VII “アリスは穴の中へ”

【“テッサ”――バーラウンジ】


 親しい隣人が、一転にして恐怖の存在に入れ替わる・・・・・・そんなホラー映画的な緊張感からわたしを救い出したのは、空気をまるで読まない第三者の呼び声でした。


señoritaセニョリータ!!」


 一瞬、あのマネージャーさんがふたたび来襲したのかと肩をビクッと震わせてしまう。ですが、呼びかけてきたのは、マネージャーさんとは似ても似つかないガタイのいい男性方でした。


 大声の出どころはバーの入り口。そこに、仕事着という雰囲気でスーツを着こなしている男性2人がこちらを見つめてました。年は、30代から40代。スーツ姿も相まり、どこか勤め人といった生真面目さを感じます。そしてあのスペイン語からして、地元の出である様子。


 振り返ったわたしの顔を確認した途端、彼らはスーツの袖口になにやら囁きだす。


 見覚えのある仕草です。無線機を持っていることを周囲から隠すべく袖口に送信機を取りつけるというのは、世界中のボディーガードのみなさんが実施してるテクニックでした。


 ・・・・・・わたしを探してる、ボディーガード?


「お探ししましたよseñoritaセニョリータ。おっと、失礼ソーリー。コロンビアでの生活が長かったものですから」


 スペイン語から英語へすばやく切り替えつつ、近寄ってくる男たち。


 最初に声をあげた好青年という感じの人物がずっと会話を主導していて、その背後につき従う相棒らしき首の太い男性は、ただひたすらニコニコと笑っている。


 フレンドリーな感じですが・・・・・・孤立無援な異国の地で、いきなり赤の他人を信じるわけにはいきません。


「あなた方は?」


 バーカウンターのすぐそばまでたどり着いた男たち。間近で見ると、ますますSPぽい2人組でした。


 耳元には、シークレット・サービスが使うようなイヤーチューブが巻きつけられており、袖口には案の定、カフスボタンのように擬態している送話マイクとPTTスイッチの影が見える。あの膨らみ具合からして、上着の下に無線機本体をしまっているみたい。


 分かりやすすぎるほどに、ボディーガードの正装風味。こうまでされると連想ゲームもまた容易です。


 メリッサは言っていました。わたしは生まれたてのハムスターに負けるレベルだと――それと、護衛を送るということも。


 護衛の素性はおろか、詳細な合流地点も決められてませんでしたが、まあ、そこは阿吽の呼吸でこれまで多くの危機を乗り越えきた者同士、何を言わなくてもホテルで合流する手筈になるだろうと分かっていました。


 ですから、護衛の方々がわたしを探してバーまで来たというのは、十分に理にかなっている。


 なのに、嫌な予感が拭いされないのです。


「メリッサの言っていた護衛さん・・・・・・ですか?」


 つい疑うように問いかけてしまう。すると好青年の笑顔が、露骨なまでに凍りつきました。


 気分を害したのとはまた違う、泳ぐ目からして、答えを探して必死に頭を働かせてる、そんな感じでした。


「え、ええ・・・・・・ご友人から依頼を受けて、アメリカ大使館からお迎えに参りました」


 みずからの失敗を悟る。


 メリッサなんてファーストネームを使えば、交友関係はある程度、絞れてしまうでしょう。


 使うべきは亡き父の名前ですとか、状況的にありえない人物の名前にすべきでした。そうすれば白黒はっきりしたのに。


 チラリと、バーカウンターの裏側を見てしまう。


 あるいはこれも、おじさまのはた迷惑なドッキリの続きなのかと疑ってしまう。ですがこれは、雰囲気が明らかに違う。


 この男たちがメリッサが送ってくれた護衛という可能性は、すでに排除されていました。だってメリッサは、わたしが初対面の相手を軽々に信用しないと、よくよく心得ているはずなのですから。


 必ず、わたしだけが分かる合言葉を護衛さんに教えるはず。


「あなたを空港までエスコートして、本来の目的地行きのチャーター便に乗せるようにとの指示を、上から承っています」


 大仰なまでに笑みを顔面に散りばめつつ、好青年がわたしのほうに手を差し伸べてきました。


「安心して。さあ、行きましょう」


 大丈夫、心配ない、怖がらないで。どれも詐欺師の常套句でした。


 一体・・・・・・これはどういうことなのかしら?


 わたしのコロンビア入りがミスリルUSA、ひいてはジェリーおじさまのお節介であることはすでに判明しています。


 なのにこの男たちは、明らかに別口でした。


 男たちの笑顔の下で渦巻いてる剣呑な雰囲気、それは、わたしがかつて相手取ってきたテロリストたちとまったく同じ類の物でした。


 暴力を躊躇なく振るえる人間は、その生き様が顔に出るものなのです。


 不思議な伝手をたくさん持ってるメリッサのこと、コロンビアのアメリカ大使館にコネがあっても驚きませんけど――ホテルの中にまで拳銃を隠し持ってくるのは、普通じゃない。


 スーツの裾に隠された拳銃の膨らみ。それがわたしに緊張を強いていました。


「・・・・・・まずは、身分証明書を見せてもらってもいいですか?」


 本物の大使館職員という微かな可能性をきちんと潰しつつ、かつ、この男たちが何者なのか考えるための時間を、わたしは稼ごうとしてました。


 またも好青年が笑いだす。


「それが、車に忘れてきてしまいまして。

 ホテルのすぐ前に停めてありますから、一緒に来てくださればすぐお見せできますよ」


 “2枚ともですか?”


 なんて・・・・・・意地の悪い問いかけをしてみたいところですが。


 狙われる覚えはいくらでもあります。


 ですが、わたしがこれまで相手取ってきたのは、基本的にプロばかりなのです。一目で看破されてしまうほど質の低い人材を送り込んでくる組織なんて・・・・・・逆にちょっと思いつかない。


 あの送信機の付け方といい、それなりに専門的な訓練を受けてはいるようですが、いかんせん応用力が低すぎでした。


 真のプロとは、セオリーを守りつつ、その先の効率を追い求めることができる、創造的な人々ばかり。そこにくるとこの2人、あまりに脇が甘過ぎる。 


 例えるなら、教習所出立ての新人ドライバーのよう。中途半端な素人。実はこれが一番、怖い相手なんです。


 明らかに男たちは、わたしをホテルから連れ出そうとしていました。となると目的は、やはりわたしの誘拐でしょう。


 これで相手がプロなら、一周まわって行動に信頼が置けるんです。


 プロはランダムに動きません。誘拐目的だったら、わたしを生かして捕らえることこそが至上命題で、それが不可能と悟れば、被害を最小限にするため即座に撤退していく潔さがあるはず。


 なのにこの男たちは、怪しまれていると知りながら食い下がっている。


 素人も、一概には言えませんけど大抵は大丈夫。こういったタイプは甘い考えで計画を組み立て、それが破綻したとなると、すぐに混乱して逃げ出すのが常ですから。


 ですが、いざとなれば銃に頼ればいいと中途半端に己を過信している輩というのは、いつ暴走するか知れたものじゃないのです。


 最悪・・・・・・わたしが死ぬのは致し方ありません。我ながら、罪深い人生を歩んできた自覚はありますから。


 ですが、その過程で無実の人が巻き込まれるなんて事態は、まっぴら御免なのでした。


 あのチャイナドレスの美女。彼女は彼女で怪しいことこの上ないのですが・・・・・・そんなノルさんは、いきなりの乱入者に胡乱げな目を向けている。


「こっちも暇じゃないんで、もう行きましょう」


 紳士的な態度もどんどん崩れていく。


 好青年は業を煮やしてきたらしく、無遠慮にわたしの腕を掴もうと、手を伸ばしてくる。貼りついたままの笑顔が不気味でした。口は笑ってるのに、目はまるで笑っていない。


 咄嗟にわたしが伸ばされてきた手を避けたので、ますます苛立ちを顕にしていく。


 この男たちの正体については、一旦忘れましょう。今はもっと分かりやすい危険に対処すべき時でした。


 どう切り抜ける?


 おじさまの部下であるらしい、あのバーテンダーの女性に一縷の望みを託すのもアリですが、あいにくと姿が消えたまま。


 事態を解決するために裏で連絡をとっているとかなら良いんですが、もしお手上げだから隠れておこうとかだったら、期待するのは時間の無駄でしょう。


 あまりに未知数すぎる。バーテンダーさんは考慮しないことに決めました。


 息をつく暇もない・・・・・・まったくもって、とんだ寄り道になりつつある。


 孤立無援は相変わらずですか。そう諦めかけていたわたしに、思いがけない方向から救いの手が差し伸べられてきました。


 ええっと、ちょっと過激すぎる感じに。


「あらあら梅毒のお母さまはお元気? 奥方は今ごろ腰を振って間男を喜ばせつつ、新しい私生児を仕込むのにお忙しいところかしら」


 ・・・・・・。


 軍人家庭に生まれ、幼少期には沖縄の海軍基地で暮らしていたこともあるわたしです。ですから、ミスリルに入る以前より、口の悪い大人たちにはそれなり以上に耐性があったはずなんですが・・・・・・麗しいノルさんの口から飛び出ると悪口って、当社比2倍ぐらいにどぎつさを増すものですね? 


