十字架男爵<2>



 翔一を乗せたバンはセンプラの近くで停まった。車から降りた上級生らは彼を引っ張り出し、赤萩組の事務所へ向かう。

「逃げたらどうなるか分かってんだろーな、あ? 打墨ぃ?」

「もういいから好きにしろよ」

 翔一は抵抗の意志を失くしていた。自分一人だけが上級生にいいようにされるくらいなら、やくざの事務所に突っ込んでこいつら諸共ボコられた方がマシだと考えていたのである。

「本物が俺らみてーなガキの話まともに聞くかよ」

「ごちゃごちゃうるせえんだよ!」

「おい、そろそろ黙っとけって」

 背の高い上級生が顎をしゃくった。その先には一棟のオフィスビルがある。

 やくざの事務所見ちまった。翔一の顔色は悪くなる一方だ。が、極限まで冷えた頭が違和感を訴えていた。何かおかしいと言ったところで黙ってろと殴られるのがオチだろう。

 件のオフィスビルの前に着いたが、さしもの上級生たちも尻込みしていた。翔一の背中がどんと叩かれる。

「……行けってことかよ」

 翔一は覚悟を決めた。が、階上から鈍い音が聞こえてくる。そこでようやく彼は違和感の正体に気がついた。静か過ぎたのである。今の今まで人の声が、発する音というものがまるで聞こえなかったのだ。

 くぐもった音がした。ひたひたと、濡れたものが這いずるような……。

「ヒデ!」

 上級生が翔一を押し退けた。いなくなっていた猿喰が階段をゆっくりと下りてくる。

「マジでここにいたんかよ! んだよ、赤萩組入るかどうか考えてるとか言ってたけどよ、やっぱ」

 声は途中で途切れた。駆け寄った上級生が猿喰に殴られたからだ。彼は少しの間だけ宙を滑り、オフィスビルの外へと叩き出された。この時、猿喰の取り巻きや翔一は不自然だとは感じていなかった。猿喰は以前から何の理由もなく理不尽に暴力を振るっていたからだ。

 翔一は後ずさりしながら屋外へ戻る。一足先に叩き出された上級生は、いてえいてえと半泣きでのたうち回っていた。見ると、腕が変な方向に曲がっていた。

「お、おいおいヒデ、ちっとやり過ぎじゃねえの?」

 足音が増えた。猿喰の後ろから男たちが姿を覗かせる。翔一も、上級生らもぎょっとした。女のような悲鳴を上げるものもいた。男たちは異形と化していた。体中から血を流すもの、両腕のないもの、頭が潰れたもの、上半身がないもの……どれもまともではなかった。人としての形を辛うじて保っているものもいるが、その在り方は既に人ののりを外れている。翔一は息を呑んだ。上級生たちも固まって動けないでいた。事態の把握に努めようとする理性と、一刻も早くこの場から逃げ出したいという本能が拮抗している。だが、もはや疑う余地はなかった。やくざものが死してなお動くのなら、猿喰もそうに違いなかった。何しろ彼の体にも無数の傷があり、腹に大きな穴が開いているのだ。

 猿喰と赤萩組のやくざは動かなかった。翔一たちを値踏みしているかのようだった。

「お、くそ、くそおあああああ、なんでだよおおお、ヒデエエエェ、俺たち、仲間だろおおおおお?」

 のたうち回っていた上級生の声に猿喰が反応する。彼は無造作に左手を振り下ろした。翔一たちは、人体と地面が撹拌するさまを目の当たりにした。一瞬で絶息した上級生の腹部はぐちゃぐちゃにひき潰されて天水と化し、地面を叩く。周囲の色が赤黒く染まった。猿喰の腕の骨は肉を食い破っていた。自身の骨が折れるほどの勢いだったのだ。

 仲間が死んだのを契機に、堰を切ったようにしてみなが叫んだ。誰もが我先に逃れようとするが、一人が足首を掴まれて体勢を崩す。下半身のない男が上級生を引き倒した。

「うっ、うおおっ!?」

 捕まれた上級生は男の顔を蹴りつける。

「死んでんだろ!? てめー死んでるくせに邪魔すんじゃねえよ!」

 蹴りつけられた男の顔が果実のように潰れた。立ち上がった上級生の後背には猿喰が迫っている。蛮声と共に振り返ると同時、拳を繰り出した。弾け飛んだ。猿喰の大きな掌が上級生の拳ごと腕を本体から乖離させた。膝をつく上級生に対して、骸の猿喰が巨体に似合わぬ素早さで蹴りを放つ。中空に紅色の仇花が咲いた。

