EPILOGUE “Señora de las Sombras”

【“Mr.キャッスル”――空港、発着ロビー】


 あの顔面タトゥーの小娘に貫かれた右手は、まだ痛んだ。


 Ms.テスタロッサのかつての傭兵仲間だというこの東洋人は、DEAの捜査官という肩書だけでなく、医学にもそこそこ精通していたらしい。移動するタクシーの車内で行われたにしては、私の手に穿たれたナイフの切創には的確な医療処置が施されていた。


 お情けか痛み止めペインキラーが渡されてはいたが、スタジアムから出てまだほんの数時間に過ぎない。ましてや刺し傷だけでなく、散々に殴られた後でもある。薬の力に頼っても、痛みはまるで引いてはくれなかった。


 この国はあまりにクレイジーな出来事が多すぎる。だから血塗れの白人グリンゴが引きずられてこようとも、早朝の空港にまばらに見られた人々は、誰も気にしてはいないようだった。


 カルテルのボスを捕まえてやったと、胸を張って地元の警察署に駆け込むような愚をこの東洋人は犯さなかった。私に罪を償わせたいなら超法規的な処置が必要になる。そう冷静に判断して、まずコロンビアからの出国の道を選んだ訳だ。


 どれも正しい判断だ。その動機が、あまりに視野の狭すぎる正義感であるという点に目を瞑ればの話だが。


 仮に、私に罪の捌きを下したとして、それで世界が変わるとでも? 限りなくあり得ないことだが、よしんば私が法の名の下に有罪になったとしても、所詮はパブロ=エスコバルの末路をなぞる醜悪なパロディに成り果てるのがオチだろう。


 麻薬産業は変わらずこの国に横たわり、アメリカの資産を掠め取っていく。それだけではない。私がせっかく組み上げた対テロ防衛網には風穴があき、テロリストどもが大手を振って我が祖国の土を踏むことになるのは間違いないのだ。


 必要だからこそ、必要悪などと称されるのだ。それすら理解できんとは・・・・・・上官であるあの小娘と同じく、この男もまたあまりにナイーブにすぎる。


 私は手錠が与えてくる手首の不快感をどうにか解消しようと、アレコレ試してみたが、目隠し目的のタオルが揺れて、ガチャガチャと金属音を響かせるばかりで、すべての努力は徒労におわっていた。


 空港にありがちな横にどこまでも伸びているベンチのパイプと私の手首は、完璧なまでに手錠によって結び付けられていた。この痒みを我慢しながら、当面はここで腰掛け続けるしか道はなさそうだった。


 しばし離席していた東洋人が、2枚のチケットを握り締めながらこちらに戻ってくる。


 くだらんなボーシット・・・・・・どうせ失敗するのは目に見えている。だが空港の壁掛けテレビが垂れ流す、愚にもつかないB級映画なぞで時間を潰すよりは、奴をからかう方がよほど有意義ではあるか。


「なにを笑ってる・・・・・・」


 B.S.S.の警備服からよれたスーツに着替えた東洋人は、私の顔を忌まわしげに見つめながらそう言った。


「いやなに、ヤン捜査官。

 君は先ほど公衆電話でどこかに連絡をとっていた様子だが・・・・・・バージニア州にあるDEA本部は、君の越権行為についてどのような法的見解を示していたのか? 少しばかり興味を持ったものでね」


 私の横に腰掛けながらも、決して目を合わそうとしない東洋人が答えてくる。


「あいにくだけど、電話相手はDEA本部じゃない」


「ほう? それは安心したよ。

 バージニア州といえば数多の政府機関がひしめいているが、とりわけ有名なのは・・・・・・バージニアはラングレーにあるCIA本部だろうからなぁ」


「てっきり、最後の最後まで自分はCIAの人間ではないと、黙秘権を行使するとばかり思っていたよ」


「CIA? はて、誰がCIAの人間なのかね? 私は単にバージニア州にかけて、ちょっとした連想ゲームをしたに過ぎんのだが」


「・・・・・・ほんと腹が立つ男だな、アンタは」


「腹芸で私に勝つのは諦めたまえ。君が鉄砲を振り回すことで築いてきたこれまでのキャリアの倍以上もの年月を、私は口八丁だけで切り抜けてきたのだ」


「下院情報委員会でもその手が通じるといいな」


 ほぅ、無い知恵を絞ったものだな。


 CIAの工作活動を監視するために立ち上げられた下院議会内部の監査機関――それが下院情報委員会であり、いわばインテリジェンス・コミュニティにとってのPTAのような存在だった。


 奴らの潔癖症にいくど煮え湯を飲まされてきたことか。品行方正な諜報機関だと? 人を騙し、貶めるのことを生業としている組織に、そんな表の流儀を押し付けられては堪らない。


 だが悪のCIAを叩きのめすというストーリーは、とかく有権者には受けが良い。


 この東洋人の手が読めた。次の選挙までに票を稼いでおきたい、下院情報委員会に名を連ねる議員の誰かに匿名でタレ込む腹か。


 悪くないアイデアだ。だが果たしてこの東洋人の発案かどうかは、怪しいところだったが。


 恐らくは例によって、Ms.テスタロッサの入れ知恵だろう。あの女装癖のシカリオを手術するとかでてんてこ舞いな様子だったが、裏では抜かりなくこんなアイデアを元部下の耳元に囁いていたとは。


「流石はミスリルの魔女・・・・・・侮れん小娘だな」


「ん? 悪いけどこれは僕の独創だよ。大佐殿は一切関わってない」


 他人の功を横取りするつもりなのか、あるいはこの行動の責をあくまで自分一人で負うつもりか。私としては、どちらでも構わないがね。


「そう上手くいくかな?」


「アンタの大切な“クレイドル”のデータは、今はこっちの手中にある。あのデータの解析が進めば、アンタが犯罪に関わってる証拠が山のように出てくる筈さ。もちろんCIAとの繋がりだってね。

 トラソルテオトルで使われたMKウルトラの実験データ、あれの出元ってCIAなんだろう?」


「なんの話かまるで分からんな」


「好きなように惚けてればいいさ。

 もし議員に歯牙にも掛けられなくたって、メディアにスクープを提供するって別の手段もある。アンタのご大層な経歴が3大ネットワークに一度でも流れれば、あとは国民が黙っちゃいない。

 なにせ正義について、アメリカ人ほどこだわりを持っている国民もいないんだから」


「だが誘拐同然に私を拉致した言い訳を、貴様はどうやってするつもりなんだ?」


「それについては、天下のDEAにすら前例があるからそこまで心配はしていない。

 なにせキキ=カマレナの殺害に関与した医師を拉致して、アメリカに連れ帰った前科があるんだからね。超法規的相手には超法規的処置を、てね」


「アインシュタインに曰く、“ 狂気とは同じことを繰り返し行い、違う結果を期待することにある”

 その捜査官の殺害に関与したという医師のことだがね。結局は、メキシコ政府の抗議に折れるかたちで釈放されたと、私は記憶している」


「・・・・・・何なんだアンタは? この状況下で、どうしてそうまで余裕ぶっていられる」


 東洋人が訝しむのももっともだ。


 スタジアムでは、銀髪の小娘にしてやられたと認めざるおえないだろう。だが今のわたしの頭は、あの時と違って冷え切っている。


 余裕か、なるほど。言い得て妙だな。


「勝者とは、かくあるべきなのだよ」


「・・・・・・黙らないと、猿ぐつわをかませるぞ」


 フッ、反論できないと即座に腕っぷしに訴えかける。不安の裏返しだな。


 Ms.テスタロッサに比べたら、この男はあまりに小物に過ぎる。彼女は巧妙に私へと魔術をかけてみせたが、ひとたび冷静になってみれば、あれは所詮はブラフに過ぎないと簡単に見破ることができた。


 優位のなのは変わらず、私の方なのだ。今なおカリは強大な組織であり、それを裏から操るCIAもまたそれに輪をかけて強大なのだから。


 なるほど、私の大義に賛同したのは、所詮はCIA中南米支局の一部の跳ねっ返りだけかもしれん。だがそれでも、CIAという組織が有する情報網を我々が好きに使えるという点に変わりはない


 私が9姉妹ナイン・シスターズに連絡をとってから、まださして時間は経っていなかった。だがこの東洋人がパスポートを有していない私をこの国から連れ出すつもりなら、やはりDEAの権威を盾にするしか他に方法がないだろう。


 スタジアムから程近い空港で、DEA捜査官がチケットを要求してる。そんな情報、CIAが見逃すはずかない。


 現に・・・・・・見たまえ。こちらに歩み寄ってくるスーツの女性を姿を。彼女を目にした途端、私は自然と、自らの顔に嘲笑を張りつけていった。


 タイトスカートに身を包む、いかにもやり手のキャリアウーマン然としたその女性は・・・・・・なんといったか、ハリウッドでも有名な無国籍風の男優がもし性転換をしたらこうなるに違いないという、どこか神秘的な顔貌をしていた。


 そうだ、思い出した。その女はまるで――性転換したキア◯=リーブスのような外観をしていた。


「どうも」


「え?」


 私にとっては聞き慣れた、いつものロボットじみた抑揚のない挨拶に東洋人はひどく面食らっていた。


 それはそうだろう。まだ拳銃を手放せていなかったことからしても、カルテルによる襲撃は想定していたかもしれないが、こうも敵意ゼロの相手がひょこひょこ挨拶してくるなんてのは予想外だったに違いない。


 咄嗟に腰元のハンドガンに手をやってはいたが、抜くべきか否かを東洋人は悩んでいた。彼女はもしかしたら空港の職員かもしれない。もっともそんな可能性は、早々に消えていったのだが。


「ヤン=ジュンギュ捜査官ですね? お初にお目にかかります、わたくしアンサーと申すものです」


 そう言って、Ms.アンサーは東洋人に向けて握手の手を伸ばしていった。その手を、困惑し切った目つきで東洋人が見つめていく。


 所詮は、軍人上がりか。戦いは、必ずしも銃弾を必要としないと理解できないらしい。


 キョロキョロと東洋人は周囲を確認していたが、無論のことながらカルテルの伏兵など隠れてはいなかった。それどころかこのロビーに見える人影ときたら、われわれ3人のみだった。


 さて、そろそろこの無国籍風の女性について紹介するべきタイミングだろうな。


 コードネームは9姉妹ナイン・シスターズ。まだ20代前半ではあるが、その能力には疑いの余地はないCIA中南米部門のホープ。潜入もお手の物で、昼はネオ・パンナム社なる滑稽な名をした航空会社でモンドラゴン・ファミリアの動向を探るべく働いている。


 しかしてその正体は、客室乗務員という地位を活かして私とCIA本部ラングレーを結ぶ、この計画の連絡担当官なのだった。


「・・・・・・カルテルの人間じゃないな。あんたCIAか」


 正しい疑惑に、Ms.アンサーはどこか惚けた顔でこう返していった。


「いえ、私は単なるホテルのバーテンダーです」


「何?」


「まあ、私の職業なんてどうでもいいでしょう。それより、こちらの提案をまずは聞いていたたげないでしょうか?」


 返事も待たずに、その提案とやらをMs.アンサーは明かしていった。


「そこの男性の身柄をこちらに預けてください。そうすれば・・・・・・まあ特にあなたの利益にはなりませんが、とりあえずお互い、平和裏に別れられるのではないでしょうか?」


「御免だね」

 

 ジャケットの裾に手を突っ込んだ東洋人は、Ms.アンサーに向けてハンドガンを半分チラつかせる。


 まるでチンピラのやり口だが、そんな程度ではMs.アンサーは眉も曲げない。いやそもそも、この女性に感情があるかどうかすら怪しいところだった。私はこれまで一度たりとも、彼女が泣いたり笑ったりしてる場面にお目にかかったことがない。


おやまあウフタ」 


 そう、暴力の匂いを前にしてMr.アンサーが呑気に呟いた。


 まったく・・・・・・ホワイト、あのミネソタ出の田舎者め。前途ある若者を自分色に染めよってからに。貴様の口癖が移ってるではないか。私からすれば奴は、CIA内部の最大の協力者ではあるが、昔からまったくもって反りが合わない男なのだ。


 この東洋人は、スタジアムで数十人もの私の手下を殺傷した男だ。不用意な動きをすれば撃たれかねないと、Ms.アンサーとて先刻承知だろうが、彼女は悠々と懐に手を突っ込んでいった。


 銃か、と本能で身を固くする東洋人の目の前でその無国籍風の女性は、1冊の手帳を手にとっていった。


 開かれた手帳のなかに何が書かれているのか? その答えをすぐMs.アンサーは口に出して我々に教えてくれた。


「ずいぶんと借金が嵩んでおられるご様子ですね、ジュンギュ捜査官」


「冗談だろ? そんな低レベルな誘いに、僕が乗ると本気で思っているのか」


「何なら、我々が肩代わりしても良いのですが・・・・・・」


「ふざけるな」


「はぁ・・・・・・そうですか。では次の手にまいりましょうか」


 はらり、手帳のページがめくられた。


「ではお次は、ソウルの病院に通院しているお母さまについてお話しましょうか」


 逆鱗に触れるとはまさにこの事だ。これまで冷静を装っていた東洋人が、一瞬で怒り狂いだした。


「母に危害を加えてみろ、お前らをッ!!」


「どうすると、いうのですか?」


 空港の隅々まで響き渡ったに違いない叫び声を浴びておきながら、能面のような無表情はまるで崩れなかった。


 これぞスパイの真骨頂だ。我々は暴力などには頼らない。可能性をチラつかせ敵の動揺を誘い、こちらの意のままに操るのだ。


 激昂した時点でこの東洋人の敗北は、すでに決定づけられていた。こうも怒り狂ってまで守りたがるということは、すなわち自身の弱点であるという証明に他ならないというのに。


 よしんばここでトチ狂った東洋人がMs.アンサーを射殺しようとも、結局のところ奴には何も出来やしない。それが組織力の差というものだった。


「私どもには独自のラインがあるので、今すぐにでも大韓民国国家情報院NIS宛てに、お母さまが実は北朝鮮のスパイであるという裏情報を流すことができます。

 あるいは、こういうのもまた一興でしょう。

 あなたの職場の上司たるアンダーソン支局長に電話して、あなたが違法な捜査活動に現在進行形で関わっていると告発してもいい。はたまた武装した謎の東洋系の男性によってアメリカ国民が不当に拘束されていると、コロンビア警察に善意の通報をすることも可能です。

 個人を破滅させる選択肢のなんと多様なことか。まったくもって国家というのは――敵に回したくありませんよね?」


 そう、どこまで行こうともこの東洋人は、所詮一個人に過ぎないのだ。


 なるほど、我々は不法にアメリカの権威を悪用しているだけかもしれない。だがそれが実際に機能している以上は、この男に抗う術などないのだ。


 大した女性だ。この胆力、あるいはMs.テスタロッサに匹敵するかもしれないな。とはいえ側から見てる分には、これはまるで一流のコメディのような滑稽なものにか映らなかったが。


 まったく、笑いを堪えるのが大変でならない。


 ピエロとなった東洋人は拳を握りしめて、必死に怒りをこらえていた。そうだ、居場所を知られた時点でこの男はすでに詰んでいる。このままMs.アンサーを無視して強硬策で出国することも可能かもしれないが、アメリカの空港に到着した途端、正規の命令で動いている警官隊に誘拐罪でお縄にかかるのがオチだろう。


 法制度はこの場合、我々の味方なのだから。


「この人を人とも思わないやり口・・・・・・なるほど、どうしようもないぐらいにCIAの人間らしいな」


「はぁ、CIAとは何のことやらさっぱりですが・・・・・・で? 仮に私たちがカンパニーCIAの人間であったとして、あなたがもう詰んでいる事実は変わるのでしょうか?」


 また1枚、彼女は手帳ページをめくった。


「下院情報委員会の副委員長を務めているフィネスキ議員は、95年から我々の協力者アセットです」


 それが決定打だった。


 針の穴を通すような確率でも、可能性があったならやり通す意思はあったろうが・・・・・・自分の親しい人々すべてを犠牲にしてまで、必ず失敗するであろう正義を貫くほどの覚悟は、この男にはない。


