XXXIV “3ヶ月前・・・・・・”


 眠りから目覚めるように目蓋を開けると、そこでは雨が降っていた――だがそんなもの、俺の仕事に影響したりしない。


 標的オブジェクトボは、モンドラゴン・ファミリアと怪しい繋がりがあるとかいう自称・人権派の弁護士。当人も危ない橋を渡っていると自覚的であるらしく、カネで雇った護衛が四六時中はり付いていた。それだけ分かれば十分だ。


 武装、練度ともに、その護衛そのものは大した障害じゃない。だがなんとも慎重なことにこの弁護士、人通りの激しい繁華街に事務所を設け、出入りをするのはいつだって道路に100人は歩き回ってるタイミングのみという慎重派であることが、頭痛の種だった。


 カリは目立つことをいたく嫌う。


 これがモンドラゴン・ファミリアだったら、武装トラックテクニカルに分乗した兵隊ソルダードを事務所に直接送りつけ、市内丸ごと巻き込んでの市街戦を平気でやらかしたろうが・・・・・・ここはコロンビアであって、メキシコじゃない。


 表面上は世間に向けて平和ラ・パスを取りくろわなければ、組織のビジネスに支障が出る。少なくとも俺はそう聞かされていた。


 名ばかりの人権派の実態は、近所の住民を肉の盾として平気で活用する悪党。だがこの弁護士がある種のやり手であることは、疑いの余地がない。暗殺の難易度はかなり高かった。


 さも当然のように防弾仕様のBMWで送り迎えさせているのもそう。今日は雨が振っているからさして違和感はないが、これがピクニック日和の快晴時でも傘を指しながら出てくるのだからたまらない。狙撃対策の目隠しとして、傘というのはもっともリーズナブルかつ有効な手段なのだ。


 できれば周囲には被害を与えず、この弁護士だけをピンポイントに仕留めたい。そうしろと命じられてもいた。


 だが同時にこの弁護士よほどのことをやらしたらしく、何があっても殺せと厳命されてもいる。だから俺のプランAが失敗したら、即座にBMWを相手取るにはいろいろと馬力不足にすぎるケティ操るイエローキャブに飛び乗り、奴の車を抜き去りぎわ、棒の先にとりつけた粘着爆弾を車体横へと貼りつけ、爆殺する手筈になっていた。


 無論、そんなことをすれば周囲への損害は免れない。


 俺たち兄弟カルナルのために費やされた訓練費用は莫大だ。仮に暗殺が成功したとしても、こんな雑なやり方じゃ投資に見合わないとして、上から相応のペナルティを課せられてしまうだろう。最悪、再教育されかねない。


 だから俺は、テレビを利用することにした。


 みんなテレビが大好きだ。だから映画やドラマで描かれるスナイパー像というものを頭から信じて、いざっという時に誰もがまず頭上を見上げてしまう。


 標的までほんの30m。


 消音器サプレッサーを取りつけたガリルARMから放たれた銃弾は、綺麗にBMWに乗り込もうと身をかがめた弁護士の禿頭を貫き、ピンク色の霧を後頭部からぶちまけさせた。


 慌てふためく護衛たちがピストルを引き抜き、いきなり発砲を開始するが・・・・・・その銃弾が向かう先は俺ではなく、ふきっさらしの物干し竿が雨に濡れるばかりの、無人の屋上だった。


 狙撃手は上から狙ってくるもの。テレビの植えつけたそういう先入観は、ほとほと悪い文化だと思う。標的が狙えるなら、狙撃ポイントはゴミ溜め同然の裏路地からでもべつに構わないのに。


 もうかれこれ数時間前から俺は夜闇に紛れるため、麻布を黒いラッカースプレーで塗りたくった即席の迷彩シートを頭からすっぽり被り、弁護士を正面から狙える位置についていた。低い弾道ならば、傘の目隠しもほとんど役に立たない。


 雨音に紛れて效果が倍増している消音器サプレッサーはちゃんと銃声を消してくれたし、引き金を引いた直後にケティ謹製の遠隔起爆装置――大層な名前だがようはリモコンキーの変種――のボタン押して、人気のない屋上でビニール袋に包つまれた爆竹を起爆させることにも成功していた。こうしてやれば、破裂音がした屋上に向けて馬鹿みたいに撃ちまくる護衛たちという、こちらにとって都合のいい間抜けどもが誕生してくれる。


 単眼鏡マグニファイアで増幅されたEOTechホロサイトのサークルドットの向こう側。照準器のなかで崩れ落ちていく、紫色のネクタイなんて趣味の悪い服装をした弁護士の末路について、俺はもう気にもとめていなかった。手早くガリルのバイポッドとストックを折りたたんで、可能なかぎりコンパクトにまとめていくのに忙しかったからだ。


 サプレッサーも外し、最後に脱いだばかりの麻布をライフルの上から巻きつけてやれば、遠目にはちょっと長めな荷物を抱えているだけのただの男に見えるはずだった。


 漆喰とレンガ造りの壁に挟まれた裏路地を、明日から再就職先を探さねばならない護衛たちに見つかる前に、来たときとは逆方向に抜けていく。


 時には、身体を横にしなければ抜けられないほどの隘路。そのうえコロンビアの窓という窓には、どこも防犯用の柵が取り付けられているから、あやうく服を引っ掛けかけてしまいそうになる。


 2、3度曲がり角を折れると、すでに背後の銃声は収まっていた。今ではもう雨音のほうが強い。


 アメリカでは、銃撃戦がはじまるとまるでこの世の終わりように人々が悲鳴をあげて逃げ惑うそうだが、ここでは違う。銃声がしたらやれやれと首を振ってしばしその場を離れ、終わった頃にひょっこり戻り生活を再開するだけだ。


 あの弁護士の死もすぐ忘れ去られ、さっきまで死体があった場所に、露天商が適当なファストフードでも売りに出すことだろう。それがこの国の日常というものだった。いっぺんに100人死ぬとかの大惨事でもない限り、殺人ごときでは誰も騒がない。そんなものありふれている。


 裏路地を抜けた先、車が行き交うちょっとした大通りに出た。


 砂場にてきとうな木がいくつか立っているだけの中央分離帯の一角、普段ならTシャツ売りが商品を陳列している、木の棒の連なりがそこに置かれていた。


 あれが目印だった。


 雨天のために休業状態の露天商跡地、そこからそう遠くないところにイエローキャブが停車していた。ハンドルを枕にしてケティが暇そうにしているその車に、周囲から違和感をもたれぬよう、雨に濡れるのを気にしてる風をよそおって小走りで近寄っていく。


 ケティはずっと、裏路地をバックミラーで監視していたに違いない。何もいわずに車内から後部座席の扉を開けて、俺を迎え入れた。だがすぐ乗り込んだりはしない。まずはその開いたばかりの後部座席に上半身をねじこみ、リアシートにガリルをのせてから偽装用の毛布で覆い隠す。


 雑な隠し方だが、どうせここらの警官はカリに買収されてる。どうして軍用ライフルを後部座席に積んでいるのかと質問されたところで、どうということもない。


 むしろ心配なのは、いざっという時にガリルを引っ掴んで応戦するしかないシチュエーションの方だった。モンドラゴン・ファミリアがどれくらいあの弁護士に入れ込んでいたかは知らないが、末端とはいえ身内を消されたら、すぐ暗殺者アサシーノの姿を探して近所の捜索を始めかねない。そういう行動力があの組織にはある。


 だからいつでも即応できるよう、手元で最高の火力を掴みやすいよう置いておく必要があったのだ。備えは常に、それを欠かした奴から死んでいく。


 準備万端。ガリルを安置してから後部のドアを締め、それからすぐさまイエローキャブの助手席に乗り込んでいった。するとケティは即座にアクセルを吹かし、夜の街へと車を滑らせだす。


 組んでもう何ヶ月になるのか? ケティもずいぶん、この仕事に慣れてきたものだ。

 

 俺と組み始めた直後は人の言うことをまるで聞かず、いつだって自分の流儀を押し通そうとワガママ三昧だったのに・・・・・・最近では、こういう地味なバックアップ役も卒なくこなすようになってきた。


 単に成長したのか、下手こくたびに科学者連中に飲まされる薬にいい加減、辟易したのか。表情豊かな割に本心をあまり見せないタイプだから、どちらなのかよく分からない。


 ちょうどよく顔を隠せるうえに、幅広のツバが雨水を弾き飛ばしてくれるため被ってきたミリタリーキャップも、これにてお役御免。むしろ車内で帽子をかぶっているほうが、周囲からあらぬ注目を引きかねない。だから帽子を引っ剥がして、そのままダッシュボードへと突っ込んでいった。


 モンドラゴンの尖兵、かの悪名高き護衛隊エスコルタはよく訓練されている。フロントガラス越しでも、こういう小さな違和感を目ざとく見つけかねないのだ。


 ふと、皮肉を感じた。


 謎の帽子男として指名手配されるかもしれないと恐れている相手が警察でなく、別のカルテルなのだから。これが皮肉じゃなくて何なのだろう? この国の法秩序は、俺が生まれた時にはとっくに崩壊していた。


「・・・・・・ちゃんと前見て運転しろ」


 手話か筆談でしかコミュニケーションがとれないケティは、車の運転をいたく嫌っていた。音楽で気を紛らすとかもできないから、人と話せないのが退屈で仕方がないのだろう。


 それに今日は、このままいけばただの運転手役だけで終わってしまう。アクションが無いから鬱憤が溜まっているに違いない。こちらに横目で不満顔を向けていたケティは俺の手話をしばし見つめ、それから頬を膨らませながらもちゃんと正面を向いてハンドルを握り直した。


 朝昼晩、1日3回の薬だけでなく、俺たちがふだん摂る食事についても科学者連中はうるさく口を挟んできていた。


 口にしていい食料の種類に、よく分からない記号だらけの栄養の計算法・・・・・・だがこのルールを一番最初に破ったのは、誰あろうトラソルテオトルのトップである“ママ”だった。


 科学者連中の抗議なんてどこ吹く風で、彼女は俺たち兄弟カルナルにカロリー過多な手料理を、なんども振る舞ってくれていたものだった・・・・・・。


 仕方ない・・・・・・ここ最近、隠れ家セーフハウスとして使っている安宿に戻ったら、ケティ好みの油たっぷりな食事を与えて機嫌を取ることにしよう。腹いっぱい食べればすぐ機嫌が直る、どうせそういうお手軽なやつなのだから。


 濡れそぼったジャケットを後部座席に放り、帽子を入れたまま開きっぱなしだったダッシュボードの中から、ウィッグを取り出そうと手をのばした。


 捜索されるとしても短髪の男としてだろう。だからあえてオレンジ色のロングヘアーを用意してきた。とはいえ、着替えようにもなにせ狭い車内だ、服装はいかんともし難い。だからせめて髪型ぐらいは、というのが俺の考えだった。


 いわば半女装の格好になろうとした直前、手が止まる。


 “でじたる”は俺の天敵だ。ただし携帯電話だけは例外・・・・・・これがないと仕事が立ち行かなくなってしまう。


 コロンビアは早くから、世界でもトップクラスに携帯電話が普及した国だ。


 昔の携帯電話は、今のものよりずっと高価だったそうだが、月収数億ドルの麻薬王からしたら些末な額だ。些細な出費よりも、いつどこでも手下と連絡が取れるほうが大事というわけで、今日でもカルテルと携帯電話は切っても切れない関係になっている。


