XX “管制塔からトム少佐へ”
【“テッサ”――MSCトラソルテオトル船倉・
ネット回線を通じて、世界のどこかにあるというモンドラゴン・ファミリアの拠点とどうしたことか、ビデオチャットが繋がっていました。
『誰ぇ? レオンさんはここには居ないよぅ?』
なんとも眠たそうな甘ったるい女性の声を聞いて、わたしは面食らってしまいました。
誰あろうわたしが言えた義理じゃないかもしれませんけど、凶悪な麻薬カルテルとこのおっとりした女性の声。どうにもミスマッチに思える。
間違い電話――そんな単語が自然と頭に浮かんできました。
いくらカルテルに雇われていたとはいえ、先ほど話に出ていた旅行代理店なる人物のアドレス帳にはモンドラゴン・ファミリアの名前しか載っていないなんてことは、ありえないことでしょう。
友達か、はたまた家族。まだ若いみたいですから、恋人という線もあるかもしれない。とりあえずカルテルの窓口係にしては、緊張感に欠けすぎているのは明らかでした。
ただ相手側のカメラが目隠しされているのが気になりはします。
これでは何のためのビデオチャットなのかしらと思いたくもなりますが、ですがこれって、盗撮対策としては割りかしメジャーな対処法だったりします。
年々、さまざまなコンピューター機器に標準搭載されることが多くなっているカメラ。それをハッキングしてしまえば、どこに行くにも対象がわざわざ持ち歩いてくれる監視カメラへと早変わりしてしまうのです。
そのため、ハッカーという存在が想像よりもずっと身近なものだと知っている人々の間では、カメラにテープを貼り付けるのがエチケットのように広まっていたりする。わたしやメリッサも、ミスリル時代からやっていたものです。
プライバシー意識が高くて、かつコンピューターセキュリティにも造詣ある女性・・・・・・その割には、得体のしれない相手からのビデオチャットを何の気なしに受け取ってましたけど。
こっちから相手は見えませんが、向こうは別。紙袋姿の誘拐犯に拘束されているわたしの姿がモニターに丸写しのはずなのに。
「そちらはモンドラゴン・ファミリアのカンポ、で、いいのよね?」
『そうだけど・・・・・・』
そうなんですか!?
ノルさんの問いかけに女性はあっさり肯定の意を返してきて、それが一番の驚きでした。武力に優れてはいても、ネットリテラシーは低いのかしらモンドラゴン・ファミリアって。
「そう。なら、わざわざ映像が見えるようにしてあげたんだから、さっさと用件に入りましょう」
謎の紙袋チャイナドレスの女からの着信なんて、もはや心霊映像一歩手前の筈なのですが、そこはそれ。ノルさんは小道具を持ち出すことで対処しようとしていました。
高級ホテルで遭遇した、制服組の汚職警官たちが装備していたライフルの
そんなライフルを手にすれば、紙袋姿とはいえそれなりに凶悪な絵面に見えるのではないでしょうか?
ですが、相手の女性の反応はあまりに無情でした。
『わー、変なのがいるー』
用件に入るどころか、しごく当然の感想が飛び出てきました。
シンプルにすぎる表現だからこそ心に来るものがある言葉。これにわたしまで含まれていたらどうしましょう・・・・・・そうでなくても、共感性羞恥というものがふつふつとこみ上げてきて、もう逃げ出したい気分でした。
ですがノルさんときたらまだやる気十分みたい。薄々感じてましたけどこの人、羞恥心が薄すぎる。
咳払いして、ノルさんは凶悪なゲリラに扮そうと声を出していく。
「変なのじゃない。我々は、虐げられた人民を解放すべく日夜戦う――」
『ゲリラってことー?』
「そう、その通り。それで本題なんだけど、今ここにいる女に見覚えは――」
『ゲリラはいいけどー、どこの組織の人なの?』
「・・・・・・あのね、いちいち人の言葉を遮らないでもらえる? 大体、コロンビアで誘拐働くゲリラ組織っていったらあなた、相場が決まって――」
『あー、分かったー。コダ革ツヴァイの人でしょう?』
「・・・・・・なんなの、そのケッタイな組織名は」
『同郷だからお情けで資金提供したけど、あんなトンチキどもに付き合うのはもうウンザリだってハイメぼやいてたよ? 従兄弟が所属してなければ皆殺しにしてたって』
「ちが、そうじゃなくて・・・・・・いえ待って。ハイメって、まさかハイメ=モンドラゴンのこと? ・・・・・・アナタ、えらく自分とこのボスをカジュアルに呼ぶのね」