 さっきまで電話していたに違いない相手の名をズバリと言い当てられて、凄まじいまでの苦渋の表情を東洋人は浮かべていった。


 所詮は、この程度の男というわけだ。


「これがあんた等が信じる、アメリカの正義って奴なのか?」


 精一杯の捨て台詞。だがそんなもの、例によってMs.アンサーは鼻にもかけやしなかった。


「はぁ・・・・・・まあ、そうなるのでしょうか? ところで帰化されたのですから、あなたも一応はアメリカ人では?」


 聞き方によっては小馬鹿にしているような台詞、もっとも当人にそんな気はまるでなさそうだったが。とはいえ、それで東洋人の張り詰めていた糸がプツリと切れてしまったのは間違いない。


 ハンドガンだけでなく、東洋人のベルトにはDEAのバッジも貼りついていた。その威光のお陰でこうもトントン拍子に搭乗手続きが進んだのだろうが、そのバッジを東洋人は手にとり、これ見よがしに床へと放り捨てていった。


「もう付き合ってられない・・・・・・僕は降りる」


 まったく東洋人の去り姿ときたら見事なものだった。みっともなく、だらしない、まさに敗北者の背中だった。


 世界で起きるあまねく事象はどこかで繋がっている。私が成した悪は批判されて然るべきものだろうが、その裏では遠く、どこかの平凡なアメリカ人の命を救っているのだ。


 そんな単純なことすら理解できず、一時の義憤に猛るからこういう目に遭うのだ。


「くだらん男だ」


 吐き捨てる私を横目に、Ms.アンサーは対面のベンチへと、脚を組みながら腰掛けていった。


「仕事は山積みだが、とりあえず手始めとして、この手錠を外すのを手伝ってもらえるかなMs.アンサー?」


 CIAの訓練所ザ・ファームで、一応はどこぞの武装勢力に拉致された場合に備え、縄抜けもどきを教えられてはいた。だが私がそれを習ったのは、もう数十年も前のことになる。知識は錆びつき、まるで使い物にならなかった。


 とはいえ、彼女もそれは似たようなものだろうか。


 CIAのフィールド・オフィサーは、映画とは異なり超人スーパーマンからは程遠い。走り回って銃を撃つことなんてありえんし、無論のことながら、手品のように手錠を外すことだってできやしない。


 まずはカルテルの状況を掌握し、落ち着いてから錠前屋なりボルトカッターなりを持ってくれば良いだけのことだ。


「いや、それはおいおいでいい。今はそれよりも、組織の掌握を優先すべきだな」


 “クレイドル”は今、事実上停止している。


 私の頭にある知識を用いれば、それなりにカリの下部組織の手綱を握ることはできるだろう。だがやはり“クレイドル”のデータを奪還して、再起動させる他に完全掌握する手立てはない。


 愚かしいことだなMs.テスタロッサ。組織というのは、こういう危機的な状況からすらもリカバリー可能なのだよ。すでに私の頭の中では、大見得を切っておきながらクソの役にも立たなかったMr.ザスカーに変わる、新たな火消し役フィクサーの候補をすでに幾つか思いついていた。


「すまないがMs.アンサー、電話を貸してもらえるかな? 話を通しておきたい相手が・・・・・・Ms.アンサー? 君は先ほどから何を、しているのだね・・・・・・?」


 こちらの掛けた言葉にまるで注意を払わず、どこかぞんざいな感じにMs.アンサーは、


「お気になさらず」


 と言い放った。


 以前から、直属の上司に似てどうにもピントの外れた女性だったが、今日は特にその行動は意味不明にすぎた。


 彼女はカメラマンが構図を探すかのように手帳を眼前に掲げ、私の背後の・・・・・・なんだ? 壁掛けテレビか? その液晶画面が映し出す映像と手帳の中身を、かえすがえす見比べていた。


「なんとまあ」


 口ぶりからして驚いているようだが、いつものように表情が乏しすぎて、具体的に何に驚いているのかはサッパリにすぎた。


 置いてきぼりされた気分の私を捨ておいて、彼女は何やら呟きだす。


「てっきりあなたが逮捕されるのは2015年のことだと思っていたのですが・・・・・・映画の誤認とは。まったく人生とはままならないもので」


 私は上半身をひねって、背後のテレビを見やった。


 ニュースキャスターがテレビの中で原稿を読んでいた。その画面の右端には、現在時刻と一緒に年号らしきものが表示され、そこにはなるほど、2015年との表示があった。


 2015年? ミスだとしたら大胆に過ぎる、なにせ今は2003年だ。そう、未来が舞台だとかいう先ほどのB級映画はまだ画面の中で続いていたのだった。


 黄色いスペイン語の字幕がキャスターのすぐ下に表示されている、ハリウッドの商業主義が産み落とした映画の一場面・・・・・・それはいいのだが、どうしてMs.アンサーはそんなものに驚いているのだ?


 彼女の手の中にある手帳が一瞬、傾けられた。お陰で私もページの中身をこの目で見ることが叶った。


 ページいっぱいに手書きの絵が描かれている。いや厳密には、コピーした絵をセロテープでページに直接とめているようだ。


 理解不能だった。その絵の題材は、明らかに手錠を掛けられた今の私自身であり、その背景にはなるほど、2015年と表示される液晶テレビの断面が活写されていた。


 今さっき描かれたにしては、名だたる名匠たちの画力には遠く及ばないにしても非常に綿密で、時間をかけて描かれたように見える。殴られ顔が腫れている私だけでなく、ベンチの細かな造型や天井の飾りなど、細かなディティールが正確に描き込まれてる。


 なんだこれは・・・・・・?。

 

 急に、不気味なものが背筋を駆け抜けていった。彼女は手錠を外すことが出来ないのか、それとも


「戸惑っておられますね」


 Ms.アンサーは冷静そのものに言った。


「正直なところ私もですので、心中お察しします。まさかこうまで事態がこんがらがるとは、半年の準備期間もすべて無駄になってしまいました。

 彼女をコロンビア行きの飛行機に載せたり、ホテルのマネージャーを買収したり、あの苦労ははて、一体なんだったのか」


「君は・・・・・・何を言ってるんだ」


 Ms.アンサーは、まるで宝物であるかのように丁寧に手帳を閉じて、自らの懐へ大切に仕舞い込んでいった。


「諜報機関に長く勤めておいでですからご存知でしょうが、情報をどのように解釈するべきか? それを見定めるのは、いつだって至難のわざなのです。

 絶対に成就することは分かっているが、具体的にそれがいつ、どのようなタイミングで発生するかまでは分からない。

 彼女の墓参りのスケジュールと、上司からの指示を照らし合わせた時、これだと確信したものですが・・・・・・しかしひとつでも解釈を間違えると、ご覧のようにすべてが後手後手にまわって、迷走する他なくなってしまう。まったく困ったものです」


「上司からの指示だと? まさか貴様、ホワイトと結託してこの私を裏切る腹か?」


「裏切る? まさか・・・・・・それは少々、自意識過剰に過ぎるでしょう」


「なに?」


「あなたを切り捨てても、大局にはまるで影響がないというお話ですとも。時に手札は、場に捨ててこそ最大の効果を発揮する」


「貴様、誰に口を聞いているとッ!!」


 この計画を立案者したのは、誰だと心得ている!! 脊髄反射の私の激高を、冷ややかな眼差しが射すくめる。 


「私どもが開発した“クレイドル”をあなたに貸与したその瞬間から、この計画は私たち9姉妹ナイン・シスターズの管理下にあると、暗黙のうちに了解していたとばかり思っていたのですが。

 ご理解いただけず残念です。せっかく管理人としての地位まで用意してあげたのに、それすら守れないとは少々、失望を禁じえませんね」


 東洋人を切り裂いた言葉の矛先が、今度は私へ向けられていた。


 9姉妹ナイン・シスターズのコードネームは、彼女個人のものだろうに、どうして彼女は“私たち”と、複数形で語っているのだ?


 Ms.アンサーは今だに無表情のままだった。だがどこか、その無表情の中には別の感情が含まれている気がした。彼女は明らかに、私を見下していたのだ。


 知らずしらず、私は奥歯を噛んでいた。


「・・・・・・誰がこの計画を発案したと思っている」


「確かに、大元の発案者はあなたでしょう。ですが電球の生みの親であるジョゼフ=スワンの名はすでに歴史の狭間に忘れ去られ、そのアイデアを完成させてみせたエジソンの名声は不朽のものとなっている。

 それと同じことですよ、Mr.キャッスル。確かにあなたは発案者でしょうが、私たちのマザーは――完成者なのです」


 私のアイデアにホワイトの人脈が結びつき、そこにモンドラゴンの脅威に怯えるコロンビア政府の利害が結びついた。まさに奇跡的なタイミング。だが、外国人グリンゴが麻薬カルテルを取り仕切るには、匿名性を維持しつつも有機的に組織を動かせるシステムが必須条件だったのだ。


 私が喉から手が出るほどに欲していたそれを提供してきたのは・・・・・・いつも通りあの女、影の貴婦人Señora de las Sombrasだった。


 自分は、港にあるコンテナ船を自由に使えればそれだけで十分。それとカリ・カルテルを支配するにあたって自身が挙げた功績に見合う、無限の予算さえ約束してくれれば――組織は私のものになる。


 いや、違う。私は与えられたのではない、勝ち取ったのだ。


 あの女も所詮は脇役に過ぎない。実際、奴はカルテルの経営に一切、首を突っ込んではこなかったのだから。むしろ自らの兵隊を私に捧げてきたほどだ。


 そう、これは私の組織だ。


「自身のエゴに殉じて、どのように真実を歪めるもあなたのご勝手ですが――」


 そう、背後に突如として現れた第二の女が、Ms.アンサーそのものの声で囁いた。


「現在、計画を修正するために私たちはてんてこまいでして」


「迷惑なことです」


「大変なことです」


「ですが慣れないとはいえ、アドリブでどうにか事態を乗り切らなければならないのは明白」


「どうにかなるでしょうという楽観論のもと、とりあえずこうして参上つかまさった次第でして」


 同時に2人の人間が話しているのに、その言葉ときたら途切れなく繋がり、まるで話し手は1人のようだった。


 声質も、その喋り方すら瓜二つ・・・・・・いやそれどころか、今まさに背後から私の肩に手をおいた女の容姿は、Ms.アンサーそのものなのだった。


「君は・・・・・・双子だったのか?」


 混乱のなかで導きだされた当然の論理的帰結に、前方に腰掛けている方のMs.アンサーが首をかしげる。


「どうして、2?」


 意味が、分からなかった。


 困惑に染まりきっている私とは裏腹に、この寸分違わぬ顔かたちをした女どもは、まるでこれからの展開をすべて心得ているかのように、こう言い放ってきたのだ。


「ぜひとも最後まで役割を全うしてくださいませ。アメリカを愛する1人の愛国者パトリオットとして、是非とも大義に殉じていただきたいのです」


 “あるいは――”そう背後の女がこれまでのように言葉を繋げていった。


「自分はすべての地位を影の貴婦人Señora de las Sombrasに与えてもらっただけの、単なる時代遅れの老人であるという真実を公にするのか? それを決めるのはあなたです」


「貴様ら、“あの女”の・・・・・・」


 薄靄の先に見えてきた真相を語るチャンスを、どうやら私はいきなり登場してきた第三者によって、永遠に逸してしまったようだった。


「まったく信じられんよ」


 さも当然という口ぶりで、ドカッと目の前のベンチへと腰掛けていく第三の男。その男は、見た目こそ年齢相応に老け込んではいたが、内から湧き出てくる活力のせいか奇妙に若々しいイメージを保っていた。


 巌のような容貌に反比例する丸顔。馬鹿丸出しなアロハシャツを着込んでいるせいで、どこか不良老人なんて言葉が脳裏を過ぎっていく。


 見ためではとても信じられないだろう。だがこの人物は、かつては海軍USネイビーの重鎮であり、謎めいた傭兵部隊ミスリルの中心人物の1人にして、大手民間軍事会社PMCのCEOであるに違いない。


 そう見間違えるはずもないのだ。目の前に座っているのは――久方ぶりの再会となるジェローム=ボーダ提督その人だった。


 老人は話し続けていた。まるで、くだらない世間話を聞かせるかのように。


「いつまで経っても私のスーツケースが流れてこないから、どうしたのかと職員を問い詰めてみたんだ。そしたら、なんでも盗難にあったというじゃないか? それだけなら、まあ別に構わん。

 こっちは人生の半分をあっちだこっちだと空港を飛び回ってたきた身なのだからな。この程度のアクシデントなど慣れっこだ。

 大体、セキュリティといえばボールペンの一本でもあれば開けられるファスナーしかないスーツケースの中に、盗まれたら取り返しがつかないような大切なものを仕舞い込んだりするものか」


 一体、こんな話を私に聞かせて何を期待しているのだ?


 新手の心理作戦かとも思ったが、今の私の頭は混乱しきっていて、通常時の半分も働いてはいなかった。だから阿呆みたいに口を半開きにしながら、私は男に問うた。


「・・・・・・ボーダ提督、なぜここに?」


「覚えててくれて嬉しいよ、自己紹介とか面倒な手続きをしないで済む。

 いやなに、実はウチの会社の南米支社が、ここコロンビアに開設されるんでね。それで情報本部長を伴って、ここに居る南米支部長と会合しに来たのさ」


「ここに居る?」


 オウム返しの質問に、ボーダ提督は瓜二つの女たちの顔を見渡していく。


「なんだお前たち、まだ自己紹介してなかったのか?」


 どこか惚けた雰囲気でMs.アンサーの片割れ、バーテンダーと名乗った方が答えていった。


「前の職場の件でついつい盛り上がってしまいまして」


 前の職場だと? 意味が分からず、困惑する他なかった。


 それに気いたらしく、女は私に注釈を付け加えてきた。


「実はCIAを退職して、より待遇の良い民間企業プライベートセクターに先ごろ籍を移したのです」


 いや、それでは辻褄が合わないではないか?


 退職した人間を本部に招き入れるほど、CIAのセキュリティは緩いものじゃない。それに私の視力とてまだ衰えてはいないのだ。ほんの一週間前のテレビ会議の席で、ホワイトの横で惚けた顔をしていたあの女は、ではいったい何者だというのだ?


 そうだ。ありえないことだ。この計画の連絡官として、そしてネオ・パンナム社の客室乗務員として、バージニア州にあるCIA本部とコロンビアを往復する日々。それだけでも相当な負担だろうに、そのうえミスリルUSA社の南米支部長を兼任していたとでも?


 例えMs.アンサーが2人居たとしても――現に目の前に居るのだが――こんなもの物理的に不可能というものだ。


 その瞬間、電流のように先ほどMs.アンサーが口にした言葉が頭の中を駆け巡っていった。


 2


 いや・・・・・・まさか、そんなことは。


「妹はどうも、かつての職場でこのサングラスの男性と顔を合わせたことがあるとかで、その話で盛り上がってしまいまして」


 背後の女からのフォローの形をした嘘に、ボーダ提督はどこか感心したように頷いていった。


「世間は狭いか・・・・・・お前たち、まさか昔の上司のだからと絆されてはいないだろうな?」


「いえ厳密には私の・・・・・・“妹”の上司の船馴染みであったとかで、せいぜい顔見知り程度だとか」


 この嘘の真の目的は、別のところにあった。ボーダ提督の関心が私の背後に向けられている隙に、目の前に座っている方のMs.アンサーが静かに、わずかに微笑みつつ、自分の唇に人差し指を押し当てていった。


 喋らないように、あの人差し指はそういう意味のジェスチャーであったのだ。


 理解し得ない、不条理にすぎる状況。あまりに予想外の出来事が重なりすぎて、私の頭はすでにパンクしていた。


「で、なんの話だったか?」


 上司であるらしいボーダ提督の発言に、Ms.アンサーの片割れが答えていった。


 私にはもう、この2人を厳密に区別する意味があるのかどうか、悩んでいた。それほどまでにこの2人は容姿が同じにすぎるし、喋り方までそっくりなのだ。


「私の記憶では、スーツケースがうんぬんとのたまってましたが」


「なにか上司への敬意に欠けている気がするな」


「尊敬をお求めですか? では、ボーナスの額を一桁上げるのは如何でしょう? そうすれば社員一同、跪いてCEOを崇めたてる所存なのですが」


「はっはっはっ、面白い冗談だな」


「私たちはいつだって本気です」


「・・・・・・そうだ思い出した!! 下着の話だったな!!

