IX “群盲象を評す”

【“テッサ”――スラム街、安宿】


 テレビが、点いていました。


 かれこれ半日近くも点いているそのテレビは、とっても古いブラウン管のもの。ウサギの耳のように大きなアンテナがぴょこなんとトップから張り出していて、外装は黄ばみきっています。


 画面は常に波打ってますし、どうしてか定期的に画面が狭まってしまう謎めいた現象も発生するなど、正直、博物館に陳列されてもおかしくないほど古いモデルでした。


 コロンビアという国は極端なまでに新しいものと古いものとが共存する、奇妙なノスタルジーに支配されている気がする。


 過去を取り込んだまま近代化しつつある街並みがそのあらわれでしょうか。眼下にレンガ街を見下ろす高層ビル群、そのすぐ近くには山に段々とスラム街が連なり、ジャングルがそのすべてを取り囲んでいる。


 本音をいえば、映像が映っているのか疑いたくなるテレビ画面を漫然と見続けるよりも、そんな新旧入り乱れる街並みを覆っていく美しい夕焼けを眺めるほうが、よほど有意義に思えてならない。

 

 ですが贅沢も言ってられません。なにせわたしの両手は今、うまい具合に椅子の背もたれに通された手錠の鎖によって拘束されているのですから。


 スラム街のトタン屋根から反射してくる夕陽が、ダクトテープで補修された5階の窓ガラスにちょこっとだけ映り込む。それを何とか横目でチラ見するのが、今できるわたしの精一杯な贅沢なのです。


 なにせ今のわたしの身分は――人質なのですから。


 自分でももうちょっと動揺したってバチは当たらないのでは? という思いはある。ですが恥多きわが人生を振り返ってみれば、誘拐されるのは別にこれが初めてではないというのが困りどころ。


 “トイレに行きたいです”


 そんな最低限の人権が聞き遂げられる以外、ギシギシいってるこの木椅子とわたしは、一心同体なありさまなのでした。なんともう半日も。


 お尻が痛くてなりません・・・・・・。


 この悪辣な誘拐魔たちのアジトこと、スラム街の一角に立っている安宿はヒドい場所でした。あの高級ホテルも別の意味で大概でしたが、少なくとも衛生的ではありました。


 この古びたブラウン管テレビがもっとも高価な調度品という時点で、色々と察してもらいたいところ。まさに安かろう悪かろうを地で行っている。


 連れてこられた時のことを思い出す。


 わたしたちを乗せたイエローキャブは高層ビルが立ち並ぶ一帯を離れていき、登り坂だらけなスラム街へと突入していきました。


 周囲は迷路のように入り組んだバラック街。路上にはゴミが散乱し、あらゆる窓枠に鉄格子が溶接されているのを見るに、治安状態は明らかによろしくない。


 うまく逃げ出せたところで、別系統の苦難が待ち受けている気がしてならない。でしたらここで、ほけーと自分が何に巻き込まれたのか見定めるのも悪くないと、そうわたしは考えていた。


 目隠しの類はされませんでした。だからこそ道順をすべて覚えているのですが、誘拐犯たるノルさんも思うところがあったみたい。


 安宿に連れてこられるなり、窓越しに見られぬよう木製のブラインドを降ろそうとして・・・・・・紐を引っ張るなりバラバラになるブラインド。そこでノルさんは何か見切りをつけたらしく、それからというもの窓はずっと開きっぱなしなのでした。


 ここは安宿の最上階、地上5階なのです。まさか窓から飛び降りることもできませんし、逃げられる心配もないと踏んだのでしょう。


 それにミニ冷蔵庫の辺りから漂ってくるこの奥深い匂いを思うと、窓は開けててもらわないと困ります。そもそもとっても蒸し暑いですし。ブレードが一本ばかし行方不明なまま天井で回転しているシーリングファンのみでは、とてもじゃありませんがこの暑さには対抗できません。


 そうですね、しいて朗報を挙げるなら夜が近づいてきたことで冷たい風が窓から入り込み始めてきた事ぐらいかしら。その微風に混じって、どこからかAK-47ライフル特有の乾いた銃声が聞こえてくるのはいただけませんが・・・・・・。


 わたしを取り巻いている環境はざっとこんな感じ。では誘拐犯たちの方はといえば、テレビの前であぐらをかいてる顔面タトゥーの少女はともかく、ノルさんすら銃声に目を向けようとすらしない。


