Ⅸ “荒野では、獣の咆哮に注意なさい”
【“テッサ”――車内】
最初に気づいた違和感は、首元の鈍痛でした。
南米といえば、高温多湿。すなわち昆虫にとってこれほど繁殖しやすい空間もなく、岩塩坑の周囲を取り巻いている深いジャングルを思えば、蚊の1匹や2匹ぐらいふらふら迷い込んできてもおかしくはありません。
ですがCIAからすればヤンさんがわたしから離れたあの一瞬は、
ほんの1分、わたしの求めでノルさんの探索に赴いた心配げなヤンさんは、そう時間制限を設けてから離れていきました。わたしとしても、身を守るために最善を尽くしたつもりです。
群衆からやや離れ、壁を背にして立ち、叫び声よりずっとうるさく騒いでくれるであろうポケットの中のグロック26に手を添える。ほんの1分、たったの60秒――人を拉致するにはそれだけで十分なのです。
CIAがダーツ銃を開発したのは、遠く70年代のことだというのに。
吹き矢の要領で飛んできたダーツが首筋に突き刺さり、急激に意識が消失していく。受け身なんてとる余裕もなく、無防備なまま固い床に放り出されそうになった瞬間、わたしは見ました。スーツ姿の男がこちらに迫ってくるのを。
夢から醒めるように目を開ける。するとそこは騒がしい闇市ではなく、鈍い静寂に包まれた車内でした。
「なあ、音楽かけていいか?」
バックシートでなんとか意識を覚醒させようと努力してるわたしの耳元に、そんな軽薄な若い男性の声が届きます。
「いいだろ? どうせ暇なんだからよ」
助手席に座っている金髪頭の若い男性・・・・・・彼は、いちおうお伺いを立ているあたり、序列としては下にあたるのでしょう。ですがその態度はどこまでもふてぶてしく、ハンドルを握りながらコロンビアの山道を下る、パナマ帽の相棒への敬意はまるで感じられません。
やっとしゃっきりしてきたわたしの目の前で、無言を貫くドライバーを無視して金髪頭の男性がカセットテープを挿入していく。
ついさっき目覚めたばかり、状況もまだ把握しきれてない。ですが、拉致されたことだけは確かでしょう。
もっともわたしの両手はフリー、拘束らしい拘束はされていませんでした。外部から見られてもいいようにかしら? わたしのような小娘、いつでも制圧できる自信があってこその対応でしょう。
もっともその怠慢のお陰で、気づかれぬようポケットを弄るなんて芸当ができるのですが。
まず腕時計をチラッと見る。ヤンさんと別れてからさして経過していない。それでも窓の外に見える風景は、闇市から遠く離れてしまったことを示唆していました。
左右にうねる山道から今まさに、舗装された街の道路へと差し掛かりつつある。山道は一本道でも市街地はそうではありません。曲がり角ひとつにつき、追う側は選択肢を迫られます。右に曲がるか左に曲がるか? 二手に分かれて両方を辿るのが確実ですが、その分だけ人員を割くことになる。
たった2人だけのノルさんとヤンさんでは、追跡は困難になるのは明白。時間との勝負みたいですね・・・・・・。
もちろんグロック26は取り上げられてました。リュックサックも見当たらず、装備はゼロ。いえ、ですがこの腰元の感触からして、まだ奥の手が残っているみたい。でもまだ使えません。あのバックミラーは明らかに、車外ではなくわたしを監視できるように位置が調節されているのですから。
今は意識がはっきりしないフリをして、機をうかがうべきでした。それに観察するだけでも意義はあります。
助手席の金髪ロン毛な若い男性については・・・・・・ひとまず置いておきましょう。それよりもわたしが気になったのは、いまだ一言すら発していない運転手の方です。
背中だけ見れば、なんとも無個性な人物像でした。中肉中背、どこへ行こうともその土地の人間であるかのように振る舞えれる
やや時代遅れ感のあるパナマ帽も、この男性にかかれば無個性の強調に一役買っているように感じられる。ですがよく見れば、襟元から覗く首筋はまるで日焼けしていません。それはこの土地に到着してまだ間もない証拠でした。ということは・・・・・・アメリカ人と見てまず間違いないでしょう。
わたしには、敵がたくさんいます。
カリ・カルテルは掌握したものの、その末端レベルでは割と恨みを買われてますし、アマルガムの残党などもそこに加えていいかもしれません。それに土地柄、身代金狙いのゲリラやギャングもそこら中にたくさん居ます。
ですがこの出来すぎたタイミングでの拉致は、どうしてもCIAという名を思い浮かべてしまう。いえ、観察し始めてまだ間もない。性急な結論は禁物でしょう。
対向車のヘッドライトがバックミラーに反射する。そのミラーの中でいつからか、監視カメラのような冷たい眼光が運転席から、ずっとこちらを見据えていたのです。
・・・・・・狸寝入りもありかと、思いかけていたのですが。そういうことならと居住まいを正す。
やはり観察は大事です。背格好だけなら無個性な人間。ですが鏡の中のその目は、どこまでも特徴的でした。運転手の瞳は――右が緑、左が青と、異なる色をしていたのですから。
虹彩異色症? 少し前、まったく同じ症状の老人と相対しましたが・・・・・・単なる偶然にしては出来すぎなようにも、この摩訶不思議な土地ならばあり得るのかと、同時に思ってしまうわたしがいました。
「しっかし」
カセットテープが上手く収まらないらしく、悪戦苦闘してる金髪の男性が言いました。
「あんた本当に面白みもない男だな? 軽口のひとつやふたつぐらい吐かねえとこの稼業、先が続かないぜ」
このコンビが仲良しでないのは明らかでした。むしろ険悪なムードすら漂っています。
実際、いきなり運転席から伸ばされた手に金髪の男性が身構えます。おそらく腰元の拳銃に手をやろうとしたのでしょうが、運転手の目的は別でした。カセットテープをあっさりデッキに飲み込ませ、律儀に再生ボタンまで押していったのです。
「・・・・・・こりゃどうも」
正体不明の男たちが操る車内にて、陽気な音楽が流れはじめます。曲名は、The Fugs作詞・作曲――“CIA MAN”。
ベッ
ベトナム戦争の真っ最中、反戦運動も宴もたけなわというタイミングで発表された風刺とユーモアが入りまじる軽妙な音楽を聞きながら、わたしは悩んでました。いやはやまったく・・・・・・何者なんでしょうねえこの男たちは、と。
*
【“ノル”――闇市】
「よし」
そう冷静そのものな声音で
「現場を封鎖しよう。出入り口に警官隊を配置して人の出入りを遮断。遺留品を調べ、聞き込みをして、犯人像を割り出し、近辺のパトカーに怪しい人物をだね――」
「そんなこと誰がやるのよ?」
「警察に決まってるだろう!!」
DEAは冷静だった。冷静なまま狂っていた。あんがい打たれ弱い奴なのか、責任感が暴走してるのかどちらかだろう。
「別に、気が済むのなら通報でもなんでもすればいいけど・・・・・・」
「僕だって馬鹿じゃない。いい加減、この土地のやり方は熟知してる。
僕が言ってもあれだから、君の口からこの闇市の上役に口利きしてくれないかい?」
「なんて?」
「お宅の管理してる闇市で失踪事件が起きた、これは問題じゃないかって」
「この闇市では、週に6人は行方不明になってる」
「ここは無法地帯かッ!!」
たまたま近くを通りがかった、いかにもゲリラらしい戦闘服を着込んだ男と制服姿の警官が、往来で叫びだすとは常識のない奴めという目をしてDEAを見つめたあと、そそくさと立ち去っていった。
「自分が仕留めたって上司に報告するために、カルテルから死体を買ってる警官がここにはごまんと居る。アイツらに勤労意欲を思い出させたいなら、よっぽどの大金で尻をひっ叩くしかないわよ」
「そんな危ないところに大佐殿を連れてきたのか君は」
「カルテルとCIAに真っ向から喧嘩を売った女。それだけでもこの市で一番の危険人物は明らかでしょうに。だいたい、まさか高度な軍事訓練を受けたプロがけいけいに持ち場を離れるとは思わなかったの」
「・・・・・・」
ぐうの音も出せずに、黙りこくるDEA。
いかんせん財布を握ってる張本人が誘拐されてしまったので、カネでどうこうという選択肢は俺たちにない。