『えー、違うの? じゃあ
「
ツッコミどころが多々ある会話でした。
ちょっと武装組織が国内を跋扈しすぎじゃありませんとか、そこまでたくさん組織名を上げておきながら勘定にカルテル含まれてませんよねとか、こんな調子でよく国土がマッドマックスじみた無法地帯になってませんねとか・・・・・・えーと、なんとなくこの2人の会話、絶妙に噛み合ってない気がしますね。
相手を煙に巻いてやるとか、ハスミンちゃんのような計算高さを相手の女性からまるで感じないのが不思議でした。これは本気で天然ボケした性格のよう。
一応、ノルさんが武装勢力の人だと信じたみたいなのに、この脳天気な返答の数々。これもある種、肝が座っていると呼ぶべきなのでしょうか? あるいは、また変な人が増えてしまったと嘆くべきなのかもしれません。
「本・題・に・入らせてもらうわよ!!」
強引に会話の断ち切り。それが功を成したのか、甘ったるい声の女性はなにも言い返してきませんでした。
「単刀直入に言わせてもらうなら、そちらの
頭頂部に手の感触。グイッと、ノルさんによってカメラに映りやすいよう顔を上げられてしまいました。
たった1枚だけの不鮮明な写真だけですが、テオフィラ=モンドラゴンの容姿にわたしの顔は酷似しているらしい。そんな女が椅子に縛られ、傍らには銃口、口にはダクトテープが貼り付けられているのです。
これで意図が分からないとしたら、視力検査を受けるべきシチュエーションでした。だというのに、
『ふげーーーーーー・・・・・・』
返ってきたのは奇声だけでした。とっても眠そうな感じ。
交渉が一筋縄でいくとはノルさんだって考えてなかったでしょうが、まさか相手がこんなのだとは予想外だったみたい。誘拐犯らしい脅迫声から一転、歯切れの悪い感じに女性へ話しかけていく。
「誰か、他に話せる人って居ないの? もっとこう、誘拐という単語にちゃんと危機感を抱ける奴は?」
『誰か〜? 雑用係のレオンさんとか?』
言葉の端々はなんとも子どもっぽい感じですけど、女性はそれなりの年齢のはず。
最低でも十代後半、たぶんですけど、実年齢は二十代後半という辺りではないでしょうか。声だけでどうして分かると問われたら、わたしは若作りとメリッサという二つのキーワードを上げ、あとは黙秘させてもらいますとも。
ですが年齢に似合わずその会話スタイルときたら、要領を得ない迷子の女の子そのもの。ノルさんも自然と、困り果てた婦警さんみたいな声音になっていく。
はたしてここから、身代金交渉まで持っていけるのかしら。このままマイペース天然ボケ女性にしてやられてしまうパターンも、大いにありうる気がします。
「雑用係って・・・・・・そうじゃなくて。もっとこう、階級が偉いやつは? 周りから“様”付けでよばれてる奴とか」
『お医者様ならいるー』
「まさかワザとやってる? カルテル内の序列的に偉い人って意味!!」
『偉い人、偉い人・・・・・・あー、じゃあオクタヴィアさん!!』
あっけらかんと告げられた名前に、どうしたことかピシッとノルさんが固まりました。
わたしにはよくあるラテン系の名前にしか聞こえませんが、どうもノルさんには心当たりのある名前みたい。反応が不可思議すぎでしたから。
数十人もの武装したチンピラたちに加えて、ザスカーなんて危険人物を前にしても傲岸不遜に振る舞っていた彼女が、タブーに触れてしまったとばかりに声を震わせていたのですもの。
「・・・・・・居るの、あの
『うん!!』
「“滴血の黒曜石”、“ティファナの虐殺者”、“真夜中の暴風”こと、オクタヴィア=ドレスニコバが・・・・・・?」
『オクタヴィアさん良い人だよ?』
「あれが良い人ならヒトラーも聖人君子よ」
ノルさんがこうまで露骨に怯えるなんて・・・・・・何者なのかしらオクタヴィアさんって。ハイメ=モンドラゴンの名前を聞いてもこうはならない方なのに。
『この前ね、アメちゃんくれたのー』
そしてこの温度差ですよ。
先の反応からして、オクタヴィアさんなる女性はノルさんも認めるモンドラゴン・ファミリアの大物なんでしょう。それ以前にもこの女性、組織のトップであるはずのハイメ=モンドラゴンのことをひどく親しげに語っていたものです。
まさか、そんな偶然あるものかと思いましたが・・・・・・そもそもが偶然によって紡がれる旅路なのです。そんな奇跡のような悲劇が起きても、意外ではないのかもしれません。