 光りながらガタガタ揺れているダッシュボードの中の携帯電話を手にとって、耳元に当てていった。


 今だに扱い慣れないが、携帯電話は便利な道具だと認めざるおえない。だが、かのパブロ=エスコバルの実質的な死因が当局に電話を盗聴されたからだ、という歴史的事実を踏まえると、便利だとしても迂闊なことは喋れない。


 これはカリ・カルテル全体のルールなのか、それともトラソルテオトルの関係者だけのローカルルールなのか知らないが、電話を受けた側は必ず、相手が話すまで待つことになっている。5秒経っても話さないようならそれはサツだ。位置が特定される前に電話を捨てて、すぐその場を離れる。


 だから通話ボタンを押しても俺は、“もしもしアロ”なんて社交辞令を言ったりはしなかった。


Reencarnaciónリンカナシオン


 今週の合言葉を知っているのは、MSCトラソルテオトルの関係者だけ。これに答える応答コードも決まってる。


Inviernoインヴェルノ。俺です」


 ルールその2、携帯電話で固有名詞は絶対に使うべからず。名前なんてもってのほかだ。声を知っている相手同士なら、あやふやな会話でも十分に意思疎通ができる。


『いま空いてるか?』


 仕事が終わったばかりですので暇ですとは、口が裂けても言わない。答えは短く、かつ的確に。


「空いてます」


『花を買って、戻ってこい』


 これにて会話終了。もう二度と電話がかかってくることはない携帯電話を二つに折ってから、窓を開けて道路へと放り捨てた。


 次の連絡用にあらかじめ携帯電話は十台以上も支給されている。ダッシュボードには袋詰めされた携帯電話と濡れたミリタリーキャップ、そして“花”こと最低限の女装道具一式が収まっていた。


 わざわざ花なんて暗号が配される辺り、俺の女装は上にもそれなりに評価されているようだ。別に命じられなくても化けている真っ最中だったから、やることは先ほどと変わらない。


 しかし、女装してからホテルに潜入しろとかならいざしらず、戻ってこいというのは妙な指令だった。なにか向こうであったのだろうか?


 ウィッグを被ることを前提にいつも髪は短めにしているのだが、そろそろ切る頃合いだった。短髪というより、もうミディアムヘアな地毛がウィッグから飛び出しそうになる。そろそろ切るか、結わないとダメそうだ。


 もうわき見運転はご免だった。だからケティの懐からいつものスケッチボードを失敬して、ちょっとしたメモをしたためてからかざしていく。途端、イエローキャブの行き先が安宿から埠頭へと変わる。


 ウィッグを被るだけで自然と言葉づかいも代わるものだ。ここに化粧も加われば、もはやマインドセットは完璧だ。


 バックミラーで口紅の塗り具合を確認していると、赤信号で車が止まった・・・・・・そんな交通事情を良いことに、ケティがこちらを見つめていた。


 不満顔。ただし先ほどとは、別種の不満があるらしい。


 人にああしろこうしろと命じられるのが大嫌いなアナーキスト娘にとって、いきなりの帰還命令は腹が立ってしょうがないのだろう。


 まったく・・・・・・読み取りやすいよう唇をわざと大きめに動かしながら、俺は話していった。


「ワガママ言わないの。腕があるから上も黙ってるけど、あんまり反抗的な態度が続くと、アンタも“処理”されちゃうわよ?」


 こんな雑な脅し方では、ケティは鼻もかけやしない。むしろ挑戦的に鼻を鳴らす始末だった。アナーキズムと天の邪鬼の見分けがついてない奴はこれだから困る。


「・・・・・・あとでアイス買ってあげるから」


 子ども扱いするなとこれはこれで不満そうだったが、それでも青信号に変わると同時にアクセルを踏み込んでくれた。


 ちょうど終業時間らしく、大挙して港から出ていく港湾労働者たちの車列を横目に俺たちのイエローキャブは、他に誰も利用者がいない港の入り口をめざしていった。


 一応は貿易会社の偽IDを持ってはいるが、門をまもる安月給の警備員は身分証の提示なんて求めず、珍妙な格好をしている俺たちをあっさり顔パスで港の中へ招き入れた。


 カリの賄賂システムは複雑すぎて、もう誰が誰を買収してるのか理解できていない。あの警備員だけか、それとも会社全体がカリの配下にあるのか? 検討もつかない。


 コンテナヤードをしばし走ると、すぐフロントガラスに不気味な影となって、巨大なコンテナ船がその威容を見せつけてきた。その船には、MSCトラソルテオトルの名がそこら中に白文字で刻まれている。


 仕事で使った車は基本、使い捨てだ。この国の捜査能力はお粗末なものだが、カリはそもそも慎重な組織だし、カルテル関連の犯罪となれば気まぐれなDEAが急に出しゃばってきて、いわゆる最先端の科学捜査とやらをやりかかねない。


 今どき髪の毛1本残すだけでも命取りになる。秘密を守るのは大変なのだ。


 このイエローキャブも明日までには解体して、東南アジアかどこかに屑鉄あつかいで発送される手はずになっていた。今日中に届けるはずだったのに予定が狂ったから、馴染みのスクラップヤードには、あとで断りの電話を入れる必要があるだろう。


 コンテナ船に輪をかけて巨大なガントリークレーンのすぐ横で車が止まる。


 杞憂に終わってよかったガリルはじめ、車内にある余計なもの一切合切をバックパックに詰めて背負っていく。普段から残しても大丈夫なものしか置いてないが、ちゃんと回収しておけば“おそらく”なんてあやふやな言葉を使う必要もなくなる。


 大きく膨らんだバックパックのスリングが肩にずっしりとくる。もう遅い、今日はこのまま船に泊まり込むことになるだろう・・・・・・俺はため息をついた。


 普段なら食べ物で釣ればすぐに機嫌を直すのに、車内灯に照らされたケティの顔は暗く、先ほどよりもずっと憂い顔だった。


 降りる気配のない相棒に、口語と手話で話しかけていく。


「どうしたの?」


 ケティは拗ねた犬のような目線をこちらに向けてきたかと思えば、いつの間にか書き込んでいたらしい愛用のスケッチボードを、無造作に投げ渡してきた。

 

 文面はこうだ。


[ああいうアニキの顔は嫌いだ]


 何の話なのやら。首を傾げていると、苛立たしげケティは手話を披露しだす。


“アイツらの命令を聞いてる時のアニキはまるで、飼い主に殴られても平然と尻尾振ってるバカ犬みてえだ。だから・・・・・・好きじゃない”


 命令は絶対だという簡単なルールが、ケティにはまだ理解できないらしい。


 この調子だと、どれほど有用だとしてもケティはいずれ“処理”されてしまうだろう。世の中はそういう仕組みになっている。流れに逆らうことなんて、できやしないのだ。


「・・・・・・やっぱり荷物はあなたが持っていきなさい。オレはこのまま、事務室に直行する」


 ケティと俺は相部屋だから、今背負っているこのバックパックを預けたとしても、どうせ行き着く先はおなじだ。荷物をすべてその場において、微動だにしないケティを無視し、そのまま船舷に取りつけられた階段アコモデーションラダーを登っていった。


 トラソルテオトルの上部構造物の一階層目、船内に設けられたオフィススペースといった感のある事務室には、小型テレビでサッカーの中継をぼっーと気の抜けた顔して眺めている、縮れ毛の管理人ことイポルトが居た。


 ついでにいえばイポルトは、先程の電話の主でもあった。


「早かったな」


 顔も向けずに出迎えられた。


「たまたま近場に居たので」


 イポルトは、見ての通りあまり勤労意欲に満ち溢れたタイプじゃない。だがしっかり仕事をこなせるからこそ、俺たちシカリオの管理なぞ任されていた。


 いつものこととはいえ、今日は輪をかけてやる気なさげだ。どうも急な暗殺の依頼が来たとか、そういう緊急性の高い仕事じゃないようだ。


 うんざり、そういう形容詞が似合いそうな顔をイポルトはしていた。

 

「カリナの件は覚えてるな?」


「もちろん」


 チキンワイヤーの棺桶に彼女を巻いてから、河に突き落としてきたのは誰あろう俺なのだ。だからちゃんと覚えている。


 粗相をした身内の処理は、頻繁ではないにせよたまにあった。


 特にトラソルテオトルの裏の仕事・・・・・・あれに従事している人材は病みやすいらしく、ふらっと姿を消すことがたまにあるのだ。カルテルの恐怖は身に沁みてるから当局に通報したりはしない。せいぜい実家に身を寄せてとかが関の山なのだが、当人がどう弁明しようとも死人に口なし。


 行方不明者は殺人よりずっと騒がれない。たとえ、一家まるごと消えてもそういうものなのだ。


「あのスケの後任が今週中に来ると聞いてたんだがな・・・・・・今週中に来るとのたまってた馬鹿にさっきもう一度尋ねてみたら、来週までには来ると言い出してな」


 なるほど、みなまで聞く必要もない。エスコート役に欠員が出て、急遽その代打として俺が選ばれたわけだ。人身売買をしているような後ろ暗い組織の弱みだ。バイトの選定にすら苦労させられる。


 ゲストの気分を害さないよう社交辞令をちゃんと心得えつつ、もちろん美貌も兼ね備え、なによりも口が堅い。そんなエスコート役というのは、そうそう見つからないのだ。


 土地柄、口が堅い傭兵なら掃いて捨てるほど居るだろうが、案内を仰せつかるのが筋肉ダルマでは客受けが悪くなる。それは、俺の同類である兄弟カルナルたちも同様だ。そこでこの船きっての“美女”が選抜された、どうもそういうことであるらしい。


「着替えてきます」


 俺の答えに、ため息をつくイポルト。


「悪いな。日本人ヤポネーズどもが急に押しかけてきたもんで、人手が足りん。もうゲストは中にいるから、ルームサービスと後処理を頼む」


 謝ってこそいたが、イポルトがサッカー中継から目を離すことは結局、一度もなかった。


 部屋番号はイポルトから聞いていた。足早に上部構造物にある自室に戻り、ベッドでふて寝してるケティの頭のうえに“寝る前にちゃんと歯を磨きなさい”とメモしたスケッチボードを落としてから、手早くシャワーを浴びる。


 街に溶け込める一般人風のパンツルックから一転、着替えはいつもの南米風チャイナドレスにしておいた。やはり普段から着慣れているものが良い。


 適度に抑えられた色気を振りまくのも、エスコートの必須条件。そういったところも含めての人選だと俺は知っていた。別に、これが初めてでもない。用意ができ、すぐ自室を後にした。


 ハイヒールを鳴らしながら、コンテナの横に設けられた隠し通路から娼館へと足を踏み入れていく。ここに来る前に厨房にいたスタッフから、遅くなったわびの品だという高級ブランデーと、注文の品であるというサンドイッチセットを渡されていた。トレイにそんな琥珀色の液体とパンをのせながら俺は、目当ての部屋を探していった。


 何度来ても、コンテナの中とはとても思えない場所だ。イギリスあたりに立ってそうな屋敷の内装をした、静謐な空間。血のように赤い装飾品が場によく調和している。


 無数に並ぶ扉たち。そこから部屋番号を探してはいたが、ご丁寧にネームプレートが掛けてあったりはしない。


 ここは匿名性がすべての施設だ。どれほど御用達の客であっても送迎はかならずこちらの手順通りにおこない、道順を把握されぬよう、行き帰りには目隠しとノイズキャンセルヘッドホンの着用が義務づけられる。


