VIII “勘違いのドミノ現象”
【“テッサ”――エレベーター内】
「うっ、動くな!!」
先ほどの男たちと異口同音。ですが声が上擦っているのは、チャイナドレス姿の怪人が目の前に立ちはだかっていたからでしょう。
とはいえ、それでも正しいフォームで拳銃を構えてみせたのは、流石は本職の警官という訳なのでしょう。
危機的状況に対するノルさんの反応は、素早いものでした。
「うわひゃ!!」
みっともない声を上げるわたし。
突き飛ばされるように血みどろの屠殺場と化しているエレベーター内に押し込まれてしまう。これでスーツで擬態している警官たちの銃口からは逃れられた。
わたしに続いて飛び込んできたノルさんは、攻撃よりもまず防御を優先したのです。
足元は血みどろ、肉片すらも転がっているのに、わたしの頭ときたら冴え渡るばかり。危機的状況にこそ冷静になるどうしようもない職業病――これはきっと、一生涯治りそうもない。
“動くな”とは、いかにも警官らしい言い草ではあります。ですがただ職務を遂行しているだけなら身分を明かすことだって簡単でしょうに、彼らはそれをせず、まず銃を突きつけてくる。
つまり殺害する気はさらさらない。あくまで目的はわたしの拉致、ということになるんでしょうね。もっといえば、汚職警官たちの雇い主たるカリ・カルテルの意向ということになるのでしょうが・・・・・・この情報の出本であるノルさんにしても、100%信頼が置けるとは言い難い。
普通なら通報して然るべきシチュエーションですが、緊急番号に電話をかけてみても受け取るのは追っ手自身というのは・・・・・・おとぎの国は、やはりわたしの理解を越えている。
露出した右脚に手を伸ばし、仕舞ったばかりのPSSピストルを引き抜いていくノルさん。
癖なのでしょう、空いた左掌をてこに親指で挟み込んだスライドをホルスターから抜き去りぎわに前後させていく。つい先ほど初弾装填を終えたばかりでしたから、PSSピストルの排莢口から未使用の弾薬が弾け飛んでいく。この間、実に2秒あまり。目にも留まらぬ早業とはまさにこのことです。
しかし拳銃を抜いたということは彼女、銃撃戦を決意したようですね。
操作パネル側のわずかな出っ張りに押し込められたわたしを尻目に、サッと身を乗り出していく外の男たちを撃ち抜こうとしたノルさんは、突如、思わぬ奇襲にさらされました。
「ガァ!!」
なんということかしら・・・・・・半死半生もいいところなのに、怪物のような息を吐きながら、職員Dがノルさんに組みかかったのです。
視線の定まらない眼差し、ですが闘志はみなぎっている。
まさに火事場のばか力そのものな激しいタックルを背中に受ければ、普通は背骨がまっぷたつになっても驚きません。
ノルさんも相応に驚いてはいたようですが、わたしは格闘のプロを知っている。クルーゾーさんもどうパンチを振るうかなんて、考えながら戦っていたりしませんでした。
長い年月をかけて心身を鍛え上げた先にあるのは、無我の境地という名の全自動迎撃システム。
相手の力あえて再利用し、腕を掴んで足を払い、この狭いスペースのなかでノルさんは完璧なまでの一本背負いを決めてみせたのです。
エレベーターに隠れたはいいが出てこない、だったら攻めようと銃を片手に入り口に殺到してきた
激しい激突音のあと、3人の人間がホテルの廊下に転がりました。人間ボーリングという字は、実際に見てみると痛々しさしか感じられなくなるみたい。死屍累々の有り様に、見てるだけのわたしにも幻肢痛が駆け抜け、つい顔をしかめてしまった。
結果的には、撃つまでもなかったみたい。
髪をかきあげ息を整えたノルさんは、余裕の笑みで生まれたての子鹿のように立ち上がろうとしている男たちにひらひら手を振りつつ、おもむろに“閉まる”ボタンを押し込みました。
ゆっくり降下していくエレベーターの律動。
格闘戦の余波によってエレベーター内の照明は半分しか機能しておらず、チカチカと薄暗い。そこに100%本物の血のりの装飾までつくわけですから、ハッキリ言ってホラーな環境です。
それでも、銃口で狙われているよりはずっと安心できる環境ではありました。これでホッと一息・・・・・・いえやはり、つけるはずもない。
血だけでなく、よく見ればエレベーターに揺さぶられた親指がころころ転がって、あの職員のどちらかの所有物であろう無線機の防波堤に捕まってもいましたから。
「うん? テッサ、なんでこんな中途半端な階を押したわけ」
わたしはつい先ほどまで背中をあすげていた操作パネルを見やりました。確かに、中途半端な階がつぎの目的地として光り輝いています。
「やっぱり気づいてなかったんですね?」
「何が?」
「あなたが男を投げ飛ばしたときわたしが咄嗟に避けてなければ、男の足先はわたしの前髪だけでなく、側頭部まで薙ぎ払っていたかもしれないんです」
「だから?」
「・・・・・・角に縮こまるのに必死で、背中がどのボタンを押してたかなんて分かりっこないですよ」
言ってるそばから、停止したエレベーターの扉が開いていきました。
点々と光っている階数ボタンからして、この先もこういう無意味な寄り道をなんどかする羽目になりそうでした。
スライドしながら扉が開いていく先からノルさんは素早くPSSピストルを突き出して、手早く廊下に敵がいないか
最低でも9組いる追っ手たちの姿は見えず、PSSピストルが睨みをきかせるどこも似たようなホテルの廊下には、人影すらありませんでした。
「結果的にはだけど、相談するにはうってつけかもね」
当面の安全を確保したノルさんが、エレベーターの扉が閉まらぬよう背中で抑えつつ、PSSピストルを腰だめに構えながら言いました。
それにわたしはこう答えた。
「確かに、そうかもしれませんね」
「冷静ね」
褒めているんだか、わたしの貫禄の出どころを探っているのやら、ノルさんは微笑みの中に本心を隠したままでした。
命の取り合いはこれが初めてでもありませんし、これまでと大きく違うのは、掛かっているのせいぜいわたしの命だけであり、部下たちじゃないという点でしょう。
相応に心臓はバクバクいってます。でも、誰かを死なせるよりは気は楽でした。
「さぁて、お客様? ご希望の階はどこかしら?」
冗談めかして言うノルさんに、疑いの眼差しを向けてしまうのも致し方ないと思う。
そもそもどうして狙われているかもさっぱりなこの異常事態。世の中、勧善懲悪の方が珍しいですが、こうまで敵味方が入り乱れては、誰も信用できません。
とりあえずノルさんは、わたしを守るように行動してくれている。ですが、それが善意だと頭から信じることは、仮にもプロであるわたしには出来ずにいました。だって立場が違えばあの汚職警官たちも、誘拐目標であるわたしを守ろうと立ち回るに違いないのですから。
このチャイナドレスの麗人の正体は?