 これ・・・・・・勉強になったと呼んでいいものなのかしら?


 最初は呆気にとられ、つぎに暴言の矛先が自分であると気がつくと、自称大使館職員の好青年はこれまで保ってきた作り笑いを放り捨て、ついに本性をさらけ出しました。


「・・・・・・テメェ、今なんと言った?」


 青筋立てつつ、今にもノルさんに殴りかかりかねない凶相を浮かべる好青年。


 不穏な空気を一足で飛び越えて、バーの中にはすでに一色触発の空気が満ちていました。


 同世代の女性よりかは場数を踏んでいるわたしすら、ちょっと身がすくんでしまうほどの怒りの波動でした。


 ラテン系の方は家族を大切にすると聞きますし、わたしだって、自分のことはともかく、家族や仲間を侮辱されるのは我慢なりません。


 ですがこんな反応、どこ吹く風でカクテルグラスを揺らしてるノルさんは、百も承知だったようです。


「あら? いつからアメリカ大使館は、英語を話せない職員を雇うようになったのかしら」


 ハッとして好青年は、相棒である首の太い男の方を見つめました。


 あれほどの暴言のあとでも、首の太い男は空気を読まずにニコニコ笑いを続けている。まるで、英語が解らないかのように。


 ノルさんもわたしが至った結論に、別ルートでたどり着いたようです。


 余裕ある大人の態度はそのままに、ですが、スツールから足を下ろして、それとなくいつでも飛び出せる姿勢をノルさんは取っている。


 しくった。自分で思っているほどには表情を隠し切れていない好青年は自分がのせられと知り、あわてて怒気を引っ込め言い訳を口にする。


「彼はその・・・・・・護衛でして」


 満更ありえない話でもない。ですがそれなら、あえて胸を張って堂々と言い切るべきでした。


 やはりこの男たち、詰めがあまりに甘すぎでした。


 英語が喋れない自称大使館職員を従え、名前はおろかIDすら示さない。


 パッと見なら本物に見える偽IDぐらい、さほど手間も掛からずに用意できるでしょうに。その手間すら、この男たちは掛けていない。


 最初からボロボロだったメッキが急速に剥がれていく。その対抗手段としてまず言い訳を口にし、ついで手をそろそろと拳銃に伸ばしていくのは、プロとして失格の態度でした。


 銃声がどれほど響くのか知っているでしょうに。そもそも死体というのは、厄介ごとしか招かないものです。


 最悪な想像が頭に浮かびました。


 わたしの三つ編みを掴みながら、駆けつけてきたホテルの警備員たちと銃撃戦を繰り広げていくたち。そろそろ、そう断言していい頃合いでしょう。


 緊張すると、何かに縋りたくなるのが人情というもの。知らず知らずのうちに、たすき掛けにしているポシェットをわたしは掴み、身体の方に引き寄せていました。


 場の会話の主導権は、ノルさんに移り変わってました。


「てっきり護衛は、あなたの方だとばかり思っていたのだけど。ほら、護衛といえば武装しているものでしょう?

 カッコいいピストルね? ベレッタかしら? それともタウルス?」


 樹脂製のパドルホルスターとそこに収まる拳銃。反対の左腰には、マグパウチと金色の弾丸がのぞく予備弾倉。なまじ抜きやすいよう手を添えてしまったせいで、隠されていたスーツの中身が顕になっていました。


 もっと長い上着にしておくべきだったと、今ごろ好青年はほぞを噛んでいるに違いありません。


 しかし・・・・・・射撃が趣味と仰ってましたが、ノルさん、えらく銃の種類に詳しいですね。変な部分で感心してしまいましたが、だからこそ彼女は、的確に状況を把握できのかもしれません。


 わたしは、ふぅと息を吐きたくなっていました。

 

 これまでの怠惰な3年間を取り戻すかのように、怒涛の勢いで押し寄せてくるトラブルの数々。


 まだ入国してほんの数時間なんですよ? このペースでは10時間後とかにどんな目に遭ってしまうのか、今からもう恐ろしくてなりません。


 相手は銃を持っていると知ってなお、不敵な態度を隠さないノルさん。一歩遅れて、マズい状況だと悟った首の太い男も、相棒を見習って自分の銃に手を添えていく。


 何が一番悲惨かといえば、この国に入国してから出会った人々は、誰をとってもまるで信用できないということかしら。


 男たちは論外としても、ノルさんだって何を考えているのか・・・・・・でも彼女は、つい先ほど人生相談に乗ってくれたじゃありませんか。


 ですから、あえてわたしはひりつく緊張感なんて知ったことかとぴょんとスツールを飛び降りて、即座に仁王立ちを決めてみたのです。


 訝しむ両者の間に割って入り、まずわたしがなにをしたかといえば、怒髪天をついている時のカナメさんモノマネでした。


「謝りなさい――ノルさん!!」


 びしっと指差され、固まってしまうノルさん。まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔でした。


 ところで何なんでしょうね? 豆鉄砲って?


 形態はおろか、実在しているかも定かでない謎物体こと豆鉄砲。まるで意味が分からない単語なのに、どうしたことか、言葉の意味そのものは万人に通じてしまうのだから言語とは本当に不思議なものです。


 閑話休題。とにもかくにも、わたしにいきなり注意されたノルさんは、とっても不満げに眉を曲げていく。


 それはそうでしょう。当人からすれば、きっと助け舟のつもりだったのですから。


「・・・・・・あのね」


「言いたいことは、分かりまっ!!」


「ぬ?」


 やだ、ちょっと噛んでしまった。恥ずかしい・・・・・・慣れないことはするもんじゃありませんね。


 ですが、恥をかいた甲斐はあったと思います。


 場の空気というのは大切な要素です。なんとなく場の空気に飲まれて殺し合いに発展してしまうこともあれば、その逆に、急速に興が冷めて危機から脱することもある。


 無益な流血を避けられるなら、わたしはいくらでも道化役を買って出ることでしょう。


 練度は低いものの、その潤沢な装備からしてどこかの組織に籍を置いているに違いない男たち。そんな相手に向けて堂々と喧嘩を売るあたり、ノルさんも腕に覚えはあるようですが・・・・・・巻き込むことなんてできませんよ。


 だいぶ怪しいものの、それでも善意の第三者という可能性がノルさんにはまだ残されているのですから。


 男たちの目当ては、明らかにわたしです。


 ならばこれは、わたしだけの問題なのです。


「いきなりあんないかがわしい言葉を人様に投げつけるなんて、まったくもう!! あなたって人は!! 親御さんからどんな教育を受けたのかしら!?」


 我ながらひどい演技力です。演劇学校なら門前払いされること疑いありませんが、ノリと勢いの力というのは偉大なのです。


 男たちは面食らって見つめ合い、ノルさんは呆れ顔を隠さずに、わたしの問いかけに応えていきました。


「母は、1キロのコカインの山に顔埋めながらある意味で最高の死を迎えて。第一発見者たる父は、即座にコカインの出どころに感づいて子どもを残して出奔。数週間後に組織に捕捉されて、商品管理をしくじった罪でコロンビア・ネクタイされたそうよ」


 ・・・・・・この回答はまったく予想してませんでした。


 ちょっと壮絶すぎる回答にわたしのノリと勢いはどこへやら、冷や汗流しながら思考がフリーズしてしまう。


 えっ、あっ、あの・・・・・・動揺を隠せず、尻すぼみ気味に質問を返してしまうわたしがいました。


「その、ですね・・・・・・コロンビア・ネクタイっていうのはどういう・・・・・・」


「首切り裂いたあとにその傷口に手を突っ込んで、犠牲者の舌を引きずりだして喉に垂らすの。その見た目からして通称、コロンビア・ネクタイ」


 後悔しました。どうして尋ねたのですかわたし。


 あの本を読み終えてからというもの、実はある疑惑を抱いていたのです。


 それは、わたしにはとてもできない語り口でもって両親の死を話して聞かせたノルさんの態度により、ついに形を成し始める。


 見た目の違いなんて、それこそ表層的なものです。わたしが南米に感じてきたこのカルチャーギャップの正体――それは、死生観の差異なのではないかと、そう疑っていたのです。


 わたしにとって死とは、あまりに重い意味を持つ。それこそ人生を根底から変えてしまうほどに・・・・・・。


 ですがコロンビアが不可思議なのは、普通なら国土が荒れ果て、戦争待ったなしの人死にが出ようとも、一度して無政府状態に陥らなかったことなのです。


 絶え間ない死と破壊。それがあまりに身近にすぎて、隣人のように受け入れている。


 今でも、死んでいった部下たちのことを鮮明に思い出せる。それにわたしと、何よりも兄の人生を歪めてしまった両親に襲いかかった悲劇も、まだわたしは引き摺っているのに・・・・・・ノルさんはカラカラとしたものなのです。


 そういうものでしょ? とでも言いたげに。


 深遠な哲学的な探究。あるいは、単なる驚きからくる絶句からやっとこさわたしは立ち直りました。


 いえ、だ、ダメですって。今はそういうこと考えてる暇はないんです。ここで別のムードに飲み込まれてしまっては、作戦が台無しになってしまう!!