 薄っすらとここが船であると察している客は多いかもしれないが、この内装もあって確信にまでは至れないだろう。


 大金と引き換えに俗世のノイズを気にすることなく、好きなだけ、これまで密かに胸に抱いてきた欲望を解放することができる――それがこの空間の目的なのだった。


 究極の信用商売。もっともその実、室内の様子はすべて隠しカメラで撮影されているのだが。その映像が単なる保険なのか、それともこの施設が運用されているなのかは、俺には知る権限がなかった。


 俺の知らないことは、つまり船の管理者たちから知るべきでないと判断された情報に他ならない。俺の仕事とはすなわち――従うことなのだ。


 分かりやすい目印こそ無いものの、部屋番号そのものは割り振られている。そうでないとルームサービスも届けられない。


 扉の数をかぞえて、頭の中だけにある地図を頼りに、目当ての扉の前で立ち止まる。


 ブランデーが載っかったトレイを構え直してから、わざとらしくない微笑みを口元に浮かべる。防音性が高いから、ノックしても中に聞こえないことがたまにある。


 だから壁紙と一体化するように隠されていたインターホンを押した。


「遅れて申し訳ありません。ご注文の品をお持ちしました」


 キーを高くすれば自然と女声になるというのは、とんだ間違いだ。声質よりイントネーションの方が重要だったりする。


 我ながら完璧な女声。実際、相手は気づいた様子もなく、インターホンの向こうから呑気な声が返ってきた。


『あっ、すいません・・・・・・ちょっと待っててもらえますか?』


 えらく腰の低い、つたない英語だった。


 この船を訪れてくる金持ちにしては珍しいタイプだが、ステレオタイプにすぎる日本人像そのままにも思えた。頭ごなしに人を怒鳴りつけて当たり前。そんないつもの金持ち像を想像していたから、ちょっと拍子抜けだった。


 数十秒後、入ってきてもいいと控えめに合図されたのでいざ入室してみれば、バスローブを慌てて羽織ったらしくちょっと息切れてる、小太りのアジア人が卑屈な眼差しをこちらに向けてきた。


「いやぁー、申し訳ない。こんな注文しちゃって」


「お気になさらず、むしろ謝罪致しますわ。当方の不始末で、ご注文の品をお届けするのが遅れてしまい・・・・・・こちらのブランデーは、そのお詫びのサービス品です」


「あっ、それはまた・・・・・・ご親切にどうも」


 男は男らしくあれ。そんな男性優位主義マチズモが蔓延する南米に生を受けた身としては、そのゲストの性格は奇異に映った。自分よりも腰の低い客なんて初めてだ。


 一礼してから、テーブルのうえに注文の品を並べはじめる。


 ミネラルウォーターとサンドイッチが本来の注文の品。いかにも栄養補給だけが目的というラインナップだから、内心、詫びの品としてブランデーは止めたほうがいいのではとも思っていたのだが、口答えする権利はどうせない。


 ゲストの髪は濡れ、すこし開いているバスルームの扉の向こうから、クラシック音楽の旋律が流れてくる。どうもお楽しみはあっちでしているらしい。


「ご注文の品は、以上で宜しいですか?」


 ニッコリ笑いかけると、恥ずかしげに顔を逸らされてしまった。こんな施設を尋ねてる割には、えらくナイーブな人物だ。


「ああ、うん、ありがとう」


「では、他にご用命がないなら私はこれで」


 そう念押しすると、なにやら日本人ゲストが逡巡しだす。


 いろいろと迷っていたようだが、それでも最後は欲望に背中を押されたらしい。おずおずと新たな注文を口にし始める。


「・・・・・・えーと、実は言いづらいだけども」


「なんなりとお申しつけくださいませ。この部屋に居られる限り、支配者はお客様なのですから」


「・・・・・・じゃあ、思い切っていうけども・・・・・・その、もう“壊れ”ちゃってさ」


 俺は、半開きの扉の向こうから漏れてくる湯気をちょっと眺めた。


「その、初めてで加減がよくわからなくてさ」


「では、商品をふたつとも?」


 ダブルでの注文だったと、厨房に立ち寄ったときに聞いていた。だからこそ長期滞在しているのだろうが・・・・・・それにしても早すぎる。


 だが俺の問いかけにぶんぶんと、ゲストは頭を振って否定した。


「いやいや。もう片方はまだ息があるんだけどさ・・・・・・こうも人間が脆いとは、驚きでねえ・・・・・・その、追加とかそういうのって・・・・・・やってないの、かな?」


 どのような商品でも、お求め次第でなんでも提供いたします。そういう売り文句になってはいたが、完全予約制なのには理由がある。


 ちゃんと準備期間させあれば、客の意向に沿うどんな商品だって仕入れられるが、途中で継ぎ足しを要求されるのは、俺の知るかぎり前例がない。


 ・・・・・・どちらにせよ、俺の一存ではどうにもならない、か。廊下にある内線電話で管理者、この時間帯だとまだオフィスに居座っているに違いないイポルテに聞いてみるしかないだろう。


 とりあえず客に要望の品を尋ねてみると、この際だから性別も人種もなんでもいいと言われた。ただ、頑丈だと嬉しいとのことだった。


 柔和な顔をしてこの客、なかなかのサディストであるらしい。


 別途値段がかかるかもしれないと念押ししてから、客に愛想笑いで見送られるという奇妙な経験をしつつ、俺は廊下の内線電話のもとへ直進していった。


 場に馴染むアンティーク調の受話器を手にとってみれば、ダイヤルを回すまでもなくいきなり発信音が鳴り響く。どうせこの電話、事務室にしか繋がらないように出来ている。


『俺だ』


 どうやら電話を受けとりつつ、同時にスナック菓子を口に放り込んでいるらしいイポルテのねちゃつく声音が、受話器から聞こえてきた。


「ノルです。ルームサービスは滞りなく届けましたが、お客様が追加をご所望でして」


『おいおい・・・・・・2人も連れ込んでおいて、もう使い潰したのか?』


 さすがのイポルテも絶句気味だった。


「性別人種ともに不問。年齢もあまり気にしないが、頑丈なのが好ましいと」


『そりゃそういう嗜好向けにやってる商売だけどさ。まったく人は見かけによらねえなあ・・・・・・』


 しばし頭の中で電卓をはじいていたらしいイポルテは、なにか思いついたらしい。


『あの口だけは達者な、臆病ゲリラ小僧を使うか』


「あれは確か判事が予約していた品では?」


『あっ。そうか、そうだったな、予約品かくそっ。ちょっと待ってろ』


 これは自分の手に余ると判断したらしく、イポルテが別の電話をかけている音が受話器越しにかすかに聞こえた。だが会話内容までは、不鮮明でまるで聞き取れない。


『いま“ママ”と話したんだがな・・・・・・』


「はい」


 いつも不遜なイポルテだったが、あの人との会話の直後だと、ついつい襟を正してしまうようだ。ほんの短い会話だけで、こうまで人に緊張を強いれられるのは、“ママ”ぐらいのものだろう。


『あー、お前には少し言いづらいんだがな・・・・・・あのアイルランド娘を使ってはどうかと、そう仰っていた』


「ケティをですか?」


 あがった自分の声はというと、あまり驚いてはいなかった。そうか、思ったより早くこの時が来たかという、諦観のほうがずっと強い。


 むしろ、らしくもなく気まずげなイポルテの態度の方が驚きだった。俺たちの取り巻く世界はいつだって生よりも死の方が近しく、自然だったというのに。


「では兄弟カルナルの誰かを実行役にしてください。アイツはけっこう腕力がありますから、万全を期すべきです。

 ケティは今、自室で休んでいます。私が呼んでいるとでも言って適当におびき寄せて、それから拘束すべきです。ただし、薬は使わないほうがいいでしょう。お客様がどのような状態をお求めになるか分かりませんから」


 しばし電話口が沈黙した。


『・・・・・・他の奴らより人間味があるから忘れてたが、そうだったな。お前も所詮、他の犬どもと一緒か』


 “科学者どもはちゃんと仕事してたんだな”、そうひとりごちるイポルテに俺は、


「?」


 意味が分からず、首をかしげる他なかった。


 猟犬のようにかくあるべし。そういう風に俺を育てたのは向こう側なのに、指示にちゃんと従ったら、それを不思議がるとは。


『わーかった。お前の相棒だ、そのように手配してやる。

 お前は追加が認められた旨をゲストに伝えてから、部屋の外で待機してろ。あの跳ねっ返りの性格を考えるに、ゲストに怪我をさせかねない。

 薬を使うのが一番手っ取り早いんだが、それをゲストが嫌がるようなら無理いってでもお前が立ち会ってゲストをお守りしろ。

 それがあのアイルランド娘の教育係としての最後の仕事だ、分かったな?』


 指示を承り、俺はいつもどおりにの答えを返していった。


「了解」


 電話を切って、部屋にとって返す。委細をすべてゲストに説明しなくてはならない。


「お客さま?」


 先ほどと同じ手順を踏んでインターフォンに話しかけるが、今度は返事がまるで返ってこない。数秒待って、もう一度ブザーを鳴らす。だが沈黙ばかりつづいていく。


 こうなると流石にちょっと不安がよぎってくる。中で何かあったのではないか? まさかとは思うが、心臓発作をおこして倒れてるとか? 


 合鍵は手元にある。もし何の問題もないのなら、無礼を謝罪し、素直に叱られればいい。ほんのちょっと目をそらした隙にゲストに死なれるより、そっちのほうがよほどマシだろう。


 そう考えて、俺はドアノブに手をかけた。


 ・・・・・・そこからは、どうにも記憶が曖昧だ。ハッキリ覚えている部分も、そうでない部分も、互いに混ざり合っていて、もう俺にも真相はよく分からない。

 

 歯型のついたサンドイッチのことは鮮明に覚えている。だが確か、部屋の中に人は居なかったはずだ。そうでないとバスルームに俺が入っていく理由がない。


 シャワーの音が聞こえ、そうだ、半開きの扉をノックしたんだと思う。


「****?」


 なんと言ったのか・・・・・・どうせ断りの文句だろうが、とにかく俺はバスルームに足を踏み入れていった。


 どこも派手に飾り付けられている娼館の中にあって、このバスルームだけは例外的に実用一辺倒な見た目をしていた。まあ、お前は実際に見ただろうから知っているとは思うが。


 天井までもタイル張り。風呂を浴びるだけならここまでする必要はないが、ナイフを思い切り振りかぶると、血しぶきは平気で天井にまで達することがあるんだ。


 ゲストは好きな場所で、好きなように振る舞っていいとされてはいたが、実のところ備品はすべてバスルームに集中されていた。選択は自由、ただし見えないところで巧妙にゲストの動きは制限されている。