 人が死に、死んだものが歩き回る。しかしここは映画の中ではない。異能だ。花粉症に罹ったものが糸を引いている。

「うおっ……」

 逃げ出した翔一たちの前から、横合いから、新たな生ける屍が現れる。やくざではない。学生服を着ているものや、老人もその中に含まれていた。静かだった理由が分かった。ここいらにいた人間は屍に変えられていたのだ。


 助けてくれ。


 翔一は神に祈った。今まで信じてもいなかったものに縋った。助かりたいと希望の糸を探す一方で彼は諦めてもいた。どうせろくな人生じゃあなかった。人様に迷惑をかけてばかりだった。心残りがあるとしたら母親のことだ。自分が死ねば彼女はこの先一人きりだ。ケモノが跳梁し、異能者が跋扈するメフという魔境に独りきりだ。母を置いていくのが辛かった。守れないのが悔しかった。

「ちっきしょおおおお、母ちゃああああん!」

 せめて、異能に目覚めたかった。今この時この瞬間だけは自分も扶桑熱に罹りたかった。

「それだっ、そういうところなんだ!」

 路地裏を抜けてくる影、一つ。翔一はその正体をはっきりと見た。幸だった。小さくて弱っちくて、ともすれば女と見間違う横顔のあいつだった。翔一はその瞬間、自らを恥じた。喜んでしまったのだ。『八街幸』は『異能』を有しているはずだ。どうにかしてくれるかもしれない、と。それがたまらなく嫌だった。酷く卑しいことだと思った。

「馬鹿野郎ノコノコ来てんじゃねえよ! 逃げろって、来んなって言ったろ!?」

 幸にもこの状況が目に入っているだろう。メフの外にいた時ではありえない、恐ろしい光景が広がっているはずだ。だが幸は翔一たちを飛び越えて前に躍り出た。



 翔一は今朝、近づくなと言った。本当に近づかないで欲しいなら何も言わずにいなくなったってよかったはずだ。幸は思う。助けて欲しくない人なんか、この世にいやしないのだと。翔一は今朝、サインを出していたのだ。助けてくれと。翔一は優しいやつだ。自分とは違う。だから幸は応えようと思う。たとえそれが『バケモノ』と呼ばれる行為であったとしても。

「やめろよ! いいからヤチマタ!」

 痛い。幸の目は、手は、足は、さっきからずっと熱を訴えていた。体調はすこぶる悪い。頭の中が不明瞭な声でいっぱいになって割れそうだった。だが、これでよかった。これ(・・)が、これこそが異能を行使する前兆なのだ。扶桑熱に罹ったものが己の内で渦巻く熱と痛みから逃れるにはそれらを外へ追い出すほかない。

『――――』

 声が聞こえた。あの時と同じだった。ひと月も前、化け物になった時と同じだ。頭の中、脳、細胞一つ一つが叫んでいる。ただ一つの名を。

花盗人アウトリュコス

 その名こそ幸の異能。

 彼の身に巣食うもう一人の自分だった。

 判定緑。三号指定。花粉症患者。それがどうした。幸は笑う。笑おうと決めていた。

「ヤチマタァアアア!」

 翔一が叫んだ。

 猿喰がすぐそこにいた。

 幸はじっとそれを見る。時間が引き延ばされていく感覚。たった一秒あるかないかの瀬戸際でしっかと捉えた。

 見た。

 見たぞ。

 お前を見たぞ。

 お前の大事なものは、それか。

 眼球から光輝が迸る。猿喰の振り下ろした腕を、幸は弾き返した。反動で両者がたたらを踏んだ。後ろから驚愕の声が上がる。幸の細腕は太く、雄々しく、オークのそれと変わりなく。否、挿げ替えたかのように同じだった。