「と、とにかく、オクタヴィア=ドレスニコバだけは勘弁して頂戴。
カルテル内でそこそこ地位があって、誘拐という言葉に危機感を抱けて、人肉とか貪り食わないタイプを連れてきて」
すいません、今カニバリズムについて言及しましたか? ついつい口に出して尋ねてしまいましたが、ダクトテープに塞がれモゴモゴ消えてしまった。
わ、わたしもあまりオクタヴィアさんとやらとはお話したくないので、別にいいんですけども。
『うーん、分かった』
マイクの擦れる音がして、足音が遠ざかっていくのが分かりました。どうも女性は離席したみたい。今だにレンズが塞がれているのでよく分からないのですが。
それから待つことしばし。
実態としては10分ほどかしら? 女性がやっと帰ってきました。
『えーとね。なんかハイメ、いま忙しいって言ってたよ』
あっけらかんと言うものです。
オクタヴィア=ドレスニコバなる女性は危険。それは何となく分かりましたが、まだピンときていないわたしにも、ハイメという名にはちょっと身体が震えます。
モンドラゴン・ファミリアのボスの名を聞き間違えるはずがありません。
「ちょっと待って・・・・・・FBIの10大手配犯の1人として、首に2000万ドルの賞金が懸かけられてる、イエティよりも遭遇しづらい男にちょっと会ってきたっていうの?」」
『だって隣の部屋にいるもん』
「・・・・・・」
『えっとね、なんかマクドナルドとドナルドさん? から盗み出してきた戦闘機のシミュレーターが今朝方とどいてー、それからずーーーっとバーチャルなお空で落としたり落とされたりしてるのー』
ネオ・パンナム社のひどい顧客サービスを思い出したわたしは、こいつが飛行機狂いの麻薬王ですかと声を大にして叫びたい気分でした。
10年前の自分に聞かせてあげたい。あなたは将来、飛行機狂いの麻薬王に人生を翻弄されますよと。ましてやその奥さんと自分が瓜二つだなんてことも・・・・・・鼻で笑われるだけでしょうね。昔のわたし、結構ドライでしたから。
ですがこの証言で、女性の正体がほとんど確定してしまった。わたしにはもうそうとしか思えない。
下からノルさんの顔を見上げてみる。気づいているのかしら彼女は、相手の正体に。
ノルさんは紙袋を被り、相手方のチャット画面は真っ黒なまま。それでも何となく雲行きが怪しいと察しているのか、あのケティさんすらソワソワしだす。
場の空気が、最初から上手くいきっこなかった誘拐計画が、すでに決定的に破綻していると告げている。ですが追い詰められた人間というのは盲目なもの。最初からノルさんは、わたしがテオフィラさんであると信じたかっただけなのですから。
ノルさんが食い下がる。
「そう、ならむしろ好都合だわ・・・・・・今すぐドン・ハイメに伝えてきなさい。我々はテオフィラ=モンドラゴンを拉致したと」
『へ?』
まるで気負うところのない、いっそ能天気ですらある女性が、急に目が覚めたかのように素っ頓狂な声を発します。
『でも、ボクここに居るよ?』
さらりと死刑宣告にも等しい台詞を、ビデオチャットの相手こと、テオフィラ=モンドラゴンは告げたのでした。
そうです、ライバル組織や当局から常に狙われている麻薬王を、あんなに親しげに呼び捨てできるのは何者なのか? そんなの考えるまでもありません。妻ならば、夫のことを名前で読んでも不思議でもなんでもないんですから。
『ううん?』
ずっと寝ぼけていたように声を弛ませていた彼女――テオフィラさんは、急に意識がはっきりしたみたい。
彼女のとぼけた性格も大きいでしょうが、夢うつつで状況がよく分かっていなかったのも、このすれ違う会話の真相なんでしょう。
『うわ、わわ!!』
驚きと好奇心が入り混混じった声を上げながら、べりべりとテオフィラさんは、これまで自分の顔を隠してきたレンズのテープを剥がされる。
もう夜遅く、その時間帯を反映してか、薄暗い屋敷の内装がチャット画面に写り込んできます。コンクリート張りの壁材とオーク材が組み合わさった、現代風の豪邸といった雰囲気。そんな背景を背負いながら能天気な笑みを浮かべる銀色の髪をした女性が、画面に大写しになりました。
『わぁ!! その人、ボクにそっくりだねっ!?』
なるほど、パッ見わたしと容姿が似てはいます。ですがそれは大枠の話で、ここまでクローズアップされると細部の違いが見えてくる。