 さらに1オクターブほど声を張り上げ、わたしは再び攻勢に出ました。


「そ、それは・・・・・・本当に、お気の毒です。その、あの、でもそれはそれとして!! 先ほどの暴言はとっても許しがたいと思うんです!!」


「・・・・・・ああ、そう」


 わたしの狂乱ぶりにさしものノルさんも、少々たじろいておいででした。


 ふっと息を抜けば、羞恥のあまり倒れてしまいそう。顔はとうに真っ赤です。ですが、だからこそ一気呵成に畳み掛けるべき時なのでした。


 次なる標的は、自称大使館職員コンビでした。


「ところで職員の皆さま方!!」


 わたしが会話の矛先を向けたとたん自称職員たちは2人揃って、うわっこっち来たと言いたげな顔をしてましたが、精神安静をかねて、わたしはあえてそれを見て見ぬ振りしました。


 押し通します。こうなったらとことんまでも。


「わたしの至らなさゆえ、大変ご迷惑をお掛けして申し訳ありません!! それでッ!! 車の手配はされているんでたよね!?」


「ええと・・・・・・その、ハイ」


「ならば善は急げです!! さぁ行きましょう!! すぐ行きましょう!!」


 そう言い切って、肩で風を切るようにバーの外にむけて歩き始めるわたし。


 バーの裏手に雲隠れしたままの女性は、ついに姿を表しませんでした。となればわたしが頼れるのは、やはり己の知恵と勇気のみの様子でした。


「わひゃ!!」


 勢い余って転けかけますが、ぶんぶん手を振って、どうにかこうにかバランスを立て直す。


 ・・・・・・このように、わたしの身体能力はまるで当てにはなりません。ですから武器は、知恵と勇気――そして大体な決断力のみなのでした。


 そうです、ある意味で、いつも通りの展開でした。


 とりあえず足の向く先は、エレベーター乗り場でした。ネオンサインはもう背後、バーからはバタバタと、駆け寄ってくる足音が耳に届く。


 男たちは慌てていたものの、強引な手は取ってきませんでした。ただエスコートするかのように左右に分かれ、それとなくわたしを取り囲むだけ。


 方角的に、わたしの行き先がエレベーターだと気づいたのでしょう。そういうことなら男たちとしても願ったり叶ったりのはず。ホテルからわたしを連れ出すのが、まず当面の目的でしょうから。


 わたしは、その場の気分に任せて行動したりはしません。まずは計画を立てて、状況に合わせて適時、修正を加えつつも従っていく。それが戦隊長としてわたしが培ってきたプランニングのスキルなのでした。

 

 今の懸案事項は、男たちがどうやって警備の目をかい潜り、ホテル内に銃を持ち込めたのかでした。


 金属探知機とかも見当たりませんでしたし、単に警備の方の目が節穴であった可能性は大いにあります。


 ですが・・・・・・賄賂文化があまりに根づきすぎて、麻薬カルテルのお金に政府の職員すらも大勢踊らされてしまったこの国の歴史を踏まえますと、最悪のパターンも考慮に入れる必要がありました。 


 なぜなら、男たちは的確にわたしがバーに居ると突き止めてきたのですから。


 泊まってる部屋じゃなく、ダイレクトにバーへ向かってきた。廊下でチラホラ見かけた監視カメラの映像をたどれば、わたしの動きを掴むことは可能でしょうが、そのためには、警備の方を説き伏せて、映像を見せてもらうしかない。


 ホテル側が男たちを本気で大使館職員だと信じ込んだとしても、それならアナウンスするとか、他にわたしを呼びだす方法はいくらでもあったはず。


 それなのに男たちは、ホテルにチェックインしてからほんの数十分足らずでわたしの目の前に現れた。


 わたしの想像通りに賄賂を受け取り、ホテル側の人間が男たちに便宜を図っていたとしても、どこまでやるかは未知数です。


 監視映像を見せてやるだけならともかく、誘拐を見てみぬふりは流石にできないと言い出す可能性はありますけど・・・・・・顔も知らない警備員の倫理観に、期待なんてできません。むしろ、積極的に協力している可能性だってあるのですから。


 助けてくださいと叫んだところで、駆けつけてくるのが味方と限らないのは辛いところですね。


 誰が敵で、誰が味方なのかすらまるで分からない異国の地。やはり頼れるのは自分だけ、そう割り切るしかなさそうでした。


 大まかな方針はこうです。


 危険に晒された旅行者たるもの、まず駆け込むべきは大使館でしょう。


 外交特権だけでなく、巨大な塀と海兵隊に守られた要塞ならば一安心できます。


 パスポートが取られたままなのは痛いですけど・・・・・・そこは、メリッサに電話してサポートとしてもらうしかないでしょう。


 マンテッサという偽名で入国してますけど、これって実は、政府の発行したの偽身分証に裏打ちされていたりする、ミスリルがいかにデタラメな組織であったか物語る偽装なんですから。


 最終目的はこれでいいとしても、問題は、どうやって遠い大使館までたどり着くかでした。


 タクシーを拾えば一発でしょうけど、そこに至るには、まずこの男たちを振り切らなければお話にならないのです。


 あやうくバレるところだった・・・・・・表情から危機を乗り切った感を醸し出している好青年が、急に馴れ馴れしくわたしに話しかけてきました。


「いやぁ、しかしヒヤヒヤしました。あんな怪しい奴に絡まれてあなたも不幸でしたね」


 それって、ノルさんのことかしら?


 意図がちょっと読めない。単に本気でそう思っているのか、あるいはノルさんを手ごろな敵役に仕立てて、わたしの信頼を買いたいのか。


 ですがこの気やすさ・・・・・・もしや本気でわたしの演技に騙されてたりは、しないですよね?


 だとしたら好都合な展開ですけど、なんとなく素直に喜べない。

 

「見つけられてよかった。なにせ女性の1人旅は危険ですからね。恥ずかしながら、この国には誘拐魔が跋扈しておりますので」


 どの口で言うのやら。


 仮にわたしがここで逃げ出したら、すぐ男たちはわたしを羽交い締めにして、即座に口を塞ごうとするに違いないのです。


 ですが、油断してくれるならそれに越したことはありません。話をちょっと合わせてみることにしました。


「そんなに多いんですか?」


 騙し騙されはお互い様。


 相手を本物の大使館職員だと思い込んだお間抜けさんのように、小首をかしげて聞いてみる。


「実は、隣の管区でつい先日も、海外の実業家が誘拐されまして」


「まあ・・・・・・」


 ツッコミどころが多すぎてコメントに困ってしまう。


 海外の実業家とは、まるで地元の方のように話しますねとか、管区ってどういう意味なのかとか。


 ・・・・・・管区?


「白昼堂々と大通りで、ライフル振り回しての大立ち回りですよ。

 まあそこまでは割とありふれた話ですが、なんとも不思議なことにその犯人たちは、覆面もなしにコトに及んだそうなんです。

 数十人に目撃された、素顔の誘拐犯たち。なのにどうしたことか、目撃者たちは誰も犯人の顔を覚えていなかった。どうしだと思います?」


 ちょっと返答に窮しました。


 犯人の顔を覚えてないことよりも、日常的に誘拐事件が起きてることの方がわたしには衝撃的なんですが。


「さあ? わたし、暴力ごととは無縁に生きてきたのでよく分かりません」


「なんと傑作なことに、犯人どもは派手なアフロヘアのウイッグをしてたそうなんですよ」


 アフロのウィッグ? アフロって、あの頭が爆発してるみたいな髪型の?


「それは・・・・・・ずいぶん、変わってますね」


「いかにもストリート生まれのチンピラらしい、バカ丸出しって感じの変装なんですがね・・・・・・狙ってかどうかは分かりませんが、効果は絶大。

 似顔絵師がどれだけ詳細に聞き込んでも、目撃者は口をそろえてアフロヘアの男がやったの大合唱ですよ。なんと肌の色すら覚えてないのだから凄まじい」


「そう、ですか・・・・・・」


 聞き終えてみても、話の意図が見えてこない。


 これって笑い話? それとも、単なる雑談なのかしら?