 そうとも、まったく信じられないことに、この空港に務めていた手癖の悪い荷物係とやらは、わさわざ私のスーツケースをこじ開けて盗んでいったのだよ、トランクスをな!!

 まったく理解不能だよ。こんないい年こいたオヤジのトランクスを盗むやつがあるか? 実は居たんだよ、この空港の半径1キロ以内についさっきまでな!!」


 なるほど、私はすべて理解した。


「これは本当に現実なのか?」


「ああ、そうとも。忌々しい事に、これこそが現実というものだ。

 アイ・ラブ・ジェリーなどと別れた妻が刺繍した一点物のトランクスを、何が悲しくて盗まなくちゃならない?

 何一つとして理解できんよ。人のトランクスに一文字一文字、丁寧にアイラブと刺繍していった元妻の精神状態も意味不明だし、それをわざわざ手にとって自分のものにしたいと考えた荷物係の思考回路も、まさしく理解の範疇外だ。

 色々、他にはない奇妙な人生経験を積んできた自覚はあるがね。この土地ときたら・・・・・・そんな私にとっても、あまりに理解の及ばない出来事に溢れすぎている。

 例えばこの女どももそうだ」


 どこか演技がかった仕草で、ボーダ提督がMs.アンサーたちを指し示していった。


「お前ら覚えているか? 私はこう指示した筈だったな?

 ダイレクトに勧誘してもあの子は絶対にこちらになびかないから、自然な感じで、何よりも絶対に相手から気取られないように会合をセットアップしてくれないかと」


「確かに。そのようにご指示、受けたまりました」


「そうだな・・・・・・どこかのラウンジとかで、それとなく彼女が休んでるところに歩み寄ってこう言うんだ。

 “おや、こんなところで出会うとは奇遇だな”と。

 そうすれば、遠い異国ということもある。ここ最近、私からの電話を着信拒否してるあの子だって、ほんの5分くらいなら話を聞いてくれる筈だ」


「そもそもあんな強引なプレゼント攻勢を仕掛けなければ、こんな面倒なことをする羽目にはならなかったのでは?」


「黙れ。実の娘のように可愛がってる相手から着信拒否される苦しみを知るには、君らはまだ若すぎる」


「「はあ・・・・・・」」


「ハモるんじゃない。

 あの子はブラジルに用事あり、私はコロンビアに用があった。隣国とはいえ距離が離れすぎているから、先ほどの展開に持っていくためには、ちょっとした小細工を仕掛ける必要がある。

 だから私は、この陰謀大好きな元CIA上がりどもに言ったんだ。どうにかうまい具合に手配しておくようにと」


「頑張りました」


「そうだな、それはそうだろうとも。だがてっきり私は、君らからこういう提案が来るとばかり思っていたのだ。

 ブラジル行きの飛行機を手配したので、この時刻にCEOには飛行機に搭乗して頂きたいのです、とな。なぜならこちらの都合を押し付ける訳だから、出向くべきはこちら側であるべきだ。それが礼節というものだろうし、常識だ。そもそも法を犯さずに済む。

 なのに、そんな常識をこの女どもはまるで持ち合わせてなかったんだ!!」


「「はぁ・・・・・・」」


「ハモるんじゃない。

 現実には提案どころか、いきなり結果報告が上がってきた。ご要望通り、それとなく彼女を睡眠薬で昏睡させ、コロンビア行きの飛行機に乗せました、とな」


「大変でした」


「そんな無茶しろと誰が言った!! 嫌われたらどうする!! どうして私がブラジルに行くというパターンを思いつかなかったんだ!!」


「「その手がありましたか」」


「ハモるんじゃない!!・・・・・・まったく、これだからインテリジェンス・コミュニティ出の人間は嫌いなんだ!!」


 そう言って、ボーダ提督は深々とため息をついた。


「だがこんなのは、手始めに過ぎなかったわけだ。

 慌ててコロンビア行きの飛行機に飛び乗って、この部下どもからのリアルタイムの報告に耳を傾けてみれば、なんど聞き直してみても意味の分からない言葉の羅列が耳に飛び込んでくるじゃないか。

 以前のコダ革なんちゃらの時もそうだったが・・・・・・まったく、何なんだろうなこの土地は?

 報告1・あの子が誘拐された。報告2・犯人はどうもカリ・カルテルらしい。報告3・それもそのカルテルのリーダーは、なんとCIAの人間だというじゃないか。

 “ですからわたしに迷惑をかけた分、あとの処理はお願いしますね?”

 久々にかかってきた電話の内容がこれだ・・・・・・知ってるかね? あの子は、おしとやかにしてる時が一番おっかないんだ」


 そういうことか。あの東洋人が独断先行しているその裏で、あの万事に卒がない小娘は、より的確な人材にすべてを委ねていたわけか。


 私はこの男以上に、この土地について精通している。


 Ms.アンサー・・・・・・その不可解さとて、この土地の異常性に比べたらくだらぬことだ。この土地の複雑怪奇さを逆用して、アメリカのために役立ててやろうと考えたのは、誰あろう私なのだから。


 このままアホ面を晒しながら敗北を認めるなど、あってたまるものか。


 私は背筋を伸ばし、さっきからくだらない話に明け暮れてはいるが、その眼光の鋭さときたらまったく揺るがない、丸顔の男へと向き直っていった。


「・・・・・・なるほど。ボーダ提督、あなたは御自ら、自分が単なる部外者に過ぎないと認めた訳だ」


「“元”、提督だが・・・・・・まあそうだろうな。今だに慣れんよ、ここの文化には」


「そうだろうとも。

 だが、あなたはまだ知らないようだから教えておくが、実はミスリルという組織はとうに滅びたのだ。

 あの独善的な正義を世に振りまいていた巨大組織は、もはや歴史の闇に葬られたのだ。そうとも、今のあなたは所詮は一企業の社長に過ぎん。それも、アメリカで登録されているな。

 これは噂なんだが、御社はミスリルなる傭兵組織が保有していた装備を、勝手に自社の資産として運用しているそうだね? それを聞いたらあなたの契約相手たる国防総省ペンタゴンはどのような反応を示すことか。

 果たして違法行為に手を染めている企業に、これまで通り仕事を手配してくれると思いますかな?」


「CIAの人間ってのは、すぐ人を脅したがるな」


「これは脅迫ではない。私はただ真実を告げてるだけだ。だが真実というのは、どうにも万人にとって耳に痛い代物であるようだがね」


 私は、顔面タトゥーの小娘の拳のせいでヒビが入ってしまった愛用のサングラスの位置を手錠が掛けられていない方の手で直しつつ、言った。


「助言しておこう。首を突っ込むのはここで止めにすべきだ。

 この土地について理解できないとさんざん繰り返してきたが、まさにそれこそが真理なのだ。ここは、個人の思惑ごとき容易く飲み込んでいく魔境なのだよ」


 そう、どうしようもない実感を込めながら語っていった。


「そんな場所に軽い気持ちで手を出せば、破滅するのはあなたの方だ――ボーダ“元”提督」


「ありがたい助言だな」


 だが豪胆なこの男は、私の話など気にも留めていないようだ。耳の穴に小指を突っ込み、下品な耳かきをしながら丸顔の男は言う。


「正直、そう思はないでもない。

 さっき指摘された通り、防総省DoDと大口取引してる手前、ここでカンパニーとことを構えるのはビジネス的にはアレだなんて、腹黒い経営者的な考えを抱いてはいるのさ。

 だがなぁ、私は縁ってやつを大切にするタイプなんだ」


「・・・・・・ならば、ベリーズの訓練キャンプについての情報を消してやった私に、感謝のひとつぐらいしてはどうだね?」


「うん? ああ、あの件か。

 その節には世話になったが・・・・・・実のところ言いづらいんだがね、あれには後日談があるんだ」


「後日談?」


「その様子だと知らないようだが、お宅の中南米部門に属してる正義感の強いアナリストの1人が、どうも内部告発のつもりで情報をメディアにリークしたんだそうだ。

 だから実は、とっくにこの情報って世間にバレているのだよ・・・・・・ネットで検索してみるといい、一発で出てくる」


「・・・・・・」


「まあ、ミスリルは膨大な欺瞞情報を流していたからなぁ。溢れかえる都市伝説だか、フェイクニュースだかに埋もれて、興味すら抱かれなかったのだろうよ。

 いずれ物好きな作家が本の1冊ぐらい書くかもしれんが、まあ被害といえばその程度か。だからもしかしたら、創設間際の過剰反応というやつで、あの問題って最初からぜんぶ杞憂だったのかもしれんなぁ」


 そこにMs.アンサー、その片割れが口を挟んできた。


「掲載先がTRUST NO ONE政府の陰謀.comでは、致し方ない気もしますが」


「詳しいな」


「弊社には元ミスリルの社員が事欠きませんので。ランチタイムに小耳に挟みまして」


「まったく機密保持契約はどうなってるんだ・・・・・・ところで、あのサイトってまだやっているのか?」


「はい。“アルゼンチンで余生を過ごすヒトラーを激写!!”のすぐ真下に、“南米ベリーズで蠢く、謎の傭兵部隊の影!!”との記事名で絶賛、掲載中です」


「よりにもよって、どうしてそんなとこに持ち込んだ・・・・・・」


「ですが記事の内容はすべて正確でしたよ?」


「他が胡散臭すぎて霞んでいるじゃないか。それでは、せっかくの真実もまるで意味がないな」


「確かに。ヒトラーはアルゼンチンではなく、ペルー在住ですし」


「・・・・・・今なんて?」


おやまあウフタ、今のはCIA中南米部門だけが抱える機密情報なので、お忘れください」


「あのデータを削除するため、私がどれだけ危ない橋を渡ったと思ってる!!」


 たまりかねて口を挟んだわたしを、丸顔の男が呆れたように見つめてきた。


「あんた、本当にカールがいう通りの性格だな」


「カール? カール=テスタロッサ中佐のことか?」


 するとボーダ元提督は頷きを返してくる。


「そうとも、あんたの試験官のな」


「・・・・・・試験官、なんの話だ」


「当時、つまりはあんたとカールが出会った頃の話だがね。あの当時のミスリルはまだ発足して間もなく、著しく人材が欠いていたんだ。

 とりわけ組織の片翼を担う予定だった情報部のトップの座が空位のままでね、我々はその選定に追われていたのさ」


  私は、カール=テスタロッサと初めて出会ったときのことを思い出していた。


 大学での講演での折り、積極的に、それも的確な質問を何度も私に投げかけてきたことで強く印象に残っていた精悍な印象の男は、食事でもしながら話しませんかと、講演後に私へそう提案してきたのだった。


 あれが、彼個人の意思によるものではなかったというのか?


「まったくバタフライ・エフェクトと称すべきかな・・・・・・もしあんたがカールの面接に落とされてなければ、あるいは、こんな事態には陥らなかったのかもしれん。

 人生というのはほとほと皮肉に満ちている」


「・・・・・・一体どういうことなんだ」


「だから面接だと言っているだろう、次期情報部長のな。

 履歴書だけでは人間性までは測れない、それは今も昔もおなじことだ。そこでカールに頼んで、白羽の矢を立てた幾人かと接触して、その器量を推し量ってもらうことにしたのさ。

 あいつは昔から人を見る目があったからな」


 互いの胸の内をさらけ出しあった、あの懐かしきポーツマスの夜。あれは、単なる面接に過ぎなかったというのか?


「待て・・・・・・では」


「カールのあんたへの評価はこうだ。有能ではあるものの自意識過剰で、理論家の傾向が強く、何よりもスタンドプレーヤー。

 そこまで言われたら、とてもじゃないが一部門の長を任せたりはできないわな・・・・・・ま、その代わりに選ばれたのがアミットのクソ野郎だった訳だから、誰がやってもあまり結果は変わらなかったかもしれんがね」


「・・・・・・彼が、そんなことを?」


「ああ。あいつに似つかわしくない大した酷評ぶりだが、それはあくまでミスリルの人間としてやっていけるかという評価であって、あんた個人のものじゃないという点だけは、この場を借りて断っておこう。

 良い友人になれるかもしれないとは言っていたよ? そのあとに良き同僚には決してなれないと、らしくもなく釘を刺してはいたがね。

 テレサから聞いたあんたのご乱行ぶりが真実なら、やはりカールの見立ては間違ってなかったということなんだろうがなあ」


 ボーダ元提督の顔つきが変わった。間抜けなリタイア組の老人から、かつて世界の第一線で活動していたやり手の物へと。


「テレサによれば、ここであんたは、随分と反吐が出るような悪行を働いてきたそうじゃないか?」


「・・・・・・ジェローム=ボーダ元提督。あなたも私とおなじく、星条旗に忠誠を誓った身であるはずだ」


「そうだな」


「私が行ったこの計画オペレーションのお陰で、どれほどのアメリカ人の命が救われてきたことか。それを知れば・・・・・・必ずや思い知るだろう。そして考えを改める。

 短絡的な正義に酔うんじゃない、私は百手先を読んでいるのだ」


「いや、分かってないのはあんたの方だ、Mr.CIA。

 私が誓ったのは自由と平等を尊ぶ、アメリカの理想を守るというパートだけでね。もしとうのアメリカ政府がその自由と平等を脅かすというのであれば、堂々と反対意見を表明させてもらうし、必要であれば銃だって手に取るさ。それが私という男であり、独立宣言からこのかた、我らが祖国の国是だった訳だからな。

 だが私の信じてる理想はどうも、あんたらCIAカンパニーの独善的な正義とは、相入れないもののようだが」


「・・・・・・理想で国が守れるか」


 吐き捨てるように言う私の言葉に、


「悪行で誇れる国が作れるものか」


 ボーダ元提督は、にっこりと笑いながら応じていった。


 正義の味方はけっして譲らない。この男の目を見たまえ、すでに私の処遇は決定されている。例え家族を人質にされ、その頭に銃を突きつけられようとも、この男はみずからの意思をけっして覆したりはしないだろう。


 血こそ繋がっていないが、なるほど・・・・・・忌々しいほどにMs.テスタロッサは、この男の血脈に属しているらしい。


「私はな、18で脳みその成長が止まった哀れな男なんだ。

 腹も出て、皮膚もシワだらけ、髪まで白くなってきたというのに、極秘の傭兵部隊なんてものを大真面目に運営していた、大人げない正義の味方気取りなんだよ。

 そんな頭のおかしな男としてはだ・・・・・・あの手この手で罪を逃れようとしてるあんたみたいな小悪党には、キチンとお仕置きしないと気が済まないのさ」


 それがボーダ元提督なりの死刑宣告であったらしい。


 もはや私の味方ではないアンサーたちまで、眼光鋭くこちらを見つめてくる。私の肩に触れている背後の女の手、これまで軽い力で抑えつけくるだけだったそれが、抵抗すればいつでも実力行使にでるという意思表示に取って代わられた。


 女がそれとなく、私の耳元に口を寄せてくる。そしてボーダ元提督に聞こえないほどの小声でこう囁きかけてきたのだ。


「・・・・・・ご安心を。後の処理はわれわれ9姉妹ナイン・シスターズが滞りなく行いますゆえ」


 私にはまだ選択肢があった。


 このまるで同じ顔をした女ども、奴らが私の計画にどのような役割を果たしてきたのか、目の前にいる正義の味方気取りに詳らかに教えてやればいい。そうすれば、一か八かではあろうが、もしかしたら起死回生がなるかもしれない。


 私は冷静に、そうした場合に得られるものと失うもの、その天秤を推し量っていった。


 勝てば前述の通り、すべてを得られるだろう。だが負ければ・・・・・・いや負けずとも、告白の過程で私はあるプライドを永久に失うことになる。


 この女どもの言う通りだ。事の詳細を明かせば、私はある真実を認めることになる。CIAの裏工作のための予算を、麻薬カルテルを経営することによって手に入れる――この偉大なる計画のガイドラインを引いたのは私ではなく、実は“あの女”であったという真実を。


 私は恐るべき強者としてではなく、単なる駒として消費された、哀れな老人として後世に記憶されることになる。それを許容できるのか?


