XXXIII “Way of the Gun”

【“ノル”――シモンボリバル・スポーツ・アリーナ、グラウンド】


 いずれ選択する時が来る。誰だってそうだ。


 かつて“ママ”は、平等こそが正義であると俺に説いた。それは裏を返せば、この世において平等なるものが、どれほど貴重なのかを物語ってもいる。


 ギャングはみんな悪党だ、そこに議論の余地はない。やってる当人たちにしても、ろくでもないことに手を染めている自覚はちゃんとあるし、なんなら大部分が罪悪感を抱いてもいる。


 だが誰もやめやしない。


 もっとも俺やケティ、そしてザスカーのように自業自得を地でいくようなろくでなしばかりが、カルテルの構成員って訳じゃない。虐待親父や、子どもを売り払ってヤクに変えようとする母親、あんな奴らに支配されるぐらいならストリート・チルドレンになるほうがマシ。そういう奴らは歳を重ねると、自然とギャングやゲリラになるしかないと考え出すようになる。


 悲劇ではあるだろうが、此処ではそんなものありふれている。そのせいで、誰も気にも止めちゃいない。不平等は、すでに社会の常識ってやつの中に組み込まれているのだ。


 ギャング問題を憂いる“善良なるオトナ”という生き物が、そういった不幸なガキのために声は挙げれど、別に職の世話をしてくれる訳じゃないのがその現れだ。


 綺麗事は誰だって言える。だが命を賭けてまで本気で問題に取り組むような奴は、ダイアモンドより貴重なのだ。


 だからカルテルは消えない。犯罪組織っていうのは、善良な社会に馴染めない奴らの最後の砦だ。だからカルテルだけでなく、世の中のどこにだって奇妙に秩序だった、ろくでなしが集う溜まり場があるんだ。


 平等な世界から生まれながらにして弾かれた、不平等の申し子たち。


 小難しい話は苦手だが、“ママ”の語りはどうしてか、スルスルと俺の頭に入ってくる。だからこの話にしても、どれもこれもが彼女からの受け売りだった。


 そういった不平等への反逆。上へのし上がっていく英雄たちの伝説。あるいは、単なる判官贔屓・・・・・・南米にはそういった、戦いを起こしやすくなる土壌がいくつも用意されているんだそうだ。


 だからこの暴力の連鎖は終わらない。おそらく、人類が滅びるまで。


 とはいえ結局は、どこまでやるかの線引きは個々人に委ねられている。


 不平等な人間たちの受け皿としてのカルテル。そのシステムに逆らう自由すら、一応は与えられている。だが代償を支払う覚悟はいつだって必要だ。


 システムから外れれば、飢えて死ぬだけだ。そうまでして自分の信念を貫けるほど、俺は強くはなかった。


 俺の兄弟カルナルたち、ケティも、ザスカーだってそうかもしれない。流されるがままアンチ・システムという名の、別のシステムに加わっていった奴ら。


 どこかの時点で、俺だって選択した筈なのだ。銃に生きる者エル・カミーノ・デル・アルマは、銃によって滅びる。確か、そんな格言もあったような気がする。


 だからザスカーの指摘は大間違いだ。俺はハッピーエンドなんて求めたことは一度もない。まだ選択を迫られてないガキどもを一方的に救ってやろうとしてる、善人ぶったクズ野郎に過ぎない。


 俺はもう選択した。ここに至るまでの人生の出来事はすべて、正直なところ予想外の展開に埋め尽くされてはいたが、後悔はない。俺はこういう結末になると知った上で、あの暗い船倉の中で教官から渡されたピストルの引き金を絞り、シカリオになるという道を選んだのだから。


“そして、これは命令です。どうか生き延びてください”


 ふたつ目の盗聴器が断絶する直前、流れてきたあの声。従う義理なんてないのに、どうしてかあの声は、いやに耳に残っていた。


 馬鹿らしい・・・・・・いかにも純粋無垢なまま育った、ハッピーエンド至上主義者が口にしそうな文句だ。この世には救われるべきじゃない人間もいる。正義は平等の中にしか存在しない。だからこそ俺は惨たらしく死ななければ、これまでやった悪行の帳尻が合わない。


 だっていうのに俺は、立ちはだかるフロッグマンに向けて、どうしてかこう言い放っていた。


「俺はただ、帽子を返しにきただけだ」


 どんなに踏ん張ってみたところで、小銃擲弾というのはそもそも立射を想定していない。ましてや片手の腰だめでは、ガリルが手からすっぽ抜けそうになるほどの衝撃に見舞われてしまう。


 反動は極悪。抗しきれず、ついにはグラウンドに背中から倒れてしまう。だが狙いは外さなかった。


 飛翔していくグリーンの小型ロケット弾は、タクティカルライトで定めた大雑把な照準どおりにまっすぐ巨人フロッグマンの手首を貫いていった。


 あたりの暗さも手伝って、目を背けたくなるほどの閃光が瞬く。つづいて一拍遅れの爆音がスタジアムにこだましていった。


 だが一番大切なのは、この攻撃によって囚われの身になっていたケティが、地面へと真っ逆さまに落ちていったことだけだろう。


 当人はグダグダ言っていたが、いつになく強引な態度でテッサが無理やり着せていったAS用のパイロットスーツは、かなり耐衝撃性に優れている。上手くいけば、あの落下からケティの命を救ってくれる筈だった。地面は泥だし、ちゃんと受け身を取れば、運が良ければ骨折ぐらいで済むだろう。


 我ながら何をやっているのかと頭を抱えたくなる。事ここに至っても、俺はまだ善人ぶるのをやめられないらしい。


 反動で地面に倒れたのは俺だけでなく、人間の盾にされた名も知らぬ私兵も同様だった。


 頭にバンダナを巻いた、アメリカ風のギャング文化にかぶれているらしい私兵。格闘戦の素養はまるでなく、あっさり俺に拘束される程度の雑魚ではあるが、とっさの機転だけはあったらしい。


 奴からしたら、背中からこちらにしかかる構図だ。奴の体重にうめく俺に向けてバンダナ男は、人の顔面に向けて肘鉄を食らわそうとしてきた。


 この態勢ならばもっとも的確な攻撃手段だろうが、反射神経の差が勝負を分けた。咄嗟に自分の顔面を腕で庇うと、私兵の肘鉄はあっさり防げた。コツは垂直でなく、斜めに受け流すこと。この無意識の防御姿勢のおかげでダメージは皆無だった。


 空振ったバンダナ男はまだやる気十分のようで、地面に転がりながらも立ち上がり、すぐさまこちらに第二撃を放とうと拳を振りかぶる。


 だが生憎と背後はガラ空きだった。俺が遮蔽物に這い進んでいく間に、周囲を囲んでいた私兵たちが一斉に発砲を開始。哀れなバンダナ男を背中から蜂の巣にしていった。


 金の切れ目が縁の切れ目とはいうが、同士討ちなんて、100万ドルの報酬に目が眩んだ奴らからすれば、気にもならないものらしい。赤色のボロ雑巾に変わり果て、倒れ伏していくバンダナ男を横目で見ながら俺は、PSSピストルを引き抜いた。


 銃を奪われてもすぐ相手に使われぬよう、初弾は必ず抜いておけ。それが教官の教えだった。だからピストルを引き抜くたびに、まずはスライドを引いて初弾を送り込むのが、癖になっていた。


 左手の親指に力を込めてスライドの先端を握り、引きやすいように張り付けておいた鋭利な滑り止めテープに肌をちょっと引き裂かれながらも、勢いよく後ろに引ききる。それから寝そべりつつ、上げた太腿の向こう側にピストルを突き出すような格好で射撃姿勢をとる。


 なまじ先手を取ったせいで、発砲するたびに私兵たちの銃火器は花火のように光り、停電がもたらした暗がりの中で目印のように瞬いていく。


 カシュ、カシュ、相変わらず銃声とはとても思えないPSSの発砲音が響く。もんどり打って叫びながら倒れていく私兵どもは、重症だがまだ息はあるようだ。だが残りの、糸が切れたかのように顔面から墜落していった奴らは間違いなく事切れていた。


 射撃が弱まる、チャンスだった。


 腰を回転させ、その勢いで身を起こし、より安全そうな遮蔽物のもとへ泥を蹴立ててながら走り込んでいった。


 たどり着いた先は、フォークリフトだった。操縦席に置きっぱなしになってるクリップボードには、本日の予定表が張り付いたままだ。慌てて作業員が逃げだしたのだと全身で物語るそんな重機に向けて、ガンガンと私兵どもが怒りの銃撃を浴びせてきた。


 さて・・・・・・どうしたものかと思い悩む。


 とりあえず、ちゃんと拾ってきたガリルで牽制射撃を見舞ってみるが、私兵どもの弾幕の激しさときたらない。この暗さで狙いが甘くなっているからこそ、俺はまだ生きていた。だが数の差はいかんともし難い。


 こっちが1発撃つあいだに、向こうは100発撃ち返してくる。ましてや『ショウタイム』なんて呟きながら、フロッグマンがのそりと巨体を揺らしていくのまで見える。


 本来の作戦では、素直にテッサが残した助言に従い、フロッグマンの背中を小銃擲弾で狙撃して、ザスカーを窒息死させるつもりだった。だから初撃が外れた時点で、俺にもう勝ち目はない。どうせ正面から狙っても効果がないからこそ、ケティの救出を優先したわけで・・・・・・。


 奴も伊達に長生きはしてない。あの攻撃を看破するとは。


 それを言ったら、ケティ渾身のRPGの砲撃まで、どうやってか逃れてみせる意味不明な男なのだ。今まで大勢のシカリオと出会ってきたが、あそこまで生き意地が汚いやつを俺は他に知らない。


 持ってきた虎の子の小銃擲弾は2発きり。どのみち嵩張るからそれ以上、携行できなかったのだが、今日という日は読み間違いばかりで嫌になる。こんな事になるんだったら、10発ぐらい無理にでも背負ってくるんだった。


 親切にもこれから手榴弾を投げるぞという意味の「グレネーダ!!」という叫び声を聞いて、俺は咄嗟にメッシュで仕切られた運転席越しからガリルで、野球選手みたく大きく腕を振りかぶっていた私兵の1人を撃ち斃した。


 手榴弾とワンセットで崩れ落ちていく敵と、奴と一緒にクレートの陰に隠れていたとんまな2人組が、ほとんど自爆に等しい感じで死んでいった。


 まったく考える暇もない。敵は多すぎ、味方は少なすぎた。


 手榴弾男を狙い撃った瞬間、視界の端でパイロットスーツ姿でよろよろと腕を上げていくケティの姿が見えた。生き意地汚いのはアイツも同じか・・・・・・・。


 可能なかぎりフォークリフトに身を隠したまま、ケティの倒れてる方角を睨んだ。どうもアイツは、這いずりながら泥に突き立っている愛用のグレネードランチャーを回収しようと、必死にもがいているらしい。


 とりあえず生きては、いる――か。


 超巨大な3Dスクリーンのせいで、泥水が溜まった水たまりが七色に反射している。そうだ、あのスクリーンがあったな。


 俺を脅すための舞台装置は、役割を終えてもなお切られてはいなかった。そのせいで、いつぞや映画で見かけたような分割画面が現実のものとなっていた。あの立体映像を見れば、わざわざ遮蔽物から顔を出さなくたって安全にザスカーの動きを確認できる。


 光り輝く、本物以上に巨大なASの3D映像が、足下の何かを蹴り飛ばしていた。

 

 肝心なところばかり見えないダメ映像。具体的に奴がなにを蹴り飛ばしたのかは、直後、身をもって知る羽目になった。

 

 まるで津波さらわれるかのようにフォークリフトが蠢く。倒れかかってきた設置式芝生のピラミッドに俺とフォークリフトは、押し出されてしまったのだ。さながら資材のドミノ倒し。フロッグマンの蹴りが、巡りめぐってここまで被害をもたらした格好だった。


 アホみたいな格好をしてる割に、ザスカー当人はおそろしく保守的な男だ。最小限の労力で最大限の成果を、なによりも自分は安全な場所で、というのが奴の基本スタンスだ。


 先ほどの小銃擲弾の一撃でどうも、警戒心を働かせたに違いない。


 こちらの射界に入らぬよう、ASの足で資材を蹴っ飛ばして奴が得られるものとはなにか? それはきっと、今まさに俺が置かれている状況そのものだろう。


 ずっと遮蔽物を背にしてたのに、今はその加護を失ってしまった。流れてくる冷たい夜風が、汗まみれの首筋をさする。


 “ロシア人のスナイパー”。


 殺気なんて都合のいいものは、フィクションの中だけの概念だ。なのにこの怖気ときたら・・・・・・なんだ?


 夜のとばりという最高の迷彩効果のなかに身を潜め、広いスタジアムのどこかで冷静に戦場を見渡しているに違いないスナイパーの照準が、どうしてか俺の頭を捉えている気がしてならなかった。









【“ザスカー”――シモンボリバル・スポーツ・アリーナ、グラウンド】


 ASでちょいと資材に蹴り入れて、スナイパーどもの必殺の場キルゾーン狼の頭領エル・ロボを引きずり出す。

   

 まさに労少なくして功多し。知能プレーと呼んでも差し支えない作戦だろうが、満足感はまるでねえ。俺がやったことといやぁ、結局はASで足元の資材をちょいと小突いただけなんだからなあ。つまらねえ手さ。


 そうとも、俺りゃあビビったのさ。あの第一撃、野郎は的確にフロッグマンの急所たる背中のパイプを狙ってきやがった。つまりこちらのアキレス腱を的確に把握してやがる。


 大した自信の現れだ。最大の脅威たるASさえ排除しちまえば、あとはどうにでもなると野郎、踏んでやがるに違いねえ。実際、これまでの死屍累々ぶりに思いを馳せれば、あながちあり得ないと否定もできねえ。


 あの船トラソルテオトルで行われていた実験の内容が具体的にどういうものだったのか、たぶん説明されても俺のオツムじゃ理解できなかったろう。だがこの成果を見るに、大成功だったに違いない。


 連中、バケモンを作りやがった。


 ま、その伝説もここで終いのようだが。俺はカラビナを介して紐に吊るされ、ぶらぶら揺れてる無線機を引っ掴んで、ロシア人のスナイパーに指示を飛ばしていった。


「舞台は用意した、これを外したらテメェらの首を狩るぜ」


 給料分は働けってんだ。そんな毒づきも忘れずに付け足しておく・・・・・・この不機嫌な声音は、やっぱ俺自身への失望のあらわれかな。


 人生は映画みたいにはいかねえもんさ、そうありたいと願っていたとしてもな。


 つまらん倒し方なのは百も承知だが、確実に動くなら不満はねえ。そう強引に自分を納得させていく。


「おい、復唱はどうした?」

 

 長いようで短かった戦いの終わり。その確認のために念押ししてみれば、やる気のないサポートセンターの職員よろしく、やっとこさ返信が戻ってきた。


『・・・・・・了解コピー


 ボソボソとしたやる気のない答え。陰気なロシア人らしい、いつもどおりちゃあ、いつもどおりな答えなのだが、そう言い切るにゃあちいと妙だった。


 なんだそのアメリカ式の答えは?