 分断化されている記憶・・・・・・だが扉を開けてからの出来事はいやに鮮明で、写真のように脳裏に焼きついていた。


 バスタブは血で真っ赤だった。


 ゲストの言葉を借りるなら“壊れて”しまったモノが、なみなみ溜まったバスタブの水面から両脚だけを晒していた。


 とうに水は満杯だった。蛇口の栓は開きっぱなし、バスタブの縁からは滝のように温水が流れ出て、床一面に広がっている。


 赤い筋のまじる水流が渦を巻いて、絶え間なく隅の排水口へと吸い込まれていく。


 どれも強烈なイメージだ。


 水蒸気の満ちた部屋も、輪切りにされた太腿も、血の赤とタイルの白のコントラストも、視神経が蛇のようにのたうっている眼球も。


 だが、これが俺の世界だった。


 残虐であることが自然であり、カルテルの中であれば義務にもなる、そんな世界に俺は適応して、今日まで生き延びてきた。そういうものなのだと、とうの昔に納得していた。


 贅肉で段々になった背中を晒しながら、何やら糸鋸で床に横たわっている物体を切りつけているこの客と俺の違いは、せいぜいカネを払うか、受け取る側かの差でしかない。


 これまでも死体を隠すために、どれだけの人体を切り刻んてきたことか。もう数え切れない。


 善人を気取るには、とうに俺の両手は血にまみれすぎている。


「あっ、相談は終わった?」


 振り返った客が無邪気に聞いてくる。欲望を堪えきれず、糸鋸片手にバスルームへと舞い戻ってしまったらしい。


 オーダーは、アジア系の色白の少女だったそうだ。そもそもトラソルテオトルには実験のためにさまざまな人種が集められていたから、この要求に応えるのはさして苦ではなかったろう。


 遠くミャンマーから輸入されてきたその商品は、いくつかテストされてから科学者連中に不適合と判断され、こうして在庫処理されていた。


 また記憶が切れぎれになる。視覚は靄がかかったようだが、音だけはいやに耳に残っていた。ゴポゴポ鳴る水音。客の趣味だろうか? 蓄音機から聞こえている歪んだ音色のクラシック音楽。


 そしてすべてが終わった――いや、始まったの方が正しいか。


 気づけば、客がバスタブに頭だけ突っ込んで死んでいた。後頭部の髪の毛がかなり抜けていたし、俺の両腕に残っている必死の抵抗の証である爪痕からして、俺が殺したのは明らかだった。


 だが当時も今も、記憶がない。


 いきなり映画のエンディングだけを見せつけられた気分だった。物語がどうやってはじまったかさっぱりで、主人公の動機も意味不明。だがエンディングだけは鮮烈ですべてを飲み込んでいく、そんな奇妙な映画を。


 どんな理由であれ、客に手を上げたらその時点で終わりだ。


 殴りつけるのすら以てのほか。それなのに俺は大股で一線を飛び越えて、地獄まで足を踏み入れていた。何の自覚症状もなしに。


 どうしてそんなことをしたのか、自分でもまるで分からない。今だってそうだ。


 動揺はしていない。それなのに頭はどこまでもこんがらがり、混乱の極地にあった。


 ふと、人の息遣いを感じて背後を振り返った。タイルの床に力なく横たわる色白の少女――ハスミンは、小さな裸の胸を上下させながら浅い呼吸を繰り返していた。


 悲鳴がまるで聞こえなかったから、てっきりもう死んでいるのだとばかり思っていたが、違った。片っぽだけの虚ろな目で、一心に俺のことを見つめていた。


 目を閉じる・・・・・・そうすれば裸で横たわる片目片足の少女も、糸鋸を掲げる裸の男も消え去ってくれる・・・・・・そんなことにならないと知ってるのに、瞼を閉じて考えを巡らせる・・・・・・耳障りなクラシック音楽は、その時にはどうしてか消えていた・・・・・・目を開ける。現実は変わらずそこに横たわっていた。


 さて、次のシーンへ。またあれだ、下手くそな映写技師がフィルムを掛け間違えたように記憶が飛んでいる。


 手の中にいつの間にかPSSピストルを収めながら、俺はベッドの縁に腰掛けていた。


 いつバスルームを出たのかすらも定かじゃない。水に濡れたチャイナドレスを着込んだまま、ピストルをぶらぶら垂らしながらシーツをびしょ濡れにさせて、ベッドにの隅に腰掛けていた。


 この時、水を含みすぎたウィッグが邪魔くさく思えて、辺りに放り捨てた記憶がある。


 ただ待ち続ける。とうに時間感覚を失っていたから、そうして座っていたのが数分なのか、はたまた数時間なのか永久にわからないだろう。


 ブザーが鳴った。今度は押す方でなく、尋ねられる側でその音を聞いていた。


『追加の品をお届けに参りました』


 聞き覚えのある声、俺の兄弟カルナルの1人にどうぞと、演技もせずに答えていった。


 中の状況を知る由もない相手は、普通に入室してきた。


 扉が開くと、まずケティが入ってきた。いや正しくは、突き出されてきたというのが正確か。


 予測どおり激しく抵抗したらしく、ケティの唇は切れて流血し、目の下は腫れてひどい青アザができ、両手には手錠が嵌められていた。まるで警察に連行されていく凶悪犯のようで、その顔には、激しい怒りと微かな諦めが浮かんでいた。


 ケティを連れてきたのは、俺の1期上のダリオだった。アメリカの音楽が好きで、いつもロックンロールをヘッドホンで聞いていた。


 そんなダリオは、何が起きたのか知る間もなくPSSピストルの無音の銃声に頭を撃ち抜かれ、ずるずると扉にもたれかかりながら死んでいった。


 どんな銃撃戦にも動じないケティだったが、流石にこの展開は予想外であったらしい。ただ目を丸くして、ダリオだったものを凝視している。


 これじゃあ、話しかけても気づかないな・・・・・・仕方なく、俺はケティに近づき、その両頬を掴んで無理やりこちらに向き直らせた。


「ケティ、船の避難計画は覚えてるな?」


 男の声で問いかける。


 強引に振り向かせたはいいが、ケティの目はまだ動揺で揺れていた。その瞳に理性が戻るまで、俺は辛抱づよく待った。


 ケティが息を整えていく。何が何だかまだ分からない様子だが、それでも俺の質問に頷きを返すぐらいには、立ち直ってくれたらしい。

 

「よろしい。なら、このまま素知らぬ顔をして武器庫までいって、必要なだけ爆薬を確保してこい。

 委細は任せる。間違っても船を沈めない程度の分量で、避難経路に沿って30分以内に仕掛けろ。もちろん遠隔操作できるようにな」


 トラソルテオトルに住まう者たちの生活スケジュールは、ひどく規則正しかった。


 ほとんどの者が、コンテナ内に区切られた生活区画で隠者のように暮らしている。これもカリの秘密主義の一環だった。乗組員として登録されている者だけが、好き勝手に甲板を歩き回れる。白衣を着た男女や、強面のロシア人などが平然と日向ぼっこしていたらあらぬ疑惑しか生まないというわけだ。


 だから1日のサイクルを狂わせないよう、目覚め、食事し、そして眠るというスケジュールが厳密に管理されていた。昼夜サイクルで見るなら、今は船内のほとんどが眠りについている時間帯だった。


 俺の反乱はすでに始まっていた。


 だが長年計画してきたものじゃないのは明らかで、実際、イポルテが勤勉にも部屋の様子を隠しカメラ越しにモニターしていたら、とうの昔に破綻していたに違いない。


 追い込まれてからはじめて、計画らしきものをひねり出していったにすぎない。


「もし誰かに見咎められたら、ナイフかサイレンサー付きの武器にかぎって使用を許可する。ギリギリまでこっちの動きを気取られるな。

 分かったか? 分かったなら、一度だけ頷け」


 一度だけでいいと言ったのに、首が折れそうなほどケティは何度も何度も頷いていった。


 頷くたびに、自分の置かれている状況を理解していったようで、絶望顔から一転、これを待っていたんだという力強いものに変わっていった。


 本当にまだ聞きたいのか? 結末は知ってるだろう?


 ・・・・・・そうか、ならいい。


 ケティと別れ、その足で上部構造物に向かっていった。まず何よりも、監視カメラの映像を握っているイポルテが邪魔だった。


 俺はもちろん、商品として消費されたはずのケティがぶらぶら船内を歩き回っていることに気づかれたらマズイ。誰もが寝静まっているうちに事をすすめる以外、勝ち目はなかった。


 こちらに背を向けて、今度は映画かなにかを見始めていたイポルテの頭をPSSピストルで弾いた。暗殺用のピストルだけあって効果は絶大。イポルテのシフトチェンジまで時間的な余裕はあったから、死体の隠蔽は、オフィスの扉を閉めるだけで簡単に済ませた。


 次に階段を登り、自室へ向かう。


 弁護士の暗殺に使ったばかりのガリルARMは、ケティの反抗心のたまもので、俺のベッド上に無造作に放置されていた。つまり完ぺきに動く状態で、弾も揃っているというわけだ。


 ガリルのスリングを上半身に通し、予備マガジンがぎっしり詰まったベルトキットを腰につける。まだ船内には、60人以上も残ってる。ケティの爆弾がちゃんと機能しようがしまいが、どのみち火力は必要だった。


 携帯電話に着信。メールの文面によれば、送り主であるケティは爆薬の設置をはじめたという。


 設置を終えたらまた連絡しろともたくさ不器用に返信して、今度はおなじDデッキに住まう兄弟カルナルたちの部屋を尋ねていった。


 トラソルテオトルで一線級のシカリオになれるのは、ごく限られた人数だけだ。俺を含めて総勢たかだか12人。その全員を殺していった。


 説得して仲間に引き入れる・・・・・・そんなファンタジーを信じる女じゃないはずだ。


 誰もが秩序に従うものだ。理屈でいえば、人間は誰しも道路を逆走することができるし、ただの歩行者にいきなり殴りかかることもできる。だが実際にそれがやれるのは、病気の人間か、あるいは一握りの異常者にすぎない。


 兄弟カルナルたちにとって俺は、船の秩序から外れた存在。異常なのはこっちで、正常なのは向こう側。シカリオにとって相手を止めるというのは、つまりは殺し合うということに他ならない。


 廊下を歩いていると、夜中にふと目覚めたのか、ばったりヨラナに出会った。欧州のどこかから連れてこられた、くるくる頭の彼女は、ここでの生活にすばやく適応し、今や船でも屈指のシカリオとなっていた。


「こんな時間にどうしたの?」


 軽い感じでヨラナが聞いてきた。


 俺は何も返さなかった。すでに眠っていた10人あまりをPSSで殺害し、最後の1人はいままさに目の前に立っていた。


 ヨラナはどうしてだか、日本のニンジャとやらを崇拝していた。口癖は、ニンジャは凄いんだよ?だ。だから“シュリケン”とやらによく似てるといって、生まれ故郷の特殊部隊で使われていた折りたたみ式の十字剣をいつも愛用していた。


 無邪気にニンジャの魅力を語っていた少女の目に、一瞬で疑念が満ちていく。血がついてなくとも、殺しの匂いはお互いに嗅ぎ分けられる。だからヨラナはとっさに腰元の、そのシュリケンもどきを抜こうとしたが、俺のほうが早かった。 


 みんな死んだ。俺が殺した。


 爆弾設置完了のメールが届いた。俺はケティに、訓練場に放置されているASに乗り込んで下からの出入り口を封鎖しつつ、武器庫を抑えるように命じた。次はブリッジの番だ。


 今夜の宿直当番は、俺の戦闘技術の師であるミハイル教官だった。


 剃刀のように鋭く、頭も切れれば技も切れる古強者。だが弟子である俺を信用しきっていたのが命取りだった。雑誌から顔をあげる直前、その表紙越しに教わった通りの2連射を撃ち込んだ。


