V “怪物は、いつも平和の裏に潜む”
【“テッサ”――甲板】
それはちょっと前、医学的にありえないとお医者様から首を振られながらも、日課だったという訓練にノルさんが復帰したあとのことでした。
船底の訓練施設を運動選手の身体能力でもって走りまわり、特殊部隊員の正確さを駆使してつぎつぎと的をライフル銃で撃ち抜いていくノルさん。つい最近までミイラ男もかくや有様だったのに、彼の治癒能力を解明したら、冗談ではなく医学の歴史が一変するかもしれない。
最初は心配しながら見守っていたわたしも、途中から感心半ば、呆れ半分でその訓練風景を眺めることになりました。そこに同じく、練度維持を怠らないプロフェッショナル精神の持ち主であるヤンさんが、姿を現したのです。
――君って、射撃
軍事の専門家と一言でいっても、軍隊ほどサブジャンルの多い分野もないでしょう。陸海空、どれもがことなる知識を求めてくる専門分野なのですから。そこにくるとわたしは、海は万全、陸戦はそこそこ、飛行機はあまり乗りたくないという分布になる。
ですが言われてみればノルさん射撃方法は、ミスリルの精鋭たちとは違うものでした。基本は一緒なものの、ライフルのマガジン部分を掴んで撃つという、ちょっと不安定なやり方だったのです。
――もちろん人によって最適解は異なるけどね。
そう断りをいれてから、まさにプロの身のこなしでヤンさんは、手近な標的に早撃ちを見舞ったのです。
ノルさんが掴んでいた位置よりずっと前、銃身を覆うハンドガード部分を深く握りこみ、ストックは深く肩にめり込ませる。ちょっと窮屈そうではありますが、なるほど、ノルさんのやり方よりもずっと安定してるように見えました。
ノルさんとおなじ数の標的を、より素早く、より正確に撃ち抜いていくその姿は、身体能力の差ではないでしょう。
正直、ノルさんの方がずっとヤンさんより身体能力が上なのです。なのにこうも結果に差がつくのは、やはりノウハウの差でしょう。
――これがCクランプ・グリップだ。実のところ軍よりも、民間のほうが射撃技術の向上には熱心なんだ。
軍人は射撃だけでなく、それ以外にもあらゆる技術を体得しなくちゃならないけど、民間は一つの分野に集中できるからね。あちらでは、腕を競うための競技会がひんぱんに開かれてるし。
ここら辺の話は、銃社会アメリカの陽の面という感じでしょうか。活気のある射撃競技から、どんどん軍に技術が逆輸入されていると。
自分の腕を自慢する。そう捉えられても仕方のない会話でしたが、そこはヤンさんの穏やかなお人柄ゆえでしょう。親切心は感じられても、嫌味には、まるで感じられない。ですがそれは、あくまでわたし個人の意見なのです。
傍で聞いてるわたしとしては、ちょっと気がきじゃありませんでした。だってこの2人、どうしようもなくギクシャクしてましたから。
法の番人たる元麻薬捜査官と、元プロの殺し屋。これだけでも相性が悪すぎですが、その性格も違いすぎる。ですから不安が拭えない、これが切っ掛けで喧嘩が始まるのではないかと。
ですがわたしの予想は外れたのです。
――学びたいのなら、いつでも聞いてくれ。
というヤンさんの申し出に、
――そうか。なら頼む。
なんてあっさり頭を下げられたのですから、わたしもヤンさんもついつい驚いてしまった。
それからしばし、かつて敵味方であった者同士の師弟関係という変わった訓練風景を、わたしは微笑しさと一緒に見守ることになったのです。
多くの暗い過去を、このコンテナ船は内包しています。ですがそれだけではない明るい記憶もまた、わたしたちは刻んできたのです。
子どもたちとの思い出。ギクシャクした場面がなかったとは言いませんけれど、悲劇や残虐さは、ここ3ヶ月のあいだ決して姿を見せることはありませんでした。それが当たり前だと言い切れない土地に、わたしたちはまだ暮らしている。
ですが・・・・・・そう遠くない未来において、この平和は当たり前だと言い切れるようになりたいと、わたしは思うのです。
ちなみに余談ながら、ノルさんとヤンさんの師弟関係はあっさり終わりました。
えーと、ほらノルさんってば、身体能力が桁違いでしたから。そもそも高度な軍事訓練を受けてきたという下地も手伝って、ぐんぐん西側流の最新射撃術を体得。わずか1周間たらずで師たるヤンさんのそれを越えてしまったのです。
ノルさんの標的を、より素早く、より正確に撃ち抜いていくその姿は、身体能力の差ではありませんでした。あれデジャヴュ? という困惑はごもっとも。嫌味であるかのようにノルさんは、1週間前のヤンさんの動きを完ぺきにトレースしつつ、その記録を更新してみせたのです。
そのドヤ顔は、持って生まれた美貌のせいで見返り美人そのもの。目が曇ってるヤンさんとその顔は、まさに対照をなしてました。
そして一言。
――学びたいのなら、いつでも聞いてくれ。
どっかで聞いた台詞のせいで、流石のヤンさんの堪忍袋も切れてしまったみたい。
――うっさい、バーカッ!!
あのSRTの勇士が、一瞬で知能指数を小学生レベルまで落としてしまった。その衝撃のあまり、仲直りを取りもつチャンスをわたしは逸してしまったのです。
仲良くなったかと思えば、すぐ犬猿の仲に逆戻り。そんな唐突な回想には、ちゃんと理由がありました。
穏やかな陽気のなか甲板を歩いているうちに、この船で培ってきた思い出に浸りたくなった、というのがまずひとつ。そしてもうひとつ・・・・・・見てしまったのですわたしは、埠頭を意気揚々と歩いていく集団を。
回想のもうひとりの主人公たるヤンさんは、ゾンビもかくやの足取りで最後尾につき、どうしてか釣り竿なんぞを肩に載せてます。真ん中には、上から目線でしか人と接せられない癖して臆病すぎるバウティスタくんが、気の進まない顔をして混じっている。
この2人はともかく、問題視すべきは意気揚々と先頭をいくケティさんでしょう。
昨日の爆破事件の責任をとるとして、回転式さかさ磔の刑に処されたことも記憶も新しい彼女が・・・・・・かつてロケットランチャーを収めていたボストンバッグ片手に、みなを引きつれて係留岸壁に向かっていくではありませんか。
葛藤が胸をよぎります。
甲板で日の光を浴びながら、ちょろっとリフレッシュしたうえで調理室を覗いてみようと、わたしそう考えていたのです。いたのですが、眼下に見えるあの面々からは、どうにも不安が掻き立てられる。
いま調理室にいるのは、きっと女の子ばかり。女子の園なら心穏やかな時間が過ごせるはず。ですが――分かっていますとも。
寝ても覚めても爆弾のことしか考えてない少女と、精神の均衡が崩れてる元麻薬捜査官に、ただの臆病者のトリオでは、波乱が起きないはずがなく。
「・・・・・・ふぅ」
ため息をついてからわたしは、コンテナ船と港をつなぐアコモデーション・ラダーに向けてきびすを返していったのです。
*
「ダイナマイト漁って、世界的に禁じられてるんですよケティさん」
[人をなんだと思ってるんだぜ?]
あらぬ誤解という可能性はまだ否定しませんけど・・・・・・ですが赤毛の少女の顔には、おもむろにニトログリセリンの配合式なんぞが刻まれているのです。大体、ビューティフル・ワールド号の末路について、忘れるには早すぎでした。船から漏れだした重油から海を守るべく、今まさに作業艇が通り過ぎていった矢先でしたし。
ですがケティさんは、憮然とした表情でいつものボードにペンを走らせていく。
[せっかく人が気を利かせて魚をゲットしてやろうとしてるのに、ひどい疑惑なんだぜ]
「お魚釣りですか・・・・・・風流で良いものだと、わたしは思いますけど」
しかしながらわたしには、ケティさん愛用のアナーキー印のダッフルバックが、気になって仕方がないのです。とくに収まりきらずバックからはみ出してる、AK-47の銃身とかが特に。
「バックいっぱいの銃火器って、ほんとうにお魚釣りに必要なんですか?」
シチュエーションに合わせて、中身がそのつど入れ替わるケティさんのダッフルバックですが、今回は銃火器パックであるみたい。あのAKライフルの出本はおそらく、船の武器庫でしょう。
わたしの疑惑の眼差しに、ケティさんが仕方ないんだぜと言いたげに肩をすくませる。ボディランゲージが本当に分かりやすい子です。
[仕方ないんだぜ。どこかの誰かさんが、カルテルのカネには、ぜっっっっっっったいに手をつけないと言い張るせいで、カネに変わるもんが必要なんだぜ]
ついでに船の備品を勝手に売り買いするなとも、付け加えておくべきだったかしら?
