V “不浄の女神とのニアミス”
【“テッサ”――ホテル最上階】
ミスリルから支給されたのち、特に理由も見つからないのでずっと使い続けてきた愛用の腕時計。そんなちょっとくたびれぎみな時計をチラリと見てみれば、なんとこの国に到着してからまだ1時間足らずでした。
1時間・・・・・・そんな短い期間のあいだに出会った人々ときたら、まったくもうと、つい呻きたくなるアクの濃さでして。
カードキーを振り回してずっと聞く耳持たずなマネージャーさんもそうですし、件の無国籍風のフライト・アテンダントさんや、回転ドアを開けてくれた危険な香りをかぐわさせる謎の中年カウボーイに、つい先程エレベーターに乗り合わせたチャイナドレス姿の女性だってそう。
言ってはなんですけど、変人のオンパレードとしか思えない。
どうしましょう? もしこの人たちがコロンビアのスタンダードな住民像なのだとしたら。南米にちょろっと寄ったことはありますけど、こうやって泊りがけというのは初めてなので、このイメージが偏見かどうかまるで分からない。
これ以上のカルチャーギャップは、もう懲り懲りなんですけど。だってわたし、最低でも今日一日はこの国で過ごす予定なんですよ?
・・・・・・違いますから。類は友を呼ぶとか、あれは大ウソですからね?
マネージャーさんがやっと足を止めました。最上階の突き当り、720と部屋番号が記されているこの場所こそが、どうもわたしに充てがわれた部屋であるらしく。
扉のスリットにマネージャーさんがカードキーが滑り込まされると、ピピッと電子音が鳴り、扉が開錠されました。
部屋の出入りはどうぞこのカードキーでという、態度だけは優秀なホテルマンそのものなマネージャーさんが差し出してくる部屋のキーを受けとり、うやうやしく開け離れた720号室の中へとわたし入っていきました。
「
そう言って、マネージャーさんは爽やかな接待フェイスのまま、足早にわたしの目の前から消えてしまいました――そう、石化しているわたしを残して。
ホテルの部屋と聞いて、何を連想しますか?
ベッドは当然あるでしょう。シャワーは宿によるかもしれませんが、まあ大抵はあるものです。テレビだって、もう21世紀の世の中なんですから当然のように常備されている。無料のタオル? そこはまあ高級ホテルですので、ホテルの名前入りでサービスのチョコレート一片とともに枕元に置いてありました。
ついでにコロンビアの観光名所百選なる、お節介な雑誌まで角を整えられて置いてある。“観光用潜水艦で海底を散策してみよう!!”、もうウンザリするほどやりましたよ。
わりとホテルには泊まり慣れている方なので、国境を跨ごうとホテルというのはあまり変わらないのだと・・・・・・そうわたしは知ったかぶりをしていたのです。
ですが世の中には、想像を絶するようなお部屋もあるということを、今まさに思い知らされていました。だって――目の前に噴水があるんですもの。
イヤな予感はしてたんです。
メリッサの王様の暮らしがどうたらという台詞に加え、いきなり最上階に直行でしたから。なんとかとお金持ちは、いつの世も高いところが好きなものなんですよ。
ですからスイートルームに通される覚悟はありました。それにもしかしたら、態度に見せないだけで航空会社側も実はとっても申し訳なく感じていて、ちょっとグレードの高いお部屋を手配してくれたのかもしれない。
ですが、これはちょっとスケールが違いすぎました。
天窓がありました、ホテルの部屋なのに。ガラス張りのそんな天窓からはまばゆい朝日が降り注ぎ、大理石の床がひかり輝いてます。
透明な仕切りの向こうに屋内プールが見えます。その反対方向には、誰が弾くのか白一色のグランドピアノが鎮座ましましていて、さも当然のようにクイーンサイズなベッドが霞んで見える。部屋全体の色合いもまた凄く、パールホワイトの壁紙には金箔の飾り彫りがされており、もう目が痛くて仕方ありませんでした。
そして、こうした豪華な調度品がたくさん並んでいるのに、まるで狭さを感じさせない部屋の広さもまた、地味に凄まじいものでした・・・・・・なんです? この成金バンザイという感じの、絶妙な悪趣味加減は?