 片腕だけがオークとなった幸は前へ踏み込む。猿喰も応じた。先に手を出したのは猿喰だ。幸は彼の腕を掻い潜りつつ、更に前へ。そうして、ボディに重い一撃を打ち込んだ。引っ張られるかのように後方へと吹っ飛んだ猿喰は、体液を撒き散らし何度も地面をバウンドする。やがて後ろにいたやくざの骸を巻き込みながらオフィスビルの中へと消えた。

「マジ、かよ」

 翔一はその場にへたり込む。異能を使ったのは幸も同じだ。彼の力に怯えて、生き残った上級生たちはその場を去った。

「大丈夫だった?」

「大丈夫って、お前は?」

 幸の腕は元通りになっていた。翔一は目を白黒させる。

「わりぃ。力、使わせちまった。お前そういうの嫌がってそうだったのに」

「……いいよ。それより早く行こう。どうなってるのかさっぱり分からないし」

 だが、この場を脱するのは叶いそうになかった。来た道から、とあるものが姿を見せたからだ。そいつは、先に逃げた上級生たちらしき首を持っていた。人影は生首の髪の毛を掴んで放り投げた。それが二つ、幸たちの近くに転がった。

 幸は息を深く吸い込む。錆臭さと共に新鮮な空気を肺に取り入れると眩暈がした。

「君たちは赤萩組のやくざじゃあないみたいだが」

 現れたのは黒い山高帽と燕尾服に身を包んだ、紳士然とした初老の男だった。彼は口ひげを指ではじき、モノクルの位置を調整しながら、残った手で懐を探る。

「さて、どうしたものか」

 男が取り出したのは葉巻だった。ケースからつまんだそれに慣れた手つきで火をつけると、ゆったりとした動作で煙を吐き出す。ステッキに体重を預けながら、美味そうに。その間、幸たちはおろか生ける屍でさえ動けなかった。

「君たち、酒と煙草はやるかね? 私は両方やる。いつかやる時が来たら覚えておくといい。最初の一口目こそが一等美味いのだと。値段の良し悪しは関係ない。関係ないとも。安酒だろうが紙巻きの煙草だろうがその価値は平等だ」

 たっぷりと紫煙を吐き出すと男は満足したようだった。まだ吸いかけの葉巻を指ではじくと、持っていたステッキを振った。男はメタリックのケースに、切断されて火の消えた葉巻を納めて低く唸った。

「勿体ないと思うかね。何、時間をかけても味は変わらない。一口目の感動には遠く及ばないものだよ。価値もそうだ。全て同じだよ。人も同じだ。たとえ生まれたての赤ん坊であっても、死にかけの年老いであっても同じだよ」

 翔一は声を出せなかった。幸は腹に力を込めた。

「あなたは?」

「これは失礼した。てっきり、私の名はこの町に知れ渡っているとばかり思っていたからね。いやはや、面目ない。私は近しいものからは男爵と。この町では骨抜きとも呼ばれている、しがない男だ」

「……あなたが?」

「しかり」

 連続殺人犯がそこにいた。メフの警察や猟団が血眼になって捜している男が幸たちの前にいる。

「なっ、なんでこんなとこにいやがんだよっ」

「それは言えんな。特に君たちには」

 幸は眉根を寄せた。どういうことだと問うより先、骨抜きが動く。

「目的は達したのだが、見られたからには仕方がないというのもある。精々、官憲の類が来るまで気張ることだ」

 骨抜きの姿が掻き消えた。彼が狙ったのは異能持ちの幸であった。幸は両腕をオークのものにして身を守ろうとした。背後からの気配を察し、咄嗟に頭を下げる。ステッキが空ぶっていくのが見えた。

 幸の脇腹に衝撃が伝わる。軽く押されただけで建物の壁まで吹き飛んだ。

「うっ……げええええええ」

 胃の内容物を吐き切る前に、骨抜きは幸の真横に移動していた。

「ほう、腕だけではなく背中までオークのそれだ。これで身を守ったというわけだな。君の異能はそれ(・・)か? 肉体を豚に変えるのが君の力かね?」

 幸は骨抜きを見た。見えなかった。《花盗人》は発動しない。しかし、骨抜きは何かを感じ取ったらしかった。

「君。今、何をした?」

 幸は答えない。骨抜きは彼の頬を打った。

「てめぇぇぇえええ!」

 骨抜きは飛び掛かってくる翔一をいなし、彼の腹にステッキでの殴打を二度加えた。それだけで翔一は倒れ伏した。

「そっちの彼は一般人だったか」

「よく、も……!」

 幸の目には力強さが残ったままだった。骨抜きはステッキで彼の顔を打とうとした。だが、自分が何も握っていないことに気づく。ステッキは幸の手にあった。これには骨抜きも舌を巻く。