だが雀の涙レベルのポケットマネーでも使いよう。俺はテッサが誘拐された場所から、もっとも近いところに店を構えていた店主のもとに近寄っていった。
「いらっしゃい」
「聞きたいことがあるんだけど」
「ゴリー=ゲレロの幻の試合映像が入荷したよ」
「そこにえらく目立つ、当人はアッシュブロンドだとかなんとか言ってたけど、傍目からはどう見ても銀髪でしかない小娘が立ってたでしょう?」
「よく目を凝らせば観客席に、いまはアメリカで活躍してるゲレロ兄弟の幼少期の姿が見えるよ」
どうしてこう、似たようなタイプばかりなのだろうか。みんなカネにがめつい。
「オススメは?」
呆れを隠さず俺はそう告げた。
「レイ=ミステリオ=シニアのサイン入りブロマイド」
値段からしてどうせ偽物だろうが、とにかく金を払って珍妙な土産物を手に入れる。途端、マスクマンな店主の口が柔らかくなる。
「最初は立ちくらみでも起こしたかと思ったんだが、すぐさま空のドラム缶を運搬機で引きずってきた男たちが、その缶のなかに銀髪のお嬢さんを押し込んでな。鮮やかな手並みだったよ」
「君は見てただけか!?」
おそらく世界の九割では通じるツッコミなんだろうが、いかんせんここは残りの1割に該当していた。天気の話でもしてるかのように、マスクマンの店主は言う。
「この闇市では週に10人は死んでる」
「治安最低じゃないかココ!!」
ギャングにゲリラにカルテルに汚職警官・・・・・・こんな連中を束ねて、表面だけでも平和を繕えているだけでも十分に及第点だということに、DEAはまだ思い至れていないらしい。
三つ子の魂百までも、裏ではいつもの流儀でバチバチなこの闇市では、当然のように賄賂も通用する。絶句してるDEAは捨て置き、今度は誰が書いたのかすら分からない自伝本を購入する。
「誘拐したのは、パナマ帽をかぶったターミーネーター並みに表情が死んでた
「情報どうも」
必要な情報はすべて手に入った。この闇市には2方向しか出口はなく、一方は街に通じていて、もう一方はジャングルだ。
「スーツを着ていたということは、ジャングル住まいのゲリラの線は消えわね」
ついでに言うとやり口が玄人すぎる。こうまで鮮やかな手並みは、FARCや
DEAと連れ立って、もときた道を逆にたどっていく。街に向かうなら車が必要だし、車なら駐車場だ。
だが、
「でも分からないわね。誘拐犯の正体はもう9割方判明してるけど、疑問なのはどうやってこっちの位置が突き止められたかよ。一本道って、この闇市の売りのひとつなのに」
「尾行されても気づきやすいからかい?」
「ついでに言えば、賄賂を受け取らないような、頭のおかしな警官からの襲撃も躱しやすい」
「・・・・・・そっちのほうが世界のスタンダードだと僕は信じたいけどね」
帰る客よりも入ってくる客のほうがずっと多く、その癖、迂回路もない。肩と肩がどうしても触れ合ってしまう人の波を逆進していくのは、ひどく骨が折れた。一体、小柄とはいえ女がまるまる1人収まってるドラム缶を抱えながら誘拐犯たちは、どうやってこの坑道をこちらに先じて渡りきったのやら。
「トラソルテオトルの停泊位置は知られてて当然。だから出発点はともかく、問題は道中よ。トラックを付け回してくる車なんてとうぜん見てないし・・・・・・」
「飛行機かな」
「翼照明灯も点けずに街のうえを飛べるわけがないじゃない」
かつてISAとかいう米国の特殊部隊が、民間機に偽装した
それからというもの俺のような職業についてる奴らは、ひどく空を気にするようになった。外出に夜を選んだのは別にこれが原因じゃないが、上空の監視はひどくしやすかったのは確かだ。
あくまで民間機という建前がある以上、連中だって航空法に違反することはできない。アメリカはいつだって人命優先を掲げてきた。翼照明灯を消しながら飛行すれば、最悪の場合だと空中衝突の危険性だってある。
「セスナ機なんて、トラックの真上には見えなかったわよ」
「UAVなら別だ」
あともうちょっとで出口、そんな時にまたけったいな単語を聞かされる。テッサと
「なによソレ? 新手の“はいてく”尾行手段とか?」
「当たらず言えど遠からずって、ところかな。UAVというのは、
テッサは説明したがりで、DEAは教えたがり。つまり微妙に違うように見えて実質おなじ存在なわけで、案の定、長ったらしい解説がはじまった。
「偵察衛星というのは便利なものでね、文字どおり宇宙には国境がないからノーリスクでいつでも好きな場所を偵察できる」
「なに? オレたち人工衛星に見張られてたわけ?」
「そこまで万能だったら偵察機の新規開発なんてされないさ。偵察衛星にはある致命的な欠点がある。
なにせ軌道上から地球を見下ろしてるわけだから、偵察地域に雲がかかってたらそれだけで無力化されてしまうのさ。気まぐれな天候には、誰も勝てないってね」
「アメリカ人お得意の“はいてく”でどうにかならなかったの?」
「ならなかったから雲の下を飛べるUAVの登場と相なったんだ。
既存の有人偵察機では、撃墜されたときにパイロットが拘束されてしまう政治的リスクがある。だけど無人機なら疲れ知らずで、パイロットの生命維持装置を取っ払ったぶんだけ燃料を積めるから滞空時間も長い」
「ようは飛行機ってことでしょ。ならトラックからでも――」
「見えやしないさ。
「ヤード・ポンド法は滅びるべきよ」
「君っていろいろと人間離れしてるけど、7千600m上空はさすがに見通せないだろう。そういう単位の話さ」
だからこんぴゅーたーはじめ、ハイテクは大嫌いなんだ。
テッサはこの土地が理不尽に満ちているというが、俺に言わせれば“てくのろじー”のほうがよほど恐ろしく思えてならない。何百万人を殺そうとも科学は、後悔も懺悔もしない。
「それなら説明がつくかもしれないけど、仮説としてはいま一歩って感じね。物理的に可能って以外に、納得のいく補足説明とかないわけ?」
「RQ-1E“プレデター”の開発を主導してるのは、空軍と――ご存知CIAなんだよ」
・・・・・・そういうことは、もっと早く言うべきだと思った。とはいえ、これは余談みたいなものだ。どうやって尾け回されていか解明したところで、それを活かせるのは次回の買い出しだろう。
淀んだ地下の空気から、土臭い地上の空気へと移りかわる。地上だ。そこにはありとあらゆる車が、砂利の敷かれた駐車場に停まっていた。まず駐車場の入り口に目をやるが、当然ながらスーツ姿の二人組が乗った車なんて都合よく見つけられたりやしない。
客層の幅が広すぎるから、スーツ姿というのもそこまで特徴的じゃなかった。目視では限界がある。
「どうする?」
下手に騒がないDEAは、状況のマズさをよく理解していた。CIAがどんな車を使ったにせよ、10tトラックよりはスピードが出るものに違いない。カーチェイスをしようにも分が悪すぎる。
「トラックに荷物を守ってる汚職警官が居るはずよ。そいつらに鼻薬を嗅がせて、白人でスーツ姿、そのうえドラム缶を車に詰め込んでから出ていった奴らについて尋ねて」
「そういうの、どちらかといえば君の専門分野の気がするけどね」
「任せたわよ」
「おい、どこに行く!?」
必要なものがあれば、現地で調達するのが常識だ。この闇市にはそれなりに愛着はあるが、こうなっては仕方がない。
「――生まれ持ってのバイカーなのよ、オレはね」
そう宣言を残してから向かう先は、駐車場の一角にバイクに跨りながらたむろしている不良集団だった。
砂利とハイヒールの相性の悪さは明らかだが、それでも傍目から見れば美人の体裁はちゃんと保てていたと思う。現に不良たちが互いに小突きあい、人の生足を舐めるように見つめてきた。
不良というのは不思議なもので、群れれば群れるほど意気がり、一人ひとりの個性が消えていく。正直、なんかいっぱい居ると認識はできるが個々人の容姿が頭に入ってこない。みんな似たりよったりだ。
「へへへ、なんだよネエチャン? 俺らに跨ってほしいのかよ?」
それが世界一のジョークであるかのように、一斉に不良たちがビール瓶片手に下卑た笑いを漏らしだす。なんというか、外観だけでなく言動までもステレオタイプすぎて、よほど頭を使わずに生活していると見た。
