたんだ。
「あら、まぁ」
トヨタの運転席から降りてきた品のいい中年女性が、僕の徒労の形跡、つまりはズボンの泥はねを見て心配げな声をあげた。
「こんなに汚れてしまって」
最近では希少価値になってきた、田舎な奥様のような女性だった。こうも呑気で毒気がない態度は、近年珍しいのではないだろうか。
親子揃って大きな毛糸の帽子をかぶり、この女性に至っては大きな丸メガネすら掛けている。厚着にメガネ、そのせいでちょっと容姿がわかりづらいが、優しげな雰囲気はよく伝わってくる。
現に少女も、母親によく懐いていた。それとなく女性に近寄っていき、それに応えるよう女性もしごく自然な仕草で頭を撫でてやる。
本来あるべき親子の姿が、そこにあった。
「いえ、お気になさらず。スーパーマンよろしく颯爽と現れておきながらこの体たらく・・・・・・きっとバチが当たったんでしょう」
冗談めかして答える。
このズボンと、あと靴。ここまでくるとクリーニングでどうにかなるだろうかと心配になる。いっそ買い換えたほうが手っ取り早そうだ。
「ダメよそれじゃあ」
てっきり、クリーニング代を立て替えるとか言い出すのではないかと、僕は内心で慌てた。だが実際に女性の口から飛び出できたのは、もっと哲学的な言葉だった。
「あなたにバチを与えているのは、あなた自身よ。それはやめておきなさい」
おっとりした女性から突然、教会で聞くような説教が飛び出してきて少し驚いたが・・・・・・よくよく考えてみれば、この女性はいかにも教会にあしげく通うタイプに見える。もしかしなくても、この説教の元ネタは神父様の説教なのだろうか?
いや、元ネタうんぬんはどうあれ、女性の善意が消えるわけじゃないし、この洞察はひどく的確だった。ずっとボクは、ボクを罰しつづけている。
「実はレンタカー会社の人も警告してくれていたのよ。でも雪国暮らしが長いからと、つい侮ってしまった」
そういえば、このトヨタのナンバーはレンタカーのものだったな。旅行なのだろうか?
「こうなると知ってたら戦車を借りてたのに」
いきなり素っ頓狂なことを言い出すものだから、久方ぶりに笑ってしまった。
こんなの、本来なら悪態をつくには絶好のシュチュエーションなのに、この女性ときたら陽気なほど楽天的に構えている。まったく頭が上がらないな。
「そうよ、しかめっ面をしてても世界は良くならないのよ?」
助けに来たつもりが逆に心配されてる。まったく情けないかぎりだった。
「ええ、たしかにその通りかもしれませんね・・・・・・とりあえず楽天家になる第一歩として、まずはレッカー車を呼びましょうか」
今度は、彼女が笑う番だった。何もかも上手くいってないうえに全身汗だく、泥まみれだというのに、ずっと忘れていた感情が自分の中に舞い戻ってくるのが分かった。
あの事件以来、ボクはずっと白黒の世界を生きている。
このポーツマスの雪景色と似たようなものだ。果てのない無色の世界の中で、漫然とただ呼吸している。
わかってる。この親子との穏やかな時間もすぐ過ぎ去り、またボクは自分の世界と向き合うことになるのだろうと――自分の家族と。
ボクは女性に言った。
「携帯電話はお持ちですか? 無いなら、自分のをお貸ししますが?」
「あら、“自分”だなんて。あなたやっぱり軍人さんなのね?」
見た目に似合わず、やはり鋭い女性のようだ。
「ええ、まぁ・・・・・・ポーツマスは海軍の街ですから」
ちょっとボヤかしてしまった。
気にしすぎかもしれないが、ボクの属してる部隊の性質上、あまり自慢げに所属をひけらかすのはよろしく無い。
軍人であるのは事実だし、海軍というのも正しい。ただ普段はここポーツマス海軍基地ではなく、バージニア州のリトル・クリーク基地で過ごしているのだけど。
機密指定というのは、厄介なものだ。実のところつい先月まで乗船していた船すら明かすことができないのだから。嘘というのは、人間関係を壊すための特効薬だ。だから言葉を濁すだけに留めておく。
「ご家族はこっちにおられるのかしら? もし私が旦那様を引き止めてるようだったら、奥様に申し訳ないわ」
