Ⅶ “新たな不幸がこの家に入り込まぬよう、護りたまえ”


【“テッサ”――トラック車内】


 トラックの車内で、ゆらゆら身体が左右に揺さぶられる。似たようなことがつい先日もあったような気がしましたが、今回わたしが座っているのは助手席ではなく、後部の休憩スペースでした。


 気分はあまり優れません。一歩進んで二歩下がる、そんな言葉が頭の中をぐるぐる回っている。この休憩スペースの適度な狭さと、夜の帳が下りてきたコロンビアの街の薄暗さが、無意味に思考を鋭敏にさせている気がします。


 そんな港湾労働者組合提供のトラックの前部では、助手席に腰掛けながらめっきり鬱を追い払い、常識論を唱える役に舞いもどってきたヤンさんが、さっそく苦言を呈してました。


「君ね、ハイヒール履きながら10tトラックを転がすか普通?」


 青みがかったツインテールのウィッグなんてひどく人を選ぶ髪型をしている癖に、その持ち前の美貌のせいでどうしてか似合ってしまうチャイナドレス姿の魔人が、ハンドル握りながら素知らぬ顔して答えていきます。


「失敬ね。車も、ボートも、なんならバイクだって、ハイヒールで操れるわよ」


「そこに飛行機とアーム・スレイブの名前が加えられてないことを、僕は神に感謝すべきなのかな・・・・・・」


 ノルさんの最後のウィッグは、先日ビューティフル・ワールド号の大爆発の余波によって行方不明になってしまったはずでした。


 この買い出しにノルさんの参加は、必須条件でした。


 CIAうんぬんを差し引いても多額の現金を持ち歩くわけですし、単純に警護が欲しい。かつ大きな荷物を運ぶことになるのは、確定事項でしょうし――この2点から自然とヤンさんも加わることに――地元民として地理に明るいノルさんには、道先案内人という役割もある。


 デ・ダナンⅡの警護を同行できずぶーたれているケティさんお一人に委ねるのは、ちょっとというか、とても不安なのですが・・・・・・いざという時の避難計画はすでに綿密に組み上げられ、予行演習についても子どもたちがウンザリするほどやってきたのです。


 ただでさえ警備体制は跳ね上げたばかりですし、数時間であれば大丈夫とわたしは踏んだのです。


 長い前置きになりましたが、かくして本題。わたしたちが出たのちの対応についてあれこれハスミンちゃんと相談していたところ、聞こえてきたのですハイヒールの高らかな足音が!!


 いえ、当人が好きでやっているのですから、好きにすればいいと思いますけど・・・・・・やはり個人的には、どうしても慣れないのです。こんな大人の女性になりたいと一時でも思ってしまった自分の過去が、この気持ちの引っかかりの正体であること疑いの余地はありません。


 年下の男の子に、女の魅力という点で劣るかもしれない。この事実をどう受け止めればいいのやら。


 いえ、自分の容姿が整っている自覚はあるのです。ですが隣の芝生は青く見えるもの。スポーティなラテン美女路線のノルさんと知的な文学少女路線のわたしとでは、なるほど畑違いではありますが、あの大人の魅力がときに羨ましくはあるのです。


 わたしは尋ねました。まず確実にあのウィッグの仕掛人に違いない、ブラコンをこじらせている片目片足の少女へ、“あれ、どうやって作ったんですか”と。


 するとハスミンちゃんはさらりとこう言ってのけました。


“不肖このハスミンめが製作を命じ、散髪担当のカロリナが素材を集め、手先の器用なマリルーが仕上げ、最後にマリアが兄さんに届けました。よってすべての責任は、バウティスタにあると考えます”


 それを聞いてわたしは、少女の頬をびろーんと伸ばしてみました。


“度が過ぎるとイジメになっちゃいますよー”


 ビックマウス癖の直らないバウティスタくんにも問題はありますが、ハスミンちゃんの悪びれなさにも、ちょっと問題を感じたものです。


 そして現在。


「あ、あの大佐殿? 大丈夫ですか?」


 おずおずと、助手席から顔だけ振り向いてきたヤンさんが言いました。


「わたし・・・・・・そんなに落ち込んでいるように見えますか?」


「いえ、そういうわけでは・・・・・・」


 我ながら捻くれた回答に、ヤンさんも困り顔。


 それはそうでしょう、薄暗がりのなか体育座りして、ひたすら三編みをいじってるわたしの姿ときたら、鬱々しいことこの上ない。これじゃまるでヒセラちゃんです。


 わたしがいちばん避けたかったのは、他人に火の粉が降りかかること。とりわけ平和に暮らしている共に戦った仲間たちにだけは、害をもたらしたくはありませんでした。ですが現実はこれです。


 CIAは的確に、こちらの弱点をついてきました。


 歴史上、敵を殲滅することで戦争が終わった試しはありません。敵味方がどこかで落とし所を見出し、それに互いに同意することによってのみ戦争は終焉を迎えるのです。


 そこにくるとわたしの提案は、相手からすれば寛大すぎるものであったはず。罪を追求しないか代わりに、CIAは子どもたちの今後の人生の責任を取る。


 わたしからするとあの提案は、win-winなものでした。ですが現実にはコッファー=ホワイトは、自分たちが勝つための手ではなく、みなが負けるための方策を打ってきた。


 甘く見ていた。敵がどう出てくるか、今度こそちゃんと読み切らないと。


「わたし、世間知らずなままなのかしら・・・・・・」


 自分では独り言のつもりでしたし、トラックの走行音にまぎれて運転席までは届かなかったはずなのですが、どこか気まずけな空気が車内に充満していく。


「音楽かける?」


「君にしては、いい考えだ」


 ノルさんがラジオのノブを捻りました。


 ラテンの旋律とはすなわち、気分を高揚させてくれるアップテンポなもの。ちょっと偏見混じりな見立てかもしれませんけど、ラジオからは陽気な歌声が漏れてくる。 





“すべてが上手くいくと、賢ぶったあの野郎は言いやがる。

 だがいざ始まりゃ、いつもどおりの展開さ。

 BANG!! BANG!! BANG!!

 作戦なんてクソの役にもたちゃしぬえ。誰も彼もがぶっ放す、お陰であたりは血みどろってな!!”





 これで英語音声であれば、ギャングスタラップと勘違いしかねない過激な歌詞でした。ですが言語は明らかにスペイン語です。


「これが噂の麻薬王讃歌ナルコ・コリードですか・・・・・・」

 

 暴力バンザイな歌詞に、ジト目で選曲した人物を睨んでしまう。一方、ヤンさんほどノルさんは、わたしの心理状態を気にかけてないらしく。


「メロディはいい」


 などと言い放つ始末。


「そうですね。ですが私的には、歌詞も悪くないと思いますよ? まるで自分を揶揄されてるみたいで・・・・・・」


 らしくもなく、チクリと皮肉を口にしてしまう。


「いつから乱射願望なんて持つようになったの?」


「わたしが共感したのは、策士策に溺れるを地でいってるあたりです!! まったく、申し訳なくて地面にうずくまりたい気分なんですから・・・・・・」


 するとやり取りを見持っていたヤンさんがクスり、ちょっと笑われる。


「いえすいません、ですが大佐殿がそうも年相応に振る舞われるの、珍しいなと思いまして」


 変な意見もあったものです。


「なんですかそれは・・・・・・ちょっと恥ずかしくなってきました。昔だったらもっとこう――」


「毅然と、指揮官らしく振る舞えていられたのにですか?」


 ヤンさんは的確に、わたしの気持ちを代弁されました。


「確かにそうですね。かつての大佐殿であれば、いつだってその階級に見合った風格があったと自分なんかは思います。

 ですがやっぱり、あれは自然体には見えませんでしたよ。どこかで無理してた気が・・・・・・あっ、いえ、これはあくまで下っ端の勝手な見立てなんですが」


 こんなこと昔のわたしが言われたら、そんなことありませんと断じて認めなかったことでしょう。といいますか、今だってついついこの図星に反論し掛けてしまう。


 それを止めたのは、ノルさんの呆れた口調。


「風格? 誰が?」


「ノルさん、わたしはミスリル西太平洋戦隊の戦隊長にして、強襲揚陸潜水艦トゥアハー・デ・ダナン号の艦長さんだったんですよ」


「今だに嘘くさいわね。テッサがした過去話でまともに信じられるのって、フラれ話だけだわ」


「あまりトラウマをほじくり返されると――」


「そのとっぽい顔で怒ってみせたところで、噂の風格とやらがますます目減りするだけだわよ」


「――泣きます。別れ話を切り出された面倒くさい女のごとく、ひたすらウザったく泣き喚いてやります」


「風格のふの字すらないわね」


 すると、横でわたしたちの会話を聞いていたヤンさんがちょっと吹き出しました。


「自分としては、いまの大佐殿は良い変化だと思いますよ。こうも自分を包み隠せず話せるなんて」


「そうかしら? わたしとしては、緊張感が無さすぎる気がするわ」


「いいじゃありませんか。別に僕らは、戦争をしてるわけじゃないんですから」


 それはまた、ちょっと思いがけない見方でした。麻薬戦争という戦乱を逆手に取って、自分たちの目的を遂げようとしているCIAとの暗闘だとばかり思っていたのに。


 ・・・・・・そこでふと気づく。どうしてわたしは、戦争を前提に考えているのかしらと。


 わたしはさっきから、これまでがそうであったよにういかにCIAに勝利するかばかり考えてました。次の一手、敵に勝つための一手を考えつかなければ。そんなの手段であって、目的ではないはずなのに。