彼女の髪はたぶん染められたものみたい。生まれ持ってのものである、わたしのアッシュブロンドの髪色に比べると、幾分くすんで見えます。能天気な性格も手伝って幼げな顔立ちですが、目尻には小じわが窺える。やはり、わたしより一回り年上みたい。
何よりも決定的なのは、やはり瞳の色でしょう。
髪の色と同じく瞳の色もまた銀色であるわたしと異なり、テオフィラさんの瞳は、海のように透き通った青色をしていたのです。
テオフィラさんがたまたま趣味の1人旅の真っ最中で、たまたまモンドラゴン・ファミリアの監督下から離れていたら、相手を騙せるかもしれない。そもそもがそんな奇跡的な偶然が重なって初めて成立するような、運任せの狂言誘拐だったのです。
今回ばかりは、幸運の女神はノルさんに微笑まなかった。そういうことなのです。
誘拐の構図としては、最悪な状況でしょう。まさか当人に向かって、お前を誘拐したから身代金を寄越せなんて言えるはずもありません。
チャット画面をひと目見て、いつもは無意味に自信たっぷりなケティさんすらも静かにため息をついている。彼女もなんやかんやと、失敗を予見していたのでしょう。
確認すらとらず、無言で回線を断とうしたケティさんを制したのはノルさんでした。これ以上やっても・・・・・・言いたいことをすべて表情に表してる顔面タトゥーの少女でしたが、それでもマウスから手を離していく。
これ以上、食い下がってみても結果は分かりきっているのに。わたしもまた彼女の意図が分かりませんでした。
一体何を? わたしの疑念をよそに、ゆっくりとノルさんはあの紙袋を頭から剥ぎ取っていきました。顕になった表情は、なにか達観したような顔をしていて。
「・・・・・・この娘に会ってみたいか?」
『会いたい!! 会いたい!!』
そうきましたか、相手の好奇心を刺激するとは。
ですがノルさんの求めてる金額は、ただ面会を手配するだけにはあまりに大きすぎる額に思える。
「そうか・・・・・・なら189万ドルで引き渡そう」
「おい待て!!」
予想通りの展開に、縛られながらも身を乗り出してヤンさんが異を唱えました。
「君らは人身売買の被害者のはずだ!! そんな君らが、大佐殿をカルテルに売り渡すつもりなのか? そんなの――」
言葉の続きは、ケティさんが向けた銃口によって遮られてしまう。
デザートイーグルという大口径ピストル、それが自分に向けられてもヤンさんの顔に怯えはまるで浮かびません。代わりに見えるのはやるせない感情と怒りがないまぜになったものでして、デザートイーグルの持ち主であるケティさんを静かに睨みつけている。
『うーん』
こちらの緊張状態を知ってか知らずか、画面の中のテオフィラさんは呑気に悩んでました。
「カルテルからすればはした金だ」
『そうだけど・・・・・・今月のお小遣い、もう使っちゃたからなー』
「分かった。なら84万ドルに減額する、これ以上は駄目だ」
『あっ!! 来月ならいいよ? 勝手にオーケストラ呼んじゃってハイメもちょっと怒ってったけど、来月なら落ち着くと思うし』
ノルさんは3ヶ月というリミットを設けてました。ですがあれはザスカーら、カリのシカリオに襲撃される前のことでした。
カリ・カルテルの粛清担当が街に舞い戻ってきた以上、表に出さないだけでノルさんの焦りは加速しているのかもしれない。
「そんな悠長に待てない」
『えー、でも』
「・・・・・・分かった。ならもう7万ドル減額しても――」
崖っぷちの交渉は唐突に断ち切られました。ケティさんが止める間もなく、白く細長い指がキーボードに伸びて、画面が切断されてしまったのです。
「終わりです、兄さん」
ハスミンちゃんはそう冷静に言い放ちました。
これがほんとうの意味での終わりです。この狂言誘拐は、根本から瓦解してしまっていた。ケティさんは息を吐きながら、ヤンさんから銃口を逸し、パソコンの電源を落とす作業を始めました。
いつからそこに居たでしょうか、明らかに血の繋がってない義理の姉妹、ノルさんとハスミンちゃんは、通信室の中で静かに見つめ合っていました。
どうしようもない大騒動でした。ですがその結果としてノルさんが得られたものは大山鳴動して鼠一匹、何もありません。
ノルさんはハスミンちゃんに何か言おうとして、ですがその寸前に口をつぐんで、葛藤にくれている。ハスミンちゃんは責めるのでなく、慰めるのでもなく、ただ静かに義理の姉の出方を見ていました。
