第2話「春日の憂鬱」

 春だ。穏やかで優しい風が頬をくすぐる。春は好きだ。名前にも入ってるし、ぽかぽかしてあったかいし。春といえば、青い春。せいしゅん。


 荒れに荒れた中学時代の思い出の中に「青春」なんてもんは雀の涙ほども見出せなくて、友達もいなければ彼氏もおらず――だから高校生活では立派なそれを手に入れようと思ったのだ。


「春野ミツキって女を知ってるか」


 なのにどうして、見るからにガラの悪そうな男が私を探しているの。


「い……いえ、し、しりません」


 尋ねられたクラスメイトは顔面蒼白。

 それもそのはずだ。

 今教室前方の扉から顔を覗かせているのは、ツンツクした茶髪にド派手なパーカー姿のザ・ヤンキー。ベストオブ不良。校内で目を合わせちゃいけない人ランキング圧倒的一位に常時降臨してそうな――そんな感じの男だった。


 言わずもがな、春野深月(ハルノミツキ)は私だ。


 私は開けていた薄目を閉じて、さっきまで読んでいた教科書をこっそり顔の上に倒した。

 誰か知らないが触らぬヤンキーにたたりなし。

 名前が知られていた理由は気になるが、そんなことよりもこれ以上騒ぎになることのほうが避けたかった。

 しかし寝たフリをしながらも近くに座るクラスメイト達の会話は漏れ聞こえてくる。


「ねぇあれ黒峰って先輩じゃない.....?私この前、あの人が他校の人達と喧嘩してるの見た」

「えーうそ、こわ。.......てか春野さんってこの子じゃない...?」


 たしかに春野さんは私なんだけど黒峰もその噂も全く知らないし、全然お呼びじゃない。このぽかぽか日和に私が求めるのは、この穏やかなひとときを邪魔しないでくれる優しい心の持ち主だけだ。


 このまま寝たフリを続行しようとしたところ、コソコソ話がピタリとやんだ。人が傍を通ったような小さな風を肌に感じた後、知らない香りが鼻先を掠める。


(あれ。何だろ、この匂い.....覚えがあるような)


 ああ、たしか...

 雨の日、風邪をひいて学校を休んだ時の匂いだ。

 のどが痛くて泣いてた私にお父さんがこっそりくれた。


「――ほら、あげる。ママには内緒だよ」

「どうしてないしょ?」

「パパは内緒がすきだからさ。さあ、たべてごらん」

「わあっ」


(――イチゴのミルキー...)


 ふっと微笑んだのと、吸い込まれるように眠りに落ちたのはほとんど同時だった。心地よいまどろみに身を任せてしまった私は、例のヤンキーがすぐ傍でぽかんと突っ立っていることなど、まるで知る由もなかったのである。


***


『例の女に会いに行く』


 そんな連絡が来たのが五分ほど前。

 四六時中喧嘩ばかりしているあいつにしては珍しい試みに、俺も興味本位でそこへ立ち寄ってみることにした。昼休憩で賑わう廊下を歩き、そのクラスを覗けば初々しい新入生達の中で明らかに浮いているパーカー男が一人。

 なぜか窓際で突っ立っている。


「何してんだ、黒峰」


 入り口から声をかければ、黒峰は顔をこちらに向けてコイコイと手招きした。

 窓際。奴の前には机に突っ伏した例の女の姿がある。


「……お前もう泣かしたのか。節操のねぇ野郎だ」

「違ェ。殺すぞ」

「じゃあ何してる」

 黒峰はしかめっ面で言った。

「……寝られた」

「………あー…起こせば?」

「違ェ!」

「ふう。誰か通訳」


 意味の分からない黒峰のせいで俺達の周りからはすっかり人気ひとけがなくなってしまった。ついでにかわいい後輩女子を探しに来た俺としては不本意極まりない話だ。


「こいつは俺が自分を探しに来たと知ってたはずだ。でかい声で名前を言ったし、その瞬間これで顔を隠してたから」

「お前に恥じらいはねぇのか」

「ねェ。で。近くに来て顔を上げんのを待ってたら……寝息が」


 俺はついつい笑ってしまった。

 つまりこいつは、どうしていいか分からずここで突っ立っていたというわけだ。

 普段から恐れられるばかりで、存在を認識された上で睡眠を優先された経験などないのだろう。まあ俺もねぇが。


「ふふ。なんだそのザマは、間抜けなもんだ」

「ぶっ飛ばすぞ」

「寝ちまったなら起こせばいいだろ。それに狸寝入りの可能性だってある」


 俺は腕を伸ばして、女の頭の上に載っていた教科書を取り上げた。

 そして二人同時に息をのむ。

 こいつに出会って、言葉をなくすのはこれで二回目だ。


「なん……っつー、間抜けな寝顔だ、こりゃ」


 ぽっかり空いた口に、幸せそうに緩んだ目元。

 何か食ってる夢でも見てるのだろうか。口がもぐもぐ動き始めた。


 狸寝入りじゃない。これは間違いなく寝てる。今なら小学生でも一発決められそうな気の抜けた姿に、さすがの俺も呆れ返った。


 その時、窓からふわりと風が入り、桜の花びらがひとひら中に迷い込んできた。

 すやすや眠るそいつの鼻先に落ちる。

「……」

 そのなんとも言えず平和ボケした光景に、胸の奥をくすぐられるような妙な感覚を覚えたのは俺だけじゃないはずだ。――そうであってほしい。


「あ、あの、春野さんに御用でしょうか!」


 突然背後から声がかかった。男の声だ。

 黒峰がさっと俺の手から教科書を抜き取り、彼女の頭の上に乗せた。結構な音がしたので流石に起きただろう。

「あ?誰だテメー」

 振り返った黒峰が眉を寄せる。


(面倒なことになってきたな……)


 俺たちの頭上で予鈴が響いた。

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