「素早く動いたのかね? 時間でも止めたのかね? あるいは何か使役しているのかね? だが、それがどうしたと?」

 幸の頬は何度も叩かれて赤く腫れ上がり始める。ふうふうと息をしながら、彼はなおも骨抜きをねめつけた。骨抜きは幸からステッキを奪い返し、柄で彼の腹を突く。幸はその場に崩れ落ちた。その瞬間、骨抜きは飛び退く。彼の顔のすぐ前を刃風が通り抜けていた。

「ああ、うん」

 幸は咳き込みながらも立ち上がる。再び奪い取ったであろうステッキを手の中で回し、くるくると弄ぶ。やがて手首や肩などの関節を動かすと、ステッキは彼の体を這い回るように移動していく。熟練のパフォーマーのような手さばきであった。

「一定の速度を超えると、先から刃が飛び出すんですね、これ」

「頭に乗ってはいかんよ君。そんなものが私の力とは思わないで欲しいね」

 そうだろうなと内心で答える。骨抜きという男の底はまだ見えていない。幸はステッキを放った。甲高く間抜けな音を立てて転がるそれを見遣り、骨抜きは顔をしかめた。

「悪辣だね。人の物をそのように扱うとは。少しお仕置きしてやろう」

 幸の足首を骸が掴んでいた。それに気を取られている内、先刻殴り飛ばした猿喰が走り寄ってくる。猿喰はずたずたになった腕で幸の首を掴み、強引に壁面へ叩きつけた。なおも力を緩めず、彼を締め上げる。骨抜きは小さな何かを手の中で弄んでいた。

「これが何か分かるかね?」

「悪辣って、どっちが」

「君だろ。……これはそこのオークの骨でね。どこの骨だろうと力を使うのに違いはないんだが、私はとりわけ首の部分が好きなんだ。こんなに小さくとも、これがないだけで人は上手く動けなくなる。儚さの権化だよ」

 見えた。少し分かった。死人を動かしているのは骨抜きだ。それこそが彼の異能に違いなかった。

「いささか驚いたが、私の無聊を慰めるには至らなかったね」

 幸は瞠目した。

「んん?」

「あ、あ……ごめん、なさい」

 幸は涙を流していた。戦う意思など最初からなかったかのように萎れ切っていた。

「謝るのかね。泣いて許しを乞うのかね」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「よしたまえよ見苦しい。君の骨も抜こう。そこのお友達のも。せっかくここまで戦ったのだから、最期まで男らしくしたらどうかね」

 幸はまるで聞いていなかった。ひたすらに謝り続けていた。

 猿喰が僅かに力を込める。幸の気が遠くなった。それでも彼は謝罪の言葉を繰り返す。

「る、して……やめ……」

「もういい」

「やめて、おかあ…………」

 飛んだ。幸の目がくるりと回り、意識を手放したのだ。周囲の空気が氷のように凝ったのは骨抜きが彼に手を伸ばした時だった。



 総毛立つ。背筋が凍るような思いをしたのは久しぶりだった。そのせいで反応が遅れた。骨抜きは大仰な動作で振り向く。音はなかった。気配もなかった。浴衣を着た、男か女かも分からぬ子供が通りに立っていた。黒地に青い花が咲いた浴衣からはよく日焼けした手足が伸びている。

「子供とはいえ私の趣味を邪魔するとはね、無粋だよ」

「趣味ですか」

 その声を聞き、骨抜きは子供が女ではないかとあたりをつけた。もっとも彼にとっては男であろうが女であろうが関係なかった。

「その通り。まあ、ここで会ったのも何かの縁だろうね。幼子の命を奪う趣味はないが、邪魔になるなら話は別だ」

 子供は骨抜きを恐れていないようだった。殺人鬼の射殺すような視線を受けても平然としている。子は顔の半分を隠すように被っている狐の面をぽんぽんと叩いた。夏祭りから抜け出てきたような出で立ちだった。子供特有の黒髪が揺れる。