 そういう場所柄だと納得すべきなんでしょう。銃声がどれほど鳴ろうとも、そのあとにサイレンの音が続いたりしない地域。


 どのみち手錠姿の若い女性が安宿に連れ込まれたなんて善意の通報をされたところで、やってくる警官が敵か味方か分からないのです。


 まったくもって八方塞がり。やはり今は、ぼっーとテレビを見続けるしかなさそうです。


 流れている番組は様々でした。 


 地味にコロンビアはテレビ強国であるらしく、時には日本産の古いアニメで場を濁しつつも、それ以外の大部分はどうやら国産のようでした。それでいて質もなかなかに高いのです。


 時間帯もあいまってか、流れているジャンルが画一的だったのは玉に瑕。つまりはスポーツとソープドラマの二本立てが延々とつづくルーティンだったのです。


 最初はそこそこ気が紛れものの、どこかで見たような展開がずっと続くと流石に胃もたれしてきます。映画はそこそこ見るものの、やはりわたしは読書が性に合っているみたい。


 ケティさん――そうノルさんから紹介された顔面タトゥーの少女は、わたしと違ってテレビは大好物だったみたいですけど。だって彼女、CMすらも食い入るように眺めてましたから。


 テレビから挑発的なナレーションが流れてきました。


『誘拐・・・・・・強姦・・・・・・そして殺人』


 いきなし流れ出したCMのナレーションに、ついドキリとしてしまう。


 語り口はこう、B級映画のティザーCMといった安っぽさがあるんですが、なにせ思い当たる節がありすぎて・・・・・・。


 映画のCM? それともネガティブキャンペーンを打ってる政治宣伝? どれも違いました。これはどうも反カルテルを掲げるプロパガンダCMであるみたい。


『コロンビアの無辜の人々よ。さあ、共にこの悪辣な者たちに立ち上がろう!! 今こそ、金か銃弾プラタ・オア・プロモなどと問いかけてくる獣たちに否と突きつける時が来たのだッ!! 

 友人、なにより自分の家族のために、腐敗した警官たちを操るカリ・カルテルという巨悪を我々とともに打破しようではないか!!』


 ここで “今夏公開予定” とか入ってもまるで驚かない語り口でしたが、内容そのものは割と切実な感じ。


 ちょっと吹っ切れてしまった政府の広報担当の仕業かしらと訝しんでいたら、凄まじいオチが最後に聞こえてくる。


『このCMは、お客さまに快適なお空の旅をお約束するネオ・パンナム社と、奴らより賄賂の額は上だでおなじみの、モンドラゴン・ファミリアの提供でお送りしました』


 ・・・・・・麻薬カルテルが、麻薬カルテルを批判する広告を打ってました。


 あんまりなことに目の前がくらっとしてくる。おとぎの国どころか、わたしは異次元世界アウターワールドにでも迷い込んでしまったのか。むしろ、そうあってほしい。


 突き崩されていく常識に胃を軋ませているうちに、次のCMが始まりました。


 先ほどのおどろおどろしい雰囲気から一転、今度のはラテンらしい原色に彩られた明るめなCMでした。


『さあ!! 先ごろ改修工事が終わった新生シモンボリバル・スポーツアリーナへ、家族みんなで足を運ぼう!! 今宵の公演は、世界を熱狂させているあのスポーツが満を持してスタジアムに登場だ!!

 鋼鉄の巨人たちが血で血を洗う戦いを繰り広げる!! 果たしてアメリカからの刺客ラロイ・ブラザーズは、王者エル・ディアブロを打ち破れるのかッ!?』


 つづいてAS同士が激突し合う、過激な試合映像がブラウン管に映し出されていく。それを年相応なキラキラした目つきでケティさんが熱心に眺めています。


 そういえばちょっと小耳に挟んだことがある。地理的にジャングル戦が主体にならざるおえない中南米諸国においては、戦車よりもASのほうが実働稼働数が多いとか。


 万能な兵器なんてものはありません。戦車は遮蔽物がまるでない平地を突き進むために開発された突撃用の兵器であって、ジャングルや市街地といった隠れる場所に事欠かない土地においては、対戦車兵器の発達もあいまってむしろ不利にしかならないのです。


 そこにきますとASというのは、そもそもがベトナム戦争の戦訓によって開発された二足歩行兵器。平地ではその大きすぎる前面投影面積によって的にしかなりませんが、これがジャングルとなれば、戦車とは比べ物にならない高速での戦闘が可能になる。


 戦車が行けないところに展開できるが、正面切って戦えば戦車の火力には到底かなわない、そういうニッチな需要を満たしたのがASこと、アーム・スレイヴだったのです。


 たくさん作られれば、価格も安価になるのがこの世の常です。東南アジアを起源とし、全世界から違法認定されながらもその迫力から西側諸国においてすら新たなアングラスポーツとしてほのかに注目を集めつつあるというASの格闘マッチは、こういう需要と供給が裏に隠れているのです。


 あれですね、それはもう地を埋め尽くさんばかりに戦車を大量生産したロシアにおいてはソ連崩壊によって生じた驚異の価格破壊もあり、中古の戦車がなんと4万ドル前後で購入できるというのと同じ理由で、地域によってASという兵器は、スーパーカーよりよほどお安いお値段で購入できたりする訳です。


 生まれてまだ間もないということもあり、正式名称が今だに定まっていないこのスポーツなのですが、いつの間にか遠く東南アジアからここコロンビアに上陸していたみたい。


 合法なのかしら?