 結局、私は口をつぐんだまま、何も言えずにいた。


 どこにあったか分からない鍵によっていつの間にか手錠が外され、私に立ち上がるよう背後の女が促してきた。どこへ連れて行かれるにせよ・・・・・・そこは、私が望まない場所であることは明らかだった。



 


 


 


【“テッサ”――MSCトラソルテオトル】


『――ジェレミー=ティーチ大統領首席補佐官は、ロシア共和国へと亡命した元CIA局員について、もはやアメリカ政府とはいかなる関係も無いとの声明をふたたび強調しました。

 この亡命には何らの政治的な意図はなく、あくまで個人の意志でなされたとのことです。また同日、CIAも長い沈黙をやぶり声明を発表。当該の局員は10年以上前に懲戒解雇された人物であり、アメリカの安全を揺るがすような、いかなる機密情報も所持してはいないとの見解を明らかにしました。

 この発表の裏には、先ごろ汚職容疑で逮捕されたコロンビア在住のDEA高級幹部の事件など、相次ぐスキャンダルを緩和したいというホワイトハウス側の思惑も絡んでいるようです』


 丸ーい船窓の外には、どこまでも青い空が広がっていました。


 コロンビアの古い言い伝えにいわく、あまりに美しい景観と帳尻を合わせるために神様は、この土地に厳しい試練をお与えになられたのだとか。


 頷けるところがあるような、ちょっと自虐が過ぎるような、そんな言い伝えですけど・・・・・・この自然の美しさの部分に関しては、まさに至言であるみたい。


 数多のおぞましい記憶に彩られているこの船の周囲にすら、美しい大河の流れや、色とりどりな野鳥の群れ、どこまでもつづくマングローブ林の向こう側、頭だけを覗かせる深緑色した巨木などなど、息を呑むような景観がうかがえるのですから。


 美しく雄大で――底抜けに残虐。どちらもこの土地の本質なのだと、滞在期間が伸びつつあるわたしは、気がついていました。


 ですがこの光と影。どちらを優先するか決めるのは、結局のところ見る側の気の持ちよう次第なのです。だったら、わたしはポジティブに生きたいとそう思う。


 コンテナ船の上部構造物、その一角に収まる食堂にて。わたしはさっきからニュース番組を垂れ流している、備えつけのテレビの方をちょっと見やりました。


『――またロシア政府は、亡命した元CIA局員が極秘収容施設に収監され、拷問を受けているとの噂を繰りかえし否定。あくまで人道的に扱っていると主張しています。

 しかしながらアムネスティ・インターナショナルが元CIA局員との面会を求めたところ、ロシア政府は当人が望んでいないとしてこれを頑なに拒否。このため、多くの憶測が囁かれています。

 では次に、本日のトップ・ニュースを。

 昨今話題となっている二足歩行する業務用冷蔵庫がこの度、コロンビアのジャングル奥地でカバと戦っているところを現地の農民たちによって目撃されました。

 ブラジルの国際空港から逃げ出したという噂からすでに3週間。まさかのコロンビア入りの報に現地では、巨大ミミズ、チュパカブラにつづく第三の観光資源として、この業務用冷蔵庫に期待する声が高まっているとのことです』


 パチンと、わたしはテレビの電源を落としました。


 ええと、当人といいますか、“本体”は問題ありませんとかのたまってましたけど、本当のほんとうに大丈夫なのかしら? 


 周囲も落ち着いてきたことですし、今のうちにそれとなーくを回収する手筈を整えておかないと、この国に新たな怪談フォークロアが生まれてしまう予感がこうひしひしと・・・・・・。


 あれです、“大アマゾンのジャングル奥地、赤い目の巨人を追え!!”とか、扇情的な見出しで書きたてられてしまいそう。現実になったらどうしましょう。


 ですが私たちにそんな余力があるかといえば、まだ怪しい状態なのも事実なのです。なにせ怪我人まみれですから。


 あれから3週間。一時期の危篤状態が嘘であったかのようにノルさんは、生命の奇跡としか表現しようのない驚異的なスピードで回復しつつありました。


 もうとっくに傷は塞がり、一応は車椅子を使っているものの、あれってば周囲を気遣っての演技なのではないかという疑惑が日々、色濃くなっている始末。


 いえ、気になってわたしも色々と調べてみたんですが、旧日本軍に似たような事例があったようなんです。軍医も首を振ってすぐ死ぬと断言されておきながら、寝てたらなんとなく傷が治ったので戦線復帰してみたとか、そういう怪人じみた人物が実在しているのだとか。


 文章で読むだけでしたら、人体って不思議ですね―と呑気な感想で済むところを、いざ目の前に現物があらわれると・・・・・・もはや戸惑うほかありません。


 この人、手術中に3度も心停止したんですけど・・・・・・包帯まみれの癖して顔色とっても良いですし。むしろ指に固定具、足にはギプスなケティさんの方がよっぽど重症に見えてくる。


 まあ、それをいえばわたしも結構な怪我人ぶりなんですけど。


 ナイフで衛星電話ごと貫かれてしまった手のひらの抜糸まで、この治癒ペースだとまだ当分かかるんだとか。


 やはり傷痕は残ってしまうそうですが、指の腱に支障がないことは確認済み。後遺症といえば、時折りズキズキ痛むぐらいかしら。実のところこの傷よりもわたしがショックだったのは、応急処置に使ってしまったお気に入りのリボンの方でした。


 ええ、なにせ血塗れでしたからねえ・・・・・・あれを乾かして使うほど、わたしの肝は太くもなければ、猟奇的でもありません。


 そのため泣く泣く廃棄したのですが、変わってトレードマークたるわたしの三つ編みを留めるのは、ハスミンちゃんから頂いたバンダナでした。


 いかにも南米という感じの柄模様をしたバンダナ。これを使って毎朝、髪を結い上げては、手に清潔な包帯をまき直す。そしてわたしも随分この土地に染まってきましたねえと感慨深げに頷きながら1日を始める。ここ最近では、それがルーティーンになっていました。


 取り留めのないこの話を強引に纏めるなら――合言葉は、まあ何とかなるでしょう。そういう訳です。


 食堂のテーブルには、カロリナちゃんお手製の料理が並べられていました。


 峠は越えたもののまだ問題は山積み。ですがそれは、おいおいでいいでしょう。だって今はお腹空きましたし。


「船の名前、変えてみませんか?」


 12人の子どもたちと、プラスアルファたるわたしたち。


 そんなトラソルテオトルで暮らしてる面々が揃った朝食の席にて、わたしは、ほどよくお皿が空になってきたタイミングを見計らって、そんなささやかな提案をしてみることにしました。


 どこからともなく現れた外国人たるわたしたちに、不信感を抱いている子はまだまだ多い。その溝をどうにか埋めたかったのです。


 この船にはあまりに情念が溜まりすぎている。できるならことならすぐにでもここを出て行きたいのは山々なんですが、子どもたちの大部分はパスポートはおろか、国籍すらあやふやな子たちばかりなのです。


 一足跳びで国外は無理。かといって国内に仮拠点を定めるにしても、なるほどカリ・カルテル本体は無力化したでしょうが、その枝葉たるザスカーの元部下やあの汚職警官たち、あるいはB.S.S.の残党など、わたしたちに恨みを抱いている勢力には事欠かないのです。


 お礼参り、それは大いにありうる可能性なのです。


 心情的には最悪な場所ですけど、この船ってそもそも、長期間に渡って大人数が生活するために設計された外洋船なのです。衣食住はもちろんのこと、海上という地の利もありますし、ノルさんとケティさんが組み上げたセキュリティシステムも稼働中だったりする。


 10の利点があれば、1つの事故物件なんて敵じゃないのです。


 軍人思考にわりと染まりきってるわたしも割りかし平気ですし、子どもたちにしても、死体が現在進行形で置かれているならともかく、ちゃんと片してあるなら気にしないというタイプばかり。


 過酷な過去を生き抜いてきたせいか、こういう死生観が妙なところでドライなんですよねこの子たち。とはいえ、気分良く住めない場所であることも事実。


 ですので、そういったもろもろの事情を勘案してわたしはこう提案したわけです。住む場所を変えられないなら、住んでる場所を変えればいいのです。


 ですけどリフォームまでは手が出せませんから、とりあえずお手軽に名前から。


 実用性は皆無かもしれませんけど、精神的な面では、名前というのはこれでなかなか侮れないものがあるのです。

 

不浄の女神トラソルテオトルというのは、あまり幸先の良い名前じゃありません。変えてみるのも一興だと思うんですけど?」


 カルド・デ・コスティージャ。


 飴色のスープにどんと大きなお肉ですとかジャガイモがごろごろ浮かんでる、コロンビア定番の朝食をわたしは啜りつつ、みなさんの反応を伺ってみました。


 ですがやっぱり全体的に渋い顔。わりと素っ頓狂な提案な気もしますし、致し方ないのかしら・・・・・・そんな空気に風穴を開けて、いの一番に声を上げたのは誰あろう、怖いもの知らずの臆病者として高名なバウティスタくんでした。


「ハッ!! まさに“しほんしゅぎ”に、ど、どど、毒された・・・・・・ぶ、“ぶっしつしゅぎしゃ”が言いそうなことだな!!」


 元左翼ゲリラだけありまして、こうマルクス主義的な言葉回しに長ける――と当人は思い込んでる――バウティスタくんが、とりあえず文句を口にする。


 言葉の内容からして、本当にとりあえず以上の意味はなさそう。わたしは今から、この子が将来モンスタークレーマーに育たないか心配でした。


 ですがネガティブな意見が発せられると、脊髄反射で反応してしまう女の子が実は、この船には乗っていたりするんです。首からロザリオだけでなく、種々雑多な宗教的ネックレスをたくさん下げている宗教少女ベリンダちゃんは、無闇やたらなポジティブ志向なのです。


「それは素晴らしい提案ですわ!! 真の神の栄光を讃える、由緒正しき名前に改名いたしましょうッ!!」 


 出身も違えば、人種も異なる子ばかり。ですから多様性がある意見は結構なんですけども・・・・・・この2人の提案はよく吟味しないと、今以上に危なっかしい船名になりそうでちょっと怖くはある。


 こういう場面ではやはり、まとめ役たるハスミンちゃんだけが頼りでした。


 周囲はスプーンとフォークが標準装備な中、たった1人でお箸派を貫いている片目片足の少女は、カタリとスープ皿のうえに自作のお箸を置いたのです。


「このままでよろしいのですかテッサさん? この場にいる実に半数あまりは、自由と無秩序の違いがわからぬ輩ばかりなのですよ?」


「あいかわらず辛辣ですねぇ・・・・・・でも、そうですね。あまり制約は付けたくありませんけど、最低限のルールは定めておきましょうか。

 過度に政治的、あるいは宗教的な名前は禁止ということで」


 一部からの不満の声を無視しつつ、わたしはテーブルに居並ぶみなさんの顔を見ながら言いました。


「とりあえずみんなで自由に船名候補を出してみて、あとで投票で雌雄を決すというのはどうでしょう?」


 乗り気じゃない子に無理やり押しつけるのもあれですし。しかしながら、スタートは不穏だったものの、思いのほかわたしの投げかけた議題は盛り上がりをみせました。


 みんな娯楽に飢えているというのもあるでしょう。あーでもないこーでもないと、さまざまな名前が食卓にあふれ出てきます。


 やはり優位なのは、アニメのキャラクターとかの引用系ですね。とりあえずバウティスタくんとベリンダちゃんは、当人たちには悪いですけど少数派だったことに密かに胸をなでおろす。


 人種の坩堝であったミスリルで学んだことのひとつ。思想と宗教は、触れるな危険。 


 こうして議論が白熱し出したら、大人であるわたしが口を出すのも野暮というもの。子どもたちの議論は子どもたちだけに任せるとして、わたしは・・・・・・暗い顔をしてスープ皿をつついてるヤンさんへと向き直りました。


「ヤンさんもほら!! 景気のいいネーミングで、その鬱々とした空気を払っちゃいましょうよ!!」


 実のところ、わたしはMr.キャッスルの処遇を最初からジェリーおじさまに押しつける気まんまんでした。


 あの人なら、あの手この手で守られているCIAのエージェントが相手でも、それ相応の罰を与えてくれる手腕がある。動機の面でも大丈夫。そもそもおじさま、大のCIA嫌いですし、元はといえばこの騒動にわたしを巻き込んだ負い目もあるはず。


 その旨、ヤンさんにちゃんと説明するべきだったのですが・・・・・・いかんせん、スタジアム脱出のドタバタ具合いったらありませんでしたから。


 白燐弾の延焼を止めるべく駆けつけた消防隊に見つからぬように隠されていたHDDを回収しつつ車を盗んで、大量出血が止まらないノルさんの応急手当てをしつつ、ついでだからとMr.キャッスルに爆弾ベストを着せようとするケティさんを宥めつつ、お医者様と合流しての手術開始からの助手任命。


 そんなこんなやってる内に、ヤンさんはわたしの気を使ったのでしょう。あとの処理はアメリカの司法機関に勤める自分の問題と、独断でMr.キャッスルに法の裁きを受けさせるべく空港に向かわれてしまったのです。


 奪還目的のカルテルに追われる前に、できるだけ早く連れ出すべき。プロとして正しすぎる判断が、この場合は致命的なミス・コミュニケーションを生んでしまった訳です。


 悲しきすれ違い・・・・・・そう一言で切って捨てるには、ちょっとばかしヤンさんの払った代償は大きすぎました。


 何があったのやら、鬱状態のヤンさんは詳しく説明してくれませんが、どうやらMr.キャッスルの口車に乗る形で、その場の勢いに任せてDEAを退局してしまったらしいのです。


 その結果どうなったかといえば、わりととんでもない額の借金を抱えながら異国の地で無職の身という、筆舌に尽くしがたい窮状に陥ってしまった。


 とりあえずちゃんと食べてはいるみたいですけど、その顔色ときたら死人のように真っ青で、ちょっと頬がこけてたりする。わたしのこの提案って、そんな間の悪すぎる元部下を励ましたいという気持ちもあったのです。


 和気あいあいと騒がしい子どもたち。そんな陽の気を浴びているはずなのにヤンさんときたら、相変わらず生気ゼロな弱々しい微笑みをこちらに向けてくる始末。


「そうですね大佐殿。では・・・・・・“愚か者の末路号”なんてどうでしょうか?」


 やめておけばよかった、これぞ藪蛇というもの。ですが後悔した所でもう遅い。


 笑顔を凍りつかせて固まってしまったわたしは、慌てて左右を眺め、手頃な助け舟に目を留める。味薄めの病人食を啜ってるノルさんに。


「ノルさん!! ノルさんはどうでしょう?! 何か人生をポジティブに捉え直せるような、ステキなネーミングを思いつきません!?」


 我ながら上擦りしすぎな声に、ヤンさんからの地の底から響くような低音が被せられていく。


「いいかい子どもたち、仕事は大切にね? 一時の感情で調子こいたら取り返しがつかないからね? お兄さんとの約束だぁ・・・・・・」

 

 と、当面の間は、ヤンさんにお話を振るのはやめときましょう・・・・・・時にはそっとして置くのが一番、心の中でそう決める。


 ここ3週間でノルさんについて学んだことがあります。重度の女装癖、わりとスモーカー、ちょっと親しげに接するとすぐ皮肉で人を遠ざけたがる。そういった込み入った性格の根っこは実は、ひどく真面目であるということを。


 こう見えて、万事に真面目なのですこの人は。問題が起これば、当人なりに全力で対処法を考え、すべてを自分1人で抱えこんでしまう。


 ですからわたしの船名を変えましょうという話題に乗り気じゃなさそうな表情でしたが、こっちが尋ねればしっかり考え、ちゃんと答えてくれる。それがノルさんという人物の人となりなのでした。