訳知り顔でカルテルについて語り、自身はその麻薬カルテルの最大手であるカリと生まれを同じにしているという。類まれなる格闘戦能力、明らかに訓練された銃さばき、敵を殺すことにまるで感慨を抱かない冷徹さ・・・・・・そして大人びていながら、妙に人懐っこい面もある。
軍人は殺人を生業にしている。それは誰も大っぴらに認めることはありませんが、同時にどうしようもない事実でもあります。
では職業軍人はすべからく、血まみれのナイフを舌で舐め回す猟奇殺人鬼のような性格をしているかといえば、そんなことありえません。
基本的に人は人を殺すように出来ていません。ですが人類史を紐解けば、普通の人々がなしてきた大量虐殺の事例が無数に出てくるものです。
正義、民族、イデオロギー、仲間意識や、単に偉い人が “やれ” と言ったから・・・・・・基本的に人は人を殺すように出来ていない、実のところそのルールが適用されるのは、個人に限られるのです。
殺人というストレスは個人で背負うにはあまりに重たすぎる。中にはそういうストレスをまるで感じない
ですがそんな事例、数えるほどしかありません。
人間もしょせんは動物の一種。種の繁栄という遺伝子に最初から組み込まれているルールからは、誰も逃れられません。ですから普通は共食いを避けようとする。
ではどうして軍人はためらわずに引き金をひけ、虐殺が引き起こされるのか? その答えはもう出ています。
正義、民族、イデオロギー、仲間意識や、単に偉い人が “やれ” と言ったから・・・・・・人は、自分が所属している集団のためなら、簡単に暴力のタガを外すことができる。
わたしもこれまで大勢を殺してきました。最初は自分の贖罪のため、ですがいつしか愛すべき部下たちの仇討ちに動機が切り替わっていた。
それが一概に悪いことだとは思いません。すべてを1人で抱え込めば、いずれは擦り切れてしまう。わたしだって葛藤はしました。これは責任の放棄なのではないかと。
ですが今ならわかる、戦争とはそういうものなのです。
戦争は人が引き起こす、人工の災害のようなものです。始めるのは人の意思でも、一度転がりはじめた戦争という巨石は、時には始めた当人すらもなぎ倒しながら世界に影響を与えていく。
かつて世界の裏で起きたあの戦争にしても、その始まりがどこなのかもう検討も付きません。
アマルガムが創設されたからか? わたしたちウィスパードが生まれたせいか? あの
因果の始まりがどこかもう分かりません。
わたし個人の戦争にしても、ステルス技術の基礎理論を書き上げた時に始まったのか、それとも父と母が殺された時か、はたまた兄がわたしを置いて出ていったときかなど・・・・・・もう判然としないのです。
ちょっと思考がズレてしまった気がする。
もしかしたら今こうしてわたしが狙われているのも、コロンビアの長い歴史によって紡がれた、複雑な因果の結果なのかもしれない。ただ羽ばたいだけの蝶が、地球の反対側で嵐を巻き起こすように。
ですが本題はこうです。基本的に人は人を殺すように出来ていないのだとすれば、わたしが止めなければ躊躇なく引き金を絞っていたに違いないノルさんの動機はどこにあるのか? ということ。
言葉の端々から見える性格からして、ノルさんはガウルンのような破綻者とはほど遠いと分かっている。では、この女性は一体誰のために戦っているのかしら?
薄暗いエレベーターの中、サンタ・ムエルテのタトゥーが不気味に発光している。
それさえ分かれば、この白黒はっきりしない状況下でもやっと真に頼れる――友人になれるかもしれない。
ですがいつだって時間は有限なものです。
「チッ」
舌打ち一つ、バタバタと階段を駆け下りてくる音を聞いてノルさんは、扉を押さえて背を離し、素早く“閉まる”ボタンに手を伸ばしました。
「残念ながら悠長に話している時間は無さそうね。悪いけど、こっちの流儀でやらせてもらうわ」
そう言って、ノルさんは軽くPSSピストルを振りました。
「正面突破なんてこっちだって御免被りたいけど、こうなったら四の五の言ってもいられない。
荒れるわよ? 私が走れといったら、周りでどんな音がしても全力で――」
「作戦があります」
ビックリしたようにこちら見つめるあたり、ノルさんの言うところの“相談”というのは、非力な小娘に覚悟を決めさせるための猶予期間という意味合いであったよう。
短くはっきりと、指揮官の声音でもってわたしが言い切ると、目を泳がせだすノルさん。
「・・・・・・意外と根性があるし、そこそこ機転が利くのも認めるわよ。
でも、単なる旅行者であるはずのあなたが、“作戦”?」
疑惑の眼差しへ言い返すまえに、わたしは膝を折って、床から無線機を取り上げました。
謎のベタつきへの嫌悪感はもちろんありましたけどその感情を押しのけ、無線機がまだ機能するかどうか確認していく。正常作動中、一番気にしていた周波数も汚職警官たちがセットしたまま固定されており、絞ったボリュームの先に慌ただしい通信音が聞こえるあたり、無線機が奪われて話が筒抜けということすら気づいてないみたい。
これがミスリルでしたら、即座に予備の周波数への切り替えが指示されるものですが、やはり彼らはせいぜいセミプロ止まり。脇が甘い。
「正面突破ということは、このままメインホールに向かうつもりですね」
「そうだけど」
いたずら小僧がするように、ランダムにボタンを押されてしまったエレベーターがまた止まる。
今度は丁寧にクリアリングしたりせず、開いた扉の先に油断なく銃口を向けつつ、さっさと“閉める”のボタンを叩いていくノルさん。
彼女が向き直るまえにさっさと話を進めていく。だって時間がないのですから。
「敵の人員構成は不明ながらも、かなりの大人数であることは疑いの余地がありません。
練度には疑問符がつきますけど、セオリーはちゃんと心得ている。ということは、まさかB級映画じゃあるまいし、都合よく裏口が手薄だったりはしないでしょう」
「何が言いたいのよ?」
「遺憾ながら、わたしも中央突破に賛成ということですよ。ただしノルさんが示唆したやり方では、朝早い時間にもそれなりに人が居たメインホールのことです、無数の巻き添え被害が出てしまうのは必定。
わたしが敵なら、まずこっちには来ないだろうと踏みつつも、設計的にすべての階へと素早くアクセスできる
「・・・・・・そういう知識、誰に教わったの?」
「その道のプロにです」
「ああー・・・・・・まあ、ありうるのかしら?」
なんとなく、わたしにはよく分からない次元で納得しているような気がする。
ですが気にしてもいられません。階数表示というカウンターはずっと動きっぱなしなのですから。
「予備兵力とやらが待ち構えている。それはいいけど、状況まるで変わってないの気の所為かしら?」
「そうですね。
ですが正直、正面突破という選択肢そのものは悪くないと思います。島津の退き口じゃありませんが、意味不明なタイミングで打って出てくる敵って、とっても対処しづらいものですから。
ノルさんの戦闘能力をもってすれば、成功率は決して低くはないでしょう」
「・・・・・・“シマズ”?」
「サラリーマンとお寿司食べる以外にも、日本の武士はとんでもないことを幾つもやらかしてきたという事例ですよ。ここを生き延びたら、詳細に説明してさしあげます」