 そんな当然の疑問は、カルテルのカルテルによるカルテルのためのCMのあとでは愚問と呼ぶしかないでしょう。


 なるほど、銃声の合間に聞こえてくるこの爆音は、今夜の試合を宣伝するために打ち上げられている花火であるみたい。


 CMの締めはどれも同じ、提供者の紹介でした。


『――この試合はキャッスル・フルーツ・カンパニーと、カリ観光組合の協賛で開催されます。どうか、チャンネルはそのままで』


 いえ・・・・・・カリというのはあくまで地名、といいますか都市の名前であって。どうしてかわたしは、そのカリを発祥とする麻薬カルテルに追われてますけど、目立つからってそれがすなわちカリという街のすべてを体現している訳でもありません。


 あれですね、日本といえば忍者と侍だろうと偏見まじりに入国してみたら、そんなもの影も形もなくて勝手にガッカリしてるとか・・・・・・まさか、わたしがノルさんのトンデモ日本発言に感じた印象を、おとぎの国とか呼んでいるわたしに向けてノルさん側も感じているかもしれない?


 これが異文化交流の鏡写し。互いに互いを変だと考えているが、実は鏡写しで反対になってるだけで、見てる問題そのものは同じとか。


 つまりは、カルチャーギャップはお互い様ということです。“おとぎの国”という呼び名、改めるべきかもしれません。いえでもやはり、カルテルがカルテルを批判する広告を打つなんてやっぱり変ですよ・・・・・・。


 80年代にメデジン・カルテルとコカイン産業を二分し、創設者たちがDEAに逮捕されたことで大きく勢力を減退させたはずのカリ・カルテルは、モンドラゴン・ファミリアの台頭と時を同じくして奇跡的な復活を遂げた、らしい。


 なにせわたしの麻薬カルテル関連の情報源は本一冊だけですから、概略は知っていても詳細は分からないという展開が多すぎるのです。

 

 とりあえず相手を殴り飛ばす、そんな世紀末的なスタイルで鳴らした武闘派がメデジン・カルテルであるとしたら、ライバルであるカリはその対局にあったとか。


 一時は合法的な企業家として経済誌に取り上げられるほどに犯罪組織という本性をひた隠しつづけ、邪魔者を排除するにしてもメデジンが安易に殺し屋を使うところを、カリはまず情報収集から始めたんだそうです。


 街中の電話という電話を盗聴し、敵をゆするための情報をかき集める。役人に賄賂を渡すのはよくあることですが、それを組織化して情報収集網スパイネットワークに組み込んだのは、このカリ・カルテルぐらいのものでしょう。


 そうしてついたあだ名が――“カリのKGB”。


 諜報機関のやり口をそれなりに知っているわたしにしても、これって丸っきりCIAのスタイルそのものじゃないですかと困惑したものです。


 そんなカリ・カルテルがわたしを誘拐しようと画策しているらしい。


 彼らにも彼らなりの理由はあるのでしょうが・・・・・・カリとは違う街でどうしたことか、カリ観光組合なる謎組織がスポーツ興業を牛耳っているらしいことを見るに、その理由とやらにわたしが納得できるかはまた別の話。そんな気がしないでもない。


 だってここはあまりに、文化が違うんですから。


 大体、カリとは別口であるらしいノルさんたち、すなわち絶賛わたしを誘拐中な彼女たちもいるわけでして、もう考えるのも嫌になってきましたよ。


 とりあえず、わたしの知らないところで何かが起こっているのは確かなようですけど。


 汗が止まりません。いえ別に緊張のせいとかではなく、単に高温多湿ゆえの生理現象でした。


 メリダ島や日本で過ごした夏も似たような感じでしたが、あっちはどうせエアコンがありますしとインドア派のわたしは高を括ることができていた。ですがこの部屋にあるのは、天井のシーリングファンだけなのです。