「じゃあタイタニック」


 真面目に考えたとしても、答えまで真面目になるとは限らないのが困った所なのですが。いえ分かってはいるのです、当人はしごく大真面目ではあると。


 眉を寄せるわたしの表情に、男の子モードなノルさんが怪訝な顔する。


「なんでだ? 歴史的な豪華客船の名前だぞ」


「そこにケチはつけませんけど・・・・・・どういう風に歴史に名を刻まれたのか知っているのなら、絶対に出てこない発想だと思うんですけども」


「ちゃんと知ってる。氷山にぶつかってディカプリオが死んだ船だ」


「映画と現実をごっちゃしないでください!!」


「じゃあ、ディカプリオ死んでないのか?」


「それは・・・・・・当然ですよ!!」


「だが4月の大西洋といえば零下2度の超低温なんだぞ? あんな水温じゃ、どんなに頑強な奴でもせいぜい30分たらずで低体温症になって死に至る。それを生き延びるなんて、ディカプリオは大した奴だな」


「・・・・・・これでわざとじゃないから、なおさら質悪いんですよね」


「?」


 歴史と映画、ぜんぶごっちゃにして語ってるせいで、おかしなことになってました。


 でも、彼の感覚としてはありうることなのかしら。あるいはこれもまたカルチャーギャップの一例なのかもしれません。


 だってこのおとぎの国は、水牛に乗ったおまわりさんが道を行き交い、その横を全世界の生産台数がわずか数百台とかの希少なランボルギーニが走り抜け、名物司会者がスクープ欲しさに自らが指揮する犯罪組織に殺人を命じるような場所なのです。


 こういう場所で育つと、映画と現実を混同しても致し方ないのかしら。


 これ、いくらなんでも馬鹿にしすぎかもしれませんけど、上記の出来事をニュースや自分の目で目撃した身としましては、十分にありうる気がしてならないのです。

 

「ところでテッサ、そろそろウィッグぐらい返してくれてもいいと思うんだが。あれがないとどうにも落ち着かなくて困る」


「・・・・・・ノルさん、自分は男性の体に生まれてしまった女性ですとか、そういう感覚の差異みたいなもの、感じたことあります?」


「だから何度も言ったろう。俺は性同一なんちゃらじゃなくて、単なる性的倒錯者だって」


 真顔で言うことがそれですか。


「ノルさんって話せば話すほど、ただの変な人ではないかという疑惑がこう、にょきにょきと湧き出てきますよね?」


「閃いた。“ディカプリオ、お前その板の大きさなら2人で十分に乗れただろう号”はどうだ」


「確信犯はそこで、味気のない病人食でもモソモソ食べてなさい!!」


 するとスプーンでコップをたたく音がわたしの耳に届きました。


 これでコップがガラス製でしたら、いかにも上流階級ーなんてハイソな音色になったんでしょうけど、ケティさんが注意をひくために叩いたコップはあいにくと鉄製なのでした。とてもうるさい。


 ぶっちゃけ、わたしはケティさんから蛇蝎のように嫌われてました。


 他の子どもたちとは、それなりに仲良くしてるわたしですが、ケティさんからは明確に敵認定されている。いえ・・・・・・どうして? なんて口が裂けても言えないのは分かってるんですけどね?


 なにせ悪辣な誘拐犯たちから逃げるためとはいえ、彼女の目にスプレーしたのわたしなんですから。


 それ以外にも、ずっと自分たちだけのお城だったのに、我が物顔で乗り込んできて仕切りだしたわたしが気に食わないというのもあるでしょう。わたしを見つめる鋭い眼差しには、不満の色もちょっと混じってました。


 仲良くしたくは、あるんですよ?


 ですけど、あの反骨心の塊みたいな子に優しく接したところで逆効果なのは明白・・・・・・では逆に効果的な策って何と問われると、途端に言葉に詰まってしまうのが今の現状。


 あれです、思春期の娘を抱えてる父親の気分。わたしまだハタチなんですけどねえ・・・・・・ある日突然、10人以上の子持ちになってしまったがゆえの苦労と、割り切る他ないのかしら。


「えっ、えーと、な、何か提案があるんですかケティさん?」


 切れの悪いそんな問いかけも、致し方ない気がする。だって彼女の口から良い感じの船名が提示される未来なんて、まるでイメージできませんもの。


 愛用のスケッチボードを掲げてケティさんは、書き書きの書き。とりあえず手話の分からないわたしに配慮してくれてはいるみたいですが・・・・・・どうやら書き終わったらしく、どことなくドヤ顔しながらばんとケティさんは、スケッチボードを掲げられました。


 その文面をわたしは、声に出して読んでいく。


「USSエンタープライズ・・・・・・」


 わりと普通でしたけど・・・・・・この船名、あまりに人気すぎて元ネタがちょっと判然としない。


「あのケティさん? これって米軍伝統の空母の名前かしら? それとも、銀河という名の海を勇敢に航海していく方なのかしら?」


 他にもスペースシャトルにもありましたね、エンタープライズ。アメリカ国籍を持つ者として、もっと命名にバリエーションがあっても良いのではないかと、この場を借りて政府に苦言を呈しておきましょうか。


 もっとこう、北欧神話から取ってくるとかカッコいいと思うんですけど。

 

「それにですねケティさん。あまり重箱の隅を突きたくはないんですが、USSというのは米軍の艦艇にだけつけられる艦船接頭辞でして。

 仮にもパナマ船籍のコンテナ船には、ちょっと付けられないと思うんですけど・・・・・・」


 恐る恐る、顔色を伺うように尋ねてみる。そしたら、あっさり別の提案がスケッチボードに書き記されていきました。


[じゃ、USSRで]


 アメリカUSSからまさかのソヴィエト連邦USSRとは、一文字違いでなにもかも変わる西から東への大躍進・・・・・・言語とはなんとも奥深いものですね。


「あ、あの、それはちょっと・・・・・・」


 するとケティさんは、そうそれが目的だったのだよとでも言いたげに、悪の黒幕よろしくニンマリと口の端を上げていきました。


[そんなの、アタシが気にするとでも?]


 提示されたスケッチボードの文面についつい頭を抱えてしまう。人間関係って難しいのです。


 どうしたものかしらと、わたしは味付け薄めなスープを無感動に啜っているノルさんにひそひそ聞いてみました。だって、ケティさんと付き合いが一番深いのってノルさんでしたから。


 ケティさんは声こそ聞こえませんが“読め”はする。そのため手のひらで口元隠しながら耳打ちしていく。


「あの、ケティさんと仲良くする秘訣とかご存知じゃありません?」


 しばし食事の手を止め、ノルさんが答えてくれました。


「そうだな。時速80km以下になると爆発する車を運転しながら、片手で爆弾を解除したりすると、ちょっとは言うことを聞くようになる」


「あの、そのシチュエーションに至るまでが謎すぎるんですが」


「まだ爆死してないということは、そこまで嫌われてない証拠だ。本気で嫌ってる相手にはむしろ笑顔で近づいていって、おもむろに爆殺するのがアイツの常套手段だからな」


 喜んでいいのかしら、それってば。


「ただし気まぐれな実験には気をつけろ。5秒目を離せば、あらゆる日用品に爆薬を仕込みかねない」


 ・・・・・・子どもゆえの適応力もあるのでしょうが、この船の子たちときたら、ほぼ全員が英語とスペイン語の2カ国語話者だったりするのです。


 ですが、それだけではありません。なんとそこから更に手話まで習得してる子までも、ちらほら見受けられるのです。


 色々な国の言語を話せるマルチリンガルなわたしですが、流石に手話は守備範囲外ですし、勝手もだいぶ異なる。というわけで、わたしは手話が使えるメンバーの1人であるカロリナちゃんに尋ねてみたことがあるのです。秘訣みたいなものはあるのかしら、と。


 すると少女はこう答えたのです。


“これは爆弾ですか? って尋ねられないと、この船では生きていけませんから・・・・・・”


 いつものはにかみ笑いはどこへやら。どこか暗いものを笑顔に差し挟みながらカロリナちゃんは、秘訣は生きるか死ぬかの状況に身を置くことだと、わたしに説いたのでした。


 こちらはただ仲良くしたいだけなのに、有識者の意見すらこの始末。ほんともうどうしたものかしら・・・・・・。


 うんうん唸って悩んでますと、その息が耳にかかったのかノルさんが、


「・・・・・・耳元こそばゆい」


 なんて抗議の声を上げました。


「あっ、すみません」

 

 慌てて彼の耳元から顔を離してみれば、わたしの横目にはどうしてか歯軋りしてるケティさんの姿が映る。


 それはまあ、スプレーは酷かったかもしれませんけど・・・・・・なぜ、そこまで?


「ちょっとよろしいでしょうか?」


 すると、これまで周りの議論を静観してきた、背丈も歳もわたしの半分ほどしかない片目片足の女の子が話しかけてきたのです。


「ぶっちゃけ、このままゲテモノじみた船名になってもよろしいんですか、テレサさん的には」


 ゲテモノって・・・・・・。


「ええまあ、別に公的に登録された船名まで弄ろうとかは考えてませんし。あくまで精神的なもの、士気が上がるならどんな名前でも歓迎するつもりです」


「愚か者の末路号でも?」


「士気が上がるならって、わたし言いましたよね」


 不可思議童女ことマリアちゃんの汚れた口元を拭いつつ、どこか意味深な目つきをするハスミンちゃん。


「テレサさんご自身には、船名のアイデアはお有りではないのですか?」


「わたしですか」


 ちょっとトボけた風に答えてみましたが、即座に直感する。これはバレてそう。


「おありでしょう?」


 最初は疑問形だったのにもう断定口調に変わってる・・・・・・いえ本当にもう、この子の察しの良さはもう怖いレベルに達してる。


 ええそうです。広く提案を募って、民主主義的に船名を決めましょうというわたしの発言は正真正銘の本音なのですが、心の内ではすでにこれぞ、という名前をすでに決めていたりする。


 すくなくとも、わたしは胸を張ってこの船名を皆さんに提案するつもりでしたし、その意志は覆りそうもありません。


 だって、わたしにとって大切な名前でしたから。


 かつてメリダ島と呼ばれていた地の水底に眠る、わたしの自慢の愛しい我が子。もし機会があれば、もっと平和で穏やかな役割のために生まれ変わらせてあげたいなと、ぼんやり心の片隅で考えていた。


 そんな名前をわたしは口に出していきました。


「ふふ、わたしの提案はですね?」


 そう、その名は――





✳︎ 





「というわけで、不肖このハスミンめが発表させていただきます。

 以後この船は、MSCトラソルテオトルあらため――MSCUSSRタイタプライズ・ディカプリオ・2人で乗れただろう・愚か者の末路号となりました。

 さあ、拍手を・・・・・・どうしたのですか皆さん。わたしは拍手しろと、そう言ってるのですよ?」 


 食堂からところ変わって、上部構造物から外に張り出している階段の踊り場にて。わたしたち14人は、揃ってブリッジの外壁を見つめてました。


 船のそこかしこに書かれている船名すべてを書き換えるのは、やはり無理がありました。どのみちトラソルテオトルという登録名まで変えるつもりはありませんし、象徴的な意味で、いっとう目立つブリッジの外壁部分だけを変えることにしたのです。


 そういった主旨のもとここに集った訳なのですが・・・・・・この三点リーダーから察して頂きたい、除幕式に横たわる微妙な空気。


 手先の器用さでは他の追随を許さないケティさんは、さすがの達筆ぶりを発揮してくれていました。


 脚立に登りながらペイントブラシを器用に操り、鮮やかにトラソルテオトル改め、えー、あの珍妙な名を外壁に塗りたくっていくケティさん。まるでパソコンで出力したみたいな整った文字で、この点に関しては文句のつけようもありません。


 そうです、問題はその奇天烈にすぎる船名だけなのです。


 やる気のないまばらな拍手の音を聞きながら、わたしは呆然と立ち尽くしてました。


「あ、あの、ハスミンちゃん? トゥアハー・デ・ダナン2世号という素敵な名前は、どこへ消えてしまったのかしら?」


 ついついどもってしまう。


 だって、だって・・・・・・いくらなんでもこれはないでしょう?! 負けたんですか!! わたしのトゥアハー・デ・ダナンが!?


 動揺のあまり全身が震えてるわたしに向けて、無感動なハスミンちゃんの眼差しが突き刺さる。片目片足の少女は松葉杖に体重を預けつつ、手にしたメモの内容を淡々と読み上げていきました。

 

「トゥアハー・デ・ダナン2世号なる珍奇な名前について寄せられたコメントは、以下の通り。

 “舌を噛みそう”、“長すぎて覚えられない”、“僕なんて消えてしまえばいいのに”の他、“あの女の提案なら却下だぜ”とのコメントが、ほぼ同文のものと合わせて2通も来てますね」


「あのハスミンちゃん? ケティさんとコメントが被ったのどなたかなのか、あとでこっそり教えてくれません? いえべつに、何をするつもりもないんですけども!!」


「お答えできません、匿名投票ですから」


「・・・・・・わ、分かりました。と、投票の結果なら仕方ありませんね・・・・・・ですが、だったらこの名前はなんなんですか!? どうしたらこんなキメラじみたごった煮感あふれる名前になるんですか!!」


「ですから投票の結果です。みなが自分で自分の提案に1票ずつ投じた結果、過度に政治的、あるいは宗教的な名前はNGとのレギュレーションに反しなかった船名だけが残ったのです」


 どこから来るのかしら、その己への過度な自信は。薄々感じてましたけど、この船の子どもたちってみんな良い性格をしてる気が・・・・・・。


「船名を提案しなかった面子は、のちのち提案者たちに絡まれることを恐れ、提案された船名に1票ずつ票を投じていった・・・・・・この事実、ハスミンは生涯胸にしまっておく所存です」


「これは、突っ込んだら負けのパターンですよね?」


 ルールをもっとちゃんと詰めておくべきでした。


「いかんせん、同点だった場合にどうすべきかルールが制定されておらず、ジャッジを任されたハスミンの独自の判断のもと、ぜんぶ繋げるという方向で調整させてもらいました。これぞ平等」


 平等な筈なのにひどく歪んでいる。これだけで論文の1本ぐらい書き上げられそう。ですが今は、社会論に思いを馳せても仕方がありません。


 だってこの船名、とってもイヤですもの。


「・・・・・・そ、それなら、トゥアハー・デ・ダナンって名前だって、ちょっとぐらい使ってくれたって・・・・・・」


 ゴニョゴニョつぶやくわたしに、ハスミンちゃんの眼差しはさらに鋭く細まっていく。


「おやさんどうしましたか? 偽りの民主主義で皆を踊らせ、さも多数決で決めたかのように状況を演出したかったのだが、思いがけない展開によってそれが叶わなかった・・・・・・そんな策士策に溺れるような顔をして」


 いえ、そこまで悪し様に言われるようなことやらかしたつもりはないんですが。でも事実無根かといえばつい口ごもってしまう、そんなご指摘でした。


 だって常識的に考えて、トゥアハー・デ・ダナンの名前を選ぶか、はたまたMSCUSSRタイタプライズ・ディカプリオ・二人で乗れただろう・愚か者の末路号のどちらが良いですかって聞かれたら、普通は前者を選ぶものでしょう?


 ですが後者が選ばれたという現実が、目の前に白ペンキ色して横たわっていたりする。


「そ、そんなこと、ちっとも考えてませんでした・・・・・・よ?」


 圧力に屈して、つい口ごもってしまう。それと人の名前、また間違えてますよこの子。そう、おそらくは意図的に。


「テッサって、わりと良い性格してるよな」


 そんなコメントを発したのは、白けた顔をしながら車椅子に腰掛けてるノルさんでした。


「わ、わたしがトゥアハー・デ・ダナンという名前を内心でプッシュしていたという事実は認めましょうとも!! 

 ですが!! その動機はとってもピュアなものだったんですっ!! 良かれと思ってたんですっ!!