 あのアイルランド娘に、愛車のファイヤーバードに爆薬仕掛けられたときと同じ、説明不可能なぞわりとした感覚が背筋を走り抜ける。


 共産主義に見切りをつけ、カネ稼ぎのために南米まで渡ってきた節操なし共らしくロシア人共が愛用していたのは、対物用と名乗りつつも実際には人体を吹き飛ばすためにデザインされた、資本主義アメリカーノが産み落とした大口径スナイパーライフル――バレットM82だった。


 フロッグマンの腕部にひっついてる50口径の狙撃バージョンとも呼ぶべき銃火器だが、精度の高い銃身バレルからぶっ放してやりぁ、50口径弾てのは、km単位で標的を狙えるポテンシャルがあるんだ。


 広いとはいえ、ほんの数百メートル足らずのグラウンドで運用するなら、まあオーバースペックなぐらいの狙撃銃だわな。


 フロッグマンはそもそも、純正のM6に潜水能力を強引に付与したモデルだ。そのせいで大切な部品がいろいろと機体外に露出しちまってる。潜水能力にばかり注力して、実際の運用面にまるで気が回ってなかった駄作機の異名は伊達じゃねえ。


 いちおうは、酸素供給用のパイプだって丸裸ってわけでなく、耐弾仕様の被膜に覆われてはいる。だが潜水能力の邪魔にならぬよう軽量設計ゆえにその防弾能力は最低限であり、ちょっとした大口径弾でも掠ろうものなら、その時点で断切間違いなしという恐怖のシロモノだった。なにせ運用マニュアルに、パイプが破損して酸素供給が絶たれたら場合には、即座にコクピットを開放して新鮮な空気を取り入れましょうなんて、大真面目にかかれているぐらいだ。


 なるほど、あのネイビーシールズが捨て値で放出するわけだぜ。


 AS本来の装甲からすれば蚊に刺されたような損傷でも、このフロッグマンときたら、すぐさま致命傷になっちまう。そう、機体そのものはともかくも、酸素パイプが撃ち抜かれたら乗り手たる俺は、すぐさま窒息しちまうのさ。


 攻撃のアラート音とは別種の警告を、コンピューターが叫びだした。


 俺は難儀な性格でな。滅びゆくものにどうしようもなく感情移入しちまうタイプなんだ。そのせいでいつか足元を掬われるぞと警告したのは、そういや狼の頭領エル・ロボの野郎だったなぁ。


 メインモニターに赤文字で警告文が浮かぶ。それと一緒に、ご親切にも酸素残量のメーターまでもが並んでいった。


 陸に揚がった後のことを想定しなさすぎだぜ。みるみるH2Oのゲージが減っていった。まだ息苦しさはない、元々のコクピット内の酸素があるし、いざとなりぁどっかに酸素ボンベが積んであったはずだ・・・・・・待て、ソイツはどこに仕舞ったけか? 


 コクピット中の収納スペースを必死に漁りながら、そうじゃねえだろと頭を振る。


 まずはどうしてかこっちに弓引いたロシア人・・・・・・いーや、あの口調からして狼の頭領エル・ロボの味方に違いない、酸素パイプを撃ち抜きやがった新手のスナイパーさえ片付けりゃあ、コクピットを開放しても俺が狙われる心配はねえ。


『おいカウボーイバケリト、どうなってやがる!?』


 異常を察したに違いない俺の右腕が、無線で呼びかけてきた。


「うるせぇカルロス!! テメェは自分の仕事をしろッ!! さっさとスナイパーの野郎をぶっ殺せッ!!」


 単に勝負に時間制限がついただけだ、俺が優位であることに変わりはない。それなのに苛立ちが止まらなかった。


 くそっ、くそっ・・・・・・いつから俺は、こうまで臆病になったのだろうか?









【“ノル”――シモンボリバル・スポーツ・アリーナ、グラウンド】


「?」


 なんだ? 急にあてどなく右腕部の機関砲を乱射しはじめるフロッグマン。だがどうにも動きがおかしい。俺を狙うでもなく、なぜか真っ暗闇の観客席をデタラメに掃射していった。


 その理由について深く考えたいところだが、周囲にはまだ有象無象の私兵どもが居る。とりあえず立ち上がり遮蔽物に舞い戻り、まずは奴らの頭を抑えるべく、今はガリルを撃つことに集中した。


 そもそもガリルARMは、分隊支援火器としての運用も視野に入れて開発されたモデルだ。こういうダラダラした銃撃戦は、得意中の得意といえる。


 フルサイズの7.62mm弾を使うにしては多めの装弾数を活かし、制圧射撃を繰り返していく。すると、これまでは実質コスプレの小道具でしかなかった無線機が、何やら通信を受信しはじめた。


『ウルズ9から、フォークリフトに隠れてるそこのキミ。聞こえるかい?』


 いや分かってはいたのだ。ザスカーのフロッグマンにああも醜態を晒させた謎の援護、そんな当ては1人しかいないと。


「・・・・・・何をやらかしたんだDEAラ・ディア?」


『相変わらず礼はなしか。まあ、いいけどね』


 DEA捜査官というだけでぞんざいに扱われることに、向こうもそろそろ慣れてきたらしい。答えもまたぞんざい極まりないものだった。


『“ウルズ6は西口から”って、大佐殿が最後に言っていただろう?』


「ああ、それが?」


 フォークリフトのタイヤに両足を押し当てるよう屈みこんで、下の隙間から私兵どもを狙撃していった。足を撃ち抜かれた私兵が声高に叫び、敵の間に混乱を広めていく。文字通りに足元がお留守だったのが敗因だ。


 テンポよくガリルの引き金を引きつつ、無線機越しの会話を続ける。次はDEAの番だった。


『あれは仲間うちの隠語ってやつでね。昔、おなじ隊にウルズ6ってコールサインをした凄腕のスナイパーが居たのさ』


「・・・・・・西口にスナイパーがいる?」


『正解』


 VIPルームからの眺望なら、なるほど敵の配置なんて丸わかりだろう。こういうことをしれってやるからテッサは恐ろしい。


「考えがあるってのはコレか」


『まあね』


 仕掛けるならすぐやるしかなかったのだ。俺が考えた作戦は、無人トラックを囮にしてザスカーの背後を取ること。だがこの作戦、絶好の射撃ポイントを確保するためにも敵に気づかれる訳にはいかず、身軽な1人でやった方が何かと都合が良かったのだ。


 それにDEAには、他にも役割があった。


 あの“箱”を防水バックに纏めて、近くの側溝に隠す。これはあらかじめ非常手段として定めていたもので、俺たちが全滅しても発信機を同封してあるから、あとからハスミンたちが回収できる目は残してある。


 それを果たしたあと、奴がどう振る舞おうと俺の知ったことじゃないのに・・・・・・奇特にも、わざわざ戦いに舞い戻ってきたらしい。


「ならさっさとその場から退避しろ。別働隊が西口に向かってるぞ」


 フォークリフトのフレームに左手を添え、ガリルのハンドガードを包み込むようにして照準を安定させる。


 かたりとダストカバーに載せた拡大鏡マグニファイアを倒して、ガリルにちょっとしたスコープ機能を付与した。左手はそのまま即席の固定具としつつ俺は、観客席を走りまわる朧気な影に向けて、何発か牽制射撃を放った。


 どうせ当たりはしない、まあ気休めだ。それでも観客席の私兵どもは足を止め、辺りの物陰にそそくさ身を隠していく。


 しかし、私兵どもの動きが変わり始めた。えらく組織立っている。そういえばザスカーの下に、キューバ軍の特殊部隊上がりだとかいう腹心が居たな。ソイツの采配かもしれない。


『知ってるさ、もう移動してる。だからちょっとの間、援護射撃は期待しないでくれ』


 テッサの遺言じみたメッセージ・・・・・・あれは大正解だったわけだ。


 きっとDEAが狙撃で、フロッグマンの酸素供給を断ったに違いない。でなきゃあの醜態の説明がつかない。


 テッサの話してたフロッグマンの弱点はどうも真実であるらしい。酸欠状態で首をかきむしってる最中にしては、まだまだ余裕のある感じだが、ザスカー自身は絶賛、混乱状態にあるらしい。でなきゃ俺はトドメを刺されてる。


「実際問題、どのくらいで酸素は切れるんだ?」


『フロッグマンかい? さあ、僕も詳しくは知らない』


 重い狙撃銃を引きずってポジションを移動している最中にしては、奴は息切れもせずに答えてきた。


「やくたたず」


『二度も命を救われたにしては、ご無体にすぎる言い方だね。それについては目をつむってあげるよ。

 僕は大佐殿じゃないんだ。あらゆるASのスペックシートを丸暗記してる訳じゃない。だけどあの機体、余裕のある動きには見えないね』


 今がチャンス、言外にDEAはそう言いたいのだろうが、生憎と手元には、ASの装甲を突破できるような重火器はない。


 ふう、と息を吐く。


 無意識に流れ落ちてきた額の汗をぬぐうと、うっかり帽子のツバに手がぶつかり視界が半分ほど塞がってしまった。


 邪魔くさい・・・・・・それにこいつは借り物だ。どうせご丁寧に被っていたところで、もう俺をB.S.S.の警備員だとは、誰も誤認してくれやしないだろう。ならいっそ脱ぐべきだな。


 決断したら早い。すぐさま帽子を丸めてベルトに挟み込む。するとハスミンが勝手に結ってきた、自毛の三編みおさげが飛び出してきた。


「・・・・・・自称、専門家スペシャリスト


『なんだい?』


「手持ちの火器で、フロッグマンを撃破する方法はあるか?」


『無い。最低でも対戦車ロケットは欲しい』


 腹は立つが、しごく納得できる言い分でもある。


 分かりきった結論だ、俺だって知っていた。だがザスカーが今すぐ窒息死しないとなるとまだもう一手、あの巨人を追い詰めるための手段が必要だった。


 フロッグマンさえ排除できれば、VIPルームまで乗り込んでいきテッサに帽子を返し、その足でついでにケティを回収して、そのまま船へと帰ることも可能だろう。

 

 なにせ今このスタジアムに展開してるのは、の私兵だけだ。カリはMr.キャッスルの組織なんだろうが、高度な匿名性を保つために各組織は、完全に指揮系統が別れている。


 俺の盗聴器が破壊されたあと、VIPルームで起きていたという出来事。それを手短に話して聞かせてきたDEAの言葉が真実ならば、サングラス男の威光がどこまでザスカーの私兵に通用するか、怪しいものだった。


 指揮官を失えば、頭を失った私兵どもは散り散りになる公算が高い。奴らのボスはやはりザスカーであって、Mr.キャッスルじゃないのだ。


 何か名案はないかと考えを巡らせていると、ふと思いつくものがあった。


「・・・・・・ケティがコクピットにまで持ち込んだ、グレネードランチャーならどうだ?」


 一瞬、考え込むように通信が止んだ。


『弾種は?』


「右のポケットにはHE、左にはHEDP」


多目的榴弾HEDP・・・・・・対戦車用にも使える成形炸薬弾だね』


「どうだ?」


『優れた兵器は、いかに欠点を潰すかよくよく考えられているものさ。

 専用の対戦車兵器じゃないから正面装甲はもちろんのこと、関節部への効果も限定的だろう』


 確かに、小銃擲弾でフロッグマンの右手首をうまい具合に貫いてやったが、機能こそ停止しているみたいだが軽傷という感じ。手がまるごと脱落したりはしなかった。


『だけど――』


 そう、DEAは続けた。


『センサー系でぎっしりな頭部、特にバイザーへの直撃なら、あるいは敵の視力を奪えるかもしれない』


 なるほど、酸素が無い状態でもフロッグマンの戦闘力は変わらないだろうが、目が潰れれば話は別だ。撃破こそ無理でも、戦闘力を無力化することならできるかもしれない、という訳か。


『昔あったんだ、50口径弾の直撃でバイザーにヒビが入って、視界がホワイトアウトしたって事例が。防弾ガラスの副作用ってやつだね』


「それ、グレネードランチャーの意味が消失してないか?」


 俺は、サベージのパンチですでにバイザーにヒビが入り始めているフロッグマンの顔を、巨大スクリーン経由で見つめた。その程度で十分なら、DEAが狙撃でどうにかすればいい。


『第2世代機で実際に起きた事例だよ。

 フロッグマン・・・・・・その原型たるM6は、第3世代機だ。とうに対策はされてるさ。ただしM6のバイザーは、そもそも多重攻撃を防ぐのを想定しているパーツじゃないって点だけは、今も変わらないけどね』


 まともに部下と連携が取れていないのだろうか? 思うがまま観客席を内蔵機関銃で穴だらけにしたあと、フロッグマンは空薬莢を捨てるべく立ち止まった。


 するとどこからともなく、大口径らしいリズミカルな銃声がこだまし、フロッグマンが慌てて自分の顔を覆いながら、反撃とばかりにまた乱射を再開する。だが命中はしていないようだと、無線の内容から察することができた。


 冷静沈着なDEAの声が言う。


『股間部にある予備の光学センサーを無力化、バイザーに第一撃を加えた。よくいって賭けだけど、乗るかどうかは君次第だ』


 そんなもの答えは決まっている。


「・・・・・・政府の犬の言うことは絶対に信用しない――あとさっきは助かった」


 呆れ果てたような、予想どおりの答えが返ってきた。


『だから今は勤務時間外だってば。それにこの調子だとどうにも、転職雑誌に目を通さなきゃいけなさそうだけどね・・・・・・まて君、さらりとお礼言わなかったかい?』


 あらぬ疑惑に無視を決め込みながら俺は、フォークリフトの運転席に手を突っ込んで、刺さりっぱなしだったキーを勢いよく回転させた。


 中型のフォークリフトは、弾痕だらけだというのに軽快なエンジン音を奏でだした。


 食べそこねがこぼれ出ているランチボックスを手に取り、うまい具合にアクセルペダルに引っ掛けてやる。するとフォークリフトは、当人にとっては全力疾走のつもりなんだろうが、このタイプの車種の宿命として凄まじい鈍足で走りだした。そんな重機のハンドルを俺は、ケティの方角へと傾けてやった。


 性懲りもなく生き残っていた、運転席をまもる最後のガラス板が銃弾で破裂した。


 無貌にしか見えないこの突撃に奴らも首を傾げていることだろう。ザスカーの注意がDEAに向いてるうちに、なんとかあのグレネードランチャーを回収したい。


 目指す先がケティだとは、まだ敵には感づかれていないようだ。フォークリフトの陰から撃ち返しつつ、俺はグラウンドに倒れ伏したままの相棒の姿をもう一度、窺ってみた。さっきまで動いていた筈なのに、今は身動ぎひとつしていない。


 耳元をかすめていく弾丸の音は、まるで蜂の羽音のように聞こえた。髪を揺らしていくこの風の正体は、弾丸の衝撃波だ。1発でも掠れば俺は死ぬ。


 運転は勝手に進んでいくフォークリフトに任せ、とにかく撃ちまくった。真っ直ぐ進めばそれで十分だった。


 相手もさるもので、互いに叫びながら巧みに配置転換をしつつ追撃してくる。やはり統制が行き届いてる。今だにフロッグマンは無闇な機銃掃射を繰り返してるから、ザスカーの指揮じゃないな。となるとキューバ人か・・・・・・これは少し、マズいかもしれない。