どう考えてみても、振替便を待っているだけの相手に用意する部屋じゃないのは確かでした。これ、最低でも口座に1000万ドル単位のお金を貯金してないと借りれないタイプのお部屋ですよね?
あまりの衝撃に、乾いた笑いすら出てきました。
だって、だってですね?――ライオンの頭をした彫像が水を噴いてるんですよ?!
「はっ!!」
たっぷり5分ほど意識が飛んでました。
正気を取り戻してすぐ、わたしは自分のポシェットを逆さに振って中身を床へとぶちまけました。散らばる収納品をかき分けて、見つけましたよ衛星電話と充電器!!
とにかく連絡しなければ。
これ、何かの間違いですよねと、あのトンデモ航空会社に文句をつけなければあとが怖くてなりません!! だって、いきなし宿泊費請求されても払いきれませんよ絶対に!!
充電器を手にしてあっちへふらふら、こっちへゆらゆら。広すぎる部屋を右往左往していると、今どきの独裁者だって恥ずかしがって使わなさそうな、黄金色したダイヤル式電話を発見しました。
動揺のあまり頭が回らず、そうですよ衛星電話なんてわざわざ使わなくたって、備え付けの電話を使えば・・・・・・とも一瞬思ったんですけど、電話機の横に添えられていた説明書によればホテルによくある、フロントを介さないと外線に掛けられないタイプであるらしく。
・・・・・・疑心暗鬼が囁きかける。電話の使用料にかこつけて、他の料金もセットで請求されたりしませんよね? と。
だってあの強引なパスポートの取り上げ方といい、右も左も分からない観光客を相手にした新手の詐欺である可能性がまだ拭えないのです。こんな高級ホテル経営しておいて、そんなホテルの信用を貶めるようなそんなしょぼい詐欺するでしょうかとか、色々な考えが浮かんだものの・・・・・・石橋は叩いて渡るのが吉と判断。
まさか、電気代は請求されませんよね? と祈りつつ、わたしは膝を折ってかがみ込みました。
目当ては電話本体ではなく、背後から伸びているコードの行き着く先。すなわちコンセントでした。
メモ用紙やペンなども載っている電話台をちょっとズラしてみれば、お目当てのものがすぐ姿を現してくれる。
うわっ、誰がこんな裏っ側を見るのでしょう? コンセントカバーまで金メッキしちゃってもう。ですが充電器さえ繋げばもうこっちのものって・・・・・・あら? ちょっと変なものを見つけました。
うっすらと積もっている綿埃からして、部屋の豪華さに比べて掃除の手はあまり行き届いてないらしい、そんな電話台の裏には何やら落とし物がありました。
それは一枚の紙片。電話機のすぐ横にあったメモ帳から推察するに、破れたメモがするりと隙間に落ちてしまったのでしょう。
どう考えてみても、以前の泊り客の落とし物。個人情報が書かれているかもしれませんし、ここは黙ってゴミ箱に放り込んであげるのがマナーでしょう。ですがわたしは、はしたないと知りつつもつい中身を読んでしまった。
だってこのメモ、日本語で書かれてましたから。
透かし文字でホテルの名前が入れられてた、備品のメモ。その上に走る文字列を、罪悪感でチクリとしながら読み上げる。
「 “先にトラソルテオトルで待ってるぞ” ? 」
たぶん、同行者に向けた書き置きか何かなんでしょうが、引っかかったのはその名前です。
わりと乱読家なわたしのムダ知識に、1件この名称がヒットする。そうです、ブラジル繋がりでアステカ神話に関する本を読んでいた時に、この名前を目にしたものです。
トラソルテオトル。
大地と愛欲をつかさどる地母神の名。罪を懺悔した者たちの死に際にあらわれて、その罪を食らうことから――不浄の女神という異名も有する。
ですが、妙な話ですね。
観光客らしいメモの文脈からして、どこぞのお店の名前なんでしょうけど・・・・・・アステカ神話、ひいてはアステカ文明というのは、今で言うところのメキシコ中部で栄えた文明であって、ここ南米コロンビアとは縁もゆかりもないはずなのに。
まあ、またわたしの悪い癖が出てしまったのかもしれませんけど。