「・・・・・・少し、考えてくる」
どこかへ去っていくノルさんの背中には見覚えがありました。問題は解決できる、今は冷静であるべきだ。態度ではそう示していても、先行きの見えない状況に放り込まれてしまい葛藤している、指揮官であった頃のわたしとまるで同じ背中。
みんな状況を心得てました。だからこそノルさんに掛ける言葉を、誰も持ち合わせていなかったのです。
ノルさんがサーバールームから立ち去ったあと、すぐさまハスミンちゃんはわたしの方に松葉杖を突きながら近寄ってきました。
「失礼」
ピッと容赦なく、ハスミンちゃんの手によって口元のダクトテープが引き剥がされる。
「あ、ありがとうございます・・・・・・」
年上であろう顔面タトゥーの少女に無言で圧力を掛けていったハスミンちゃんは、舌打ちひとつ、仕方がないという風にケティさんが放ってきた手錠のカギをキャッチして、わたしとオフィスチェアを繋ぎ止めてる鉄の輪っかを解除してきました。
「ハスミンが穏便に逃げられるよう手を打ったというのに、このザマですか」
「うっ」
「監禁部屋から独力で逃走してみせた手腕、お見事でした。あれならば道さえ示してあげれば大丈夫と、安心しきって逃げ出した妹分を探していたら・・・・・・」
手錠痕が残っている手首をさすりつつ、わたしの半分も生きていない少女がしてはならない強烈な眼力に晒され、ついつい顔を逸してしまうわたし。
妹分というのは、我関せずという感じにまだピザを食べてるマリアちゃんのことでしょう。
わたしにつづき、ヤンさんも解き放とうとハスミンちゃんが踵を返しますが、
[女だけだぜ]とケティさんがスケッチボードを掲げられる。
[訓練されてる大の男を、好き勝手に歩き回らせられるかだぜ]
「ではどうするというのですケティねぇ? すべてが失敗した今、このおふた方を拘束し続けても食事代がもったいないだけです。
ならば今すぐ解放するほうが面倒がなくてよいでしょう」
そんなハスミンちゃんの意見をケティさんは鼻で笑いました。
「“はっ!! 面倒ってならこの場で殺しちまうのが一番手っ取り早いぜ”とでも言いたげな表情ですがケティねえ、その前にハスミンはテッサさんに国籍を尋ねるべきだと愚行します。
テッサさんの母国はアメリカ合衆国でしょうか?」
「えっ?」
「YES? やはりそうでしたか、とてもアメリカ人らしい回答ありがとうございます・・・・・・ということはケティねえは、これからハスミンたちが逃げ込もうとしてるお国の国民を拉致し、殺害し、その証拠隠滅を図るということなんですね?」
怒涛の勢いのハスミンちゃんの言い草に、ケティさんが必死に反証をスケッチボードに書き込もうとしてましたが、手より口のほうが手っ取り早いのがこの世の常。
「素晴らしいアイデアです。自分たちの国民が傷つけられるのをいたく嫌うアメリカ政府が、不法移民めざして邁進中のハスミンたちに手心を加えてくれるのなら良いのですが。
だってドラマや映画の知識で恐縮ですけど、彼らの捜査能力は非常に高いのですから。
テッサさんを拉致するにあたって、無闇に人目を引くような爆破行為等にうつつを抜かしたりせず、アメリカ政府が本腰を入れれば追跡できてしまうような証拠品を現場に残していないという絶対の確信があるのでしたら、ハスミンも止めません。どうぞご自由にテッサさんをコロコロされるがよろしいでしょう。
ですがその前に・・・・・・どうか一蓮托生で巻き込まれる身にもちょっとはなってください」
この子、このまま成長したら末は弁護士か、凄腕の詐欺師になってそうでした。よくまあここまで口が回るものです。
スケッチボードとペンを手にしながらしばし固まっていたケティさんでしたが、震える手でみじかくボードに何やら書き込んでいきます。
[な、なあ・・・・・・アメリカ人うんちゃらの辺りで、唇読めきれなくなったんだけど]
「ケティねえ」
笑顔のままハスミンちゃんは言いました。
「どけ」
ウッと、身を引くケティさんの横をすり抜け、涼しい顔したハスミンちゃんがヤンさんの背後で膝をつく。
ちょっと人間関係が見えてきた気がします。ノルさんがこの船のトップなのは間違いないでしょうが、その脇を武力のケティさん、知力と胆力のハスミンちゃんが固めているみたい。
どちらがナンバーツーかは、言うまでもない。
[銃はぜってー返さないからな!!]
