IV “自由と秩序の国”

【“テッサ”――タクシー車内】


 さて・・・・・・思いがけずパスポートにコロンビアへの入国履歴をスタンプされてしまってから、30分ほど後のこと。わたしは、空港からもっとも近いグランドハイスト・アギーラカルバなる高級ホテル目指してタクシーの後部座席で揺られていました。


 太陽がさんさんと輝く南国の地で、髪をなびかせながらオープンカーで疾走するとか、わたしにだってそういう構図に憧れる気持ちはあります。


 そんな俗っぽい欲望を狙い撃ちするように、レンタカー会社も艷やかなオープンカーを見せびらかせてもいました。


 しかしわたしはタクシーを選びました。実はそれには、止むに止まれぬ事情があったりするのです。


 回想。アメリカにて。


 アメリカほど免許が取りやすい国もありません。国土がああも広いと、移動距離も自然と伸びてしまいますから、ほとんどの地域で車というのは必需品なのです。


 高校生のほとんどが運転免許証を持っている国。そんなところで19歳になったばかりのわたしは、手軽な身分証が手に入ることですしと一念発起。車の教習を受けてみることにしたのです。


 普通は親に教わるものですが、いかんせんわたしの両親はすでに他界している。というわけで代打をみずから立候補したのが――まあ、メリッサしか居ないのでした。


 友達が少なすぎるのでは? という指摘はもっともすぎるので、ここでは無視する方針で行かせてもらうます。


 とりあえず模試してみたところ座学は100点満点。思い返せば、それで調子こいてしまったのかもしれません。


 アーム・スレイブだって、ちょちょいと特訓するだけで基本操作はマスターできたのです。ならば所詮は2次元空間でしか動けない乗り物ごとき、なんのことはありません!! ・・・・・・いえもうホント、どこから出てきたのかこの自信。


 面白がって人をおだててた某夫婦にも責任の一端はあるでしょう。ですが程なく、わたしたちは痛い代償を支払うことになるのです。


 教官役が同乗していれば、公道も走りたい放題。そういうアメリカらしい奔放さに身をまかせて、いきなりハンドルを握ったわたしは外の世界に繰り出したのですが・・・・・・そこで聞こえてきた、ガリガリという冷や汗のでる異音。


 予想外の事態でした。まさか駐車場からすら出られないなんて。


 ウェーバーさんの愛車の側面に思いきり車体をこすりつけてしまった、わたしが操るメリッサ提供のマッスルカー。


 いえまあ、ズブの素人にいきなしV8エンジンのモンスターマシンを操らせるメリッサも悪いでしょうけど、ですがやっぱり、責任すべてはわたしにあって・・・・・・。


 慣れればちゃんと運転できるようになるとは思うのですが、あの不幸な事故から一ヶ月もの長きに渡り、「あたしのマスタングが・・・・・・」とか嘆かれ続けたら、もはや免許をとる気力もなくなろうというもので。


 まあ、そういった訳です。無免許運転はいけませんよね? のたった一言で終わってしまう、悲しい悲しい裏事情があったりするんですよ。


 まあ、こういった愚にもつかない物思いに耽られるのも、タクシーの利点でしょうか。


 窓の外、流れていく風景をこのままぼーっと眺めるのも乙なものでしょうが・・・・・・わたしはごぞごそとポシェット漁り、新書の香りがする本のページを開いてみることにしました。


 5歳ごろに習得した速読術と、潜水艦の三次元運動によって鍛えられた三半規管を駆使すれば、まあ車内での読書ぐらいどうということはありません。


 空港には無料のパンフレットもありましたが、観光に来たわけじゃないですし、自分たちの良いところしか書いてない情報には、あまり興味を惹かれない。


 ですから代わりにわたしが選んだのは、外国人ルポライターの手による英語表記の歴史本でした。これならコロンビアの実情というものが知れるかもしれない、そういう期待がありました。


 ページをめくる。


 コロンビア。その由来はアメリカ大陸を発見した――誰が一番乗りかについては、諸説あるようですけど――クリストファー=コロンブスの名前に由来する。


 南米第3位の人口を誇るコロンビアは、国土のほどんどが山脈とジャングルに覆われる典型的な南米国家であるそうで、その肥沃な土地柄ゆえに農作物がよく育ち、昔はバナナ、今はコーヒーの世界的な生産地として知られている・・・・・・ここらへんは、よくある観光案内のようでした。


 しかし、ページをめくるにつれて明るい側面はどんどん鳴りを潜めていきました。

 

 南米の歴史とは、血塗られた歴史である。


 どこの国だって大なれ少なれそういうものでしょうが、生け贄文化に植民地支配、そしてそこからの無数の虐殺、共産主義と独裁政権の台頭などなど、この土地では次から次へと紛争の火種が止むことがなく・・・・・・コロンビアもまた例外ではなかった。