 全身汗びっしょり。そろそろ喉の渇きも気になってきて、ついついベッドサイドテーブルに置かれたミネラルウォーターのボトルに目がいってしまう。


「すみません、お水を頂けませんか?」


 画面に張り付かんばかりの勢いで、床にこうぺたーと胡座をかいてる顔面タトゥーの少女ことケティさんにそう頼んでみました。


 もちろん彼女が耳が聞こえないのは百も承知。といいますか、わたしよりも彼女たちの方がそのあたり抜かりがありませんでした。ダクトテープでテレビの枠に貼り付けられた手鏡は、わたしの口の動きをちゃんと映し出しているはず。


 ケティさん。偏見を承知で言うのなら、この少女は見た目からして跳ねっ返りのアナーキスト風味な女の子でして、どうやらその外見を裏切らない性格でもあるみたい。


 やることなすことどこか反抗的。ノルさんの指示にどうしてアタシがと言いたげに眉を曲げてから渋々と、ですが忠実にこなしていくのが彼女のスタンスであるみたい。


 これだけならただ思春期をこじらせているだけにも見える。ですが彼女ときたら革ジャンに顔面タトゥーといい、全力でそのスタンスを謳歌しているみたい。


 いきなり外出したかと思えば、帰ってくるなり挨拶もそこそこにシャワーを浴び始めたノルさんに変わって、手の使えないわたしに水を飲ませるのも彼女の役割のはず。なのに、どうにも反応が薄い。


 ・・・・・・展開が読めました。何度も頼み込んではじめて、はぁーやれやれと首を振りながら水を飲ませるパターンですね。思春期、それは面倒くさいの類語。

 

 ふたたび、今度はもっと唇が読みやすいよう大口を開けながら話しかけていく。


「お水を頂けませんか? 一杯で良いので」


 訂正、これは単にテレビに熱中してるだけだわ。


 なんとも子どもっぽい態度ですが、まさしく子どもと呼べる齢でしょうから致し方なくもありそう。


 ずっと無視してきましたけど・・・・・・彼女、こんな年齢で誘拐の片棒を担いでいる。その事実に驚きはしません。犯罪よりもっと凄惨な戦場という場において、ケティさんの半分ほどしか生きていない少年兵だって最前線で戦わされているのですから。


 貧困、差別、あるいは虐待・・・・・・そういった物から逃げ出してきた子どもたちに金銭と保護を与えてくれる受け皿という側面が、いつの世も犯罪組織にはあるのです。それはカルテルとて同じこと。


 何も持っていないからこそ怖いもの知らず。そして銃という文明の利器は体格差を無効化し、子どもでも簡単に大人を殺せる環境を作り出した。


 カルテルのいち地方を担っているボスの年齢が18歳なんてことは、よくある話なんだそうです。その年齢でも十分に年長者に当たる、ほとんどはその年になる前に逮捕されたり、敵対組織に殺害されたりする。


 少年兵問題と、犯罪を犯さねば生きられない子どもたち。わたしにはこの2つは、本質的に違いがないのだと思えてならないのです。


 誰もが何不自由なく暮らしていけるほど、世界は裕福ではないのですから。


 では、ケティさんはどちらなのかしらとわたしは訝しむ。


 彼女にも犯罪者にならざるおえない事情があったのでしょうか? それとも悪い大人――すなわちノルさんに利用されているだけなのか・・・・・・。


 もし後者なのであれば、わたしは矛盾した今の感情にケリを付けなくてはならないでしょう。誘拐された身の上ですがどうにもわたしは、ノルさんを嫌いになれずにいる。


 どうしようもないモヤモヤした気分。ですが今は、とにかく喉が乾いてました。考えごとをするのも結構ですが、脱水症状になったら目も当てられない。


 今はもう、何を言わなくてもわたしの健康を気遣ってくれたゴールドベリ先生も居ないのですから。


 三度わたしは、もうわざとらしいぐらい大仰に正当な要求を繰り返しました。人質が倒れたら困るのはそっちでしょう。


「お・水・を・頂・け・ま・せ・ん・か?」


 やっと振り返ってくれたケティさんの渋面ときたら、いいところなのに邪魔しやがってという感情がありありと浮かんでました。


 これ知ってます。思春期で関係が気まずくなってる親子そのものです。


 顔面タトゥーの彼女と同年輩の子どもら――つまりロニーとラナちゃんのことですけど――と故あって同居しているわたしですが、こんな経験はじめてです。あの2人、ほんとよく出来た子たちなんですから。


 これもまあ、ケティさんは飾らない性格なのだと無理に褒めることはできます。ほら、なんやかんやとノルさんの言いつけを守るべく、ノロノロした動きでしたがベッドサイドテーブルに向かって、ボトルを手にとってくれたわけですし。


 おもむろにボトルを左右にふるケティさん。ここ半日ですでに1本ボトルを空にしています。2本めであるこのボトルも、残量はざっと小指の第一関節ほどしかなく、唇は湿りそうですが喉までは不可能そう。