「申し訳ありません大佐殿、なにかズケズケと言ってしまって。気に触ったでしょうか?」


「いえ・・・・・・ぜんぶがぜんぶ同意はできませんけど、肩肘張っても始まらないのは、その通りですね」


 今のわたしたちは上官と部下でなく、さる目的を達成するために手を結んだ同志なのですから。もうちょっと自分たちを頼ってほしい、それがきっとヤンさんの会話の主旨に違いない。


 わたしは、ハンドルを操るノルさんの方を見ながら言いました。


「わたしが変わったように見えるなら、それってもしかしたらノルさんの影響かもしれませんね」


 するとヤンさんも、わたしの発言にちょっと同意してきました。


「君のエキセントリックな性格のおかげで、大佐殿の人間関係に幅が出たのかもしれない。マオ少尉からそれとなく相談されていた身としては、1パーセントの感謝を君に捧げるよ」


 本当にもう、わたしの個人情報ってどうなってるのかしら。一方、ノルさんは感想もなにもないみたい。淡々とハンドルを操るばかり。


「褒めてもハンドルは譲らないわよ。ちなみに残りの99パーセントは?」


「ぶん殴りたくて仕方がない」


「殴り合いでオレに勝てるとでも?」


「その自信に反論できないあたりも、大いに腹立たしいんだよ。だけど人に壁を作らない君の態度って、良くも悪くもまわりに影響を与えてる気がするよ。

 いやほんともう、良くも悪くもさ・・・・・・」


 あえて好影響なのか、はたまた悪影響なのか断言されないヤンさんでしたが、そうですね、そうかもしれません。友人か、あるいは軍の同僚。これまでのわたしの人間関係って、基本このふたつのバリエーションしかなかった気がする。


 まず型を用意して、そこに自分を押し込むことでわたしは生きてきました。


 そんなわたしが、いきなり自由奔放すぎるこのおとぎの国に放り込まれてしまった。秩序立ってる無秩序なんてカオスが当然のようにまかり通ってる国で、これまで通りのやり方なんて通用するはずがないのです。


 そうですとも、ほんの3ヶ月前で考えもしませんでした。ヤンさんとこんな風にお話して、個性豊かすぎる子どもたちの世話を焼いてと、そうなった切っ掛けはやはり、色々な意味においてこの女装癖のシカリオに違いない。


 べつに名案が浮かんだわけじゃありません、でもちょっと気分が晴れた気はする。


 そんな気分に追い風を吹かせるのは、祭ばやしのような陽気な騒々しさでした。どうやらノルさんオススメの市場とやらが、間近まで迫ってきたみたい。


 無数の問題が山積みで、自分の願望はいつだって後回し。そのことに不満なんてありません、これまでもずっとそうでしたから。ですが名だたる風光明媚な土地を、自由気ままに旅してみたいという誘惑はずっとあったのです。


 電球色したストリングライトが、時代を感じさせる石畳の広場を横断するように吊るされてました。吸い寄せられるような綺羅びやかな光、その下では、活気に満ちた屋台たちが広がってました。南米らしいカラフルな市場。そこを行き交う人々の顔は、どれも明るい。


 ついつい思ってしまう、こういうのを待っていたんですと。


 ヤクザというのはとってもアイコニックな存在ですが、別に日本を支配してはいないのと同じく、麻薬カルテルだって悪目立ちしてるだけで、別に中南米の支配者というわけじゃありません。


 豊かな文化にふれるのは、楽しいものです。あの趣きある市場をただ歩くだけでも大満足に違いない。ついつい心が浮足立ってしまう。


 数多の心配事を隅に追いやってしまうほどの素敵空間がいま――窓の外を過ぎ去っていきました。


「あの・・・・・・ノルさん?」


「うん?」


 旅行に行くぞと両親に言われて、窓の向こうにディズニーランドが見えてきたのに、車はそのまま通り過ぎていく。きっとそんな子どもと同じ顔を、わたしはしていたに違いない。


「勘違いかもしれませんけど、あの、市場から離れているような気がするんですけども。あっ、駐車場がちょっと離れてるとか?」


「あんな観光客向けの市場になんか行ってどうするの」


 わたしが楽しい。そんな素直すぎる意見は、ゴニョゴニョと口の中に消えていく。


「ボッタクリ価格で品揃えも悪い。あんなの見栄えだけよ、見栄えだけ」


「じゃ、じゃあ、このトラックってどこに向かってるんですか?」


「ふふん、良・い・と・こ・ろ♪」


 色香あふれるわざとらしい言いぐさに、ヤンさんが心底嫌そうな顔しながら呟きました。


「やめろ。頼むから、マジでやめてくれ」


 そのままトラックは市街地を離れ、どんどん治安の悪そうな山道へと侵入していったのです。









 ノルさんにいわく。


「昔ね、左翼ゲリラが郊外にある岩塩坑に秘密拠点を作ったのよ」


 くねくねと舗装もされていない山道を、器用にハンドルを操りながら10tトラックでひた走るノルさんは、そんな歴史をわたしとヤンさんに聞かせてくれました。


「廃鉱山って人が住むための施設はとうに揃っているし、複雑に入り組んだ洞窟のお陰で探索は難しく、逃げるためのルートにも事欠かない。胸を張って街を歩けない奴らにとっては穴場だったわけよ。

 でも難点がひとつ、物資補給が面倒くさかった」


 このお話、本当にわたしたちの本来の目的である買い出しに関連していくのかしらと、わたしとヤンさんはついつい顔を見合わせてしまう。


 そんなわたしたちの気持ちなんてつゆ知らず、マイペースに運転しながらノルさんは話しづつけていく。


「そこに目をつけたのが、近所で極貧農家を営んでいたヘルナンデス家だった。

 愛用のラバ10頭と、壊れかけのTOYOTAの二輪車を駆使して、最初は自分たちが育ててた農作物を、ゲリラから信用を得るにしたがって武器・弾薬までも運ぶようになった」


「それは、いいんですけど・・・・・・このお話、オチがぜんぜん読めませんよ?」


「せっかちね。まあ、もうちょっと黙って聞いてなさい」


「分かりました・・・・・・」


「んで、互いに益になるその蜜月関係は、ある日とうとつに終わりを告げられてしまう。極右民兵こと我らがAUCが、襲撃を仕掛けたせいでね。

 こうして岩塩坑は、またしても空っぽになってしまった。だけどすでに好立地であることは知れ渡っていたから、次の住人が現れるまでそう間は開かなかった。メデジン・カルテルという住人がね」


 人に歴史あり。物や土地には、さらに深く長い歴史があるものです。興味深くはありますけど、やはりいまいちオチが見えてこない。


「奴らカネだけは持ってたから、暮らしやすくなるよう廃鉱山をさらに改良したの。コカインを精製するために、ちょっとした広場を整備したりとかね。だけど相変わらず、ジャングルのど真ん中にあったから補給が細かった。

 そこに目をつけたのが、近所でよく知られた小金持ちのヘルナンデス家だった。

 愛用のラバ100頭と、最新のTOYOTAの4駆を駆使してヘルナンデス家は、カルテルにさまざまな物資を引き渡していった」


 歴史は繰り返すといいますが・・・・・・複雑怪奇なコロンビア情勢を煮詰めたようなお話ですね。そうこうしてるうちに、道路の具合はさらに悪化。舗装こそされてないもののよく整地された砂利道から、泥の混じる獣道へとトラックは、突入していく。