 ページをめくる。


 この本はコロンビアの近代史は、1948年から始まったと主張していました。


 かつては南米でも屈指の優等生として知られていたのに、大統領候補者の暗殺に端を発する暴動エル・ボゴタソによって、コロンビアの党派対立は最高潮をむかえ、ついには首都の大部分が焼け落ちるほどの騒擾状態と化してしまった。


 ですがそれは、始まりにすぎなかったのです。その後も暴力の潮流は、収まるどころかさらに拡大していった。


 資本家による労働者の弾圧。そんな労働者の不満の受け皿となる形での左翼ゲリラの台頭。ゲリラに対抗できない政府に業を煮やした者たちによる、極右民兵組織の誕生。そして、コカインという名の金脈の発見・・・・・・。


 やはりこの国の第二の転換点は、麻薬にあるようです。


 ジャングルというのは武装組織にとって理想的な隠れ家だということは、ベトナムに行ってひどい目にあった米軍が一番良く知っていることでしょう。ですが資金が無ければどんな組織も、うまく隠れたところでいずれ先細りしていくだけです。


 そこにコカインが現れた。


 南米大陸に古くから自生しているコカの葉から精製して作られるコカインは、隠れ場にすぎなかったジャングルそのものを財源に変えてしまった。


 なにせグラム単価で見れば、金の倍の値段にもなるのですから。そして金と異なってコカインは、どれほど収穫しようとも大地からいくらでも生えてくる・・・・・・コカインの発見は、まさに現代の錬金術だったのです。


 ここであるキーパーソンが登場します。


 上下水道すらない貧しい農家に生まれたその人物は、いち早くそんな魔法の薬物に目をつけ、ついには300億ドル(3兆円)もの資産を一代で築き上げてしまった。コロンビア軍の年間予算が100億ドル前後だと考えれば、この金額の異様さも伝わろうというものです。


 無限の財力と、それを背景とした国家を越える武力を一個人が身につけた時、一体何が起こるのか? その悪夢的な社会実験を体現した人物こそが――世界初の麻薬王であるパブロ=エスコバルなのでした。


 ページをめくる。


 パブロ=エスコバルは、表向きはタクシー会社の社長を名乗っていましたが、ほどなくその異常な財力が話題になり始めました。


 決して裕福ではない国の、地方に暮らしている一介のタクシー会社の社長。なのに彼は貧困層への支援に熱心で、今日でも彼の故郷であったメデジンには、エスコバル名義の公共住宅がたくさん残ってるんだそうです。


 この福祉活動によって、エスコバルはある副産物を手に入れることができました。すなわち、自分に投票してくれる支持層という副産物を。


 なんとこの麻薬王、国政に打って出るどころか、裏技を駆使しつつもみごと当選を果たしてしまったのです。


 パブロ=エスコバルは、ほんの僅かな期間でしたが実在しました。


 身にとって不利な大統領候補が立候補したと知れば、すぐさま民間人ごと爆弾で飛行機を墜落させて暗殺をはかる。


 その凶暴性はとどまるところを知らず、ついには自身の有罪の証拠がつまった最高裁判所をゲリラを使って焼き討ちさてしまうほど・・・・・・ですがこうまで悪魔的な人物が同時に、よき家庭人でもあったのです。


 貧困層を救うため私財をなげうち、家族から深く愛されながら、その生涯で数千人もの人々を殺害した――なんとも極端な二面性の持ち主であると、評すしかないでしょう。


 コロンビア政府の必至の追跡劇と、米政府から派遣されてきたDEAおよび軍の合同捜査によって組織が壊滅に追いやられるまで、エスコバルと彼が率いたメデジン・カルテルのやりたい放題は、数十年もの長きに渡って続いたそうです。


 パブロ=エスコバル、享年44歳。死因は、警官隊との銃撃戦のすえに受けた複数の銃創・・・・・・。


 ページをめくる――その手をちょっと休めて、わたしはタクシーの窓に頭をもたれかけながら、しばし外の様子を眺めました。


 別にコロンビアという国すべてをパブロ=エスコバルが体現していたとは思いません。ですが、慈愛と残虐性という極端なまでの二面性が常にこの国を取り巻いていたのは、きっと事実でしょう。


 窓の外では、道路脇に露天商がたくさん並んでいました。


 平和な町並みです。ラフな格好をした人々が行き交い、時には買い物袋片手にお店から出てくる。携帯電話片手で楽しげに話しこんでいる若者が、民族衣装姿の僧侶らしき人物たちに道を譲っていく。


 煉瓦の壁には大っきなグラフィティアートが描かれていました。拳を突き上げ、解放を求める民衆の構図。その下では、最高級の改造マッスルカーがどこかへなりと走り去っていくのを、水牛に乗ったおまわりさんたちが見送っている。