 文化が違うせいでわたしが文脈を読み取れてないのか、はたまた単に好青年にセンスがないのか。気まずげな沈黙が垂れ込めていく。

 

 この気まずさは、相手もまた共有するところのようで。咳払いしてから好青年は、話を強引に結びました。


「あー、派手な服装をしているとついそっちに目がいってしまって、相手の本質が見えなくなるという・・・・・・そういう話なんでしょうな」


「・・・・・・」


 どうしましょう。あまりに理解できない出来事のオンパレードすぎで、頭がパンクしそうです。


 それもその大半は、どうにも異文化との接触という面がほとんどの気がして。


「・・・・・・日本に初めて行ったサガラさんも、もしかしたら今のわたしと同じような気持ちだったのかもしれませんね」


 自分の住む世界とはまるで異なる場所にいきなり放り込まれて、どうにか適応しろと迫られてしまった“彼”。


 細部はまるで異なりますけど、根っこの部分では今のわたしの境遇とどこか似ている気もする。


 何のことかと疑問に思ったようですが、結局、好青年はわたしの独り言をあえて詮索しようとはしませんでした。


 麻薬王が、顧客満足度ゼロの航空会社を運営していてもお咎め無しの国。チャイナドレス姿の女性がそこらをぽこぽこ歩き回り、アフロ姿の誘拐魔が跋扈してる国に、どうやったら慣れることができるのやら。


 非日常が日常化している世界。マジックリアリズムなんて専門用語を使うよりも、やはりおとぎの国という言い回しのほうがわたしにはピンときました。


 自分の常識では測りきれない、異様な世界とはあるものなのですね。


 エレベーターの前までたどり着くと、好青年が手で止まれと指示を出してきました。わたしが行き先を決められるのは、どうやらここまでの様子。


 押し込まれる呼び出しボタン。


 刻々と迫ってくるエレベーター。


 その揺れ動く階数表示を見つめながら、誰ともなく黙りこくる。もう雑談は起きなさそうです。


 武器なんて無論、手元にありません。護身用具すら皆無。あってもどうせ、わたしには使いこなせないでしょうし。


 これがメリッサでしたら、ポシェットの紐で相手の首を絞めるとか平然とやってのけるでしょうけど、いかんせんわたし武器は、いつだってこの頭脳だけなのです。

 

 すっと頭が冷えていく。作戦前はいつもこう。そうなるよう、ずっと自分を鍛えあげてもきた。


 エレベーターこそが作戦の成功の鍵なのでした。


 非力なわたしが、腕っ節では比べ物にならない男たちに勝つべく、知恵を絞って編み出してきた作戦。


 エレベーターに乗れば後はない。そう考えるべきでしょう。男たちがわたしをどこに連れていくつもりにしても、たどり着く場所でハッピーエンドが待ち受けているはずがない。


 古来から劣勢な側は、いつだって地の利をつかって勝利を掴み取ってきたもののです。


 3年間、忘れていた感覚。脳神経に電源が入り、シナプスが高速で走りまわる。わたしを監視している好青年、が訝しげな顔を向けてきました。急に三つ編みのさきで鼻をくすぐりだすとは、なんて妙な女なんだとでも思っているのでしょう。


 チンッと、上品なベルの音が鳴る。


 歪んだ鏡のような銀色の扉が左右にスライドしていくと、密室が姿をあらわす。


 彼ら心理戦は不得意なようですが、それ以外の技術については人並み以上に心得があるようです。


 首の太い男が、命令されたわけでもないのにエレベーター内に先行していき、脅威がないか念入りに調べていました。


 教科書通りの動き。本当に、融通の効かない者たちのようです。


 相棒が調べていく間中、好青年はそれとなくわたしの肩を掴める位置に立ち続けてました。要人警護というより、どちらかといえば囚人護送のテクニック。


 確認終了。頷きで、入るよう促してくる首の太い男。


 神は細部に宿るもの。そこにくると、背中を小突いてくるなんてのは最悪な擬態でしょう。エレベーターにさえ乗せてしまえばこっちのもの。男たちの態度からは、そういう意図が滲み出ている。


 そろそろ、作戦を始める頃合いでした。


「あっ」


 廊下とエレベーターの中間地帯をもうすぐ跨ぐ、そんなタイミングで、間抜けな声を上げながら立ち止まってみる。


 気の早いことにすでに1階行きのボタンに手をかけていた首の太い男も、背後の好青年も、何事かとこちらを睨んできました。


「ど忘れしてました。まずお部屋に荷物を取りに行かないと」


 ポンと手を叩き、能天気さを装ってみる。


 大物の荷物は、今ごろブラジルに到着してる頃合いです。わたしがコロンビアに持ち込めた荷物といえば、腰元で揺れてるポシェットだけなのでした。


 だから部屋に戻っても意味はないのです。


 態度と裏腹に、内心ではとってもビクビクしてました。だってこれが勝負の分かれ目。男たちが荷物なんて無いと承知していたのなら、その時点ですべてがご破算になってしまう危うい賭けなのです。


 しかし今回ばかりは、勝利の女神はこちらに微笑んでくれたみたい。


「ああ、それは当然ですね・・・・・・」


 あくまでも、善意でわたしを連れ出しにきた大使館職員を演じきるつもりみたい。


 早鐘を打つわたしの心臓の音は聞こえなかったらしく、好青年はまたぞろ人工的な笑みを浮かべ、相棒にスペイン語で事情を説明していきました。


「“まずはメスガキの荷物を取りに行くぞ”」


 ・・・・・・こっちがスペイン語が解らないと思い込んでいるとはいえ、好き勝手に言ってくれるものです。


 でも、わたしがマルチリンガルとすら知らないなんて。どういう情報をもとにして、わたしの誘拐を企てたのかしらこの男たち?


 明らかにわたし個人を狙っておきながら、プロフィールをまるで心得ていないこの矛盾。また謎が増えていく。


「泊まっていたのは?」


「最上階です」


 そう答えつつ、つかつかエレベーター内へ。慌てて道を空け、奥に引っ込んで首の太い男。


 自分がルールでも言いたげなお嬢様風を吹かせつつ、すまし顔で操作パネルの前に立ち、最上階のボタンに手を添えながらわたしは言いました。


「乗らないんですか?」


 鼻持ちならない金持ちのメスガキだと、好青年は認識を改めているに違いありません。


 これまでの展開から、好青年のエレベーター内の立ち位置も手に取るようにわかりました。予想通り、呆れたように首を振りながら好青年は、首の太い男を通せんぼするような形で、わたしの左側に移動してきました


 身体を傾ける。ボタンを押すのだから仕方がない風に、それとなく好青年から操作パネルを目隠ししながら、階数ボタンはまだ押さず、まずはエレベーターの扉を閉じるボタンを押し込みます。


 順調すぎて怖いぐらい。最初がうまくいってる時は、いつも最後にイレギュラーが待ち受けているものですよね、なんて、いやなジンクスが頭をよぎる。


 緊張はしている。


 とりわけ今回の作戦の肝は、わたしの頼りない運動能力なのです。失敗したら取り返しはつかないと、覚悟すべきでした。


 でも遠いどこかで部下たちが死んでいくよりも、今回はいくぶん気が楽である。失敗しても、泥をかぶるのはどうせわたし1人なんですから。

 

 だったら――気楽に行こうじゃありませんか。


 1、2、頭の中で数字をカウントしながらタイミングを合わせていく。


 3、4、それとなくポシェットのファスナーを下ろしていく。


 5、6、気づかれないよう取り出した衛星電話を地面に落とす。どうせバッテリー切れですし充電器も規格外、ここで出し惜しみしても仕方がない。


 7、8、からころ、エレベーターから廊下へと転げ落ちていく携帯に目が釘付けになってる男たちを尻目に、エレベーターの扉が閉まっていく。


 8、9、そして・・・・・・10。その数字にいたる寸前、わたしの指が、今いる階から1階までのすべてのボタンを滑るように押し込んでいきました。


「ッ!!」


 驚く男たちの吐息。


 身体を横にしつつ、閉まる寸前のエレベーターの扉から廊下目指して走り出すわたし。


 ああやって大量にボタンを押し込んでおけば、エレベーターは各駅停車に早変わり。事態を知ってあわてて操作パネルに張り付いたところで、男たちは融通の効かないエレベーターによって、強制的に下の階に連れていかれてしまいます。


 これで最低でも1階層分、男たちから距離を稼ぐことができます。


 まあそれ以前の問題として、逃げ出そうとするわたしを男たちが掴んだらどうするのか? という難問もありましたが、そこはそれ、すでに対策済みでした。


 わたしはスタートダッシュとして床を蹴る代わりに、好青年の小指めがけて、思い切り足を振り下ろしていたのです。


 足の指とは繊細なものです。非力なわたしの脚力だって、ピンポイント小指を踏み抜けば、痛みのあまり一瞬の隙が生まれてくれる。


 好青年の短い悲鳴になんて目もくれず、扉に挟まれそうになって、肩をぶつけて転がり落ちる不格好なスタイルながらも、なんとかわたしは、廊下のカーペットの上に着地していました。


 背後で閉まりきるエレベーターの扉の音と、“下へ向かいます”なんてアナウンスに尻もちつきながらも、ホッと一息を吐く。


 着地のミスが帳消しになるほど、タイミングは完ぺきでした。遅すぎもせず、早すぎもせず、正体不明の男たちから逃れることができた。


 でも、ゆっくりはしていられません。


 早くて次の階で、してやられた男たちはエレベーターを降り、復讐心を胸にここまで駆け戻ってくることでしょう。


 束の間の勝利に酔ってもいられない。別のエレベーターに乗るか、階段を駆け下りるか、あるいはどこかに身を隠すか。


 以前、厳しい状況ですが、選択肢が生まれただけでも御の字・・・・・・そこで違和感に気づきました。胸に圧迫感を感じたのです。


 ポシェットの肩紐は、長めに弛ませるのがわたしの好みでした。手元に近いところまで位置を下げれば物が取り出しやすいですし、恥ずかしながら、ここ3年でなぜか急成長してしまった胸の膨らみのせいで、短くすると胸が苦しくなるのです。