メリッサに言わせれば学者病。なまじ正しい知識を持っているせいで、なんでもかんでも正確にラベリングしないと気が済まない、ありがた迷惑の一形態だとか。
そうですね・・・・・・正しい歴史解釈なんて、こんな間違ったローマ文明とギリシャ建築様式の悪魔合体みたいな部屋に囲まれていては、なんの意味もないのかもしれませんね。
お店側が単にカッコイイからとつけた可能性が大いにある。わたしには想像もつきませんけど、世の中ってわりとそういうアバウトな方がたくさん居られるそうですし。
ですが――不浄の女神の名を冠するお店というのは、いったい何を売り物にしてるのかしら・・・・・・ちょっと淫靡な感じがしました。
あっ、ここらで止めときましょう。想像だけでむっつり顔を赤くしてる自分に気がつき、恥ずかしくなってそそくさとメモを丸めてゴミ箱に放り込む。
出歯亀根性はここらで終わり。顔も知らない泊り客の置き土産を気にするよりも、すべきことはたくさんあるのです。
とにかくコンセントにぶすっと充電器を突き刺してですね・・・・・・ところで話は変わりますが、こんなトリビアをご存知でしょうか?
どこのご家庭にでもあるコンセント。実はこのコンセントはですね? 国ごとにさまざまな規格があるそうなんです。ブラジルに普及しているコンセントはAタイプと呼ばれる二股のものでして、これって実は、日本のものとまったく同系なんですって。
電圧こそ違うものの、そこは事前にちゃんと変圧器さえ用意しておけば問題なし。
ですからわたしが持ち込んだこの充電器って、実は、西太平洋戦隊時代からの出張道具そのままだったりするんですよね。
懐かしい話です。まあ・・・・・・コロンビアだと、Bタイプのようなんですけども。
二股の端子に鉄の棒が組み合わされたBタイプのコンセントを前にして、Aタイプの充電コードをこうブラブラさせつつわたしは、ついつい滝のように脂汗を流してしまった。
「・・・・・・これでどうしろと?」
リサーチが裏目に出た間抜けな女を、口から水を垂れ流しつづけるライオン像がせせら笑っている気がしました。
*
何か変です。
いえ、航空会社側の対応すべてがそうじゃないかと言われたら、まさしくその通り・・・・・・なんですが。それ以外にも、ずっと気味の悪い違和感につきまとわれている気がしてならないのです。
直感としか表現しようのない、あやふやな感覚。この感覚には覚えがありました。
100回目を通しても気づかなかった作戦上の不備を決行寸前に気づかせてくれた、何度もわたしや部下たちの命を救ってくれた、そんな感覚・・・・・・。
仮にこれが何者かの策謀であり、わたしのチケットをすり替えブラジルからコロンビアへと向かわせた後、航空会社の回線に横入りしてわたしの電話へ繋ぎ、しれっと会社側の人間のフリをしてこのホテルまで誘導したとする。
それはまあ、原理的には可能でしょうけど、無駄に手間がかかりすぎてるせいでその意図がサッパリ見えてきません。
パッと思いつくのは、わたしのウィスパードとしての能力に目をつけた悪意ある第三者が、誘拐しやすい場所へとわたしを誘導したパターンです。それなら説明がつきます。実際、巧妙に
ですが、プロの軍事指揮官として違和感は拭いきれない。仮にわたしが誘拐犯の側でしたら、ホテルに入る前に仕掛けるはず。
だってわたしが空港からこのホテルまで向かうのは分かっているんです。それなら待ち伏せすのはそう難しいことじゃないでしょうし、ホテルの中より公道の方がずっと簡単にわたしを拉致でき、逃亡手段にも事欠かないはず。
あるいはもっと単純にタクシーに化けて、空港でわたしを乗せそのまま連れ去るという方法もあるでしょう。もっともこれは、空港側にかけ合って正規の契約をしている業者をわざわざ紹介してもらったわたしの安全対策のお陰で、不発に終わっただけかもしれませんけど。
それに、あのマネージャーさんの態度は明らかに変でした。一目見ただけでわたしの正体を見抜き、当初の計画通りに行動したとか。それなら名前を尋ねもしなかった説明もつく。
マネージャーさんは最初から誘拐犯の一味であり、仕事がやりやすいようあえて自分が管理しているホテルに誘い込んだとか?
