I “18時間後・・・・・・”

【“テッサ”――シモンボリバル・スポーツ・アリーナ、VIPルーム】


「この世には、運命なんてものは存在しない」


 薄暗い部屋の中。鏡のように反射するアビエイターサングラスの下から、初老の男性のしゃがれ声が響いてくる。


「そう、したり顔で語るものもいるが、私に言わせればクソくらえ ボーシットというものだ」


 さすがはスタジアムに設えられた最高級のVIPルームです。常夏のコロンビアにあってしてこの部屋だけは、冷蔵庫の中のような冷気に包まれている・・・・・・もっとも今は、その表現は過去形にすべきなんでしょうけど。


 この薄暗がりには理由がありました。


 停電は電灯だけでなく、空調まで容赦なく止めていた。それでもまだほんのり冷たいのは、VIPルームの高度な密閉性の為せる技でしょう。ですが着実に南米ラテンアメリカらしい熱気は、この部屋へと侵食しはじめている。 


 その熱さときたら、ソファーにぼんやり座っているだけのわたしすら容赦なく汗まみれにするほど。熱と水気が、肌に纏わりついていく。


 思い返せば、このサウナのような湿度と熱気はコロンビアの空港に降り立ってしまったその瞬間から、ずっとわたしを取り巻いてきた。異邦人であるわたしには、この洗礼はなかなかに堪えます。


 正直、わたしは心身ともにズタボロでした。


 その証拠にお気に入りの白いワンピースは、ここ18時間の過酷すぎる旅路で汚れに汚れ、灰色に変わりつつある。裾のほうには明らかに焼け焦げまであって、ついついため息の一つぐらいつきたくなる。


 目を瞑れば、そのまま無限に眠りこけてしまいそう。ですがまだ気を抜くことはできません。黒光りするライフルを抱えた男たちの前で、眠るなんて言語道断なのです。


 折りたたみ式のストックが取り付けられた――AK-47Sライフル。


 それをスリングで垂れ下げ、安全規定なんて知ったことかと引き金トリガーに指をかけ続けている警備員たちは、あいかわらず彫像のように部屋の片隅に突っ立っていました。


 人間味を感じない無表情。ですが、彼らが彫像でないと額の汗が物語る。


 彼らの被る、わたしにはどうしても潜水艦のキャップを連想してならない帽子には、SEGURIDAD警備員の刺繍が刻まれていました。


 警備員たちはすでに汗だく。ですが部下たちと異なりブランド物の、ですが目立たないデザインをしたスーツで身を固めるこのサングラスの男は、どうしたことか汗一つかいていませんでした。


「運命を立証することは簡単だ。

 “親は子を選べない”。

 たったこの一語だけで、運命の存在は証明しつくされているではないか」


 磨き抜かれた革靴を軋ませながら、サングラスの男はスタジアム全体を見渡せる壁一面の展望窓へと歩み寄っていく。


 盛況をきわめた試合の残滓は、もう残っていないはず。観客の姿はかき消え、すでに翌日の・・・・・・いえ、時計の針によれば今日の午後に開催される予定のサッカーの試合に向けて、急ピッチで衣替えの工事が進められているはずでした。


 ですが、ちょっと前まで聞こえたかしましい工事の音はもう聞こえない。停電は光だけでなく、音まで奪い去ってしまったようでした。

 

 かすかな非常灯だけに照らし出される、夜闇のグラウンド。それを窓越しにサングラスの男は見下ろしていた。

 

 その傲慢な物言いになにか答えるべきか? ちょっと悩みましたが、口を開く前にズキズキと痛みが戻ってきて、それどころではなくなってしまう。


 額に貼られた絆創膏に手を当てながら、今はただ黙って、この傲慢な男の話に耳を傾けるしかなさそうでした。



「たまたま貧乏人の子に生まれた。

 たまたま金持ちの子に生まれた。

 人は平等だとうそぶく輩はいくらでもいるが、そんな慰めの言葉になんの意味がある? 貧富の差がどれほど人生を決定づけるかは、それこそ子どもだって知っている」


 サッカースタジアム。


 少なくとも建設当初のコンセプトはそうだったのでしょうが、娯楽の流行り廃りとは残酷なもの。南米随一のスポーツだけでは、もはや観客の興味を惹きつけきれなかったようです。


 そこでこのシモンボリバル・スポーツ・アリーナは改修工事を行ない、新たなスポーツに対応することにしたのです。


 観客席とグラウンドは、金属製のフェンスよって完璧に隔てられている。あのフェンスの太さでしたら、サッカーボールどころか砲弾の破片だって平然と受け止められることでしょう。


 そう、東南アジアの一部で静かなブームになりつつあるという、ASアーム・スレイブを使ったプロレス興行・・・・・・そんな言い回しは、ちょっと言葉を選びすぎてるようにも感じられる。


 よくいって野蛮人の暇つぶし。


 装甲がひしゃげ、血のようにオイルが吹きすさび、操縦者はおろか観客にまで死人が出ることもしばしばという、先進国では議論の余地もなく危険の一言でもって開催を禁じられた異端のスポーツ・・・・・・しかしこの土地では私の知っているそんな常識なんてものは、通用したりしないのです。


 だってこの国では、本来なら取り締まるべき警官たちすら、一緒にASの殴り合いを楽しんでいた筈なのですから。


 このスタジアムは治外法権です、それは事実でしょう。


 アビエイターサングラスをかけた空虚な王によって支配される、法の外にあるアンダーグラウンド。警官と麻薬カルテルの人間が仲良く肩を組んで試合観戦に勤しむなんて、常識はずれにもほどがある・・・・・・ですが、これはスタジアムの中だけの話ではないのです。