 なんともまあ・・・・・・極端な光景ばかりが広がってました。


 これぞまさにカルチャーギャップ。一つ一つは理解できるのに、それが全部合わさりながら、普通に共存しているのが不可思議でなりません。


 これまで色々な国を訪れてきましたけど、この地の異国情緒ぶりは、ちょっとレベルが違う気が、これではまるでおとぎの国のようです。


 何よりも奇妙なのは、これで一応はコロンビアは戦時下にあるということでしょう。


 なんと1964年から今に至るまで、コロンビアは公式には内戦状態にあるのです。ですがそんなことを感じさせない当たり前の営みが、窓の外には広がっていた。


 いつまで経ってもゲリラは山にこもり、カルテルはせっせっと麻薬を輸出する。そして極右民兵に至っていは、なんと合法な存在なので特にお咎めなし。


 そんな物騒な世界をすぐそばに抱えておきながら、と同時にコロンビアの観光業はとっても盛況で、エスコバルの出身地であるメデジンなど、今日では世界でもっとも革新的な都市として表彰されてすらいる。


 どれほど暴力に国土が蝕まれようと、ひたすら変わらぬ日常生活が営まれている国。その証拠に、麻薬戦争によって数万人が死のうとも、無政府状態に陥ったことすらこの国はないのです。


 わたしはてっきり戦争と平和は決して相容れない、別々の状態だと思っていたのに、どうしたことかこの国ではそんな2つの概念がいびつに絡み合い、日常の中で昇華されている――この国ではなんと、平和と戦争が共存しているのです。


 やはり、文化が違いすぎる。どうしてそういう結果になるのか、今まで培ってきたわたしの常識は、まるで答えをはじき出してくれませんでした。


 気を取り直して、ページをめくる。

 

 エスコバルの死と、彼を頂点としたメデジン・カルテルの崩壊は、イコール麻薬ビジネスの崩壊には繋がりませんでした。むしろエスコバルの築き上げた麻薬カルテルという新たなビジネス形態は、世界中に拡散してしまったのです。


 ただしエスコバルの死によって、コロンビアの麻薬ビジネスに大変革が起きたのも事実なようです。


 古くからコロンビアで利用されてきたカリブ海経由、アメリカ行きの密輸ルートは、主として米沿岸警備隊の努力によって閉鎖されてしまいました。


 コカインがあっても、顧客に届けられなければ意味がない。


 そのため、麻薬ビジネスのメインストリームは、アメリカと長大な国境を接するメキシコへと移り変わっていったんだそうです。


 コカインの値段は、地元に降ろすならキロ当たり1700ドル前後。これがアメリカ国境を越えれば、2万ドル前後にまで跳ね上がるのですから、なるほど地政学的に優位なメキシカン・カルテルが主軸となるわけです。


 ですが最高純度のコカインを作れる生産力があるのは、相変わらずコロンビアだけであるらしく・・・・・・なんならそれをブランドと呼び替えてもいいでしょうが、そのブランドは今なお大きな価値があるのです。


 ページをめくる。ついに現代に話が到達しました。


 現在のコロンビアにおいて麻薬ビジネスを牽引しているのは、かつてメデジン・カルテルと覇を競い合った地元コロンビア生まれのカリ・カルテルと、中米から渡ってきた外国勢力であるモンドラゴン・ファミリアの二大勢力であるそうです。


 メリッサの言っていた最近は落ち着いてきたという話のネタ元はこれですかと、ついため息が出てしまう。つまりは、エスコバルが政府からの追跡に逆らい、街中で爆弾テロをやらかしていた頃よりはマシと。


 そんな武闘派路線をひた走ったあげくに壊滅したメデジン・カルテルに対し、新たにコロンビアの裏社会を統べることになったカリ・カルテルは、そんなエスコバルの轍を踏まず、組織の徹底した秘密結社化を目指したそうです。


 目立ちすぎる豪邸なんかに住まず、時には合法的なビジネスも営みながら町中に溶け込むことで、影のように組織の全体像を覆い隠す。ですがいざとなれば、徹底した制裁も辞さない。なかなかの知能派であるようです。


 ですがその一方、国境を侵してまでコロンビアへの侵略を企ててきたモンドラゴン・ファミリアは、あのメデジン・カルテルが霞むほどのゴリゴリの武力集団であるそうで、さも当然のように戦闘ヘリやアーム・スレイブを組織間抗争に投入することがその現れだそうです。


 テロには屈しない。そういうルールのもと戦ってきた身としては、コロンビア政府の対応は驚きでした。


 なんと政府自身がこの二大カルテルの間に立って、和平交渉を取りまとめたというのですから。


 歴史を見れば、コロンビアという国はゲリラとも民兵とも、そしてカルテルとも平和協定を結んできました。だからこの国では自然な対応、だったんでしょうね。


 ですがそんな平和協定を一括して麻薬カルテルに批判的であったこの本の著者は、強い口調でもって偽りの平和と呼んでいました。


 やっと得られた平和の裏には、ジャングル地帯に住まうモンドラゴンと、市街地に暮らすカリという、新たに取り決められた縄張りが背景にあったのです。


 こうやって領土を区切れば、なるほど抗争は起きづらいでしょうが・・・・・・麻薬ビジネスを止めさせる根本的な解決にはほど遠い。組織同士の対立がなくたって、麻薬カルテルは無辜の市民に犠牲を強いるものだ。著者の主張にはうなずけるものの、と同時にわたしは、一概にコロンビア政府を批判できずにいました。


 エスコバルがそうであったように、正義のためになりふり構わず大量の犠牲者を出しながらこれからもカルテルと戦い続けるのか? それともどこかで妥協して、そこそこの平和で満足するのか? 