 連中の目下の狙いは、俺自身ではなくフォークリフトそのものらしく、射撃が集中していったエンジン部から怪しげな臭気が漂い出す。とうにパンクしているタイヤがガタガタと泥から芝生、また芝生から泥へと不整地にすぎるグラウンドを這い進んでいくが、この調子だと先にエンジンが停止しそうだ。


 すべてが同時に進んでいく。とても俺の知覚力だけでは、すべてを見通せない。


 変わらぬ狙撃音、スナイパーに気を取られきっているフロッグマン、瞬間だけ点灯させたガリルのタクティカルライトに目を潰され、直後に撃ち斃される私兵。あまねくすべてが同時進行だ。


 俺がケティを相棒に選んだ理由は、能力だけじゃない。もっとも俺と死生観が近いのがアイツだったからだ。


 悪党に幸福な結末はない。そうあるべきだし、そうじゃない世界は吹き飛ばしてやると鼻息荒く言い切れる、ある種の信念がケティにはある。


 アイツにとってザスカーは宿敵ではあるが、復讐心に狂わず、作戦のためなら見逃せるのはそれが理由だった。どうせ同じ穴のムジナ同士、相手を責めたらその言葉は自分に返ってくると、アイツはよく知っているのだ。


 平等こそが唯一、絶対の正義。世の中そういうものだし、そうあるべきだ。


 惨めったらしく泥に塗れながら死ぬ。俺たちに似合いの最期だ――なのになぜだか俺は、叫んでいた。


「ケティ!!」

 

 聴力のない相手にこれほど無意味な行為もない。ましてや間断なく鳴り喚く銃声の中なのだ。


 自分でも何がしたいのか、何をやるべきすらも確信が持てずにいた。


 ずっと流されるがまま生きてきた。何をすべきかは、いつも誰かが決めてくれていた。なのに俺の身体は、自分の意思を持ったかのように勝手に動いていた。


 ケティまでほんの数メートル。だが物事は、いつだってシンプルには終わらない。


 うるさすぎる周囲の銃声は、フォークリフトのそれとは比べものにもならないほど大音量な、ディーゼルエンジンのいななきの前に敗北していった。気づいたときには、すぐ側まで鋼鉄の肉食獣のようなブルドーザーが迫ってきていた。


 ブルドーザーのブレード突かれ、あっさりフォークリフトの車体が浮き上がる。


 せっかくあと少しだったのに、俺はなぎ倒されようとしているフォークリフト越しに無理な姿勢だとは百も承知で、ブルドーザーの運転席めがけてガリルの残弾を叩き込んでいった。


 だがしかし。ブルドーザーを操る血走った目をした白人の私兵は、本来なら泥をかき分けるために付けられた鋼鉄のブレードを冷静に上へとあげて、自分を守る盾にしていった。


 あのブレード、7.62mm弾がいくら着弾しても火花しか散らない。なんとも分厚い鋼鉄製であるらしい。


 運転手の目論見はなんとも分かりやすかった。俺ごと地面を整地するつもりだ・・・・・・だがそうトントン拍子に話をすすめてたまるものか。


 ブレードによって宙に浮いているフォークリフトの真下を、倒れてくる一瞬の合間に、一息でくぐり抜けた。


 運転席を守るべくブレードを上げたのも命取りだった。重力に任せるがまま人を容赦なく押しつぶそうとしてくるフォークリフトの質量を背後に感じたが、あわやで前転して、ブレードの背後へとたどり着く。


 背後からはフォークリフトの落下音、頭のすぐ横ではキャタピラが前進を続けている。あの無限軌道に巻き込まれたら、俺の頭なんてスイカように破裂してしまうだろう。


 せっかくブレードの背後に隠れ、俺にとどめを刺すチャンスを窺っていたのに、まさか当の標的ご本人が足元から出現するなんて予想外であったらしい。出番を待っていた私兵は目を丸くして、俺を見下ろしていた。


 泥まみれで不快感は最高値だったが、立ち上がりざまに私兵が携行しているAK–47の短縮バージョン、AKMSの銃身を掴むのは忘れなかった。


 私兵が咄嗟に、引き金を絞る。


 俺が今まさに掴んでいるAKの銃身から弾丸が飛び出でいき、すぐ肉が焼ける匂いがしてきた。手のひらの火傷は免れない、だが弾丸に貫かれるよりは幸せだ。どのみち、とうにアドレナリンで馬鹿になっている俺の頭は、痛みすら知覚しなかった。


 全神経をとにかく、こちらに銃口を向けさせないことに注いでいく。


 銃口はそのまま天を向かせつつ、足払いとタックルを組み合わせてAK持ちの私兵をキャタピラの方へと追いやっていった。手を離しても銃を保持してくれるスリングは便利なものだが、カタカタと履帯を回してくキャタピラがすぐ近くにある時に使うのは、考えものだと思った。


 尻もちをつきながら私兵の背中がよく回る転輪にぶつかった途端、スリングがその転輪に飲み込まれていった。


 つい今朝方、テッサも似たような状態に陥っていたものだ。スリングがせり上がり、男の喉元を締め上げていく。これで窒息死とかなら、まだしも救いになかったかもしれないが・・・・・・とことん運のないその私兵は人生の最後に、最悪の悪夢を見る羽目になった。


 スリングが飲み込まれていくのが一向に止まらない。男は必死にそのスリングを取り外そうともがいていたが、相手はフォークリフトすらなぎ倒す怪物だ。非力な人間の腕力ではどうにもならない。


 こうなると転輪は、一種の万力のように働いた。あっさり男の頭が挟まれていき、悲鳴だがキャタピラの軋みとかが鳴り喚く。


 まあ、死んだのは疑いようがない。それもかなりグロテスクな死に様だったが、敵はあいにくと奴だけじゃなかった。


 ブルドーザーの操縦なんて知ったことかと、勝手に進み続ける重機を捨てて、運転席から降りてくる白人男。咄嗟のことだったのか、それともよほど自信があるのか。男は素手のままこちらに飛びかかってきた。


 キャタピラにすり潰された私兵の真似事をしたくなかったが、ソ連式に背中へと跳ね上げ、スリングで吊っていたガリルARMを前に戻そうとした。


 だが青い目をした私兵の動きは素早く、ガリルの銃身を抑えつけながらスリングの留め具を操り、人のライフルを地面へと落下させていく。ならばと腰元のPSSピストルを抜こうとするが、こちらの動きも精彩に欠けていた。


 疲れているのだ。そのうえ泥だらけの手のひらはよく滑り、PSSの銃把を握った途端に、あっさり男の怪力に弾き飛ばされてしまった。


ypaaaaaaウラーッ!!」


 特徴的すぎる裂帛の気合に、俺はこいつロシア人か!! と驚きを隠せずにいた。まさかスナイパー以外にも居たとはな。


 かつてソ連の特殊部隊員であったという教官たちと同じ叫び声のもとこちらに組み付き、地面へと引き倒してくるロシア人の私兵。


 泥まみれの地面に頭を押し込められる。体格差があまりに大きすぎる。体重と怪力のあわせ技にまるで抗えなかった。息をするたびにジャリつく泥が鼻と口に入り込んだ。これじゃあ、あの柔術家の二の舞じゃないか。


 だがあの十字固めに比べたら、このロシア人にテクなんて微塵もなかった。


「ガァ!!」


 悲鳴が上がるが気にせず、手探りでさぐりあてた眼球にそのまま親指を突き立てていく。ブヨブヨした眼球の手触り、ぐるりとロシア人の眼窩の中を俺の親指がないでいった。


 本能的に顔をかばおうとロシア人が手を離した隙に、距離をとって立ち上がる。


 ずっと投与されてきた女性ホルモンのせいか、俺の背丈は平均男性よりちょっと低めだ。だから正攻法だとガタイの良いロシア人相手に不利ではあるのだが・・・・・・奴の体格は、人をさんざん鍛え上げてきた教官たちの身体的特徴がピタリと一致するのだ。


 かつてはマットだったものが、今は泥の地面に置き換わっただけ。さんざん船倉という名の訓練所で投げ飛ばされてきたのだ。俺の身体に蓄積されている記憶が、自然と奴への対処法を導き出してくれていた。


 俺の親指のせいで左目から出血しつつも、無事なほうの右目に殺意をみなぎらせていくロシア人は、腰からどこかで見たことのあるダガーを、順手ハンマーグリップで引き抜いていった。


 こっちは素手、だが向こうは刃物。とはいえ刃物への対処は、得意中の得意だった。


 銃も買えない貧乏人というのは、カルテルのヒエラルキーの底辺付近におおぜい生息しているもので、奴らは実力差もわきまえず何かと刃物を抜きたがるのだ。そのせいで実は、銃よりも刃物の方が経験が多かったりする。


 ロシア人のナイフ捌きは、そういった貧乏人たちに比べれば雲泥の差、ちゃんと正規の訓練を受けているようだ。だが、達人の域には遠く達していない。


 せいぜい軍での格闘訓練をちゃんと履修した程度だろう。フェンシングの要領でナイフの突きを何度も繰り出してくるが、あまりにワンパターンで読みやすい。

 

 刃物が強力な武器であることについて疑いの余地はないが、往々にして刃物をあつかう側は、攻撃手段を刃物だけに限定してしまいがちだ。切る、突く、このシンプルな動作の繰り返し。せっかく人間には手足が4本もあり、キックはもちろんのこと、なんなら頭突きだってできるのに。

 

 まず手のひらでダガーの軌道を受け流し、相手のレベルを読んでからは、捌くのは肘に任せていった。こうやって徐々に距離を詰め、隙をみてロシア人の鼻っ面に人体の一番硬い部分での打撃、つまりは頭突きを食らわしてやった。


 衝撃のあまり膝をつくロシア人の下顎に掌底を食らわし、今度は脳を揺さぶる。


 きっと奴の視界のなかでは星が瞬いているに違いないが、それでも不屈の闘志でなかば強引にダガーの刃先をこちらへ向けてきた。まだ自分が負けていると気づいてない哀れな男の腕をとって関節を決め、自由の女神よろしくダガーを頭上に掲げた姿勢のまま拘束する。


 このロシア人がたとえ世界一の怪力であろうとも、人体工学に反する動きはできない。男の丸太のような首筋に自分の足を巻きつけつつ、ダガーをてこでも離すまいとしているロシア人の右手首を軽く捻り、落下してきたロシア製のいやに造形が複雑なダガーを空中でキャッチ。そのまま男の首筋へと流れるように突き立てていった。


 ロシア人の断末魔に合わせて、刺し口から血の泡がぶくぶく湧き出てくる。


野郎をォプータマドレッ!!」

 

 怒りの絶叫に混じり、ポンプアクション式ショットガン特有のコッキング音が聞こえてきたのはその時だった。


 ブルドーザーの運転席を跨ぐ、どうもずっと反対側に隠れていたらしい地元出身の私兵が、古臭いM870ショットガンをこちらに向けてきた。


 間欠泉のように首筋からの血の濁流が止まらないロシア人の身体をとっさにショットガンの前に突き出し、俺の身代わりとした。


 銃声。盾にしたロシア人の身体が揺れて、肉の裂ける気色悪い音が耳元で聞こえた。


 ショットガンというのは銃器の中で唯一、面で攻撃できる火器だ。そのお陰で命中率は高いのだが、引き換えに貫通力はそれほどでもない。現にロシア人の背中に当たった散弾はこっちまで届かず、ただ奴の息の根を完全に止めるだけに留まっていた。


 苛立たしげな唸り声をあげながら、ショットガンのポンプを動かして次弾を装填していく新手の私兵。対してこっちは、ガリルもPSSピストルも、格闘戦の合間にどこかに行ってしまい飛び道具がまるでない――いや、もうひとつあるか。


 とうに動きを止めているロシア人の心臓付近に思いきり奪いとったダガーの刃を突き立て、死体を盾にしながら刃先を調整。運転席から身を乗り出しているショットガン男に狙いを定めていった。


 杷の中に強力なバネを仕込むことで、スイッチを押すだけで刃を射出することができる、その筋の人間ご用達の暗器――通称スペツナズ・ナイフ。そいつを元の持ち主であるロシア人の身体越しに解き放っていった。

 

 胸骨を割って心臓を八つ裂きにし、ほどよく開いたショットガンの弾痕を逆にたどって、何が起きているのかさっぱり分かっていない男の顔面へと、血の残像を残しながらダガーの刃が飛翔していく。


 命中。


 だが幸か不幸か、男は即死を免れた。クロームメッキされたショットガンを取り落としながらショックで身体を震わせつつ、上頬に突き立っている刃におそるおそる触れていく。


 ぶつくさと、私兵がうわ言のように何かをつぶやいていた。典型的なショック状態だ、あれではとても戦いを継続するのは無理だろう。だったらと、俺はロシア人の死骸をそこらに放り捨て、キャタピラの足跡を目線でたどりながら、ガリルが泥の中から突き出している場所へと向かっていった。


 ガリルがそもそもこの国の軍で採用されたのは、泥が混入しても何食わぬ顔で発砲できるタフさを買われたからだった。表面の泥をざっと払い、チャージングハンドルをちゃんと引けるか確認するだけでチェックは十分。すぐ撃てると分かった。 


 だがそうだ、そうだったな・・・・・・弾がまたしても切れていた。


 予備マガジンはまだあったろうかと腰元のパウチを探るが、手が思うように動かない。そういえば目も霞んできている。気を緩めれば、今にも意識が飛びそうだった。


 うまく働かない頭で優先事項を定めようとするが、無理なものは無理だ。悩むのは隙を見せるのと同じ。そんな“ママ”の教えが、頭のなかでリフレインしていく。


「ぶっ殺してやる!!」


 まさか顔面にダガーの刃が生えたまま、ショットガン男が人のPSSピストルを泥の中から拾い上げるなんて、夢にも思わなかった。


 いや普段ならば、爪の先ほどの可能性であったとしても、自分に害をなす可能性があるなら必ずトドメを刺してきた。だが今は、本当に頭が働いてない。


 飛び掛かって止めるには距離がある。かといってガリルには弾がない。ただでさえ1秒の差が命を左右する局面で呑気に立ち尽くしている俺のすぐ横を、謎の物体が通り過ぎていった。


 亜音速で飛ぶものなら、割と人間の視力は捉えることができるのだ。弾丸よりもずっと大きい40mmグレネード弾なら、なおさら見やすいことだろう。


 40mmグレネード弾には、近接信管という安全装置が備わっており、10m以下の近距離ならこの爆発物が起爆することはない。ただ運動エネルギーにまかせて、相手を張り倒すのが関の山となる。

 

 男の死因が突き立ったままのダガーの刃なのか、はたまたグレネード弾で頭蓋骨をかち割られたせいなのか判然としないものの、あの倒れ方からして死んだのは確かなようだ。


 弱々しく身を起こしながらも、M79グレネードランチャーを片手で構えてるケティになんと声をかけるべきか悩んだが、トレードマークの顔面タトゥーを弱々しく歪めな不敵に笑うやつに、そんなの必要ないと思い直す。


 死んでも互いの背中を守るのが、当たり前なのだ。そんな誓いをとうの昔に裏切った俺には、礼をいう資格もない。


 そうとも・・・・・・ケティの無事に、ホッとしていたりはしない。


 無人となったブルドーザーが走り去ると、すぐさま俺を現実へと引き戻す銃火が襲いかかってきた。


 DEAの狙撃によって私兵の1人が半身を引き裂かれ、そのせいで敵が混乱したのを良いことに、俺は新しいマガジンをはめ込んだガリルを出鱈目に撃ちながら、ケティのもとに駆けていった。


 ケティの落下地点は、ついさっきまでアイツが乗ってたサベージのすぐ真横だった。だが見た目からして、あのASはもう動くまい。


 フロッグマンに力任せにひらかれたのだろうコクピットハッチは、中から爆弾が破裂したかのように破損している。それ以外にも、大小さまざまなダメージが無数にあった。


 最後まで抵抗したのだろうが、リストバンドを撒いているかのような巨大な布地を手首に撒いたまま、天に虚しく手を伸ばしつつサベージは沈黙していた。あれで動いたら奇跡だろう。


 銃撃の応酬をしつつ、なんとかケティのもとにたどり着いた。


“怪我は?”