「あー、いえ・・・・・・家族は、妻はバージニアに居まして。こっちには父の用事で呼ばれたんです」
「あら。なら、これからお父さんとお約束が?」
「ご心配なく」
どうせ迎えに来いというのは、父にとって口実に過ぎないのだ。
職業病だろう、すぐ陰謀を張り巡らせて人を操ろうとする。ボクのことを気にかけ相談に乗ってやりたいのだろうが、そのための口実作りにこんな手間隙をかけるなんて、あの人は変わっていない。
「時間に余裕はありますから、レッカー車が来るまでここにいますよ」
周囲には民家なんて見当たらない、車の通りさえまばらだ。さながら都市と田舎の境界線のような場所で、あるのは木と雪ぐらいのものだった。
ポーツマスは物騒な地域じゃないが、この善良な親子を残していくのは気が引ける。
「あっ、もちろんご迷惑でなければですが――」
「ありがとう」
答えは短かったが、とても重い言葉に聞こえた。もしかしたらボクは、上手くいっていない自分の人生を人助けで誤魔化そうとしているのだろうか。
「それじゃあ早速、電話を――」
携帯電話を貸そうと懐に手を伸ばした矢先に、なんとも間が良いことに聞き覚えのある着信音が鳴り始めた。彼女が好きな曲だ・・・・・・。
ずっと女性とボクの間に流れていた穏やかなムードが、すべて台無しになった気がした。とはいえ、出ないわけにはいかない。
間の悪さを誤魔化すために、作り笑いを浮かべたが、きっと酷く下手クソなものだったろう。女性が微笑む。
「出ないの?」
「あー、その、たぶん緊急じゃありませんし・・・・・・」
だから先にそちらが、そう言い切る前に女性は、ボクの目の前で自分の携帯電話を振ってみせた。なるほど、出るしかなさそうだ。
ボクは、スタックしているトヨタからちょっと離れたところに止めてある自分のレンタカーを指差し、向こうで話してくると女性に意思表示してから歩き始めた。
通話ボタンを押しながらふと背後を振り替えると、女性は娘の耳が真っ赤なことに気づいたようだ。かがみ込んで、毛糸の帽子にちゃんと耳を覆うように優しく引き下げていった。
あるべき親子の姿・・・・・・ボクが実現できなかった理想像がそこにあった。
これだけ離れれば大丈夫だろう。女性が微笑みながら手をあげている。それに答えるよう僕も手を振ってから電話を取った。
挨拶する暇もなく、妻はいきなり本題から切り出した。
『警察が戻ってきたわ』
「えっ? それは、また事情聴取に来たということか?」
『違うわ。お向かいの家に刑事たちが入っていって、もう2時間も経ってるのよ』
いつものように毛を逆立てた猫のように妻は気が立っていた。だけど今日ばかりは、それだけじゃない。声の中に怯えが混じっている。
「・・・・・・だけど、捜査は終わったはずだ」
『私の見間違えだとでも言うつもり? 確かにあの時の刑事たちよ・・・・・・ウチのガレージを見渡せるのってあの家しかないもの』
事故として処理された筈なのに・・・・・・別れ際の刑事の目を思い出す、きっと点数集めじゃないだろう。個人的信念のために事件を洗いなおしているのだ。
「弁護士はなんて?」
『話もしてないわよ。最初に聞くのがそれ? あなたはいつもみたいに何もせず、弁護士に尻を拭ってもらえって?』
「落ち着いて・・・・・・分かった。ボクの方で、警察に電話してみるよ」
『容疑者の夫に警察が何を話してくれるのよ!!』
「それならなんでボクに電話なんかした?」
ずっと声を潜めて話してきたが、身勝手な叫びについ声を荒げかけてしまう。
だけどボクは妻をよく知っている。大声で叫びあったって妻に言葉が届くことはない。この世界には、何があろうと自分は正しいという信念の持ち主が一定数いるのだから。
『そう、また私のせいってわけね』
「そうは言ってないだろ。ボクは一度だって君を疑ったことはない。裁判にだって――」
『ええ、一度だけ来たわよね? その後はずっと任務、任務で行方不明。いつものあなたよ・・・・・・“私”を家に置いて、あなたはいつも1人で――』
「“私たち”だろ」
ただの一瞬も妻を疑ったことはなかった。そうせぬよう自分に課してきた。だって結婚の誓いというのは、そういうものだろう?