 難しい問題でしょう。そしてそう簡単に解決できる問題ならば、そもそも問題とも呼ばれたりしません。


 シュレディンガーの猫よろしく、箱の中に平和と戦争を一緒に封じ込めて、蓋を開けないかぎりどちらだと確定することはない。そんなあやふやな国内情勢のままでコロンビア政府は、現状維持を選び取った。そういうことであるようです。


 そもそもコロンビアの問題は、麻薬カルテルだけじゃありませんし。


 それ以外にもこの国には、共産主義ゲリラやそれを追う中央情報局CIAの暗闘。先住民インディオの差別問題に難民問題。更には1%の白人支配者層が、残る99%より多くの資産を持っている究極の格差問題などなど、無数の病根が蔓延っているのですから。


 ページをめくる。するとそこはもう本の末尾で、この本は初版であると記されていました。


 ふむ・・・・・・本をパタリと閉じながら、とりあえず観光に行くとか色気は出さないことに決めました。


 護衛の方の迷惑になるでしょうし、自分の身を守れる自信がまるでありませんから。そう結論づけてわたしは、読み終えた本をポシェットの中に仕舞い込みました。


 そこそこ有意義な時間を過ごしていると、ついに白頭鷲アギーラカルバの名を冠した高級ホテルの姿が窓の向こうに見えてきました。


 空港近くという超がつく好立地。もうこの時点で推して知るべしという感じなのですが、目ためからしてこのホテル、やはりお金がたくさんかかってそうです。メリッサが宮殿かとかつぶやくわけですよ・・・・・・。


 デザインは、そのものずばり宮殿と現代建築を足して二で割ったという感じ。回転ドアがいっぱい並ぶ玄関口には、スペイン語と英語でようこそと書かれたウェルカムサインが掲げられている。


 全体的にオシャレな感じなのですが、どこか軽薄な成金臭がするのはなぜかしら?


 とにかくお礼を述べつつタクシーを降りわたしは、ポシェットだけの軽装備のままホテルの回転ドアをくぐっていきました。


 ですがこの回転ドア・・・・・・とっても重いのです。


 なんということかしら、まさかこんなくだらないことで躓くなんて。やはりメリッサのお誘いにのって、筋トレをやっておくべきだったかしら?


 いえわたしも、主にお腹のブヨブヨ感が気になりまして、セントラルパークをちょっとランニングでもしてみようかしらと、考えたことはあったのです。そのためにランニング・シューズまで買っちゃいましたからね。


 ですが、慣らしも兼ねて室内でとりあえず履いてみたとろ・・・・・・わずか3歩で転倒。


 そんなわたしの無様を眺めていたさる匿名のバツイチ子持ち女性は、「それはない」とご無体に呟いて。それで、やる前から挫折しちゃったんですよね。


 まあ、どうでもいい逸話です。


 旅の恥はかき捨て、というわけで。わたしは素直に周りの方に助けを乞おうとしたのですが・・・・・・目があった途端、ギョした顔をしてきびすを返していくスーツ姿の若い男性。


 なんですか、あの態度? そんなに回転ドアの中に閉じ込められてる若い女が珍しいんですか?


 いきなし携帯電話を取りだしてどこかと会話を始めてましたから、単に忙しかっただけかもしれませんけど、いくらなんでも薄情でしょう。


 ムッとした気持ちを引きずりながら、こうなっては仕方ありませんと諦める。そう旅の恥はかき捨て、人間は構造的に腕力よりも脚力のほうが大きいのです。こう、背を回転ドアにあずけて足でグクっと押すしかありません。


 ですがその途端、急に軽くなるドアの重み。


 たたらを踏むようにホテルの中に飛び込んでみれば、いつの間にやら鋭い眼光をした、辛うじて中年男性といった年ごろの、ワイルドな風体をした男性が扉を押してくれていたのです。


「あっ、ありがとうございます・・・・・・」


 どんどん、尻すぼみになって消えていくお礼の言葉。


 目の前にいる中年男性の帽子はあまりに風変わりにすぎて、そちらに興味が惹きつけられてしまったせいでした。


「大丈夫かな? 奥方マム?」


 流暢な英語でそう話しかけてきたその男は――人の歯にしか見えない物体を、使い古されたカウボーイハットに飾り立てていたのです。


「はい・・・・・・大丈夫です」


「そいつは良かった」

 