それは後回しにするとして。わたしはどうして、週に数億ドルもの収入がある麻薬カルテルを率いておきながらこうも財布の紐が硬いのか、説明を試みることにしました。
「それについてはお話したでしょう? あのお金に手をつければ、CIAがこちらを攻撃する格好の口実にしかならないって」
たしかに、わたしはその気になればこの港すべてを買い取れるほどの巨額を、指先ひとつで動かせます。ですがそんな欲望のままお金を使えば、CIAは疑惑を抱くことでしょう。
果たして、こうも金遣いの荒い相手が信用に値するだろうかと。
こちらの主張の正当性を保つためにも、お金の運用について透明性を保たなければなりません。それは、CIAとの交渉を整えるための必須条件でもある。だって敵同士とはいえ、合意に達するためには、どこかで信頼関係が必要になるんですから。
そういったもろもろの事情をわたしは、噛み砕いてケティさんに聞かせました。もちろん耳の聞こえない彼女が読みやすいように、唇を大げさに動かしながら。
「“クレイドル”を掌握してからというもの、わたしはずっと帳簿を付けてるんですからね?
1セントの不備でもあれば、ほら見ろ、けっきょくお前たちは金目当ての悪党にすぎないというレッテルを、CIAはたやすく貼ることができちゃうんですから」
[だからって、日用品を買うカネすら渋るかだぜ?]
「渋ってるのはお金のほうじゃなく、外に出る危険性のほうですよ。
だいたい、ケティさんが提出してきた買い物リストを見ましたけど、どうして大陸間弾道ミサイルが必要なんですか?」
[いちど撃ってみたい]
怖いことをサラリと言って、いえ書けのけますね・・・・・・終始、真顔なのがますます恐怖を煽ります。
「そもそもですね、そのAK-47の束の説明には、まったくなってないじゃないですか・・・・・・あっ、もういいです」
自分の頬を手でひっぱり、鋭い犬歯をこちらに見せつけてくるケティさん。そのジェスチャーが意味するところは、考えるまでもありません。
ならばと、会話が成立しそうな相手を探すことにする。
まず目をつけたのは、コンクリ製の岸壁に腰掛けて、釣り竿を海にかたむけているヤンさんでした。その目は虚空を見つめ、口は半開きになっています。
わたしは、元部下の惨状を見なかったことにして、所在なさげに立っている褐色の肌をした少年に話しかけていきました。
「それでバウティスタくん――」
「ふん!! 俺様に話を聞きたいなら、きちんと頭を下げてからだな!!」
「意地を張るのは結構ですけど、ここで素直になっておかないときっとあとが悲惨ですよ?」
いついかなる時でも謎の上から目線を崩さないバウティスタくんですが、その虚勢はいつもコンマ1秒で崩れるのだと、ここ3ヶ月の共同生活でわたしは学んでいました。
どう考えても、この子がケティさんに好き好んでついてくるはずがない。実際、わたしのこの見立ては正解でした。むやみに偉ぶった態度から一転、その虚勢はあっさりしぼんで、気まずげに下を見つめだす元ゲリラの少年。
「・・・・・・取り引きが上手くいかなかったら、お、俺を餌にしてピラニアを釣るって」
「ちょっとケティさん!!」
抗議の声は、ケティさんの人差し指に制される。
取り引きなどと、不穏なワードをバウティスタくんが口にしてましたが、ケティさんに習ってちょっと足がすくむぐらいに高い、コンクリートの骨組みでできた岸壁を覗き込んでみれば、怪しげな小型ボートが波間を漂ってるではありませんか。
実はこの港のすぐ横には、格差社会が広がっていたりするのです。
資本主義の象徴ともいうべき、無数のコンテナが積み重なっている近代的な港のすぐ横に、黒ずんだ木製のスラム街が広がっていました。その木造とトタン板で組み合わされた街の主要産業は、麻薬密輸と密猟という、どちらも大きな声ではいえないものでした。
時たまポケポケ軽快なエンジン音を響かせながら、小型ボートがおもての海を行き来してることは――どういう目的かは、置いといて――知ってましたが、こうも至近距離で目にするのは初めてでした。
とはいっても、この岸壁って基本的に巨大なコンテナ船にあわせて作られているため、ちょっとした家ぐらいの高さで隔てられてましたが。
「
自己紹介もなくいきなし本題から入る、ボートのオーナーらしき中年男性。ラフな格好ですし、よく日焼けしてますし、近くには網が転がっていたりもしますからおそらく漁師さんなのでしょうが・・・・・・
その問いにサムズアップで応じてくケティさんは、ちゃかちゃかダッフルバッグからAKライフルを取り出し、ロープで束ねて、眼下のボートへと吊り降ろしていきました。
どうやら
「ケティさん、ケティさん、こういうのって、あまり好ましくないと思うんですけど・・・・・・」
好ましくないどころか、大抵の国では重罪です。ですが聴覚障害があるので仕方がないとはいえ、少女はまるで聞く耳持たず。ライフルの束と引き換えに手に入れた、バケツいっぱいのお魚を手繰り寄せるのに忙しそうでした。
どうしましょう、この子ほんとうにただお魚をゲットしにきただけだというの?
ドカン!! と、重々しい音とともにバケツが置かれる。おそるおそる覗き込んでみれば、鋭い乱杭歯をしたどこかグロテスクなお魚が、バケツに詰まってました。
「これ、ピラニアですか?」
南米の魚介類といえば、ピラニア。海のサメと並んで、その凶暴性と肉食ぶりで映画業界を賑わかす、ある意味で人気者なあれです。
「“誰”を食べさせるつもりですか?」
ジト目で赤毛の少女に問うと、勘違いしたバウティスタくんがよこで“ひっ”と、悲鳴をあげる。
すると、ケティさんはムッとした顔をする。
[かー!! なんなんだぜさっきから!! 人を007の悪役かとでも!?]
「・・・・・・いつも自分はサイコパスだとか、自信満々に言ってたじゃないですか。ちょっとは、我が身を省みてください」
バウティスタくんは、口だけだからまだ可愛らしいのですが、ケティさんはいつだって言動に行動が伴っているから恐ろしい。
「あなたは、これから平和なニューヨークで暮らしていくんですから。今のうちに態度を改めておかないと」
わたしの親切心からの忠告に、唇を尖らせてケティさんは反論してきました。
[ケッ!! その平和なニューヨークから飛び出して、1人で戦争をおっぱじめた奴がよく言うんだぜ!!]
その発言にわたしは――うまく言葉が紡げなくなる。
言行不一致。平和を求めておきながら、結局は武力でしか解決できない自分にその言葉は、ケティさんからしたらなんのきなしに飛び出したものなんでしょうが・・・・・・心に突き刺さっていく。
わたしの葛藤にたぶん少女は気づいていない。不満いっぱいに、彼女流のスタイルで喋りつづけていく。
[本音で言えなんだぜ!! どうせ、爆発オチを疑ってんだ]
「・・・・・・自覚があるなら、改めなさい」
ケティさんも、そしてわたしも。
「違うというのなら、そのロープに束ねられた手榴弾はなんですか?」
岸壁のあいだを行って帰ってとせわしないロープのやり取りですが、今度はボートに向けて、ふるいロシア製の手榴弾が降下していきます。
[知らね。なんかおっちゃんが漁に使うってさ]
「ダイナマイト漁って、世界的に禁じられてるんですよケティさん」
[人をなんだと思ってるんだぜ?]
一歩も進まない会話の内容にめまいがしてきました。すると
音の出本をさぐるため岸壁を見下ろしてみれば、魚の密売に密猟と、大忙しらしい漁師さんが手榴弾のピンを抜いては、海面に放っていくではありませんか。
試し撃ちならぬ、試し爆破。その爆発の余波によって海面からまるで間欠泉のように水しぶきが吹き上がり、無防備に釣り竿を垂らしていたヤンさんをびしょびしょにしていきました。
「あっ、あの!! ダイナマイト漁って、世界的に禁じられてるんですけどッ!!」
たまりかねて見ず知らずの漁師さんに抗議してみましたが、どうも至近距離の爆発のせいで耳が遠くなってるみたい。爆発で失神した魚たちをタモ網で掬いつつ、ニカッと白い歯を見せながら満面の笑みをつくる漁師さん。
「良い取引だった!! じゃあまた木曜日に!!」
「いえ!! もう結構なんですけど!! といいますか、裏で何度もやってたんですかこんな違法取り引き!!」
「お嬢ちゃん、ピラニアのスープはいけるぞ!!」
新たな、そして違法な漁具を積載したボートは、大海原めざして突き進んでいきました。
[な? アタシのせいじゃねえんだぜ]
新たなストレスをたっぷり味わいながら振り返ってみれば、そんなスケッチボードに出迎えられてしまいました。
ため息を教育に悪いと、すんでのところで食い止めたわたしは、ケティさんに言いました。手話を駆使して。
“ですが人は、変わっていきゃなかいけないんですよケティさん”
呆気にとられたケティさんの顔が、みるみるしてやれた表情に変わっていったことで、わたしは密かに重ねてきた訓練の成果を確信しました。
“そういうとこが・・・・・・ほんとうに苦手なんだぜ”
“好きにおっしゃいなさい”
わたしはなるほど、教師役としては完ぺきじゃないかもしれません。ですがこれでちょっとは、人は変われると範を示せたでしょうか?