 はんぶん腐り落ちたフェンスは、おそらくここが岩塩坑として機能していた頃の名残なんでしょう。自然に飲み込まれつつある錆色した重機だったものといい、廃墟の面持ちがそこかしこに溢れています。


 なのにどうしてかわたしの感想は、活気のある場所だなという、廃墟とは真逆なものでした。だって単純に人がたくさん居るんですもの。


 岩塩坑の入り口であろう洞窟の奥からは、煌々と明かりが漏れています。ずいぶん遠くに思える街明かりを見下ろすようにちょっとした駐車場が整備されてまして、そこには、わたしたちが乗ってきたような大型トラックの姿もあれば、マッスルカーやタクシーといった極端な車種の他にも、バイカーグループが単車にまたがってたむろしていたりする。


 全体的にどうにも柄が悪いです。


「だけどそんな蜜月も、メデジン・カルテルの消滅にともなって雲散霧消した。とはいえ、好立地であることに変わりはないわけでね?」


 なんとなく、論点が読めてきました。


「当てましょうかノルさん? カルテル亡きあとに岩塩坑を支配したのは、近所から押しも押されるぬ豪族として知られているヘルナンデス家であり、彼らは、この岩塩坑を現代の闇市に作り変えてみせたと」


「はずれ」


 滑るように駐車場にトラックを停まり、わたしたちは車から降りていきました。するとわたしたちのすぐ横を制服姿のおまわりさんが、電子レンジを抱えながらほくほく顔で通り過ぎていくではありませんか。


「今ここの闇市をとり仕切ってるのは、汚職警官とヘルナンデス家のコンビよ」


 ふらっと、むせ返るカルチャーギャップに倒れてしまいそうになる。出ましたよ、おとぎの国の流儀というやつが。法の番人である警察みずから、闇市を仕切ってるとか普通あります?


「・・・・・・法律とか、ここでは、絶対に口にしちゃいけない禁句なんでしょうねぇ」


「禁句じゃないわよ、なんの意味も持たないだけで」


 また言うものですね。


「確かにここは法律の外にある世界だけど、一周まわって治安は良いのよ。

 もしこの場所で暴力行為だとか、詐欺とか窃盗とかその手の犯罪をやらかしたら、汚職警官どもに即座に連行されて、ジャングルに生きたまま埋められるのがオチだもの」


 犯罪=即処刑とか、無茶苦茶な話もあったものです。どうやらそれが結果的に、高度な抑止力になっているらしいですけど。


「ある意味で、警察はちゃんと働いているわけですか」


 法律じゃなく、どうにも欲望に基づいて働いてる気はしますが。


「ただ見つからなければ何をしてもいいと考えてるバカは、どこでも跡を絶たないからね。1人でひょこひょこ物陰とかに行かないこと。どうなっても知らないわよ」


「治安良いのか、悪いのか、どっちなんですか?」


「強いていえば、客層が悪い。脛に傷ある奴らしかいないからねえ」


「なんてところに・・・・・・って、汚職警官ということはノルさん。まさかわたしをホテルで拉致しようとしたグループとこの闇市を取り仕切ってるグループ、関係があったりはしませんよね?」


「あのねぇテッサ・・・・・・この国にどんだけ汚職警官が居ると思ってるの?」


「そんな無数に居るみたいに言わないでくださいよ」


「現にいるんだから仕方がないでしょ。カルテルべったりの連中もいれば、自分たちのことは自分たちでやるっ!! って独立独歩なグループもいるの。ここは、典型的な後者のパターンね。

 だからこの闇市は誰でもウェルカムな環境なのよ。カルテルも、ゲリラも、民兵やもちろん警察だって、中立地帯であるここなら誰でもお買い物ができる。

 ここら辺は、ヘルナンデス家がうまい具合に調整役を買って出たお陰ね。オレもよくここで買い物したものよ」


 しみじみとノルさんが言われました。


「良い点に目を向けると、みかじめ料はあっても政府に税金は取られないから、どの商品も格安って点だわ。だいたい食料といっしょに武器・弾薬までいっぺんに仕入れられる市場なんて、コロンビア広しといえどそうはないわよ」


 言われてみれば、たしかに正規の市場では、新鮮なお肉のよこにAK-47がおもむろに陳列されていたりはしないでしょう。ですがここなら? さも当然という顔して並べられてそう。


 どうしましょう・・・・・・わたしのなかで偏見の種が育っているのかも。コロンビアなら普通ではなんて、勝手に思い込んでました。そうですよね、武器・弾薬と食料品は普通、同じ場所で手に入ったりはしませんよね。


 まるで巣穴に吸い寄せられるアリの群れよろしく、なんだか雰囲気がよろしくない買い物客たちに混じりつつ、わたしたちは洞窟の中へと歩みを進めていったのです。









 岩塩坑の名にふさわしく、白っぽい岩盤がその洞窟を形作っていました。


 岩塩をくり抜いて鉄のアーチで補強されたそこは、洞窟というよりもトンネルという表現のほうがしっくりきます。ときおり小部屋が枝葉のようにトンネル横に併設されている以外は、ひたすら一本道がつづいている。


 その壁は、時間が経ったせいでしょう。採掘当時はヤスリがけされたように綺麗だったに違いありませんが、今は樹液のようにゴツゴツした塩がそこかしこから吹き出していました。


 中には、吹きでた塩が滝のように巨大化してるものもあって、ついつい自然の驚異という言葉を連想してしまう。


 わたしの感想はこうです。闇市になんかしないで、素直に観光地にしたら受けが良さそうなのに。ですが現実には、カメラを抱えた観光客の代わりに、この厳粛な地下世界を行き来してるのは、やたら凶悪な顔つきをした人々なのです。


 洞窟特有の反響音のせいで、闇市の騒々しさが何倍にも増幅されてました。わいわいがやがやの騒がしさに、色々な音楽が混ざり合い、中には銃声までも聞こえだす。


 たくさん這い回っているケーブルを跨ぎ、いざ噂の闇市へと足を踏み入れてみたとろこ、そこは――なんなんでしょうね? たぶん混沌カオスという呼び名がいちばん的確かしら。


 これまでを思えばぐんと高い天井が目の前に広がる。縦に長ければ、横にも広いその空間は、まさに広場の名がふさわしいでしょう。具体的にはどのくらい広いのかと申しますと、本日全品20%引き!! なんて巨大看板をくるくる振りまわしてるサベージが余裕を持って直立できるぐらいの高さがある。


 このようにASまで陳列できるレベルの広さが確保されているものの、所狭しと屋台が置かれてるせいで圧迫感のほうが先に立つ、わたしの想像よりも何倍も巨大だった蚤の市がそこにありました。


 一方を見てみれば、大量の銃火器が陳列されている武器の密売所あり、その対岸では何やらお肉を焼いている屋台が、食欲を刺激する匂いをあたりにただよわす。そこからちょっと離れたところでは、なにやらお店の人がフォークリフトを器用に操りながらASのパーツを搬出し、そんな作業風景を眺めながらナルコ・コリードの歌手が、即興ライブを開催してました。


 すべてが雑然としていて、統一感なんて微塵もありません。 


「最高にエコな環境よね」


「色々と意味不明なことをこれまでノルさんの口から聞いてきましたけど、今回はとびきりに意味不明ですよ」


 なんかもう見てるだけで疲れてくる空間なんですが、何をどうしたらリサイクル精神と結びつくのか? 本当に意味不明すぎです。


「よく御覧なさい。強盗だとか泥棒だとかが盗み出したものを、警察が一般市民に向けて販売してるのよ?」


 言われてみれば、悪目立ちしてるいかにも犯罪者ーという方々に混じり、普通の格好をしている一般人の姿もちらほら見受けられます。誰でもウェルカムな闇市というのは、誇大広告ではないのでしょう。


「この闇市で一般人が商品を買って、それを泥棒が盗み、警察が押収してこの闇市でまた売りに出す。これぞ完ぺきなる食物連鎖、リサイクル精神の現われよ」


「わたしには腐敗とか汚職とか、そういった言葉しか浮かびませんけど・・・・・・」


 あるいは違法な転売。どちらにせよ、よろしくないでしょう。


「大丈夫、大丈夫、ぜんぶがぜんぶ盗品ってわけじゃないから。創意工夫をして、新商品の開発に精を出してるクリエイター肌もいるわよ」


「具体的には?」


「昔は海賊版DVDのパッケージってマジックで手書きされた文字オンリーだったのに、その界隈では有名な絵師を雇い入れたとかで、独創的なパッケージアートが付くようになったわ」