「自信はあるみたいだけど、で? その作戦とやらをいい加減に話してよ」
「作戦と呼ぶにはちょっと大層すぎる気もします。どちらかといえば、小細工の部類ですね。
でもノルさんだって、大量の無実の人々の屍を乗り越えてなんて、望んではいないでしょう」
「・・・・・・まあね」
「なら最初は何も言わず、とにかくわたしに合わせてください」
無線機をしっかり手に持って、作戦と呼ぶにはおこがましいアドリブ感覚満載の計画を脳内でなんどもシミュレートしていく。
すると知らずしらず、無線機を左手にあずけて右手が上がっていき、三編みの先を掴んでしまった。この癖もまた、二度と治りそうない。
どうしたものかとノルさんも悩んでいたみたいですけど、メインホールから正面突破という方針は変わりません。1階行きのボタンを押してからノルさんは、ガーターベルト型のホルスターはじめ、あちこちに隠し持っていた予備マガジンを取りだしてちゃんと使えるかどうか確認していく。
「言っておくけど」
マガジンのスプリングをぎしぎし指で押し込んでは、元あった場所に戻していくノルさんはこちらに顔も向けずに言いました。
「ここらの警官は民間人に対して配慮したりしないわ。
射撃が下手ってのもあるけど、流れ弾がたしょう民間人に当たったところで、あとで書類に撃たれたほうが悪いと書けばいいだけだから」
「ここの警察の腐敗ぷりは重々承知です。
ですが、彼らの狙いはわたしだわ。ノルさん、エレベーターを降りたあとわたしを盾にする立ち位置を心がけてください。そうすれば相手も下手に撃ってこれないわ」
「敵が一方向に固まってるとは決まってないわよ」
「彼らが使っているタウルスPT92の口径は9mm、貫通力は十分すぎるほどあるわ。射撃角度にかなり気を使わないとわたしが巻き添えを食らいかねない。
そもそも中途半端に包囲しようものなら同士討ちが起きることぐらい、彼らも先刻承知のはず」
「・・・・・・その銃の知識も、例のプロとやらに習ったの?」
「軍やテロリストが使う銃火器のデータはほぼ頭に入ってます。仕事柄必要でしたから」
ノルさんはちょっと呆気にとられ、悩んでいるみたい。
でしょうね。20そこそこの小娘が持ち合わせているにしては、変わった知識ですから。
ですがどのプロに習ったのかですとか、仕事柄という言葉の詳細なディティールは省かせてもらいました。時間がない、それはいつだってわたしの合言葉みたいなものです。
1階に到着したことを伝えるベルの音。ノルさんも色々と思うところはあるようですが、むやみに自信にあふれているわたしに合わせることに決めたようで、PSSピストルをそれとなく身体の陰に隠していく。ただしあくまで銃は手に持ったまま、必要であればいつでも使える態勢でした。
「悪いけど、ここはアメリカじゃないわ。最後はいつも力が物をいう、血と暴力の国なのよ」
わたしの偏見混じりなおとぎの国なんて呼び名より、その名の方がずっと正確に現地の状況を表しているのかもしれません。
躊躇なく汚職警官たちに襲いかかったノルさん、彼女はもう戻れません。
いまさら警官たちに間違いでしたと釈明するには、血に塗れすぎている。ですがそういうバイオレンスの切っ掛けになってしまったのは、やはりわたしなのです。
だったら彼女の素性はひとまず置いて、2人でこの場を切り抜けるしかない。人の善意を信じたいわたしは、必要であればノルさんだけでも逃し、自分は捨て駒になる覚悟を決めていた。
そしてわたしたちは、正面のドアからまばゆい南米の日差しが漏れてくるメインホールに足を踏み入れていったのです。
*
エレベーターから出口めざして一直線に駆け抜ける、そしてあとは
作戦とは理路整然に、かつ時として大胆におこなべきものなのです。
わたしはノルさんにアイコンタクトをしてから、覚悟を決めて歩みを進めていく。メインホールの大理石の床で、わたしのスニーカーがキュッキュと音を鳴らしていました。
ありがたいことに人影はまだまばらでした。なんやかんやと早い時間帯、モーニングコールに叩き起こされたお客たちは、まだ部屋の中で身支度してる頃なんでしょう。
あるいはメインホールの広さからすれば密度に欠けているように見えるだけで、実際にはかなりの人数がたむろしているのか? どうも後者のような気がします。
ビジネスマンらしき男たちは相変わらずラウンジに固まり、たくさんトランクを抱えた新顔の親子連れが通り過ぎていく。やはり、なんやかんや人は増えている。
あえて胸を張って歩いていく。
わたしはここにいて当たり前。傍のノルさもまた、大人の女性の雰囲気を周囲に見せつけながらモデルのように歩いていく。こうすれば、実は血塗れのハイヒールが円形の足跡を床に刻んでいるなんて、そうそう気づかれないのです。
わたしの助言どおりの立ち位置をノルさんはキープしていました。剣呑な眼差しを向けてくる男たちの視線を遮るように。
明らかに敵。しかしわたしにとって予想外だったのは、男たちがスーツ姿でなく、軍服と冒険家の服装をかけ合わせてような出で立ちをしていることでした。
所属はよくわからないものの、あれは明らかに制服でしょう。だってアサルトライフルなんて物騒なものを肩からたれ下げているのに、周囲の人たちはとくに気にした素振りもしてませんから。
「・・・・・・アレ、国家警察のパトロール部隊よ」
ノルさんがそう耳元で囁いてきます。
ユニフォーム姿の男たちは、一様にガリルARで武装していました。装弾数35発、発射速度毎分650発。その気になれば、メインホールにいる全員を一方的に虐殺できるまさに凶器。
あのレベルの武装がないと対処できない犯罪が横行している、そういうことなんでしょうが・・・・・・確かに予備兵力、もっといえば
でも、まさかここまでの火力を用意していたなんて・・・・・・。
捜索は私服警官組、そしていざという時の暴力要員として制服警官組と、そういう役割分担をしているに違いありません。 耳元のイヤホンに手をやる見覚えのある仕草をユニフォーム姿の男たちがしていく。
こちらに気づいた。
ですが、流石にいきなり発砲してきたりはしませんでした。ここら辺は読みどおり、男たちはそれとなく分散しながら静かに、ですが着実に距離を詰めてくる。
つづいて、わたしたちに一歩遅れてエレベーターからスーツ姿の男たちも飛び出してきました。思わぬ逃亡ルートを選ばれ対応が遅れている様子ですが、着実に敵は集まってきている。
千客万来、ですが焦りは禁物。一見して無防備な回転ドアまで駆けていきたいのは山々なんですが、今はまだなんでもないように歩きつづけるべきタイミングでした。
「困ったわね」
会ってまだ間もないものの、弱音を吐くイメージなんてまるでないノルさんすら、圧倒的な戦力差につい弱気をこぼしていた。
それはわたしの台詞です。事前の情報収集がどれほど大切なのかを、今まさに思い知らされている真っ最中なんですから。
ですがから元気も元気のうちといいますし。あえて自信たっぷりに、わたしは励ましの言葉をノルさんに掛けていきました。
「大丈夫ですよ。敵が待ち受けている、ここまでは作戦通りなんですから」
「いやそうじゃなくて」
チラッとノルさんが、ガーターベルト型ホルスターに目を落としました。いえ、銃は手の中に隠し持っているわけですから、予備マガジンの方をでしょうか?