 まさか本物のはずがない。ですが、あの歯の黄ばみ方はいやに風格がある。遺跡から発掘された古い白骨死体は、あんな色合いをしているものです。


「若奥さまには、ちょいと重かったかね。ま、そのおかげで冷気が逃げないわけだから、仕方ねえちゃ、仕方ねえんだが」


 帽子に合わせて、そのちょっと時代ががった言い回しからしても、どうやらこの男性はカウボーイをイメージしているようです。 


 どんなライフスタイルをしようとも個人の自由です。ですが、どうしてか人をさっきから既婚者のように呼ぶのは腑に落ちない。助けてもらった立場ではありますが、こんな怪しい風体をした男に、素直に心を開くことはできませんでした。


「・・・・・・何を勘違いしたのか分かりませんけど、わたしは独身です」


「ん? ああ、本当に? そいつぁ驚きだな。まあ許してくれよ、ここいらじゃ、アンタぐらいの年齢の主婦は珍しくないもんでね」


 なにかしてくるかとも思いましたが、意外、というべきなのかしら? あっさりカウボーイハット姿の男はわたしの横をすり抜け、ホテルの外へと出ていきました。


「・・・・・・」


 野卑な感じの男でした。汚れた衣服といい、あまりこの高級ホテルにようがあるタイプとも思えなかったのですが・・・・・・まあ、これ以上は詮索したところでどうしようないでしょう。


 変わった人もいるものだ。そう納得して、先に進むべきでしょう。


 ということで気を取り直したわたしは、ホテルの内装を眺めていきました。

 

 外もかなりきてましたが、内装もまた凄い。ミニマリズムとは無縁なようで、壁にも床にも天井にだって、よくわからない模様が極彩色の内装に刻まれていました。


 わたしから見て正面には、横にとっても長ーいフロント・デスクがありまして、向かって右手のラウンジスペースには、豪奢なソファーがいっぱい並べられていました。あれだけ広ければ、軽く100人ぐらい居座れそうですね。


 怪しい美術品が所狭しに飾られているお陰で、とにかくお金かかっている感は激しいのですが、調和という点ではイマイチな感じ。無駄を削らずにとにかく物を詰め込むと、とたんにケバケバしいイメージが生まれるみたい。


 どちらかといえば、ラスベガス辺りに立ってそうなデザインセンスのホテルでした。


 そんな派手な内装に目が行きがちですが、コロンビアらしい風景もちらほら窺える。例えば、従業員用の出口をくぐっていくカービン銃なぞ垂れ下げている男たちですとか。


 服装からして警備の方なんでしょうけど、ああまで重装備をした男たちがいても、朝早くからラウンジをうろちょろしてるいかにも裕福そうな人々は気にもとめていない。


 あれが普通なのです。


 ジャングルに籠るゲリラの主な財源は、富裕層を誘拐してえる身代金である。あの本に書かれたそんな社会問題へのこのホテルなりの解答が、きっとあの銃火器の束なんでしょうね。


 ポジティブに考えれば、警備体制は抜群ということです。あの重武装ぶりをみれば、クマだって回れ右して逃げ出すでしょう。


 普段はあまり表に出てこないのか、足早にホールから出ていく警備の方の腕章には、B.S.S.なる会社名らしきものが刻まれていました。この会社にホテル側が業務委託しているのでしょう。


 しかし・・・・・・本当にここにタダで泊まれるのかしら? 冗談抜きで、チケット代よりも宿泊費の方が高そうです。


 今でこそ貧乏性が染み付いているわたしですが、ほんの数年前までは数百億ドル単位の潜水艦を駆っていたんですよね。日に日に、あの頃の思い出から現実味が失せていく気がする。


 わたし、大層なことしていたんですね。


 とりあえずサングラスと帽子を脱いで、強盗の下見に来ましたみたいな怪しいカッコをやめてみる。


 これまで海千山千の軍人たちを相手にしてきたのです。あまり物怖じしないタイプであると自負してるわたしですが、こればかりは気後れしてしまう。クレジットカードの残高、あとどれくらいだったかしら?


 とにかく、腹をくくってフロント・デスクに突撃するしかないでしょう。

 

 大きなホールを横切っていきますと、フロント・デスクに詰めているぽっちゃりしたラテン系の年配のホテルマンが、耳に固定電話を充てながらこちらをマジマジ見つめてきました。


 またこれですか・・・・・・自分でも特徴的な容姿をしてるつもりはありますけれど、ああも警戒されるように見つめられるいわれはないはず。


 そんなにわたし、このホテルの中で浮いてるのかしら。それともまさか、わたしのそっくりさんが強盗でもやらかして指名手配でもされているとか? まさかと言い切れないのが辛い所。


 あの本には多くのコロンビアについての逸話がたくさん書かれてましたが、その中にはこんなお話もありました。


 麻薬王エスコバルが勝手に輸入したカバがあろうことがジャングルの中に逃げ出して野生化。今ではアフリカ大陸についで2番目にカバが生息している国にコロンビアはなってしまったとか。


 個別の要素は納得がいくのに、結末はいつも意味不明な方向に流れていく。どうにもコロンビアという国は、そういう兆候があるようなのです。


 まあ、どれも被害妄想の部類でしょうけど。考えてみれば護衛もナシの本当の意味での1人旅って、わたし、これが初めてだったりするんですから。


 あのホテルマンの男性はどうも年相応に偉い役職に就いているらしく、電話を切ってから何やら首元からネックレスのようなものを外してポケットに仕舞った途端、若いスタッフに指だけでなにやら指示を出し始める。


 もしかしてホテルのマネージャーさんだったりするのかも?