 それが悪い方向に働いていました。


 この作戦について誤算だったのは、まずコロンビアのエレベーターの安全基準の低さと、ポシェットの肩紐を男たちのどちらかが咄嗟に掴んだことでした。


 抗いようのない凄まじい締めつけに、息が詰まる。直後、凄まじい力で肩紐が、わたしを地面へと吸い寄せていきます。


 まさか!! 混乱する頭でなんとか背後を仰ぎ見る。


 ピタリととじたエレベーターの外扉、その隙間にポシェットの肩紐が挟まったままになっていて・・・・・・エレベーターの昇降に合わせて、ぐんぐん、下がっていくではありませんか。


「きゃ!!」


 まずい!! 肩紐によって廊下に組み敷かれていくなか、なんとか身体をくねらせ、ポシェットを外そうと試みますが・・・・・・メリッサの助言がここで悪い方に働くなんて。


 貴重品を詰めたポシェットを安物で済ませる訳にはいきません。ましてや海外旅行はリスクがいっぱい。盗っ人の中には通り過ぎざまに刃物でバックを切り裂いて、中身だけを奪っていく輩もいるそうなのです。


 そこでメリッサがお勧めしてくれたのが、軍用としても通用する防刃・防水繊維製のとってもタフなポシェット。もちろん肩紐の材質だって、対荷重数百キロという頑丈な代物だったのです。


 これは、無理です・・・・・・中途半端に紐と身体のあいだに挟まった手のひらが、ギリギリと締め付けられていく。


 嘘・・・・・・でしょう? まさかこのまま、肩紐にねじ切られてしまうなんてことは・・・・・・。


「ぎっぃ!!」


 真っ赤な光に思考が染まる。


 成人男性を優に10人は乗せられるエレベーターの機械的な力に、わたしごときが抗えるはずもなく。必死に思考を働かせようとしても、刻一刻と脳から失われていく酸素が、正常な思考の邪魔をする。


 まるで万力・・・・・・わたしという異物を無視してエレベーターは下降を続け、かろうじて喉と肩紐の間に挟ませた左指だけが軋んでいきます。


 無駄なあがきと知りつつ足をばたつかせてみても、霞んでいく視界に起死回生の一手なんてまるで浮かばない。


 ・・・・・・これがわたしの最期?


 天国に行けるほど得は積んでいないでしょう。人生の終わりには、わたしは必ず地獄に落ちると知っている。


 ですが、まさかこんな形で死ぬことになるなんて・・・・・・。


 切れ切れの意識のなか、諦めの気持ちが浮かんでは消えていく。


 でも次の瞬間わたしが見たのは、せせら笑う地獄の悪魔ではなく、無限の虚無でもありませんでした――見たのは、とっても綺麗な脚線美をした人影だけ。


「げほっ、ゲホッ!!」


 急に、あらゆる束縛から解放されました。


 溺れていたところを海中から引き揚げられたかのように、四つん這いになってえづいてしまう。


 たっぷり時間をかけて、呼吸を安定させていきました。


 肩紐にそって胸の部分にまだ違和感がありますし、アザになりそうな気配が濃厚です。


 でも涙を拭えば、視界もあっさり回復してくれましたし、血の流れも戻ってきたようで、挟まっていた左指も動きだす。すると、自分が何かを掴んでいることに気がつきました。


 千切れた肩紐が手の中に収まっていた。その切り口ときたらひどく鋭利な断面でして、僅かな布のほつれすら一直線に切り取られている。


 また咳が出ます。でもそれが収まる頃には、嘘のように体調が整っていた。


 バーに続いてまたも差し出されてくる手。ですが今回は避けたりせず、短かく整えられた爪を生やす、長くて細く、そして力強い手を掴み返しました。


「あ、げほっ、ありがとう・・・・・・ノルさん」 


 靴先だけ材質が違うのか、二種類の黒色で彩られるハイヒールから、ぐんっと視界が引き離される。四つん這い状態だったわたしは彼女の片手に引き上げられ、一瞬で立ち上がる。


 彼女はまるで変わってません。


 あわや凄惨な死を遂げるところだったわたしを前にしても、余裕ある笑みでこちらを見つめている。その腕には相変わらず、サンタ・ムエルテのタトゥーが緩やかに光り輝いてました。


「無茶するわね」


 チャイナドレス姿の麗人はそう言いながら、左手の指に挟んだ何かをひらひらさせる。


 何か話したかったのですが、咳が邪魔をする。


 その衝撃でちょっとフラつきましたが、ノルさんが支えようか? とふたたび差し出してきた手を丁重に断り、ちゃんと自分の両足だけで堪えてみせる。相応にダメージはあるものの、落ち着けば後遺症もなさそう。そのことにちょっと安心する。


 世にも奇妙な切り裂き刑になりかけたことを思えば、こんなのどうってことありません。


 ノルさんはちょっと迷っていたみたいですが、わたしが落ち着くのを見計らって、切れた紐がだらんと垂れさがるポシェットと床に転がっていた衛星電話の2つを手渡してくれました。


 このポシェットに罪は・・・・・・あるような、ないような。ちょっと顔をしかめつつ受け取る。だって中身の貴重品に罪はありませんから。


 衛星電話を中にしまい込んだポシェットを左手で抱えつつ、わたしは命の恩人に応えていきました。

 

「付いてきちゃったんですね・・・・・・」


「あら、お礼なし?」

 

「危険から遠ざけようと、げほっ、したん、ですけども・・・・・・」


「ふーん、変なところで殊勝ね。それで死にかけてたら世話ないとも思うけど」


 ノルさんは余裕綽々でした。コロンビアの女性がたくましいだけなのか、それとも彼女は鉄火場慣れしているのか。どうにも、後者の気がしてなりません。

 

「命を救ってくださり・・・・・・げほっ、あ、ありがとうございます・・・・・・でも、つかぬ事を聞きますけど、一体どうやって紐を・・・・・・」


 一見するとノルさんは手ぶらです。明らかにナイフ類なんて持ち合わせていない。


 わたしの質問に答える代わりにノルさんはまたも左手をひらひらさせて、金属の光沢を放っている円形の物体を弾き、巧みに両手の間を行き来させる。


 いわゆるコイントリック。ニューヨークの街角で簡単なマジックを披露していた芸人の方が、まったく同じ動きをしていたものです。


 キラリと、銀の輪っかに閉じ込められた金色の円盤が光ります。この地の紙幣にまだ慣れていないわたしでも、それが500ペソ硬貨であるとはすぐ分かりました。だって両替所で受け取ってからまだ数時間でしたから・・・・・・そう、ほんの数時間でエレベーターに真っ二つにされかけている。


「あら知らないの? 500ペソ硬貨って、動脈ぐらいならスパスパ切れちゃう鋭利さなのよ?」


「そんなバカな話がありますかッ!! うっ、げほっ、げほっ!!」


 ついつい命の恩人相手にツッコんでしまいました。だって、正義は我にあると声を大にしたかったものですから。そんな危ない裏機能があるのなら、わたしの指はとうに切り落とされてますよ!!


 いきなり大声をあげたせいで肺がびっくりしてる。せっかく立ち直ってきたのに、これでは元の木阿弥です。


 でも・・・・・・ぐっと目を凝らしてみれば、ノルさんが手に持つ500ペソ硬貨の縁は、なるほど刃物みたいに先だけ色が異なる。


 500ペソ硬貨すべてはともかく、最低でもノルさんが手にしているコインが、防刃仕様であるはずのポシェットの紐すら切り落とせるとんでもない鋭さなのは確かなんでしょう。なにかしら、ダイヤモンドカッターとか?


 どうしてそんな特殊なものを・・・・・・護身用具としても度が過ぎていますし、扱いこなすには、年単位の時間がかかってもおかしくない。


 捉えどころのない謎の無国籍風の女性。いきなり人を誘拐してこようとする謎の男たち。そして今度は、異様な武器を巧みに扱ってみせるチャイナドレスの麗人。もう何がなんだが・・・・・・登場人物が濃すぎるわりに、何がやりたいのか誰1人としてちゃんと説明してくれないので、わたしの頭は混乱しっぱなしでした。


 そんな硬貨型の凶器をノルさんは宙に弾き、瞬間で拳にしまい込んだかと思えば、マジシャンよろしくパッと消してしまう。


 本当に何なのかしら、この人・・・・・・。


「助かったんだから別にいいでしょ? それとも、新手の拷問器具で首引きちぎられてた方がよかった?」


「それは、そうですけど・・・・・・」

 

 なにか、体よくあしらわれた感じがしないでもない。


「それより逃げたほうがよくない? 早くしないと、さっきの奴らが戻ってくるわよ?」


 ・・・・・・そうでした。

 

 バッと振り返って、忌まわしきエレベーターの階数表示を睨んでみれば、あの男たちが乗ったエレベーターは4つも下の階で止まってました。


 いきなりの事態に対処が遅れたのでしょう。想定よりは遠くに追い払えたものの、余裕ぶれるほどの距離でもない。可及的速やかに作戦の第二段階、すなわち逃亡のフェーズに移るべきでした。


 とりあえず、エレベーターの呼び出しボタンを押し込んでみる。


 あんなことの後でまたエレベーターに乗るのかというのは、わたしだって嫌ですよ。でもこれには二重の目的があったのです。


 すぐ来ないパターンでしたら、わたしが悠長にエレベーターを待っていると敵に誤認させることができるかもしれない。


 すぐ来たのなら、選べる選択肢はさらに広がります。そのまま飛び乗るのも手ですし、なんでしたら無人のエレベーターを囮代わりに見送り、自分は別のルートからというのもアリでしょう。


 メリッサから教わったこと、ではなくて。珍しくも今回のネタ元はウェーバーさんでした。


 たった1人で敵地に潜入していくことがしばしばのスナイパーは、その性質から敵に追跡されることも多々ある。そのため敵を撒くためのテクニックをたくさん知っていたのです。


 酔っ払いの自慢話もたまには役に立つものです。1回道を曲がれば、追っ手は2つのルートを探さなければなりません。2回なら4つの、4回なら8つと、移動パターンを増やせば増やすほど、敵の捜索範囲もまた広がっていく。


 ベルの音が、エレベーターの到着を知らせてきました。


 思いのほか早く到着してくれたエレベーター。階数表示のお陰で、ずっと下の階から昇ってきていたのが見えてたから、まかり間違ってもあの自称大使館職員の男たちは乗っていません。


 階段を駆け下りのは、正直いって体力的に避けたいところ。先ほどのダメージもまだありますし。となれば、とりあえず乗るべきでしょう。


 しかし、ノルさんはどうしましょう?