 ケティに最終確認を送ってから、ブリッジにあったパネルを操作し、手筈通りに火災警報を流していく。


 ブリッジのすぐ階下には、トラソルテオトルを仕切ってるトップクラスの人間が集まっていた。まず、警報に驚いて私室から飛び出してきたDr.アレクと出会った。


 ちょっと疲れた感じのハンサムなヨーロッパ系で、歳のわりに若く見えるタイプの医者だった。博識なのに科学者連中とは距離を置いており、あくまで俺たちの怪我の治療にしか関わらない。何かというとアメを配るので、子ども扱いするなと兄弟カルナルの何人かから苦言を呈されていたそうだが、当人はまるで意に返していなかった。


 俺の完全武装ぶりにすこしDr.アレクは驚いていたが、こちらが冷静に声をかけたことで信頼感の方が勝ったらしい。


 これまでと違い、いきなり撃ち始めたりはしなかった。人数が大きいから、分散して隠れられたりしたら厄介だ。小細工を弄するしかない。まずまとめて、それから殲滅する。


 モンドラゴンや当局の襲撃を受けるなどの緊急事態にかぎり、火災警報を鳴らすようこの船ではルールが定められていた。俺はそれを逆手に取って、ミハイル教官の指示でとにかく非戦闘員を避難させるよう命じられたのだと、Dr.アレクに説明していった。


 戦闘状態なら、他の兄弟カルナルの姿が見えないことの説明もつく。


 寝ぼけた頭で無理やりに納得させられていったDr.アレクは、ちらほら寝巻きのまま起き出してきた他の船員を束ねて、外への避難を開始してくれた。自分が地獄へとみなを誘う、ハーメルンの笛吹きだとはつゆ知らずに。


 誰からも尊敬されている医師が音頭をとれば、誰も疑ったりはしない。


 Dr.アレクを先頭に、上部構造物に住んでいるトラソルテオトルが商船だと偽るための人材たち。つまりは事務方、調理人、機関室を管理するメカニックなどの面々が、近くに留めてある艀を目指して、狭い船縁を一列になって歩いていった。


 俺は彼らに同行したりしなかった。一緒に居たら、射界をちゃんと確保できない。


 トラソルテオトルの唯一の出入り口である階段アコモデーションラダーに差し掛かっていく集団を俺は、上部構造物から迫り出している露天階段から見下ろしていった。


 狙う時にもっとも当てやすいのは、標的が縦に一列になっているパターンだ。海とコンテナに挟まれた船縁なら、左右に回避することもままならない。あとはただ、照準器ホロサイトに標的を合わせて引き金を絞っていくだけでいい。


 長距離から1人、また1人と慎重に狙い撃っていた。


 悲鳴を上げる暇もなく、ほんの十数秒でほとんどが倒れ伏していった。誰も逃げ切れたりしない。


 集団の先頭に立っていたDr.アレクが自然と最後になってしまったが、彼は赤い髪を夜風になびかせながら、どこか諦観の念を浮かべつつ狙撃地点に陣取る俺のことを、頭を撃ち抜かれるその瞬間まで眺めていた。


 そのまま船縁まで降り、死に損ないにトドメの銃弾を放っていった。まだ聞きたいか? 懲りない奴だな・・・・・・そう、まだ終わりじゃなかった。次は、隠し区画に乗り込む必要がある。


 隠し扉をくぐると、微かに船が揺れた気がした。ケティが避難していく科学者連中やロシア人の教官たちを狙い、爆弾を起爆させたのだろう。


 その爆発の影響か、隠し区画内のスプリンクラーが作動し始めた。


 知ってるだろうが、隠し扉は上と下の2箇所にしかない。俺たちの自室には、ケティの試作品とやらが山積みになっていて、俺はその中から外からは普通に開けられるが、内から開こうとすれば途端に爆発する起爆装置を失敬して、さっきくぐり抜けたばかりの隠し扉へ仕掛けていった。


 出口はどちらも塞いだ。ASに乗っているケティは、事態を察した教官たちが慌てて武器庫に向かうのをキチンと阻止してくれていた。だがASという巨大兵器に搭乗している以上、ケティは格納庫から出て攻め上がることはできない。


 爆弾で退路を塞いだことだし、その役目は俺が担うしかなかった。


 いわゆる皆殺しマタンサを役割を。


 実はまだ日本人の客はもう1人居り、スプリンクラーのシャワーに動揺しきって、服も着ずに部屋の中から飛び出してきた。同じく裸のカロリナの髪を掴んで引きずりながら、まだ客気取りでこちらに詰め寄ってこようとした。


 怒り心頭なその日本人の頭部めがけて、もう消音の必要もないからガリルで2発撃ち込んだ。それから、上から下へと順繰りに階層を制圧していった。


 隠し区画の廊下は、どこも肉片だらけだった。


 きっとプラスチック爆弾の表面に埋め込まれたボールベアリングが高速で飛び交ったのだろう。兄弟カルナルたち亡き今、最大の脅威であるロシア人の教官たちは、実力を発揮する間もなく避難させようとしていた科学者ごと、その殆どがひき肉になっていた。


 壁に残るのは黒ずみだけ。壁にヒビすら入っていない破壊痕を見て、ほとほとケティの爆弾造りは天才的だと俺は思った。


 どちらかといえば、隠し区画の掃討は、Dr.アレクを殺した時よりずっと気は楽だった。


 生き残ったごく少数の武器といえば、せいぜいがペーパーナイフ止まり。はっきりいって話にならない。出会い頭に“しゃぶれ”なんて要求してきた商品管理のダビドを隠れていた机ごと撃ち倒し、妹のために仕方なくこの仕事をやっていると語る、どことなくあのDEAに似た柔らかい顔をしていた科学者のフェリシオは、あっさりロッカーの中に潜んでいたところを俺に見つかり、他にも息を潜めていた仲間をまず呼び集めさせてから、全員を始末していった。


 頭の中でカウントしてはいたが、途中で人数が分からなくなってきた。だから道中で拾ったサインペンで手の甲に死体の数を書き込みながら、虱潰しを再開していった。


 トラソルテオトルで働いていた奴らの半分は、正真正銘の人間のクズだった。だが残りのもう半分は、道徳心と高収入を秤にかけた、どこにでもいる普通の人間だった。


 悪行は、べつに悪党でなくとも行える。特にこの国ではそんな選択を迫られる人間はどこにでもいる。どれもありふれた話で、そしてべつに、殺さないでおく言い訳にもならない無駄話だった。


 あらかた見てまわり、最下層までたどり着いた俺はサベージに乗ったケティと、互いに殺した人数を突き合わせていった。


 2人合わせて、合計72人。


 こちらの被害はゼロという、ほぼ一方的で完ぺきな虐殺だった。


 リストのほとんどは黒塗りで潰された。残ったのは、のちのシカリオ候補として選出されていたが訓練はまだの幾人かと、出荷を待っていたその他、10人ばかしのガキだけだった。


 だが分かっていた・・・・・・肝心要の最後の生き残りが、まだ残っていることに。


 ケティに後始末を命じてから俺は、行ったり来たり、ふたたび上部構造物へと足を踏み入れていた。


 目指すはEデッキ、上部構造物の最上階のひとつ下だ。こんな騒ぎの真っ最中でさえ顔すら見せなかった、かつて船長室と呼ばれていたこの船の主の居室へと、俺はゆっくり歩を進めていった。


 逃げる時間はいくらでもあったはずだ。俺が隠し区画に突入したあとなら、歩きながらでさえ避難できる余裕があったはず。


 それにブリッジと事務室には、トラソルテオトルで唯一、検閲もなしに外部と通信できる手段もあった。だがカリ・カルテルの増援によって港が封鎖されてたりはしない。


 そう“ママ”は、何もせずまだ部屋の中に居た。


 理由はうまく説明できないが、俺の知っている彼女ならそうするだろうと、なんとなく確信していたから、あまり驚かない。


 避難警報が鳴り響くなか彼女は、自室の中央に鎮座しているサンタ・ムエルテの祭壇に向けて座り、黒いロウソクへと火を灯していった。


 “ママ”の部屋の照明は消されていた。光源は、ちろちろと揺らめく祭壇に捧げられている無数のロウソクの炎だけだった。


 本物のミイラから作られという、等身大のサンタ・ムエルテの像。その骸骨頭に向けて“ママ”は、ゆっくり口に含んだ煙を吹きかけ、それから言った。


「みんな殺してしまったのね?」

 

 深く悲しんでいるようにも、まるで気に留めていないようにも聞こえる、不思議な声に向けて俺は、黙り続けることで肯定の意を示した。


「そう・・・・・・可哀想に」


 艶めかしく、吐息のような言葉遣いだった。


 その言葉の奥には、まるで計算がない。俺の知るかぎり、彼女が嘘をついたことは一度もない。語る言葉のすべてが本心で、すべてが自然体。だからこそ“ママ”は慕われ、そして同時に恐れられていたのだと思う。


 もっとも、自身の過去について俺に話していない事柄は、たぶん無数にあったんだろうが。今となっては、もはや聞く術はない。


 うす暗い室内に合わせて、俺の腕に刻まれたサンタ・ムエルテも、淡く蓄光塗料を光らせだした。


 多くの時間をこの部屋で過ごしたものだった。


 サンタ・ムエルテの像を取り囲む、半円形に配置された9つの椅子たち。それが物語るように、ロウソクをなんども注ぎ足して部屋の中を照らしては、俺たちは色々なことをあの場所でしてきた。


 大半は大したことじゃない。まるで邪教の集会場のように見えるが、実際にあそこで起きてたのは、いつ思い出しても穏やかな出来事ばかりだった。


 ただ話をするだけが一番多かった。時には聖書を朗読したり、悩める兄弟カルナルの相談場になることも。取れたボタンを直すまでそこに居なさいと、出されたコーヒーをただ啜っているだけのこともあった。


 聖堂カテドラルなんて、兄弟カルナルの誰かが呼んでいたな。


 そうまさしく、あそこは教会だったのだ。どこもかしこも狂気に満ち溢れているこの船の中で、そこだけは――いつ訪れても安心というもので胸が満ちていく空間だった。


 この部屋こそが、その狂気の源泉だというのに。


 いっそ命乞いしてくれた方がマシだった。あんな酷いことをするつもりはなかっただとか、くだらない台詞を吐きつつ、俺の足にでも縋りついて泣き喚けばいい。そうすれば簡単に引き金を引けたのに。


 だけど彼女はまさしく母親ママのように慈愛の笑みを浮かべながら、こう言ったのだ。


「何があろうとも、正義は執行されなければならないのよ、ノル」


 それから彼女は長い眉毛をした目をつむり、自分の最期の言葉を、慎重に吟味しているように見えた。


「あなたが私のムエルテなのね」


 ――それで、話は終わりだ。


 期待していたなら悪いが、特にこの話にどんでん返しはない。深い教訓だとか、そういったものもない。


 頭のネジが振り切れたシカリオが、自分の特技を心の赴くまま行使したというだけ。ある意味で、シンプル極まりないお話だ。


 兄弟を、恩師を、そして母親を平然と殺してみせた冷血漢のシカリオにこれ以上のストーリーテリングを期待するな。


 俺はそう、ずっと人の話に耳を傾けていたテッサに言い放ったのだった。


 