 現にこうして、ちゃんと投票の結果を厳粛に受け止めてるでしょう?!」


「受け止めてる奴は、そんなウダウダ言わない」


「そうですけど、そうですけども!!・・・・・・だって、いくらなんでも、この名前はないでしょう!?」


 これでデ・ダナンよりもっとカッコイイ名前でしたら、諦めもつくというものです。


 しかしトゥアハー・デ・ダナンの名に寄せられた苦情の実に半分あまりが、“舌を噛みそう”ですとか、“覚えられない”であったことを鑑みれば、この船名って最悪じゃありませんか!?


 いちいちこう言うんですか? MSCUSSRタイタプライズ・ディカプリオ・二人で乗れただろう・愚か者の末路号って? 


 略称で呼ぼうにも、どこでどう言葉を切り取るべきかすら見当もつきません。


「トゥアハー・デ・ダナンという名前が長ったらしいという指摘は、納得がいくものです。でしたらデ・ダナンですとか、単にダナンとか・・・・・・TDD2という略称だって・・・・・・ぅぅ」


 いいじゃないですか、デ・ダナン、格好いい名前ですよ・・・・・・西太平洋戦隊のみんなだって、誰1人として不満の声を上げたりしませんでしたし・・・・・・い、嫌っ、涙が・・・・・・一粒二粒とこぼれ落ちてきて・・・・・・ヤンさんに至っては全採用なのに!!


 尻すぼみに消えていくわたしの言葉に、もはや耳を傾けている者はほとんどおりませんでした。


「マリア、テレビ見てえです?」


 自分の欲望に正直なマリアちゃんがそう無慈悲に言い放つと、開幕からずっとつづいていた気まずげな空気もあいまって、急速に解散ムードが場に漂いはじめる。


 わたしは知っていました。これ、有耶無耶のうちに今後もトラソルテオトルと呼ばれる流れであると。


 古今東西、子どもというの一ヶ所にじっとしていられない生命体です。それはこの船の子どもたちとて例外ではないようでして、彼、彼女らはあっさりと、三々五々に散っていく。


 残ったのは企画倒れという、どうしようもない後味の悪さのみでした。


 追い討ちをかけるようにどうもこの新しい船名、速乾性じゃなくただのペンキで書かれているようでして、重力に従って少しずつ、滴のように塗料がこぼれ落ちてきます。


 まだ書いてまだほんの数分足らずなのに、すでに雨で錆びついた10年ものの看板よろしくの風格をゲットしてました。こうなるともはや、自分でも何がやりたかったのか分からなくなってきます。


 最初は、新参者としてみんなに受け入れてもらうべく、ちょっとしたレクリエーションを・・・・・・なんて考えだった気がします。


 ついでに心機一転、新たな人生をはじめるためのささやかな宣言も兼ねていた儀式。そんなプランであったはずなのに、どこでどう間違ってしまったのか。


 やれやれだぜと全身で表現しているケティさんは、ちゃっちゃと脚立を折りたたんで肩へと担ぎ、もう戻る気まんまんでした。


 そのさっさと階段に向けられた少女の足を止めたのは、顔面タトゥーの少女の後頭部でコツンとはね返る、小さなネジでした。


 胡乱げな目つきで振り返ってきたケティさんは、手招きしているノルさんにすぐ気がついたみたい。


 しばしつづく手話の応酬。


 ケティさんはいつものように不満げでしたが、それでも脚立はじめの荷物を置いて、ブリッジの中へと消えていく。どうも帰る気ではないみたい。


「あの」


 言葉が分からないというのは、わたしの人生経験からするととてもめずらしい状況でして、戸惑い混じりにノルさんに何を話していたのか訪ねようとする。


 ですが機先を制されてしまいました。


「そもそも“あの船”だとか、まともに名前で呼ばれてことなんて一度もない船の名前を今さら変えようなんて、その発想自体が間違いだ」


「・・・・・・そういうダメ出し、やらかしちゃった後に言いだしても感じ悪いだけですよノルさん」


 せめて、タイタニックとか言い出すまえに教えて頂きたかった。


 ついつい拗ねた口調になってしまったわたしの事なんてどこ吹く風で、ノルさんは呆れ顔を隠さない。


「こういうのは、外堀を埋めて既成事実化するのが一番なんだ。そうすればタイタなんちゃらよりは定着しやすいだろう」


 ノルさんが顎をしゃくった方向を目で追ってみれば、ブリッジの外壁に違和感を見つけました。


 そういえば壁の一角の色合いが、他と異なっています。ドーナッツ状の痕跡、あれは日焼けを免れたせいかしら? その予想はどうやら大当たりだったらしく、ブリッジに消えていたケティさんが中から浮き輪を持って出てきました。


 いつの間に依頼していたのやら。その浮き輪にはまたしてもケティさんらしい達筆で、新たな船名が書かれていたのです。ただしその名は、先ほどの長ったらしく、そして珍妙なものとはまるで異なってました。


 Tuatha de Danaan Ⅱ。


「隙あらば、この船名を繰り返すのが吉だ。そうすれば番組の間に挟まれる性悪CMよろしく、まるで興味がないのに名前だけは頭にこびりつくようになる」


 何かと人の世話を焼きたがる癖して、俺は悪党だからとその功を絶対に誇らないノルさんのこと。“それって、いつもの羞恥心の裏返しですか?”なんて、ついつい聞きたくなってしまう


 ですがこんな小粋な演出に向かってそんな皮肉で返しては、失礼千万というもの。ですから素直に、


「ありがとうございます」


 と、ただ正直にわたしはお礼を述べることにしました。


 感動と羞恥が入り混じり、彼の方を見るのも普段より遅れてしまう。覚悟を決めてその顔をいざ見てみれば、ノルさんはどうしてかそっぽを向いて、おもむろに頬杖をついている。


 この顔のそむけ具合からして、振り向かせない方がお互いのためな気がします。


「・・・・・・しかし覚えづらい名前だな」


 露骨な話題転換に、わたしはちょっと微笑みながら応じていきました。


「デ・ダナンですとか、単にダナンでも結構ですよ? 以前だって、みんなわざわざフルネームで呼んでたりしてませんでしたから」


「そっちの方がなんぼかマシだな・・・・・・で、これからどうするんだ?」


「とりあえず朝食のお皿洗いかしら」


「・・・・・・そうじゃなくて」


「分かってますよ」


 わたしだってたまにはボケに回りたくなるんです。


「カリ・カルテルの解体に関してはAI任せ、あれってネット経由で世界中のどこからでもリモート操作可能なので、実はもうここに留まる理由ってなかったりするんですよね」


「何か、南米を離れたがってるような口ぶりだな」


「ぶっちゃけ治安がよろしくありませんから」


 より正確には、カルテルとCIAの庭から一刻も早く離れたいというのが本音です。子どもたちの身分問題がありますからすぐには無理でも、できるだけ早く移動したい。


 ノルさんが呆れた口調で言いました。


「ホントにぶっちゃけるな」


「カルテルはまだしも、CIAが事態を収拾すべく実力行使に打って出てくる可能性はまだ十分にありますからね。

 ただ南米における彼らの秘密工作コバート・オペレーションって、かなりカリ・カルテルの存在に依存してたみたいなんです」


「というか、俺たち兄弟カルナルにじゃないのか?」


「ええ・・・・・・まあ、そうなりますね。ですからノルさんが離反した時点で、CIAが自由に使える戦力はコロンビア国内はもとより、南米には存在していないんですよ。

 CIAは特別行動部SAD、ようは自前の戦力こそ有してますけど、一部門の独断で展開できるたぐいの部隊じゃないんです。あれを動かすためには、法的な正当性が必要になります。

 違法も違法な人体実験の痕跡を消すべく、大統領令で禁じられている暗殺を含む秘密工作をこの土地でやらかせるかといえば・・・・・・まあ、不可能でしょうねえ」


「それ、実力行使うんぬんの発言と矛盾してないか」


「そこはそれ、蛇の道は蛇というやつです。

 カリ・カルテルが本国に送金していた秘密資産はまだ幾らか残ってるでしょうし、そのお金で傭兵を雇うとかは十分に可能でしょう。

 もっとも、その傭兵部隊がコロンビア国内を大手を振って動くには、かなりの横車が必要になるでしょうけど」


 ミスリルの真骨頂って、実はハイテク兵器よりこういう政府の内諾を得られる政治力だったりするんです。政治的な協力がなければ、いかにミスリルとはいえ完全に痕跡を消すのは不可能だったでしょうから。


「カリ・カルテルの組織力があればその下準備もできたでしょうが・・・・・・それが今なぜ出来ないかについては、ノルさんもご承知の通りです。

 とはいえ潜在的なリスクは潜んでます。ですから将来的には、みんなでアメリカに渡りたいんです」


「CIAのお膝元にか?」


「あら? CIAが活動を許されない世界で唯一の場所って、アメリカ本土だけなんですよ? むしろ一番安全な場所ですよ。

 “クレイドル”のデータを更に発掘して、CIAがこの犯罪に関与していた証拠を見つけ出したら、後はそれをネタにしていよいよMr.キャッスルの共犯者を脅迫してやるつもりです。

 亡命者にビザを手配しだしてもう半世紀。CIAからしたら12人分の身分と生活費を提供するなんて、安い取り引きでしょうから」


「何度聞いても無茶苦茶だな」


「わたしにとっても土地勘のある場所ですし、教育機関とかも充実してますから、住むのはニューヨークが適当だと思うんですけど」


「ここまで来たらどこでも好きに選んでくれればいいが、まあCIAは居ないかもしれないが、代わりにニューヨークにはカリ・カルテルがいるじゃないか。

 メデジンはマイアミ、カリはニューヨーク。この協定はエスコバルの死で崩れ去ってはいるが、ニューヨークが古くからカリのシマであることは変わらない」


「あっ、それですけど、ノルさんが知ってるカルテルの拠点の住所、後で教えてください。“クレイドル”のデータから大体のアジトの位置は判明してるんですけど、漏れがあると大変ですから。

 そしたらアメリカに居る友人経由でFBIに連絡してもらって、一斉摘発に持ち込んでもらう予定です」


「テッサ」


「はい」


「お前、ホント怖い女だな」


 あらぬ疑惑と否定したいところですが、昔は巡航ミサイルをたくさん積んだ潜水艦を小粋に乗り回し、今や麻薬カルテルを背負って立つ身。言葉がつかえて、上手い言い訳も思い浮かばない。


「DEAだけでなく、FBIにまで知り合いがいるのか?」


「ですから友人の知り合いですって。わたし、実はニューヨークでホームシェアしてまして、そこの家主の――」


「メリッサとかいう奴か」


「・・・・・・わたし、お話してましたっけ?」


 記憶力はある方だと自負してますが、話したかどうかまるで思い出せません。


「テレサ=を尋問した時、そんなこと言ってたろう」


「あっ!! あぁ・・・・・・よく覚えてましたね?」


「仕事が終わると、上に必ず報告書を提出させられてたからな。そこで見聞きしたこと、特に人名は組織の役に立つとかで、徹底的に覚えるよう訓練されたんだ」


 なるほど、肯ける話です。


 年々、情報の重要性は増しています。今や軍隊と情報収集って、切っても切れない間柄ですし、犯罪組織にとっても似たようなものなんでしょう。


 カリ・カルテルを経営し出して気づいたこと、軍隊と犯罪組織の経営は、そこそこ類似点が多い。


「といいますか、ノルさん。ヤンさんがDEAに勤めていたという話も、実はそのメリッサから聞いた話なんです。

 もう長い付き合いですけど、彼女の交友関係ってそれはもう不可思議なほどどこまでも広く、そしてとっても深いものでして・・・・・・」


「ん? どうした?」


 さっきまで自信たっぷりに話していた癖して、急に言葉を切って顔を青ざめさせるわたしに、ノルさんが不思議そうに問いかける。


「あっ、いえ・・・・・・なんでもありません」


 ええ、そうですとも、きっと大丈夫。


 スタジアム以後のゴタゴタでついつい連絡するのど忘れしてましたけど、メリッサのことです。きっと超能力的な察しの良さでわたしの無事を知って、ニューヨークのアパートでどんと構えているに違いないのです。


 ええ、ええ、大丈夫ですって――。


「1人でパナマ侵攻の再現をしようとか、いくらメリッサでもそこまでは・・・・・・」


「さっきから何ぶつぶつ言ってるんだ?」


 カロリナちゃんには申し訳ないですけど、お皿洗いの手伝いはまた今度になりそう。今は可及的速やかに、メリッサに電話して謝り倒すしかない。


 想像しただけで胃がキリキリ痛む・・・・・・3週間の行方不明は、友情にヒビを入れるには十分すぎる大事件ですもの。


「ところでテッサ」


「あ、あのノルさん、実は急用を思い出しまして・・・・・・できれば、急ぎじゃないお話は後回しにして欲しいんですけど」


「どうしてもニューヨークじゃないとダメか?」


「それってもしや、個人的に他に住みたいところがあるとか? そういう事ならお手伝いしますけど」


「いや特に希望はない。そうじゃなくて、ニューヨークにはカルテル以外にも犯罪組織がひしめいてるだろ?」


「・・・・・・何やらかしたんですかあなた」


 どこか不穏な雲行きに、ちょっと問い詰めるような口調になってしまう。


 すると普段は不遜なノルさんが、どこか気まずげに切り出しました。


「いや、モンドラゴンがニューヨークに進出するために採算度外視な大口取り引きをイタリアン・マフィアに持ちかけたとかで、ちょっとその取り引き現場の襲撃をな・・・・・・」


「あなたマフィアに喧嘩を売ったんですか!!」


「違う、マフィア喧嘩を売った」


 どういうことかしら? いえ、大まかに察してしまえるのが悲しいんですが・・・・・・先を聞くのが怖くてなりません。


「取り引き現場には、というか、あれって実態は入札かなんかだったらしくてな。なんとモンドラゴンだけでなくイタリアン・マフィアだけでも5大ファミリーが勢揃いしてたんだ。

 他にもアイルランド系や中国系の組織、バイカーギャングやアーリアン・ブラザーフッド、変わったところでは日本のヤクザの姿もチラホラと――」


「あなた何個の組織に喧嘩を売ったんですか!!」


「もしかしたら何だがな・・・・・・ニューヨーク中の犯罪組織に俺は、チャイナドレス姿の殺人鬼として指名手配されてるかもしれない」


 い、一難去って、また一難ですか・・・・・・やっとカルテルの問題が片付いたとばかり思っていたのに!!


 頭痛を堪えながら必死に頭を働かせていると、ノルさんの言葉に引っ掛かりを感じました。


「ノルさん、チャイナドレス姿の殺人鬼として名指しされてるってことは、あなた例によってあの格好で襲撃したんですか?」


「ちゃんと土地柄考えてニューヨーク風に仕立て直したぞ」


「ニューヨーク風のチャイナドレスって、どんな柄模様なんですかそれは・・・・・・」


「見たいなら俺の自室のトルソーに飾ってある。あとで見に行くといい」


「あの・・・・・・わたし考えたんですけど、この際いっそ、そのチャイナドレスへの熱いこだわりを捨ててみるのは如何でしょう?