 険しい顔して電話に受け答えしていたマネージャーさん(仮)でしたが、わたしがデスクに近づくと破顔一笑、にこやかな顔してこちらに歩み寄ってきたのです。


 えっ?


 もっと暇そうなホテルマンも居ましたから、そちらの方に話しかけようとしていたのに、なぜかわざわざデスクを飛び出てこちらに一直線なマネージャーさん。


 あの笑顔からして、わたしが何かしでかしてしまったという訳でもないんでしょうけど・・・・・・顔は笑ってるのに、目は獲物を見つめる猛禽類のそれで、ちょっと怖い。


señoritaセニョリータ!!」


 えっと、・・・・・・わたしのこと、ですよね?


 偏見混じりなのは認めますけど、ラテン系の方って国民性か、どうにもハイテンションな方が多いと思うんです。


 このマネージャーさんはまさにその典型でした。身振り手振りがやたら大きくて、あわせて声だってとても大きい。ただし腰を低くして揉み手というスタイルは、単にこの人の個性なんでしょう。


 なんといいますか、すごい歓待ぶりでした。王侯貴族がふらっとホテルを訪れたがごとく・・・・・・単に飛行機を乗り間違えた女を出迎える態度でないのは、明白でした。


「あ、あのですね。なにか勘違いしておられません?」


 相手のペースに圧倒されるがまま、おずおずと切り出してみましたが・・・・・・なんでしょうこの違和感?


 それはもう、わたしは特徴的な容姿をしていますよ? 航空会社側から、こんな容姿をしてる女が来ますのでと説明を受けていた可能性は、まだありうるでしょう。


 ですが、このサービス過剰ぷりが分からない。


 説明を求めたいのは山々なんですが・・・・・・ラテン系の男性への偏見その2、やたらと早口が目の前で炸裂してました。


「✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎!!」


 ス、スペイン語は知ってるはずなのに、ネイティブでもきっと聞き取るの困難であろう言葉の本流に、わたしの頭はパンク寸前でした。


 単語1つ拾い上げているうちに、次の100語に押し出されてる、そんな感じ。


 口を挟むことすらできずにわたしは、拾い集めた単語の断片から、相手の主張を推し量ってみました。


 歓迎・・・・・・されているみたい? お部屋は・・・・・・何? えー・・・・・・シュリンプカクテルが無料? なぜ、どうでもいいことばかり聞き取ってしまうのか・・・・・・。


「えっ、えっと・・・・・・」


 どうせチェックインに必要になるでしょうしと、あらかじめ手に持っていたパスポートを振りつつ、どうしたものかと考えあぐねる。


 なにか変です。


あ、あのポルファボール、何か勘違いされているような気がするんですけども・・・・・・」


 曖昧な感じに手をわちゃわちゃさせつつ、スペイン語でそんな質問を投げかけてみる。


 するとマネージャーさんは、なんと丁寧に謝ってくださいました。


 ああやはり誤解があったのだなと安心していると、恐るべき早さで問答無用に人のパスポートを奪い取ったかと思えば、勝手にフロント・デスクに居たきっと部下であるタキシード姿の男性に預け、こちらに手招きしながらエレベーターに向けてズンズン歩き始めるマネージャーさん。


「えっ? いえ、あの、困るんですけど!!」


 あのチェックインの手続きとかは!?


 横目でチラッと見てみれば、わたしのパスポートは丁寧に金庫にしまわれていましたので、海外ホテルによくあるパスポートの預かりなんでしょうけど、なんですかこの強引なやり口は!!


 やはりあんな航空会社が手配してきたホテルだから、なのかしら?


 それともこれは、新手の犯罪? 押し売りならぬ押し宿泊が、実は世間ではひそかに流行しているとか!?


 そんなアホなことを考えているうちにもマネージャーさんは、呼び出したエレベーターにひと足お先に乗り込んで、ずっとこちらを手招きしている始末。


 ど、どうしましょう。


 ここに留まってパスポートの返還交渉、いえいえその前に、事情の説明を求めるべきなんでしょうが。そうなるとどの道、この場で一番偉いらしいマネージャーさんを説得しなくてはならない訳で。


 と、とにかくエレベーターに飛び乗って、扉が閉まらぬようそれとなく手で抑えつつ先手必勝、相手の貴賎を制すべく、諸悪の根源に向けてちょっと大声で説得してみることにしました。

 

「あの!! わたしまだ何の手続きもしてないんですけど!?」


「お気になさらず」


 今までのやり取りは何だったのかと思わされる、あまりに短い返答。ですがこれ、全然答えになっていない!!