どんなに父が家を開けようと、母は決して疑ったりはしなかった。子どもの時は父への不満はたくさんあったけれど、あれほど大切にしていた仕事を放り出してまで母の最期に駆けつけたことで、その怒りはとうに消えていた。
だけど僕らは、父や母のようにはもうなれないだろう。ずっと分かっていた事なのに見て見ぬふりをしてきた。そのツケがこれだ。
この言葉だけは聞き捨てならない。妻はまるで、ボクたちの娘が居ないかのように話しているのだから。
「・・・・・・本当に見えなかったのか」
電話の向こう側、あのヒステリックな声が急に静まった。
「あの子は、他の子よりも成長が早かったろ? 周りより背がひとつ抜きん出てたよな? いくら君の運転してたSUVの車高が高くたって頭の天辺ぐらいは見えたはずだ」
『・・・・・・』
「本当に見えなかったのか? あの子を車の下敷きにして頭を砕くその瞬間まで、本当に君は気づいていなかったのか?」
沈黙がつづく。叶うなら妻には、未来永劫その沈黙を守ってほしかった。そうすれば、可能性だけは残る。
妻はボクたちの娘を心の底から愛し、慈しんできた――そういう妄想に浸ることも出来ただろう。あの裁判で見せた懺悔が罪を逃れるための演技でなかったと、明言さえなければ信じることもできるのだ。
だけど妻はいつだってボクを裏切る。それは、彼女からしたら家をずっと空けてきたボクに対する、正当な権利の行使であるようだった。
『・・・・・・全部あなたのせいよ』
「・・・・・・あとで掛け直す」
『また逃げるのね』
また品位の欠片もないわめき声が聞こえ出したが、ボクはそれを無視して強引に電話を切った。逃げ出したかったのは本当だ、だけど電話を切った理由は別にある。
もうボクの意識は、軍人のそれに切り替わっていた。携帯電話を仕舞いこみ、変わって腰元のインナーホルスターに差し込まれたSIG P228へと手を添える。
装弾数13発の9mmハンドガン。銃器を見えないように携帯するのは、特別なライセンスが無ければ重罪に当たる。だけど現職の特殊部隊員ほど、アメリカの銃制度において優遇される存在もない。ここニューハンプシャー州のCCWライセンスは当に取得済みだった。
手は添えたが、まだ抜きはしない。本当にこれが脅威なのかまだ断言できない。だが思考はそうでも、感覚はすでにパナマのような戦場の空気を感じ取っていた。
ボクは片目はあいかわらず擱座したレンタカーの横で楽しげな親子に向けつつ、もう片方を、道の向こうから唐突に姿を現した黒いバンへと油断なく向けていた。
バンはありふれた車種だった。中小企業の御用達、日曜大工に熱心な家庭などでも使われている。だから大荷物を積んでいてもおかしくないだろうが・・・・・・後部のシャーシがあまりに沈み過ぎている。その癖、企業のロゴなども見当たらない。これで建築会社の名前でも書かれていたら、建材でも積んでいるのだろうと納得もいったろうが。
フロントガラスに目を向ける。
バンの運転席と助手席を占めるのは、30代から40代までの
現に男たちは、一向に車から降りる気配がないのだ。ただ座席に座って、呑気に戯れる親子を至近距離から見つめるのみ。
あの顔には見覚えがある。いや、人相を知っているという意味でなく、これから暴力を振るおうとする人間は決まって同じパターンの表情を作るのだ。目が座り、上頬が膨らむ。いわゆる
「あの車に見覚えはありますか?」
親子に近寄りながら声をかける。この2人を不安にさせたくはないが・・・・・・もっともありえそうな可能性として、DV夫からこの親子が逃げてきたという可能性をボクは思い浮かべていた。
それならレンタカーなど、色々と説明がつく。
「大丈夫?」
だがこちらの危惧は、呑気な女性にどうもうまく伝わっていないようだ。彼女はむしろボクに心配の声を投げかけてきた。どうして?