 どうも根本的に海賊版DVD自体が問題だとは、どうも認識していらっしゃらないみたい。


 手近なDVD屋さん(非公式)にチャイナドレスの麗人が近寄っていったかと思えば、陳列されていた海賊版映画を手に取り、こちらに見せつけてくるノルさん。


 そのタイトルには覚えがありました。休暇中の刑事さんが偶然にもテロリストと一緒にビルに閉じ込められてしまい、孤軍奮闘するというお話です。


「ほら見てみなさい。主演俳優の顔がブルース=◯ィリスじゃなく、ぜんぶ手書きのダニ―=◯レホに置き換わってる」


「誰ですか◯ニ―=トレホって・・・・・・」


 あの映画の魅力って、普通の体格をした主人公が悪戦苦闘するあたりにあった思うんですけど、その改造版のパッケージでは、むしろどうやったら倒せるのかと頭を悩ませたくなるむくつけきラテン系のおじさまが、下手ウマな絵柄でもって描かれてました。


「惨たらしく死ぬラテン系の役があると聞いたら、地の果てからでも駆けつけるマチェーテ抱えた変なおっさんよ。カルテル関係者の間では、スカーフェイスのアル=◯チーノと並んでカルト的な人気がある」


「その人気にあやかって、スター・ウォーズのパッケージまで書き換えてしまったんですか・・・・・・」


 呆れながら別の映画のパッケージを手に取るわたし。


 ルーク=スカイウォーカーは百歩譲って良しとするにしても、レイア姫まで件のダ◯―=トレホ氏に書き換えてしまうのは、どうかと思うんですけどね。ドレスが筋肉でぱつんぱつんですよ。


「そもそもですねノルさん。海賊版の映画を見るのも買うのも、立派な違法行為って知ってましたか?」


「むしろ正規版のDVDってどうやったら手に入るの?」


 なんてことでしょう、海賊版産業が根付きすぎてました。


「カルテルからしたら、海賊版DVDって馬鹿にできない稼ぎだし」


 確かに、正規品に比べたら激安なんてものじゃない値札を見ると、他で買うのが馬鹿らしくなるでしょう。そもそも摘発する側がせっきょく的に売りに出してるわけで、違法性にツッコミいれても肩が凝るだけな気もします。


「大佐殿、時には諦めも肝心ですよ」


 援護射撃をちょっと期待していたヤンさんですら、疲れたように苦笑いするばかりですし、スルーするしかなさそう。そもそも客観的に見れば、わたしたちだって十分に犯罪者の範疇に入るわけで、ここは目的達成を急ぐべきでした。


 この闇市の良い点をあげるなら、ツインテール+チャイナドレスの怪人と、童顔過ぎてときに中学生に間違えられるわたしと、あと普通なヤンさんという、よく分からない3人組が普通に場に溶け込めてしまうことでしょう。


 だって金色のチェーンで全身を武装しているいかにもなカルテル関係者やら、ウィンドウショッピングを楽しむ軍服姿なゲリラやらの横で、警察官が屋台料理を突っついてるのですから・・・・・・ほんとカオスにすぎる空間です。


「久しぶりね」


 軽く挨拶しながらノルさんがまず乗り込んだのは、入り口ちかくという中々の好立地に店を構えてるわりには、商品らしきものを何も並べてない屋台でした。


 そのお店のなかでは、ついさっきまで小型テレビで漫然とメロドラマを眺めていたタンクトップ姿に変な口ひげをしたラテン系の男性が、驚いたようにノルさんを見つめ返している。


「・・・・・・お前、ウソだろ?」


 ごりごりのコロンビア訛りなあたり、40代ほどのこの男性、ノルさんと同じく地元の出みたい。当人の口調どおり、その顔面には驚きが広がってました。


「死んだんじゃなかったのか?」


「どこから出たのよその怪情報?」


 呆れ顔のノルさんに、幽霊でも見る顔のままで男性が言います。


「だってお前、いきなり超特急で闇医者を手配してくれといったあと、ずっと音信不通だったんだぜ? どう考えたって死んだと思うだろう。大体、傷を蝶々結びでしか縫合できない医者だったし」


「手配した側がいう台詞じゃないわね、それ」


 ツンツンと、わたしはノルさんの背中を突きました。


「どなたですか?」


「そうね・・・・・・分かりやすく説明すると、野球帽をひとつしか見つけられなかった使えない調達屋よ」


「おいバカ抜かせ!! B.S.S.の制服を手に入れるのがどんだけ難しいか、知らないくせして!! 1個でも手に入れられたことを俺に感謝しろよな!!」


 するとかたわらのヤンさんが、ああ彼がとでも言いたげな表情を作りました。


 七転び八起きもいいところな、あの出鱈目なスタジアムへの潜入劇。わたしは元軍人のサガとして、自分でも律儀ですねと呆れながらノルさんとヤンさんに事後聴取デブリーフィングを行っていたのです。


 これはそこで聞いた話なのですが、潜入にあたってB.S.S.の警備員に化けたまでは良かったものの、どうしても警備会社が支給してる正規の帽子がひとつしか手に入らず、そのことでひどく苦労させられたそうなのです。


 ですがそもそも、ノルさんは警備服って一体どこから来たのでしょう? どうもその答え合わせが、わたしたちの目の前にいる調達屋さんであるみたい。


「ところでそちらのお嬢さんはなんだ?」


 調達屋さんの当然の疑問にノルさんは、わたしが持ち抱えていたリュックサックの中身を見せつけことで答えていきました。


「こっちは急いでるの、カネならあるからさっさと商談をはじましょう」


 コロンビア・ペソよりもドル札のほうが通りがいいとの助言を受けて用意してきた甲斐あってか、調達屋さんの目がぱっと輝きました。


 さっきまでの困惑と気だるさはどこへやら、朗らかな商売人スタイルへと調達屋さんは早変わりしていきました。


「どうもはじめましてー!! 俺はこの市場で調達屋をやってる“マスかき”=ウーゴってもんだ!!」


 差し出された握手の手。それを握り返そうと手を伸ばしながらわたしは、聞いたことのない珍妙な異名に頭を悩ませてしまう。

 

「そう、ですか、えーとマス――」


 なんちゃと続けよとして、いきなりヤンさんが横から割って入ってきて、握手は未遂に終わってしまう。


「教育に悪いことを大佐殿に吹き込むなよ!!」


 この態度からしてどうもあのあだ名、隠語かはたまた淫語のたぐいであったみたい。あわやのところで助かりましたが、ちょっと恥ずかしい・・・・・・。


「なんだコイツら?」


 どうもわたしとヤンさんは、自分たちの文化圏とは違うところから来たらしいと察した調達屋さんあらためウーゴさんが、ノルさんにそう尋ねました。


「むかし潜水艦を作ってたウブなネンネの大佐殿と、アメリカ政府から指名手配されてる風紀委員気取りな元DEAラ・ディアよ」


「意味わかんねえな」


 冷静に言われると、わたしにだって意味分かんない経歴ですとも。


「まあ、ともかく」


 そう言って、ウーゴさんは場を仕切り直していく。たぶん初見のお客さんに何度も聞かせてきた説明を、わたしに向けて話しはじめる。


「この市場メルカードは広い。見て回るだけでも手一杯だし、在庫として裏に隠されてる品物に至っては、客からすれば目が触れようもない。

 だから俺みたいな、どこの店になにが置いてあるかすべて把握してる調達屋が必要になるのさ。ここでオーダーを出してくれりゃあ、わざわざ足を棒にして探し回らなくたって、俺が店とちょくせつかけ合って適正価格で品物を用意してやる。

 もしこの市場にすら見当たらないような特殊な品だって、八方手を尽くしてコロンビア中から探し出してやるさ」


「ただし帽子は除く」


「うるさいな」


 ノルさんの茶々にすら的確に答えていくウーゴさん。この寸劇からしても、ノルさんとは古馴染みなんでしょう。場所が場所ですからボッタクリを警戒したいところなんですが、こんな一等地に店を構えているのも信頼に寄与してる気がします。


「本当になんでも頼めるんですか?」


 わたしの問いに、当たり前だと言いたげに胸を張るウーゴさん。


「爪楊枝からアーム・スレイブまで、ここなら何でも手に入るぜ。ちなみにウチの紹介なら、出物のジャンボ・ジェットが3割引きで買えるぞ」


 誰が買うんですか、そんな大物。


 それはともかく、ウーゴさんの商売トークももっともでした。わたしたちの買い物リストの流さったらなく、お店で買ってはトラックに運び込んでなんてのを律儀にやっていたら、いつ終わるのか知れたものじゃありません。


 でしたらノルさんの紹介ですし、手数料も手頃ですし、頼んでみようかしら。


「じゃあ、さっそくお願いしてもいいですか?」


「あたぼうよ。品は、いつもの港湾労働者組合のトラックに積み込んどきゃいいんだろ?」


 手慣れた対応、ノルさんなんどこのお店を利用してきたのかしら?