 骨抜きの後ろから、からころという音がした。子供の履いている下駄の音だった。最初に猿喰の巨体が爆ぜた。頭、腕、胴、足。世界から消失したのではないかと思わせる速度で打ち据えられたのだ。彼は四散したが近くにいた幸は無傷だった。

「上手くいかないなあ」

 猿喰を消し去ったのは、少女の背中から生えた涅色くりいろの触腕だった。成人男性の腕ほどもあるそれが数本、ぬらぬらと照り輝いていた。骨抜きは生きた心地がしなかった。認識できないほどの速度で動く少女が、オークの肉体を一瞬で砕く力を呆気なく振るったのが理解しがたかった。

 少女が笑った。歳に似つかぬ妖しさを含んだそれを見て、骨抜きは『これ』が人の姿をした何かだと知る。

「何と世界の広いことか。いやいや、この町の頂点捕食者になったつもりだったが、まさかこの私が喰われる側に回るとは」

「はあ、そうですか。それよりも、どうもこの子がお世話になりまして」

「この子とは?」

「可愛い方の子です」

「そうかね」

 骨抜きは少女のペースに呑まれていた。

「申し遅れました。つい、頭に血が上っていたものですから。私は八街幸の母です」

「御母堂かね」

 合点がいった。幸が謝っていたのは自分ではなく、その少女だったのだ。

「まったく、私がいないと何もできない子で」

「よく分からないし興味もないが、そのような姿になってまで、異能を使ってまでとは。いや、恐れ入った。母は強しとは」

 骨抜きの右腕が触腕で打たれた。彼は油断していたわけではなかったが、回避も防御も間に合わなかった。

「異能だとか、花粉症だとか、そんなものと同じにしないで欲しいですね。これは愛です」

「ほう、愛。愛ときたかね」

「そうです。愛の力で死になさい、殺人鬼」

「素晴らしい。互いの愛、どちらが強いか比べてみるとしようか」

 判定黒。メフを騒がせた連続殺人犯、骨抜き。彼が自らの意志で異能を使えたのはここまでだった。



 口の中が切れるほどの平手で目が覚めた。翔一は上半身を起こして周囲を見回す。こみ上げる吐き気を堪えつつ、何が起こったのか思考するために頭を巡らせた。

「ヤチマタっ」

 幸が倒れている。血塗れだった。翔一は全身を苛む鈍痛をも忘れて彼に駆け寄る。幸はどうやら生きているらしかったが、

「……何だってんだよ」

 何が起きたのかは分からなかった。気を失う前と大して状況は変わっていないが、骨抜きの姿がなかった。死体はもう動いていない。そのままだった。

「ありがとーくらい言えよ、センパイ」

「あ?」

 今の今まで気がつかなかったが、葛が近くにいた。相変わらず目に優しくない恰好であった。おまけに露出度がえぐいくらい高かった。

「なんでお前がここにいんだよ?」

「あー? やくざとヤろうとしてたの。邪魔されたけどさ」

 何という女だろう。しかし翔一には突っ込みを入れる余裕もなかった。

「見てたのか、お前」

「知らねーよウゼーな。やばそうだから隠れてて、静かになったから見に来たらさ、こうなってた。無視すんのもキモイし、面白そうだから話も聞きたいし、八街踏んでもちゅーしても起きねーし、仕方ねーから打墨の方起こしたんだよ」

「……骨抜きはいねーのか」

「あ? 殺人犯が何? いんの?」

「見てねーならいい」

 自分たちは見逃されたのだろうか。翔一には分からなかったが、ともかく今は生きている。それだけでよかった。

「とりあえずどーすっかな。警察呼べばいいのかこれ」

「は? あほかよ打墨よう。めんどくさいことになるに決まってんじゃんか」

「つっても、これそのままにすんのかよ」

 葛は幸を指差した。

「あーしらがしなくても誰かがしてるしどうせ。つーか八街、メフに来たばっかっしょ。ケーサツ沙汰なったら困るんじゃね?」

 幸は翔一と違う。扶桑熱患者だ。第一、ここにはもう自分たちと死体しかない。疑われるのは火を見るより明らかだった。翔一は良心と相談したが、こういう時の警察の面倒くささはよく知っている。彼は幸を背負い、葛を見た。