そうです・・・・・・そういう可能性はいくらだってある。
まったくもって、可能性ばかりで確証がまるでないのがこの問題の頭の痛いところ。情報が喉から手が出るほど欲しい。
流されるように部屋へ案内されてしまいましたが、さっきからこれは失敗だった気がしてなりませんでした。自分から罠に飛び込んでしまったのではないか、と。
ですがその一方で、今感じてるこの不安感とはまた別の危惧も、実はわたしの中にあったりするのです。
思い出されるのは、横で寝ている妻の首を、敵兵だと勘違いして絞めてしまった退役軍人のお話・・・・・・戦争気分が抜けきれず、勝手に話を大きくしてありもしないパラノイアに駆られているだけ。
今のわたしがそういう状態でないと、一体誰が断言できるのでしょうか? 平和に馴染めず、南米まで逃げるようにやってきたわたしが・・・・・・。
じりりり、じりりり、とベルが鳴る。
それは部屋に備え付けられた、あの黄金電話からの呼び声でした。
「・・・・・・」
無視、というのも一つの手です。
大方フロントに戻ったマネージャーさんからの確認の電話かなにかでしょうが、これが、わたしが部屋の中にいるかどうか調べるための電話じゃないという保証は、まるでないのですから。
しばし悩みましたが・・・・・・これが取り越し苦労であれ、何者かの陰謀であれ、今は電話に出るべきだと判断しました。
だってここでわたしが呑気に電話に答えれば、ホテル側の善意の対応でしたら、良かったクレームはないかと相手が胸を撫でおろすだけで済むでしょうし、仮に誘拐犯側の電話だったとしても、相手は油断していると勘違いさせることができる。
わたしの作戦はこうでした。
電話は早めに切り上げ、人気の少ないこのフロアからさっさと離れる。そこからロビーまで降りていって、あの武装警備員たちの目の届く範囲内で時間を潰しつつ、メリッサが手配してくれたという護衛の方がホテルに到着するまで待つ。
古臭い手ですけど、大勢に混じるというのは犯罪防止の常套手段ですから。これならすべてわたしの被害妄想、ただの取り越し苦労であったとしても害は生まれません。
受話器を耳に当てる。
「もしもし」
すると、予想と異なって電話に出てきたのは禿頭のマネージャーさんでなく、若い女性のようでした。
『720号室のお客様でしょうか?』
わたしはぐっと堪えてました。
こう聞きたくて仕方がありませんでした――もしかしてあなたは、飛行機の中で出会ったフライト・アテンダントさんであり、そして航空会社の人間だと名乗った、あの無機質な声をした女性と同一人物なんではないですか? と。
ですが聞いたところで、律儀に答えてくれるとも思えません。はぐらかされるのが関の山でしょう。
だからバカな観光客のフリをする。世はすべてこともなし、まるで警戒心を抱いていないよう呑気に答えていく。
「はい、そうですけど」
『申し訳ありません。まだ落ち着かれてないかもしれませんが、実はお客様に大切なお話があると、航空会社の担当の方がいらっしゃいまして』
これまでと同じ。会社名を出すことでこちらを信用させ、いいように状況の主導権を握る。
詐欺の常套手段です。あるいは、諜報機関とかがよく使う手でもありますね。
どちらかといえば詐欺師よりも、諜報機関の方が馴染みが深い。ミスリル内でも実戦部門であるわたしが属していた作戦部と、情報収集を司っていた情報部は、例えるなら仲の悪い兄弟のようなもの。
持ちつ持たれつ、お互いなくてはならない存在でした。