この不良たちへの対処法はひとつしかない。動物界とおなじく
いちばん手近な男に狙いを定める。
笑顔で近づき、腕を掴んで身体を宙に浮かせてやる。あえて見た目の派手な大技、一本背負いでバイク製の椅子から駐車場の砂利へと叩きつける。
それなりに痛むだろうが、この技は明らかに実戦を想定していない技術だ。プロレス技とおなじ、周りに驚かれるが死にはしない。とはいえ、いきなりの衝撃に地面へと転がされた不良は、肺の息をすべて吐きながら悶え苦しんでいたが。
大部分は驚愕に染まったまま硬直し、動きのいい幾人かがパンツに差しただけのピストルを抜こうとする。だがここでも俺のほうが早かった。すでに買ったばかりのベクターは、地面に転がったままの不良の鼻先に突きつけられている。
「お、おい。ここでブッ放せば、サツがすぐすっ飛んでくるぜ」
奴らが銃を抜くのが遅れたのは、このまっとうな指摘も一因だろう。駐車場でこんな大立ち回りを演じれば、中立地帯だからこそ儲けていられる闇市を守ろうと、汚職警官たちがすぐにでも駆けつけてくるに違いない。
だからこそ即座に銃を抜いたんだ。不良どもは今、俺だけでなく汚職警官とも揉め事を起こしかけている。この風体からして嬉しい展開じゃないだろう。
これで俺の闇市への出入り禁止は確実。だが今すべきは、バイクを盗まれる程度でそれを回避できるなら安いものだと、不良たちに信じ込まさせることだった。
「取引をしましょう」
あえて超然と言い放つ。この場の支配者が俺であるかのように。
「なに、そう難しいものじゃないわ。誰だって厄介事は避けたい――」
その時だった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁあァァあぁァァァァァァッッッ!! このアマ、マジで撃ちやがったッっっっ!!」
銃声とともに地面から悲鳴が聞こえてきたのは。
車のバックファイアとでも思われたのか、駐車場全体がいきなり騒然となったりはしなかったが、とりあえず俺の顔面から血の気は引いていた。
正直、不良がどうこうより誤射したという事実のほうがショックだった。DEAと接するようになって知ったのは、銃火器を扱ってる組織というのはどこも、ひどく誤射を気にするということだった。
引き金に指を添えるな!! 軍も犯罪組織も民間人だって、ちゃんと訓練を受けた連中はまずそう叩き込まれる。そうだとも・・・・・・実際、俺だってずっとこのルールをキチンと守ってきた。
頭をかしげて、ベクターを見てみた。やはり指は引き金に添えられてすらいない。なのにどうしてか血まみれの不良が砂利のうえでのたうち回り、ベクターの銃口からは硝煙がたなびいている――うん?
「どうして君ってば、暴力でしか物事を解決できないんだ!!」
10tトラックでこちらに横付けしてきた
「この件だけは・・・・・・言い訳させてちょうだい」
「そこで腹から血を流してるのはなんだ!? 特殊効果だとでも言うつもりか!?」
「この銃、引き金とか関係なしに勝手に弾が出る」
「捨てちまえそんなものッ!!」
信じられない、これほどDEAの意見がもっとだと感じられる瞬間が訪れるとは・・・・・・欠陥銃にもほどがある。
「それは、俺だってまさかこんなのだとは――」
「うぎゃゃゃぁぁぁァァーッ!!!!!」
直後、9mm弾の破裂音につづいて別の悲鳴がとどろいて、もしかしたら人生ではじめて俺は青ざめていた。
なんの気なしに下向きに保持していたピストルの引き金には、サンタ・ムエルテに誓って文字どおり指一本触れていない。なのに、さっき撃たれたばかりの不良がまたしても叫ぶ。
「また撃った!! またオレを撃ちやがった!! ぎゃーーーーーー!!」
たぶん聞こえてないだろうが、それでも言わずにいられなかった。
「・・・・・・ごめん」
やはりこちらの誠意のこもった謝罪なんて撃たれた男はもちろん、不良たちはまるで聞いていなかった。誰ともなく不良たちが叫ぶ。
「このクソアマに皆殺しにされちまう!!」
状況だけ見たらそう捉えられても仕方がないのが辛い。むしろ逆に慌ててベクターからマガジンを外し、薬室の弾丸を抜いているところなのだが、逃げるのに必死な不良たちは気づきもしない。
バイクで急加速するもの、あるいは愛車を捨ててまで駆け出していくもの。初対面の頃の余裕はどこへやら? こういう、ちょっとでも優位を崩されるとすぐ集合離散していくのもチンピラの生態というものだろう。
どうにも、俺もテッサにだいぶ感化されてきたらしい。学者みたいな考え方だったた。
「マズイ」
言いながらDEAはトラックの窓から頭をつきだし、不良たちに涙ながら被害を訴えかけられている汚職警官たちという、ここではありふれてるが所によっては奇妙な光景を眺めていた。
死んでこそいないが、さすがに2人も売ったらどうしようもない。トイレのときとは違う、正当防衛はとてもじゃないが通用しないだろう。もう二度とここの敷居はまたげないな・・・・・・あの不良老人に返品する機会も逸してしまった。
乗り手が闘争したことで横倒しになっている手近なバイクに飛びつき、すぐ起こす。70年代には最新鋭だったろうが、今となってはレトロ感漂うノートンコマンド850は、不良どもからそれなりに愛情を受けていたようだ。かかりっぱなしのエンジンが快調に吠えている。
バイクに跨った俺にDEAが、頭上の運転席からモノを放ってよこした。
「周波数はいつもどおり、141.12だ」
キャッチした無線機をそのまま、ノートンのハンドルに修繕用だろうダクトテープでくくりつけていく。音量を上げれば、走行中でもちゃんと聞こえるだろう。
「僕はこのままトラックで背後から追う。誘導よろしく」
わざとトラックを吹かして、近づいてくる警官どもを牽制するDEA。カーレーサー志願だけあってか、トラックといえど四輪の扱いには長じているらしい。
「いい加減、地図ぐらい頭に入れたらどう」
「細い横道ばかり、ものによっては数百年ものの町並みなんだぞ? 地元の人間以外は理解できるもんか」
「あっ、他にも必要なものがあるわ」
「なんだい?」
「・・・・・・ピストル貸して」
「帰ったら君のそれ、南太平洋に放り捨てるからな」
答えはNOらしい・・・・・・致し方ないか。ベクターのマガジンを入れ直すが、薬室には弾を込めない。そうすれば構造的に暴発は起こり得ない。
そもそも俺の慣れ親しんだロシア流は、撃つ瞬間にスライドを引ききるのが基本だ。少々トリッキーだが、全自動暴発装置をこれからしばし使うしかないのだ。諦めるしかないだろう。
こっちの人員は2名。特殊部隊あがりにして元捜査官の無職と、死に場所を見失ったままどうしてか今日まで生きながらえてるシカリオ風情。追跡に使うのは、荷物満載の鈍足な10tトラックと、破滅的な人格の持ち主がおおいわりに物持ちがいい土地柄を反映して、クラシックなバイク。
CIAとカーチェイスを繰り広げて女ひとりを奪還するには、あまりに貧相な陣容だった。いつものことだ。
駐車場で叫び声をあげている無数の人々。そういった喧騒に背を向けて俺は、駐車場の端を目指してバイクを急加速させた。後輪が煙のかわりに砂利を撒き散らし、事態がよく飲み込めていないがとりあえず俺を制止しようとしてくる警官たちに、盛大に土煙を浴びせていく。
素直に、相手がたどった道を追いかけても無駄だ。ショートカットするしかない。それはどういうことかといえば、すなわちバイクの走破性を活かして、ジャングルの道なき道を突きすすむしかテッサに追いつける術はない。
助走をつけて、ほとんど腐っているフェンスを突き破る。その先はかんぜんなる闇だった。
どこもかしこも起伏だらけ。バイクがガタガタ揺れ、蛇行しながら天井を覆っているジャングルの巨木を避け、泥を跳ね上げる。
まさかモトクロス競技をやらかす羽目になるとは・・・・・・だが無茶したかいあって、木々の間から漏れてくる眼下の町並みは、ぐんぐんこちらに近づいてきた。
*
【“船長”――駐車場】
頭を振りながらなんとか坑道を駆け上がる。なんてことだ!! 正義は俺にあるのに、最後の部下はおっ死んで、残ったものといえば空っぽの財布と後頭部の痛みだけとは!!