 と手話で問うと、


“そっくりそのまま返すぜ、その台詞”

 

 なんて、呆れて眉をひそめてるケティが返してきた。自分でも、致命傷を負ってないだけで、よくまあこの怪我で立っていられるなと不思議でならない。


 とはいえ、軽口は叩けるようだが、ケティの状態もよろしくはない。


 右手の人差し指と中指はザスカーのトリックショットのせいで折れたままだし、どうにも右脚の調子も悪そうだ。パイロットスーツの加護があっても、無茶なものは無茶か。ケティに歩けるかどうか聞いてみる愚は犯さなかった。言わずもがなだ。


 打ち身などによる一時的なショック状態、その程度であるといいのだが・・・・・・とにかく今は引きずっていくしかなさそうだ。


 そんな時だった。サベージの太腿部分へと、ブレーキの存在を忘れた無人のブルドーザーが激突していったのは。


 だがあいにくと、今度の相手はフォークリフトより桁違いに大きい巨人の死骸だった。無理やり乗り越えようとしたまではよかったが、さすがの馬力にサベージの太腿が少しばかし浮きこそしたものの、ほどなく限界を迎え、坂を転げ落ちるように横転していくブルドーザー。今は、キャタピラをむなしく空転させるばかりだった。


 ちょうどいい。あれを掩体に使わせてもらおう。


 スーツにある、パイロットシートに身体を繋ぐための固定装具に指を突っ込み、はたから見れば首根っこを掴んでいるかのような格好で、当面の安全地帯たるブルドーザーへとケティを引きずっていった。


 道中、泥で足をとられてしまい、運んでるのは小柄なケティだというのにひどく息が上がっていった。だが運良くも気まぐれな銃弾が俺を貫く前に、なんとか目的地までたどり着くことができた。


“で? どうすんだよ兄貴?”


 ケティは恐怖とは無縁なタイプだが、それでも現状のあまりの見通しの悪さに、不安が隠せてなかった。


 上手い返しが思いつかない。だからあえて答えず、俺はケティがいつも羽織っている革ジャンのポケットに手を突っ込み、お目当ての弾頭を手にとった。


 HEDP弾頭、無いよりマシな救世主。


 そいつをケティから回収したばかりのM79グレネードランチャーのラッチを押して、単なる筒にしかみえない砲身へと落とし込んでいった。


“俺たちは、単なる阿呆だ”


 いきなりの自虐に、ケティは珍しく面食らっていた。だが俺は意に返さず、小脇にM79を抱えながら手話で語りかけていった。


“今さら、生き方を変えられるほど器用じゃない。俺たちが仕事でドツボった時、爆破以外で事態が改善したことがこれまで一度でもあったか?”

 

 まだ作戦を説明してはいないのに、ニィとケティが不敵に笑う。


 そうとも、こんなのいつものことだ。ましてや今の状況、ケティ好みのシチュエーションじゃないか。敵にめがけて中指を立てながら、一矢報いてやる場面。成功したらそれでいい。だがこれで終わりだとしても、俺たちにはおあつらえ向きの最後なのは違いない。


 目的の品は手に入ったが、果たしてDEAの読みどおりに本当に効くのかどうか・・・・・・そうでなくとも、下からあのバイザーにピンポイントで命中させるのは至難の業だろう。


 簡単に狙える弱点なら、もっと的確な対抗処置が取られている筈だしな。


 だが今さら迷って、どうなるものでもない。


 M79を構えながら古の勇者よろしく巨人の前に立ちはだかり、その顔面にグレネード弾を叩き込む。あとはまあ、流れるがままに。どうせいつ死んでもいい身分だ。


 とはいえ、お膳立ては必要だろう。


 デザートイーグルを懐から引き抜いてたケティだが、ハンドガン一挺というのは、あまりに心許ない援護だ。やはりDEAの狙撃と組み合わせて私兵どもの頭を抑え、フロッグマンに肉薄する手立てを考えなければ。


 軽く作戦の草案を組み立ててから、俺はDEAに連絡しようと無線に手を触れた矢先、その音を聞いたのだった。


 全方位に音を響かせておきながら、当の外部スピーカーの声の主ときたら、他人に聞かせる気がまるでない呟きをしていった。


『悪いなお前ら・・・・・・』


 おそるおそるブルドーザーから顔だして、水陸両用の巨人の様子をうかがってみる。すると、ポンなどと気の抜けた放出音をフロッグマンは背部から発し、空中に何やら物体を射出していた。


 くるくると宙を舞う円筒形の物体が、ホロスクリーンの反射光と淡い月明かりに反射していた。最初は、俺たちが地下から脱出するために使った煙幕の一種かとも思ったが、それだとザスカーの言動とは、辻褄が合わない。


『だがな、仕留めきれなかったお前らが悪いんだぜ?』


 銃を捨ててまで逃げ惑う、私兵たちの姿が見えた。まだ謎の円筒形の物体は宙をくるくる回転している。俺の知識にはインプットされていないあの物体について、DEAが無線機越しに、悲鳴じみた警告を発してきた。


白燐弾ウィリー・ピート!!』


 瞬間、物体が花開いた。


 花弁の代わりに光の珠が無数に弾け、白い煙の尾を引きながらつぎつぎに地面へと落下していく。その一つ一つがまるで太陽のように眩しかった。


 踵を返し、ケティのもとへ舞い戻る。


 ザスカーが謝罪するわけだ。この無差別兵器は身内であるはずの私兵にまで降り注ぎ、人のものとは思えない絶叫を挙げながらすでに何人もが燃え上がっている。


 火だるまになってうずくまる奴、背中にくっついた真っ白い炎を手で払おうとして、手首から先が溶け落ちていく奴など・・・・・・どうせ顔を合わせたら殺し合うしかなかった敵同士とはいえ、同情したくなるほどの悲惨な最期を、この終末風景の中で奴らは迎えていった。


 間違いない。あの光は、超高温の炎なのだ。


 爆弾の専門家であるケティは、こういう場面だと俺よりずっと判断が早くて的確だ。ブルドーザーがこじ開けたグラウンドとサベージの太腿の隙間にすでに身体を滑り込ませ、俺の方に手を伸ばしていた。


 全力疾走して、スライドしながらその隙間に飛び込む。続いて、ケティに手渡された革ジャンで入り口をせめても覆おうとした。


 革ジャン越しに、手元から伝わってくる灼熱。近くにあの光の珠が落下したに違いない。むせ返りそうな燐の匂いは発煙弾と同じだったが、この濃厚な死の気配はまったくの別物だといえた。


 そういえばASには、対人用途として小型の地雷を装備しているモデルもあるのだったか。


 いつ終わるとも知れない、無限かのように引き伸ばされた時間。はじまりがそうであるように、その終わりもまた唐突だった。


 一瞬で現出した地獄に、もはや戦いどころじゃなくなっていた。あれほどうるさかった銃声は完全に消え去っている。


 そこら中から漂ってくる焼け焦げた激臭。金属から生物に至るまで、あらゆる物体が溶けていると嗅覚が訴えかけてくる。気づかぬうちに自分は死んでいて、すでに地獄に転送されていたとしてもさして驚かない。


 収まった・・・・・・のか?


 位置関係的にDEAが無事な可能性は高いだろう。本当は、もう外に出て良いのか聞いてみたいのは山々なのだが、どんなに送信ボタンを押してみても、無線から流れるのはノイズばかりだった。


 乱戦のどさくさに紛れて、フロッグマンのバイザーをグレネードランチャーで狙撃して視界をつぶす。そういう作戦と呼ぶのもおこがましい皮算用をついさっきまで立ててはいたが・・・・・・混乱カオスどころか、自分の息遣いすらもうるさく聞こえるほどの静寂が、場に満ちていた。


 プスプス焦げ付いている革ジャン製のカバーを落とすと、戦略だとか戦術だとか、そういう小賢しい考えはすべて吹き飛んでいった。


 ついさっきまでは、巨大スクリーンの科学的な光りが光源のすべてだったグラウンドは、原始的で、ひどく暴力的な火災によって、どこもかしこも赤黒く照らし出されていた。


 グラウンドに立っているのは、鋼鉄の装甲によって炎を寄せ付けなかったザスカーのフロッグマンのみだった。


 部下含め、すべてを焼き尽くした巨人がゆっくりこちらに迫ってきた。そうだろうとも、奴を妨害するものは、もはや何も無い。


 たとえこちらが完調だったとしても、相手は平地でなら時速100kmは軽く出せる人型兵器だ。走って逃げるなんて論外だ。歩兵がASを仕留めたいなら、死角をうまく活用するしかない。だがその死角を生み出してくれる遮蔽物は、ことごとく山火事のよろしく炎上していた。


 退路すら、もはや消えうせている。


 革ジャンを地面に落とし、グラウンドに這い出ていった。俺の手にはまだグレネードランチャーが握られてはいたが・・・・・・手がひどく震えていた。これが恐怖のせいならまだ良い。だが実際には、限界を迎えた肉体が震えで体調不良を訴えかけてきたに過ぎなかった。


 ただでさえグレネードランチャーの弾道は弓なりで当てづらいのに、こんな調子ではバイザーへの直撃なんて、どっちみっち覚束なかったかもしれないな。


 炎の照り返しで肌が炙られ、汗が止まらない。


 手の中の武器がひどく重く感じられた。手を離すと、重力に任せるままグレネードランチャーが落下していき、泥の上に横倒しになっていった。


 一歩、また一歩と炎が生んだ煙の薄靄をかき分けながら、巨人が近寄ってくる。


 まさにやつ好みの西部劇的シチュエーションだった。面と向かって対峙する2人の男。だがこれを決闘と呼ぶには、あまりにザスカー流のアレンジが入りすぎている。


 あいつにフェアなんて概念はない。奴がASから降りてくることは、決してないだろう。一方的な殺しこそが奴の真骨頂だ。


 もはやフロッグマンは、目と鼻の先に佇んでいた。俺を見下ろしてくる巨人、こうなれば誰の目にもザスカーの絶対的な優位は明らかだった。


 短期間にしては随分と用意してきた方だが、今度こそ都合の良い援護なんて望めないだろう。俺たちだけだ。


『ここが終焉の地だぜ、同胞』


 ヤクをやってなくとも、いつだってハイだった癖して・・・・・・いやに疲れ果てた声をザスカーは、ASの外部スピーカーから吐き出してきた。


 これは、こっちの狙いが目潰しだったと気付いているな。


 おおよそのDEAの射界を把握しているらしいザスカーは、フロッグマンの右腕を挙げてバイザーを防御していた。これじゃ狙撃は無理だろう。


『まっとうな世界で生きられないクソ野郎どもが、テメェの死に様を自分で選べる。そんな最後の自由を満喫できるのが、この土地の良さってもんだ』


 カウボーイ気取りの変態に賛同したくはないが、そうかもしれないとは思う。


 俺は歴史に詳しくはない。だから身の回りの人間のことしか語れない。


 それでも誰もが何かを欲してこの国を訪れるということは、知っている。中には富と名声を得る奴もいるが、どれも長続きはしない。


 いずれ必ず終わる。なぜならここは生よりも、死の方がずっと近しい土地なのだから。


 銃に生きる者エル・カミーノ・デル・アルマは、銃によって滅びる。


 “ママ”が何を考えていたのか、ついに俺は理解することはできなかった。


 カルテルでも特に汚いビジネスである人身売買に人体実験。そんなものをやっていながら、目的は明らかにカネ目当てじゃなかった。


 支離滅裂な女性だった。愛情と残虐さの間をいったりきたりして、何か大きな目標を目指していたような気がする。今となっては、それが何だったのかは永遠の謎だ。


 俺は、彼女と交わした最期の会話を思い出していた。誰よりも正義と平等を求めておきながら、同時にあんな船の頂点に君臨する、悪魔のような聖女との会話を。


 “何があろうとも、正義は執行されなければならないのよノル”


 それこそが俺が殺した、血の繋がらない母親からの最後の教えだった。


 そうだ、そうだとも・・・・・・正義とは、平等であることなのだった。だったらザスカーを仕留めるのは、俺の役目じゃない。


 奴の仕事に巻き込まれた、復讐者こそが相応しい。


 巨人は相変わらずそこに直立し、こちらを見下ろしている。バイザーの奥に隠れているカメラを見つめることを、アイコンタクトと呼称すべきかちょっと悩んだが、ザスカーの視線を一身に集めてる自覚はあった。


 奴が俺になにを期待していたのか分からない。気の利いた遺言でも聞きたかったのか。


 だから俺は言った。

 

「・・・・・・お前は、俺のムエルトじゃない」


 どうやら鼻で笑われたらしい。かすかにASの頭部が揺れる。


 フロッグマンは焦らず、すべての騒動にケリがつくことに万感の思いを抱いているかのように、ゆっくり左腕の内蔵機関銃の銃口をこちらに向けてきた。


 まともな人間なら平常心ではいられない状況だった。これはようは、銃殺される側が見つめる最後の光景そのものだった――だが生まれながらにして頭のネジが10本は欠けているケティからすれば、そんなの知ったことじゃない様子だった。


 地面に横たわり、伏射姿勢のケティがM79グレネードランチャーで狙い定めているのは、どうせ撃つだけ無駄なフロッグマンではなく――サベージの亡骸だった。


 プランBはいつでも立てておくべきだ。ただしこの場合、プラン・ブラスト爆破と呼ぶべきものだったが。


 金庫の扉を破壊するための爆薬の量は、設計図が入手できていたから必要量は判明していた。とはいえ、最低限の量でも膨大なものになった。


 トラックの荷台に載せてスタジアムまで運搬するのは、簡単だろう。だが、そこからどうやってカルテルの秘密区画まで大量の爆薬を搬入するのかは難題だった。


 そこでテッサが思いついたのが、ASでの運搬――つまりはトラソルテオトルの格納庫で腐っていたサベージに運ばせるという奇策だった。


 “爆破するしかないシチュエーションであれば、ASで暴れまわっても今更でしょう”というのがテッサの言い分。


 ASの設計にそれなりに詳しいというテッサが、起爆すれば腕は吹き飛ぶだろうが機体そのものは大丈夫という、簡単な材料で作れるリストバンド状の運搬器具を考案し、そこにエキスパートであるケティが爆発を前方にだけ集中させる、貫通力重視の特殊なデザインを加えていった。


 白燐弾だったか? あの業火の中でよく誘爆しなかったものだと感心する。


 恨みがましく伸ばされたサベージの右腕は、図ったかのようにフロッグマンの方を向いている。その手首にはまだ、指向性爆薬という名のリストバンドが巻かれっぱなしになっていた。


 ケティは冷静に息を整えながら、折れた人差し指の代わりに中指をグレネードランチャーの引き金に押し当てていった。


 いつ50口径弾に引き裂かれてもおかしくない状況下、軽い感じの砲声がすべてを圧していく。グレネードの風切り音はどうしてかよく聞こえた。


 その直後――爆音が響いた。









【“ザスカー”――シモンボリバル・スポーツ・アリーナ、グラウンド】


 なんだッ!?