 聴覚障害があるためか、ケティさんはこれまで一言も言葉を発していません。


 無音のため息をついてからボトルを瞬間で飲み干し、ゴミ箱に放り捨てる。ケティさんには是非、ごみの分別についてイチから教えてさしあげたい気分。


 こうなったら仕方がない。そう言いたげに、机代わりにベッド上に広げられている、わたしのポシェット並ぶように放置されている大型ダッフルバッグのファスナーを下ろしていきました。

 

 スキー板がまるまる収まりそうな長いダッフルバッグは、明らかにケティさんの私物でした。だってアナーキー・シンボルサークルAのアップリケが刺繍されてましたから。自分のライフスタイルに忠実な子なんでしょう。


 あのバッグには何が詰まっているのやら。パンパンに膨らんだバッグの中身をケティさんがかき分けていくたびに、謎の金属音や生っぽい音が聞こえてきました。


 がさごそ、がさごそ。この間にカキーンとネチャを混ぜれば完全再現です。


 そうしてやっと、ケティさんはお目当のものを見つけたみたい。やり遂げたと主張するように天に掲げられたそれは、ヘコみだらけのペットボトル飲料。知らない銘柄でしたが、デザインからしてスポーツ飲料のようです。


 賞味期限ですとか、この気温で常温保存されてて大丈夫ですとか、様々な疑念が脳裏をよぎる。とはいうものの・・・・・・喉の渇きはそろそろ限界を突破しつつあり、ついついゴクリと喉を鳴らしてしまった。


 これを拒否したら、代替案としてあの嫌な臭いがしてくるミニ冷蔵庫の封印が解かれるだけでしょうし。


 紆余曲折あったものの、やっと水分を手にしたケティさんがこちらに振り向いてくれました。誘拐犯と人質という間柄であったとしても、いえだからこそ、感謝は大事なのでした。


「ああ、ありがとございま・・・・・・」


 す、という締めは、永遠に失われてしまいました。


 なぜならば顔面タトゥーの赤毛少女はおもむろに腰に手をあてたかと思えば、45度の角度でもってスポーツ飲料の一気飲みを敢行したのです。


「ぷはっ」


 なんて一気飲みした達成感を、ケティさんは吐息の形で吐き出しやがりました。


「・・・・・・もしかしてケティさん、わたしのこと嫌ってたりします?」


 回答は、ガッと突き出された右手の甲でした。


 ケティさんは頬の化学式だけでなく、両手の甲にもタトゥーを施していたのです。ただしこちらはファッションでなく、実用的な意味合いが強いみたい。


 左手にはNOの文字。右手には、YESの文字が黒インクで刻まれていたのです。


 手話ができない相手とも、これなら簡単な会話ならばこなすことができる、いいアイデアです。なんとなく何かの映画で見たような気もしますけど、このタトゥーのお陰でわたしは、ちょっとした受け答えならケティさんと会話することができていたのです。


 まあそれはともかく・・・・・・嫌ってますかと問いかけてみて、こうも堂々とYESで返されますと、ふふ、むちゃくちゃ腹立ますね? 子どもだからって、いつまでも生意気でいられると思ったら大間違いなんですからね?


 勝ち誇る少女VS苦笑い気味の微笑みで応じるわたし。なんとなく、今この瞬間に人間関係が決定づけられてしまった気がしました。


 そんな膠着状態を尻目に、バスルームから響いてくるシャワー音に混じり、次の番組であるらしいニュース番組が始まりました。

 

 小気味よい発音で、テレビの中のニュースキャスターさんが原稿を読み上げていきました。


『パブロ=エスコバルの個人動物園から逃げ出して以来、コロンビア全土で野生化して久しいカバですが、このたびそのうちの1頭が市街地に侵入する騒ぎがありました。

 動物管理局による捕獲の努力もむなしく、最終的には軍より派遣されきたアーム・スレイブ部隊がカバと激しい格闘戦を繰り広げ――敗北。

 カバはその後ジャングルに帰っていきましたが、閑静な住宅街は一時、阿鼻叫喚のうずに巻き込まれたとのことです』


 ・・・・・・なんですか、それ。


 わたしがこれまで培ってきた一般常識なんて、このおとぎの国では一銭の価値すらないのかもしれませんね。一文字も理解が及びませんとも。


『次は、本日のトップニュースです』


 これがトップニュースにならないお国柄のようですし。


「もう何がなんやら・・・・・・」


 つい力なく項垂れてしまった。


 このように悲喜こもごもある半日を過ごしてきたわたしですが、人質の割に余裕ぶって見えたなら、その見立ては大正解です。


 もしノルさんがドキドキ誘拐初体験とかのズブの素人であったなら、わたしだってもう少し危機感を覚えたことでしょう。でも、どうにも彼女はプロと呼ばれる類の人種であるようなのです。