✳︎





【“ノル”――MSCトラソルテオトル医務室】


 長々と喋っていたが、終わってみれば一瞬の出来事のようにも思えた。


 あのスタジアムでの激闘から数週間後。かつてDr.アレクの城であった医務室のベッドに俺は身を横たえて、身動きひとつ取れないでいた。


 テッサにいわく、“あなたが手配したお医者様が名医でなかったら、とっくに三途の川を渡ってましたよ?”とのことで、どうも俺の重症ぶりは半端なものではなかったらしい。


 具体的には、手術の最中になんども医学的な死を迎えてしまったほどだとか。


 その度に除細動器やアドレナリン注射でしつこく現世に呼び戻され、今はこうして包帯と点滴のチューブまみれ、朝昼晩と苦い薬を飲まされる日々を謳歌させられていた。


 しかし“アレ”が名医ねえ・・・・・・どうもテッサの奴、あの医者の本業が獣医であると知らないらしい。


 馬のケツに手を突っ込むことを生涯の仕事に定めた男。べつに獣医という職業を差別したりはしないが、奴の医者としてのスキルはよくいってもC級止まり。傷の縫合を蝶々結びでしかできないような奴が、いきなり手術の才能にめざめて俺を救ってみせたとも思えない。所詮は、金欠のシカリオに雇われるような、安かろう悪かろうの部類なのだ。


 俺がこうまで回復できたのは、単に寝るだけで大抵の傷が治ってしまう、己の特異体質のお陰だと考えていた。


 まあ、そういった諸々の経緯はひとまず置いておくにしても、とにかく、俺の術後の経過はしごく順調ではあるらしい。むしろあの重症具合を思えば、回復が早すぎるぐらいなんだそうだ。


 現に半年生死をさまようだろうなんて宣告されたが、昨日など、夜中になんとなくタバコが吸いたくなって1人で車椅子に乗って甲板に出ててみたところ、徹夜していたらしいテッサに見つかり、死ぬほど怒られたほどだ。


 個人的には、車椅子に頼らなくともとっくに歩けたりする。だがそれをやると傷口が開くのどうので文句を言われるから、気を使って車椅子を使ったのに・・・・・・あんな怒ることないだろう。


 怪我人に人権なし。入院生活というのは、暇で、退屈で、ついでにプライバシーも存在しないものなのだ。


 だから血迷ってしまったのだろう。思い出したくもない過去を、ついついせがまれるままに語ってしまった。


 テッサは毎日、医務室に顔を出してはいたが、カリとの戦後処理が忙しいとかであまり長居はしていかなかった。それがどうしたことか事態が一段落したとかで、今日ばかりはリンゴ持参で居座る気まんまんで現れたのである・・・・・・チラ見した壁掛け時計によれば、そういった経緯からすでに3時間もの時が経過していた。


 皮の剥かれたリンゴは誰に食べられることもなく変色し、皿の上で茶色くなっている。


 相槌すらせず、テッサは下手くそな人の話にただただ聞き入っていた。その意図が俺にはよく分からない。


 ワイドショーを見るようなどす黒い好奇心、それはテッサの表情からしてありえないだろう。では感極まりながら、憐れな境遇に同情しているのかといえば・・・・・・そんな安い女だったら、指揮権をこころよく譲ってやったりはしなとも。


 テッサはずっと考え込んでいた。


 柔い見た目だが、その内面ときたら鋼のよう。あの手の包帯がいい証拠だ。普通の若い女は、ナイフで手のひらを貫かれたら考えを改めるだろうに・・・・・・テッサは今だにここに居る。


 コイツはカルテルに喧嘩を売るだけでは飽き足らず、あまつさえ勝利してしまうような女なのだ。


「で?・・・・・・こんな話を聞いて、どうするんだ?」


 どことなく気まずさを感じて、つい皮肉が口をついて出る。


 実は自分が年上だったと気づいてからというもの、何かと説教してくるようになったテッサだったが。今ばかりは、俺の言葉づかいを訂正したりもしなかった。


 そして急に、まるで童話を読み聞かせるような語りを始めたのだ。


「あるところに少年がいました。優しい母親と2人っきりで暮らしているその少年は、毎日をとっても幸福に過ごしていました。

 ですが2人の間には、普通の親子と違うところが一点だけあったのです」


 言いながらテッサは、まだ切り分けられていない真っ赤なリンゴを、見せつけるように手にとった。 


「世間一般の人々が“赤色”と学ぶものを少年は、あれは“緑色”だよと、母親から教えられていたのです」 


「・・・・・・設定にリアリティがないな」


 俺の皮肉は気まずさの裏返し。どうもそれは、当の昔にテッサに見抜かれているらしかった。


 あっさり受け流され、話が続いていく。


「寓話とはそういうものです。

 少年は成長し、初めておつかいに行くことになりました。

 母親から地図を預かっていたので道に迷うことはありません。ずんずん進んでいく少年の前に、横断歩道が立ちはだかりました。

 道路にのびる白線と、3色にかがやく信号機。少年にとって、それはどれもがはじめて目にするものでしたが、戸惑いはありません。だって優しい母親が、あらかじめきちんと交通ルールを教えてくれてたのですから。

 ですが・・・・・・ここで少年が色についてどのように教わっていたのか、思い出してみましょう。

 赤は緑、緑は赤。

 あべこべに教えられた常識のまま、が灯った信号機にむけて少年は、自信たっぷりに歩みだす。鳴りひびくクラクションを聞いても、少年は足を止めませんでした。だって少年からすれば母親は、唯一無二の、絶対の存在だったのですから・・・・・・さて」


 テッサはそこで言葉を切って、轢き殺されたに違いない間抜けなガキの物語に、一区切りをつけた。


「ここで質問です。少年の死の責任は、果たして誰にあるのでしょう?

 横断歩道が赤だと知らずに渡ってしまった少年自身? それとも赤は緑、緑は赤と、少年に自分だけの常識を吹き込んだ母親でしょうか?」


 ため息をつく。寓話と称しつつも、誰が誰の役なのか丸わかりだ。これでは、ほとんど名指しされているようなものじゃないか。


 俺はふたたび、ため息をついた。


 どれほど言い訳しようと俺は、トラソルテオトルの管理者側の人間だった。素性の知れない標的コントラの頭を撃って身内と認められた瞬間からカルテルのため、いや、この船のために何度も手を汚してきた。


 始まりは強制だった。やりたくないことも無数にあった。だが訓練がうまくいった時に、ミハエル教官が掛けてくれた褒め言葉はまだ胸の中でくすぶっているし、科学者連中が怪しげな新薬を試したいと持ちかけてきた時、身を張って俺たちを庇ってくれたDr.アレクに敬意を抱いてもいた。


 この船には家族がいた。血が繋がらないがゆえに、強固な絆でつながっていた仲間たちが。


 フェルナンド、ダリオ、アデラ、イシドロ、ルイス、フロレンツ、タクシン、レオポルド、デシ、マルク、ルフィノ、ヨラナ・・・・・・互いに信頼しあう、あいつらは兄弟カルナルだったのだ。


 それを裏切り、すべてを与えてくれた存在まで殺した。それが俺だった。


 船にいま残っているガキどものためには、仕方がないことだった。そんな言い訳が今さら通用するものか。


 ハスミンとまるでおなじ境遇のガキどもを、これまで何十人もゲストたちに差し出してきたのは、一体誰だと思ってる?


 俺は悪党バンディットだ。それもザスカーよりたちが悪い、善人でありたいという妄想を捨てきれない、薄汚いベスティアなのだ。


 だから俺は答えた。こんな悪党すらも見捨てきれない、銀色の髪をした度のつくお人好しに向けて。


「車の運転手・・・・・・」

 

 小賢しい第三の回答はどうも不正解だったらしく、テッサは容赦なく、紙を束ねて作られた謎の殴打武器で人の頭をぶっ叩いてきた。









【“テッサ”――MSCトラソルテオトル医務室】


 わたしの振るったハリセンはこうすぱこーんと、それはもう清々しい快音を医務室に響かせました。


「まったくもう、あなたという人は!!」


 ノルさんの過去は、あまり淡々とした語り口ゆえに、逆に胸に迫ってくる類のものでした。


 ですからわたしは、真剣に彼に向き合いながら大真面目に答えていったのに、この態度・・・・・・そうでしたね。この人、すーぐ本心を隠して煙に巻こうとするタイプでしたね。


 実はわたし、医務室に来る前に子どもたちとちょっと遊んでいたのです。


 親しくなるための第一歩、わたしもあの子たちも、いずれはこの異常事態から抜け出して平和に帰っていかなければならないですし、まあそのリハビリといったところでしょうか。


 そこでわたしは、昔とった杵柄と言いますか、日本といえば紙細工と、旅行前にミーハー根性で学んだ折り紙のテクニックをあの子たちに披露していたのです。


 折り鶴とかの定番品はもちろんのこと、なにせ大好評でしたから、ついつい調子にのって、かつて知的好奇心からカナメさんにご教示してもらった、この“ハリセン”までも作成してしまった。


 あっ、そろそろ行かないと。そう焦ってしまったわたしは、リンゴと果物ナイフが入った袋に無意識でこのハリセンを混入させてしまったのですが・・・・・・まさか使う機会があるとは。人生って分からないものですね。


 さて、頭をひっ叩かれたノルさんでしたが、良い音はしたものの所詮はハリセンの破壊力。ダメージはまるで見受けられません。


 ですが見た目ではそうでも、ノルさんの押し殺した声にちょっと不安になってしまう。


「・・・・・・痛い」


「えっ、あっ、大丈夫ですか?」


 ハリセンの使用事例についてよーく知っているつもりでしたが、実践はこれが初めてなのです。


 相手は怪我人なのにわたし、なんてことを、などと内心で震えていると。


「頭蓋骨が陥没した」


 なんて無機的に言い放たれ、もう開き直ることにしました。


「・・・・・・そうですよね。時間がないからと麻酔抜きで開腹手術されても、うめき声ひとつ上げない人ですものね。ハリセンぐらいでどうにかなるはず、ありませんよね!!」


「なんでそんなに人の手術風景に詳しいんだ?」


「急きょ助手に任命されたからです。はっきり言って、悪夢のようでした。もう、あれのせいで、ヤンさんとお話しするタイミングだって逃してしまったんですからね・・・・・・」


「?」


 呆れを通り越して、ちょっと疲労感すら感じ始めていました。


 でもこれ、もしかしたら有耶無耶にしたいノルさんの策略かもしれないと思い直して、覚悟を決める。これは、避けては通れない話題でしょうから。


「・・・・・・ノルさん。そんな抜け道的な回答を得ることがこの質問が意図するところじゃないって、百も承知ですよね」


 そうです、ノルさんは馬鹿じゃありません。彼の抜けている部分は、どれも育ってきた特殊な環境に起因しているのですから。


「だがなテッサ。ひき逃げというのは、標的を高い確率で殺傷できるうえに、素早く現場を離れられ、かつ証拠隠滅も簡単ということで、世界中の殺し屋が愛用しているテクニックで――」