 予測不可能ないきなしの衝撃に動転していると、四点シートベルトが俺の肺をきつく締めつけ、貴重な酸素を吐き出させていきやがった。


 回転する視界。不気味なのは、真っ暗闇だってのに自分が回っていることだけは分かる、感覚の不一致だった。


 何が起きた?・・・・・・爆音の直後、すべてのセンサー系統が死に、機体は勝手に地面へと墜落していった。今の自分の姿勢から、なんとなくフロッグマンが尻餅をついているようだと察することはできるが、断言はできねえ。


 何せいくつもあるモニターの半分は事切れ、生き残ったわずかなモニターも砂嵐が止まらないのだ。機体の状態すら把握できない。


 クソッ、クソッ!! 呼吸が浅くなってくる。明らかにコクピット内に酸素が足りなくなってる。


 コクピット内の収納庫からなんとか見つけ、引っ張り出してきた酸素ボンベ。といってもコイツは潜水用とかの本格的なものでなく、健康志向のランナー野郎が使うようなスプレータイプの酸素缶に過ぎなかった


 だとしても酸素は酸素、スプレーを口元に持っていき思い切り噴射した。


 ・・・・・・おい、これ本当に酸素でてるんだろうな? なんど噴射してみても呼吸は一向に楽にならない。コイツにも消費期限とか、その手のものがあるのかと、サビが浮かぶスプレー缶に不安が募る。


 だが、それよりもやることがあった。俺は古くせえ人間だ。機械の修理っつったら、殴ることしか知らねえ。


 接触不良ぎみの性悪テレビにするように、バンバンとまだしも元気そうなモニターを殴りつけてみると、ほら見ろ。かなり画面は乱れてるが、辛うじて判読できるぐらいに復活してくれた。


 確か昔読んだマニュアルにゃあ、生き残ったモニターをメインカメラだとか、外の様子を見ることのできるセンサー系にバイパスできるとか、書いてあったような気がする・・・・・・イスラエル人の傭兵に訓練を受けたとはいえ、俺の知識は正規の操縦兵とは比べものにならねえから分からない。


 止まらない冷や汗を抱えながら、またぞろコクピット中を引っかき回して、今度はマニュアルを探そうとした。だがそんなのがあったら、酸素缶のついでに発見できていたに違いない。


 クソッ・・・・・・。


 マニュアルは諦め、とりあえず、生き残りのモニター画面の内容を読み込んでいった。どうやらこのサブモニターには、機体の状態が表示されているらしい。


 デカデカと書かれた〈酸素供給停止〉はもういい、人を憂鬱にさせるのが本当に得意なメカだぜ。他はどうだ? 自己診断機能とやらを走らせ、異常がないか機体自身に調べさせていった。


 結論からいうと、結果は最悪だった。


 油圧、マッスルパッケージともに反応なし。とりわけ右半身の損傷がひどく、生残性を追求されている二重殻に守られた頑丈なコクピットだけが辛うじて無事なようだ。ここまで酷いと、たしかまだ数100発ほど在庫が残ってたはずなのに、残弾ゼロとの表示されたまま不自然に固まっている左腕部の内蔵機関銃なんて、大した問題に思えてこなくなる。


 このクソボケコンピューターだけが悲観論にはまり込んでるだけで、実際にはそれなりに動くんじゃないかと希望的観測を立ててはみたが・・・・・・自分の腕やら足やら振り回してみても、機体はびくともしなかった。


 マスター・スレイヴも死んでるな、こりゃ。最高だぜ。


 どうしてかASの胸に設けられたこの小さな部屋は、コクピットベイ隔室でも、セクション区画でもなく、セル小室と呼ばれているらしい。


 クソたわけのAS設計屋どもが・・・・・・独房セルだって? 人が死ぬほど嫌いな名前をつけるとは、サディストがすぎるってもんだぜ。


「・・・・・・畜生め」


 どうする? 


 狼の頭領エル・ロボの野郎がどうやってか、まだ爆薬を隠し持っていた・・・・・・それもメガトン・クラスのってのは、もう認める他ねえだろう。今となっては、正直それはどうでもいい。


 気にすべきは、擱座した機体に閉じ込められた俺がどうこの危機を脱するかっていう、ただ一点のみだった。


 まだ俺が息をしてるってことは、向こうもトドメの一撃を食らわす余裕はなかったってことか?


 それかASの装甲に守られていた俺すらも、辛うじて命を拾うような大爆発だったんだ。その爆発の目と鼻のさきに居た狼の頭領エル・ロボも存外あっさり巻き込まれて、おっち死んじまったのかもしれねえな。


 だがどうする・・・・・・このまま装甲の中に引きこもって、嵐が過ぎ去るのを待つか? 馬鹿言え、酸素がいつまでもつか不透明な中、持久戦なんて真っ平御免だ。


 部下の9割は自業自得つったって、俺自身がやっちまった。


 だが残りの、スナイパー狩りのためにカルロスが率いていた分遣隊は無事なはずだ。そうだ、奴らにグラウンドを確保させれば、俺は堂々とこの鉄の棺桶から出て行ける。


 赤い〈酸素供給停止〉の警告文には、まったく気が滅入ってくる。だが酸素不足とはいえ今のところ、迂闊にコクピットの外に身を晒すよりもここの方が安全だった・・・・・・そうと決まりゃあ、さっさと無線機で指示を出すか。そう考えた矢先に当の吊り下げられた無線機から、何やらがなり立てる声が聞こえてきた。


 携帯電話と違って無線機は、着信拒否できないのが玉に瑕だな。だが故障の可能性が消えて、俺は内心で神に感謝していたが。


『おい、カウボーイバケリト!!』 


 カルロスの野郎・・・・・・つまりは、スナイパーをいつまで経っても排除できずにいた俺の腹心が、何やら無線機越しに叫んでいた。


 この亡命キューバ人は普段から声の大きい鬼軍曹体質の奴だったが、どうにもいつもと雰囲気が違った。


 それは、まるで俺を責め立てるような声音だった。


「黙れ、イカれたキューバ野郎が・・・・・・こっちはピンチだってのになんだッ!?」

 

 不安の裏返し、腹立ち紛れに怒鳴り返す。


 すると怒り心頭のカルロスは、無線機越しですら唾が飛んできそうなえらい剣幕でこの舌戦に応じてきた。


『よくも仲間を巻き添えにしたな!!』


 ・・・・・・こんな時にくだらねぇことをベラベラと。死んだやつより、今死にかけてる俺を心配しやがれってんだ。


うるせえカブロン、それよりスナイパーはどうした?』


 そうだ、今となっちゃ狼の頭領エル・ロボよりも謎の狙撃兵の方がやべぇ。


 コクピットから脱出するにしても、あの狙撃をまずどうにかしねえと。なにせこっちは、だだっ広いグラウンドのど真ん中なんだ。一方的に殺られちまう。


「テメエが殺り損ねるから、こんな羽目になったんだぞ・・・・・・」


『俺の責任ってか!?』


「クソくだらねえ、給料分は働けってだけだ。傭兵だろうがお前はよう」


『・・・・・・従兄弟を焼き殺した回答がそれか』


 ぷっつりと無線が切られた。


「オイ、カルロス? ・・・・・・おい」


 短い通信、そのすべてが妄想であったかのように思えてくるほどの沈黙だった。何度かこちらから呼び掛けてはみたが、返信は一向に返ってこない。


 野郎フケやがったな・・・・・・。


 またぞろ透明なマスクを口元に当てて、酸素スプレーを噴射する。駄目だ、やっぱり頭がくらつき始めている。二酸化炭素が狭苦しい独房セルに満ちていく。


 操縦の邪魔だからと、サバイバルギアを取っ払った空きスペースに詰め込んでおいた、愛用のホルスターの束をどうしてか俺は引っ張り出していた。


 そうだ、どうしてこんなことを? 自分でも支離滅裂な行動をしてる自覚はあった。酸素不足のせいか? 判断能力が狂ってきてる。


 無数にあるリボルバーのほとんどは、どうでもいい。どうせファッション目的、実用なんて二の次な思い入れもまるでない品だ。


 だがコイツは別だ。


 俺が欲したのは、数あるリボルバーの中でもひときわ古びてるオールドスクールなモデル――コルト・ドラグーンだけだった。


 コイツだけは、本物の西部開拓時代の生き残りである真の骨董品だった。


 バッファロー・ビルゆかりのワイルド・ウェスト・ショー。その遠縁のそのまた遠縁・・・・・・いやはっきり言って、辞めどきを見失ったパクリの興行こそが、俺のキャリアのスタート地点だった。


 そうとも、最初は単に映画よろしく、リボルバーを振り回すだけで満足だった。ガンスピンをかまして、観客を沸かせるだけで飯が食える。十代の頃の俺にとってそれは、理想の生き方だった。


 だが夢を追いかけて祖国から飛び出してきた、浅黒い肌をした野郎が、白人様の国で主役を張れるはずもねえ。こちとらコロンビア生まれだっていうのに、頭のおかしなメキシコ人の小悪党を演じつづける日々。吐き気がした。


 最低賃金なんて夢のまた夢の生活の横で、俺よりずっと底辺からのし上がってきたチンピラどもが、フルオプションのSVUを乗りまわすんだ。そうだとも、西部劇を模した三文舞台に出演するよりも俺の早撃ちのスキルは、カルテルからずっと重宝がられたのだ・・・・・・。


 当時のカルテル。いやそもそもカルテルなんて概念自体、あの当時は出来上がっていたかどうかも怪しい時代の話だ。


 一足飛びでいきなり麻薬帝国を築き上げたドン・パブロの“麻薬カルテル”って方法論は、急速にこの土地に根付き、そして拡散していった。


 それに俺はすぐさま乗っかったのさ。


 当時の俺のボス、ドン・パブロはまさに王だった。あの人が指示すれば、誰もが死んでもその命令を実現していった。


 だが井の中の蛙って奴だな。王なんてのは案外、掃いて捨てるほどいやがるものなのさ。


 俺たちメデジンが天辺を取ったと思い込んでいたその場所は、アンクル・サムUSAのような真の王たちからすれば、せいぜい小高い丘に過ぎなかったのだ。


 真の王がエベレスト並の山頂から拳を振るえば、一瞬で吹き飛んじまう程度のな。


 もう終わりだと誰もが気づいていた。


 当局によるメデジン・カルテルの壊滅作戦・・・・・・そいつはもう、限りなく実現していた。


 当局の陰に怯えながら、みすぼらしい一軒家に引きこもる麻薬王。とんだ笑い話だぜ。まともに風呂にも入れず、みっともなくヒゲまみれだったケチな逃亡犯と化していたドン・パブロは、落ち目なんてもんじゃなかった。


 裏切った奴、くたばった奴、刑務所で朽ちた奴・・・・・・万人単位だったメデジン・カルテルも、気づけば俺と運転手の2人にドン・パブロを足した、ほんの3人ぽっちになっていた。


 俺がトレードマークのカウボーイハットを家に残し、サングラスで厳重に変装しながらやっとの思いで街に出かけていったその理由は何かといえば、食料の買い出しだった。


 もう街中の誰も、メデジンのシカリオと聞いてもビビったりしねえ。時代はすでにカリへと傾いていた。


 なのにドン・パブロは、俺ら手下のために手ずから目玉焼きを調理しながら、まだ政府と戦うなどと言い張っていた。


 国中の警官を殺しつくそうとして、ゲリラやらテロリストやらまで雇ってさんざん暴れまわった挙げ句に、結局はその権力にすり潰されようとしている太っちょは、明らかに現実を認識できていなかった。


 それまで何度も俺は、当局や、商売敵たるカリから引き抜き工作を受けていた。ドン・パブロを売れ、そうすれば見返りになんでもくれてやる。


 だが当時の俺にとって、忠誠心がすべてだった。


 しがない芸人ショーマンだった俺を取り立ててくれた男にせめても忠を尽くそうとして・・・・・・その結果が、カルテルの下っ端中の下っ端である運転手とタバコを分け合いながら、すぐそこに迫る終わりをジリジリ待つばかりって身分だった。


 限界だった。こんなくだらねえ死に方だけは、したくはなかった。俺は大物になりたかったんだ。


 家中が寝静まったあと、俺は着の身着のままで玄関口に立った。どうせ個人資産なんてとうに差し押さえられている、この家から持ち出すものなんて何もない。


 いつ警察が突入してきてもおかしくなかった。だから隠れ家中に銃が隠されており、無論のことながらドン・パブロの手元にも、ちゃっちな9mmピストルが握られていた。


 そうだ。ドアノブに手をかけた瞬間、ソファーで寝ていたはずのドン・パブロと目があったんだ。


 眼差しだけで人を殺せる男。実際これまで何千人も殺してきたし、その中には無数の裏切り者も含まれていた。


 カルテルだけじゃない、あらゆる犯罪組織においてもっとも忌み嫌われる存在は、間違いなく密告屋ヒキガエルだ。


 俺の中ではまだ忠誠心が燻っていた。だからドン・パブロだけは売るまいと心に誓ってはいたが、これからを考えるならカネが要る。


 そして俺の手元に残った資産はといえば、メデジン・カルテルでのキャリアで培った、様々な情報だけだった。


 そいつを切り売りしながら、ずっと敵対してきた警官どもに媚を売る。それが俺が隠れ家から抜け出したあと、まず最初にする予定のことだった。


 目が合った。ただそれだけで、お互いにすべてを悟りあっていた。卑怯者の目をしている自覚は、誰よりもあった。


 全盛期のドン・パブロだったら、動機をわざわざ問いただしたりしない。密告屋ヒキガエルは人間じゃねえ、処理されて当然だ。


 だが俺がソファーに背を向け、ゆっくりドアノブを回して外気に満ちる歩道へと歩みを進めていっても、どうしてか銃弾は飛んでこなかった――それから3日後、ドン・パブロは突入してきた警官隊に射殺された。


 まさにギリギリのタイミングだった。すでに戦争に疲れ切っていたコロンビア政府は、百人単位で人を殺しているようなシカリオたる俺でさえ、ただ投降するだけで大幅な減刑を約束してくれた。


 これがアメリカならよくて死刑、最悪のパターンなら無期懲役ってところを、メデジンがくたばったことで幅を利かせはじめた他の麻薬カルテル関連の情報を売ることによって、俺はわずか1ヶ月足らずの刑務所ぐらしだけで済むことになった。


 危ういところで命拾いした。


 それだけじゃない。ムショで出会った奴らを介して、即戦力を求めていたカリに俺はそのまま移籍することまでできた。ロドリゲス兄弟の親戚を弾いた俺の元子分、そいつがマイアミのどこで暮らしているのか住所を提供してやったのも、大きかったに違いないが。


 こうして俺は、今日まで生き延びてきたんだ。


 ギリギリのタイミングで逃げ出すことにかけちゃ、俺の右に出るやつはいねえ。メデジン時代の同胞で生き残っているのは、今や俺だけだ。それもそれなり以上の富を持ちながらな。


 だがどこまで行っても、あの夜のドン・パブロの目が追いかけてきた。


 まるで獲物を仕留めたハンターのように、満面の笑みした警官どもに晒し者になっていたドン・パブロの遺骸の写真は、なんども目を通した。あと首の皮一枚ってところでその写真に俺も写り込んでいたはずだった。ろくな死に方じゃねえ。


 だが富や女では満たされることのない充足が、その写真の中にはあった。俺は――あの隠れ家でドン・パブロとともに戦い、そして死ぬべきだったのさ。


 あれが分岐点だった。裏切り者として卑小な人生を歩み、ただ老いさらばえるか・・・・・・それとも、忠臣としてボスを守りながら命を散らすか。決闘から逃げ出したワイアット=アープを誰が記憶する? 