「何スか?」

「どっか、いい場所知らねーか。ヤチマタんちあんま知らねーし、血塗れだし」

「……んじゃ、ついてきて」

「わりぃ。なんつーか、助かる」

「出すもん出せよ」

 何か嫌な予感がしたが、翔一は葛を信じることにした。



 葛が案内したのはスーパーマーケット『タダイチ』の駐車場だった。ここに来るまでもそうだったが、彼女は勝手知ったるといった風に、白いセダンの前で立ち止まった。

「乗って」

「え? これ、お前の?」

「そんな感じ」

 葛は運転席に乗り込み、翔一を急かした。彼は幸を後部座席に降ろし、自らも乗り込んだ。ようやく人心地がつき、翔一は長い息を吐き出す。

「バレてねーよな」

「ビビんなや。あ、吸う?」

 煙草を吹かすと、葛は運転席に深く座った。彼女の道案内は完璧に近かった。翔一の知らない裏道を使い、時には他人の家の敷地を横断し、メフを全て知り尽くしているかのようだった。

「で。何があったん?」

 隠し通せるとは思えなかった。葛には借りもある。自分が猿喰たちに絡まれていたこと、彼らがやくざに何事かを頼まれていたこと、リーダーの猿喰が行方をくらましており、痺れを切らした取り巻きに連れられて事務所まで行ったこと、とにかく翔一は自分の知っていることを洗いざらい喋った。