 命を救ってくれたご恩はあるものの、ここで別れた方がお互いのためにも思える。


 本当に彼女が、ただのお節介でわたしを助けてくれただけならば、これ以上――その、何が起きてるのか、自分でもまだよく分かってませんけど――首を突っ込ませるのは気が引ける。


 そしてもう1つの可能性。すなわちあの男たちと同じく、ノルさんにもわたしの知らない裏の意図があるのだとしたら・・・・・・これからも同行してもらうのは、リスクにしかならないのです。


 ですが気になるのは、あの男たちにノルさんの顔が知られてしまっていること。わたしを見失ってしまった彼らがノルさんのことを急に思い出し、可能性は低いと知りつつも、それでも一縷の望みをたくして尋問しようとするとか・・・・・・可能性は大いにある。


 どうしたものかしら。悩むわたしの背中を押したのは、焼きつくような胸の痛みでした。


 真意はどうあれ、彼女が命の恩人なのは事実。


 もはや敵地同然のホテルに1人残していくよりは、彼女と一緒にエレベーターに乗り込み、とりあえずの安全地帯まで同行してもらうべきでしょう。


 背中は見せられませんが、命を恩人を見捨てるなんて人の道に反します。


「あなたにも聞きたいことは山程あるんですけど・・・・・・でも、とりあえずノルさん。わたしと一緒に――」


 シチュエーションに目さえつむれば、まるで駆け落ちの文句のよう。


 エレベーターの中から現れ出でる乱入者たちさえいなければ、ちゃんと最後まで言い切ることができたでしょうに。


 新たな誤算でした。色々とありすぎて、細部を見落としていた。


 バーに初めて姿を現したとき、あの男たちがまず何をしていたでしょう? そうです――袖口の送信機に囁きかけて、誰かに連絡を行なっていたではありませんか。


 誤算どころか、事態は最悪を極めていました。ホテルの人間を買収して、監視カメラを使ってわたしの足取りを追った? それは想像に過ぎないのに、まるで事実であるかのように頭の中で処理してしまっていた。


 現実はもっとくだらないものです。


 すべての階に人員を送りこむ人海戦術を持ってすれば、らしくもなわたしがバーでたむろしていたとしても、さほど時間もかからず見つけ出すことが叶うでしょう。


 そうです――男たちは、2


 スライドしていく扉の向こう、エレベーターに乗っている先客たちが姿を表しました。


 タイミングが違えば、わたしに向けて大使館職員と名乗っていたのは彼らに違いない。瞬間でそう悟れるほどにスーツに無線機、そして拳銃までも、先ほどの男たちのコピーのようでした。


 好青年らが職員AとBとするなら、新手たちは職員CとDといったところかしら。


 同僚からの警告を耳元のイヤーチューブから受け取ったのでしょう、彼らは下手な嘘を振りかざすつもりなど端っからないようでした。


動くなッ!!ノーテ・ムエバス


 大使館職員という下手な衣を脱ぎ去って、誘拐犯という本性を男たちはさらけ出していく。


 拳銃をわたしに向けつつ、アフリカ系らしき職員Cがゆっくりこちらに近寄ってきます。フリーな左手には警察が使うような手錠を握りしめ、利き手はといえば拳銃を引き抜くべく、そろそろと伸びていく・・・・・・しかし次の瞬間、わたしの目の前に影が躍りました。


 銃はナイフに勝る。それは、基本的には真理です。


 なぜならナイフの射程とは、刃渡り+人間の腕の長さすぎないわけでして。対する銃ときたら、射程が短いといわれる拳銃ですら、殺傷距離は余裕で50メートルを越えるのです。


 ですが現代戦にナイフの居場所はまったくないのかと問われたなら、短かく否と、わたしは答えるでしょう。陸戦については知識だけですけど、実戦部隊を長らく従えてきたわたしは、そこら辺の戦いの事情も、ちゃんとレクチャーされていましたから。


 抜き、刺す。


 このわずかツーアクションで攻撃が完了するナイフに比べて、拳銃はホルスターから引き抜き、構え、そこから狙いを定めて、最後に引き金を絞るという、複雑な行程を踏まなくてはなりません。


 それでいて、すべての条件をよどみなく達成したところで、ちゃんと弾丸が当たってくれる保証はないのです。


 ですから特殊部隊では、こう教えられているのだとか。標的との距離が6メートル以内であれば、拳銃よりもナイフの方が早いと。この場合はノルさんいわく、頸動脈ぐらいならスパスパ切れる500ペソという名をした凶器が、ナイフに代わって振るわれました。


「あァがぁぁぁぁァァアッ!!」

 

 悲鳴が、エレベーターの中で反響していく。


 声の主は、500ペソ硬貨の一閃によって拳銃を抜ききる前に親指を半ばまで切断された職員Cでした。


 ぶらぶら揺れる自分の親指を止めるのに必死の職員C。そんな同僚を無視して、おそらく元軍属らしい職員Dは驚愕しつつも、訓練された動きであくまで自分の拳銃を引き抜くことを優先する。


 訓練で何度も叩き込まれた動きというのは、感情と関わりなく全自動で動いてくれるものです。ですがチャイナドレス姿の格闘の達人は、そんなこと百も承知であるみたい。


 何かの技で職員Cを壁に叩きつけつつ、攻撃のためのスペースをノルさんは構築していく。狭いエレベーター内とはいえ、こうすれば長い美脚を限界いっぱいまで伸ばして、苛烈なキックを手首にお見舞いすることができる。


 接地面積だけ見れば像の体重と変わらないといわれるハイヒールの踵が、それも体重を乗せ切ったうえで、高速に振るわれたのです。


 どうしたことか、わたしは人体が殴られる音を知っています。


 ちょっと生っぽい水風船のような音。成人なら人体の60パーセントが水なのですから、必然的にそういう音が鳴ってしまう。


 ですが職員Dの手首に叩きつけられたハイヒールは、なんと男の手首を貫通してエレベーターの壁まで達し、鈍い金属音を響かせたのです。


 新たな悲鳴がエレベーター内にこだましていく。


 そういえばノルさんの履いているハイヒール。材質が違うのか、所々で色合いが異なってました。もしあれが、刺突しやすいよう金属で出来ていたとしたら。だってあんな芸当、普通のハイヒールには絶対に無理でしょうから。


 反撃の決めてとなるはずだった拳銃をエレベーターの床に取り落としてしまい、手首からの流血が、転がる拳銃を赤く染めていく。


 ノルさんが足を引っ込めると、たまらず職員Dは床に膝をついていく。切断されなくて御の字といった重症具合。男はもはや限りなく戦闘不能でしたが、待ってましたとばかりにノルさんは、狙いやすい位置に自分から来てくれた職員Dの顔面へ即座にニーキックをお見舞いしていく。


 人体から聞こえてはならない音が、悲鳴をかき消していく。


 1ダウン。ですが、このわずかな時間を利用して、親指をぶらぶらさせたままの職員Cは戦意を取り戻していました。


「うぉぉぉォォォォッ!!」


 自分を鼓舞するように雄叫び上げて、親指がちぎれ飛ぶこともお構いなしに職員Cはノルさんを背後から組み伏せようとする。


 唖然として状況を見守るしかなかったわたしの目には、そこからの展開はあまりに早すぎて、細かいところはよく分かりません。


 ただ超人的な動きだったのは明白です。あろうことかノルさん、タックルされるがままにエレベーターの壁へと突進して、そのまま押し出される力をブースターがわりにその壁を駆け昇り、空中で身体を反転。常人離れした動きでもって、仕掛けてきた職員Cの背後を逆に取ってみせたのです。


 そんなバカな。


 空中で体勢を入れ替えたときに、頑丈なハイヒールがエレベーターの照明を割ってしまったらしく、チカチカと半壊した照明が、カメラのフラッシュのように狭い箱のなかで瞬いてました。


 一世一代の賭けもむなしく、背後から容赦なく絞め落とされていく職員C。手をバタつかせて必死に抵抗するも、それならばとノルさんは、壁にそのまま職員Cの顔面を叩きつけていく。