「では、ちょっと長くなるのでメモを用意してください」


「ああ―、いらないいらない。俺はコロンビアの記憶力選手権で参加賞を貰ったやつと、バーで一緒に飲んだことがあるほどの腕前だぜ」


 それは自慢になるのかしらと真剣に悩みましたが、自信たっぷりなご様子でしたからあえて言及は避けることにしました。


「そうですか、では――」


 わたしは一息に、頭の中に保管してきた買い物リストをそらんじはじめる。


「まず15人分の肉、野菜、パンや小麦粉といった食品を半年分。そこに加えて、長期保存可能な完結型の保存食もお願いします。MREレーションがベストですが、無いなら市販の缶詰でも構いません。こちらも出来れば半年分、なければあるだけください。

 つづいて武器・弾薬ですが、まず40mmグレネード弾を200発、RPG-7用の対戦車弾頭を30発、9mmパラベラム弾を3000発、7.62mm×51NATO弾を5000発、5.56mmNATO弾をおなじく5000発、あっ、後者はM193弾です、くれぐれもM855弾と取り違えないように。

 爆薬も欲しいんですが、これはこちらの爆弾技師が有能ですのでモデルは選びません。C4でもセムテックスでも、品質と値段の釣り合いができてる品ならなんでもござれ。ただし工事用などは遠慮します。TNTとかダイナマイトは、汎用性に欠けますから・・・・・・これを200kgほど。

 ここからはちょっと趣向が変わります。ぬいぐるみセットにクレヨンを少々と、それにソーイングセットに新品の圧力鍋、ボードゲームとか、みんなでできる娯楽も必要かしら?

 でもなにより本が欲しいですね。ゲバラ日記とか誰かさんが頼んでますけど、前例からいって大人びて見られたいだけで、どうせ途中で飽きて挫折するのが目に見えてますから、保険として全年齢向けのコミックブックのセットと、子ども向けのさまざまなジャンルの活字本、初等、中等、高等向けのスペイン語および英語の教科書と、あとはベリンダちゃんたっての希望であるポケット聖書もですね。

 あとは、難しいのは承知してますけど、ぜひとも地球平面説を完ぺきに否定できる子ども向けの化学本もお願いします。月から地球を撮影した写真でもこのさいOKです。

 つぎは映画のDVDですね。海賊版を購入せざるおえないのは気になりますけど、どうしてかバック・トゥ・ザ・フューチャーのPartⅡしか船には置いてなくて。どうやって始まったか分からず、どう終わるかしれない三部作の真ん中しか見れないなんて、こんなに残酷なこともありませんから、ぜひとも三部作のコンプリートを果たしてください。

 そしてもちろん医薬品の数々も、ですね。風邪薬、絆創膏、湿布といった日用品からアドレナリンや止血帯といった非常用まで万遍なくお願いします。これには除細動器といった医療機器も含まれます――あとは、1000リットルのディーゼル燃料も忘れずに、という辺りでおしまいかしら」


「・・・・・・」


 油の切れたブリキ人形のように、ぎぎぎとウーゴさんがノルさんの方を見やりました。


「なあ、この嬢ちゃんって・・・・・・」


「そうよ、頭が良いのを鼻にかけてる」


「あらぬ疑惑に抗議しますよお二方」


 結局、わたしが当初アドバイスした通り、なが―い買い物リストが作成される運びになりました。それを目を細めながら睨みつけるウーゴさん。その態度にちょっと不安がよぎりました。


 流石に頼みすぎたかしら?


「うん、まあ、ちょいと時間が掛かるな」


 こんなん揃うかという返答よりはずっと色よい返事だったものの、やはり集めるのに時間は掛かりますよね。


「その、物によっては1週間後に引き取るとかでも構いませんけど」


 今夜の食事にも事欠くレベルですから食料品は譲れませんが、それ以外のものは、リスク承知でのちのち引き取るしかないかもしれません。


「いや今日中にぜんぶ揃うけど・・・・・・まず集めて、それから積み込みむわけだからやっぱり時間はかかる」


「具体的にはどのくらいかしら?」


「ざっと1時間」


 早っ・・・・・・かなり細々としたオーダーまでしたのに、たったそれだけで済むんですか?


「混んでるからな。空いてる時刻ならこのぐらいの量、半分の30分で終わる」


 今度はこっちが、ぎぎぎとノルさんを見つめてしまうターンでした。


「腕は良いのよ」


 ノルさんが信頼するわけです。この宣言は、きっと大言壮語の類ではないのでしょうね。


 そういうことならとさっそく頼んでみたところ、会計もまた早いもので、しっかり領収書まで頂いてしまった。その内容も目を通してみたところ怪しい点は見受けられませんでしたし、なんでもサービスとしてこの市場の管理者たる汚職警察たちが、窃盗防止のためにわたしたちのトラックを見張ってくれるといういたれりつくせりぶり。


 ウーゴさんは、さっそく携帯電話に齧りついてお店との交渉をはじめ、彼の下で働いている見習い調達屋さんのみなさんも、素早く市場へと散っていくあたり頼もしいかぎり。


 一方、ずいぶん軽くなってしまったリュックサックを抱えたわたしときたら、呆然と眺めるばかり。トントン拍子すぎて瞬間でやることがなくなってしまいました。


「さて、屋台でも冷やかして、お腹の贅肉でも増やしてみる?」


 いたずらっぽくノルさんが話しかけてくる。目的の99%は達成されましたが、まだわたしには、使命がありました。


「いいえ・・・・・・正直に申しますと、それもちょっと魅力的なんですが、この世には食欲よりも大事なことがあります」


「それってなに?」


「服ぐらい自分で選んで買いたいんですよ、わたしは」


 タイムリミットは1時間。その時間を最大限に活かすことに決めたわたしは、細々とした品を買い込むべく市場へと繰り出していったのです。









「うわぁ・・・・・・」


「この市場を見て、そんな感想漏らしたやつ初めて見たわよ」


 なにせわたしは、ウィスパードとして全世界から狙われる身だったのです。ですからこういう人がごった返してる空間からはこれまで、きょくりょく遠ざかってきたのですが。


 でもですね? その僅かな経験からしてもこの空間の異様さは、すぐ理解できました。


「ノルさんノルさん」


「なによ?」


「じゃがいもがキロ単位で売られてる屋台の横で、どうしてか麻薬王のトレーディング・カードが売られてます」


「人気なんでしょ」


 活気があるのは良いことです。その活気に従って品揃えが豊富になっているのも、悪いことではないでしょう。問題はそのラインナップです。


 明らかに絶滅危惧種であるウミガメの卵ですとか、いつぞやの新聞で見た、盗難されたとかいうシモン=ボリバルの歴史的銅像までなんでもござれ。あげくがこの謎めいたトレーディング・カード屋さんです。実在の麻薬王とその部下たちの顔写真が、怪しげな戦闘力とともに小さな紙ッペらに印刷されてました。


「ね、ねえ? キミさ、グリゼルダ=ブランコのレア持ってない? モンドラゴンの謎のイスラエル人と交換しようよ・・・・・・こっちはコモンレアだけど」


 カードをたくさん手に持った謎めいた人物に話しかけられて、ヤンさんは明らかに困惑してました。


「い、いや、持ってない・・・・・・とういかなんで僕が持ってると思ったよ?」


 肩を落として去っていくたぶんマニアの方。どこにでも趣味の人は居るということなのでしょうか?