「知りませんよ!! そんな殺し屋マメ知識!!」


 ええ、ええ、分かっているんです。


 この人、話は逸らすことはあっても相手をからかったりはしないって。


 いつも大真面目。ただしその真面目の方向が、いかんせんシカリオとしての常識に基づいてるせいで、どうしても会話にズレが生じてしまうのです。


 こうなっては仕方がありません。すぱこーんと、二度目のインパクトが医務室に響きますが、カナメさんほど良い音がしないのは、わたしの経験不足が致すところかと。


 ちょっと頬を膨らませながら、わたしは言いました。


「あなたが罪悪感の虜になっているのは、先ほどの話からよーく分かりました」


「・・・・・・知ったように言うな。俺は単なる、身勝手な悪党というだけだ」


「いーえ、違います。わたし自身そうだったから、こうもしたり顔で話せるんですよ。

 いいですか? あなたが反乱を起こした理由は単純明快――単にハスミンちゃんを助けたかった、ただそれだけですよ」


 子どもに選択肢なんてありません。良くも悪くも与えられるがままを受け入れ、その小さな身体で状況に適応していくしかない。


 そういった意味でいえば、ノルさんはサバイバーと呼べる存在なのでしょう。


 地獄のような境遇をどうにか生き延びてきた。ですがその特異に過ぎる環境を当たり前のものと受け止めてしまったせいで、誰が間違っているのか自覚することができない。


 だからこう思い込むしかなかったのです――すべて自分のせいだと。


「ノルさん、あなたは途方もないお人好しです。自分よりも、見ず知らずの他人を助けようと命を張るような、そんな方なんですよ」


「・・・・・・そのお人好しに誘拐されたのは誰だ?」


 その反論は、わたしにはだいぶ苦し紛れに聞こえました。


「その誘拐した相手にアジトの位置が知られたというのに、殺して口封じしようとか思いつきもしなかったプロは、どこのどなたでしたっけ?」


「・・・・・・」


「ヤンさんに聞きました。ノルさんあなた、スタジアムでケティさんを捨て駒にして逃げようとしたそうですね」


「そうだ。いい例えが出てきたな」


「いいえその逆です。だって、わざわざ戻ってきたじゃないですかあなたは。

 HDDを持ち出せればこちらの勝ち。脱出ルートだって開いていたのに、あなたは貧弱な装備でもってASと対決する道を選んだ。

 それって、損得を越えた別の感情があったとしか思えません。

 あなたはケティさんを助けるためにわざわざ死地に残った。ほら、やっぱり度のつくお人好しじゃないですか」


「・・・・・・」


 そんなお人好しだからこそ、これまでずっ状況に流されてしまったのでしょう。


 自分が間違っている自覚があっても、シカリオであることが仲間を、ひいては家族を守ることに繋がると信じ込まされてきた。


 わたしはどうやっても、ノルさんの話を第三者としてしか触れることができません。それが主観と客観という、見えるものの違いに繋がっていった。


 ノルさんにとって“ママ”という人物は、今なお母親代わりなのでしょうが・・・・・・この2人の関係性って、虐待された子どもが、それでもなお親を盲目的に愛するような、ひどく歪んだ構図にしかわたしには見えないのです。


「俺が何人殺してきたと思ってる・・・・・・」


「その話題は、一旦置いておきましょう。今はあなたの動機の解明のほうが大事です。

 心優しいあなたは、ずっと強いられてきたシカリオとしての生き方に疑問を感じ、擦り切れていった。

 そしてそれは、ついにハスミンちゃんの姿を見て爆発した」


「俺はプロだ。そんな情に流されたりはしない」


「そうですか? わたしの知るプロって、本当の家族ですら30秒で切り捨てて任務に邁進できる方々でしたよ?

 なのにあなたときたら、ハスミンちゃんたちを見捨てるどころか、不器用ながらもカルテルから逃れるための作戦を必死に考え、わたしの誘拐まで実行してみせた。

 あなたが本当にただの悪党でしたら、そんな義理だてする訳ないじゃないですか。身一つで脱出する。それが一番確実だって、知っている筈ですもの。

 結論として――やっぱり、どうようもないほど底抜けのお人好しなんですよ、ノルさんは」


 わたしの見解を聞いた途端、むっつり黙り込んで、どうにかこうにか否定してやろうとノルさんは考え込んでいるようでした。


 まったく、本物の悪党がそんなことするものですか。あなたは正しいことをしたと言われて、そうじゃないと必死に反論しようとするなんて。


「俺は・・・・・・ハスミンをあの部屋に放置したまま、船の人間を皆殺しにしに行ったんだぞ?」


「ええ冷酷ですね。右目を抉られ、足を切られた少女をそのまま放置すれば、遠からず出血多量で亡くなるのは明白なのに。

 ところでノルさん? ハスミンちゃんはそのまま亡くなったんですか? 子どもたちの世話を焼きながらも、足繁くこの病室に通っていたあの子はまさか幽霊だとでも、言い張るおつもりなんですか?

 都合よく話をぼかしてましたけど、ゲストを殺害し、ケティさんが連行されてくるまでの空白の期間にあなたは、ハスミンちゃんに応急処置をしたはずなんです。そうでなければ、あの子が助かるはずありませんもの」


 ノルさんが黙りこくる。わたしはそれを無言の肯定と受け止めました。


「あなた自身がどう思おうとも、あなたは被害者側ですよノルさん。

 誘拐同然にこの船に連れてこられ、殺し屋に仕立て上げられてしまった可哀想な子どもの1人。

 あなたが今抱えている罪悪感を忘れろなんて、無茶は言いませんとも。そんな都合の良いことできる筈ありませんから。

 ですがこれも忘れないでください――あなたの人生は、殺し屋シカリオであることが全てでないと」


 赤は緑、緑は赤。


 常識をねじ曲げられて教え込まれてきたノルさんの問題は、少年兵問題に相通づるものがあると、わたしは勝手に思っていました。


 では、今日までノルさんが生き残るために他にどのような選択肢があったのでしょう? 


 ハスミンちゃんがそうであったように、真っ向から殺し屋にはならないと、逆らう道もあったでしょう。ですがその道を選べば、この船の管理者たちによって処理されていたことは、疑いようもない。


 そうです。すべてが仕組まれ、こうなるよう誘導されていた。


 ですからわたしは、今は亡き“ママ”なる女性が心の底から恐ろしくてならないのです。


 彼女の超能力じみた逸話なんて、どうでもいいんです。それより怖いのは、MKウルトラゆかりの洗脳実験に従事していたはずの科学者たちを、“ども”なんて誹るノルさんの言葉遣いの方でした。


 結局、オリジナルであるMKウルトラ作戦も決定的な成果を挙げることなく、消滅してしまった。もしかしたらこの船でも、似たようなことが起きていたのかもしれません。


 一定の成果はあったでしょう。ですがノルさんの態度を見るに、薬物で忠誠心を植え付けることに成功していたとは、とても思えないのです。


 そうです。ノルさんたち、兄弟カルナルと呼ばれたカルテル最精鋭の殺人マシーンたち・・・・・・彼、彼女たちが戦っていた動機は、薬による洗脳なんかじゃなかったのでしょう。


 この船に送られた子どもたちの共通点、それは幸福な家庭を知らないことです。幸せな家庭に生まれたのなら、そもそもこんな場所にたどり着くはずがない・・・・・・そこに“ママ”はつけ込んだのです。


 “愛情”によって縛りつけ、意のままに操ってきた。これほどおぞましい話もありません。


 ――でもそれは、すでに終わった話なのです。


 死者は語らず、生者はこれからも生きていくしかない。


「確かに、あなたは罪を犯しました。ですが刑法において、なぜ故意であるか否かが大きな争点なるかご存知ですか?

 犯罪を望んで計画し、そして実行した者と・・・・・・ただ巻き込まれただけの者。両者の意味合いは、まるで異なるからですよ」


「・・・・・・」


 部屋には持ち主の性格が現れるものと聞きますが、その理論に従うなら、この医務室を預かっていた人物は、患者のことを第一に考えていたみたい。それとない気配りがそこかしこに見受けられる。


 ベッドをわざわざ窓の前に移して、寝そべりながらでも閉められるよう、カーテンに紐を付けるとかはその代表例でしょう。


 ノルさんは、わたしの方からそっぽを向いて、窓の外を静かに眺めてました。ですが、そこには拒絶の感情は見受けられない。


 聞きたくない話を聞かせられたからといって、出ていけと声を張り上げたりもできない。ノルさんって、そういう人でしたから。


 ノルさんの声のトーンは、先ほどよりちょっと下がってました。納得はしてないようですが、ちょっとは自分に素直になったみたい。


「俺はシカリオだ・・・・・・どんな問題も、力でねじ伏せることしか知らない」


「ですね・・・・・・そのライフスタイル、わたしにとっても頭の痛い問題です。だって、人のことは言えませんから。

 ご存知でしょうけど、わたしの才能って、どうしようもなく戦争に向きすぎてるんです。ですがこのままじゃいけないとは、ノルさんだって感じているでしょう?」


「ずっと、生き残ることばかりに必死で、それ以外の生き方なんて考えたこともなかった」


「はい、わたしもです。この道が良い未来に繋がってると、はっきり指し示せたら良かったんですが。

 ですけどまあ、1人で考え込むよりは、2人で悩んだ方が良いアイデアも浮かぶんじゃないかしら」


「・・・・・・楽観論者め」


「この自分に素直になれない、悲壮感を背負った悲劇のヒーロー気取りめ」


 わたしのらしくない言葉に少々驚いた顔してノルさんが振り向き。ちょっと恥ずかしげに顔を赤く染める、わたしの姿を目撃したようでした。


 彼のため息が、話題転換の合図だったみたい。


「前に戦後処理で忙しいと言ってたが、あれって実は、カリとの問題がまるで解決してないってことを俺に隠してただけなんじゃないのか?」


「え? どうしてそんな風に思ったんですか・・・・・・?」


「ここでは、ラジオぐらいしか暇つぶしの手段がないからな。

 幽霊のような存在とはいえ、カリほどの大組織が壊滅したらニュースにならない筈がないだろう。

 あの“箱”に詰まっていたのは、本当に意味のあるデータだったのか? それともこれまでみたいに、俺はただ良かれと思って、周りに死と破壊を振りまいただけなんじゃないのか?」


 そのシリアスな口ぶりからして、これは本音でしょう。


 そうですね、その懸念は分かります。ですけどちょっと微笑ましくて、悪いと思いながらもわたしはちょっと笑ってしまった。それを見てノルさんは、少しムッとした表情される。


「ふふ、ごめんなさい。悪気はないんです。でもそういうことなら、心配はご無用ですよ。カリはもう二度と、あの子たちに手出しはできません」


「・・・・・・どうしてそう断言できる?」


「だってカリ・カルテルを経営してるの、今はわたしですから」


 しかし喉が乾きましたね。


 空調のお陰で涼しく過ごせられるとはいえ、それが結果的に過度の空気の乾燥を招き、喉の乾きをも早めてるみたいでした。こういう時は、遠慮せずにお水を飲むに限ります。ここは高温多湿な南米なんです。水分補給を怠れば、熱中症まったなしなんですから。


 わたしはノルさん用のピッチャーを拝借してお水をこぽこぽ、備え付けられていた紙コップへと注いでいきました。


 とりあえず一口すする。喉の乾きで味覚がブーストされているのでしょうが、それを差し引いてもおいしいお水でした。


 カルキ臭さがまるで感じられないこの舌触り、さては水道水ではありませんねと睨んでみれば案の定、テーブルの下に箱詰めにされたミネラルウォーターの備蓄を発見しました。出どころはどうもここのようです。