ベレッタ92拳銃を自分のズボンの前に差していくケティさんのせめてもの抵抗を、ハスミンちゃんは見向きもしませんでした。
わたしと同じように、つつがなく手錠を外していく片足片目の少女。
「ハァ・・・・・・もうテッサさん、いいからこの船から出てってください。無体な言い草ですけど、残られても互いに迷惑なだけでしょうから」
わたしはサーバールームの出口方面に目を向けて、それから無言のままハスミンちゃんの方を見つめてしまった。
何を言うべきか、まだ思いつけていなかったから。
「同情ですか?」
人身売買のすえに違法な研究の実験台にされ、用済みとなるや否や廃棄処分されるところだった少女は、そうこともなげに言い放ったのです。
「まるで、悪いことのように言うんですね・・・・・・」
「悪くはないでしょう。ですがハスミンの経験上、同情だけが動機の人間は、最後まで残りません。これは殺し合いなのですよテッサさん」
本当に賢い子です。こちらの甘い考えは、とうに見透かされてる。
相変わらず空恐ろしい子。ですが、彼女の慧眼をもってしても、流石にわたしのバックグラウンドまでは見通せていないみたい。
殺し合いこそが、わたしの専門分野。
そして戦争とは政治の一形態に過ぎないと教えられてきた元軍人としましては、殺し合いのその先、平和の実現まで見据えるのがわたしの仕事だったと断言できる。
もしかしたら、この子たちの問題を打開できるスキルをわたしは持ち合わせているかもしれない。ですがハスミンちゃんが繰り返してきた警告にも一理あります。縁もゆかりもないこの子たちのために、カルテルの闘争に首を突っ込み、犠牲を払う覚悟がわたしにはあるのでしょうか?
わたしだけならいい。ですが、カルテルはいつも当事者以外の命も狙ってきた。見せしめとはそういうものですから。
職業病ですね・・・・・・楽観はできない。いつも最悪を想定してしまう。
「同情無用」
そうハスミンちゃんは言い切りました。
「カルテルは誰にも倒せません。ですから生き延びたければ、永遠に逃げつつけるしかないのですよテッサさん。あなたはそれに生涯、付き合うおつもりなんですか?」
「本当にそれしかないの?」
「・・・・・・ハスミンたちの事情はさまざまです。国籍や、この船に至るまでの経歴までまったくの別々。ハスミンは好きですけど、兄弟ごっこを嫌っていたり、かつては管理者側であった兄さんがリーダーに収まってるのに不満を持ってる輩も多い。
いわく“科学者どもに女性ホルモンなんて投与されてきた女装癖のシカリオに、何ができる”と」
「あっ」
・・・・・・そういう、ことですか。
「そうですよテッサさん。血の繋がらないハスミンたちに仲間意識なんて美しいものは、端っからないのです。
ですが生まれは違えど、ハスミンら12人にはある共通点があるんです。それは、生まれながらにして社会に見捨てられてきた自分たちには、帰る家なんてないということ。
テッサさんとは違う」
悪意じゃありません。ましてや嫉妬でも断じてない。
ハスミンちゃんはわたしの身を案じていた。今はまだわたしはお客様のようなもの、ですが残ると決めたなら、すべてを捧げる覚悟がいると試している。
言い淀むことなく正解を告げることを求められていたのです。ですがわたしには、それができなかった。
「・・・・・・あの」
こんがらがる感情の中、やっとの思いで声を振り絞り、わたしはハスミンちゃんに尋ねていきました。
「電話を借りてもいいですか?」
「・・・・・・ちょっと唐突すぎないかとハスミンは訝しみます」
「だって、帰りたくとも足がありませんから」
「と言いつつ、裏で警察機関等に通報するとかはごめん被ります」
「そんな空気を読まないことしません。地元の警察機関はおろか、DEAにまでカルテルの手が及んでいるのに、どこに連絡するっていうんですか」
「・・・・・・なにか裏がありそうな気配がありありと感じられるんですが、出ていきたいというのなら、止める理由はハスミンにはありません」
器用にも片っぽの松葉杖だけで身体を支えながら、もう片方の松葉杖をデスクまで伸ばしてゴミの山をはじき飛ばしていくハスミンちゃん。乱暴なゴミ掃除によって姿を現したのは、普通の固定電話の二倍はある、大柄な四角くて真っ黒い電話機でした。
「その電話機は・・・・・・」
「ええ、汚れきっているものの実用には耐えます」
わたしの聞きたいのって別のことだったんですが、ハスミンちゃんの助言ももっともでした。だってこの受話器、たぶん油のせいでテカテカ光ってるんですもの。