「見えてるだけで相手は9人、でもコレって6連発なのよねぇ」
正面突破は気が進まない風だったのに、いざ心配するのがそれですか?
殺すと書く方のやる気が溢れすぎてて、わたしとしては動揺が隠せません。
ああ、カナメさん。いつもいつもあの戦争バカがー、などと日々愚痴をこぼしておいででしたが、それをわたしは内心でノロケですかこんちくしょう♪ と、心で青筋立てていたりしたんです。
・・・・・・でも、でもですね? 今わかりました。暴力でしか問題を解決できない人の横で常識人でありつづけるというのは、とっっってもストレスが貯まるものなんですね。
脳裏をよぎるのはエレベーター内の惨状です。サガラさんは、ほら? 命令には愚直なほど従ってくれましたけど、ノルさんの場合はその見た目とは裏腹に、なんとなく狂犬の相が出ている気がして怖いのです。
これが
撃たないでくださいと頼んでも聞いてくれなさそう。やはり、わたしが場を掌握しつづける以外、穏便に済ませる道は無さそうです。本当にもうどうしてこんなことになったのか・・・・・・。
内心では、いつ銃撃戦が始まることかと緊張で吐きそうでした。そんな本音を涼しい顔の下に封じ込めながら、わたしはフロント・デスクに近寄っていきました。
ホテルのデスクはどこもおんなじ、入り口を見張るようなレイアウトになっていました。ですから目ざとい禿頭のマネージャーさんも、横から現れたわたしに気づくのが遅れてしまったみたい。
バーでは信じられない静音ぶりを発揮していたノルさんのハイヒールですが、大理石という地形要因は如何ともし難いみたい。物音に気づいて顔を上げたマネージャーさんは、耳からコードを引き剥がしつつ奇妙な2人組みに目を留める。
謎のチャイナドレスと、どこに行っても浮いているアッシュブロンドの髪をしたわたし。冷静になると、わりと奇々怪々なコンビですね。
つい先ほどまでは歓迎一色だったマネージャーさんでしたが、今の態度はひどくよそよそしい。その理由は、目の辺りにある痣が説明してくれている気がする。
わたしを歓待しながらホテルに招き入れ、あの無国籍風の女性が称すところの会合の下準備をする。いつも通りの業務をこなしつつ、ちょっとしたボーナスもつく。だからこそのあのホクホク顔だったのでしょう。
それだけの話だったのに事態が急変したのだと、その顔の痣が知らせていました。
知っていましたが、やはり汚職警官たちとミスリルUSAは別口みたい。単なるバッティング? それとも何か別の意味があるのかしら?
「セニョリータ、なにかご不満な点でも?」
すぐさま作り笑いをして、きっとわたしの背後に居るであろう暴力警官たちをチラ見するマネージャーさんに、わたしもまた笑顔を浮かべていきました。
結果的には二重にわたしを売り払ったに違いないマネージャーさんお得意の言葉の洪水は、今ばかりは鳴りを潜めてました。状況からして今のわたしは厄介事そのものですから、当然でしょう。
お金に汚いことを責める気はさらさらありません。あちらにも事情があるように、こちらにもこちらの事情がある。
生きるか死ぬか、それがすべての問題なのです。
相手の油断を誘う、ちょっと舌っ足らずな喋りかたでもってわたしは言いました。
「すみません、ちょっとこっちに来ていただけません?」
躊躇するような素振りを見せるマネージャーさんに向けて、優雅な仕草でデスクに背中を預けていくノルさんのアドリブが炸裂しました。
周囲から隠すように、しかしマネージャーさんにハッキリと見えるようにPSSピストルをノルさんは見せつけたのです。
「正直ちょっと後悔してるんだけど、今さら無かったことにも出来ないからこの娘の言うとおりにしなさい。でなきゃ人生とお別れよ」
静かな、ドスの利いたスペイン語にマネージャーさんの顔に脂汗が流れはじめる。
「な、なんだ、私はただあの女に依頼されて場を提供しただけだ・・・・・・金も取ってないのに、こんな脅されるいわれは――」
「黙らないと舌を引っこ抜くって言い回しがあるけど、実際にやってみると痛みに泣き叫ぶばかりでぜんぜん黙りやしない。だからそれ以来、相手を黙らせたい時には頭を撃ち抜くことにしてるの」
絶句するマネージャーさん――それとわたし。
「あのノルさん・・・・・・それ単なる脅し文句であって、まさか実体験じゃあないですよね?」
「大丈夫、コレの銃声は本当に静かだから、上着に巻き込むようにして肝臓を撃ち抜けば周囲の奴らはそうそう気づかれないわ」
「やめなさい。といいますかノルさん、前はボカされましたけど一体何のご職業をしておられるんですか?!」
「左に2人、右に5人、入り口にもう2人移動中。さっさと“作戦”とやらを始めないと、わたしの流儀で押し通すわよ」
うう、でもこれで話が簡単になったのは事実です。
暴力をこれから行おうとしている人間はみな特徴的な表情をします。頬の上部が膨らみ目が座る。わたしの周辺視野が、ノルさんの仰るとおりに展開していく男たちを捉え、耳はカタリと落とされていくPSSピストルの
手早く、マネージャーさんに説明していく。
「どうしてこんなことになったか、わたしには分からないんですが――」
「いいから早く出ていってくれ!!」
押し殺した声での押し問答。