わたしだって分かっているのです。歳こそとりましたが、わたしの精神は3年前から微動だにしていない子どものまま。いつか自分は大人だと、胸を張って言い張りたいものですが・・・・・・今はまだ、道半ばでしょう。
感慨にふけるわたしの横で、急にすくっとヤンさんが立ち上がる。
ダイナマイト漁がなぜ世界的に禁止されているかといえば、そのはた迷惑さにあるでしょう。魚だけでなく環境までも破壊し、あげく鬱病をわずらう元部下までびしょぬれにしてしまうのですから。
「やっと分かった」
服だけでなく、ヤンさんの髪まで水を滴らせている。そのせいで前髪が垂れ、うまいぐあいに目元を隠してました。それが身体から立ちのぼるドス黒いオーラと相まり、わたしに恐怖を抱かせるのです。
ついつい・・・・・・わたしは、後ずさってしまった。
「僕には、現実逃避する権利すらないわけだ」
淡々と、ケティさんにヤンさんが歩み寄っていきます。
「だってそうだろう? ・・・・・・僕が頭空っぽにして心の傷を癒そうとすると、君はその憩いの場にさっそうと現れて、すべて吹き飛ばしていくんだ。そう、物理的にね」
元部下のあまりの豹変ぶりに逃げるタイミングを逸してしまったわたしに比べ、バウティスタくんはずっと本能に忠実でした。脱兎のごとく、船に逃げ帰っていく。
きっとわたしの運動神経では、途中でコケてしまうでしょうが、それでも少年の背中を追うべきだったでしょう。だって明らかにわたし、撤退の時期を見誤ってましたから。当事者たちに挟まれ、目を白黒させるばかり。
ヤンさんの鬱は、思わぬ荒療治によって完全に吹き飛んでました。キレるという行為には、こんな副作用もあるみたい。普段は温厚な分だけ、その豹変ぶりが恐ろしくてならないのです。諌めるべき立場のわたしすら、ついつい役目を忘れて突っ立てしまうぐらいに。
ですが矛先を向けられてるケティさんときたら、まさに馬耳東風。
“けっ”
などと、ケティさんは舌打ちされました。
“フォークス家の人間は、ぜっていに生き方を曲げないんだぜ。一度これと決めたら死ぬまで全力投球!! 誰の言うことも聞きゃしねえ!!”
カッコいい宣言にも、ひたすら傍迷惑にも聞こえる堂々とした主張に・・・・・・ヤンさんは、微妙な顔をされました。
でしょうね、ヤンさんは手話が分かりませんから。
「なぁ・・・・・・僕にも分かるように言ってくれないか?」
ちょっと冷静さを取り戻したらしいヤンさんの意見に、肩をすくめたケティさんは、仕方なくスケッチボードにペンを走らせていきました。
[うっせえ、ばーか]
「絶対に更生させてやるからなッ!!」
えーと、義務感への目覚めが、ヤンさんの精神的な復活につながるのなら・・・・・・結果オーライです、よね?
うん、そうですとも。どことなく説教する熱血新任教師と、それに素知らぬ顔をつらぬく不良娘のような構図を背にしながらわたしは逃げ――いえ、戦術的な撤退を決め込みました。
心もち早足で船をめざしていくと、軽やかなバイクのエンジン音が聞こえてきました。こんな場所にスクーターで乗り付けてくるような物好きは、わたしの知るかぎり郵便屋さんしかいません。
1日遅れで警察が聴取にきたというわけでないなら、わたしが出迎えるのが早いでしょう。
予想どおり、埠頭を横断するように倒れている邪魔くさい障害物を迂回しながら、郵便局のバイクが目のまえで停止する。今朝の分はもうシーロくんが受け取ってましたから、これは別口ということになるでしょう。
「速達でーす・・・・・・」
手紙を手にした制服姿の若い郵便局員さんが、おもむろについさっき避けてきた障害物をにらみました。
その障害物とは、倒壊したガントリークレーンでした。
デ・ダナンⅡを上から見下ろしている、超巨大サイズなクレーン群。そのひとつの根本がキレイに折れて、ずっと横倒しになったまま埠頭を塞いでいたのです。
「あのー」
「経年劣化でいきなり倒れてしまって、こっちも困ってるんですよ。それで速達というのは?」
疑惑の眼差しに、素知らぬ顔して答えていくわたし。
その道の専門知識さえあれば、あれは主張どおりに経年劣化などではなく、熟練の爆弾技師によってなされた爆破解体だと気づけたでしょうが、郵便局員さんは偶然にもその知識を持ち合わせてなかったみたい。
「・・・・・・」
ですが疑惑はぜんぜん晴れてませんでした。だって海風が原因にしては、折れ口が綺麗すぎますもの。
「撤去作業とかはー」
「頼んではいるんですけどね、色々と向こうにも都合があるらしくて。で、速達って?」
「あんなデカいもんが倒れてるのに、ちょっと反応薄すぎじゃないっスか?」
「慣れです、慣れ。形あるものはすべて壊れるんですよ。それより手紙を届けるのが仕事じゃないんですか?」
「じゃあ――あの下敷きになってるASって、あれも経年劣化のせいスか?」
気づいてしまいましたか・・・・・・ええ、そうですとも。あんな巨大で頑丈極まりないガントリークレーンが自然に倒壊したりしません。これもまた例によってケティさんの仕業なんですが、その理由には、めずらしく情状酌量の余地がありました。
それは、3ヶ月前のことです。
世界でも屈指のAS乗りにして、完全に頭に血がのぼっているメリッサを止めるには、ここまでやらなきゃ駄目だったのです。
これこそが、かてねからノルさんとケティさんが組み上げてきた対カルテルの防御装置のひとつ、ドミノ倒し型対AS決戦兵器だったのです。
いやー、あれがメリッサ操る空挺仕様のM6を押しつぶした瞬間、顔面が真っ青になりましたねー。直後、瓦礫の中からパイロットスーツ姿で、手にサブマシンガンとマチェットを握りながら鬼の表情でメリッサが飛び出してきた時に、また別の意味で蒼白になったものですが・・・・・・それはまた別の話でしょう。
「たまたま、偶然にも、思いがけず、瓦礫がいい具合に変形してASみたいな形になっちゃうなんて、こんなこともあるんですね」
「・・・・・・ただの偶然スか」
「はい、そうなんです。不思議なこともあるものですよ~」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
微笑みという鉄面皮で武装してみたものの、疑惑は一向に晴れませんでした。だって、偶然で迷彩柄まで再現はできないでしょう。
明らかに疑惑を深めている郵便局員さんは、言いました。
「でもアレ・・・・・・俺には、3ヶ月前にフォート・ブラックから盗難されたとかいう空挺仕様のM6に見えるんスけど」
「なんでそんな詳しいんですか!!」
また妙なところにミリタリー・オタクがいたものです・・・・・・。
「だって機体の特徴が一致してるし、右肩の部隊章が意味深に削り取られてるし」
頭を抱えながら、そういうことでしたらと次の手を思いつく。
「分かりました。でしたら、その郵便物は断固として受け取り拒否します。
どうして受け取り拒否に至ったのか? これから長い時間をかけて、上司さんと面倒臭いやり取りをすればよろしいでしょう」
「じゃ、確かに届けましたよー」
事なかれ主義に屈した郵便配達員さんが、気の抜けるエンジン音をさせながらバイクに跨り去っていく。どうしてこう、この土地にはアクの強い人しか居ないのかしら・・・・・・。
本来なら、こんな怪しい手紙はもっとちゃんと調べてから開封すべきだったのに、わたしはなんのきなしにその封を破ってしまったのです。
色々とありすぎて、精神状態が不調気味だったのか、情けないことです。手紙爆弾なんて物騒なものもあるのに。
ですが運の良いことに速達で届けられたそれは、爆発物ではありませんでした。いえ、ある意味においては、核爆弾にまさる劇物でしたけど。
「・・・・・・“会おうね”」
たった一文だけ記された丸っこい文字と、署名がわりだろう口紅印のキスマークを見た途端、眩暈がしてきました。いえ一文というのは間違いですね、便箋を裏返してみれば、いやに堅苦しい字で電話番号が記されてました。
まさかと思い、差出人に今さらながら目を通してみますと、そこには堂々とテオフィラ=モンドラゴンの名が記されているではありませんか。
・・・・・・逆探知対策はしてたみたいですけど、所詮はコンピューター音痴の2人組がやったこと。コロンビア第2位の麻薬カルテルからすれば、簡単にトレースできたみたい。あっさり居どころ突き止められてました。
ですけどこの手紙、狂言誘拐を咎めるものでなく、明らかにわたしを名指ししてました。もう面倒事は十分に抱え込んでいるのに、そこへ更にという感じで本当にもう・・・・・・どうしたものか。
「・・・・・・見なかったことに、しちゃおうかしら」
しばし思い悩み、ついつい悪魔の囁きに耳を貸してしまいそうになる。だって対処法がさっぱり思いつきませんもの。
海に投げ捨てちゃいましょう。その誘惑をなんとか跳ね除け、手紙をポケットに仕舞いこむ。この求めに答えなかった場合の展開がまるで読めませんが、報復とか、ありうるのかしら? ここら辺は、カルテルの内情に詳しいノルさんと要相談というところでしょうか。
その逆パターンにしても、予想がつきません。つまりわたしが提案にのってテオフィラさんとお会いした場合、果たしてどうのような結果がもたらされるのか?