こう、生理的嫌悪感がゾゾと、背筋を昇っていく。
「アルコールティッシュとかは・・・・・・」
「あるように見えます?」
「もうちょっとこまめに掃除しても、バチは当たらないと思いますよ」
「テッサさん、あなたはお説教がしたいのですか? それとも電話をかけたいのですか? どちらなんです?」
「・・・・・・ありがたく使わせて頂きます」
「よろしい」
この子の圧力って、どうしてこうも不自然じゃないのかしら? 年齢に見合わないレベルなのに。
わたしが貫禄なるものを手に入れるためどれほど努力してきたか、ハスミンちゃんはきっとご存じないでしょう。なのにこの子ときたら、生まれながらにしてわたしの貫禄を越えている。
「ではごゆっくり、などとハスミン申しませんよ。通話は手早く、退去も手早く、ぱっぱっとお願いします。
ハスミンはその間に、この目を離せばすぐ居なくなる駄妹に歯を磨かせて、ベッドメイク済みの船室に監禁してまいりますゆえ」
こんな状況下でもずーっとピザを食べていたマリアちゃんが、空っぽになったピザの空き箱を投げ捨て、てけてけハスミンちゃんの横に並びました。
「鍵かけてもどうせダクトから逃げるです?」
「そのための溶接機です」
まるで悪びれることのないマリアちゃんに、なにやらハスミンちゃんは不穏な言葉を言い放ってました。
それでも肩を並べて一緒に歩きだす程度には、この2人の間には絆というものがあるようでした。
「ケティねえ、あとの委細は任せます。具体的には監視とエスコート、それ以外は許しません」
オフィスチェアに分かりやすく不貞腐れながら胡座をかいているケティさんでしたが、渋々ハスミンちゃんの言いつけに頷きを返していく。
「ではさようならテッサさん。互いのためにも、これが本当のお別れになることを切に祈ります」
そう告げてからあっさりと、ハスミンちゃんはマリアちゃんを連れ立ってサーバールームから退室していきました。
[妙な動きをしたらぶっ殺すんだぜ。んで、何でお前らまだここに残ってんだ?]
この子ったら、不貞腐れのに忙しくて話をまるで聞いてなかったのね・・・・・・ならばと、わたしは手短にケティさんにこれまでの経緯を説明していきました。
「ネットを使って、ちょっと連絡してから船を退去するという方向で話が纏まったところです」
[あぁ? ネット?]
「はい、インターネット」
[PC使って、誰と連絡する気なんだてめえだぜ?]
「わたしを助けるためならば、単身で空挺降下してコロンビアに乗り込んできかねない一児の母にどうしても無事を知らせたくって」
[・・・・・・なに言ってんだぜ?]
「それとわたしのポシェットだけは返却してください、知ってますよ、安宿から出てくる時にダッフルバッグに詰め込んでいたでしょう。
IDとか色々と入ってるんですから、返してくれないとハスミンちゃんに言いつけますから」
頼るべきは権力者の威光です。
ハスミンちゃんの名前を出した途端、あのケティさんが身をすくませ、渋々といった風に紐なしポシェットをわたしに投げ渡してくるのですから。
上手くキャッチ・・・・・・できません。指先に掠りすらしなかったポシェットを床から拾い上げてさっと中身を確認してみたところ、特に物がなくなっていたりはしてませんでした。
パスポートは相変わらずありませんでしたけど。まだ高級ホテルの金庫に保管されてるのかしら。
わたしたちのやり取りを見ていたヤンさんが、おずおずと申し出てきます。
「その、他意はないんだけ僕のベレッタも返してくれないかな? それって官給品だからさ、ちゃんと返却しないとマズイんだ。
君の懸念ももっともだから、弾はぜんぶ抜いてくれて構わない。ただ本体だけは返してくれ」
どことなく生活臭が漂うヤンさんの要求に、これまた渋々といった風にケティさんは頷てから、ズボンに挟まるベレッタ92を引き抜き、ボタンを押して
「ああ、ありがとう・・・・・・って、なんだろうね。ちょっとこの展開、予想してた僕がいるよ」
弾無し拳銃をおもむろにサーバールームの向こうに放り捨てたケティさんが、勝ち誇った顔をしてました。
アナーキストである彼女にとって、政府の犬であるヤンさんは不倶戴天の敵なのでしょう。わたしよりもずっと当たりが強い。
「いいですか?」
わたしは断りを入れて、つい先ほどモンドラゴン・ファミリアとの交渉に使われていたPCを再起動させていきました。
鼻を鳴らしてとっても不満げでしたが、それでも素直にオフィスチェアを譲ってくれるケティさん。根はいい子なのかも。