 カリはあまりにも上手く組織を回していった。目立てば潰されるのはメデジンがこれ以上なく証明していたから、カルテルは王国から、社会の裏に潜む幽霊へと進化していった。


 だがそいつは、俺の知るカルテル像じゃない。


 世界の王として肩で風き利ながら、威風堂々と歩きまわっていたあの時代はもう終わったのだ。


 俺は生き延びるためなら何でもする。そうやって生きてきたが、その真意は単なる惰性だった。俺はあの夜、ドン・パブロに背を向けた瞬間からシカリオでもなく、アウトローでもなく、ただの野良犬として生き続ける羽目になったのさ。


 だからドン・パブロは、裏切り者である俺を撃たなかったのだ。裏切りのその先にある緩慢な幸福に、いずれ俺はすり潰されると、あのお方は知ってたんだ。


 


 


 





 ・・・・・・・・・・・・音が聞こえてきた。装甲の上を、まるでネズミが這い回るような音が。


 



 


 




 まさか、ありえない。フロッグマンの下から上へ、その物音は着実に這い上がってきていた。


 酸素不足が生んだ幻聴に過ぎないはずだ。死んだはずのベスティアが、俺に追いすがってきたとでも? まさか・・・・・・。


 この荒がる呼吸は低酸素状態のせいか、それとも別の理由からなのかもう判然としねえ。


 揺らぐ視界を収めるべく酸素スプレーの中身を大量に消費しちゃみたが、右手の震えは一向に収まらず、コクピットハッチへと漫然と向けられたコルト・ドラグーンの銃口がかすかに揺れていた。


 普通、ASのコクピットまで敵が這い上ってくるなんてありえねえ。そんなことをする前に、圧倒的火力に潰されるのが常だ。


 だからASの設計者どもは、操縦者が失神するなどして外部から救出するしかないシチュエーションを想定し、機体の外側に開閉装置なんて設置してやがるのだ。


 その開閉装置には、身内にしか分からない暗証キーだとか、プロテクトは一切ない。ただ蓋を開いて、レバーを回すだけでいい。


 ありえないだって? その台詞を酸素不足でハイになってきた頭があざ笑う。カルテルに1人で喧嘩を売る方が、よっぽどありえねえ。


 カルロスが先ほどの言葉を撤回して、俺を助けに来たとも思えねえ。奴は面倒見は良いが、そいつは手下どもに対してだけだ。


 野郎がフケると言い出せば、残る奴らも追随するに違いねえ。物音の主は、味方じゃない。


 ハッ、俺は一声だけ笑ってから、邪魔な酸素缶をあたりに放り捨てた。


 徐々に神経が研ぎ澄まされていく。もう逃げ場はねえ、その事実に俺は――歓喜していた。


 ないまぜになる逃走本能と、戦いの匂いへの狂喜。あの日、ドン・パブロを見捨てて逃げ出してからというもの、俺はずっと自分が有利なシチュエーション以外の戦いを避けてきた。だが今はどうだ?


 完全無欠に閉鎖された空間。壁を隔てて、たった2人の人間だけが、存在することを許された世界。そんなの、夢にまで見た荒野の決闘そのものじゃねえか。


 俺は、戦術的に優位にならないと知っていながらコルト・ドラグーンを構えるのを止め、例の背骨に沿ってつけられる特注のホルスター群の中から、ひときわ古い牛革製のホルスターを取り外した。


 こんなもの、単に目立ちたくて付けていただけだ。これからの戦いに必要なのは、芸人時代から引き継いだ古馴染みのホルスターと、それに輪をかけて骨董品なコルト・ドラグーンだけで十分だった。


 奴のことは知ってる。2発目を放つ余裕なんて、この間合いで与えてくれるような親切な野郎じゃねえ。


 確信が満ちていく、俺はずっとこの時を待ちわびていたのだと。


 言い訳しようのない真っ向きっての果し合い。ヤクにも女にも与えることは出来ない、究極の快楽。人生をかけてたった一度だけ実現できる――だが逃してしまったとばかり思い込んでいた晴れ舞台だ。


 立てないのが口惜しかった。だがホルスターからリボルバーを引き抜き、早撃ちするだけのギリギリのスペースは、なんとか確保できた。


 膝を抱えて白黒テレビを眺めていた、幼少の記憶が蘇ってくる。


 俺は幻想の荒野のなかに立ち、すぐ側にそびえ立つ時計台が、決闘の刻限を伝えるために黙々と時を刻んでいた。ああ、そうだ・・・・・・俺はこう生きたかった。アウトローとして文明社会すべてに背を向け、てめえの我を貫き通し、荒野を彷徨った果てに――決闘で命を散らすのだ。


 歓喜の笑みがこぼれてくる。あるいは単に俺の頭はもうイっちまったのかもしれない。


 すべては酸欠がもたらした妄想で、指を這わせた開閉スイッチを押し込んだところで、外界にはただ虚無が広がるばかりとかいうオチもありうる。


 ああ、十分にありうるとも。だがな、俺は確信していたんだ。


 装甲という壁一隔てた向こう側で、俺の首筋に噛みつき引きちぎってやろうと、獣が牙を研いでいるのが分かった。


 奴は俺とは違って、決して戦いから逃げ出さない。愚直なまでに正面きって突き進み、すべてをムエルテへと追いやる。


 それこそが俺たちだ、これが無法者デスペラードの末路なのだ。


 軽いスイッチの感触のあと、ASのハッチがせり上がっていく。


 新鮮な空気とともに、真っ黒な影が目のまえに躍り出てきた。俺は撃鉄をおろしながら、何万回も繰り返してきたホルスタードロウを獣に見せつけてやった。悠長に照準器を覗いたりしない。腰だめで狙い撃つ、1秒の競い合い。


 それが俺が目にした最後の景色だった――そこには、毛を逆立たせたロボが黄色い瞳でこちらを睨みつけていた。






 

 

 

【“テッサ”――シモンボリバル・スポーツ・アリーナ・VIP室】


「・・・・・・んっ」


 わたしの手の甲には、ナイフが突き刺さってました。


 GPS携帯ごと貫かれたナイフを少しずつ、引き抜いていく。すると白い皮膚が刀身にあわせてそり返り、血がじんわりと傷痕から溢れてきました。


 猛烈な痛みを感じてはいます。さながら灼熱の棒を手のひらに押し付けられているかのよう。ですが、あまりに現実離れした激痛というのは一周まわって、あー痛いなー、なんて客観的に思えてしまうものなのです。


 酷い怪我なのに、わたしの頭はひどく冴え渡っていました。


 ハンカチでもあればよかったのですが・・・・・・手近な布地といえば、自慢の三つ編みを繋ぎ止めているリボンのみ。ソファーに腰掛け、どうしてかまだ手に持っていたナイフをテーブルに放り捨て、代わって片手だけでなんとかリボンを解いて包帯代わりに傷口へと巻きつけていく。すると、青い布地に真紅の液体が染み込んでいきました。


 指に若干のしびれは感じるものの、これは出血と痛みのせいでしょう。なんとも綺麗に急所だけは外れたらしく、指はちゃんと思うように曲がってくれている。


 相手には動機があり、何よりも手段がありました。


 殺されても仕方がありません、その覚悟だってありました。Mr.キャッスルにとってわたしは、もはや敵対者なのですから。だというのに刺殺体に成り果てるどころか、悠々とソファーに腰掛け、応急処置をするゆとりすら与えられている。


 気宇壮大な構想を実行に移しておきながら、その内面はあまりに小市民的な論理感に縛られている――普通の人。


 ついに一線を越えられなかったMr.キャッスルをわたしは、そう捉えていました。


 諦めとは違う、どこが疲れたように虚脱しながらMr.キャッスルは、わたしの対面に腰掛けてました。自身の築き上げたものに並々ならぬ自負心を懐き、ああも熱弁を振るっていた先ほどが嘘のような姿です。


 Mr.キャッスルは、自身のトレードマークに違いないアビエイターサングラスを外し、胸ポケットから取りだしたクリーニングクロスでもってゆったりレンズを拭っていきました。


 ああだからかと、わたしは初めて目にした老人の瞳を見て、ひとり納得していました。


 右の目は青く、左の目は緑色という――虹彩異色症オッドアイ。彼がこれまで成してきた悪行に比べれば、その瞳はあまりに優しげだったのです。


「昔、パナマでもこの静けさを味わったものだ」


 わたしに語りかけているのか一瞬、迷ってしまうほど、それは独白のような語り口でした。


 応急処置をしている間中、窓の外では戦いの暴風が吹き荒れていました。ですがほんの数分前から、それまでが嘘であったかのようにスタジアム全体が静まり返っていました。さながら台風一過のように。


 荒々しく脈打っている手のひらを抑えながら、元CIAというこの老人の経歴とパナマというキーワードを重ね合わせて、なんの話か推察していく。


「1989年・・・・・・パナマ侵攻の話ですか?」


「その通りだ。当時の私はカンパニーから出向していて、エルサルバドルにある南方軍の指令所にいた。

 誰も彼もが慌ただしげに走り回っていたものだよ、そう、まさに戦争のようにね」


 戦争という単語を冗談めかして口にしながら、老人を遠い過去を述懐していく。


「パナマの刑務所に捕らえられていた同胞を救うべく、特殊部隊Dボーイズの派遣が決定された。

 そこで私は現地の専門家として、ありとあらゆる知識の提供を依頼されたのだ。八方手を尽くして情報インテルをかき集めたものだよ。

 私は全力を尽くした。陸軍の精鋭たちもまた、私がもたらした情報を元に水も漏らさぬ作戦を組み立て、そして実行に移していった。

 与えられた期間を思えば、これ以上ないほど完璧に仕事をこなした自信はあったよ。だがヘリコプターに分乗した星条旗を掲げる兵士たち、彼らがパナマ領空へと侵入した途端、司令部に寄越していた途切れ途切れの通信が不意にかき消えたのだ・・・・・・」


 ここ半世紀の戦争について、わたしは大概の戦例は頭に叩き込んでました。その中にはもちろんパナマ侵攻も含まれてましたが、この作戦は確か、多少のトラブルはあったものの成功裏に終わったはず。


 ですからMr.キャッスルが言いたいのは、作戦の成否ではないのでしょう。


「今の、沈黙のように?」


 わたしの言葉にこくり、Mr.キャッスルが頷きました。


「実のところあれは、敵に傍受されないための手筈どおりの無線封止に過ぎなかった。だがそうと知っていてもなお、言いしれぬ緊張感が司令室に満ちていった。

 完璧に調べあげたよ。囚人がどこに収容されているか? その監房の番号はもちろんのことシフトに、武装、看守室のドアがどの方向で開き、蝶番のサビ具合でさえ詳細に。

 その中にはむろん、パナマ軍の対空陣地の実態についてのリポートも含まれていた。だがどれほど完璧に立てた作戦も、実行するのは所詮は人間だ。

 だからこそふいに、あの沈黙は訪れたのだろう・・・・・・人事を尽くして天命を待つ。すべてが自らの手を離れ、ただ結末がもたらせるのを待ちわびる瞬間というやつが」


 不気味なほどの静寂が今なおスタジアムに満ちていました。これはつまり、わたしたちの知らぬ間に、どこかで全ての決着がついたということなんでしょう。


 誰が勝者なのか、この部屋からでは知りようもありません。いずれ誰かが教えにやってくるでしょうが、それまで敵と味方に分かれている指揮官同士、できることはもはやないのです。


 結果が出るまで、ただ座って待ちわびるだけ。


 Mr.キャッスルの発言に、わたしは珍しくも共感を覚えていました。トゥアハー・デ・ダナンの艦長席でこれまで何度も味わってきた、自信と無力感のせめぎ合い。


 それと今の状況はまったく同じなのでした。


「わたしはそれを、指揮官の憂鬱と呼んでましたよ」


 Mr.キャッスルが柔らかく笑う。互いに全力を出したあったライバル同士が、奇妙な親愛を感じるかのように。


 まるで孫を前にした好々爺のように顔を歪めながら、彼は言いました。


「良いネーミングセンスだ」


 敵よりもより準備した方が勝つ。わたしはそれが指揮官の本質的な仕事なのだと、考えてました。


 最初の銃声が鳴った時点で、小利口な戦術理論なんてものは吹き飛んでしまうものです。最後に勝利をもたらすのはいつだって、現場で血を流している兵士たちの実力と信念なのですから。


 なので指揮官ができるのは、徹底した事前準備のみなのです。あらゆる可能性を想定して情報を集め、状況にあわせて刻々と変わっていく現実に備え、あらかじめプランを練っておく。


 その後はまあ、すべてMr.キャッスルが語った通りです。指揮官たる我が身としては、祈りながらただ待つことしかできない。


 さらに沈黙の数十分間がつづいていきました。誰も喋りません。


 銃声はおろか、あらゆる通信機器までもが完全に沈黙を保っているこの状況に、生き残った警備員の片割れや、相変わらずデスクに張り付いているエンジニアのサントスさんなどは、不安を隠せずにいました。


 どこか達観した面持ちのわたしやMr.キャッスルとは、大違いの反応です。


 そしてどうやら、戦いの審判を告げるメッセンジャーがついにこの部屋に向かっているようでした。


 エレベーターの階数表示に光が灯りだす。刻一刻と、VIPルームに迫ってくるエレベーターに警備員は焦りの表情をうかべ、まず上司にどうすべきか視線で問いかけたのですが・・・・・・Mr.キャッスルときたら、気に求めてないようです。