俗にドッペルゲンガーと出会うと死んでしまうと聞きますが、その俗説が真実かどうか、確かめたくはありませんね。
「うひぃ!!」
物思いに耽ると周囲が見えなくなるのは、わたしの悪い癖です。
ですが鼻をくすぐる三つ編みを掴んだままわたしが飛び上がって驚いてしまった理由とは、いつの間にか背後に、血色の悪い少女が体育座りしていたせいでした。
その子は、デ・ダナンⅡの12人の子どもたちの1人であるヒセラちゃんでした。
11歳になる彼女は生まれもって身体が弱いそうで、いまでも痩せすぎなぐらい。言葉は悪いですが、その容姿には骸骨のようなイメージがつきまとってました。
ですが、味と栄養にこだわったカロリナちゃんの努力の賜物でしょう、食は細いながらもその健康状態は、日に日に改善されつつありました。生まれた家が貧乏であったため、的確な栄養摂取が受けられなかったというのが、この病弱の最大の理由かもしれませんね。
それは良いのですが・・・・・・この子の距離感の取りかたが独特なのが、困りもなのでした。
「あ、あの、なにかわたしに用事ですか?」
ポカポカ日和の港にあって、濃い陰日向に隠れるように座る彼女の目には、隈が浮かんでました。病弱だけが理由じゃない不健康なイメージは、良くも悪くもヒセラちゃんの象徴でしょう。
「ふひひ」
ちょっと怖い笑い方を、少女はしました。
「テレサさんにお話があります・・・・・・」
「は、はい、なんでしょう」
この子たちの母親代わりなんてと、ときに荷が重く感じられる。
そもそもあの子たちって、あまり依存心が強くないのです。幼い頃から1人で生きていくのに慣れている子がほとんどで、大抵は自分でできてしまう。そうでなければ、今日まで生きてこれなかったのですから。
色々思うところはありますがとりあえず、目の前のヒセラちゃんの独特な距離感になれるべきでしょう。
「お、お話があります・・・・・・」
「なんですか?」
つとめて安心感を与える声で応じていきましたが、壊れたレコードのように言葉をくり返すヒセラちゃん。
「話があるんです・・・・・・」
「ええ、それは分かりましたけど」
「テレサさんに・・・・・・あれ? テレサ? テッサだっけ?」
「どちらでも良いですよ? なんど訂正しても、どうせみんな好き勝手に呼んできますから」
「テレサさん」
「はい」
「実は・・・・・・」
長い間をあけて、少女はついに意を決したように視線を上げて、こう言ったのです。
「――お話があるんです・・・・・・」
「ですから何をお話したいんですか!!」
郵便局員さんにつづいて似たような押し問答の二連ちゃんに、つい大声を張り上げてしまった。やってしまったと、慌てて口を塞いだところでもう遅い。じわり、病弱な少女の目尻に涙が浮かぶ。
「ひ、ひどい・・・・・・私はただ、調理室に来てって言おうとしただけなのにー!!」
その程度の伝言で済むなら、さっさと言えばいいのに・・・・・・。
そういう気持ちがあったことは否定できませんが、それよりもショックの方が大きかったのです。涙ながらに走り去っていく少女の背中に、強い罪悪感を抱いてしまう。
「あ、違・・・・・・」
呟きどころか、絶叫したところでヒセラちゃんには、聞こえないでしょう。あの突いただけで折れてしまいそうな手足で、どうやったらあんなに早く走れるのか。不思議でなりません。
わたしは、ストレスのあまり胃のあたりを抑え、うずくまりたい衝動に襲われてました。
「子、子育てって・・・・・・こんなに大変なものだったんですね・・・・・・」
✳︎
【“マオ”――ニューヨークのアパート】
ちょっち遅れた朝食をあたしは、愛娘と同居人の子どもたち2人と囲んでいた。メニューは、トーストとスクランブルエッグ。これぞ朝食の王道という感じのやつ。
「ロニーあんたさ、ちゃんと宿題やった?」
今日は長い一日になる。そんな予感があったあたしはコーヒーを傾けつつ、知性がうちから溢れてる少年に、おもむろに話しかけていった。
「宿題って、出されたその日にやるもんだろ」
コロンビアで子どもたちを助けることになった。そうテッサから聞かされたあたしがまず思ったのは、前科持ちがまたやらかしたということ。次に連想したのが、このロニーの顔だった。
あの子が南の島に出かけていったとき、どうしてだか連れ帰ってきたこの少年は、その聡明さを活かしてあっさりニューヨークでの新生活に馴染んでいた。無理してるんじゃないかと心配してたけど、どうも学校からの評判を聞くに、本気でたんに馴染んでいるだけの様子。
最初はどうなることかと思ったけど、蓋を開けてみたらおそらしく手間のかからない子だった。この豪気な発言がその証拠よ。
親父に反発して不良を気取ってたあたしの幼少期を思えば、なんとも優等生そのものな生き方だけど、嫌味に感じないのは、得な性格してるわねーと呑気に思ったりもする。
「・・・・・・ところで、その、テッサさ・・・・・・俺について何か言ってたりは」
「あんたは、ラナ?」
次は自分の番だとすでに察していたらしく、にかーと満面の笑みをラナは形作った。
「やってない!!」
「元気があってよろしい・・・・・・」
ロニーに比べると、ラナの勉強は遅れてた。
そりゃそうよ、意識不明状態も長かったそうだし、今だって病院通いなんだから。それでも持ち前の明るさで、どうにかこうにか学校には馴染んでいるらしい。
「でも今日、図書館に行くついでにそこでやるー」
寝たきり生活の反動ね。自分の足で出歩くのが楽しいらしく、ひとっところに留まるということをこの子は知らない。虚弱体質だから心配ではあるけれど、この好奇心の邪魔をしたくない気持ちも同時にあった。
「あっそ。ちゃんと携帯持って、裏路地には決して近寄らないこと。それに護衛のおっさんどもの言うことは、ちゃんと聞くのよ?
迎えにいってあげるから、昼過ぎぐらいに電話しな」
「はーい」
遅れて、これはお目付役にされる流れだなと察したロニーが、ちょっと低い声して了解の意を示してきた。
「・・・・・・はいはい」
説明するまでもないとは、本当に手間のかからない子どもたちだわ。
最後にあたしは、愛娘たるクララを見やった。
背丈よりずっと大きな椅子に腰掛けて両足をぷらぷらさせている、我ながら両親の特徴をうまい具合にハイブリットしたわねと呟きたくなる、そんな目に入れても痛くないマイ・ドーターは、口元をスクランブルエッグで黄色くしていた。ナプキンでその口元をていねいに拭ってやる。
「美味しい?」
そう尋ねると、幼いわが娘は、見てるこっちが嬉しくなるほどの満面の笑みを浮かべた。
「そっ」
何とも料理の作りがいのある子なのだ、我が娘は。
アレルギーの類はまったくないと医者から太鼓判を押されてるし、なにを出しても旺盛な食欲で平らげてみせる。なにより味の感想が分かりやすくていい。
「・・・・・・」
食べ終えた自分のお皿を重ねて、自分で台所に持っていこうとするクララと、それを支えるため立ち上がるロニーに、マイペースにまだ食べているラナ。
あたしは、コーヒーを飲み干しながら万感の思いに囚われていた。
なんてーか、思いがけず出来てしまった初めての子どもに内心ビビりまくってる時期に、そこにいきなし、プラス2名も扶養家族が増えると聞かされたのだ。表情にこそ出さなかったけれどあの時の心境ときたら、機関銃陣地に全裸で突撃しろと命じられるほうが気が楽だわなんて、本気で考えていたほどだった。
だけど蓋を開けてみたら、何とも手間のかからない素直な子ばかりで拍子抜けしてしまった。母親業ほど辛いものはない、そんな世の評判は、嘘だったのだろうか?