自分の両目を指差して、そのままわたしの方に2本指のジェスチャーをスライドしてくるケティさん。ギプスに固められた人差し指と中指というアレンジは入ってましたけど、意味はたぶん“見張ってるからな”。
ベレッタ92に変わって自分のデザートイーグルをズボンに収めてから、ケティさんは空いてる他のオフィスチェアにどかっと座り、近くにあった雑誌に無気力に目を落とし始める。
いいのかしら、監視人がそんな不真面目な態度で。
「なあ、どう見ても僕のベレッタ、引き金が見当たらないんだけど?」
拳銃を回収して戻ってきたヤンさんが何やら聞いてましたが、ケティさんは無視を決め込んでました。
「そうかい・・・・・・」
諦めムードなヤンさんが、今度はパソコンの前に陣取っているわたしの方に移動してくる。
それとなくケティさんに唇を読まれないよう座っているわたしに合わせてか、ヤンさんもそれとなく立ち位置を工夫しながら、わたしに小声で話しかけてきました。耳の聞こえない彼女のこと、小声なんて不必要でしょうが心情的にそうしたかったのでしょう。
電話をかけさせて欲しいと言った矢先に、今度はネットを使う許可を得たと嘘をついたのは、わたしなんですから。
「ご存知でしょうが、帰りの足でしたら自分の車がありますよ」
ポケットからアメリカ政府の紋章付きキーホルダーが貼りついている車のリモコンキーを取りだし、見せつけてくるヤンさん。
彼だって、わたしが車の存在をど忘れしたとは露ほども考えてないでしょう。どうしてこんなしょうもない嘘をついたのか、少し咎めてるみたい。
「ごめんなさい、これはわたしの我が儘です。10分だけ調べもののために時間を下さい」
何か言いたげなヤンさんの機先を先して、わたしはパソコンの起動画面の向こう側に陣取るケティさんに話しかけていきました。
「すみません、パスワードを教えてもらえますか?」
雑誌を読むかたわら、横目でこちらを監視していたケティさんが中指を立てました。喧嘩を売られてるのかしら?
そう思ったの束の間こと、中指の次に人差し指が同時に立てられて、ちょっと間を置いてそこに薬指と小指が加わりました。
そんな馬鹿なという気持ちが先行しましたが・・・・・・解読した内容をいざ入力してみれば、あっさりログインできてしまう。コンピュータセキュリティ会社が毎年発表してる史上最悪のパスワード、その不朽の一位こと1234が答えだったなんて。
あっさり浮き上がってくるデスクトップ画面に、たまらない脱力感を感じてしまった。
「大佐殿、言いたくありませんがあの松葉杖の子が言ってることは正しい。
どうにかして自分の方で対策を考えますから、大佐殿は船を降りてアメリカに帰るべきです。あんな嘘までついて、この船に残ってどうするおつもりなんですか?」
「ヤンさん、そこにある電話機の型番を知ってますか?」
「いえ、知りません・・・・・・知るはずないでしょう」
「ですよね。メリダ島の外部回線って中央で一括管理してましたから、末端の端末はどれも市販のものでしたし」
「・・・・・・どういうことなんですか、一体?」
「昔ですね、わたしのオフィスにもあれと同タイプの電話機が備えつけられていたんです。
あの電話機の名称はSTU-III。
ヤンさんは驚きを隠さず、まじまじとありふれた電話機にしか見えないSTU-IIIを見つめていく。
最初は苦し紛れでした。
この子たちの力になりたいけど、どうすればいいか分からない。かつて身をおいていた戦場とはまるで文化が異なる麻薬戦争という代物は、わたしには理解の及ばない不条理なものだったのですから。
ですが、この電話機は違います。
知識があるかないかで世界の見え方はがらりと変わっていく。ヤンさんがそうであったように、ノルさんたちにとってもまたこの電話機は、よくあるオフィス用具のひとつに過ぎなかったで。
ですがこの機器はわたしの目を通してみると、明らかにこちらの世界の道具だったのです。
トラソルテオトルが本当に麻薬カルテルの所有物であったなら、違和感が拭えないその器具。この存在のお陰で、少しずつわたしがずっと感じてきた違和感が形になっていく。
ホワイトハウスをはじめとして、ミスリルでも運用されていたこの電話機のユーザーの中には、色々なビッグネームが紛れ込んでいました。
例えば――アメリカの
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