 製造元はどこなんだが、商店に並べられていたカードを適当に手に持って、しげしげと眺めてみます。なにやらキラキラ光ってるそのレアカードに印刷されているのは、ご存じパブロ=エスコバルでした。


「暗黒小説にアンチ・ヒーロー、他にも判官贔屓とか色々とあるんでしょうけど・・・・・・」


 悪人である麻薬王がこうまで民衆から支持される背景について、いろいろと思い馳せてしまう。わたしのふと思いついた疑問に、ノルさんは彼なりの考えがあるみたいでした。


「なにもかも不公平な世の中だと、清廉潔白なんて一銭の価値も持たなくなるのよ」


「ちょっと冷たすぎるものの見方に思えますけど、でも、そうかもしれませんね。正しい人よりも成功している人のほうが持て囃されるのは、世の常ですから」


「社会問題に思いを馳せるのも結構ですが、大佐殿」


 そう声を潜めながら、わたしの背後を守るように周囲にせわしなく視線を放っているヤンさんが言いました。


 その手は上着のまえで組まれ、いつでも腰に隠し持っているハンドガンを抜ける姿勢、すなわちボディーガード・モードになっている。わたしたちのなかで一番真面目なの、どう考えてもヤンさんですよね。


「自分は気がきじゃありませんよ。肩が触れ合うほどの人混みほど警護が難しい場所もないのに、そこに加えて客層もアレなんですよ」


 いきなりスペイン語から英語に切り替えたのは、そのアレな客層へのヤンさんなりの配慮だったのでしょう。


 だってこの市場では、銃を持っているのが当たり前。屋台の合間を行き来している人々のなかには、抜き身のライフルを肩から下げている方も多い。そもそも、たぶん鉄砲屋さんの試し撃ちなんでしょうが、銃声が定期的にこだましてくる環境なのです。


 物騒なんてものじゃありません。ヤンさんの危惧ももっともでした。


 ですが、


「大丈夫、大丈夫」


 ノルさんときたら呑気そのもの。こんな姿、逆に珍しく思える。


「地元の人間は、絶対にここではバカはやらないわよ。ここが無くなって困るのは、ゲリラも、民兵も、カルテルだって同じなんだから」


「過信は禁物だよ。だいたい、その理屈だと何も知らない部外者が暴れる可能性があるじゃないか」


「こっちは経験からものを言ってるの。暗黙のルールって、こういう界隈では強い拘束力をもつものなのよ。現に――ここにDEAラ・ディアの捜査官が居るわよッ!!」


「ヤメロよなッ!!」


 ノルさんのよく通るハスキーボイスに、ヤンさんの悲鳴じみた絶叫の二重奏が加わります。


 わたしたちの周囲にいた、こう明らかにカタギではない方々が訝しげな視線をこちらに向けてきましたが、その好奇心もすぐ“安いよ、安いよ”という客引きの叫び声にかき消されたのか、興味を失っていく。


「ね? 問答無用でカルテルから死刑判決を受けているDEAの捜査官すら、中立地帯のここでなら相手にされない」


「・・・・・・仲のいい元同僚に、ここについて密告したっていいんだぞ?」


「その同僚ちやらが、お宅の情報提供者CIとここで会ってなければいいわね? あっちの方にあるラ・カフェって名前の、うん、まあこれ以上ないぐらい名がたいを表してるお店でよく、お宅の捜査官が密かに会合開いてるって聞くわよ?」


「どうして君は!! 僕も知らないDEAの内部情報にそんな詳しいんだよ!!」


「スパイ代をケチるからそうなるの。カリみたいに、良い密告にはパジェロ贈呈とか広告を打つべきね」


「そんな予算があるか!!」


 もう幾度、この虚しい戦いを見てきたことか。基本的にこの2人の喧嘩って、トムとジェリー理論なかよくけんかしなで説明がつくので、わたしとしては放置が安定していたのです。


 洋服屋さんは出入りが激しいとかで、市場に比較的に詳しいノルさんすら足で探すしかないと言い張っていたからこその寄り道。このペースでは、物見遊山で終わってしまいそうで怖い。


 かといって喧嘩を止めに入る気力もなく、なんとなく目の前のべつの麻薬王トレーディングカードを手にとってしまった。


 このカード、マグショットや報道写真の切り抜きなど、できるだけ実際のビジュアルを採用しているみたいなんですが、中にはいっさい表舞台に出てないカルテルのメンバーも居るらしくて、黒一色の背景のうえにクエスチョンマークがひとつというビジュアルも散見される。


 なんとなく米軍がかつて作成したお尋ね者トランプカードを連想してしまうわたしは、その容姿不明な謎めいたカードを見ながら、言い合いに明け暮れるノルさんにちょっと質問してみました。


「あの、ノルさん。このオクタヴィア=ドレスニコバというモンドラゴンの幹部の女性? なんですけど、ご存じだったりしますか?」


 以前、小耳に挟んだことのある名前だから聞いてみた。それ以上の深い意味なんてなかったのに、その反応ときたら劇的でした。


 静まったのです、ノルさんだけでなく周囲の買い物客までもが一斉に。


 さすがに市場の隅々までとはいきませんでしたが、わたしの声の届く範囲の誰もが黙りこくると、静寂がいやでも耳につきます。


「テッサ」


 ちょっと怯えてるわたしの両肩に、ノルさんが脂汗をかきながら手を載せてくる。


「そ、そこまで禁句なんですか?」


 オクタヴィア=ドレスニコバ、その名前を呪文のように唱えた途端、傲岸不遜な女装癖の彼すらこうまで怯えるのですから、ただ事ではありません。


「想像してみて? キノコ型のチョコ菓子の愛好家と、タケノコ型のチョコ菓子の愛好家・・・・・・この二勢力が世界を舞台に血で血をあらう抗争を繰り広げてることは、テッサだってもちろん知ってるわよね?」


「初耳なんですけど」


「もしその二勢力の間にのこのこと、ようはチョコなんだから板チョコ食べればいいじゃないと、マリー=アントワネット流にのたまう奴が現れようものなら・・・・・・」


「あの、単純に喩えがピンときませんし、マリー=アントワネットのあの有名な発言って、別の方のそれと混同されたものというのが、今では通説になっているはずなんですか」


 チョコ愛好家って、そこまで暴力的なものなのかしら? ちょっと想像がつきません。


「そんなのどうでもいいの。それより、話を戻すけど」


「“マリー=アントワネット流にのたまう奴が”の下りからですか?」


「ええ」


「どうなるんです?」


「死ぬ」


「また単刀直入ですね・・・・・・」


 名前を口にするだけでそこまで?


「“夜の風”、“我らを生かすもの”、“ミチョアカンの鏖殺魔”、“ドゥーム・スレイヤー”・・・・・・あだ名は無数にあるんだから、どうしても呼ばざるおえない状況に追い詰められたなら、せめてそっちで呼びなさい」


 すると、ノルさんはつくり笑いを浮かべながら、今だに息を殺してこちらを見守っている周囲の人々にこう呼びかけていきました。


「すいません、この子ったらヤクを抜いてまだ3日で・・・・・・禁断症状のあまり、突発的に意味のない言葉を口走っちゃうですのー、ホホホ」


 かなり不名誉な称号を授けられた気がしましたが、周りはそれで手打ちとしたらしく、なんとなくそうだったのかと自分を無理やり納得させたような顔しながら足早に去っていく。


 なんなのかしら・・・・・・。


「個人的な印象なんですけど、なんか、ハイメ=モンドラゴンより恐れられてません? この“女性”ってば?」


 いまいち深刻になれきれずにいるわたしとしては、それは当然の疑問でした。


 組織のボスより一幹部のほうが、名前を口にしただけで呪われるレベルで恐れられるなんて。いくらなんでも過剰反応がすぎるというもの。そこに意外な人物が会話に加わってきました。ノルさんと同等、下手したらもっと深刻そうな顔をしたヤンさんでした。


「大佐殿、まだハイメ=モンドラゴンは会話が成立しますが・・・・・・ちょっとその、“アレ”の場合はそうもいきませんから」


 もはや1人の人間というより、神話上の怪物のような扱いを受けてました。なんなのかしら? オクタヴィア=ドレスニコバって。でもなんとなく、知らないほうが幸福な気もします。