 ふと好奇心に駆られ、手近なペットボトルを手にとってどこの銘柄かしらとパッケージを見てみれば・・・・・・キャッスル・フルーツ・カンパニー社製でした。


 ええと、あまりにコメントしづらく、気まずげにペットボトルを元あった場所に戻していくと、ようやく絶句し続けていたノルさんが言葉を発してくれました。とても長かったですね。


「テッサ・・・・・・ついさっき、えらく聞き捨てならないことを口走らなかったか?」


「要約版と全長版、どちらが聞きたいですか?」


「ぜんぶ」


「まあ別にいいですけど、なら覚悟してくださいね?」


 実のところいつでも説明はできたのですが、面倒臭くてずっと後回しにしてきたのです。そろそろ覚悟を決めろ、という事なんでしょうね。


 咳払いをしてから、わたしは話始めました。


「ワンマン経営はしたいが、と同時に高度な匿名性も維持したい。それも、とても1人じゃコントロールし切れない巨大組織をというのは、いくらなんでもワガママが過ぎる要求です。

 ですが、誰がやったか知りませんが、そんなMr.キャッスルの無茶なオーダーを完璧にこなしてみせた者が居たようなんです。

 大した天才としか呼ぶしかないその人物は、なんと全自動でカルテルを経営するAIネットワークを構築してみせたのです。

 あなたとヤンさんが奪取してきたあのHDDの中には、そのAIの断片化したプログラムがまるっと収まってたんですね。

 まあー大変でしたとも。容量不足でちょいちょい歯抜けになっていったAIを、迷惑料ついでに間借りしてるミスリルUSAのサーバー上に再構築する作業が、どれほど骨が折れるものだったことか。モニターとのにらめっこも度が過ぎて、目薬を1ダースも消費してしまいましたとも。

 ですがその甲斐あって、なんとかAIを復活させることはできました。まあ、ぜんぶがぜんぶわたしの功績というわけじゃなくてですね、子機が絶賛、行方不明になってるアルの本体にも協力を仰いだりもしたんですけど。あっ、アルというのはー・・・・・・えっと、おそろしく説明が難しい存在なので、この話はまた後日ということで。

 はい、そしたら驚きました・・・・・・カルテルのあらゆる金融情報、幹部や下部組織とやり取りするための連絡方法などが、高度に暗号化されてそこに収まっていたんですから。

 Mr.キャッスルが必死になるわけです。“クレイドル”というのは、おそらくAIそのものの名称だったのでしょう。カルテルをあやしつけ、うまい具合に裏から操るための揺り籠クレイドル、よく言ったものです。

 例えば、コカインを1tばかしアメリカに輸出したいと思ったら、Mr.キャッスルはただAIにそう指示するだけで良かったんです。命令を受けたAIは過去のデータから、もっとも効率的に命令を実行できる業者に業務を委託。もちろん、その連絡方法も全自動で暗号化され、無数の仲介役カットオフを通じて業者へと命令が届けられていた。

 “クレイドル”が大脳だとしたら、仲介役カットオフが神経系であり、手足が下部組織に当たるわけです。

 それも恐るべきことにこの“クレイドル”、警察の盗聴記録なども勘案して、最適解を出していたみたいなんです。時には、効率の落ちた組織を切り捨て、警察への捨て駒とすることで組織の保全に役立てていた。それも全自動で。

 恐るべき話です。

 ネット上に潜んだ“クレイドル”は、大本の本体が停止したというのに業務を続行して、カルテルの経営を勝手に続けていたんですから・・・・・・まあそういう機械の融通の効かなさにつけ込むのが、ハッカーの本質というものなんですけど。

 あのHDDからサルベージされた管理者権限を駆使し、上層部が入れ替わってもまるで気づかない、ある意味で忠実に過ぎるAIに、今度はわたしがボスであると誤認させたんです。

 ですからあとは、まあやりたい放題でしたね。といっても短絡的な行動を取れば、カルテルの分裂からの拡大という、歴史の二の轍を踏んでしまうのは明白ですから、慎重は要しましたけどね。

 わたしは今、10ヵ年計画を立てています。まあそれぐらいの期間があれば、穏当にカリ・カルテルを解体することができるでしょう。

 昨日だって、モンドラゴンの麻薬工場を襲撃してやるー、なんて物騒な動きを見せていた下部組織の存在を、信頼できる警察機関に匿名でたれ込んだばかりですし。

 そうやって過激派は率先して排除しつつ、逆にお金がたまれば合法路線に移行したいと考えてる下部組織には、あえて大口取引を持ちかけることで足を洗う機会を与えるなどして、自然消滅させていく。

 その一方で、カリの麻薬マネーを財源に元ギャングの更生プログラムや、警察の汚職一掃に力を入れている議員さんなどを裏から支援してあげる。そうやってMr.キャッスルがのたまっていた必要悪としてのカリ・カルテルの役割を、少しずつクリーンになった警察へ移管させていくつもりです。まあ、それが大体、5年ほどで完了する手筈になっています。

 方向性を定めたらあとはAIに任せるだけですから、便利ではあります。

 もう四六時中はりついてなくとも、こうしてノルさんのお見舞いができる程度には余裕が生まれましたし。とはいえ気は抜けませんけど。

 頭が痛いのは、カリの監督下から遠く離れてるモンドラゴン側の出方ですが・・・・・・そちらはやはり、この国の警察力を高めることで対処するしかないでしょうね。

 M-19というゲリラ組織なんて、一時は最高裁判所を占領して大騒ぎしていたほど凶悪な組織だったのに、今や政府の提案をあっさり受け入れて平和路線に変更。正当な野党のひとつとして少なくない議席を議会に得ているそうですし、それに続けとばかりにAUCやゲリラ最大手のFARCすらも、政府との停戦交渉のテーブルについている。

 そういったもろもろの情報を換算するに、割とコロンビアの未来は明るい気はしますね。とはいえ繰り返しになりますが、油断はなりませんけど。

 まあそこはそれ、わたしとしてはコロンビア政府の中の人に頑張ってもらう予定です。ほら? 賄賂を貰って後ろ暗いところのある政治家さんたちを逆に脅迫して、議会の雰囲気を和平ムードにもっていってもらうという手もありますし・・・・・・あの、ちゃんと聞いてますか?」


「質問してもいいか?」


「はいもちろん。これまで蚊帳の外に置いてた分、なんでも答えますよ?」


「何が分からないのかが、分からない」


「・・・・・・哲学的ですねえ」


「・・・・・・今からでも、要約版に変えられるか?」


 話の途中からノルさんの目つきがとろんとしてきたので、うすうす話についていけないのではと察してはいたのですが、やはりこうなりましたか。


 では、コンパクトに纏めてみましょう。


「要約しますと、全自動カルテル運営プログラムは今はわたしの手の中にあるので、実質的にカリ・カルテルを取り仕切っているのはわたし。

 ですからトラソルテオトルに手出し不要と命じれば、何処からともなく現れたメッセンジャーがその旨を下部組織に伝達してくれる。

 無職で居候なテッサさんは今は昔、なんといまノルさんの目の前にいるわたしは、悪逆非道なドン・テッサさんにジョブチェンジしてしまった、というわけなんですよ」


 冗談めかしてえへんと胸を張ってみましたが、ノルさんは理解不能なものを見る目をして固まるばかり。


 その気持ち、分からないでもありません。


 いきなりあなたを追ってる組織はまるっと乗っ取りましたから、もう安心してもいいですよと声をかけられたら、何言ってるんだコイツとなるでしょう。


 言い訳させてもらうなら、わたしだってまさかこんな事になるなんて、思いもしなかったんです。ですが断片化したデータをつなぎ合わせていくうちに“クレイドル”の真の正体に気づき、そういう事ならばと、計画に若干の修正を加えることにした。それだけなんです。


 理解できても、理解したくない。そういう気持ちの揺れが見てとれましたから、わたしは要約版をもっと噛み砕いてみることにしました。


「もう大丈夫。あなたも子どもたちも、もう誰に追われことはありませんよ」


 わたしがそう言うと、ノルさんは再び窓の方を向いてしまいました。


 ぶっきらぼうな「そうか」なんて、言葉が耳に届く。


 わたし今、戦後を生きている。どう生きるべきか、急に与えられた平和を持て余して、ずっと時間を無駄にしてきてしまった。それがどれほど幸福なことだったのか、今やっと自覚することができました。


 今のノルさんは、メリッサのアパートに初めて足を踏み入れたわたしと、きっと同じ心境なんでしょう。これまで背負ってきた重荷を置いて、ではあとは好きに生きてくださいと、ガイドラインもなしに放り出されてしまった状態。


 彼も、そしてわたしも、きっとスタートラインに立ったばかりなんだわ。


 これからも頭を悩ますことは起きる筈。だって戦後は長く、生きている限り終わることはないのですから。でも戦争よりずっと幸福なことだけは、疑いようもない。


「ノルさん。わたしも昔、大きな間違いを犯しました」


 ウィスパードの能力が何をもたらすのか、そんな単純なことにすら幼いわたしは気づいていなかった。


 わたしがミスリルに入った動機は、自分のこの呪いのような才能のせいで、両親を殺されてしまい行き場がなくなったから。ですが、それだけではなかったのです。


「罪悪感に追い立てられるよう軍服に身を包み、ある戦いにわたしは身を投じました。なんども死にかけ、むしろ死ぬべきじゃないかなんて、身勝手な自己犠牲の気持ちを抱いてもいました。

 そうすることでわたしの罪は裁かれると、そう信じていたんです」


 わたしがクレヨン片手に落書きした設計図、その先進的なステルステクノロジーは流れ流れて、クウェートに撃ち込まれた核弾頭の遮蔽技術として悪用されてしまった。


 わたしのせいじゃない、こんな風に使われることなんて、望んではいなかった。それは真実であり、頭の中では分かっていました。しかし心の中では、ニュース映像が映しだす数万人が亡くなった惨劇に釘付けになっていた。


 だからわたしは、ノルさんの中に自分との共通点を見出してしまうのです。


 ノルさんの自分を顧みない戦い方は、自分を罰するためにしか思えない。あの仄かな自殺願望も、その表れです。


「ですがミスリルで出会った人々や経験したかずかずの出来事によって・・・・・・わたしは変わりました。いえ、変わりたいとそう願っています。

 正直なところどうしたらいいか、まだ手探り状態なんですけども・・・・・・わたしはあなたにもそういう考えを抱いてほしいと、そう勝手に願っているんです」


 こうして戦いに舞い戻った自分を棚に上げて、偉そうに言うものだと自分が恥ずかしくなる。


 ですがノルさんは、しばし考え込むように目を伏せ、そして言ったのです。


「それは、命令か?」


 顔が見えないから本気か冗談なのか、ちょっと判然としない。


 ですがちょっと踏み込みこむと煙に巻きたがる彼の性格を勘案して・・・・・・これは恥ずかしがってるだけだなと、判断を下す。


 だからわたしは、冗談めかしてこう答えたのです。


「はい、そうですね。これは命令ですよノルさん? とりあえず当面は、泥を啜ってでも生きるしかないんです。まだまだ人生は続いていくんですから」


 長い時間が過ぎていき、ノルさんはポツリと口を開く。


「命令ならそうする」


 皮肉屋で、女装癖で、凄腕の殺し屋で・・・・・・属性多過ぎて分かりづらいように見えてその根っこはとっても心優しい。そんな少年の背中をわたしは、ちょっと微笑みながら見つめていきました。















































 俺はそう、テッサに――嘘をついた。


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