大慌てて外に出てみると、すでに駐車場は騒ぎに染まりきってやがった。人の船を爆破しただけでは飽き足らず、この駐車場でも奴らは騒動を撒き散らしていたらしい。
「だから向こうがいきなり撃ってきたんだよ!!」
「どうせお前らが挑発したからだろう、また騒ぎばかり起こしやがって」
Tシャツ姿の薄着な若造たち、いかにも南米らしいチンピラたちにこの闇市の管理人だろう警官たちが絡まれていた。
「この市場で揉めごとが起きたら、あんたらがどうにかするんじゃなかったのかよッ!!」
つばを飛ばして詰め寄る不良に、警官たちは渋い対応をする。
「闇市の中ならな。おい? いきなり撃ち出したとかいうチャイナドレスの女はどこにいる? 見当たらないが?」
「追いかけろよ!!」
「犯人の逮捕は、オプション料金だ」
「はぁッ!?」
「一晩ぐらい牢屋に閉じ込めておくだけなら格安で済むが、そこから実刑判決だとか、正当防衛でやむなく犯人を射殺とかに持ち込みたいなら、さらに追加で料金がかかる。払えるのかお前らに?」
「この
「てめえなんつった? おい、誰かビニール袋をもってこい!! この
「あっ、いやすいません・・・・・・言い過ぎました」
ひと目でわかる力関係、そういった狂騒劇の横では、なにかに突き破られた意味深フェンスが見えた。
「ぎゃーーーーーー!!!!」
鋭敏なる俺の頭脳がなにか結論をはじき出そうとした瞬間、みっともない悲鳴が邪魔をしてきた。血まみれだが、見た目のわりに元気そうな不良が地面をのたうち回って、我が身の不幸を嘆いていた。
フン、本来ならあんなチンピラごとき気にもならない。そこらで勝手に野垂れ死ねばいい。だいたい、この場でいちばん同情されるべきはどう考えたって俺なのだ。
だが負傷者を取り巻いている不良たちの会話には、興味を惹かれた。
「あのクソアマッ!! 絶対に許さねえからなッ!!」
仲間をやられ、警官たちからの塩対応にバイクに跨っている不良たちは憤っていた。ほうぼうに散っていた仲間たちを集めたのか、その頭数だけは相当なものになりつつあり、誰もが足の早そうなバイクと――サブマシンガンを装備している。
・・・・・・
カネはない。銀行口座を差し押さえられ、異国の地でひとりきり。だがな、俺にはクルーたちから絶大な信頼を寄せられてきた、圧倒的なリーダーシップというものがある。
見てろよ、かならず仇は取ってやるからな。あーーーーー、ミニーと、その他大勢の下働きどもめ。お前らの価値なんて皆無に等しいが、俺の船の備品としては、ちゃんと価値があった。
そうだとも、コロンビアの冷たい海で安らかに眠れ・・・・・・特注の高級舵輪よ。お前のチーク材の手触りは、俺の心をいつだって癒やしてくれたものだ。
一文無しでもやり方次第では、兵隊をかき集めるぐらいはできる。すでに口上は考えついていた。頭に血がのぼったチンピラほど、乗せやすいものもない。
*
【“テッサ”――車内】
まず異変に気づいたのは、運転手を務めていたパナマ帽の男でした。いきなり給油ランプがチカチカ点滅しだしたのです。
「おいおい、
呆れたように言い放つ金髪の男性の発言に、ついにパナマ帽の男が口を開きました。
「車の点検は、貴様の仕事だったはずだ」
「おっと、なんだよ口が利けたのか? そいつは惜しいことしたな―、もっと早くコミュニケーションに興味を持っとけば、こんなしょぼいミスを犯さなくて済んだのに。なあ、そうだろう? 隊長さんよう?」
ギスギスした空気にはとうに気がついてました。しかし当人が言うのもなんですが、あの鮮やかな誘拐の手並みからして、彼らはチームワークの不調を己の練度で補っているみたい。隙きがまったくありません。
すでに車両は入り組んだ山道を抜けて、オレンジ色の街灯が輝いている市街地に侵入してました。道を選べるようになった途端、完ぺきな
ですがどんなプロであっても、ガソリンを無からガソリンを生み出すことなんてできません。自然、車はガソリンスタンドに立ち寄ることになりました。
あまり治安のよろしくないコロンビアですが、昼夜を問わずに荷を運んでいるトラックドライバーから需要があるのか、その24時間営業の商店併設型のガソリンスタンドの看板は、まばゆい光をあたりに放っています。
基本的にセルフ方式であるらしく、給油口にノズルを差し込むのは車の持ち主の仕事。それからレジでお金を支払い、ガソリンの元栓を店側に開けてもらう必要があります。
ということは、どちらかが車から離れなくてはいけないのですが。
「点検ミスを疑ってんなら、その当事者に行かせるなよな」
そんなある種の開き直りによって、自然と役割分担が決まりました。あいも変わらず無言にして、無表情という、ロボットじみたパナマ帽の男がドアを開け放ち、車外へと出ました。
ですがガソリンスタンドに入る前に、まずこちらに振り返る。
「シートベルトをしろ」
とりあえず、ずっと大人しくしていたわたしは、これまで命令なんて一切されませんでした。小娘ごときと侮られているのかもしれません。
ですがこの命令、交通安全を考えてでないのは明白でしょう。
「それは、わたしが咄嗟に逃げだそうとしたときに足枷になるよう、シートベルトをしておけという意味ですか? それとも第三者から自然に見えるようにかしら」
「・・・・・・」
静かな、有無をいわさぬ圧力を、色が異なる双眸から感じとる。
ここで意地を張ったところで、得られるのは自分のプライドだけでしょう。どのみち走って逃げだすなんて考えられません。ノルさんたちが追いつくまで時間を稼ぐのが、変わらぬわたしの方針なのですから。
戦術的に考えるべきでした。ため息まじりに、要望どおりにシートベルトをつける。
すると運転席から大きな手が伸ばされ、わたしがちゃんとロックしたかどうか確認。つづいて取り出されたプラスチック製の手錠で、ドアの取っ手に片手を繋ぎ止められてしまう。
こんなことしなくても、徒競走でこの男たちに勝てる自信なんてまったくないのですが。
すると、なにか直感に導かれでもしたのか色違いの双眸がわたしのワンピースのポケットにある、不自然な膨らみを睨みつけました。我関せずを貫いている金髪の男性を一瞬、見やったあたり、
なんにでも備えておくものです。ワンピースの隠しポケットに収められた携帯電話だけでなく、わたしはいくつも緊急事態に備えた対策を講じていました。
「セクハラで疑われたくなくてな」
悪びれない金髪の男性が肩をすくめる。
「俺って紳士なんだ」
その返答をどう捉えたにせよ、パナマ帽の男がやることはひとつでした。プライバシーなんて無視して、無造作にわたしのポケットを漁りだす。そこにはわたしの気持ちを慮る態度はまるで見受けられない。