あるかしらわたしに? 諜報機関から狙われる可能性が? ・・・・・・ここで思い当たる節がないと言えたら最高なんですが、正直なところ、ありそうな話すぎて困ってしまう。
CIAか、はたまた冷戦崩壊後に変哲を繰り返しているというKGBの末裔か。
ウィスパードの情報について知ってるのはごく僅かなはずですが、ミスリルとも縁深いCIAがわたしの存在を察知してても驚きませんし、ロシアに関してはそもそもウィスパードが生まれた理由が、旧ソ連による実験にあった訳ですから・・・・・・カナメさんが最初に狙われたのも、そもそもその流れでだった訳ですし。
なんとまあ、犯人候補が多すぎて困ってしまいますね。
CIAに元KGB、土地柄からいって観光客に狙いを定めただけの麻薬カルテルや共産主義ゲリラ、あまり考えたくありませんけどミスリル崩れの食い詰めた傭兵が、かつての上官であるわたしを捕らえて一攫千金を狙っているとか――あるいは、宿敵たるアマルガムの策謀の可能性も
いえ、最後のは逆にないですね・・・・・・。
わたしはウィスパードの中では劣等生の部類に入ります。潜水艦作りに関しては、誰にも負けないと自負してますけど、本質的には営利団体であるアマルガムにとって、価値があるのは戦略レベルのテクノロジーだけです。
そこらくると潜水艦というのは、売れ線から大きく外れています。冷戦終結によって各国が軍縮を始めている中、潜水艦なんて大型兵器はどこも持て余しているのが現状なんです。ロシアなんて、港に原子力潜水艦をたくさん並べて錆びつかせつつ、どうしたものかと頭を悩ませているそうですし。
兄・・・・・・レナードが在籍していたことから、アマルガム側はわたしの才能の限界をよーく承知しているはず。だからこそわたしに価値がないと彼らは承知している。
これで候補が1つ脱落しました。だからといって、まるで喜べませんけど。
「そうなんですか?」
我ながら能天気すぎな声音で答えると、相手は気づいてないのかそれとも気にしてないのか、相変わらずの無機質な感じで話を続けていきました。
『はい。お許しいただければ、すぐにでもお部屋にお尋ねしたいと、そう申しております』
「すいません、それはちょっと。シャワーを浴びたばかりだから、髪もまだ乾いていませんし・・・・・・」
低レベルな嘘。ですがもう汗だくでしたから、シャワーを浴びたいのは本音でした。
『そうですか・・・・・・では、準備が整うまでロビーの方で待つそうです。どうか焦らず、しっかり準備してからお越しくださいとのこと』
寛大な申し出ですけど、しくりました。まさかロビーを指定してくるとは。
本当にただ話したいだけの航空会社の人という可能性がこれでほんのちょっぴり上がりましたけど、ロビーにたむろしている客ごと巻き添えにしようと気にもとめない、危険な集団という可能性もまた同時に生まれてしまった。
悩ましい。メリッサが送ってくれる予定の護衛がどういう方なのか分からない以上、ロビーで待ち受けるのが一番、合流しやすいと考えていたのですが・・・・・・。
とりあえず時間稼ぎ。分かりましたとだけ答え、そのまま電話を切りました。
そうですね、作戦の変更なんて現実にはしょっちゅうでしたし。へこたれてもいられない。
床にぶちまけたままだったポシェットの中身を慌ててもとに戻します。パスポートを取られてしまったのはやはり痛いですけど、お金はちゃんとあるので、まあ及第点かしら。