 そうすればニューヨーク中の犯罪組織だって、あの時の襲撃者がノルさんが同一人物だなんて思わないんじゃないかしら」


「やだ」


「・・・・・・言うと思いました」


「まったくもうテッサたら。オレの美貌に嫉妬するのは分かるけど、そうやって屁理屈つけて妨害工作はたらくのどうかと思うわよ?」


 かつて初対面のわたしを完璧に騙くらかした女性の声を、ノルさんは唐突に披露しました。


 何でもノルさんは、ウィッグを被ると途端に変身できてしまうのだとか。それを指してハスミンちゃんは、兄さん2/1などと上手いこと表現していたものです。

 

 雑に被せられたせいで斜めに傾いでいるウィッグ姿のノルさんが、車椅子のうえでドヤ顔を晒してました。根っこの人格までは変わってないはずですが、男の子モードの時のぶっきらぼうなハードボイルドぶりはどこへやら、今はもうただの残念美人にしか見えません。


 誰がノルさんにウィッグを被せたのか? その犯人探しは一瞬で終わりました。


 だってハスミンちゃんが車椅子のすぐ後ろに立って、いつも超然としている彼女らしくもなく、ムッとした表情でわたしを見上げていたのですから。


「テッサさん・・・・・・最近、兄さんを取りすぎです」


 可愛らしい嫉妬に困惑よりも、微笑ましい気持ちが先に立ってしまった。


 そうですね、ひと段落してはいるのです。


 この船の主犯たちはことごとく死亡し、Mr.キャッスルはロシアで亡命という名の監禁生活の真っ最中。上層部が丸っと入れ替わっても気づかないほどに匿名化されているカリ・カルテルは、わたしの手で解体作業中。


 CIAとの交渉という関門はまだありますけど、まあ、下準備をする時間はたくさんある。これまでのような綱渡りのような戦いも、これからはしないで済むでしょう。それどころか戦いそれ自体だって。


 やっとの思いで手に入れたこの日常をいかに保っていくか? それが、これからのわたしの人生のテーマになる筈でした。


 そうですとも、やることはたくさんある。


 ノルさんに話した通り、ゆくゆくはニューヨークにお引っ越しするつもりですし。当面は子どもたちのために勉強会を開いたり、アラストルをジャングルから回収したり、ヤンさんのカウンセリングとか色々とたいへんなのです。


 でも、どうにかなる。お墓参りに赴くまえと違って、そう信じられるようになってきました。


 だって――もうわたしは1人ではないのですから・・・・・・。


「あ」


 わたしはきっと、埠頭に仁王立ちしている巨大なヒトガタさえ目にしなければ、何やら恥ずかしいことをノルさんたちに向けて口走っていたに違いありません。


 ですが今は、震えが止まりません。


「テレサさん・・・・・・ハスミンの幻覚でなければあれはもしや、ASですか?」


 驚きが勝っているのか、はたまたハスミンちゃんが豪胆なのか。片目片足の少女は動揺こそしてましたが、冷静に事実を指摘してきました。


「あ、え、あー、そう、みたい・・・・・・ですね」


「では何を突っ立っているのですか!! すぐに皆を避難させて、ケティねえを呼びに行かないと!!」


「あっ、ちょっと待っ」


 か細すぎるわたしの呼び止める声に、ハスミンちゃんはまるで気付かなかったらしく、浮き輪を掲げてからすぐ船内に消えていったケティさんを追って、ブリッジへと松葉杖を突きながら駆けていく。


 あの、勘違いは仕方ないですけど・・・・・・ですけどねハスミンちゃん? あのASって、わたしとっても見覚えのあるんです。


 原型機こそザスカーが乗り回していたフロッグマンと同タイプのM6“ブッシュネル”でしたが、機体の各所にあるあのパーツは、明らかに低高度パラシュート抽出システムLAPESを想定したジョイントパーツに違いありません。


 すなわちあの機体、M6はM6でも空挺オールアメリカンズ仕様のM6なのです。


 まだカルテルが買い付けたという可能性はあるでしょうけど、それよりもわたしには、米軍の放出品なんですが御社もお一つ如何ですかとのオファーに、本気で頭を悩ませていた専業主婦の顔のほうが、襲撃という可能性よりも先に浮かんできてしまうのです。


 低空飛行でレーダーを避けながら他国に侵入したいなら、空挺仕様の方がなにかと都合が良いでしょうし。


「ねえテッサ、アレもしかして知り合い?」


 温暖なコロンビアの気候を差し引いても、異常なほど止めどなく流れてくるわたしの滝汗に、ノルさんは色々と察したみたい。


 わたしの推測通り、あのM6の乗り手は顔見知りの一児の母であるかどうか? その真偽を見定めるべく目を細めて睨んでみましたが・・・・・・マスター・スレイヴ機能によって操縦者のボディランゲージを完璧に反映しているあのASの立ち姿ときたら、見覚えありすぎてどうしたものかしら。


 自分はとても怒っていると、その操縦者は機体に腕組みさせることで完ぺきに表現しきってました。


 キーンと、耳をつんざく外部スピーカーのハウリング音。つづいてもはや疑う余地もないよく知った女性の声が、M6から響いてきました。


『誘拐犯に告げる!! お前らはもう死んでいる!! 今さら降伏しようがあたしの知ったこっちゃないわ!! ジュネーブ条約は諦めな!! 徹底的に、無慈悲に、冷酷に、あんたら全員、鏖殺してくれるわッ!!』


「あ、あわ、あわわわわわわ・・・・・・」


 業を煮やして実力行使。あまりにメリッサらしすぎる男気あふれる登場に、わたしの動揺はすでにMAXでした。


『人様の妹分を拉致っといてアンタ・・・・・・タダで済むと思ってんじゃないわよッ!!』


 むしろ自分の姿を晒して無事をアピールすべきなんでしょうが、生物としての本能か、頭を隠してそこらにうずくまりたい衝動にわたしは負けてしまいました。


 安全柵に背中を預けながら、どうしましょうと頭を抱える。と、とりあえず覚悟を決めて平和的に話し合いしかないのは、分かっていますけど!!


 そんなわたしの思惑を薙ぎ払うのは、白い尾をたなびかせて飛翔していくロケット弾でした。


「ケティさんッ!!」


 狙いは外れ、M6の背後のコンテナを爆散させていく、それには一安心でしたけど、わたしの絶叫なんて知ったことかと顔面タトゥーの少女は舌打ちひとつ、肩に担いだRPG-7ロケットランチャーの砲身へと、さっさと新しい弾頭を差し込んでいこうとする。


 この攻撃に対するメリッサの答えは、とっても単刀直入。


『おーし、いい度胸だわ。その喧嘩買ったぁッ!!』


「買わないでくださいッ!!」


 わたしの悲鳴なんて誰も聞いちゃいませんでした。


「あらあらまあまあ!! このデ・ダナン・ツーに喧嘩を売る愚か者は、一体どこのどなたかしら!?」


 車椅子から立ち上がった包帯まみれなノルさんは、きっとすべてを理解したうえで、わたしを揶揄うためだけに、牙を向いて迫りくるM6を睨めつけていく。


 信じられないほど美しい青空の下。麻薬王なる人種がぽこじゃがと住み、カバがおもむろに市街地を襲撃しては、女装癖のシカリオが一児の母があやつるASに宣戦布告する。


 そんなおとぎの国としか表現し得ない異国の地にて、わたしはただ状況をぼーぜんと見守ることしか出来ずにいました。




 

《おとぎの国のトイ・ソルジャーズ・END》 



 





 









 

 



 


 


 


 


 


 






























































【“過去”――ヤムスク11、第101号室】


 その部屋は、すべてが赤色に塗装されていた。


 壁も、床も、天井すらも赤色――ソ連は比較的、建物に派手な色合いを施すことを好んではいるけれど、この部屋はいわゆるソビエト・アヴァンギャルドの系譜からは明らかに外れていた。


 この赤色は、単に実用的な観点から選ばれたに過ぎない。なぜならこの部屋で行われている実験はしばしば、流血をともなうものだったのだから。


 モップを左右に動かしていく。右に、左に、そのつど湿っぽい水音が部屋いっぱいに鳴りひびき、隅にある排水溝へと液体が流れ落ちていく。


 目の痛くなるようなこの部屋の配色を思えば、私がいま振るっている掃除用具たちはなんとも素朴なものだった。ありふれた木製の柄がくっついたモップに、金属製のバケツ。本当にどこでも見かけられるデザイン。


 西ドイツに生まれメキシコで育ち、そして今はシベリアの地で暮らしている私からすれば、掃除用具には資本主義も共産主義もないのねと、皮肉な笑みのひとつぐらい浮かべたくなる。


 汚れてきたモップを引き上げ、水の溜まったバケツに漬けていく。すると床の汚れが、波紋を描きながらバケツの中に満ちていく。


 この部屋とまったく同じ赤色の汚れが。


「・・・・・・こんばんは、博士。忘れ物ですか?」


 掃除の手を止めた私は、そう振り向きもせず声をかけた。


 部屋の入口に立ち尽くしている老人は、背後を見もせずそう言ってのけた私をきっと、興味深げに眺めているに違いなかった。


「それもまたいつもの“予言”かな?」


 年相応にしゃがれているのにまるでオペラ歌手のようによく通る、まさにディープボイス。そんな声にわたしは答えていく。


「買いかぶり過ぎですわ。単に足音が聞こえただけです」


「ああ、そうかね」


 振り向くと、薄い金髪に白髪が混じりだしている白衣姿の老紳士の姿が見えた。彼こそがこの研究所のトップ――Dr.ヴァロフその人だった。


 研究者は身嗜みなんて気にしない、そういうステレオタイプは万国共通だけれど、Dr.ヴァロフは持って生まれた気品ある容姿に助けられてか、年中白衣姿だというのにまるで昔ながらのイギリス貴族のように見える。


 もっともその優雅な仕草で今何をやっているかといえば、靴の裏をしげしげと眺めることだったのけれど。


 浮世絵離れした仙人のようなイメージは、初対面の時からまるで変わっていない。そんな老人が言った。


「ふむ、私も歳だからね。聴力の衰えは認めざるおえないだろう。だが私自身としては、この革靴を鳴らした覚えがまるでない。不思議だな」


 本当に不思議がっている表情だった。


 なるほど歳はいってるでしょうけど、この老人の心根はまだ少年のような無垢な好奇心に満ちている。そのアンバランスさが私には、ひどく不気味に思える。

 

「そうでしょうか? 夜も遅く、人気のない研究室の床はよく反響しますわ」


「扉は閉まっていたと思うんだがね」


「・・・・・・」


「完全防音の、それもちゃんと扉が閉じられた部屋の内側からどうやって私の足音を聞くことができたのか? 本当に不思議でならんよ」


「・・・・・・Dr.ヴァロフ。まさかそのようなことをお尋ねになるために、こんな夜分に研究所まで足を運ばれたので?」


「いやなに、眠ろうとしたらふと疑問が頭に浮かんでね。知っていると思うが、私は一度気になると、答えを知るまで止まらなくなる性分なんだ」


 知的探究。むしろこの老人にそれ以外の動機があるのなら、私は心の底から驚くだろう。


 そのエキセントリックな人格を上官に疎まれて左遷されては、そのつど画期的な発明品をたずさえて中央へと帰還してきた真の天才。政治力がすべてを左右するソ連科学界にあってして、その才能だけですべてを手にしてきた異端の科学者。


 質問を拒否する権利は、形としては彼の部下にあたる私にはなかった。


「私にお答えできることでしたら何なりと」


「KGBの将校である君がモップ掛けなんぞやっているのは、やはり同僚からイビられているせいなのかな?」


 つい苦笑が漏れてしまう。


 Dr.ヴァロフのこと、自らが率いている研究所のハラスメント問題が急に気になった訳ではないでしょう。


 歯に着せぬ言動もまたいつものこと。この御仁にとって、人の心はいつだって好奇心の対象外なのだから。気になったから聞いてみた、それ以上の意味合いはないでしょう。


 ここで仮に女で、ましてや外国人であるという私のアイデンティティゆえに同僚から酷いイジメに遭っていると告白したところで、この老人はそうだったのかと首肯し、満足しながらベッドに戻って眠りにつくだけだったろう。


 だってそういう、浮世ばなれした人物なのだから。


 ここヤムスク11は、ソ連に無数にある閉鎖行政領域体ZATO――いわゆる閉鎖都市のひとつだった。


 国外のスパイ対策はもちろんのこと、誰よりも同胞を信用していないソ連の隠蔽体質が生みだした研究都市。機密のベールに包まれたその内側では、冷戦時代の花形である核兵器をはじめ、さまざまな先進技術の研究・開発が行われていた。


 でもその物々しい字面とは裏腹に、その閉鎖具合はどちらかといえば緩やかなものだった。だって人は、研究だけでは生きていけないのだから。


 数千人単位の小都市であったとしても、必要とされるインフラの量は膨大なものになる。それに衣食住だけでなく、最先端技術の研究施設というのは、とかく膨大な物資を消費する。


 だから都市全体をフェンスでぐるりと囲んでも、似たり寄ったりなデザインをしてる刑務所と比べれば、人の出入りは雲泥の差。昼夜を問わず検問所にはトラックが列をなし、ありとあらゆる物資が都市内に持ち込まれていく。それが閉鎖都市の日常的な風景だった。


 都市に暮らしている住民たちもまた気ままなもので、身分証明書の常時携帯など他の都市にはない苦労がありはするけれど、それ以上に政府から支給される特別金という名の口止め料は、大きな魅力なのだった。


 そもそも科学界のエリートが集う街だもの。研究機関のおこぼれを貰う形で、都市の機能だって最先端そのもの。だから暮らしぶりもそう悪くはない。


 地方の親戚の家に行くなど然るべき理由を提示すれば、都市の外への外出だって自由自在。こういったもろもろの理由から、閉鎖都市でわざわざ暮らしたいと志願する者たちは跡を絶たないと聞く。


 ただし、どこにでも例外はあるもの。そう例えば――まさにここヤムスク11などがその典型だった。


 前述のとおり、閉鎖都市はその性質から大量の物資を日々消費している。だから交通の便を鑑みて閉鎖都市が置かれるのは、大抵はキエフなどの大都市の近隣だった・・・・・・だけどここヤムスク11は違う。


 シベリア南部のトゥヴァ共和国、それがヤムスク11の所在地だった。


 シベリアと聞けば、誰もが荒涼たる大地を連想するもの、その期待はまったく裏切られない。ここは夏は暑く、冬は血の芯まで凍りつく、まさに極地にあったのだ。


 閉鎖都市の風物詩たるフェンスもここにはない。この天然の監獄に、中途半端な人工物なんで不要だもの。なぜなら監視塔のうえで衛兵たちが構えているAKアーカーライフルの銃口から逃れられたところで、待っているのは荒野と、腹をすかせた狼の群れだけなのだから。


 それでも本気で脱走を画策するなら、乗り物を使うのがいいでしょう。


 舗装もされていない山道なら追跡の手も鈍る。ただし1ヶ月以上の長旅と遭難のリスクが潜んでいる。もっとも現実的なのは、物資搬入のためにヤムスク11からほど近いところに作られた簡素な空港から、燃料満タンのヘリコプターを奪い取ることかしら? ヘリコプターの操縦資格があり、かつ幾多の監視の目をかいくぐれる自信があるなら、中々に現実的な選択肢になることでしょう。


 ヤムスク11の住民はほとんどが研究者やその家族だから、そこまでやれる人材がどれほど居るか知らないけれども。


 まさに陸の孤島。そんな街にも映画館などの娯楽施設がありはするけど・・・・・・ヤムスク11の外出規制は、他の閉鎖都市よりも格段に厳しい。夜間以降に許可もなく外を出歩けば、それがたとえKGBの将校であったとしても問答無用で拘束され、尋問を受ける事になる。


 これこそが中央モスクワからの監視の目も届かない僻地の利点だった。この都市は、ソ連の権力構造から離れた独自のルールのもとに運営されていた。


 さながらスターリンの暗黒時代の再来のよう。この都市では研究こそがすべてであり、その活動を阻害する者は、真夜中にふと姿を消してそのままというのもさして珍しい話じゃなかった。


 互いに互いを監視しあい、出世のために足を引っ張りあう。ある意味で究極の官僚主義に支配されたソ連という国においても、この施設のありようは異様だった。


 科学という名の信仰に支配された、まさに国家の中の国家。では、なぜそのような特異な都市が生まれたのかといえば、その答えは目の前の老人が一番よく知っていることでしょう。


 ソ連政府からおおやけに認められていない。いえ、それどころか書記長すらもこの都市について知らないのではないかとまことしやかに囁かれる、存在しないはずの都市。それこそがヤムスク11の正体であり、Dr.ヴァロフというたった1人の天才のために築き上げられた、遊び場なのだった。


 老人に合わせて私も飾らずに答えた。それがこの街の支配者のお気に入りの答え方なのだと、知っていたから。


「単なる趣味です」


「あー」


 それで老人は満足したらしい。薄く笑いながら、なんども頷いていた。


 普段ならそれで終わりだった。常人からすれば、どうでもいいとしか表現しようのない質問を浴びせ、答えを得たら途端に興味を無くす。それがある意味でこの老人の趣味なのだった。