しばし不快感に耐えると、相手はお目当てのものを探り当てたようです――赤い衣を羽織った手乗りサンタ・ムエルテを。
隠された携帯電話のうえに収まる形となっていた小像を手にして、しげしげ眺めだすパナマ帽の男。この男性、どうにも人物像が見えてきません。
行動に迷いがなく、確固たる意思のもと行動しているようで、その基準が見えてこないのです。ロボットという印象を抱いてしまう理由はその辺りにあるのであって、べつに無表情が原因でない気がしてくる。
現に、ああまで無作法に探ったくせして手乗りサンタ・ムエルテの返却の仕方ときたら、ひどく丁寧にわたしのポケットに戻していくのです。どうにもならないチグハグなキャラクターを、このCIAの工作員から感じてしまう。
それともこれは考えすぎで、単に宗教について理解があるタイプ、なのかしら?
「見張っていろ」
「ついでに菓子も頼むぜ? 小腹が減ってきた」
たぶん叶えられなさそうな願いを聞いてから、ガソリンスタンドへと消えていくパナマ帽の男。
かくして車内にはわたしと、既婚者なのか、ニューヨークの宝石店を3日間にわたって探しまわり最終的にシンプルが一番いいよねと選ばれたオーソドックスな結婚指輪をした金髪の男性だけが残されました。
「大丈夫だ、盗聴器はない」
バックミラーに越しにそう告げられて、なるほど、そういうことならばと肺いっぱいに空気を溜めてから、わたしは言い放ちました。
「こんなところで何をしてるんですかウェーバーさん!!」
これでも声は抑えたほうなんですが、それでも言葉に込められた怒気はちゃんと伝わったらしく。メリッサの旦那さんであり、かつてわたしの部下にして西太平洋戦隊きっての名スナイパーはぎくりと肩を震わせる。
「い、いようテッサ・・・・・・お久さ」
この発言からしても、他人の空似では通らないでしょう。そんなのテオフィラさんだけで十分です。
「
「あー、言いづらいだけどさ。あんまり時間ないことに気づいてる?」
わたしはコンビニの方をうかがいました。物々しい防犯用の鉄格子のせいで店内の様子はうかがえませんが、あのCIAマンがいつ店内から出てくるか、しれたものじゃありませんから。
「確かにそうかもしれませんね・・・・・・」
「だろ?」
「分かりました、では手短に――
いつぞやには離婚事件なんかもありましたが、基本的にあれって冗談みたいなものだとわたしは理解してました。
基本的に夫婦仲は良好。とりわけウェーバーさんの親バカぶりときたら見てて恥ずかしく、ときには痛々しいレベルでしたから、最近の長期にわたって家を明けている理由は不明なものの、よほどの理由があるのだろうと察してはいたのです。
わたしよりずっと気にしている筈のメリッサが我関せずを貫いてるのは、夫婦以前になんども生死をともにしてきた戦友同士の、無言の信頼関係であろうとも。
だからこそわたしもあえて聞かずにおいたのですが、こうなれば話は別です。
「いつからCIAの手先になったんですかウェーバーさん!!」
「別に手先になってないし!! 大体だな、それを言い出すならテッサこそどうなんだよ!! なにをどうしたら隠居老人みたいな生活から一変、国際指名手配犯なんかになれるんだよ!!」
「国際指名手配?!」
「ああ!!」
そうきましたかと呟きたくなる。インターポールの構造欠陥を利用して人に濡れ衣を着せるとは、本当にコッファー=ホワイトという人物の悪知恵は侮れません。
「ちなみにですけど、それってわたしの名義でですか?」
とはいえ私人としてのわたしのキャリアは、清廉潔白そのもの。表向きにはシミひとつありませんから、適当に罪状をでっち上げるのはそれなりに大変でしょうに。するとウェーバーさんが神妙な顔を作られます。
「・・・・・・なあテッサ、テオフィラ=モンドラゴンってさ」
「実在してるらしいです」
もう皆まで言わなくとも十分でした。そうですか、またですか。
「そっか・・・・・・なあ実は三つ子で、生き別れの姉だが妹だとかが居るとかの線は――」
「ウェーバーさん、もしかして話を逸らそうとしてます?」
昨日の友が今日の敵、そういう塩梅でもありません。ウェーバーさんはわたしの誘拐に加担こそしたものの、隠そうともしない態度からして乗り気でないのは明らかです。
「誰かさんのように、わたしをテオフィラさんだと信じてるようでもないですし、事情がさっぱり見えてきません」
「誰かさんて誰だよ」
「たまたまわたしをそっくりさんな麻薬王の奥方と間違え、身代金目的に誘拐した人身売買の被害者である凄腕の元シカリオの少年にして、かつ美顔を鼻にかけてる女装癖の変態にです」
「・・・・・・まあ色々と引っかかるとこあるけどさ。もしかして、その人身売買ってのがCIAから恨まれてる理由だったりする?」
「ええ」
「どうりで」
独りごちたウェーバーさんはそれから、考え込むように顎に手を当てました。
多くを語らずとも、これまで培った人間関係というものがわたしたちの間にはあります。迷惑な居候ではなくて、願わくば友人であるとウェーバーさんから思われていると信じたいところなのですが。
「CIAを敵に回してまで肩入れしてる相手って、その女装癖の少年とかいう奴だけなのか?」
「いいえ。ぜんぶで12人の少年少女たちです」
「動機は、個人的な信念ってやつなんだな。テッサらしいちゃ、らしいけどな」
「それはウェーバーさんもでしょう?」
軽薄に見えて・・・・・・いえそういった側面もたぶんにあるのですが、クルツ=ウェーバーという人物の根っこは、義理堅いのです。
友情とお金のどちらを取るかと問われたら、表面では軽口を叩きつつも、絶対にお金を選ぶタイプの人なのですから。そうでなければ、ミスリルから支払われた膨大なギャラをことごとく、ラナさんの治療に費やしたりしないでしょう。
「・・・・・・ま、お察しのとおりCIAに再就職したわけじゃねえさ。むしろここ最近は、ずっと無給でこき使われてる」
「過去にCIAとなにが?」
ミスリルに入る以前は、ずっと世界各地で転戦しながら傭兵生活。そういうウェーバーさんの経歴を鑑みれば、なにかの拍子でCIAと接触することも十分にありうるでしょう。
「まあ、当たらずとも遠からずってね。CIA自身にはなんの義理も借りもねえさ。
だけどな、あそこで働いているとあるオッサンに俺は、一生頭が上がらねえって・・・・・・そう、思ってたんだけどな」
「まさか・・・・・・ウェーバーさんあなた、コッファー=ホワイトと知り合いだったんですか?」
その気まずげな沈黙は、百の言葉よりもずっと雄弁でした。