 まともな神経の持ち主なら、1等の宝くじをぐちゃぐちゃに丸めたりはしないでしょう。この場合それと同じことがいえます、プロの誘拐犯にとって人質というのはあくまで商品なのです。


 軍事のプロとして言わせてもらうなら、人質救出作戦が交渉から強襲へと切り替わる境界線は、人質が傷つけられるかどうかで決まります。


 だからこそ犯人側は、プロであるほど人質の安全に気を配るようになる。身代金を引き渡すだけですべて丸く収まるなら・・・・・・交渉相手にそう思わせることが成功の鍵なのです。


 結局、警察がどう主張しようとも家族からすれば、人質の無事を最優先にしたいのが人情なのですから。


 それに人質を人道的に扱えば、よしんば逮捕されたとしても裁判で優位になるという利点もあります。えてして暴力というのは、事態を悪化させども好転はさせないという好例ですね。


 ノルさんがあの高級ホテルで見せた格闘術。


 わたしの知るかぎり、あれはクルーゾーさんレベルの達人クラスでした。それ以外にも射撃術や、的確な状況判断などなど、どれもが体系的な訓練を受けた者であることを示唆しています。


 それでいて軍隊出身ぽくないのが、わたしには不思議でならないんですけど・・・・・・パブロ=エスコバルは、プロの傭兵に手下を訓練させていたそうですし、ノルさんももしかしたらその流れなのかもしれません。


 よって結論。ノルさんは戦闘のプロである以上に、犯罪のプロである。


 実際、タクシーの車内で人に手錠をかけた直後、ノルさんはわたしにこんなことを言っていました。





“目的はカネよ”





 なんとも単刀直入な物言いでした。





“すべてはビジネス。カネが手に入らないなら、わざわざ殺すなんて面倒なこともしないわよ。この国の捜査機関がどれほど役に立たないかはあなたも身をもって知ってるでしょうし、通報するなとも言わない。

 リミットは3ヶ月。それを過ぎてもカネが手に入らないようなら、空港まで送ってあげる。

 割と長めだけど、こっちも出来るかぎり快適な環境を整えてあげるから、それまで大人しくしてなさい”





 こうまで条件をハッキリと提示してくるのは、まず逃亡抑止が目的でしょう。


 デッドラインをあらかじめ設定することで自らの退路を確保しつつ、同時に人質たるわたしの動きをも封じることもできる。下手に逃げ出そうとするよりは素直に従っている方が安全、そう思わせられれば勝ちというわけです。


 まあ、現実の身代金交渉の事例を知っているわたしとしましては、そういうリミットって往々にして延長されがちなんでよねー、とシニカルな視点もありはする。ですが当面はこの言葉を信じてもいいでしょう。


 いかに勝つか考えるよりも、失敗の可能性を徹底的に潰していく。ノルさんのそんな思考法は、わたしのよく知る戦闘のプロたちと同じものでしたから。


 SRTのみんなも基本的にこんな風だったものです。冷酷なまでの合理性というのは、万国共通なプロフェッショナリズムの根幹なのでしょう。


 ゲリラにカルテル。四半世紀にわたり誘拐ビジネスの最先端をひた走ってきたせいか、コロンビアの誘拐魔たちの間には高度なノウハウが蓄積されているだけかもしれません。


 こういう酸いも甘いも噛みしめた負の伝統は逆に信用がおけそうです。わたしが “商品” であるかぎり、ちょっとぐらい肩の力を抜いてもいいでしょう。いまは体力温存、次にいつ走り回ることになるか分からないのですから。


 とはいえ安心しきるのもNGです。プロであるということは裏を返せば、必要に迫られれば躊躇なく人質を殺せるということでもあるのですから。


 わたしはお金持ちなんかじゃありません。貧乏、ではないですけど、経済状況は裕福からはほど遠い。ですからお金という要望を満たせる自信はまるでない。


 気まぐれに暴力を振るわれたり、脅しのために指を切り落とされたりしないだけずっとマシですけど、それでも事態を冷静に見定めなければならない。状況がハッキリするまでは、緊張感を維持しつつも体力を温存するという、矛盾した方針を取るしかないみたい。


 そしてわたしが余裕ぶってる決定的な理由がもう一つ。ノルさんたち誘拐グループはどうやら総勢2名の小所帯であり、構成員はみんな女性であるということです。


 貞操の危機がないと自然と心にも余裕がでてくるものなんですよ。実はノルさんにレズっ気があるとでも言わないかぎりは・・・・・・まあ大丈夫でしょう。


 ケティさんはこういう性格ですから、シャワーを浴び終えたノルさんに事情を聞く他ないでしょう。どうしてこうなったのか? できるなら納得できる説明と水をセットでお願いしたい。