 なのにDr.ヴァロフは101号室の入り口に立ち続け、まだ私の顔を見つめている。


「他になにか尋ねたいことでもおありですか、Drドクター.」


「君についての報告書を読んだ」


「面接の折に目を通したものとばかり」


「当時は、君の人間性になんてカケラの興味もなかったからね」


 言い切るものね。この言い草にあまりに慣れすぎて、もう面食らうことすら忘れてしまった自分がいた。


「だがあたらめて読み返してみたら、大きな発見があったんだ」


 まるで目の前に原稿用紙が置かれているかのようにこの天才は、私についての報告をすらすらと諳んじはじめた。


「西ドイツからわずか十代で亡命し、自らKGBでのスパイ訓練を志願。その後、潜入工作員スリーパー候補として訓練を受ける、か」


 ありふれた話だった。


 メキシコの片田舎で、当然のように人生を搾取されている鉱山労働者たち。そんな彼らの苦行を肴にシャンパンを飲みながら、商談に花を咲かせる資本家ども。そんな社会の不均衡というコントラストを目撃した世間知らずの小娘が私だった。


 そんな西側式の“自由”に失望して、真の自由というものを探し出そうと東を目指した、当時の世界に、履いて捨てるほどいた愚か者の1人がこの私だった。


 でも人の本質はどこまでいっても同じ、そんな単純な事実に気づいたのは、国境を越えた後のことだった。


 共産主義が生み出したものも所詮は、資本主義とおなじく他者を搾取して、その成果を吸い上げるための体制にすぎなかった。しいてソ連に優れた美点を見出すならば、その重度の秘密主義とたくみな宣伝ぐらいのものでしょう。


 でも私には才能があった。


 確かにソ連の現実には幻滅した。でも、私の才能はKGBカーゲーべーの秘密工作をつかさどるS局にとっては、宝石のごとき眩い輝きを発していたようだった。


「当時の教官の寸評によれば、外国人でさえなければ、いずれは対外諜報部門の頂点にすら上りかねない逸材であると、そう評されていたね」


「過分な評価ですわ」


「そうかな? 自分たちよりも地位の低い相手をこうまでKGBが褒め称えるのは、異例に過ぎると思うがね。

 ところで、この“魔女ヴェージマ”というあだ名は、どういった由来でつけられたのかな?」


 また懐かしい名前を聞いた。


 両親には学生生活を満喫していると言いつつ、実のところ私が勉学に励んでいた場所とは、ソ連領内の極秘スパイ養成所だった。


 正規の西側の身分をもっているスパイというのは、KGBにとっては理想的な存在だ。だから私が研修を受けているあいだ中、KGBは両親を騙すためにわざわざ加工写真を貼りつけたポストカードをせっせと送って、私の偽装を強化してくれていたほどだった。


 スパイという人生は、まさに私の天職だった。


 地元生まれのロシア人や、ルムンバ民族友好大学から流れてきた多国籍な同期生からの怨嗟などまるで気にも留めなかった。それだけの実力が私にはあった。もし、KGBの高級幹部の息子と同じクラスでさえなければ、私は首位のまま最終試験まで駒を進めることができたでしょう。


 その最終試験の内容とは西ドイツ、すなわち私にとっては祖国にあたる東西スパイ合戦の最前線へと潜入し、ソ連のために情報提供者を確保することだった。思い返してみても、なかなかに実地的な試験内容だったわ。


 与えられた試験期間を思えば、これは不可能に等しい課題だった。おそらくKGB自身も実際に候補生が情報提供者を取得するなど、はなから期待していなかったのでしょう。


 厳しい状況下において候補生たちがどのように現場で立ち回るか? その動きを観察すること自体が、本来の試験内容であったに違いない。


 だけど――私はその課題を完ぺきに達成してみせた。


「偉そうに語るような内容じゃありませんわ」


 しかし謙遜は、この老人にとって美徳には当たらなかった。


「だが私は聞きたいのだ」


 ヤムスク11の所長、それは独裁者と同じ意味を持つ。五大欲求のすべてが好奇心と入れ替えているこの老人にとって、今の頼みは聞かせろという命令形に等しかった。


 なら、語るしかないのでしょう。


「・・・・・・誰にでも欲望というものがありますわ。なんなら人は、自らの欲望を叶えるために生きていると極論することもできる」


「知識欲のことかな?」


 この老人らしいピントの外れた意見だった。それを少し、訂正するように言葉を重ねる。


「あるいは性欲や金銭欲」


「相手の欲望につけ込む、スパイの常套手段だね」


「色欲に弱いものには、裸の美女をあてがえばいい。金銭に魅せられたものには、札束を投げ渡せばいい。

 ですがどうしてか私の同期たちは、信念をもつ者たちには、この方法論は通用しないというあらぬ先入観を抱いていたようなのです」


「信念をもつ者たち?」


「みずからの正義のために平気で命をなげうつ者たち。ですが私に言わせれば、信念もまた欲望の一種であると断言できる・・・・・・」


「なるほど」


 顎に手をあて、心の底から感心したように老人は呟いた。


 それは、人間性なるものが致命的に欠けているDr.ヴァロフの数少ない美点だった。


 皮肉や嘘ほど、この老人から縁遠い概念もない。いついかなる時だってこのお方は、本音でしか話さない。


「スパイ活動は釣りに似ている。うまい餌を水辺に垂れて、魚がかかるを待ち受けるものだと、私のような門外漢は考えていたんだがね」


「まさしく、その指摘は諜報活動エスピオナージの本質を的確につかしめていますわ」


「では拝聴しよう。その信念をもつ者たちへの餌の中身は?」


 この老人の知性はずば抜けている。だからもう当たりはつけているのでしょうけど、まるで物語のつづきをせがむ少年のように、目を輝かせながら老人は結末を欲していた。


「それは――」


「それは?」


「・・・・・・“舞台”ですわ」

 

 例え話をしましょう。


 戦場で武勇を誇り、誰もが称賛する真の英雄。ですが、かの人物が才能を遺憾なく発揮できる戦争は、すでに遠い昔の話となっていた。


 才能を持てあまし、平和な世の中で燻りつづける日々。そこにもし“舞台”が現れたら?


 悪を倒し、善を成す。古来から続くまさしく英雄譚そのものな、そんな理想を実現できる“舞台”が目の前に現れたとき、果たしてその英雄は疑いの気持ちを抱けるのかしら?


 これは罠かもしれない。


 そんな正しい直感に従い、自分が活躍できる舞台をみずから去って、誰かに助けを乞うべきだと。


 ・・・・・・まさか。


 誰よりも精強であるがゆえに自身の決断を信じて疑わず、万難を排して、正面きっての戦いを挑んでいく――だってそれが英雄の条件なのだから。


 こうして標的は、自身の意思で“舞台”へと躍りでてくる。それこそがこちらの望みだと、見てみぬふりをしながら。


 それこそが、私が西ドイツでつけ込んだ欲望の正体なのだった。老人が感心したように唇を釣り上げる。


「なるほど。正義とは、人を盲目にさせる特効薬ということか。

 信念、自己実現、英雄願望・・・・・・どれもが欲望の一形態だという君の理論には、頷けるところが多々あるな」


「ですが結局、最後に物をいうのは運に過ぎませんでしたわ。

 さきほど博士が仰ったとおり、スパイの本質とは釣り人にひとしいのです。標的を定めて、罠を築く。ここまではどうにかできますけど肝心要なそこから先、実際に魚が食いついてくれるかどうかまでは、天に祈るほかない」


「それで先の大戦の英雄たるNATO軍の将軍を釣り上げたんだ。私にはもはや、過ぎたる謙遜にしか聞こえないがね」

 

「・・・・・・ですが、運命は私の手に余るものでしたわ」


 Dr.ヴァロフは、頭の中にある報告書の最後の文面を今まさに、読み込んでいるに違いなかった。


「もし訓練校の教官が西側に亡命したりせず、君を始めとする同期たちの名簿を暴露さえしなければ、なるほど、君はここには居なかっただろうね」


 そう、どこまで行こうとも人は運命には抗えない。

 

 大魚を釣り上げたばかりの私のもとに届いた、突然の本国帰還命令。あの指令がもう数時間ばかり遅れていたら、タッチの差で私は西ドイツ当局に拘束されていたに違いない。


 養成所に居たころは女で、ましてや敵国の外国人である私への逆風は、教官たちの中にすらあった。


 だけれど何人にも否定できない先の功績を立てたことで、ロシアに戻ってきた私を見る目は様変わりしていた。そう、前途あるスパイがこうも短命で終わってしまったことへの憐憫に。


 あの日、スパイとしての私は死を宣告されたのだ。


 これがロシア人であったなら、スパイだと暴露されてもまだやりようはあったろう。スパイとして名が知れ渡っているからこそ、接触を計ってくる情報提供者というのはまま居るものだ。


 だけれど外国人という、改善しようもない要素が私の足を引っ張った。


 KGB内部から危惧の声がささやかれたのだ。実は私の正体が二重スパイであり、あのNATO軍の将軍にしても、こちらを信用させるための餌なのではないかと。


 普通に考えて、候補生が釣り上げられるような標的じゃないという指摘は肯ける。


 せめてあの将軍が多少なりとも情報をソ連に流してくれていたなら、あるいは疑いも晴れたかもしれないけど・・・・・・私と接触をもっていたことから、芋づる式に正体が発覚してしまった将軍は、おそらく騒ぎになるのを嫌ったNATO軍によって、あっさり早期退役という形で表舞台から追い出されてしまったのだ。


 大魚は釣り上げた、でも役に立つ情報はまるで獲得できなかった。なるほど、上が疑心暗鬼に駆られる理由も分かるというもの。功績は多く、実益は絶無。そんな外国人を信用できるはずもない。


 訓練校の教官たちが庇ってくれなければ、適当な罪状をでっち上げられ、塀の中で生涯を終える羽目になっていたことに疑いの余地はないだろう。


 もちろんスパイとして復職することは叶わなかった。他のKGBの部局に入ろうにも、二重スパイ疑惑はどこまでもついて回り、保守的な人事が首を縦に振らない。だから私は、ヤムスク11へと来たのだった。


 Dr.ヴァロフという天才は、俗世界のことなどまるで気にもとめない。他人に関心があるとしたらそれは、自分の研究に役に立つかどうかでしかない・・・・・・そういう意味では、私にとってこの老人は理想的な上司であった。


「ご満足いただけましたか?」


 ささやかな昔語りに、老人はとても満足げだった。


「ああ、もちろんだとも。だが謎がひとつ解けると、また新たな謎が出てくるのが人生の面白いところだ。他にも尋ねていいかね?」


「拒否権は認められますか?」


「いや、是が非でも答えてもらいたい」


 Dr.ヴァロフにしては珍しく、質問の前にまず奇妙な間をおいて、それとなくこの真っ赤な部屋を見渡していった。


 この実験室は、水分がいくら飛び散っても大丈夫なように特別に設計されている。隅の排水口などはその最たる例だろう。


 備え付けの備品などは一切ないけれど、あとから持ち込まれたキャスター付きの移動式コンピューターは置かれていた。その奇妙な実験器具が囲んでいるのは、部屋の中央に鎮座している手術台だった。


 もしかしたら手術台という表現は、的確じゃないかもしれない。歯医者で見られるような特殊な寝椅子と呼んだ方が、よりしっくりくるだろうか。


 だけど歯医者には、患者の腕を拘束するためのストラップなんて用意されていないでしょうけど。


 機械のどれもが丁寧にビニールが掛けされていた。真空管や磁気テープによって組み上げられたコンピューターへ――被験者が垂れ流す、血をはじめとする全身の体液がかからぬよう、ひどく気が使われていたのだ。


 ソ連政府は、なるほど西側ほど人権に興味がないかもしれない。けれど人体実験をおおやけにやるほど狂ってはいない。


 だからこそのシベリアの秘境であり、閉鎖都市であり、Dr.ヴァロフなのだろう。


 そんなおぞましい椅子を見つめながら、老人は言った。


「・・・・・・私は彼女たちの遺伝学上の父だというのに、どうして“パパ”と呼んではくれないんだろうな?」


 私にとっては簡単に導き出せる答え。いえ、私でなくても常人ならすぐ分かる部類のことが、この老人にはどんな難問より難しいらしい。


 もしかしたら、そんな常人とはかけ離れた感性を持ち合わせているからこそ、この老人は天才たり得ているのかもしれない。天才とはいつだって旧来のルールを打ち破り、新たな常識を世に定義する存在なのだから――だとしても、人の道というものがあるのだけれど。


 私は答えた。短い活動期間であったとしても、スパイであった時代に相手を操りたいなら、その欲望に応えるのが一番であると知っていたから。


「それはですねDr.ドクター――あなたが娘と呼んでいる子どもたちを実験材料に用いて、生きたまま切り刻んでいるからですよ」


 私の答えに興味深く聞き入っていたDr.ヴァロフは、しばし天井を見つめ、なにやら考え込んでいる様子だった。


「そうか・・・・・・」


 理屈はわかるが納得はいっていない、そんな声音。

 

「薬物を投与されたり、生きたまま切り刻まれるのが嫌で、私を“パパ”とは呼んでくれないのか・・・・・・不可思議だな。どれほど自分たちが科学に貢献しているか、彼女たちは知っているはずなのに」


 正気のままにそうのたまえる。だからこそ、生き馬の目を抜くようなモスクワの裏舞台で立ち回ってきた歴戦のKGB職員ですら、この老人を前にするといいしれぬ恐怖心を抱いてしまうのでしょう。


 天才と狂人は紙一重。この老人ほど、そんな格言を体現する存在もない。だけど狂気だけでなくその天才性もまた、Dr.ヴァロフの場合はどうしようもなく“本物”なのだった。


 なぜなら核兵器につづく・・・・・・いえ、そんなものすら容易く凌駕する、まさに人類史を一変させうる技術の完成まで、この老人はあと一歩のところまで迫っているのだから。

 

「君とわたしの違いは一体何なのだろうな? 私も君のように、実験の後始末を進んでやるべきなのかな?」


 またピントの外れたことを言うものね・・・・・・自分たちの遺体を片してくれたから懐くなんて、そこまであの子たちは壊れてはいないのに。


 私は嘘をついた。本当はこの清掃作業は趣味なんかでなく、たんなる自己満足に過ぎないのに。


「偉そうにアドバイスさせてもらうなら、なにか物を与えてみるのは如何でしょう。

 最近だと、ピアノの練習を頑張っている子もいますわ。そういう所から親しみを植えつけていくのもまた一興ではないかと、そう思うのですが」


 老人が興味を引きそうな言い回しを心がけたつもりだったけれど、特に響くものはなかったみたい。それよりもつい先程のわたしの答えに、まだ老人は感じ入っていた。


「そうか・・・・・・そういった努力を重ねてきたからこそ、君は娘たちから“ママ”と呼ばれているのだね」


 Dr.ヴァロフが瞼を閉じた。


 これまで犯してきた罪。そのすべてを脳裏に描き、アレにどんな意義があったのか? そしていずれ神の御許へと引き出されたとき、それについてどのような釈明を述べるべきなのか? そう思案に暮れている顔――まさか。


 そんなこと、天地がひっくり返ろうとも起こる筈がない。


 これは老人にとってこれは、単なるルーティンに過ぎなかった。目を閉じることによって満たされた好奇心を、この老人は反芻していたのだ。


 老人の瞼がやっと開かれる。白い蛍光灯に照らされるその瞳には、もう退屈の色が浮かんでいた。また新たな好奇心を満たしてくれる対象が見つかるまで、しばし無為な時間がつづくなという寂しさが。


 ほとほと人間性とは無縁な人物だけれど、それでも最低限の礼儀を心得ているのがDr.ヴァロフの人となりだった。社交的なつくり笑いを浮かべながら、老人は私に別れの挨拶を告げてくる。


また明日ダ・ザーフトラMs.ガスパジャーアンサー」


 その挨拶にわたしもまた、完璧なる作り笑いで答えていった。


安らかな夜をスパコーイナイ・ノーチィ、Dr.ヴァロフ」


 こうしてまたヤムスク11の夜が更けていく。私が何を語ろうとも、この街の狂気が終わることはない。何故なら死と破壊の連鎖は、人類が生き続けるかぎり決して果てることがないのだから。




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