「えっと、航空会社側からなにか連絡とか受けたのかしら?」


「ですからお気になさらず。お部屋までご案内しますよ」


 確信に満ちた顔をしてマネージャーさんは断言される。わたしが誰だか明らかに承知している風です。


 まさか誘拐? だとしても大胆に過ぎますし、行動が意味不明にすぎる。何よりもあの笑顔にはまるで邪気がなくて、ますます混乱していくわたし。


 これは、もう無理です。


 衛星電話はバッテリーが切れているので、公衆電話の場所を聞いて航空会社側と連絡を取るしかありません。それかいっそ、走って逃げ出すか・・・・・・。


 正直、パスポートが相手に握られていないなら、走って逃げるというのはひどく魅力的な選択肢に思えるんですけども。どうしたものかしら。


「ちょっといいかしら?」


「え? あっ!! すみません」


 エレベーターを動かすまいと、扉を抑えながら入り口に仁王立ちする格好になっていたわたしは、背後から掛けられた凛とした女性の声につい、抑えていた手を離してしまったのです。


 そうですよね、エレベーターは公共物。他にも利用客が居るんですから、理由があるとはいえいつまでも通せんぼするわけには・・・・・・あっ、と思ったところで時既に遅し。エレベーターの内側からわたしは、プシュと、コンプレッサー音を鳴らしつつ閉じていくドアの姿を、呆然と見守ってしまったのです。


 そうです。ついエレベーターに乗り込んでしまった。


 無情にも締まり切るドア。マネージャーさんは階数ボタンを流れるように押し込んで、ニコニコと笑顔をこちらに向けてくる。


「お部屋までご案内いたしますので」


 ・・・・・・もうこうなったら素直に部屋まで直行して、そこでコンセントを見つけ、衛星電話のバッテリーを充電して、航空会社にどういうことなのかというクレームを投げつける他に打てる手はなさそうです。


 これならば、また航空会社側がろくでもない対応をしてきたとしても、最低限メリッサに遠距離通話で泣きつくことができるでしょうし。


 徹底した下準備を経たうえで海外旅行に赴くのがわたしのスタイル。あるいはそのせいで、イレギュラーな事態への対応力が下がってしまったのかもしれません。さっきからずっと状況に流されっぱなしで、どうしたものかしら・・・・・・。


 上昇していくエレベーターの律動に身を委ねていると、ふと後から乗り込んできた女性と目があってしまいました。


 女のわたしでもハッとなるような、浅黒い肌をした美女がそこに居ました。


 ハスキーな声をしているその女性は、美しいと格好いいの良いとこ取りをしたような容貌していて、立っているだけでもちょっと気圧されてしまうほどでした。


 美貌に負けず劣らず、体型もまたスレンダー。運動でもしているのかしら? 割と筋肉質なせいか、一歩間違えれば少年に見間違えてしまいそうなほど細い体格をしているのに、甘い香水と隠しきれないその色気のせいで、性別を誤認することはまずありえない。


 そして容姿だけでなく、着ている服もまた人の目を惹きつけるものでした。なんとその女性――南米にありながら、チャイナドレスを着込んでいたのです。


「あら、どうかした? 服になにかついているかしら?」


「あっ、いえいえいえっ!! なんでもなくて・・・・・・その、すみません」


 白い歯を見せながら微笑む女性に、わたしは内心でドギマギしてました。


 いつかはあなたのように、大人の女性として見られたいんですけど・・・・・・どうにも子供っぽさが抜けきらなくて。今だにぬいぐるみを抱いてないとよく眠れないなんて、どうしたらいいんでしょう?


 なんて、まさか赤の他人にこのような相談を持ちかけるわけにもいきません。


 自分の思考の恥ずかしさのあまり、床を見つめてむっつり押し黙るほかありませんでした。この恥の上塗り感、どうしよう。


 ・・・・・・しかし、恐ろしく目立つ女性でした。容貌はもちろん、だって南米にチャイナドレスなんですよ?