 その態度に業を煮やし、警備員さんは自らの判断に従うことにしたようです。


 戦いの予兆に対する反応はさまざまでした。


 空いているソファーをエレベーターの前に引きずり、その背後に隠れながらAK-47で狙いを定めていくB.S.S.の警備員。


 高級革張りソファーとはいえ、中に詰まっているのはクッションだけです。あれに防弾性能がない事など、当人だって百も承知でしょう。


 ですが姿を隠すのに格好の家具は、他に見当たりません。一瞬でも相手が敵がどこにいるのかと戸惑ってくれたら儲けもの、そういう算段を立てているに違いない。


 一方、なんとなく嫌な予感はしているものの、かといってどうすることもできず、ただジッと息を殺しているサントスさんはいかにも素人らしい。


 そして最後にMr.キャッスルは、とうに拭い終えていたサングラスの柄を両耳にしっかり掛けてから、おもむろに懐から携帯電話を取りだしていきました。


 静かな部屋にダイヤル音だけが鳴り響く。短い発信音のあと、素性不明な通信相手に向けてMr.キャッスルは、手短に指示を出していきました。


9姉妹ナイン・シスターズに伝言――あとの処理は任せる」


 短く、一方的な通話でした。あるいは留守電メッセージを吹き込んだだけかもしれませんが・・・・・・目的を達したMr.キャッスルは追跡できないように携帯電話をへし折り、ゴミ箱へと放り込んでいきました。


 もしかしたら、これは彼なりの敗北宣言であったのかもしれません。


 エレベーターの扉が開く。ソファーに隠れ潜んでいる警備員の手に力が込められ、AK-47のプラスチックパーツがきしきし軋むのがここからも聞こえました。ですが扉の先に広がるエレベーターの中身は、どうしてか無人だったのです。


 そんな筈はない、そうと分かっていながらも動揺を隠せない警備員は、首を伸ばしてエレベーター内を確かめていきました。


 そうです。これはあからさまな罠でした。それもかなり低レベルなものですが、その効果は絶大。


 わたしから見て右からヤンさん、左からケティさんが突如として姿を現しました。警備員はソファーから首を飛び出させてましたから、標的識別に2人はきっと困らなかったことでしょう。


 プロらしい安定したスタンスのヤンさんと、ギャングのようにデザートイーグルを横倒しにして乱射していくケティさん。あまりに対象的なスタイルでしたが、どちらにせよソファーではこの2人の攻撃は防げません。


 炸裂する銃声。これまでの静けさのせいで、ますます耳を聾するほどの轟音は一瞬で終わり、最後の警備員はあっさり床に横たわり絶命しました。


動くなノー・セ・ムエーバン!!」


 いわゆるダイナミック・エントリーの作法に則り、ヤンさんは大声を張り上げながらVIPルームへと突入してきました。


 わたしが目線でMr.キャッスルは非武装だと示すと、ヤンさんはそのままサントスさんの方角に直進していく。


「銃は持ってないッ!!」


 悲鳴じみたサントスさんのそんな主張にまるで意を返さず、素早くスリングでライフルを腰に回したヤンさんは、オフィスチェアからサントスさんを引きずり倒し、デスク上の本やら小物やらが吹き飛んでいくのにまるで気にもとめずに床へと組み伏せていきました。


 プロというのは相手の見た目はもちろん、自己申告だって絶対に信用しないものです。


 サントスさんの足首を高くクロスさせて、両の手のひらを上向きに固定させてから身体をまさぐっていくヤンさん。申告どおりに武器は持っていないと判断すると、そのまま寝そべるサントスさんの背中のくぼみに膝をのせ、拘束していく。どうやら手錠を切らしているみたいでした。


 とくに怪我らしい怪我も見当たらないヤンさんに比べますと、一歩遅れてエレベーターから降り立ってきたケティさんの姿は、いかにも痛々しかった。


 安宿で折られてしまった右手の人差指と中指の固定具までもが泥をかぶる、控えめにいってもズタボロの様相。そのうえ片足まで引きずっているのですから、見るだけでもう痛々しい・・・・・・。


 ですがそんなケティさんすらマシに見えるほど、顔面タトゥーの少女に肩を貸されながら歩み出てきたノルさんときたら、悲惨なお姿でした。


 さながら墓場から抜け出てきた死人のよう。泥と血にまみれているせいで、もうどこを怪我しているのかも判然としません。ですがあの顔の死色ときたら、ただ事ではありません。


 ケティさんの肩に掴まり、もう一方の手で鉄と木で組み上げられた古式然としたガリルARMを松葉杖のように突きながら、青白い肌をしたノルさんは、あまりの悲惨さに絶句しているわたしの横へとゆるゆる腰掛けていきました。

 

 お金を湯水のように費やしたVIPルームを、ただ歩くだけで血反吐により汚染していったノルさんは、ふと驚愕で固まっているわたしに目を止め、とろんと疲れ切った眼差しを包帯代わりにリボンが巻かれているわたしの右手へと、落としていったのです。


「・・・・・・酷い怪我だな」


「どの口で言いますかあなたはっ!!」


 見れば見るほど、まだ生きているのが不思議なぐらいの重症ぶりでした。


 擦過傷はもう数え切れないほどで、アザは全身に広がっています。そして一番の問題は、やはり腹部の銃創でしょう。


「どこでこんな怪我を負ったんですかあなたは!?」


 真新しいはずなのにもう血塗れな包帯は、圧迫が足りてない証でしょう。わたしは慌てて、ノルさんの脇腹の包帯に手を押し当て、止血しようと試みました。


「コクピットを開けたらザスカーの奴が・・・・・・」


 この応急処置を施した当人らしいヤンさんが、そんなノルさんの覇気に欠けすぎる返答に、上から言葉を重ねていきました。


「銃弾は貫通しています、抗菌剤もすでに飲ませました。触診してみたところ急性腹膜炎の兆候もありません」


 初期対応は完璧なようですが・・・・・・わたしは言いました。


「出血性ショックはどうです?」


「今心配すべきはそれですね。大佐殿、直接圧迫止血を。その包帯を傷口に押し込みつつ、上から強く抑えつけてください」


 かつて度胸をつけるため手術に立ち会ったこともあるわたしです。頭の中の本棚から、米軍の救護マニュアルを引っ張り出してはみたものの、実技はほぼ皆無というのが足を引っ張ってしまう。


 こんな大量出血は初めてで、流石に動転してしまった。


「あっ、えっと、これでいいのかしら? あのノルさん・・・・・・痛いところはありませんか?」


 動揺のあまり、我ながらずいぶんピントのズレた問いかけをしてしまう・・・・・・すると呆れたような眼差しをノルさんはこちらに向けてきました。


「この24時間のあいだに殴られ、蹴られ、高所から落下して、爆発に巻き込まれ、ナイフで斬りかかられ、格闘家に腕を引きちぎられかけて、その挙句に徒手空拳でASを相手取って戦い、しまいには撃たれた。

 ああそうとも、痛いとこなんてどこにもないとも」


「・・・・・・」


 心配よりも先に、ついつい人体の不思議について思いを馳せてしまった。どうしてまだ生きてるのでしょうこの人? 


「言っておくけどね!!」


 衛生兵の資格を持つ、この場ではもっとも医療に精通しているヤンさんが言い募ります。


「ベラベラ喋っていられるの今のうちだけだからな!! すぐにでも輸血しないとあと数時間も保たない!! その後は、ゴールデンアワー内に手術を受けないと命の保証はないんだからなッ!!」


「・・・・・・一応、医者の手配はしてる」


「そうであることを祈るよ。でなきゃ命を失くすのは君なんだからね!!」


 大変な大怪我です。それは間違いないものの――生きている。


 勝って兜のなんとやら、ここで気を抜くのは指揮官失格です。なのにどっと安心感が押し寄せてきて、倒れてしまいそうになる。


 わたし、ノルさん、そしてヤンさんにケティさん。ほんの4人足らずの小所帯でカルテルに挑み、どういう奇跡かこうして全員が生きているのです。


 無事とは、程遠い有様でしたけど。


「生きててよかった・・・・・・」


 これまでの彼の言動には、自罰的なものが多く含まれてました。


 子どもたちを救うのは手段に過ぎず。自らを罰するあまり、単に死に場所を求めているだけなのかもしれない――まるで自分について語るように、そう感じてならなかった。


 ナイフで刺し貫かれた手のひらがズキズキと痛む。そう、わたしはノルさんと似たもの同士なのかもしれない。敵にあえて捕まるなんて、無謀と謗られても仕方がない作戦を行なったのは、誰あろうわたし自身なのですから。


おめでとうコングラッチレーションズ、Ms.テスタロッサ」


 その声には言葉通りの称賛の意味も、かといって皮肉も含まれてませんでした。


 またサングラスという仮面を被ったMr.キャッスルは、平坦にこちらを眺めている。


「君は、旅の道草ついでにコロンビア最大のカルテルを滅ぼしたわけだ」


 ノルさんたちがここまで来れたということは、Mr.キャッスルの手駒はすでに再起不能か、あるいはすぐたどり着ける距離に居ないと見なすべきなんでしょう。


 敵はなお強大ですが、実際に兵力を動員できなければ意味がありません。この老人は今、丸裸なのです。なのに傲慢の衣をふたたび被り、どこか余裕すら漂わせてる。


 吹っ切れた、ということなのかしら?


 ノルさんは、持ち主と同じぐらいにひどい有様なPSSピストルを緩慢な動作で引き抜き、腰だめにMr.キャッスルへと向けていきました。


「・・・・・・あれは誰だ?」


 ちょっと朦朧とした言葉づかいに不安が過ぎる。カリの幹部だからと、Mr.キャッスルの命を狙ってたのはノルさんの筈なのに。


 それとも、もっと象徴的な意味合いなのかしら。表面はともかく、内面はまるで知らないでしょうから。


「彼は・・・・・・」


 わたしはその問いの答えを知っている。ですが言い淀んでしまった。


 ノルさんには、この男に復讐する権利があるのかもしれません。当人がどう主張しようとも、あの船で行われた責任の一端はこの老人にある。


 Mr.キャッスルは、優しすぎる眼差しをサングラスで隠しながら、背筋を伸ばして堂々とこう宣言したのです。


「私こそがだ。ほんの3ヶ月前まで、君の人生すべてを所有していた男だよ」


「・・・・・・死ぬ気ですか、あなたは?」


 戒めるように、そう問いかけました。


 銃を持っている相手に不用意な挑発をすればどうなるか、この老人が知らぬはずがないのに。


「逆に尋ねるがねMs.テスタロッサ、君はわたしを一体どうするつもりなんだ?」


 スーツの袖をまくり、これ見よがしに手錠をかけられたポーズをサングラスの男が披露する。


「逮捕するかね?」


「・・・・・・」


 例の“クレイドル”から奪取した情報を解析すれば、あるいはMr.キャッスルを刑務所送りにできる証拠が見つかるかもしれません。ですが犯罪というのは、証拠だけではどうにもならないこともある。


 具体的には、政治とは厄介なものということなのです。


 身柄を拘束したのがコロンビア政府であれば、この件について寝耳に水に違いないアメリカ政府といえど、よくも悪くもMr.キャッスルを守らざるおえないでしょう。


 この老人自身のためでなくアメリカ国民の権利を擁護するために、身柄の引き渡しを要求するはず。そこから狂乱が始まるのです。まずは引き渡す、引き渡さないの国家間の駆け引きからかしら。


 果たして裁判すら始まるかどうか。これは、掘れば掘るほどダーティーな問題なのですから。


 このスキャンダルは、誰にとっても不利益にしかなりません。これまでMr.キャッスルの口車に乗ってうまい汁を吸ってきた者たちはもちろんのこと、真面目に職務を遂行している人々にとってもとんだ大迷惑です。


 だったら臭いものには、蓋をするのが手取り早い。誰が舵取りを取るわけでもなく、そういう方向に話が流れていくのが目に見えるようでした。


 悪党を逮捕したから全て解決とは、現実は中々ならないもの。皮肉ですけど、Mr.キャッスルの主張をある程度は認めるしかありません。


 この件は大々的に報道されるでしょうけど・・・・・・世間の興味だってどこまで保つか。アメリカは民主主義国家です。つまりは、良くも悪くも民衆の興味の度合いによって、事件の重要度は左右されてしまう。


 複雑な政治的問題に大衆がどこまで関心を保てるでしょうか? イラン・コントラ事件すらもう忘れ去られているのに。


 ですから逮捕しても無駄だと、Mr.キャッスルは言い張っているのです。


 わたしだって、それは承知してました。いずれ有耶無耶になる可能性は高いとはいえ、CIAが間接的にカルテルを経営していたという情報は、相手側からすれば漏れないに越したことはない。


 だからこそわたしは、この情報を盾にCIAを脅迫するという作戦を立てました。この老人の処遇をどうするかという点を都合よく忘れながら・・・・・・。


「1979年の犯罪人引渡し条約への署名以来、コロンビア国内でアメリカ人が裁かれた事例はない。

 順当に行っても私の身柄は、我が愛すべき祖国へと送還されることだろう。

 君もアメリカ人、ましてや仮にも国防畑に首を突っ込んだこともあるのだ。我が国の複雑怪奇な司法制度も、宣伝力が物をいう政治バランスにも覚えがあるはずだ。

 何より・・・・・・その飽きっぽい国民性もな。

 どれほどの巨大なスキャンダルに晒されようとも、ニクソンがそうであったように、飽きたら誰もが忘れていく。これぞアメリカ式民主主義の真骨頂だよ」


 わたしの考えをズバズバと言い当てるものです。指導者としては失格でも、やはりスパイとしては超一流のようですね。


「・・・・・・この国であなたを裁く道が無いわけじゃないわ」


 我ながら苦し紛れの意見を、Mr.キャッスルは鼻で笑い飛ばしました。


「それは好都合だな。億ドル単位の資産を持つと、法律の値札というやつが見えてくるのだよ。アメリカ人の判事を買収するよりも、この土地の判事のほうがずっと安上がりで済む」


「判事が賄賂を受け取らなかったら?」


「殺せばいい。後釜も断るようならば殺す、それがカルテルの流儀だ。首を縦にふる者が現れるまでな」


「・・・・・・あなたらしくもない粗暴な手だわ」


 “まるでこちらを挑発して、殺されたがっているような言い草ね”


 あわやで、その決定的な言葉を封じました。まさか・・・・・・。


「私は恥というものを知っている・・・・・・この作戦オペレーションは、世間に露見しないからこそ成立していた。

 だがこうなってはもはや破綻は免れまい。カルテルのボスとして裁かれるのは構わんが、CIA職員として祖国に泥を被せるぐらいならば、貴様らの正義感の生け贄になってやっても良いと、私はそうオファーしているのだよ」


 敗者は潔くあるべし。そんな美学に殉じているように見えて、どこまでも身勝手な理屈を並び立てるものです。


 そんな手に乗ってやるものか。この男にとって最大の罰は、生の中にしかありません。ですがわたしはそう考えていても、実際にMr.キャッスルの運命を握っているのはやはり、ノルさんでした。


 武力は絶対的です。わたしがどれほど言葉を尽くしたところで――ノルさんがこの男を撃ち殺そうと決めたのなら、わたしに止める術はありません。


「貴様も、“あの女”の子どもの1人だろう? ならば死以外の決着がないことを承知しているはずだ」


 人生の終幕を覚悟したもの特有の、壮絶なまでの圧力をMr.キャッスルは、ノルさんへと向けていきました。


 わたし自身、復讐者アベンジャーとして我が身に降りかかった理不尽に抗ってきた身です。復讐は虚しいなんてうそぶいてみたところで、奪われた側がそう簡単に納得するはずもありません。


 奪われてしまった“モノ”は、もう決して戻らない。それは正しい主張です。


 ですが、復讐はプラスにこそならないものの、実はイーブンにはなりうるのです。互いに互いの大切なものを奪い合うことで、ある意味で被害者と加害者は、平等フェアな関係になることはできる・・・・・・それが正義でないと断じられるほど、わたしは強くはありませんでした。


 ですが、この理屈には別の側面もあると、指摘することはできます。


 すなわち復讐は過程であって、結末ではないという理屈を。


 自分が願ってもできなかったこと。家族の死からはじまる過去に引きずられ、こうして戦いにまた身を投じてしまった原因を、彼には避けてほしいと心の底で願っているのかもしれない。


 この土地に渦巻いている血と暴力の連鎖。そのくびきから、彼だけでも脱して欲しいと、わたしは身勝手にも祈っていたのです。


 PSSピストルをカタリと、ノルさんはテーブルに置きました。でも安心なんてできません。代わって彼は、わたしが放置していた血でぬめるナイフを手にとったのですから。


 鼓動が早まるのが感じられる・・・・・・。


 訓練されているからでしょう。ノルさんはごく自然に、手慣れた手つきでナイフを握り直す。


 止めるべきでしょう。でも、どのような言葉で? 