 とりあえず、商品を冷やかすばかりで営業妨害にしかなってないわたしたちをカード屋さんがとても嫌そうな顔して睨んできたので、場所を移すことにしました。


 ぶらり、ふらり、あっちやこっち。そろそろ慣れてきてらしく、わたしの気持ちも困惑より好奇心が勝りだす。


「なかなかありませんね~」


 こんな広くて品揃えもいい闇市だというのに、洋服屋さんが一件も見当たらないなんて、異常事態じゃないかしら。


「さっきTシャツ売ってた屋台があったじゃないの」


「ノルさんあなた、わたしが血みどろグロテスクなデスメタルのバンドものTシャツ着たとして、似合うと思いますか?」


「ミズ・パックマンのTシャツは良かったんじゃない? 現状に即してて。口もと油でテカテカだわよ」


 指摘を受けて、あわてて頬を染めながらハンカチで口もとを拭うわたし。夕食前の絶妙な時間帯、お腹が減るのも当然なんですが、間食の言い訳としては微妙なところかしら。


 豚の丸焼きの中身だけくり抜いて、その中にお米と豆と玉ねぎを混ぜこみひたすら焼く――コロンビアの伝統料理レチョナ。外観だけでも豪快さが伝わってくるお料理なんですが、その味もまた大胆不敵で、正直とてもおいしかった。


 お米とパイナップルを発酵させてつくられたジュース、マサトも一緒に飲み干して、空になった容器を近くのゴミ箱へと放りこむ。本当にこの闇市、見ために反して管理がすみずみまで行き届いてるらしく、こういったゴミ容器ですとか仮設トイレがそこかしこに置いてあるのです。


 こういう客層ですと、ゴミなんてそこらに放り捨ててしまえとか考えそうなものですが、“ここにポイ捨てをしたカルロス=パルド(26)は、今はゴミと共に埋まっている”とか注意書きが書かれていると、自然と襟を正したくなるものらしく。


 この手慣れた感じ、何年も闇市が安定してつづいてきた証拠なんでしょうね。


 呑気なわたしたちと、あくまでプロらしく神経張り詰めてるヤンさん。変なトリオの探索はつづく。


 ノルさんが言いました。


「服が見つからないようなら、先にこっちの用事を済ませていい?」


「用事って、拳銃を買い換えるうんぬんの話ですか?」


「そうそう」


 ノルさんが愛用しているハンドガンは、PSSピストルというソ連が開発した暗殺用の消音ピストルです。その作動音の静かさは折り紙付きで、それゆえにノルさんだってこれまでずっと使ってきたのでしょうが・・・・・・どうも最近、その調子がすこぶる悪いそうなのです。


「油差したり、あっちこっち削ったり、どんなに手をかけてもふとした拍子にスライドが固まるんだから。もうおっかなくて使ってられない」


「弾薬もほかじゃ手に入らない、特殊規格ですしねー」


 7.62mmx42弾というこの口径、ほぼPSSピストル以外では採用実績のない規格なのです。実際、ノルさんも手元の在庫を使い切ったらもう終わりとつねづね言ってましたし、まさかロシア政府から予備の弾を送ってもらうわけにもいかないでしょう。


「便利なんだけどね。汎用性という点ではゼロどころかマイナスだけど――それに銃だけじゃなくタバコも欲しいし」


 我ながら、渋ーい顔してるのが分かりました。それに気づいたノルさんが、急に声を作り出す。


「“もぅ、ノルさん。タバコの健康被害がうんちゃらかんちゃら”」


「わたしそこまでぶりっ子してるつもりは、ありませんけど」


「人間、誰しも自分のことが一番わからないのね」


 しれっと知ったかぶりを披露しつつ、近場の雑貨屋さんにさも当然という顔をして入店していくノルさん。迷いのないあの動き、こうなると付き合うしかなさそうです。


 一歩遅れて入っていったその雑貨屋さんは、これまでのいかにもな屋台然としたデザインと打って変わって、ちゃんとお店の体をなしてました。といっても大きめのテントでしけど。


 人を置いてきぼりにしながら、薄暗く、そして怪しげな店内を進んでいくノルさんは、そんなお店の雰囲気とは不釣り合いにとっても普通な感じの店主さんに話しかけていきました。


モンザナ・ロハレッドアップルはある?」


 ノルさん愛飲の銘柄を聞いて、ラテン系の店主さんは答えました。


「裏に何カートンかあるが、持ってくるのが面倒くさいからモーリーを箱で買え。間違えて一桁おおく仕入れてしまってな」


「そのぶん安くなる?」


「いや、発注ミスを挽回するために値段をふだんの倍にしてる。言い値で買え」


「客商売に向いてないわね」


「・・・・・・女房も息子もみんなそう言う」


「モンザナ・ロハを3カートン、いつもの値段で」


 迷いなく入店していったことといい、やはり馴染みのお店でしたか。わりとノルさんってば、この闇市に入り浸っていたのかも。


 どうしましょう? やはり交渉が終わるまで、素直に暇をつぶすしかありませんか――このサンタ・ムエルテ専門店のなかで。


 船にある礼拝所カテドラルに、大枠では似てはいます。ロウソクが怪しくゆらめき、宗教的な文言の書かれたタペストリーが飾られ、無数のサンタ・ムエルテの小像が棚に並べられているあたりそっくりです。


 ですがこのお店の場合、神聖さよりも商業主義のほうがずっと色濃いのです。


 無数に商品棚に並べられた色とりどりのロウソクは、どうやらどこかで量産された品であるみたい。その証拠に包装紙には、バーコードまであらかじめ印字されている。


 “サンタ・ムエルテ信仰は、カルトじゃないぞ”とは、わたしがタバコについて苦言を呈するのと同じぐらいの頻度でノルさんのおっしゃってた台詞です。


 ですが、


「サンタ・ムエルテ、偉大なる力の持ち主よ。我らを救うべく、天から遣わされし存在よ」


 潜められたその祈りの声は、わたしにどうしてもおどろおどろしい印象を与えてくるのです。


 お店の奥まったところにサンタ・ムエルテの礼拝所が設置されていました。本物のミイラで作られていたあの祭壇を思えば、ここに飾られているサンタ・ムエルテ像は手作りなのでしょうか? ちょっと漫画カートゥーンチック、コミカルですらあるデザインです。


 ですがきっと大勢が訪れるのでしょう、こじんまりとした祭壇にはお花やお酒、さまざまなフルーツや写真に硬貨など、供物オフレンダのかずかずがたくさん並べられていました。


 そんな祭壇の前で、しわがれた中年女性の声が、祈祷の文言オラシオンを紡いでいくのです。


「すべての悪のエネルギーを遠ざけ、すべての悪人や悪行が近づかぬよう、あなた様の力で、新たな不幸がこの家に入り込まぬよう護りたまえ。

 父と子と精霊の御名において、アーメン」


 敬虔ではないものの1人のクリスチャンとして、どこか聞き覚えのある儀式でした。


 一通りの祈りを終えて、祭壇の前にひざまずいていた中年女性がこちらを振り返ってきました。


「あなたも一緒にお祈りする?」


 どういう反応を返すべきか、ちょっと迷ってしまう。結局わたしが選んだのは、曖昧な笑みと、それ以上に曖昧な返事。


「いえ、わたしは・・・・・・」


 それに対し、穏やかそのものな声で中年女性は言いました。


「大丈夫、サンタ・ムエルテ様はあなたが何を信仰していようとも、気になさらないわ」


 それはまた、ずいぶんと懐が広いなと素直に感じてしまう。


 実は中南米ほどクリスチャンの人口が多い土地もないのです。ブラジルは世界最大、堂々の2位はメキシコと、この土地ではキリスト教がひろく受け入れられている。


 父と子と精霊のという先ほどの祈祷の文言オラシオンもそうですが、サンタ・ムエルテ信仰とキリスト教との間には、多くの接点があると随分前から気づいてはいたのです。 


「正しい行いには正しい答え、邪なるものには沈黙を。いつだって大切なのは、祈りを捧げるがわの態度次第なのよ」


 先入観のせいでちょっと腰が引けてしまいましたが、この中年女性の態度ときたらまるで親戚のおばさんのようで、どうしたものかしら。


 厳しい戒律とか、それどころか聖典すらないと聞くサンタ・ムエルテ信仰は、やはり見た目に反してかなりカジュアルなものなのでしょうか?