まだバンの存在に気付いていないのか? 兵士としてのこの危機感をどう伝えるべきか悩む。怖がらせたくないという気持ちが、どうにも先に立つ。
アイドリング状態のまま、そう遠くないところでバンは止まったまま動かない。いっそ親子はこのままにして、自分1人でバンに近すぎ意図を問いただすべきか。だけどあの後部のシャーシが沈んでいる理由が、推測どおりに大勢が乗り込んでいるせいなのだとしたら・・・・・・ちゃんと動ける僕のレンタカーからあまり離れたくはない。
事と次第によっては、銃を抜きながら親子をレンタカーに乗せ、逃亡する必要があるだろう。ボクはアクション・ヒーローじゃない。特殊部隊員といえど、一度に大勢を相手取るなんて不可能なのだ。
「ひどい顔色だわ」
「ボクは大丈夫です。それよりも、」
「娘がさんが亡くなったの?」
「・・・・・・なんですって?」
驚愕で身体が固まる。まさか、聞こえていた筈がない。
妻との会話すべてに耳を傾けていれば、そういう結論にも至れたろうが。単純に距離が離れていたし、雪というのは音を吸収する。大体、そばにはエンジンが掛かりっぱなしなトヨタがあるじゃないか。
そう、聞こえる筈がないのに・・・・・・品のいい女性の微笑みには、確信が溢れていた。
「唇を読んだのよ」
それは、読唇術という意味か? それなら視力さえ十分なら、遠くで話してる僕の会話を読み取ることもできるだろうけど・・・・・・今では絶滅危惧種のような穏やかな主婦が持ち合わせているには、違和感のあるスキルであることは間違いない。身内に聴覚障害者が居るなら、まだ可能性はあるだろうけど。
どうしてか女性は、眼鏡を外していった。
正体を現したというよりも、別の表情が現れたかのようだ。おっとりとした雰囲気はそのままに、眼鏡の奥に隠れていた冷徹な眼差しがボクを射すくめてくる。
「あなたは奥様を信じたがっているのね? でも理性の真実と、感情の真実の間に挟まれて苦悩している。そうじゃなくて?」
「あんたは・・・・・・何者なんだ?」
声の調子だって先ほどからまるで変わっていないのに、不気味でならない。
いきなり男たちがバンから降りてきた。寒風が吹きすさぶ冬のポーツマスだというのに、男たちは上着の前を止めていない。僕と同じように腰元に手をやっている。
咄嗟にSIGを抜きかけるが、女性が手を挙げて制止したことでドロウの機会を逸してしまった。その手がさらにボクの頭に混乱をもたらしてくる。女性が制した方角はボクでなく、男たちの方だったのだから。
手を挙げるだけ。それだけで、暴力的な風貌をした2人組がピタリと足を止める。
ほんの数分前まで至極シンプルであったはずの世界は、加速度的に変化していってボクを戸惑わせる。
どうすればいい? 何が正しい判断なんだ? 誰が敵で、誰が味方だ?