「したらいなくなってた猿喰が出てきて、やくざも出てきたんだよ。みんな死んでたけどな」

「死んでたのに動いてたん?」

 翔一は頷く。彼は、寄りかかっていた幸が目を覚ましていたのに気づいた。

「いてえか?」

「うん。ここ、どこ?」

 衣奈の車の中だと知ると、幸はうええと情けない声を上げた。

「んだよー、助けてあげたのに。つづらちゃんにありがとーは?」

「あ、ありがとう、つづらちゃん」

「呼び捨てにしてんじゃねーよ、馴れ馴れしくね?」

「理不尽だよ……」

 幸は体の様子を確かめた。殴られた腹がしくしくと痛むが、これといって目立った外傷はなかった。返り血はかなり目立っていたが。

「ヤチマタ。あの、よ。骨抜きだけどよ、お前がやったんか?」

「ううん、違う。どうなったの?」

 三人は改めて事態の把握に努めた。おおよその話を聞いて、幸は推測を口にする。

「死体を操っていたのは骨抜きで間違いないと思う。でも、どうしてあそこにいたんだろ。衣奈さんは何か見てなかった?」

「あーしは事務所ん中にいたんだけどさ、あのブタがやくざ殺しまくってたのは見た」

 ええ、と、翔一が素っ頓狂な声を出した。

「猿喰が一人でやってたんか? つーか、あいつそん時までどこで何してたんだよ」

「知らねー。でもさー、最初から死んでたっぽいよ」

「最初から?」

「たぶんね。様子バグってたし」

 赤萩組の事務所に来た時点で猿喰は死んでいた。

「じゃあ、操っていたのは骨抜きなのかな」

「ってーと、いなくなってた猿喰は、あそこにいた時にはもう、もしかすっと骨抜きに殺されてたってことになんのか」

「殺されて、テッポー玉んなったわけだ」

 幸は、骨抜きの手にかかった犠牲者が赤萩組の構成員ばかりなのを思い出した。そのことを言うと葛は笑った。酷薄な笑みだった。

「赤萩組だけ狙ってたわけじゃないって。他にも死体が見っかってないだけでバカほど死んでるに決まってんじゃん。ケーサツだってやられてんだし」

「でも変なこと言ってたんだ。『目的は達した』とか」

「ああ、そういやそんなん言ってたっけ」

「あと、ぼくたちには言えないとか、そんなことも」

 ともかく、骨抜きには何かしらの目的があり、赤萩組はその目的を達成するために必要なものだったのだろう。

「じゃあアレ? あんたらタイミングが鬼悪かっただけ? 別に何もカンケーなかったって?」

「衣奈さんもね」

「んだよそれー! つまんねー!」

 葛がそう言ってげらげら笑うと、釣られて幸も翔一も笑った。翔一はゲロを吐いた。

「ふっざけんな! 誰の車で吐いてんの!?」

「ご、ごめ……安心したら、なんか色々思い出して……」

 窓を全開にしても大して意味はなかった。葛は舌打ちして車を降りた。

「ちょっと待ってて。勝手にいなくなんないでよね」

「え、どこ行くの?」

「るせー説明すんのダルイし」

 葛はすたすたと歩き去ってしまう。残された二人は顔を見合わせた。

「かっこわりぃ。臭くてごめんな」

「気にしないでよ。ぼくもこんなんだし。というか一回吐いてるし。服、汚しちゃったね」

 翔一は力なく首を振った。しかし次の瞬間には目を輝かせていた。

「つーか……つーかさ、ヤチマタ何やったんだよ? 猿喰ぶっ飛ばしちまうし、なんか骨抜きともやり合ってたろ?」

「花粉症の力だよ。その、あんまり言いたくないんだ」

「あ、ああ、そっか。だよな。でもありがとうな。お前が来てくんなきゃ、俺も……」

 翔一は震えていた。幸は自分の手を見ていた。

 しばらくして葛が戻ってきた。彼女は車中で待っていた二人に大きめの紙袋を手渡した。中には着替えが入っていた。

「ん」

 濡れたタオルも渡された。

「どうしたんだよ、これ」

「何でもいいから着替えたら? ああ、ウゼーしくせーから外出といて」

 車外に追い出されると、二人は物陰を探してそこで着替えた。シャツとパンツのサイズはぴったりだった。汚れた制服を袋の中に突っ込むと、幸はタオルで腕を拭く。車の方へ目を向けると、衣奈が吐しゃ物の掃除をしているのが見えた。

「ねえ、翔一くん。衣奈さんって思ってたよりいい子なんじゃないかな」

「正直……第一印象がアレじゃなかったら惚れまくってた。だってよ、自分のゲロ掃除してくれるなんかオフクロ以外ありえねーし」

 幸と翔一は作り笑顔を浮かべて車に戻った。

「助かった。ありがとう、マジで! マジで助かった! あざす! 車汚してすんませんっした!」

「うん」

「衣奈さん、本当にありがとう。あ、服のお金は」

「あー、そーいうのいーから別に。でもさ」

 その時、二人には振り向いた衣奈が悪魔に見えた。

「あーしに借り作っちゃったね。意味分かる? 分かるよね?」

「…………いや、あんまり分からないです」

 衣奈は無言で幸の肩を叩いた。

「とりあえず当分は大人しくしてれば? ガッコにだってケーサツ来るよ」

「い? 来んの?」

「ったりめーじゃんバカじゃねお前。あそこで何人死んでんだっつーの。特に打墨な。てめーもあいつらの仲間と思われてたんだし、八街だって授業抜けて『打墨捜してる』なんざ馬鹿正直に言ってきてんだからトーゼンじゃん。まず話聞きに来るだろーし、骨抜きが見つからないんじゃ疑われるよん」

 自分たちは何もしていない。巻き込まれただけだ。衣奈にそう言うのは躊躇われた。じき、学校の授業も終わる時間になる。ひとまず解散の運びとなった。

「衣奈さん、色々とありがとう。君の名前は出さないようにするから」

「ったりめーじゃん」

「うん、それじゃあ」

「あのさ」

 衣奈は幸の背に声を放る。

「力使うのってどんな感じなん」

「君はどうなの」

「いーから言えって」

 幸は少しだけ考えてから口を開いた。

「ぼくが自分の力を使ったのは今日で二回目なんだ。二回とも、使ってる時は何も思わないんだ。嫌になったりするのはその後で、こんなものなかったらいいのにって思う」

 でも。幸は付け足した。

「今日はね、少し違った。嫌だけど、これがなかったらどうにもならなかったし、力はともかくさ、自分まで嫌になるのは違うかもって。そう思ったんだ」

「は?」

「どこにいたってぼくはぼくだって、そう思ったのかな」

「楽しいとか、気持ちいいとか、そういうんはないの?」

「ぼくは思わなかったかな。それより本を読んだり、ゲームしたり、そういうのがいいよ」

「ふーん。つまんねーの。もういいや、ばいばい」

 頷き、幸は待たせていた翔一と合流し、スーパーの駐車場を出た。葛は車の中から二人の背を見送り、苛立たしげにハンドルに頭突きした。

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