 いえ、よくよく見てみれば、確かに全体のルックスは伝統的なチャイナドレスのようですが、細々とした意匠はどこか南米風味にアレンジされてました。あれです、メキシカン・スカルを模様として仕立てたかのよう。


 厳密にいえば、チャイナドレス風デザインなのかもしれませんね。


 ですがやっぱり、右脚がおおきく露出された目のやり場に困るスタイルは、わたしにチャイナドレスという単語を連想させるのです。


 深いスリットによって丸出しになっているその美脚は、細く、長く、しなやかつ筋肉質でした。さらにアクセントとして、太ももにはガーターベルト風のファッションが巻きつけられている。


 うん? スリットからのぞく美脚が鮮烈すぎて、もしかして全体の露出度は意外に低いのかもしれないと気がつく。


 両腕と喉元、あともちろん右脚を除けば、あとはこの手のセクシーさを売りにしてる服にしては珍しい、厚めの生地に覆われていました。むしろちょっと通気が悪そうです。


 なんとも派手派手しい見た目。ここに二股に分かれる長いロングヘア、それもひと目でウィッグだと分かる人工的な金色の髪を被っているのです。一歩間違えればこのホテルとおなじくケバケバしく感じられそうなのに・・・・・・不思議と似合っているのは、やはり素の容姿の為せる技でしょう。


 美人は得、どうもそういうことであるようです。というあたりで、ぶんぶん頭を振って正気を取りもどす。なにマジマジと観察してるんですかわたしは!!


 女性の独特にすぎる服飾センスに気圧されているうちにも、エレベーターは上へ、上へと向かっているのに。


 人を値踏みするのは良くないことです。ですがわたしは職業病か、初対面の相手をつい観察してしまう癖がある。


 傭兵だから仕方がないとはいえ、大勢に裏切られ、少なくない大切な部下たちを失ってしまったがゆえの警戒心の発露。きっと、そういうことなんでしょう。


 人は見かけによらないなんて大嘘です。


 外観には、必ず相手の人となりを知るヒントがあるんです。そこにきますと観察の結果――この女性はすごい美人だということが分かりました。


 もしかしたらわたしの目は、ただの節穴なのかもしれません。


 ちょっと速度遅めなエレベーターの壁に寄りかかりながら、チャイナドレス姿の女性はさっきから挙動のおかしいわたしではなく、頭上の階数表示を一心に見つめている。


 早口大会に出られそうなマネージャーさんもどうしたことか口をつぐんで、エレベーター特有の気まずい雰囲気を助長している。


 静かすぎて、エレベーターの広さが倍になったかのようで、わたしもなんとなく階数表示に目をとめてしまう。


 ・・・・・・どこまで上がっていくのかしら? 止まることを知らないエレベーターは、ついには最上階まで到達してしまいました。


 左右に割れていくエレベーターのドア。


 いかにもホテルらしいどこまでも続いていくような薄暗い廊下と、番号が振られた無数の扉たち。


 自分のホームグラウンドに意気揚々と降り立ったマネージャーさんは、またしてもわたしを手招きしながら、率先して進んでいく。


 まあ、今さらフロントに戻っても・・・・・・だから仕方がないと自分を鼓舞しつつ、わたしもマネージャーさんのあとに続いていく。いえ、続いていこうとして、あのハスキーボイスに呼び止められてしまった。


観光サイトシーイング?」

 

「えっ?」


 また凄いタイミングで話しかけてきたものです。足、半分ほどホテルの廊下にはみ出してるんですが。そういうのはさておいて、チャイナドレスの女性はとても上手に英語を操ってました。


 訛りはわずか。でも、ちょっと形式張っている感じ。


 ネイティブと話しているうちに自然と身につけてしまったタイプの英語でなく、ちゃんとした教育機関で学んだもののようです。


 どうしましょう? まさか正直に、亡き部下のお墓参りに行くはずが、想定外の事態に巻き込まれて今ここにいるんですとは・・・・・・口が裂けても言えません。


 何者だと勘ぐられてしまうなら良い方で、成人してるっていうのに、今だに中学生扱いされるような童顔娘が部下ってなんだと怪訝顔をされては、実はまだ残っている指揮官としてのプライドが密かにズタズタになってしまいます。


 まあ、別にそんな深く考えなくてもいいですよね。愛想笑いしつつ、曖昧に会話を受けながせばいいんです。


「ええと、そのようなものです」


 濁した答えに、チャイナドレスの女性は特に反応を示さず。


「そう」


 そう気もなく呟き、すぐわたしから視線を逸していった。


 深い意味なんてない、単なる好奇心? むしろ事情を聞きたいのは、こちらの方だったかもしれません。


 だって1階から最上階までずっとエレベーターに乗ってきたんですよ? それなのにあの女性、降りる気配がまるでなかったのです。


 たまたま目指した階が一緒というなら理解はできる。ですが、実際にエレベーターから降りたのは、マネージャーさんとわたしの2人だけなのでした。


 ・・・・・・じゃあ、一体何のためにエレベーターに?


 やり場のない不可解な気持ち。どこか不気味でもある。ですが、わたしにやれることなんてありません。むしろここで別れるほうが、安全な気もして。


 わたしはさっさとマネージャーさんの後を追うとする。すると背後で閉まりゆくドアの駆動音に混じって、独り言にしては大きめなハスキーボイスがたしかに聞こえてきたのです。


「ここで会ったのも、なにかのご縁・・・・・・」


 振り向くと、すでにエレベーターは別の階に消えていました。




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