「わたしだってそうしたいのは山々です。でもそれには、あなたの協力がいるんです」
「・・・・・・カネは貰えるんだろうな?」
なんなんですかこの拝金信者ぷりは。これでよくホテルのマネージャーになれましたね? あるいはこういう性格だからこそ、仄暗い背景のある客たちにこのホテルは愛好されてきたのかもしれませんが、こんなこと言ってる暇はないでしょう。
「いいからポケットの中身を出してください!!」
「なんで!?」
「銃撃戦が始まってもいいんですか!?」
危機的状況なのに急にプライドを優先しだすマネージャーさんに、わたしは手を焼いていました。
昔から迫力不足な容姿をしているわたしです。以前は、強面役をマデューカスさんが担ってくれていましたけど、今はわたし1人きり・・・・・・いえ、そういえばノルさんが居ましたね。
「ちょっとテッサ? つまり何がやりたいの?」
呆れ顔がなにとなしに放った台詞。それになぜか、マネージャーさんは驚愕を顕らにしたのです。
「“テッサ”だって?」
チェックインを全無視して部屋に通したわけですから、マネージャーさんがわたしの名前を知っているとしたら、あの無国籍風の女性に聞かされていたというパターンのみでしょう。
そう、ここまでは不自然じゃありません。奇怪なのはその後に出た、わたしとは別の名前でした。
「あんた、テオフィラ=モンドラゴンじゃないのか?」
聞き覚えがまるでない名前で呼ばれ、困惑するばかりでした。
いえテオフィラという名前には聞き覚えはないものの、モンドラゴンという名字には引っかかるものがある。
そうです、カリ・カルテルとライバル関係にあるという、多国籍の軍事カルテル――その名前こそがモンドラゴン・ファミリアであったと記憶しています。
これは、一体・・・・・・いえそれどころじゃありません。死んだら元も子もない。
「と、とにかくポケットの中に音楽プレイヤーを隠してるのは知ってます!! それを渡してください!!」
「「なんでそんなものを」」
キレイにハモった2人を無視して、わたしデスクから身を乗り出してむりやりマネージャーさんのポケットに手を突っ込みました。
するとイヤホンのコードに引きずられるように、一昔前なカセットプレイヤーが姿を現しました。職務中にこんなもので気を紛らしているとはプロ失格ですが、今のわたしにはありがたい。
あまり使う機会はないものの、無くて困るよりはいいでしょうと常に持ち歩いているヘアゴムはすでにセット済み。できるだけ素早くカセットプレイヤーと無線機をヘアゴムで合体させていく。
ボリュームの部分を弄くり、音量は最大に。キツく巻きつけておいた別のヘアゴムは、無線機の送信ボタンを押し込むように移動させる。
あとはカセットプレイヤーの再生ボタンを押すだけです。そうしてあげれば、汚職警官たちの耳のイヤホンから凄まじい音響兵器が流れ始めるという寸法でした。
「!!ッ」
ホテルのロビーに響き渡ったのはなんとも陽気なラテンのメロディと、耳を抑えてもだえ苦しんでいく汚職警官たちの悲鳴でした。
あまりのうるささに、つい無線機×カセットプレイヤーをデスク向こうに放ってしまったわたしですら耳がキーンとしてました。それを、まさに耳元で聞かされた警官たちの鼓膜のダメージはいかばかりか? 気にしてる暇もありません。
作戦は成功しましたが、所詮は時間稼ぎにすぎないその場しのぎ。
「ノルさん!!」
わたしは早々にデスクを盾に身を隠していったマネージャーさんを尻目に、チャイナドレス姿の麗人の手を引っ張り、ホテルの出口目指して走り始めました。
逃げられないよう退路を塞ぐように展開していた制服警官たちでしたが、耳元のイヤホンを引き剥がすのに忙しいようで、すぐ横をすり抜けていくわたしに見向きもしません。
「セコい手!!」
まだ短い距離だというのに息を荒げてるわたしとは対照的に、ノルさんはハイヒールだというのに鮮やかな走り方でした。
「上手くいくならぶっ格好でもいいんです!! ホテルのロビーで銃撃戦をやらかすよりずっとマシでしょう!?」
もはや持病な転け癖がこの場面で炸裂しないか、もう気がきじゃありませんでした。ここでずるべたーんなどと転けようものなら、バットエンドの表示が頭上に燦然と輝くこと疑いありません。
この奇襲は長続きしません。この作戦が真の意味で成功するかどうかは、わたしのへっぽこ運動神経に掛かっていました。
普段なら1分もかからず横断できる距離のはずなのに、時間が引き伸ばされてひどく長く感じられる。回転ドアがひどく遠い。
手に持った紐なしポシェットが落ちないよう、なんどもなんども掴み直しながら走っていく。
左翼ゲリラによるテロ事件が頻発している土地柄もあってか、無関係な人々はすぐさま逃げ惑ってくれる。この危機意識はありがたい、平和な日本とかですと、見物人が巻き込まれる事態がよくありましたから。
とにかく外へ。
敵は大量動員を掛けているとはいえ、まさかロビーの外まで
ホテルの外にさえ出れば、まだ活路は開ける。タクシー乗り場はすぐ目の前にありましたし、市街地で雑踏に紛れることもできる。
ここまでは上手くいってました。それがどれほど奇跡だったことか、すぐさま思い知らされる。ミリタリーグリーンの制服を着込んだ、国家警察の隊員の1人が前方に立ちふさがってきたのです!!