「どう?」

 

 中年女性が人懐っこい微笑みで問いかけてくる。


「あなたには守りたいものや人、果たしたい目的はないの?」


 それはもちろん、ある。


 多くは望みません。わたしの近辺にいる親しい人々がささやかに、願わくば幸せに生きてくれるのなら・・・・・・自分がどうなっても構わないと、そう思ってはいる。


「いい願いね」


 囁くようにそう亜麻色の髪をした中年女性が囁きました。わたしはまだ何も言ってはいないのに。


「はぁ・・・・・・やはりそれが、あなたの弱点ですか」


 急に刺すような痛みが頭蓋骨のなかを走り、わたしは、


「大丈夫?」


 というノルさんの声を聞いて我に返りました。ちょっとしたショック状態で祭壇のまえに立ち尽くす。


「さっきからぶつぶつ独り言を話してたけど」


 ・・・・・・そんな馬鹿な。


 ですがついさっきまで中年女性が祈っていた場所を見てみれば、そこには小さな煙を浮かべるロウソクが、無人の祭壇で揺らめくばかり。


「ノルさんあの、そこに女性が居ませんでしたか?」


 自分でも無茶を言っているのは承知ですけど、聞かずにはいられない。だって確かにこの目で見て、この耳で聞いたはずなんですから。


「セニョーラ・アルチュレタなら朝昼の担当で、いまは家でゆっくりしてるんじゃないかしら。このお店に居るのは、わたしたちを除けば夜番のご亭主だけよ」


 ズキリ、頭痛がしました。


 心配そうなノルさんの顔がこちらを覗き込んでくる。ついさっきヤンさんの口から指摘されたばかりなのに、わたしは自分の弱みを見せまいと、急速に収まっていく痛みを無視しながら、あえて自信たっぷりにノルさんに言いました。


「いえなんでもありません・・・・・・こんな場所ですから不思議なお香に当てられてしまったのかも」


 幻覚を見ていてなにをと思いますが、この酷い言い訳にノルさんはさして疑問を抱かなかったみたい。


「マリファナぐらい慣れときなさいよ」


「ちょっと何を充満させてるんですかこのお店!!」


 ついさっきの頭痛はどこへやら、怒りとともに痛みも吹き飛んでしまう。


「冗談よ。アムステルダム直送の大麻専門店が向かいにあるのに、この店で独自のマリファナなんて売るわけないじゃない。それよりほら」


 そう言いつつ、スリの技能にもそれなりに熟達しているノルさんが、いつの間にかわたしのポケットに入っていたアスピリンの薬瓶をこちらに手渡してきました。


「また・・・・・・」


「文句はいいから飲んどきなさい。あんまり続くようなら、本気で病院に行かないとね」


 ぜんぶお見通しですか、ありがたく適量を飲み込みこんでいく。


「薬は足りてるようだから、別の加護がいるわね」


 そう言いつつ、ちょっと強引にわたしをキーホルダー置き場? につれていくノルさん。


「100%自然由来の素材を使用、誠実に接すればあらゆる万病に利く、手乗りサンタ・ムエルテよ」


「・・・・・・手乗りサンタ・ムエルテ」


 見た目に反して、意外とカジュアルな信仰なのかもしれないと思った矢先にこれです。いくらなんでもカジュアルすぎる。


「健康不安ならほら、琥珀色の外套のね」


「あの、色によってなにかご利益に違いとかあるんですか?」


 他にも白、赤、青と、木彫りらしい手乗りサイズのサンタ・ムエルテ像は、どれも色違いな外套を羽織ってました。


「頭痛はどう?」


「おかげさまで収まりました」


 なんだったのかしらアレ、幻覚なんて・・・・・・ですが不安は隠せと学んだ指揮官としての本能が、勝手に平気そうに振る舞ってしまう。


「なら別のお願いのほうが良いかもね。じゃあ、赤にしときましょう」


 琥珀色あらため、今度は赤色のサンタ・ムエルテ像をもたらせてしまう。


「この色が象徴しているものって、なんなんですか?」


「恋愛成就」


「なんか、悪意を感じるチョイスなんですけど・・・・・・」


 人のトラウマを抉ってくるスタイルに断固とした抗議を表明したのに、選んだ当人ときたら涼しい顔。


「他には、家族やビジネスパートナーと良縁を結ぶというのもあるから、一概に恋愛だけが対象じゃないわよ」


「縁結び、でいいんじゃないですかそれってば? といいますか、良いですかこれ? バチとか当たったりしません?」


「大丈夫よ。サンタ・ムエルテ信仰において大切なのは、ズバリ真心だから」


「真心?」


「風、火、土、あとは硬貨が望ましいけど、無いならコインチョコでも構わないわ。これらもちろん自然由来、化学製品は絶対に避けてね。そういうルールさえちゃんと守れば、サンタ・ムエルテはどんな願いも聞き届けてくれる。

 祭壇の場所だって、風通しのいい場所が一番好ましいけど、自宅やオフィス、なんならバックパック型にして持ち運んだりとか、もちろんポケットのなかだっていいのよ」


 そう言いつつ、人のワンピースのポケットにするり手乗りサンタ・ムエルテ像を滑り込ませてくるノルさん。


「見てるぞ」


 なんて、テントの奥から店主さんの声が聞こえてきました。よく見れば、テントの隅のほうに店内を監視するためでしょう、鏡が設置されてました。


「知ってるから堂々としてるのよ。タバコ代に上乗せしといて、もちろん適正価格でね」


「なし崩しに買い取る方向に向かってませんか?」


 あの、と店主さんに聞こえないように囁き声でチャイナドレス姿の麗人に話しかける。


「わたし別に、サンタ・ムエルテ教の信者になるつもりないんですけど」


「ならなくていいわよ、別にバチとか当たらないし。

 ちなみに信者になっても棄教は簡単にできるわよ? 適切な手順にのっとって離別の儀式をしたら、最後には人目に触れないよう聖像を壺に納めて自宅の庭か、あるいは山林に埋める。それだけで十分。

 もし気が変わって信者に戻りたくなったら、1日以内なら聖像を掘り起こすこと。それ以上に日数が経っていたなら、素直に新しいの買いなさい」


「あの、本当に天罰とかは・・・・・・」


「ないってば。サンタ・ムエルテはただ願いを聞き届けてくれるだけ、それもちゃんと誠実に祈りを捧げて、努力した者だけにね」


 それなら普通に努力するだけで良いのではとか、禁句すぎる気がして喉の奥に飲み込んでいく。信仰というのは、そういう問題じゃないのでしょうね。


「つまり気持ちが大事と」


「宗教って、そういうものでしょ?」


 ずっとあの“ママ”との関連性が足を引っ張り、聞くに聞けなかったノルさんとサンタ・ムエルテの関係。あれって考えすぎだったのかしら。


 こうして旅の仲間に赤い衣を羽織ったサンタ・ムエルテ像が加わりました。お洋服意外にはぜったいお金は使わまいと考えてたのに、気づけば夕食前だというのにお腹はパンパン、ヤンさんは両手にモーリーなる煙草の箱を抱えている始末。


「なにも言うな」


 ノルさんの何やってるのよという目線から逃れるように顔を背けながら、いつの間に店主さんにやり込められていたのやら、タバコなんでまるで吸わない喫煙派のヤンさんが散財してました。


 まあ兎にも角にも、ノルさんの目的は達せられたようですし、道草はここまでにすべきでした。あの奇妙な現象について、考えないようにしながら歩いていく。


 ふと、疑問が頭に浮かびました。


「ところでノルさん」


「なに?」


「あのお店には、黒い衣のサンタ・ムエルテ像が見当たりませんでしたけど・・・・・・」


 デ・ダナンⅡにある、本物のミイラから作られたというサンタ・ムエルテ像。あの“ママ”の遺産とも呼ぶべき像は、黒い衣を羽織っていたものです。


 色ごとにそれぞれ意味が違うなら、黒がなにを意味するのか知りたかったのです。


 ですが宗教そのものは軽いものでも、あの船におけるサンタ・ムエルテの意味合いは、その原義とはかけ離れているものでしょう。そのことに思い至ったのは愚かにも、ノルさんの態度の豹変したあとでした。


 急にシリアスな、化粧をしてても男のらしさがどこから滲む顔つきをしながら、ノルさんが言われます。


「ああ・・・・・・黒はもっとも強力な守護色だから、軽々しくは扱えないのよ。善悪を越えた、超越神そのものな色だから。

 あまりに強力すぎて、その願いがサンタ・ムエルテから不当と判断されたら、時に呪いとなって自分や家族に跳ね返ってくることすらある」


「善悪を越えた?」


「まあ小難しい理屈はいろいろあるけど、信者の間では単に――復讐の色とも呼ばれてるわね」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る