「子育って・・・・・・思ったより楽だったわね」
✳︎
【“テッサ”――調理室】
ある日突然、12人の子持ちになってしまった気分はどういうものか? わたしならその質問に、こう返答することでしょう――胃潰瘍まったなし、と。
「ううっ・・・・・・」
西太平洋戦隊の古強者たち。またの名をミスリルでも名高い変人の巣窟を率いてきたわたしです。それにロニーやラナさんやクララちゃんと、それなりに子育てにも関わってきた経験もあり、自信はあったのですが。
しかし現実は、そんな希望的観測をたやすく凌駕していきました。この船の子どもたちときたら、みんな個性が強すぎるのです。
ヒセラちゃんの言葉にしたがって、重い足を引きずりなから、やっとの思いで調理室にたどり着く。
およそ調理室ときいて思い描くものが、そこにはすべて揃っていました。銀色に反射する調理器具たちは、清潔の証。逃げ場のない洋上において火気厳禁は当然配慮されてしかるべきで、蒸気と電気がガスコンロの代わりを務めている。
なにせ空間の限られている船の上ですから、全体的にこじんまりしているものの、それが結果的には、子どもたちの背丈にあってる気もしました。
「あらー、テッサさんだわー」
調理室にどうしてか大集合していた子どもたちのうち、ふくよかな体格をしてるマリルーちゃんが、わたしの存在に最初に気がつきました。
「ヒセラがちゃんと伝言を届けられるなんて―、すごーい」
「あの、問題発言な気がしますよそれ」
たしかにあの子は、ちょっとコミュニケーションに問題を抱えていますけども。ひどい評価もあったものです。いえ、一概に否定はできませんけど・・・・・・ね。
おっとりした性格のマリルーちゃんは、何事にも動じない精神性を持ち合わせていました。
それはハスミンちゃんも似たようなものかもしれませんけど、あちらが何者をも通さない鉄壁だとするなら、マリルーちゃんは、クッションのようにすべてを受け止めてしまうタイプ。つまりこの子も、いい性格の持ち主なのです。
言動とは裏腹に利他的なハスミンちゃんと異なり、もうちょっと個人主義の色が強いですけど。
「いけませんよマリルー、友の献身を疑ってはなりません」
首からたくさんの宗教的なネックレスを下げながら、慈愛に満ちた笑顔をベリンダちゃんは浮かべてました。冷静に、穏やかに諭してくるその声は、まるで宣教師さんのように厳かに聞こえてきて、その声についついわたしは――身構えてしまったのです。
この12歳の女の子とわたしの間には、ちょっとした過去があったのです。
衣食住が整うと、つぎにわたしが考えたのは、教育の必要性でした。なにせこの船の子どもたちの大部分は、学校に通った経験がなかったのですから。
でしたら僭越ながらわたしが教鞭をとって、空いた時間に教師役を努めようとはりきっていた。そこに立ち塞がってきたのがベリンダちゃんなのでした。
信仰の自由は認められて然るべきですが・・・・・・“テッサさん”なんて、にこやかに話しかけておきながら、頑として彼女は主張を曲げなかったのです。
“この教科書おかしいですテッサさん、だって地球は平らです”と。
まさか21世紀になってまでガリレオ=ガリレオの主張をくり返すことになるとは、ついつい教育の敗北という言葉が脳裏をよぎったものです。
地球が平面ならば、地平線のさきで風景が消えるはずないでしょう? とか、もっと単純にお月さまはまんまるでしょ? とか、あの手この手で説明を試みたのですが・・・・・・聖書を枕にして眠るような原理主義的すぎる女の子のまえでは、まるで効果がありませんでした。
気づけば授業風景は、科学と宗教の対立というイデオロギー的なものに変わっていって、わたしはついに敗北を認めてしまったのです。
その裏には、まあこのぐらいならと問題を設定してみたところヤンさんから、“大佐殿、これ大学の専門研究機関レベルの難問ですよ”という冷静な指摘もありました。
あの出された問題集を読むことすら叶わず、途方にくれる子どもたちの虚無の目線は、わたしの新たなトラウマとなっていました。だ、だってわたし、10歳ごろはあれぐらい普通にやっていたんですもの・・・・・・“テッサって、手加減を知らないよな”というノルさんの冷たい声もまたあれなのです。
「ヒセラの友情力が天まで届き、我らが主がヒセラを導いてくれたに違いありません!!」
爛々とした眼差しに、ウッと身を引いてしまう。子ども、子どもなんですから、と自分に言い聞かせてみても、科学の申し子としましては、やはり苦手意識を感じてしまう。
だってこの子、自分の考えに迷いがないんですもの・・・・・・。
「あ、あのですね。ヒセラちゃんは単純に自分の意志で、ちゃんと伝言を届けただけですよ」
「ではテッサさんは、否定なされるのですか? 頭の中にどこからともなく届いてくる謎の導きについて!!」
「・・・・・・ええ」
「なんと!!」
目が、目が合わせられない!! だって、別にいいでしょう? わたしのウィスパードの症状と、ベリンダちゃんが指摘する導きとやらは、ぜったいに別ジャンルですもの!!
「ではテッサさんは、あくまであのヒセラが独力でやり遂げたといわれるのですね?」
エベレストに登頂したわけでもあるまいに、偉業を成し遂げたように言いますねこの子もまた。
「現に伝言がちゃんと届いたからこそ、わたしこうして此処にいるんですし」
ぱちくり、長いまつげをしたベリンダちゃんが目を瞬かせました。
「・・・・・・マジで」
「友と呼ぶなら、ちょっとは信じてあげなさい」
わたしは調理室にいる最後のメンバーのほうを見ました。その少女というよりも童女という表現のほうがふさわしいマリアちゃんは、どうしてか空の缶詰を手にして、カラカラ振ってました。
「じつはマリア、なんも考えてねえです?」
虚空を見つめるその眼差しに、知ってますとついつい答えてしまいそうになる。ふぅ・・・・・・なんでしょう、このケティさんとは別系統なストレスは。
「どうしてわたしを呼んだのか実は、心当たりはあるんですけど、やっぱり理由はお昼問題かしら?」
現に、そろそろ昼食時だというのに調理室の中には、香ばしい匂いひとつしていません。
お料理番長のカロリナちゃんは、今だにハスミンちゃんに見張られながら大事をとって自室で療養中だそうですから、12人+2人+もう1人分の食事を誰が用意するのか? 問題になるのは、必然でしょう。
「ポテトチップスならすぐ出せるんだけどー」
「イヤですよもう、あんな雑な食事は」
ノルさんのこしらえたポテトチップスを挟んだサンドイッチ、その正式名称はクリスプサンドイッチといい、なんでも由緒あるイギリス食であるとか。
作り方は簡単。まずマヨネーズかマーガリンをパンに塗ります、次にポテトチップスを挟みます。完成。
ああ、だからとか、口が裂けても言ってはなりません。イギリス料理は全体的に雑であると、あらぬ風評が世に流布していますがそれは一部だけのこと。イギリス料理にだって美味しいものはあるのです。ほら、インド料理ですとか・・・・・・。
「せっかく宅配ピザ三昧な、雑にすぎる食生活から改革を成し遂げたんですから、わたしはもう過去に戻るつもりはありませんよ?」
それとなく、あらかじめ宅配という選択肢を潰しておきました。どのみち今晩は、ついに覚悟を決めて買い出しに赴くつもりですし、昼食だけどうにか凌げればいいのです。
「昨日のスープがありますから、あれを温め直すんじゃダメなんですか?」
そうです、100人の子どもたちを迎えるための食事が寸胴鍋にたくさん詰まっているはず。冷凍庫から取り出して、人数分に小分けしてから電子レンジでチン。それで済むでしょうに。
「それはまあ、個々人にあわせて味付けまで変えてくるカロリナちゃんお手製の芸術的な食事に比べますと? 大勢に振る舞うために作られたスープというのは、いくぶん味気ないかもしれませんけど」
そんなわたしの指摘に、顔を見合わせるマリルーちゃんとベリンダちゃん。どうもわたしの知らない事情がありそうな風向きです。
「実は―」
いつもの間延びした声音でマリルーちゃんは、今だにカラカラ缶詰を鳴らしてるマリアちゃんの手からその空の缶詰を奪いとり、わたしに見せてきたのです。
「カロリナー、張り切りすぎてよく見てなかったみたいで―」
缶詰に刻まれた刻印を、わたしは声に出して読んでみました。
「1969年・・・・・・これって製造年数ですよね?」
それでもあんまりな数字ですけど、マリルーちゃんは首を振りながら言いました。
「賞味期限みたいですー」
100人分という大変なオーダーにくわえて、まさかの鼻風邪。そのせいで普段なら絶対にしないようなミスを、どうやらカロリナちゃんは犯してしまったみたい。
ということは、冷蔵室に眠るあの寸胴鍋の中身は、産業廃棄物も真っ青な劇薬ということになるのかしら。あ、あやうく奴隷商人から助け出された子どもたちに、食中毒を巻き散らかすところだった? 冷や汗が溢れでる。
「奥にあったとっておきの肉の缶詰を使う―、とか言い出した時に、なんとなーく嫌な予感がしてたのよねー」
そこにベリンダちゃんが補足説明していきました。
「マリアが急に見せてきた缶詰に怪しげな年号が書かれてまして、慌てて確認してみたらごらんの有様というわけですよテッサさん。危ういところで危機を逃れられたことを、主に感謝しなければ」
ということは、マリアちゃんは救世主ということ?