「頑張りは認めるけど――」
足の遅いわたしに合わせて並走していたノルさんが、飛ぶようにこちらを追い越していく。
「――暴力は避けられなさそうよッ!!」
イヤホンをかなぐり捨て、2点スリングで胴体に吊っていたガリルARを掴もうとする汚職警官に向けてノルさんが飛びかかる。
最初はてっきり飛び蹴りかと思いましたが、でも違いました。
人間というのは、身体能力を極めると重力を無視できるのだと知識では知っていても、実物はやはり違いますね。
さながら空中浮遊のように飛び上がったかと思えば、銃口を上げる暇もなかった汚職警官の首に両足を巻きつけていくノルさん。ありえない身のこなしでくると回転、チャイナドレスの麗人は相手をそのまま硬い大理石の床へと叩きつけていったのです。
あまり格闘戦の教養がないわたしでも、その技名は知っていました。
ヘッドシザーズ・ホイップという技名――すなわち、
これもドヤ顔でうんちくを語っていた同居人のお陰かしら。あまりにまんますぎる名前で、妙に印象深くて・・・・・・。
男を曲芸じみた動きで床に引き倒し、そこから掌底を顔面に叩きつけてとどめを刺していくノルさん。それは正当防衛ですからいいとしても、足が止まってるのが気になって仕方がない。
あっさりチャイナドレスの麗人を追い越してしまい、走りながら振り向こうとして足並みが乱れてしまった。あわや転けかけますが、回転ドアに激突するように受け止められて難を逃れる。
「いいから走れッ!!」
ハスキーボイスも相まって、男性が叫んだように聞こえました。
ですがこの意見は正しい。膝をついたまま身をひねり、ノルさんは片手撃ちで持ち直しはじめた汚職警官たちに牽制射撃を見舞ってました。
ここでわたしが残ってもできることはありません。むしろ足を引っ張るだけ。
この状況には覚えがあります。非力なわたしを守るため戦っていく部下たちという構図。この呪わしい運動神経さえなければ、わたしだって共に戦いたいのにと、なんど歯噛みしてきたことか。
ですが、人には向き不向きがあるとまず認めるべきなのでしょう。そのうえで、もっともベストな選択肢を探っていく。それが自分の役目だと納得したのは、もうずいぶん昔のことになります。
スライドの前後音しか聞こえないPSSピストルの銃声に混じり、アサルトライフルの派手派手しい銃声までし始める。追っ手の足を食い止めてくれている彼女にとっては、わたしが外へ逃げてくれることこそが最高の援護のはず。
あえて考えないようにして、回転ドアを押し開くことに意識を集中させていく。
やはりわたしの細腕には重いドアだわ・・・・・・人の目を気にしていた前回とは異なり今はなりふり構わず押し込んでましたから、ドアはちゃんと動いてはいる。ですが、弾丸が跳ね回っている今のシチュエーションを思えば、その開くスピードは腹立たしいほどに遅かった。
意識はすべて回転ドアに注がれてました。
開け、開け、開け!!
わたしは近視眼になっていたようです。どうしてこんな事に? ただお墓参りに行くだけの予定だったのに!! そんな気持ちばかりが先走って、周囲の警戒がおろそかになっていた。
急に肩を掴まれて、わたしの心臓は凍りつきました。
捕まった!! 咄嗟にそう思う。ですがわたしの肩に添えられた手は、強引ではあっても二度と逃すまいとする暴力的なものではありませんでした。
まるで、勢い余って歩道に飛び出そうとした我が子を止めようとする、親のような力加減。
ここ数十分間の展開のせいでスーツ姿に警戒心を抱いているわたしでしたが、肩を掴んできた相手は、あの汚職警官たちとは別口だとひと目で分かりました。
汚職警官たちよりもずっと年かさな、初老の白人男性。派手さはない、地味ですがそれとなく高級スーツだとわかる服装。ここまでなら場所柄的にいって普通と呼んで差し支えのない雰囲気です。
ですが巻き込まれてしまっただけの普通の観光客にしては――鏡のように反射しているアビエイターサングラスは、ひどく特徴的なアイテムに見える。
男性が叫びます。
「ここで何をしてるんだッ!!」
わたしを捕まえにきた訳でないとすぐ分かりました。ですが不可思議なのは、お節介な観光客が銃撃戦に巻き込まれているひ弱な女を咄嗟に物陰に引き込もうとして・・・・・・といった風にも見えないこと。
うまく言語ができない。
銃弾が飛び交うなか、ラウンジの柱の陰に隠れているB.S.S.とかいう警備会社の帽子を被っている男が、サングラスの男性に向けて「パトロン隠れてください!!」と英語で叫んでました。
そう英語です。わたしの容姿から推測したのか、流暢なアメリカ英語でサングラスの男性はわたしに話しかけていた。
「君は一体、何をしている!!」
柱の陰から警備員が飛び出し、こちらに駆け寄ってきます。おそらく雇い主を助けるため命を懸けることに決めたのでしょう。
ラウンジで談笑していたビジネスマンの1人かしら? でも、銃火に身を晒してまでわたしの肩を掴む理由も、その問いかけの意味も分からない。
どうしてこんな無茶を?
自分は人よりも記憶力が優れている。そう自惚れてはいますが、この男性とは初対面であることは間違いない・・・・・・いえ本当に?
「あっ!?」
正気を取り戻せたのは、背筋をゾッとさせるミシンのような連打音のお陰。なんてこと、フルオートで汚職警官の誰かがガリルARを乱射してました。
「は、離してください!!」
ここには居られませんでした。わたしのせいで、巻き添え被害も出てしまいかねない。
よく分からないまま肩に添えられた手を振り払い、ふたたび回転ドアを押す作業に戻っていく。
背後では、警備員に羽交い締めにされるように物陰に引きずられていくサングラスの男性がなにやら抗議していました。
やっと回転ドアの中に潜り込めたという段になって、急に嘘のように扉が軽くなりました。
「今度から腕立て伏せぐらいするべきね」
わたしには重たすぎたドアをあっさり片手で押し開いていくのは、ノルさんの筋肉質な右腕でした。その力ときたら、心なしか、ドアの回転速度が倍になったかのように感じられます。
「大丈夫でしたか!?」
「大丈夫じゃないなら話してられないでしょ」
いきなり、回転ドアの強化ガラスにクモの巣状のヒビが入ります。もうお構いなしで汚職警官たちはこちらの命を狙ってました。
「早くタクシーにッ!!」
ノルさんの叫び声を聞きつつ、わたしは新鮮な生暖かい空気を吸い込みながら、言われるがままに駆け出していく。
うだるように暑い外の陽気。ついさっきまで銃撃戦の渦中にいたとは思えないほど、外は平和でした。それも回転ドアを汚職警官たちがくぐり抜けてくるまででしょうが。
今一度の全力疾走。眩すぎる陽射しが容赦なく視界を奪っていきますが、目の端にはタクシー乗り場がたしかに見えていました。
輻射熱の照りつけも激しい舗装道路を走り抜けていく。
記憶では常にタクシーが4、5台ほどたむろしていたはずでしたが、銃撃戦のさなかに呑気に待っていてくれる運転手さんはそうはいないもの。
脱兎のごとくとはこのことでしょうか? タイヤから煙まで吹き出させて、タクシーといえばの万国共通な黄色い車たちが、急発進していずこかへ走り去っていきます。どうしましょう?