「ホワイトのおっさんは、変な奴だったよ。護衛として雇われた俺たちに片っぱしから名刺をばら撒いてこう言うんだ、“密告したくなったら電話してくれ”って。それか、“うまく夜眠れなくなったら、いつでもミネソタの畜産農家の知恵を教えてあげよう”てな。
自分がCIAの人間だって堂々と名乗るだけでも異常だし、あの能天気さは天性のものだろうな。なんてーか、話してると毒気が抜けちまうんだ」
不思議とウェーバーさんのその人物評は、お昼の会話と重なる部分がありました。
人間というのは、どれほど多面的なのでしょうか? 実の子のように子どもたちを愛しながら、彼彼女たちを殺すことにまるで戸惑いを覚えない女性だって、かつてこの世に存在したのですから、コッファー=ホワイトの二面性について驚くに値しないのかもしれませんけど。
兄だって、世界に憎しみをばら撒くだけの人ではなかったと、わたしはそう記憶しているのですから。
「ですが、そういう縁があったとしても無給でなんて――」
おかしい。そんなわたしの言葉は、ウェーバーさんの重苦しい語り口に覆い隠されてしまった。
「ラナが怪我した経緯、前に話したよな?」
それは、ウェーバーさんがミスリルに入る直前の出来事だったそうです。
テロによって家族を失い、その復讐のために傭兵へと身を投じたというウェーバーさんは、ついに憎き復讐相手をスコープの照準に収めることに成功する。ですがターゲットと重なるようにして、今よりもずっと幼いラナさんがその場に居合わせていた。
「俺が撃ったわけじゃない」
台詞とは裏腹に、バックミラーに映りこむその表情には、悔恨の念しか見られない。
「カスパーの野郎が勝手にやったことだ・・・・・・そう言い訳したって、テメエの身勝手に巻き込まれちまった孤児が消えるわけじゃねえ」
「ですが、今のラナさんはとっても元気だわ。ずっとウェーバーさんが治療費を払っていたから」
「テッサ、合理的に考えてみてくれ。なんの後ろ盾もねえ傭兵が、まともに医療インフラの整ってない土地で、血の繋がりもない今にも死にそうな子どもになにがしてやれるんだ?」
ホワイトのおっさん、名刺、ラナさん、遠い異国、これまで出てきたキーワードを繋げれば、答えはおのずから見えてくる。
「じゃあラナさんの治療の手配をしたのって」
「話が早いのは助かるけどよ、そうも飲み込みがいいのはやっぱ、オツムの違いを見せつけられてる気分になるよな」
それがウェーバーさんなりの正解への賛辞であったようです。
「正直、繋がるとすら思ってなかったさ。だいたい、相手にどんな利点がある?
使いみちがねえから銀行口座に小金を溜め込んでちゃいたが、逆にいえばただそれだけの若造ごときに、天下のCIAが借りを作ったところで仕方がねえ・・・・・・だけどな、電話してからほんの30分後、俺とラナは米軍の輸送機に揺られてテルアビブの医療施設に向かってた」
まあ流石に入院費はこっちもちだったけどな、そうウェーバーさんが言葉をつなげられる。
「外国人が身元引受人になる方法は? 手術、入院、その他もろもろの手配はどうやってやる? 俺はその方法を今だに知らねえが、ともかくホワイトのおっさんはすべてをあっさりやってのけた」
「・・・・・・それを盾に、わたしを誘拐するように脅されたんですか?」
「はぁ?」
本気の驚きから一転、ウェーバーさんが考え込む顔をする。
「あっ、いやそうか。誘拐されたテッサの側から見りゃそりゃあ、そういう解釈になるわな。
だけど外れだぜ。俺がCIAの仕事をしてるのは、こっちから頼み込んだんだ」
「どうしてまた」
「結婚したからだよ。これからまっとうに生きようって矢先に、そういやホワイトのおっさんに返しきれない借りがあったなって思い出して、こっちから頼み込んだんだよ。どこぞの独裁者を暗殺するとか、そういうヤバい仕事以外の方法でこっちの借りを返したいってな。
ずいぶん身勝手なお願いだったが、あのおっさんの人使いの荒さときたら・・・・・・南米中を駆けずり回って、意味があるんだかないんだが、よく分からないツマらねえが安全な仕事をずいぶんこなしたもんさ」
それがどうやらウェーバーさんの放浪の理由だったようです。
気づかぬ間にメリッサにクララちゃんといった家族を人質にされて致し方なく、そういう展開でなかったことにわたしは、胸を撫で下ろしてました。
でもそうですよね、時間的に無茶があります。メリッサと話したのはつい数時間前のこと。あれからメリッサたちを拘束して交渉材料に使うのは、まず不可能でしょう。
そもそもウェーバーさんが姿を消したのは、わたしがノルさんたちと出会う前なんですから。
「これもまた6次の隔たり。偶然が生みだした必然、というものなのかしら・・・・・・」
なんだそりゃ、そんな目線を感じましたが、どうせこれは独り言の延長線上。あえて答えずにいると、ウェーバーさんは別の話題をはじめました。
「かすかに指名手配されてんのが俺の知り合いの艦長さんでなく、ホワイトのおっさんが説明したとおりにテオフィラなんちゃらって可能性が、ありはしたからな。
だからこそこれまで、いいだくだくと従ってきたわけだが」
ウェーバーさんがいきなり頭を掻きだしました。まさか本当に痒かったわけじゃないでしょう。
わたしにとってコッファー=ホワイトは、トラソルテオトルにおける非道な出来事の共犯者にすぎません。ですが借りだけでなく個人的な親交もあったに違いないウェーバーさんにとって、今はきっと板挟みの状況に違いありません。
恩義か、はたまた友情か。
お金を提示されるよりずっと、ウェーバーさんの性格的に辛いものであったに違いありません。それでもどちらかを選ばざるおえない。だから彼は選んだのです。
「で? 俺はいつホワイトのおっさんを裏切ればいい?」
わたしの側を。
「・・・・・・すみません」
「なにがだよ。誰もかれも満足できるエンディングなんて、この世にないだろ」
「頭では分かってはいるんです。でも、どうしてもやるせなさは感じてしまうわ」
「あのなテッサ、優しさも度が過ぎると自分の首を絞めることになるぜ? 住んでるアパートが一緒なんだから、俺とテッサの関係について感づいてて当たり前だぜ」
「それなのにあえてウェーバーさんを誘拐犯に選んだのは、わたしに対する人質として利用するつもりね」
バックミラー越しにウェーバーさんが頷きました。
「裏切られた相手にまで義理立てするほど、俺は人間できてないからなぁ。それにどう考えたって、悪辣非道なCIAより美少女艦長さんのほうが味方しがいがあるしな」
冗談めかしたらしい答えにホッとするとともに、指揮官としての冷徹な面が飛びだしてくる。
「でも分からないわ。ウェーバーさんほどの高度な訓練を受けたプロを野放しにしたままなんて」