「じつはマリア、すべての行動が計算ずくです?」
読めません。本当にこの子の本心、どこにあるのやら。
ですがこれは大問題でした。
お手軽に昨日のぶんを再利用すればいい、そう気楽に構えていたのに、ちょっと暗雲が垂れ込めてきました。午後にはCIAとの交渉が控えてますし、昼食をぬいてへろへろな状態で大切な交渉に挑むのは、避けたいところ。
「よし」
なら善は急げ、腕まくりしてキッチンと向き合います。
「お料理ー、できるんですかー?」
ちょっと意外そうなマリルーちゃんの声。どうにも、この子たちの中にあるわたしのイメージには、家庭的な一面は含まれていないみたい。
でもまあ、そうですね。この船においてわたしの立場って、ずっとエンジニアと作戦指揮官の二足のわらじでしたから。それ以外のイメージがあるとしたら、生徒の圧に負けてしまうへっぽこ教師ぐらいのもの。意外と思われても、仕方がないのかも。
「大丈夫ですかー、指とか切り落としませんー?」
「確かにわたしの運動神経は下の下ですけども、そこまで不器用じゃありませんって・・・・・・ですが、念のため絆創膏を用意してくれると喜びます」
料理が得意だと胸を張って言えるほどの経験は、わたしにはありません。ですがこれでも短期間、お料理を学んだことはあるのです。
その動機とは、活発な“彼女”への対抗心と、“彼”への下心。ほどなくその思いが玉砕してしまい、ついつい腰が引けて料理から遠ざかってしまったのです。
なるほど、わたしの腕ではカロリナちゃんはもちろん、“彼女”のように巧みに包丁を操って食材を細切れにするとか、とうてい無理な芸当ですとも。ですが以前、お料理を学んでいたときにある真理へとわたしは至っていたのです。
「いいですか皆さん、料理で一番大切なものをこれからお教えします」
「愛情ですかー?」
一般論を述べるマリルーちゃんに対し、
「今日の糧をくださった、神への愛でしょう!!」
ちょっとコメントしずらいベリンダちゃんの意見が飛んでくる。ですが、どちらも正解じゃありませんでした。自信満々にわたしは、お料理における真理を口に出していく。
「料理で一番大切なものそれは――数字です」
子どもたちからどこかガッカリした空気を感じたものの、正義は我にありと知っているわたしは、へこたれません。周りがなんと言おうとも、“それでも地球は回っている”のですから。
せいぜい自らの主張を押し通してやりますとも。
「化学の素晴らしいところは、方程式に従いさえすれば誰でも結果が再現できるということにつきます。いいですか皆さん? 自分の色を加えようとか、いらぬアレンジを料理に加えようとした瞬間から、地獄の門は開いていくのです。
長い経験のすえ、熟練の料理人のみなさんが完成させたレシピに奴隷のごとく従う、それが美味しい料理をつくる秘訣なのです!!
さあキッチンタイマーと、計量器を用意してください。時間はコンマ単位、食材をグラム単位で計測すれば、おのずとレシピに書かれた結果を再現できることでしょう!!」
なんとなく子どもたちのガッカリ具合が増した気がしますけど、これは一味足せばより美味しくなるのでは? なんて色気を出したせいで、壊滅的な失敗をしたことがあるのです。
あのような悲劇は、二度と繰り返されるべきではありません。
わたしは自信たっぷりに秘密兵器こと、調理室の戸棚のひとつに前に聞いたとおりに収まっていた、カロリナちゃんお手製のレシピブックを取り出していきました。
カロリナちゃんは料理が上手。その評価に間違いはありませんが、その実力ときたら、すでに職人の域にまで達しているのです!!
わたしは彼女に字の練習も兼ねて、レシピブックの執筆を勧めていました。それが思わぬところで助けになった、そういうわけです。
「前々から思ってたけどー」
「ええ、どうもテッサさんてば、カロリナを贔屓しすぎなのでは?」
「男は胃袋から掴めというけどー、別に性別は関係ない理論みたいー」
「聞こえてますよ?」
ひそひそ話に釘を刺しつつ、わたしはいずれ料理界の聖典になるに違いない、若きマエストロのレシピブックを開いていったのです。
きっと感動のあまり料理を作りたくなり、仕事に手がつかなくなるに違いない。そういう思いからこれまで中身を確かめてこなかったのですが・・・・・・慣れないながらも真摯に書かれた文字を、わたしを読み込んでいきました。
1ページ目に書かれていたコロンビア伝統のスープ料理、アヒアッコの作り方は以下の通り。
火加減、だいたい。塩、目分量。容量、心持ち少なめに――わたしはそっとレシピを閉じました。
料理は化学であると、ついさっき喝破したばかりのわたしでしたが、まさかこういう形で逆襲を食らうとは・・・・・・カロリナちゃんってどうも、想像以上に天才肌だったみたいですね。このレシピ、高次元すぎて参考にすらなりません。
「あのー」
「大丈夫!! 大丈夫ですから!! わたしに任せてください!!」
慌てて取り繕うという行為ほど、不安を煽るものもないでしょう。とはいえ代替手段は、ちゃんと用意してありました。
「カロリナちゃんの天性の才能には、遠く及びもつかないでしょうけど、わたしだって幾つか得意なレパートリーはあるんですから」
かつて丸暗記したレシピは、まだ頭の隅っこに残ってました。記憶の宮殿からその1冊を取り出して、ぺらぺらページをめくります。
そうですね・・・・・・ドタバタしてるうちに時計の針が思ったより進んでましたから、あまり手間のかからないパスタにしますか。
茹で加減さえ見誤らなければ、だいだい誰でも美味しく作れる定番料理。自分の料理レベルの低さを物語るようであれですけど、この期に及んで、実力もないのに奇をてらっても仕方ないでしょう。
わたしはバッと手をかざし、子どもたちに食材を要求しました。
「ではまずパスタ!!」
「切れてます」
ベリンダちゃんの冷静な指摘に、即座に方針転換。脳内レシピを駆使して、別の主食をちょっとアレンジすることにする。
「それじゃお昼は、パンにしましょうか!!」
「もうパン粉すらないのー」
マリルーちゃんの声に、へこたれやしません。これぞ日本食について調べた甲斐があったというもの。実はコロンビアにおいて
とはいえ、ジャポニカ米とは性質が違いますから、ここはオーソドックスにチャーハンにでもしましょうか。
「ならばお米をお願いします!!」
「最後の一粒、さっきマリアが食っちまったです?」
「あの・・・・・・逆に聞きますけど、何ならあるんですか?」
3人揃って、子どもたちが示し合わせたように顔を見合わせました。
「「だから困ってるんです(よー)(です?)」」
ハモる声にわたしは、すべてを察しました。どうりでわたしを調理室に呼びつけるわけですよ、お料理以前にそもそも食材が全くないと。
「そ、それならそうと、早く言って欲しかったんですけど・・・・・・」
「ですからー、ポテトチップスならまだ1袋ありますよー。マリアが半分、たべちゃったけどー」
どうもカロリナちゃんは張り切るあまり、残る食材をすべてを費やして100人分のスープをこさえてしまったらしいのです。そこに毒薬そのものな肉の缶詰まで投じてしまったせいで、デ・ダナンIIの食糧事情は一挙に、マイナスに傾いてしまったと。
では今朝方のノルさんのクリプス・サンドイッチって、割と苦肉の策だったのかしら・・・・・・雑とか言って、申し訳ない気分になる。
絶望に視界が染まる。こうなればもはや、ピザ屋さんを大喜びさせる大口注文をするしかもう手がない? まさかカルテルのお金でピザを買うわけにもいかないでしょうから、私費を費やすしかないでしょう。
あれこれ出費を重ねているうちに、赤字決算となってしまったわたしの預金口座を、さらに痛めつけることになるとは、憂鬱でした。そこにババーンと、力一杯に扉を開け放った人影が、わたしの目に飛び込んできたのです。
それは大きなクーラーボックスにお魚をたくさん詰め込んだ、ケティさんでした。
✳︎
【“テッサ”――食堂】
「じゃあ、いきなり魚釣りを始めたのって・・・・・・」
見た目かなりグロテスクながら、漁師さんのおっしゃっていたとおりにその味ときたら無類なピラニアのスープを啜りつつ、わたしはケティさんに話しかけていきました。