コロンビアらしい赤レンガの建物群が通りを挟んで向こう側に見えるものの、いささか遠い。ライフル弾より早く走る自信はありませんでしたから、視界の隅に黄色い車体が見えたときの喜びときたら、表現できないほどでした。
呑気な運転手さんは実在したのです。
たった1台でしたけど、どうしたことかそのタクシーは今だに持ち場を死守していました。ただし、他と比べていやに古い車体でしたが。
70年代のニューヨークを走っていたイエローキャブよろしく――というよりも、まさしくアメリカでお役御免となった車がこの土地で余生を過ごしているのかもしれません。もはやクラシックカーの趣さえあるタクシーに向けて、わたしはとっさに思いついた言葉を大声で叫びました。
「ヘイ、タクシー!!」
このシチュエーションでこの言葉が正しいのかどうか、自分でもよく分かりませんでしたが・・・・・・それでも後部座席の扉がひとりでに開いていってくれたので、ちゃんと効果はあったみたい。
わざわざタクシーに自動ドアを仕込むのは、せいぜい変なところで凝り性な日本ぐらいのものだと聞いています。実際、運転席側から伸びてきた細くて白い腕の持ち主が、わたしのために開けてくれたようでした。
あの後部座席こそがゴール。
最後の一息にと覚悟を決めたとたんにもつれる両足。おそるべき運動神経のなさがここにきて発動してしまったのです。
「あっ、とっ!!」
ですが、不幸中の幸いと呼ぶべきかしら?
ずさぁぁぁっと、それはもう盛大にズッコケこそしましたが、着地点は運良くも目指していた後部座席そのもので、頭からスライディングするようにクッションがわたしを受け止めてくれました。
舗装道路に頭から突っ込むよりずっとマシですが、合成皮のシートで顔面をすり下ろすというのは楽しい経験ではありません。
ましてや勢い余って、反対側のドアに頭頂部をしたたかにぶつけながら急停止を決めてしまったわけですから。とても痛い・・・・・・。
ですが撃たれるよりマシと、自らを奮い立たせる。
今すぐにでも“出してください!!”と叫びたいのは山々ですが、それはいくらなんでも不義理というもの。
起き上がってすぐ、わたしは背後を見やりました。まさかチャイナドレス姿の女性が血だまりの中で倒れていませんよね、と。
そんな最悪の想像は嬉しいこと裏切られてくれた。
わたしから一歩遅れて、ノルさんがタクシーに飛び込んできました。ですが邪魔だったのは分かりますけど、手のひらで人の顔面を車内に押し込むのはどうかと思うんです。
「邪魔」
「ふぎゃ」
きっと100m走のハイヒール部門で優勝できるにノルさんは、わたしと異なり息切れすらせず、涼しい顔して後部座席に収まっていました。
色々と思うところはありますけど、とりあえずこれで一安心。
「だ、出してくりゃさいッ!!」
我ながらなんとも無様な声。ですがこちらの意図はちゃんと伝わってくれたはずなのに・・・・・・タクシーは動かない。
なぜ? どうして? 気持ちが焦る。
そうだわ、英語で話しかけたって現地の人は困るでしょう!! 自分の間違いを悟ってスペイン語で言い直そうとしたところ、バックミラーに越しに運転手さんと目が合いました。
信じられない異常事態が連発している昨今ですが、これもなかなかに異様な状況でした。なんとタクシーのハンドルを握っているのは、少女と呼んで差し支えのない年齢の女の子だったのです。
どんなにサバを読んでもたぶん16、7ほど。ですがきっと、見たまんま14歳ほどであるに違いない白人の女の子が、バックミラーを使ってこちらを睨んできます。
コロンビアにだってもちろん白人は住んでいますが、植民地化されてから長い年月がたった今となっては、混血が進んであまり見かけなくなっているそう。
それにその女の子はとても珍しい髪色をしていました。雑に束ねられている真っ赤な髪は、歴史的背景からスペイン系が多いこの土地では珍しい髪色であるに違いない。
幼さが残る顔立ちからしても、きっと彼女は
可愛い女の子ではありますが、バックミラーの中から睨めつけてくる眼光ときたらカミソリ並みに鋭いものでして、ちょっと怖いぐらい。
・・・・・・まるで自分以外はすべて敵だとでも言いたげな挑戦的な目つきでして、不良娘なんてイメージがつい頭に浮かんでしまう。
彼女のパンクファッションもまたそんなイメージを補強させていくのに、とどめそのほっぺたです。なんと彼女、顔面に化学式のようなタトゥーを刻んでいたのです。
えーと、C3H5N3O9? これは知っています、ニトログリセリンの化学式ですね。タトゥーの文化はあまり詳しくはありませんけど、化学式というのはわりと斬新な図柄なのではないでしょうか?
固まるわたしを横目に、新しい弾倉をPSSピストルに挿し込みながらノルさんは、何やらバックミラーに向けてこうピッピと手信号の要領で指示を出していく。
手話、でしょうか? なるほどそれなら、わたしの言葉が聞こえなかったのも納得ですけど・・・・・・どうしてノルさん、彼女が聾者だと知っていたのかしら?
頷きを返してから、耳が聞こえないらしい少女は思い切りアクセルを踏み込みました。
あまりの加速力に後部座席に縫い留められるわたし。左右の窓の向こうでは、モーションブラーが掛かったかのようにぐんぐん街並みが過ぎ去っていきます。ホテルもとうに視界から消えていき・・・・・・当面の危険から脱したのだと確信したわたしは、ついシートの上にへたり込んでしまった。
空港の売店でどの本を買おうかしらなんて、悩んでいたことが10年以上前かのよう。いえ本当にもう、どうしてこんなことに?
「ふう・・・・・・」
安堵というよりは、一仕事終わった風のため息をノルさんはつきました。背後を振り返ってみても追跡の車らしき陰はなく、彼女もまた安全だと判断したようでした。
最低でも3名を格闘戦で再起不能にし、10人近い汚職警官たちを向こうに回しての銃撃戦をこなしたチャイナドレスの女性は、どうしてか汗一つかいてませんでした。
ちょっと走り回っただけで鉛のような疲れに襲われているわたしとはまるで対照的。同じ人間とは思えません。
セクシーな感じで足を組み、ちょっとリラックスムードなノルさんはやっとわたしの顔の惨状に気がついたようです。
「あら? ビンタなんていつ食らったの?」
「・・・・・・いつでしょうね」
わたしはもうすぐ21、大人なのです。大人とは、細かいことにこだわらないのです。
それに顔のもみじ柄以外にも傷だらけでしたし、ね。
合成シートで顔を擦られるわ、大音量の音楽をすぐそばで聞いてしまったせいで耳鳴りはするわ、首と胴はまだ変な感じですし、ぜったいにこれ肩紐型の痣ができてますよね・・・・・・とんだお墓参りでした。
ノルさんと異なって、こっちはもう息も絶え絶え。全力疾走で疲れた呼吸を整えつつ、同時に酸素を送り込んで頭も整えようとする。
アクションはわたしの専門じゃないので、まだ頭は本調子じゃありません。ですがそれでも優先順位は覚えてました。まずホテルからの脱出、次いで最寄りの大使館に向かうこと。
「あの、アメリカ大使館に向かっていただけませんか?」
赤毛の少女は答えません。当然でしょう、耳が聞こえないんですから。
本当に頭が働いていませんね・・・・・・彼女、ノルさんと手話で会話していたばかりだというのに・・・・・・そこではたと気づく。それってつまり、この2人は知り合いってことですよね?