「まあそりゃそうだ。いきなり気絶させてどこぞに拉致監禁、そこから交渉材料に使うほうが合理的ってもんなのに」
チラッと、ウェーバーさんはガソリンスタンドの方を見ました。買い物が奇妙なまで長引いている相棒を気にしてのことでしょう。
思いついた順に、わたしはいくつか可能性を述べてみる。
「いざとなった時に制圧できる自信があるのか」
「だとしたらお笑い草だぜ。あんな仏頂面のサイボーグ人間1人だけってのは、見くびられたもんだな」
「――あるいは、別働隊がいるのか」
CIAが送り込んできた刺客が2人だけというのは、いかにも少なすぎでしょう。ましてやそのうち片方はウェーバーさんなのです。
これで裏切りのリスク以前に、わたしとウェーバーさんの人間関係に気づいてないとしたら、どうコッファー=ホワイトの能力を評価すべきなのかわからなくなってしまう。
ただの大ポカとは、信じがたい。ならウェーバーさん1人ではどうにもならない大規模な別働隊が控えているという方が、より合理的な発想でしょう。
ウェーバーさんはしばし考え込み、それから言われました。
「テッサならもちろん承知だろうが、俺は下っ端だからな。細かい作戦の詳細については知らされてない」
「
「おうとも。もしかしたら二重三重にチームが派遣されてるかもしれねえが、少なくとも俺の観測した範囲には入っちゃいないな。
こっちに気づかれずに監視できるほどの手練なのか、それとも単にまだ到着してないかのどっちかだな」
なにせ相手は世界最大の諜報機関。手の内は、そう簡単には見破れませんか。
「なあこういう細々とした話は、後回しにしてもよくないか?」
ウェーバーさんは先ほどよりもずっと、ガソリンスタンドの方角を気にしてました。ウェーバーさんの相棒兼監視役の帰りは、もはや遅すぎるぐらいでした。
「ぶっちゃけこのまま車出してさ、一緒に逃げるのが一番安全だぜ」
「たぶんわたしの仲間が追いかけてきてると思うんですけど」
「それなら尚更だぜ。向こうはこっちの事情なんて知りしやしないだろうから、即座に攻撃されても驚かないぜ。ポケットに携帯電話、隠してるんだろ?」
手乗りサンタ・ムエルテの下敷きになっている、マリルーちゃんに頼んで縫ってもらった二重ポケットをわたしは意識しました。こんな事もあろうかと、こう言えないときに人は敗北するのです。
「とりあえず逃げて、それからその電話で連絡すりゃあいい。あの・・・・・・そうだそうだ、そういやずっと気になってたんだ!!」
「なんですか藪から棒に」
「いやだってさ。人見知りはしねえけど、ことさら社交的ってわけじゃないテッサがだぜ? ああもよく分からない面子とよくつるんでいられるなって、尾けてるときにずっと思ってたんだよな。
謎のチャイナ美人に、これまて謎の東洋人だぜ?」
「謎の東洋人って・・・・・・まさかヤンさんのことですか?」
「ヤン?」
わたしにとっては元部下、そしてウェーバーさんからすれば同じSRT隊員として肩を並べて戦った間柄、知らないはずがないのですが、今のヤンという名前の発音の仕方ときたら、まるで他人を呼ぶようでした。
「ヤンってのは・・・・・・」
「ヤン=ジュンギュ。コールサインはウルズ9で、認識番号はB-3120の――あのヤンさんですよ」
「・・・・・・」
深い困惑が、ウェーバーさんの顔を支配していく。
「いや嘘だろ・・・・・・あんな目が隈だらけで、痩せこけてて、生気の欠片もねえ男がヤンのはずがねえ」
まったくもって言いたい放題でしたが、ちょっと同意できる点もあって困ってしまう。そばで変化を見守ってきたわたしはいわば、徐々に温度をあげられて慣らされてしまったカエルのようなもの。
対してウェーバーさんの記憶にあるヤンさんは、3年前からまるで変わってないのでしょう。ですが人生というやつはたった1日で激変しうるものだと、我が身が証明してました。
「な、なあアイツ・・・・・・もしかして大きな病気とか、そういうのを患ってるんじゃないのか?」
元同僚にして旧友の身を、ウェーバーさんは本気で案じてました。冷静になりますと、とんだ勘違いだと言い切れない容姿をヤンさんはしてた気がする・・・・・・。
「いえ身体面は絶好調なんです。ただちょっと、その精神面にいろいろと問題を抱えてまして」
「あんな歩く死体みたいになるレベルの精神的不調って、それはそれでヤバいって――だから俺は言ってやったわけだ!! チャーリーは波に乗らねえってな!!」
いきなりの話題の急転回に驚きましたが、すぐさま理由を理解する。
運転席側のドアが開け放たれ、まずビニール袋がダッシュボードに丁寧に置かれる。つづいて帽子がぶつからぬよう手で抑えながら、パナマ帽の男が戻ってきました。
「遅かったな、ていうか」
軽薄なCIA工作員という役柄をウェーバーさんは完璧に演じきっていました。さっきまでの親しみある態度が嘘であるかのよう。
そんな彼がダッシュボードからビニール袋を拾い上げ、中身を確かめていました。
「あんた意外と律儀な奴だよな」
ここからでも見えるスニッカーズの包装紙。菓子を買ってこいなんて、さして親しくない間柄で言われようものなら嫌悪感しか湧いてこないでしょうに、なのにあのビニール袋には確かにお菓子がたくさん詰め込まれてる。それで帰りが遅くなった?
ウェーバーさんの意志を確かめた今、危険視すべきはこのパナマ帽の男だけでした。
人質説が事実ならば、この人物はよほどCIAから信用を得ているに違いない。いいえ、コッファー=ホワイトからの個人的信頼というほうが適切かしら?
CIA内部の一部流派による暴走。トラソルテオトルの裏にはそういった事情がある以上、外部の人間は使いづらいはず。彼もまた内部の関係者とみるのが自然でしょうか。そうでなければ扱いづらいくて仕方ないでしょうし、そもそも信用できるはずがない。
車のエンジンが掛けられる、滞りなくガソリンは満杯になったみたい。
まず事情を知ることを優先してしまったのは、果たして吉とでるか凶とでるか。もしウェーバーさんが何らかの事情で脅迫されていたら、とりあえず逃げてくださいと言うわけにもいきませんし、仕方ない側面はある。
ですが情報が出揃った今ならば、さっさとデ・ダナンⅡに向かうべきだったと断言できる。戻ってきてしまった以上、なんらかの手段でパナマ帽の男を排除しなければならないわけですから。
「ところでこの娘の引き渡し地点ってどこだったけ? 悪いなど忘れしちまってよ」
「・・・・・・」
エンジンを掛け、バックミラーを調節してと、型どおりの運転の準備に忙しいパナマ帽の男は、ウェーバーさんを無視してるという相手にしていない感じ。
「大使館じゃないてのは、印象に残ってるんだけどよ」
大使館ではない?