“このまんまじゃ昼飯抜きになりそうだったし、誰かがやんなきゃならねえと思ったんだぜい”
なんて、何でもないことのように手話で言ってのける赤髪の少女。恩着せがましさなんて微塵もありません。普段は、どうしたものかと頭を悩ませてしまう問題行動ばかりなのに・・・・・・ふとした拍子に気配りが効くんですから、わたしの内心はかなり複雑でした。
素直にお礼をのべるのに躊躇してしまう。でも、それでは良い模範にならないでしょう。言葉をつまらせながらも、なんとか謝意を表明しました。
「えっと、助かりましたケティさん」
わたしの手話と口語のお礼を聞くと、うむ、なんて偉そうに赤毛の少女は頷いていきました。
お昼時の食堂には、全員集合しておりました。
わたしと同じテーブルを囲んでいるのは、ノルさんにケティさんにハスミンちゃんといった年長組と、シャワー浴びて着替えてきたらしいヤンさん。
こちらから目と手がとどく範囲にある隣のテーブルには、この船で一番小さな年少組が座ってました。いつも一緒な元気なキキちゃんとピピちゃん、そして謎生命体なマリアちゃんのトリオたち。
そのさらに隣のテーブルに残りの面々が座ります。
シーロくんやバウティスタくんという正反対な男子2人組と、まだ鼻を啜っているものの食欲はあるようで一安心なカロリナちゃんに、ベリンダちゃんとマリルーちゃん。そして隅の方には、さきほどの対応について謝ったところケロッと“そんなことあったっけ?”と言ってのけてみせた、繊細なんだか図太いのか分からないカリナちゃんが、ピラニアのスープに舌鼓を打っています。
わたしとヤンさん含めて、総勢14人。ここにデ・ダナンIIの総員が揃っている計算になります。もちろん、軟禁中なあの鳥籠の少女を除いてですが。
どうしてあの子がビューティフル・ワールド号に乗っていたのか? 爆弾説が消えたとはいえ、その謎が解けるまでは、まだあの子を自由に歩きまわらせる訳にはいかないのです。
申し訳ないけれど、あとで食事を持っていかないと。
「だから前に言ったろうテッサ、当人はどれも善意でやってるんだって」
ピラニアのスープを髪をかき分けながら、どこかセクシーな仕草で啜っていたかとおもえば、とつぜん鋭い牙がならぶ頭をガジガジと丸かじりしだす。
その主張とおなじく、言ってる当人もまた矛盾の人なのだから困ってしまう。
「ただ基本となる倫理観が常人とかけ離れているせいで、動機に結果が結びつかないんだ」
「それ、人生損してるっていいません?」
「そうとも言う」
バンバン、テーブルを叩いてケティさんが抗議してきました。
“おうおう、人の手作り料理食べておきながら、あんまりなんだぜアニキ!!”
なんでも器用なケティさんは、なんと料理まで守備範囲に収めていたのです。もっとも当人の性格をあらわしてその調理風景は、ワイルドでしたが。
その味はカロリナちゃんに及ばないのは当然にしても、余裕しゃくしゃくで及第点を越えてくるのだから侮れない。
「あらためて、ありがとうございますねケティさん。これで、ビューティフル・ワールド号の件はチャラということで」
「だが俺の
素直に彼女のファインプレーを受け止められないのは、やはり積み重なった前科のせいでしょうねえ。
不貞腐れてしまったケティさんは、こちらに背を向けながら、もくもくと食事を続けていく。
「はぁ・・・・・・なんか気疲れしちゃいました」
振り返ってみれば、特にこれといった仕事もしていないのですが、堪らない疲労感が両肩にのし掛かる。午前でこれでは、午後にはどうなってしまうのかしら?
「若いのに情けないな」
「やめてくださいよノルさん。わたしより年下なのに、変なところで年寄臭いこと言うんですから。大体、この疲れはノルさんにも原因の一端があるんですからね」
「どうして?」
「みんなのお兄さん分なのに、ずっと1人で訓練してたそうじゃないですか」
きっと良い汗かいたのでしょう。シャワーを浴びたあとらしく髪の毛は艶やかで、お肌はツルツル。相変わらず無駄に美形ですが、今はピラニアの頭を齧るのにお忙しいらしく、この瞬間だけは野人の風格がありました。
「ふへへばべら」
「食べるか、喋るか、どちらか一方にしろ!!」
精神が完ぺきに復調してくれたヤンさんが、とても真っ当に説教してくれてわたしは嬉しかった。これで苦労が減ってくれるはず。
もしヤンさんが壊れたままだったら、わたしはずっと頭の片隅にあったものの避けてきた作戦を決行していたこと、疑いの余地はありません。すなわち――かつてわたしの右腕としてTDD1の副長を担ってくれたマデューカスさんの召喚です。
タフな子どもたち、あるいはそれを、図々しいと言い換えてもこのさい構わないでしょうが・・・・・・西太平洋戦隊の大人げない大人たちからすらも恐れられてきたマデューカスさんの力量を駆使すれば、一筋縄ではいかないあの子たちのお目付け役だって、完ぺきにこなしてくれたはず。
でも、やっぱりやめておいて大正解かしら。元奥さんとも色々あるみたいですし、わたしの問題で、元部下の平和な生活をこれいじょう掻き乱すのもあれですから。
細い身体に反して、これで意外と健啖家な面があるノルさんは、もはや骨だけになったピラニアの頭をお皿にゴトンと戻していきました。そしてデザート代わりの、ポテトチップスをのぞいて食料庫に残っていた最後の食品であるコーラへと手をのばす。
「俺が手を差し伸べたところで、嫌な記憶が蘇るだけだろうさ」
「また捻くれたことを言う・・・・・・」
「カロリナはよく悪夢にうなされているそうだし、ヒセラはときどきフラッシュバックで固まることがある。ベリンダにしても、この船に来たころはああも神さまどっぷりじゃなかった」
「・・・・・・」
そう言いながらノルさんは、新しいコーラ瓶を手に取り、ある器具へと押し当てていく。キュポナンと、どこかで音が鳴りました。
「俺はあくまで管理者側のシカリオだ。それを忘れる訳にはいかないさ」
タフでなければ、生き残れなかった。それはこの船の子どもたち誰もに共通している点でしょう。あの子たちの間には、強かさと同時に、どこかどうしようもない諦めみたいなものが垣間みえるときがあるのです。
こうとしか生きられない、だったら精一杯それらしく生きてやる。特にノルさんは、その考えに取り憑かれている気がする。
「ノルさん・・・・・・」
わたしは一抹の寂しさを胸に、中性的にすぎる少年を見つめていきました。そんな感情の交錯のあいまにも、キュポナンと小気味よすぎる音が混ざりこむ。
「みんなの分のコーラの蓋を開けながら言っても、いまいち説得力に欠けますよ?」
実はわたしたちのテーブルの上には、お料理だけでなくガリルARMなどという、ノルさん愛用の自動小銃までもが載っていたのです。
この木と鉄でできた古めかしいライフルを作り上げたのは、軍事強国として知られるイスラエル。そのイスラエル軍はガリルの設計当時、ある問題に悩まされていたそうなのです。
兵士たちが
普通、こういった問題行動はくれぐれも慎むようにと上官からご沙汰が下るか、あるいは別途、栓抜きを配るとか、色々と対策があったでしょうに、どうしてかイスラエル軍上層部はこの事態を深刻に捉え、新小銃の設計チームにこう依頼したそうのです。
次期正式ライフルに栓抜き機能を取り付けられたし・・・・・・こうして世にも珍しいといいますか、オンリーワンにすぎる栓抜きつきライフルがこの世に誕生したのでした。
代わる代わるあらわれては、ノルさんにコーラ瓶の渡していく子どもたち。それをノルさんはなにも言わずに受け取っては、ガリルARMのハンドガード基部に設けられた栓抜きへと導いてキュポナン、栓を開けていく機械と化していた。
言動不一致とはまさにこのこと、ノルさんの言い分と異なって子どもたちの方ときたら、この性別不詳にすぎる少年にまるで、壁を感じていないのです。
「見た目ではそうだろうさ。だが内心では・・・・・・」
キメ顔でなにやらのたもうとしてましたが、そこに現れたのが、この船で最年少にあたるピピちゃんとキキちゃんのコンビでした。ちょっと引っ込み思案な前歯の欠けているピピちゃんと、それを庇うようにお姉さんぶっている、いつもバンダナ姿のキキちゃん。2人とも4、5歳ほどの女の子です。