「無駄よ。耳が聞こえないの」
訳知り顔で忠告してくれるノルさん。でも、なぜそれを知ってるのかについての答えはありません。
なんとなくですけど・・・・・・この2人って妙に気心が知れているといいますか、まるで身内のような雰囲気がありました。ですがまさかラテン系であるノルさんと、アイルランド系らしき少女との間に血縁関係があるとは思えない。
そもそも仮に兄妹であったとしても、就労年齢に達していないであろう少女が都合よくタクシーで待ち受けている理由の説明にはなりません。
またです。何かこう、歯車が噛み合ってない感が。
運転席を観察してみると違和感はさらに増していく。
タクシーというのは信用商売ですから、後部座席から見えやすいように運転手さんの身分証が貼り付いているのはよくあることです。
例によってこのタクシーにも見えやすい場所に身分証が提示されていたものの、穴が開くほど顔写真を睨んでみても、どう考えても体重200キロはありそうな黒人男性と、この顔面タトゥーの少女が同一人物には見えません。
超一流の整形外科医に頼んでみても、ここまで劇的なビフォア・アフターは不可能でしょう。
ガチッ。
急に、扉のロックがかかる音がしました。バックミラーをおそるおそる見てみれば、少女の睨みつけるような視線がそこにあって・・・・・・どうやらわたしの疑念は、顔面タトゥーの彼女に見透かされていたようです。
「昔カルテルの爆弾テロに巻き込まれて鼓膜をちょっと、ね。だから話しかける時は顔をまっすぐ見つめて、唇を読みやすいようにしてやって。読心術はできるから」
疑惑の目がむくむく育ってきているわたしに気づいてるのかそうでないのか、ガーターベルト型のホルスターに拳銃を戻しつつそんな注意事項を口にするノルさん。
「もしかして・・・・・・お知り合い、なんですか?」
「ま、そんなとこね」
ノルさんは後部座席から身を乗り出して、運転手の少女の肩を叩きました。ハンドルを握りながら少女は横目でノルさんを捉え、自分に向けられた手話の内容を読み取っていく。
わたしにはとっても険のある視線を向けていた少女でしたが、これがノルさん相手となると、どことなく子犬のように懐いた目つきに変わっていくのが不思議でした。
人間関係がまるで読めません。
高速で疾走していくタクシーの中、借りてきた猫のように大人しくしているわたしとは対照的に、ノルさんは日常会話のノリで少女と話していきます。
「ちゃんと買ってきてくれた?」
口で喋りつつ、その内容を手話でも伝えてるらしいノルさんは、少女が顎で示した助手席の方にお目当てのものを見つけたようです。
「ありがと」
感謝しつつ紙袋を助手席から取り上げたノルさんは、後部座席にふたたび背中を預け直していく。
私のすぐ横でガサゴソと、紙袋の中身をかき分けていく音がする。
「ちょっと筋弛緩剤が無いわよ? えっ、買い占められてた? 誰が買うのよ・・・・・・
バックミラー越しの手話会話という、とっても高度そうな言葉のキャッチボールが始まりました。
手話という都合上、顔面タトゥーの少女はしばしばハンドルから両手を離しているのですが、わたしが縮こまっているのはそんな危険運転が原因ではないのです。
まさかそんな、とは思いつつも・・・・・・指揮官としてのわたしは、冷徹に現実を認めろと告げてくる。
ついにわたしは辛抱たまらず、口を開いて聞いてしまう。
「あの、つかぬことをお聞きしますが――」
「ちょっと待ってね」
ガサゴソ。紙袋がまた漁られる。
「ほらこれ持って」
質問を遮られたあげく、紙袋の中身を手渡されてしまった。
ノルさんの依頼で顔面タトゥーの少女がどこぞのお店で買い占めてきたに違いない品々。ミネラルウォーターのボトル、ダクトテープ、それに安全ピン。なんとも取り留めのないラインナップでした。
「筋弛緩剤がないなら安全ピンは要らないわね。記念にそれ上げるわ」
「・・・・・・何に使うつもりだったんですか? 安全ピンなんて?」
「ん? 筋弛緩剤を打つと、身体だけでなく舌までいうこときかなくなるからね。
その状態で例えば、そうね。トランクに詰め込んだりして身体を横にすると、舌が気道を塞いじゃう可能性があるのよ。
だから窒息しないよう、あらかじめ安全ピンで舌と唇を繋いどくの」
「・・・・・・」
詳しすぎる。
まさかそんな・・・・・・疑惑が深まっていくなか、全身から冷や汗がどっと吹き出てきました。
ノルさんとは旅先で偶然であっただけの間柄。そうですとも、故あって命を助けていただきましたけど、それだけの関係なのです。
しかしながら現実逃避も虚しく、紙袋から取り出されたのはどう考えてみても誘拐用具一式にしか見えず・・・・・・ついに決定的な物品が手渡されてしまう。
鉄の輪っかが2つと、それらを繋げる頑丈そうな鎖。これは、お巡りさんの必需品こと手錠とみて間違いがありませんね。
「さて――」
仕切り直すようにノルさんは言いました。なんとも軽い声音で。
「無理矢理でもこっちは一向に構わないんだけど、自分で掛けてくれると平和的で良いなぁ、と思ったりもするの。で? どちらがお好みかしら?」
実は、ほのかに友情が芽生えているのではないかという希望的観測もあったのですが、ノルさんの方は容赦なくその関係性をリセットするおつもりのよう。
こうなると、やはりちゃんと聞かずにはいられない。
「まずハッキリさせておきたいんですが・・・・・・もしかしてわたし、現在進行系で誘拐されてたりします?」
今までの大人の女の色気はどこへやら。ノルさんはまるで、子どものように無邪気な笑みを浮かべながらこう言うのです
「ようこそコロンビアへ♪」
チャイナドレスを着込んだ妖艶な誘拐魔に拉致られつつ、わたしは思わず天を仰いでしまった。ああやはり、ここはわたしの常識では測りきれないおとぎの国なのだなぁと。
そんな感慨に浸りたいのに、目に入るのは天井に張り付いてる汚いガムだけでした。
本当にもう、神も仏もここにいないみたい・・・・・まったくもって、ろくでもないことばかり起きる人生です。
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