その答えを知っているのは、どうやらよく聞けばヨーロッパ風のアクセントが言葉に混じる女性だけのようだった。
「悪は明確に存在しているわ。だけどそれを裁けるのは人の意志だけなのよ? 神は、ただ傍観するばかり・・・・・・。
あなたのように目を瞑れば、悪は平然とこの世界の中で生きていく」
急に始まったその説教は、押し付けがましいものじゃなかった。それどころか催眠術のように僕の心に入り込んできた。
「罪を許せと神は説いているわ。でも真に問うべきは、この質問なのよ。
どうかしら? あなたなら答えられる?――自分のすべてであった娘を奪い去った相手が、心の底から幸せそうに笑っている姿を見てなお、憎まずにいられるのかと?」
妻が、ボクを責めている理由は理解できる。
両親という、ある意味でもっとも近しい他人の前例に甘えていたのかもしれない。家族とは表面上はどう見えようとも、根っこでは繋がっていると。
軍隊というのはボクにとって掛け替えのないもうひとつの家族であり、強い絆と、他では決して味わえないスリルを与えてくれる存在だった。妻や娘と過ごした時間よりも、ずっと長い期間を戦地で過ごしてきたのは、間違いない。だがそのツケを払ってきたのは妻であり、娘なのだった。
だから責められるとしたら僕自身であるべきなのに・・・・・・妻はもっとも、ボクを苦しませる方法を熟知していた。
あの事故が起きた時、妻の動きは迅速だった。即座に救急車を呼んだのだ。残されていた通報記録には、取り乱した母親そのものの声が録音されてこそいたが、近所の住民は悲鳴はもちろん、助けを求める声すら聞いてはいなかった。
それから救急車が駆けつけてくる間に妻がしたことは、娘に寄り添うことではなく、検事である父に電話をすることだった。
裁判所はすぐ結論を出した。お陰で、娘の葬式には妻も出席することができた。不注意ではあったが、それ以上に可哀想な被害者として妻は、出席者の全員から慰められていた。
弔問の客たちも帰り、娘が最期のときを過ごした家でボクらは2人きりになった。そこで喪服姿のままの妻は、こう言ったのだ。
“厄介事も終わったわけだし、気分転換に遊園地にでも行かない?”
そう、笑いながら言ったのだ・・・・・・。
「――それがあなたの答えなのね」
言い知れぬ恐怖と、どうしようもない安心を同時に感じて心が千々に乱れていく。毒が、ボクの脳内に染み渡っていく。
「あなたの怒りは正当なものだわ。私がそうであるように」
鳥籠が開けられる音がした。ボクはまず横を向き、それから視線を下に降ろしていった。
亜麻色の髪を毛糸の帽子から少しばかしはみ出させた少女は、いつの間にか空っぽの鳥籠を地面に置いていた。その手の中には籠に変わって、1挺の銃が握られている。
相手は所詮は子どもだ。すでに銃を握っているはいるが、今からその小さな身体を突き飛ばし、SIGを抜き去って男たちごと撃ち殺すことなど容易い。状況からしても明らかな正当防衛になるだろう。
だが・・・・・・そんなこと出来る筈がないのだ。
少女は無表情なまま引き金を絞った。サイレンサーの付けられた細長いハンドガン――ルガーMk2の銃声はひどく静かで、ガスの噴出音しか聞こえなかった。
不思議と痛みはなかった。だが腹部に手を当ててみれば、ジャケットの下から熱い液体が漏れているのが感じられる。まともに除雪すらされていない雪に埋もれた道路に寝転がりながら、ボクは空を眺めていた。
きっとあの黒いバンだろう。タイヤが軋む音が近づいてきて、スライドドアの開く音がする。そこに母親らしく「足を引っ掛けないようにね」なんて優しげに注意する声が混じっていく。
間違いない、あの男たちはこの親子と合流するためにここまで来たのだ。
「あなたが感じたものを奥方に伝えてあげなさい」
女は去り際に、頭上からそんな言葉を投げかけてきた。
「どれほど時間をかけてもいいわ。死は終焉に過ぎない・・・・・・真の復讐は、生の中にしかないのよ」
僕の視界の外でバンが走り去っていく。
1人、寒々しい世界に取り残された。全力を尽くせば、起き上がることも可能なのかもしれないが、その気力はまるで湧いてこなかった。
思い返せば、もう僕の人生は終わっていたのかもしれない。娘の訃報の裏に妻の悪意が透けて見えたその瞬間から、もう取り返しのつかないものになっていたのだ。
横たわりながら、ひどく冷静に消えてゆく自分の命を見つめていた。
そうだ・・・・・・あの時、もう死んでいたのだと・・・・・・肉体が死を迎えようとしている今になってやっとボクは気がついたのだった。
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