指名手配をしてみたり、ある程度は法的根拠をでっち上げてみせたようですが、流石に拉致したわたしをそのまま大使館に連行してとまではいかないようです。そこまでアメリカ政府のインフラに頼れませんか。
ではどこに連れて行くつもりなのかしら? まさかこのまま車に乗って、南米から中米を経て、北米に至るなんて長旅を敢行したりはしないでしょう。こんなトリオで、そんな旅ごめんです。
どこかで飛行機になり船なりに連れ込むか、あるいは現地の安全な場所で、“クレイドル”のデータをどこに隠したのか聞き出すつもりなのか。
「すべてのことに
「いきなりなに言ってやがんだ?」
寡黙なパナマ帽の男にしては、長めな台詞。その声音はどうしてか、聖職者のそれをわたしに連想させました。
「人殺しは好きか?」
そこでやっとわたしは、語りかけられている対象が自分であると気がついたのです。
「・・・・・・好きだと、答えるとでも?」
わたしの解答にとくに興味なさげに、パナマ帽の男は眉ひとつ動かしません。
「誰もがそう言う。
あのスタジアムで死屍累々に積み重ねられた死体の山。その光景が一瞬、フラッシュバックしました。
「おい。そいつは仕事と関係のある話なのかよ」
見かねたのか、ウェーバーさんが横合いから会話に割り込もうとしますが、バックミラー越しにこちらを睨みつけたまま、あの色違いの双眸は微動だにしない。
「殺人は忌むべき行為だ。だがハリウッドを見てみろ、あれこそ人の欲望のバラメーターにほかならない――正義の名のもとの暴力に勝る快楽が、この世にあるのか?」
そう言いのけてからパナマ帽の男は、後部座席に向けて長く太い腕をのばしてきたのです。
「携帯電話を」
まさか気がついていた? なのにわざと見逃していた?
「それは・・・・・・あなた自身の手でついさっき調べたはずよ」
あえて見逃した理由について、どうしても合理的なものが思いつかなかったわたしは咄嗟にそう答えました。
「電話を」
変わらぬ要求、せめて意図さえ読めれば対策を立てられるのに。どうにも迷いが生じてしまう。知らぬ存ぜぬを貫くか、諦めて渡すか。
ウェーバーさんは盗聴器はないと仰ってましたが、実は気づかないうちに会話を聞かれていたとか? それならば会話にものぼりましたから、電話の存在が知られていてもおかしくありません。でもそれならウェーバーさんの裏切りに先に対処するでしょう。
どうして、なぜ、わたしの隠された携帯電話であらねばならないのか。
「あのなぁ・・・・・・ガソリン入れ忘れた俺が言うのもなんだけどよ。どう考えって、この小娘の護衛があたりを探してるに違いない情勢下でだぜ? そんな悠長なことやってる暇があんのかよ」
ウェーバーさんは素知らぬ顔して、話題の転換を図っていました。
「すべてのことに計画がある」
「おおそりゃ凄え。ホワイトのおっさんが書いた青写真にゃ、怪しいと思っていざ女のポケットに手を突っ込んでみたが、なんにも見つからなかったこっ恥ずかしさを挽回する方法まで書かれてるのかよ。
ぜひとも拝見してみたいもんだぜ」
「これはテストだ」
「テストぉ?」
「なにを代償にすれば、彼女は隠し持っている大切なものを引き渡すのか――それを見定める」
すべては突然でした。
流れるような動作で引き抜かれたP228ハンドガンが、ついさきほどガソリンスタンドに入ってきたばかりの車へと向けられる。より正確には、古ぼけたピックアップトラックから降りてきたばかりの、何も知らないであろう麦わら帽子を被ったおじいさんへと向けられたのです。
「てめぇッ!! なに考えてやがる!!」
ウェーバーさんが一歩遅れて、ブローニング・ハイパワー・ハンドガンを引き抜いて、頬にめり込ませるようにパナマ帽の男へと突きつける。
一方わたしは、窓の外の状況に釘付けでした。
なんてこと・・・・・・無造作にP228から発射された銃弾が、たまたま居合わせたにすぎない一般人を貫き、地面を血で染めさせていたのです。
なんの脈絡もなく凶行に及んだパナマ帽の男は、相変わらずわたしをバックミラー越しに見つめつづけ、ウェーバーさんから向けられた銃口をまるで気にしていない。
「なんてことを・・・・・・」
自分が撃たれたのであれば、こうも動揺することはなかったでしょう。自分のことだから分かります。
ですが、ですが、
「あの人が一体、何をしたと」
自分の声に怒気が混じっているのが分かります。でもどうしてか、その怒りをパナマ帽の男は喜んでいる気がしました。
「不当な暴力には、正当なる怒りを。やはりそういう性格か」
静かな憤怒に冷ややかな、見定めるような視線が返ってきました。
「電話を」
呪文のように繰り返されてきた要求に、今回だけは別の言葉も加えられました。
「でなければ――次はあの娘だ」
きっと親子なのでしょう。ピックアップトラックの助手席から飛びだしてきた浅黒い肌をした女性が、泣き叫びながら撃たれたおじいさんへと縋りついていく。その頭部に向けてゆっくりと、P228の照準が合わせられていくのが見えました。
この男は撃つ。これは脅しでもなんでもないと確信する。
「よろしい」
わたしが隠された二重ポケットから取りだした携帯電話を手に取りつつ、まるで何事もなかったかのようにパナマ帽の男はドアを締めて、そのままアクセルを踏みました。
コロンビアの夜の街へとくり出していく車両。尾を引いて街明かりが背後に消えていき、わたしが振り返って見つめていたガソリンスタンドの明かりもまた、さして間を置かずに見えなくなりました。
あの親子がその後どうなるか? 救急車がすぐ駆けつけてくれればあるいは・・・・・・わたしにはもう祈ることしかできません。
「・・・・・・あんた名前は」
あっさりP228を懐にしまい込んでいったパナマ帽の男と異なり、まだ警戒心を顕にしながら相棒を睨みつけつつ、ウェーバーさんは腰だめでハンドガンを構えていました。
その態度を思えば、いきなり名前を聞き出すのは奇異に映ることでしょう。もはや正気を疑わずにいられないパナマ帽の男すら、眉を上げる。
「今さらだな」
「ぶっちゃけ、ついさっきまでアンタに興味がまるでなかったからな」
「だが今は違うと?」
「おうよ・・・・・・名前さえ知ってりゃ、イカれ野郎に近づかなくてすむ」
ずっと視線でウェーバーさんはわたしに訴えかけていました。ここで撃てばケリがつくと。ですがこの人物は異様です。
躊躇なく、ただ通りかかっただけの民間人に発砲するなんて。論理面はもちろんのこと、プロとしても異常としか呼びようがありません。
警察の捜査なりで身分がバレれば、途方もない外交スキャンダルに発展するのは必然。そうでなくても誘拐なんてやらかしている真っ最中に、ああも目立つ行いをするなんて・・・・・・プロとして当然もっていてしかるべきなルールを真っ向から無視している。
出方の読めない相手。正直、今のわたしはこのパナマ帽の男が人間というよりも、人の形をただ真似てるだけの怪物のように見えていました。
他者を殺めることに一切の痛痒を感じず、眉ひとつ動かさない。ウェーバーさんが撃とうすれば、それを察知して車を急加速して死なばもろとも、自爆しかねない危うさがある。
この人物がハンドルを握っているかぎり、迂闊なことを共倒れになりかねない。あの素早いドロウと射撃精度からも、パナマ帽の男が戦闘員として熟達の域に達しているのは明らかでした。
急に自分に嫌気が差す。目の前で人が、それも罪のない人が撃たれたというのに、わたしの頭ときたら戦術的に正しい判断は何かと、分析しかしていない。
「ルークだ。ボクは、ルークと呼ばれてる」
そうパナマ帽の男は――ルークは、ウェーバーさんの質問に答えるかたちで名乗っていく。
今はまだその時じゃない。そういう無言の訴えに気づいたウェーバーさんが、ゆっくりとハンドガンを自分のホルスターに戻していきました。
開け放たれた運転席側の窓からは、冷たい夜風と静かなそとの環境音がわたしたちの耳に届きました。
「銃声? いや、まさか銃撃戦か?」
近くか、それともずっと遠くからでしょうか。乾いた破裂音がいくも響いてきました。わたしにしては珍しく、分析よりさきに直感がさきにたつ。
ノルさんたちに違いありません。でも、一体誰と戦っているの? またしても頑なまでに口を閉じだしたルークは、何も言わずに車を加速させていく。
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