 両親から始まり、部下の死という経緯を経て、ついには兄と殺し合ったようなわたしが、偉そうに説教するなんて――ですが。


「テッサ・・・・・・」


 ナイフを手にしたまま、大人たちの身勝手によって人生の大部分を奪われてきた少年は、こう言ったのでした。


「あれは誰だ?」


「あのノルさん・・・・・・話ちゃんと聞いてましたか?」


「ちゃんと聞いてたぞ」


 とてもそうとは思えない、相変わらず朦朧とした答えです。


 まるで寝ぼけているような、おっとりした口調。よく見れば目もとろんとしていて、ちゃんと現状把握ができているのか心配になってきます。


「・・・・・・ノルさん、今日が何日か答えられますか?」


 わたしがそう問うと、ハッキリと頷きながら自信たっぷりにノルさんは言い切りました。


「馬鹿にするな、それぐらいわかる。今日は1985年の10月26日だ・・・・・・いや待て・・・・・・2015年の、10月21日だっけか?」


「あのヤンさん!! もしかしてノルさんに鎮痛剤モルヒネか何か投与しましたか!?」


 薬物の副作用で前後不覚になっているなら納得です。意識朦朧としすぎてる。ですがヤンさんは首を振られました。


「いえ大佐殿、投与はしてません」


「じゃあ、これって・・・・・・」


 わたしはすでに結論にたどり着いていましたが、次のノルさんの言葉でそれが確信に変わっていく。


「・・・・・・なんかさっきから頭がぼっーとしてる」


「それ出血性ショックの初期症状じゃありませんかっ!!」

 

 わたしはよりいっそう、彼の脇腹に当てていた手に力を込めると、勢いあまって血がドピッと飛び出してあわわわわわ。


 ゆ、悠長に会話してる暇なんてありません!! すぐにでもノルさんを搬送して、然るべき医療処置を受けさせないと!!


「つまり話を纏めるとこうか? 今日は1885年の9月2日だと・・・・・・」


「何をどうしたら今が西部開拓時代に見えるんですかあなたは!!」


「・・・・・・あの青白い馬が見えてるのは俺だけなのか?」


「現実に戻ってきてください!!」


 間抜けな会話をしてる自覚はありますが、内心はもうこれ以上ないほどに必死でした。


 いえ、はたから見たらコントみたいなやり取りだと分かってはいるんですけども・・・・・・ですからちょっと、Mr.キャッスルが激高する気持ちも理解できました。


「なんなんだ貴様らは!! ふざけているのかッ!!」


 ごもっともすぎて、言葉もない。


 ああも悲壮感すらある覚悟を決めた矢先に、こうも軽やかに無視されては、額に青筋くらい立ってしまうでしょうとも。


「・・・・・・あんた誰?」


 性懲りもないノルさんの問いかけに、Mr.キャッスルは怒りに任せるがままテーブルを手のひらで叩きました。


「お前を殺し屋に仕立て上げ!! そこの売女の手をナイフで突き刺してやった黒幕だ!!」


「・・・・・・マジでか」


「そうだッ!! 私を憎め!! そして憎しみに身を委ねて、私に引導を渡すがいいッ!!」


「・・・・・・それならそうと早く言えばいいのに。ケティ?」


 憎しみとは無縁の、事務手続きのような仕草でノルさんは、会話に置いてきぼりにされてちょっと飽きていたぽいケティさんに、手話で指示を出していきました。


 すると破顔一笑、ノルさんからナイフを受け取ったケティさんは――流れるような動作でテーブルに置かれたままになっていたMr.キャッスルの手のひらへと、銀色の刀身を突き立てていったのです。


「がぁぁぁぁァァァぁぁッ!!」


 しわがれた悲鳴に、わたしとヤンさんは絶句するばかりでした。


「一体、何を考えてるんだ貴様らわッ!!」


 わたしの心の中を代弁してくれたMr.キャッスルへと、相変わらずおっとりとした口調でノルさんは返しました。


「昔、ある人から教わったんだ。目には目を、歯に歯を、そして手には――なんだっけ? ど忘れした・・・・・・」


「手を、ですか?」


 ハムラビ法典からの引用なのは間違いないですが、最後の台詞だけはちょっとアレンジされてました。


 もしかしてこの人、わたしの手のひらの敵を討ってくれたのかしら? 


 状況をよく分かってないフリをしながら、もしかしたらノルさんなりに場をエスカレートさせないよう、立ち回ってくれたのかもしれません。


 いささか暴力でしたし・・・・・・わたしのとんだ買いかぶりかもしれませんけど。くすりと、ちょっと笑みが溢れもする。


「帰りましょうか、ハスミンちゃんたちのところに」


 なにか気が抜けてしまったわたしは、軽い感じにそう言いました。


 作戦目標はすでに達成されています。Mr.キャッスルに罰を与えるなら、自らが築いた帝国が打ち砕かれていった、まさに今の状況こそが最大の罰に他ならないでしょう。


 だってこの老人、自身の死を乞うほど追い詰められているのですから。


 でしたら、むしろその願いをぶっちぎって、さっさと当面の拠点であるトラソルテオトルに戻るのが吉でしょう。


 HDDの中身も検証しないといけませんし、ノルさんの治療だって、しなくちゃいけません。それに子どもたちの無事もこの目で確かめないと。そう、やることはまだまだ山積みなのです。


「いいのか?」


 ノルさんのそんな問いに微笑みで返す。


「はい、もう十分ですから」


「そうか・・・・・・ケティ、そいつをタコ殴りにしろ」


 えっ。


「あ、えっ?! どうしてそうなりますかッ?! ちょ、ちょっとケティさん止めてください!! それ誤命令です、誤命令ッ!!」


「自分の手を刺されて怒るのは分かるが・・・・・・いくらなんでも、タコ殴りしろなんて・・・・・・テッサって意外と冷酷だったんだな」


「ありもしない命令を捏造しておきながら、勝手なことばかり言わないでください!! あなた本当っに、状況が分かってないだけなんですねッ?!」


 心なしか目のとろみが増しているような・・・・・・文字通りに脳に行きわたる血が足りなさすぎて、ノルさんはわたしとは異なる現実を見ているみたいでした。


 一方、楽しげに拳を振るうケティさんときたら、強烈な右ストレートでMr.キャッスルに襲いかかってました。なにせナイフでテーブルに縫いすくめられてますから、Mr.キャッスルとしては避けようもなく、何度も何度も悲鳴を上げさせられている。


 どうしましょう、この大惨事・・・・・・あまりにカオス過ぎて収拾がつきません。


「一思いに殺したらどうだねッ!?」


 Mr.キャッスルの絶叫もむべなるかな。あの腫れ上がった顔を見ると、もうどっちが悪役なのかわかりませんでした。


「そこらでやめておけって!!」


 わたしの視線での合図に、慌ててヤンさんがサントスさんの拘束を一時諦め、相手をサンドバッグにしか思ってないらしいケティさんを羽交い締めにしていく。


 不満げに鼻を鳴らすケティさんでしたが、それでも殴るのは諦めたみたい。


「そういえば・・・・・・」


 ある意味でこの状況の主犯たるノルさんときたら、のそりのろのろ、ベルトから泥と血に濡れた、藍色の物体を取り出しました。


 それは、わたしが返してくださいねとお願いしていた潜水艦のキャップ。想像の100倍くらいひどい状態でしたが、バンと広げて、わたしの頭へと被せていけば・・・・・・とりあえずジャストフィットしてくれる。ちゃんと約束を守ってくれたよう。


 何といいますか、もう細かいことは考えたくない気分でした。


「・・・・・・ほら肩を貸しますから、もう帰りましょう」


 宣言通り、わたしはノルさんを支えるように肩を貸して、2人一緒にソファーから立ち上がる。


 軍人と職業犯罪者。なんともかけ離れているようで、似ていなくもない気がするふたつの世界観。まあ、これからも色々とありそうですけど、とりあえず寝て起きて、それから考えることに決めました。


 楽観主義もたまには、良いものです。


 ノルさんは何かと暴力的ですけど、律儀に帽子を届けるためにこうまで身体を張るような、どの過ぎたお人好しなのです。ですからまあ、きっと大丈夫でしょう。


 二人三脚の要領でエレベーターに向かっていくわたしとノルさん。その背に、切羽詰まった感じの声が投げかけられました。


「私をこのまま置いていくつもりかッ!?」


 すぐに答えず、あえて呼び出しボタンを突いてから振り返りますと、懲りないMr.キャッスルの前にヤンさんが立ちはだかっていました。


 一体、何をするつもりなのかしら?


「さて」


 咳き込みながら、口の中に溜まった赤色のつばを吐いていくMr.キャッスルに、そうヤンさんは仕切り直すように言いました。


「僕はDEA捜査官のヤン=ジュンギだ。あなたを殺人、誘拐、マネー・ロンダリング・・・・・・数えるのも嫌になるもろもろの罪状で逮捕させてもらう」


「くだらんな・・・・・・現実はフィクションのようにはいかん。適切な手続きも踏まずに私を逮捕する権限など、貴様にはない」


「ま、試してみるさ。なにせ今の僕は、軍人じゃなく警察官なんだからね。犯罪者を見逃したりはできないさ」


 どれほど無茶なことをしようとしているのか、誰よりもヤンさんが一番ご存知でしょう。逮捕なんて無駄な努力。言いたくはありませんけど、それが現実なのです。


 ですが・・・・・・ちょっと閃くものがあって、ここは見てみぬふりをするのも手かと考え始める自分もいました。そう、ですね。とりあえず拘束してから、折を見てヤンさんにゆっくり説明するのがいいかも知れない。


 だって、ここを出れば時間はたっぷりあるでしょうし。


 ヤンさんの手によってナイフの縛めから解放され、ちょっと呻き声を上げてから、Mr.キャッスルはこう言いました。


「・・・・・・即金で1000万ドル出そう。奴らを殺せ」


 解放された直後にすぐ後ろ手に掴まれ、いかにも引っ立てられる犯罪者風で拘束されているのです。額は大きめでしたけどその言葉、三流犯罪者の捨て台詞にしか聞こえませんでした。


 らしくありません。自分のプライドを守るためなら死を選ぶ、現についさっきそう明言していた人物なのに。


 一方、露骨な賄賂を持ちかけられたヤンさんの反応は、まさにけんもほろろでした。


「やっとカルテルのボスらしい言葉を口にしたな。

 僕を裏切らせたいなら現金1億ドルと、月の所有権ぐらいオファーしてくれ。安く見られたもんだよ、まったく」


 冗談めかしたヤンさんの拒否に、深海の底から響くような低い笑い声で、Mr.キャッスルはあざ笑っていきました。


 その姿にわたしは、イヤな予感が止まらない。


「クックッ・・・・・・その通り、私はカルテルのボスだ。郷に入っては郷に従わなければ、なにせあの猿どもは従わんのだからなあ。

 親愛なるMr.ザスカーの指摘がなくとも、人を従わせるとはどういうことなのか、わたしは、よく心得ているつもりだ――オファーしたのは君にではない」


 わたしと同じく圧倒的に不利なはずなMr.キャッスルの太々しい態度に、ヤンさんもまた不気味なものを感じたようです。Mr.キャッスルの後ろ手を拘束しつつ、万が一を考えて空いた片手でベレッタ拳銃を引き抜き、その背中へと突きつけていく。


「何を考えてる?」


 老人は、余裕な態度を崩さない。


「カルテルのビジネス・スタイルは、卑劣極まりないものでね。相手の弱みに付け込むことに、ひどく長けているのだよ・・・・・・1000万ドルあれば、念願だった母君の手術費用が払えるぞ? Mr.?」


 雄叫びにしてはあまりに弱々しく、その声は裏返り、とてもみっともないものでした。


 臆病なコンピューターエンジニアさんにとってこの悪魔のささやきは、命を賭けるに値することであったようです。サントスさんは、床に散らばっていた中の一冊、中身がくり抜かれた本を投げ捨てながら、黒光りする拳銃を手に立ち上がりました。


 もっとも素早く反応したのは、コンディションが比較的に良好なヤンさんでした。邪魔さえ入らなければ、元SRT隊員である彼のこと、まず確実に撃ち倒せていたでしょうが・・・・・・Mr.キャッスルの体当たりによって体勢を崩されてしまっていた。


 無理やり殴るのを止められたことでちょっと不満げだったケティさんは、聴力の問題のためどうしても、背後の非常事態に気づくのが遅れてしまいました。慌てて愛用の大型拳銃を引き抜こうとしたものの、やはり出だしの遅れは致命的。間に合わない。


 銃声が鳴る。サントスさんが放った凶弾は、真っ直ぐに身動きのとれないわたしへと突き進んでいきます――そして、鮮血が飛び散りました。


 崩れ落ちる身体を必死に押しとどめようと努力したものの、あまりに重すぎてわたしのこの憎たらしい柔い腕では、どうにもなりませんでした。わたしを庇い、新たな銃弾を身に受けてしまったノルさんは、なす術なく地面へと倒れていって・・・・・・。


「ノルさんッ!?」


 わたしは、悲鳴じみた自分の叫び声を、まるで他人が発したものであるかのように聞いていました。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る