 これまでわたしが培ってきた常識から国全体が、いえ中南米という土地そのものが大きく外れている――そう、まるでおとぎの国であるかのように。


「自らが善良であると信じている者たちにとって、これは耳に痛い真実だろうとも。

 だが、運命という階層クラスはたしかに実在し、その壁を乗り越えるには綺羅星のような才能か、宝くじを当てるよりも難しい幸運のどちらかが必要になる。

 そのどちらも、世に無数に存在している貧乏人どもに求めるには、酷にすぎる要素だ・・・・・・。

 理想は実現しえないからこそ、理想と呼ばれる。そして、過酷な真実という名の現実と向き合うために、私のような代行業者が存在するのだ。

 君も知っているはずだMs.テスタロッサ? 戦場で数多の死を見てきた君ならば」


「・・・・・・」


 始まりからずっとそうでした。


 このサングラスの男がわたしに求めているものはたった1つだけ。わたしにそうだと、ただ認められたいだけなのです。


 この人物の主張にも一理ある。


 ですが真に人を評価したいなら、何を言ったかよりも、何を成し遂げたかで測るべきなのです。


 あなたを愛してると囁きながら、その頭に銃口を突きつけ引き金を引ける人種・・・・・・そんな怪物は実在するのだと、わたしはこの思いがけない旅路で思い知らされていた。


 ですからわたしには、このサングラスの男の言い分は、醜い自己弁護にしか聞こえないのです。


 わたしはゆっくりと口を開いていきました。


「それは、あの子たちと話したうえで得た結論なのですか?」


 わたしの問いかけに、ずっと背を向けながら語っていた男が、急に振り返りました。の口元は、あざ笑うかのように醜く歪められていて・・・・・・。


くだらんなボーシット

 生まれによって人の価値とは決定づけられるものなのだと、つい先ほど懇切丁寧に説明してやったつもりなのだがね?

 私は自らを愛国的なマキャベリストであると定義している。10人のうち4人が不幸になるとしても、10人すべてよりはよほどマシだ。

 無邪気に平和を享受している親愛なる国民になり代わり、その4人を選別し、彼らの心が痛まぬよう代わり切り捨ててやる・・・・・・それこそが私の責務なのだ」


 我ながら、なんとも数奇な人生を歩んできたものです。


 今年できっかり20歳・・・・・・世間ではまだまだ人生始まったばかりの小娘という塩梅でしょうけど、なのにわたしときたら、履歴書に潜水艦の艦長さんから極秘の傭兵部隊の指揮官まで幅広い経験がありますよ? なんて、嘘でも妄想でもなく本気で書けてしまうのだから困ったものです。


 こんな経歴の持ち主は世界広しといえど、いえそれどころか、有史以来わたしぐらいのものでしょう。


 そんなわたしをしても、ここ18時間の波乱万丈ぶりは正直なところ、理解出来ないことばかり・・・・・・。


 妖艶な殺し屋シカリオとともに街中を逃げまわる内に、銃撃戦がそこかしこで発生し、安宿は吹き飛び、ついで車も吹き飛び、空中浮遊を強制的に体験させられたかと思えば、こうしてソファーに腰掛けてサングラス姿の麻薬王ドラック・ロードの演説を聞かされている。


 そんな馬鹿なと口走りたくなる現実の数々は、わたしの常識とはまったく相容れないものなのですが・・・・・・どうにも知り合ったばかりこの国の人々にとって、まあそういうこともあると、肩をすくめる程度の部類であるらしい。


 だって、当たり前のようにASアーム・スレイブがカバと殴り合いを繰り広げている土地なんですよ? おとぎの国はあまりに底が知れなくて、わたしはもう何が何だかと頭を抱えるほかありません・・・・・・。


 自分はてっきり非日常側の住人だとばかり思っていたのに、別の世界に赴いてみれば、そこにはそこの常識と非常識がある。世界は広い、きっとそういうことなんでしょう。


 麻薬カルテルが国家に根付き、そのせいで町中でも銃声が途絶えることのない世界。わたしはそれが古巣である戦場と被ってならないのですが、どうしたことかこの国の人々ときたら、それを日常の中に組み込んで、日々の営みを繰り返しているのです。


 血と暴力、その横にラテンの奇妙なまでの陽気さが同居している、まさにおとぎの国。


「これが最後のチャンスだ」


 どこか演技かかった言い回しで、サングラスの男から最後通告が突きつけられる。


「このまま去ればそれで終わり。悪夢から醒める」


 サングラスの男が手をふると、このVIPルームの唯一の出入り口であるエレベーター前から警備員の片割れが歩み出て、お金がかかってますよと色艶で主張しているビンテージなテーブルの上へと、紙束を放りました。


 コロンビア発ニューヨーク行きの飛行機のチケットと、もう再会は叶わないとばかり思っていたわたしのパスポート。チケットは、これから数時間もせずに飛び立つ、朝一の便のものでした。


「君はたまたま、偶然にも、思いがけず・・・・・・運命的ですらあるこの乱痴気騒ぎに巻き込まれてしまった。

 だが現実を見たまえ。しょせん君は、すべてにおいて部外者ストレンジャーであるにすぎん。この土地の人間では断じてありえないし、無論のことながら、正義の味方でもない」


 狂相、もはやそうとしか表現し得ない、悪辣な微笑みを浮かべながら男は言う。


「この国を出れば、すべて無かったことにしてやろう。退屈ですらある平和の中、君は穏やかな一生を終えることができる。

 だがもし、もしもだ、このまま留まりつづけるつもりなら――ご両親のように頭をぶち抜いてやるぞ? Ms.テスタロッサ?」




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