起こさないでくださいの札をドアノブに掛けてから鍵をかけ、ホテルの中へと繰り出していく。
プランBの第一段階は単純なものでした。とにかく電話を見つけてメリッサと早急に連絡を取る、ただそれだけです。
メリッサ経由で護衛の方と相談できれば、何処かホテルとは別の・・・・・・そうですね。適当なカフェかなんかで待ち合わせることもできるはず。
なにせメリッサの伝手ですから、腕に自信のある方に違いない。
いざという時に実力行使で状況を打破できる、まさしく用心棒そのものが傍らに付き従ってくれるなら、わたしも気兼ねなくロビーに赴いて相手の正体を見定めることもできるでしょう。
ただその電話がどこにあるか・・・・・・これが地味に難題なのでした。
大抵こういうのは、階段辺りにあるものですけど。そう当たりをつけてみれば、案の定なことにホテルの館内図が張り出されていました。
ですが残念なことに、公衆電話の表記は見当たりませんでした。
まあ不思議ではありません。携帯電話の急速な普及によって、早々に前時代の遺物と化してしまった公衆電話は、全世界的に撤去の波が押し寄せているのだとか。
小さく仕切られている謎の台がロビーにあったりしましたし。あれはきっと、つい最近まで公衆電話がたくさん並べられていた名残なのでしょうね。
となると困りました。ホテル内に自由に使える電話がないなんて。
外に出るという選択肢はありはしますけど・・・・・・土地勘がまるでない誘拐多発地帯に着の身着のまま繰り出すのは、リスキーなんてものじゃありません。
大通りだけ狙いすまして移動すれば大丈夫でしょうけど、逆に誘拐犯たちが鴨が葱を背負って来たぞ、大喜びしてしまう可能性も・・・・・・。
ああでもないこうでもない。絶対安全な作戦なんてありえませんから、どこかでリスクは取らなきゃいけませんが、やはり最小限に留めたいものが人情というもの。
そこでふと、わたしは館内図のある表記に目が止まりました。
バーラウンジ・・・・・・ですか。ふむ。
このホテルでどのくらいの従業員の方が働いているのか存じませんが、あのマネージャーさんはともかく、他の従業員すべてにまで息が掛かっているとは考えづらい。
こういう手はどうでしょう? バッテリー切れの衛星電話をバーテンダーさんに見せつつ、友人と合流する予定だったのにこれではできない、また部屋も遠いので、ちょっとバーにある電話を貸してくれませんかと、頭を下げて頼んでみるのです。
その程度でしたらと応じてくれる可能性は十分にあるでしょう。業務用の電話であれば、フロントを介さずとも電話が掛けられるかもしれない。
まあ・・・・・・そこで掛ける友人というのが、ニューヨーク在住という事実に一抹の罪悪感を感じないでもないんですが。
勝手に国際電話を掛けて、怒られなきゃいいんですけれど・・・・・・いえいえ、何を弱気になってるんですか!! 命あっての物種ですよ?
これで駄目ならホテルの外へ。そう決めてから、わたし海外旅行の嗜みとして装備してきたスニーカーを鳴らしつつ、ホテルの廊下をつき進んでいきました。
大して歩いてないのに痛んでくる足の裏。己の運動不足のツケを支払わされつつもわたしは、まだ早いというのにネオンサインという人工的な誘蛾灯を光らせ、中からアルコールのつんとした匂いを漂わせてくる大人な空間へと、到着したのでした。
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