 キュッとノブを閉じる音がし、滝のようなシャワーの音が止まる。


 ノルさんに曰く、ここは一時的な隠れ家セーフハウスであり、尾行を確認するための一時的な滞在先に過ぎないとか。


 安全が確認され次第、本拠地へ移動する。その受け入れ準備をするべくノルさんは、部屋を出たり入ったりしていました。そのせいで質問をぶつけるタイミングがこれまでなかったのです。


 そんなノルさんは帰ってくるなりバスルームに直行。それも終わったようで、ドライヤーの吹き荒れる音が終わる頃やっとドアが開きました。


 椅子に縛られてるなりに頑張って首を傾げて、どうにかこうにかバスルームから出てきたばかりのチャイナドレス姿の麗人に話しかけようとして――わたしは固まってしまう。


 なんとノルさんときたら、トレードマークの南米風チャイナドレスを着ていなかったのです。それはまあいいんです、人間には好きな服を着る権利がありますから。ですが一方で、法律にも明記されているよう、人は公の場では服を着なければならないという義務があったりする。


 すなわち、腰にタオル巻いただけの豪快なスタイルで出現したのです。


「なっ、なななななななななな、なッ!!」


 なんという男前すぎるスタイル!? メリッサですら滅多にしませんよそんなこと!!


 見た目こそ、文字どおりに水も滴るいい女。とってもスレンダーな肢体をこれでもかと見せびらかす、異性を超越したフェロモンを放つ女性のあるまじき雑さに、さっと顔を正面に戻してしまう。こうすればせめて視界に入れないことはできますから。


 日本と縁深いわたしです。人前で平気で裸になれる文化圏があることは重々承知ですけども、やはり同性相手とはいえアメリカ人のわたしには辛いものがある。


 見てるこっちの方が恥ずかしいですよ!!


 大人しくしていればすぐ服を着てくれるに違いない。そう思いじっと待っていたのですが、代わりに聞こえてきたのは冷蔵庫の開閉音。汗を洗い流したら、すぐ冷たい飲み物が欲しくなるものですけども、今はその時じゃありませんとも。


 辛抱たまらず叫んでしまった。


「な、なんで服を着ていないんですか!!」


「着てるけど?」


 そんな馬鹿な・・・・・・薄めでちらっと見てみればなるほど、金髪あらため、今度は紫のロングヘアのウィッグをノルさんは頭に装備していました。


 蛍光色の人工毛がノルさんの鍛え抜かれた腹筋のあたりまで垂れ下がり、狙いすましたかのように胸元を覆っていたのがせめてもの救い。カップサイズはたぶんAAかしら? こうして見ますと、あの美脚さえなければ少年と見間違えそうな体型で――そうではなく!! 何をまじまじ観察してますかわたし!!


「ウ、ウィッグを服に数えないでください」


 抗議しつつ目をつむりました。両手が自由であったなら、手で目を覆っていたこと請け合いです。


「仕方ないじゃない、バスローブ腐ってたんだから」


「それにしたって!!」


 男前に過ぎますよ・・・・・・もしかしたら禁句かもしれないので、口の中でごにょごにょと王様の耳はロバの耳理論で消化していく。


 実は内心で感じていたこと。ノルさんってちょっとメリッサに似てる気がする。家族を持って丸く収まる前の、洗練されたメリッサという感じ。海兵隊仕込みの野卑さがないだけで中身は割と一緒なような。


 恥ずがしがっているわたしを見てなにを思ったのか、サドっ気ある声をあげるノルさん。


「あらぁ~?」


 この声は、わたし知ってますよ・・・・・・ちょっと人生経験が豊富だからって、年下の娘をからかってやろうと企むメリッサと同じ声でした。


「なになに? うぶなねんねでもあるまいに? 熟れたリンゴみたいに顔赤くしちゃって?」


「あなたを見誤ってました!! てっきり、深い人生経験からくる知恵で人を教え導ける、そんな大人の女性だと思っていたのに・・・・・・ノルさんってば蓋を開けたら中身おっさんの誘拐魔じゃないですか!?」


 あまりにメリッサとイメージが被りすぎて、一番の親友である年上の女性が巻き込まれてる気がしましたが、言ってしまったものは仕方がありません。


「誘拐魔じゃないわよ?」


 しれっと言い放つ女性に、わたしは背後の手錠をかちゃかちゃ鳴らして無言で抗議する。


 ふむ、とノルさんがうめきます。


「もう過去形ではあるか。これで副業・誘拐魔になっちゃったけど、本業は違うもの」


 セルフ目隠しの状態ですので耳から聞こえてくる情報だけで状況を判断するしかないのですが、ベッドのスプリングがギシギシと鳴り、タオルの擦れる音がし始めたということは、ノルさんはベッドに腰掛けながら絶賛身体を拭いている真っ最中の様子。