その純粋無垢な圧力にノルさんは無言のうちに屈していき、またしてもキュポナンと、音が鳴る。
わーと喜びの声をあげて駆けていく年少組を見届けてから、見かねたハスミンちゃんが助け舟を出してきました。
「まあ兄さんの気持ちなんてどうでもいいです。大切なのは、こちら側の感情ですから」
「あのな・・・・・・」
「黙らっしゃい」
「・・・・・・」
片目片足の少女にやり込められたノルさんが沈黙する。その背後では、わいのわいのと子どもたちが賑やかに騒いでました。闇はすぐ近くに潜んでいるのかもしれませんが、賑やかさの前にその姿は、影も形も見受けられませんでした。
不肖の義理の兄とことなって、お箸を操りながら丁寧にピラニアを解体していくハスミンちゃんが言いました。
「昼食はどうにかやり過ごしましたがテッサさん、夕食は抜きなのかと、ハスミンは今から不安でなりません」
「大丈夫ですって、今日中に買い出しに行ってきますから」
歳に見合わない冷徹さを瞳からほとばしらせながら、ハスミンちゃんが言葉を重ねてくる。
「かのCIAを脅迫しようとしている矢先に、少々呑気すぎるのではと、ハスミンは気をもみます。それともこれは単に、テッサさんが豪胆にすぎるだけなのでしょうか?」
「背に腹は代えらないだけですよ、どっちも切実な問題ですから」
買い出しは買い出しで大変になることは、もう目に見えています。特に不安なのが、カルテルの命のもとわたしをホテルで拉致しようとした、あの汚職警官たちの存在でした。
もし彼らが正当な権利を駆使して、わたしたちを逮捕しようと試みてきたら・・・・・・その動機がたんなる意趣返しだったとしても、法的な正義はあちら側にあるのです。
わたしはコロンビア政府から見たらたんなる不法滞在者ですし、ノルさんには無数の前科がある。
これで相手が汚職警官たちだけであれば、戦闘も止むえないと考えてはいました。ですが、もし彼らが警察無線で応援を呼んだとき、駆けつけてくる警官たちのなかには、かならずや普通のおまわりさんたちも含まれているに違いないのです。
ノルさんの戦闘力を駆使すれば、負けるとは思いません。ですが・・・・・・戦闘を避けられるなら、それに越すことはない。それがわたしが、買い出しを渋ってきた理由のひとつなのでした。
「あっ、今のうちですよハスミンちゃん」
と、わたしは暗くなりかけていた話題を明るい方向に持っていこうとする。
「? 何がですか?」
「その他の頼みごとをするチャンスがですよ。食料以外にも色々と買い込んでくるつもりですから、ちょっとした嗜好品とか欲しいご本とかあるなら、この機会に買ってきます」
長期航海のために割と娯楽施設が充実しているこのデ・ダナンⅡですが、水深が深すぎる屋内プールにせよ、ミニバーにせよ、大人向けの娯楽が基本なのです。設計者としては成人した船員を想定していたでしょうから、当然といえば当然の設備なんですが、あの子たちにはちょっと早すぎる。
娯楽の充実は、ストレスの面からもきちんと考えておくべきでした。長期戦にしたくはありませんが、CIAとの交渉の結果がどうなるかまだ分かりませんから。
それと秘密ですけど、教科書も買い込んでくるつもり。特に地球平面説を否定できる、分かりやすい教材が欲しいですね。
すると、悩ましげに顎に手をあてだすハスミンちゃん。
「・・・・・・ふむ。食事のあとに皆から聞き込みをして、提案をまとめておきます」
「そうですね、それがいいと思います。もちろんその中には、ハスミンちゃんの提案も加えるように」
さも意外そうに彼女は、言う。
「ハスミンの、ですか?」
「そうです。いつも頑張ってるんですから、これぐらいは当然の報酬ですよ」
こういうことに慣れていないんでしょうね。いつも冷静なこの子にしてはめずらしく、戸惑いの気持ちが感じられました。
いつになく真剣に悩み、おずおずと喋りだしていく片目片足の少女にわたしは、年相応の姿を見出してしまった。
「では・・・・・・歴史の本とか、構いませんでしょうか?」
「歴史の本?」
ハスミンちゃんと歴史、変わったチョイスにすこし驚く。
「駄目、でしょうか?」
いつもの鉄面皮はどこへやら、愛らしい上目遣いでそう問われてしまっては、ついつい本屋さんの歴史の棚をすべて買い込んでしまいそう。わたし存外、親バカの気があるのかもしれません。
でもこれは良い兆候でしょう。将来の希望について語り出す、それがどんな些細なものであったとしても、その目をつぶしたくはありません。
「いえいえ!! どんな本でも構いませんとも!! ですけど・・・・・・歴史とひとことに言っても色々ありますけど、ハスミンちゃんが興味があるのは、どの時代の歴史なのかしら」
「実はハスミン、近代史に興味があるんです――ノルマンディー上陸作戦とか」
ノル・マンディー。どうにもわたしの耳には、ハスミンちゃんのそう発音しているようにしか聞こえませんでした。
「他には、ノルマン・コンクエストとか」
ノル・マン・・・・・・奇妙な区切り方に、奇妙な不安がよぎりだす。
「あ、あのハスミンちゃん・・・・・・」
「はい」
「えーとですね。つまりハスミンちゃんは、ヨーロッパ史に興味があるということで良いのかしら?」
「ヨーロッパですって? いきなりどうしたのですかテッサさん、なぜハスミンがヨーロッパなんぞに興味を抱かなくてはならないのですか?」
真顔でなに言ってるのかしらこの子。
「あの・・・・・・ノルマンディーはフランスの一地方の名前ですし、ノルマン・コンクエストというのは、ノルマン人による一連のイングランド征服をさす言葉なんですが」
すると、ひどく感心したようにハスミンちゃんは何度も首肯していく。
「なんと、新たな見識をえて視界が広がった気分です。そうですか、ノルマンディーはフランスにあるのですか・・・・・・」
わたしは意見を聞くために、あるいは助けを求めるべく、噂のノルさんの方を見やりました。
ですが彼は、つけっぱなしのテレビから垂れ流されている、メキシコにできた新しいジオフロント型のショッピング・モールとやらがよほど興味深いらしく、画面から目を逸らそうとしません。
この歪んだ兄妹愛について、いずれノルさんと真剣に相談すべきでした。
「ゆくゆくはハスミン、ノルウェーに住みたいと考えております」
ノル・ウェー・・・・・・もう好きにしてください。
そろそろ時間が迫っていました。思いがけず美味しい食事を摂れたことですし、気力も十分。機材もあらかじめ確認しておきたいですし、メリッサと最後の相談もしておきたい。そうです、CIAへの脅迫の時間が迫っていました。
ですがその前に、すべきことがありました。
15食目となるピラニアのスープを器によそって、ミネラル・ウォーターのボトルと一緒にお盆にのせる。鳥籠の少女にちょっと遅れた昼食を届けなければなりません。
念のために自分がついていきましょうか? というヤンさんの申し出を断りました。だって相手はか弱い女の子、これは油断ではなく、物々しくしすぎて相手に悪感情を抱かれたくないという考えもありました。
まかり間違っても転けないよう、足元を確認しながら慎重に、上部構造物の階段を登っていきました。
あるいは、これは失策なのかもしれない。あの子たちのいい意味での能天気さがあれば、頑なに殻にこもってる鳥籠の少女の心を、解きほぐせるかもしれない。そういう期待がありはする。
ですが・・・・・・やはりプロとしての本能を、わたしは優先してしまっていた。
幼い少女を閉じ込めている部屋のまえに立ち、まずはノックして名を名乗る。返事はありませんが、これまでの少女の態度を思えば、それは自然な対応でしょう。
ドアノブを試しに捻ってみましたが、固く閉ざされていてビクともしません。ケティさんにお願いして、内側から開けられないよう改造してもらったドアノブはちゃんと機能してるみたい。鍵を取り出し、ドアノブへ差し込んでいく。
「ちょっと見た目がグロテスクですけど、味はさっぱりしていて美味しいです・・・・・・よ?」
鍵はちゃんと掛かっていた、なのに――部屋の中には、誰も居なかったのです。
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