 2度、3度、殴打音が回数を重ねるにつれて悲鳴すら出なくなり、血の飛沫にまじって歯が飛び散っていくのがここからでも見えました。


 もう十分。そう判断したノルさんが解放した頃には、ズルズルと重力にまかせて職員Cは崩れ落ちていく。


 アクロバティックにすぎる――一方的な制圧劇。


 戦闘訓練を受けている男性を2人も同時に相手取っておきながら、反撃を許さずにほんの1分足らずで制圧して見せた麗人は、


「ふぅ」


 と息を吐いて、涼しい顔をしながら金色の長いウィッグを跳ね上げる。その額には返り血は貼りついていても、汗は一筋すら流れていませんでした。


 凄惨な光景が、エレベーターの中に広がっていました。


 時おりうめき声のような呼吸音がするので死んではいないのでしょうが、それが当人たちにとって救いかどうかは、この惨状ですとハッキリしません。


 自分の戦果をノルさんは見下ろしていく。ひどく冷酷でありながら、同時に西洋絵画的な美しさがある構図。そんな彼女の顔には、この暴力行為への感想は微塵も浮かんでいませんでした。


 両親の死を語ったときと同じ。世の中はこういうものだと、納得しきっている顔でした。


 “当ててみて”


 そう質問に質問で返すことで、彼女は自分の職業をぼやかしました。


 ホテルに朝早くから出向いてくるような、色っぽいオトナの女性。そういう要素だけ抜き出すと、失礼かもしれませんけどやっぱりわたしは、てっきり夜の商売を生業にしているのかと思い込んでしまった。


 それは大間違いでした。


 あの身のこなしといい、刃付きの500ペソや攻撃的すぎるハイヒールのデザインなどなど・・・・・・ノルさんは何らかの戦闘訓練を受けた人間であるとみて、まず間違いないでしょう。


 ただしわたしの知っている、軍事ミリタリーとは別系統の訓練とは違うみたいですけど。どちらにせよ、尋常じゃありません。


Ayudameアユジュダメ・・・・・・」


 助けて、助けてと、スペイン語でうめく職員Cさんが床の上を這いずり回ってました。


 銃社会アメリカでは、さまざまな層に向けてホルスターが販売されています。その中にはもちろん女性向けのものもあり、ガーターベルトに擬態したホルスターなんてアイデア商品まで売られているのです。


 メリッサが読んでいたカタログにあったものと同タイプ。拳銃を隠し持つコンシールメントためのホルスターを実はずっとノルさんは、これ見よがしにひけらかしていたのです。


 自分の右脚に腕を這わせ、艶めかしいガーターベルトから1挺の拳銃を引き抜きぬいていくノルさん。


 かつて丸暗記した銃器図鑑によれば、それは暗殺用の武器開発にとても熱心なソ連によって生み出された、弾丸そのものに消音効果を与えるという変わり種の拳銃――PSSサイレント・ピストルで間違いなさそうでした。


 一般には出回っていないはずの特殊なモデルです。ホルスターから抜き去ってすぐ、そんな寸詰まったイノシシのお鼻みたいなPSSのスライドの先っちょをノルさんは、左手の親指でがっちりと挟みこみ、そのまま後ろへ引いていく。


 あまりにも自然な、初弾装填の仕草でした。


 あれは、安全装置に難のある拳銃を長らく支給されてきたソ連系の特殊部隊が、安全対策のために編み出した、拳銃操作術であったはず。


 まさか・・・・・・ノルさんはソ連のスパイ? いえ、今はロシア連邦ですけど・・・・・・まさかそんな。


 もう随分と昔のようですけど、散逸していた関連資料をかき集めて、党に内緒でウィスパードの研究を行っていたスミノフというKGBの大佐がいました。


 ミラさん――わたしと同じウィスパードである彼女を捕らえ、利用していた彼の極秘研究所に巡航ミサイルを叩き込んだのは、誰あろうわたしだったりします。


 そもそも最高機密扱いであってウィスパード・・・・・・というよりも、その誕生の切っ掛けになった精神通信装置の資料は、ゴルバチョフ書記長の暗殺にたんを発するソ連内戦のどさくさによってほとんどが消失しています。


 まあ、その失われたはずの資料をどうやって件のスミノフ大佐が収集できたのかというのは謎のままなんですが、大事なのは、その貴重な資料すらもミサイル攻撃によって灰と化してしまったということ。


 首謀者であるスミノフ大佐も、ソ連政府の大切な資産をかってに利用したことを咎められ、あっさり収容所送りにされてしまった。


 このことからもミスリルは、ソ連政府そのものはウィスパードの情報を掴んでいない。ましてや、ヤムスク11との関連性にも気づいていないと結論づけていました。


 わたしたちがウィスパードが生まれる原因となったヤムスク11における極秘実験。その仕掛け人は、誰あろうソ連政府だったわけですが・・・・・・その成果についてまるで露も知らないとは、今思い出してみてもちょっと皮肉ではある。


 となると、やはりロシア・スパイ説はありえません。


 ソ連政府すら知らない事を、その後継であるロシア連邦政府が感づくはずもありません。ましてや、スケジュール外の出来事であるアクシデントを感知して、コロンビア訛りまで完璧に習得している工作員をわたしに先んじて派遣するなんて、無茶もいいところです。


 そんなウルトラCを何度も達成できるのなら、ソ連崩壊を回避するどころか世界征服だって夢ではないでしょう。


 ソ連崩壊によりもたらされた経済不況によって、かつてソ連で軍籍にあった者の中には、犯罪組織に活路を見出した人も多いとか。しょせん噂ですけど、その出本は例によってメリッサなので、信憑性はそれなり以上にあると思う。


 真相はどうあれ――ノルさんが高度な戦闘訓練を受けていることだけは、揺るぎない事実なのでした。


 鼻は折れ、目は腫れ上がり、まだ生きていることに自体が奇跡のような職員Cは這いつくばりながら呆然と上を見上げていた。


 戦争にはルールがあります。


 ジュネーブ条約などの法に縛られていなくとも、暗黙のうちにある程度は互いにルールを共有するものです。少なくとも、わたしの知っている戦争はそうでした。


 ですがここは? 文化の違いに戸惑うばかりなこの土地の戦争のルールとは、果たしてわたしが知っているものと同一なのでしょうか?


 戦争に楽しみを見出した狂人たち《マッド・パーソンズ》を、わたしはたくさん知っている。ですが職員Cの頭へと照準を合わせていくノルさんの表情は、そういった狂人たち共通のサディスティックなものではなく、ひどく事務的なものでした。


 敵の首を切り落とすことがなんら異常な行動ではなくて、ただ流儀になってる麻薬戦争という名の、わたしがまるで知らない戦争。


 やはりノルさんはソ連のスパイなどではありません。プロはプロでも、まるで異質な、わたしとは別世界のプロなのです。


 なんのことはない日常業務をこなすように、無造作に引き金トリガーが引かれていく寸前――わたしは、はっきりと声を上げました。


「ダメです」


 ぴくり、ほんの数ミリ引くだけで人の命を奪える人差し指がうごめく。ですが、銃声は鳴りませんでした。


「慈悲は美徳にはならないわよ? 特に自分を殺そうとしてきた相手にはね」


「そうかもしれませんね。ですが、襲われたのはわたしであってノルさん、あなたではありません」


「・・・・・・銃口向けられたばかりなんだけど」


「わたしに向けて、でしょう? 遠ざけようと努力したのに、勝手についてきたのはあなたですよノルさん」


 殺人は悪いことですなんて、当たり前の人の道を説くには、わたしの手は汚れすぎている。


 そして時に暴力でしか解決できないこともあるのだと、軍隊で生活するうちに身に沁みてもいました。だから綺麗事は吐きません。


 ノルさんだって、畑は違えど暴力を生業にしているに違いない。止めるなら、こちらのルールで訴えかけるべきなのです。


「これは正当防衛です。ですが、それを主張できるのはわたしだけだわ。あなたじゃありません」


「・・・・・・軍人みたいな喋り方ね」


 なんとか銃口から逃れようと、カタツムリのように這い進みながらなんとかエレベーターを抜け出し、廊下側までたどり着いた職員Cを、ノルさんはずっと照準器アイアンサイト越しに眺めていました。


 ですが、発砲はしない。


 親指で安全装置セイフティレバーを弾き、もとあったガーターベルト型のホルスターへとPSSピストルを戻していく。


「おっとりした呑気な旅行者と今のテッサ、どちらが本当のあなたなのかしら?」


 イタズラっぽい問いかけに、わたしはすぐに答えることができませんでした。自分でも分からないのですから。


「買いかぶりすぎです。わたしは単なるプーの居候ですよ」


「まあ・・・・・・そういうことにしといてあげる」


 別に殺人趣味というわけではないようで、その点だけはホッとする。ノルさんにとって殺人は手段であって、断じて目的ではないのです。


 ですが理由さえあれば、彼女は絶対に躊躇しないでしょう。


 ブザーが鳴りました。


 業を煮やしたエレベーターが、載らないならもう行きますよと勝手に扉を閉めようとして、職員Cの足首を挟んでしまったのです。あれぐらいのサイズなら、ちゃんと異物として検知するんですね・・・・・・。