 音だけ聞くとなんとなく淫靡でした。いやだわ、こんなむっつりスケベみたいな感想を抱いてしまうなんて。


 ううっ。ですが衣擦れの音がするまでは、このまま注意深く耳を傾けるしかないのも事実。早く服を着てほしい。


「ふーん。あなたあれね、スカートめくりは恥ずかしいけど、裸にロングコートだけ羽織って町中を闊歩するのは楽しいタイプなのね」


「そんな風にカテゴライズされたの生まれて初めてですよ!!」


 こんな小娘に何ができるとか、そんなレッテルはいつだって貼られてきましたけども、まさか変態扱いされる日がくるとは!!!! もう怒りのあまり、エクスクラメーション・マークが当社比二倍になってしまいましたとも!!!!


 わたしのどこをどう見れば、そんなプロファイリングが浮かびででくるんですか!!


「・・・・・・でもそれが仕事でしょ」


「違います!! というか、なんの話ししてるんですかノルさんッ!! わたしは無職だとお話したでしょう!!」


「それは今であって、昔は・・・・・・まあいいわ」


 奇妙な間が生まれる。


 沈思黙考。ただでさえ目を瞑っていましたから、ノルさんが何を考えているのか分からない。


 カルチャーギャップとはまた違う、思考の差異が感じられてならない。わたしとノルさんの認識は、初めて会った時からずっとズレている気がする。


「あの、ノルさん」


「なに?」


「・・・・・・服、着ましたか?」


「自分の目で確認・し・た・ら?」


「そういうのもういいんで、服を着たのならなにはともあれお水をください。それから話の続きをしましょう。聞きたいこと色々あるので」


 布の擦れる音からして、やっと服を着始めてくれたよう。


 ノルさんが言いました。


「わたしの本業のこと?」


「それも・・・・・・話したいなら止めはしません」


 あのバーで初めて会った時からずっと引っかかっている話題ではある。多分、そこにわたしが誘拐された理由の一端もある気がして、聞きたくないかといえば嘘になる。


「そんな身構えなくてもいいわよ。ありふれてるとは言わないけど、この街では大して珍しくもない職業だから」


 おそるおそる目を開けていく。


 今度こそノルさんは南米風チャイナドレス――多分、予備の――を着込んでいまして、ついついほっと一息をついてしまった。


 スラム街でこの格好は目立つでしょうに、それでもこの服装を貫いているということは、これがノルさんのこだわりなんでしょう。


 それはまあ似合ってますけども、あんな非日常的な格好をした美女がミニ冷蔵庫にかしずき、硬貨を投入していく姿というのはシュールにしか見えません。


 カランと機械の中で何かが跳ねる音がし、開くようになったミニ冷蔵庫の中からノルさんは、赤い色をした缶ジュースを取り出してきました。


 あれです。世界中どこにでもある、超のつく大ベストセラー炭酸飲料水でした。


「はいお水」


「これは水にあらず、コーラと申すものでは?」


「他にはもう水道水しかないわよ。この宿の水ってどうしてか茶色いんだけど、それがお好み?」


「・・・・・・わかりました。ただし、ちょびちょびゆっくりペースでお願いします」


 炭酸飲料、苦手ですから。


 顎にあたる冷たい感触。わたしの要望通り、ゆっくりちびちびと口に注ぎ込まれるコーラの味は、あまり得意ではない炭酸飲料であるはずなのにまさに蜜の味。


 甘みよりも、染み渡っていく水分が心地いい。炭酸さえ抜けばコーラの成分はスポーツ飲料のそれと大差がないという話を誰かがしたり顔で言っていましたね。例によってメリッサか、それともウェーバーさんだったかしら?


 スローペースでしたがあっさりコーラを飲み干してしまい、一息つく。


 自分で思っていたよりも脱水症状が進行していたみたい。乙女の挟持で、せり上がってくるゲップの欲望を封じ込める。


「ケティもシャワー浴びとく? あっそ」


 テレビっ子に逆戻りしてる少女が突きつけてきたNOと書かれた左手の甲に、頷きを返すノルさん。


「それでさっきの続きなんですけど――」


「“シカリオ”」


 背後を見もせず空になったコーラの空き缶をみごとゴミ箱に放りながら、知ってるでしょ? とでも言いだけに眉を上げたノルさんは、そう自らの職業を名乗ったのです。




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