 うざったそうにエレベーターの扉を抑えつつ、ノルさんは言いました。


「ちなみに、殺さないならコイツらどうするおつもり?」


「そうですね・・・・・・彼らが何者かはこのさい置いておくにしても、襲われたのは事実。まず自分の安全を確保してから、世の常識にのっとり現地の警察に通報するのが筋ではないかと」


「でもその警察官よ、コイツら」


 予想外すぎる指摘に・・・・・・思考が固まる。


「ところで、さっきからなんで三編みの先で鼻をくすぐってる訳?」


「単なる考え事するときの癖です!!」


「・・・・・・ぶっ飛んでるわね」


「この男たちが警官という方がよっぽどぶっ飛んでますよ!!」


 あっ、いえですが・・・・・・なんらかの戦闘訓練を受けていて、ノーマークでホテルに銃器を持ち込めて、“管区”なんて用語を使う人種――ぴたりとプロファイリングが一致するじゃありませんか。


 慌てふためくわたしに比べ、ノルさんときたら、呆れたように目をとろんとさせていくばかり。


「別に珍しくないでしょ?」


「警官に襲いかかられることがですか?!」


「カルテル関係者に元警官が混じるとか、メキシコでは常識よ。なにせグアダラハラ・カルテルに至っては、創設者がそもそも州警察の人間だったし」


「・・・・・・ここコロンビアですよね?」


「そうね、だから――」


 器用にノルさんは足だけで職員Cをひっくり返し、ハイヒールの先でそのスーツの胸元をはだけさせていきました。


 すると革細工に挟まれた星型のバッジが姿を現す。その表面には――POLÍCAの字が刻まれていました。


 これがどういった意味のスペイン語であるかは、あえて説明するまでもないでしょう。


「コイツらは単なる汚職警官。バーに姿を現したときからもう警官臭ぷんぷんで、逆に困惑したぐらいだわ」


「・・・・・・」


 あまり詳しくは知りませんけどミスリルにも裏切り者はいましたし、警察内にだって、ある程度はこういうたちの悪い者たち生息しているのでしょう。


「でも、そういうのって多くても2、3人ぐらいじゃ・・・・・・」


「ん? 署長を買収すればその部下もセットで付いてくるものでしょ?」


 そんなおまけ感覚で買収できるものなの?!


 異文化コミュニケーションの難しさに足が震える。どうしましょう、まるでこちらの常識が通じません。


 まさかすべて勘違いなんて可能性、ありませんよね?


 態度こそ悪かったものの、この方たちはメリッサの依頼を受けてわたしを迎えに来た護衛の警官たちで、勝手に勘違いしたわたしが歯向かった挙げ句がこの惨事とか・・・・・・え? ないですよね? ありえませんよね!?


「あわ、あわわわわわわわわ・・・・・・」


 罪状・警察官への暴行傷害。


 脳内の転輪機がすぐさま明日の朝刊を印刷していく。テレサ=テスタロッサ、20歳にして犯罪者に身を落とすなんて、不名誉にすぎる見出しとセットで。


「なに動揺してるのよ? さっきの啖呵はどこ?」


「おまわりさん半殺しにしちゃったんですよ!? そっちこそなんでそんなに冷静なんですか!!」


「いや、いつものことだし」


 もう間違いありません!! この人ぜったいにカルテル関係者ですよ!!


 そうでないなら、危険な職業犯罪者アウトローに違いありません!!


 縁遠い存在とばかり思ってましたが、今となってはわたしの共犯者以外の何物でもなく、あわわわわわわ。


「だから汚職警官だってば」


「そう断言できる100%の保証があるんですか!! そうでないなら、犯罪者はわたしたちの方ですよ!!」


「ここはカリの土地だもの。汚職警官しか居ないわよ」


 うん?


 コロンビア最大手の犯罪組織、カリ・カルテル。その悪名は本で読んだのでよく知っていましたが、その詳細な縄張りまでは言及されていませんでした。


 この街をカリ・カルテルが支配している?


 ですが、ノルさんはまるで自分がカリ・カルテルの人間であるかのように仄めかしていて・・・・・・いえ別に、明言された訳じゃありませんからどれも推測ですけど、それなのに味方であるはずのカリに飼われている汚職警官に襲いかかって・・・・・・まってまってまって、それを言い出したら、この警官たちはどうしてわたしのことを狙っていたのかまるで謎で・・・・・・あら?


「とりあえず話をまとめますと」


 鋭敏な頭脳を限界いっぱいまで働かせて、わたしは結論を見出していきました。


 シャーロック=ホームズは言いました。“どれほど不可解であったとしても、不可能を排した先にあるのが真実”であると。


 ですから、丹念にこれまで起きた出来事を整理していけば、自分が何に巻き込まれたのか自ずと見えてくるものなのです。


 導きだされた唯一の回答。それをわたしは、ノルさんに聞かせていきました。


「・・・・・・何が起きてるんでしょうね?」


「んなこと聞かれてもねえ・・・・・・」


 びっくりするほど身に覚えがなくて、どうしたものかと悩んでしまう。

 

 ロシア以上に、麻薬カルテルがウィスパードの存在を突き止めているはずもないですし、誘拐犯たちの動機がまったく見えてこない。


 自慢じゃありませんけど、頻繁な国際旅行ですとか元隊員の遺族のためにいろいろと便宜を図っていますと、お金なんてバンバン消えていってしまうものなんです。


 つまりは、わたしの口座の預金残高的に考えますと、誘拐したところで成果はたかが知れている。


 今や大企業のトップたるジェリーおじさまなら、わたしのためにそれなりの身代金を払えるでしょうけど、血の繋がりのないわたしとおじさまの関係を外部から推し量ることなんて、ウィスパード以上に困難にすぎる。


 かといってランダムに旅行客に狙いを定めたにしてはこの汚職警官たち、あまりに組織だってわたしを狙いを定めている。


 うーん、この警官たちにも何がしかの動機はあるんでしょうけども・・・・・・情報が足りなさすぎて、目的がさっぱり見えてきません。


 例えるなら、答えが2だと分かっていても、その結論に至るための数式が1+1だと教えられてない状況かしら。


 それと同じです。動機を考えるだけ無駄なのです。


 とりあえずわが身に降りかかった不条理を甘受し、現実的に対処していくほかないでしょう。つまりは状況は変わらず、さっさと逃げるが吉ということです。


 そんなわたしの決意を後押しするように、エレベーターの床から空電音も聞こえてきました。


 格闘戦の弾みか、先ほどのノルさんの足癖の悪さのせいか、職員Cの無線機からプラグが抜けてしまい、いわばスピーカーフォンのように音声が筒抜けになっていたのです。


『全ユニット、全ユニット。ターゲットはバーのある階にいる。繰り返す――』


 スペイン語の無線会話。気になるのは、やはり全ユニットという呼び方でしょう。


 予想的中、というべきなのかしら? 


 でも別に嬉しくありませんね。この汚職警官たちはやはり、わたしを探すために人海戦術を取っていたみたい。


 ノルさんの意見が正しいのならば、この街の警官はほぼすべてカルテルの関係者だと断じるほかない。どうしてその麻薬カルテルがわたしに用事があるのかは、相変わらず謎なんですが。


 南米とわたし。この2つ、あまりに接点がなさすぎる。


 ずっとスペイン語の無線連絡が続いていたのに、どうしたことか、急に英語が割り込んできました。


『キャッスルからEエコーユニット。Eエコーはどうした?』


 アメリカ人?


 これ見よがしなアメリカ英語からしても、そうとしか考えられない。これだけでも十分に奇妙なんですが、この英語で話しているしゃがれ声の年かさの男が、あたかも指揮官であるかのように振る舞っていたことです。

 

 ・・・・・・麻薬カルテルではない? 


 もうこれ以上、話を複雑にしてほしくないのに、だとするなら敵はアメリカ人に率いられた汚職警官のチームということになります。


 いえ、ダメだわ。細部に目を奪われず、ちゃんと目的だけを見据えないと。


 本当に注目すべきは、Eエコーというコールサインの方でしょう。


 A、B、C、D、そしてEエコー。単純に考えるなら、わたしを追っているチームはあと4つもあるという計算になる。


 それだけでも十分に頭を抱えたくなる。ですのに、無線機は次なる凶報をがなり立てはじめたのです。アルファベットの9番目、Iインディアの到来です。


『こちらIインディアユニット。バーのある階についた。バーのある階に――」


 前半までは無線機からの台詞。後半は、到着したとなりのエレベーターからダイレクトに聞こえてくる肉声でした。


 このタイミングで増援!!


 いくらなんでも悠長すぎでした。今さら己の迂闊さを呪っても変わらない。


 隣のエレベーターから降り立ってきた新手の汚職警官たちは、血まみれで廊下に横たわっている職員Cにまず目を留め、ついで驚きで固まっているわたしと、返り血にまみれるチャイナドレスの女というホラーな存在に目が点になっていく。


 二人一組がデフォルトらしい汚職警官たちは、不自然な通信途絶を受けてかすでに臨戦態勢。手には拳銃が握られていました。


 最初こそ呆気にとられていたものの、すぐに命令を思い出したのか――あるいは防衛本能にかられてか、男たちは一斉にわたしたちへ向けて銃を構え始めたのです。




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