Modorenai Live(戻らない日々-Ever Version-)<2>
「すみません」と、幸はむつみの姿を見つけるなりそう言った。彼女は鬱陶しそうに手を振った。
「何を謝ってるの?」
むつみは朝食の準備をしていた。幸は手伝おうとしたが、顔でも洗ってくるようにとあしらわれる。
「気にしなくていいよ。朝早く起きてもいいことなんかないし、新しい学校もまだだし、それに君の分の朝ごはんまで作ってるわけじゃないからね」
「……すみません」
「冗談だよ。なんでもいい?」
頷き、幸は洗面所に向かった。リビングに戻ってくるとパンの焼ける匂いがして腹が鳴った。幸は遠慮がちに椅子を引く。
「朝食は皆で食べなきゃいけないって、ずっと言われてたんです」
「ふうん。寝坊すると怒られたの?」
「まあ、はい。怒るのはもっぱら母さんでしたけど」
気のなさそうに返事するむつみ。幸の前には目玉焼きの乗ったトーストとコーヒーが置かれた。彼女はじっと幸を見ている。
地底人みたいだ。
幸はむつみのことをそのように思った。同じ次元の存在ではない、全く理解の外にいるものだとしか感じられなかった。しかし腹は減っているので、手を合わせてから瞬く間にトーストを平らげた。
「おお、食べた食べた」
まるで餌付けされている気分だった。
「そういえば、周世さんは一人暮らしだったんですね」
むつみはトーストを食べるために開いていた口を閉じて、開きかける。何かたくさん言いたいことはあるのだが、何を言っていいのか分からないとでも言いたげな顔をしていた。
「そうでもなきゃ君を引き取らない」
「あの、ぼく、学校卒業したら出て行きます」
言って、幸は居住まいを正す。
「昨日周世さんが言ったこと、ぼくには分からないこともありました。でも、分かることもありましたから、ありがとうございます」
「何が」
「引き取ってくれたことです。ご厚意じゃないって言ってましたけど、それでも、周世さんがいなかったらどうなっていたか、ぼくには想像もつきませんから。……できる限り早く一人で暮らせるようにしますから、それまでご迷惑かけちゃいますけど」
「気持ち悪いなあ。いいよ別に。君、まだ子供なんだよ。大人ぶったこと言わなくても」
「でも、ちゃんとお礼言ってなかったし」
「もしかしてお金のこと気にしてるの? それなら別に……」
むつみは何か得心がいったような表情を浮かべた。そうしてから口の端を歪めると、ともすれば楽しげに喋り出す。
「ああ、そう。私が嫌なんだ。一緒に住むのが疲れるからさっさといなくなりたいわけだね」
「それは周世さんもそうでしょ」
「あっ、やっぱりそうなの」
「何なんですか。ぼく、どうしてそんな周世さんに敵視されてるんですか」
「君……はあ、もういいよ」
言い合いに疲れたのか、むつみは冷めたトーストにかぶりついた。幸は気持ち悪いと言われたのが地味にショックだったが、言うとすっきりした。
「そういや、周世さんっていくつなんです?」
「いくつって」
「年齢のことです」
むつみは何も言わなかったが、彼女の眉間にしわが寄っているのを幸は見逃さなかった。
幸の荷物は午前中には届いた。段ボール二箱だけだったので荷解きはすぐに終わった。
「買い物くらいならぼく一人でも大丈夫だと思いますけど」
朝とは違い、むつみはすっかり元の様子を取り戻したようだったが、幸一人で出歩くことに関しては頑なに拒んだ。この町では彼女に一日の長がある。結局二人で買い物に行った。
この日から幸の新しい生活が始まった。病気のこと、メフのこと、ケモノのこと、むつみからは事あるごとにそれらについて教わった。だが、むつみは自身について深く語りたがらなかったし、幸の過去についても自分から聞こうとはしなかった。
「さち君」
「名前で呼ぶの、やめてください。あまり好きじゃないんです」
「そうだと思った。そいで、さち君はさあ」
むつみは物静かだが皮肉屋でへそ曲がりだった。幸より十以上も歳が離れているのに、彼をよくいじめようとした。語調が柔らかいのに舌鋒はめっぽう鋭いのだ。あまりしゃべらない分、一度口を開けば必ずといっていいほど余計なことを口にする。
「周世さんこそ」
「ねえ、いい加減『周世さん』はやめないかなあ。私がせっかく距離を縮めようと努力してるのに」
「ぼくにはこの距離でも近過ぎるくらいだ」
しかし幸も言われるままではなく、精いっぱい言い返すのを試みていた。打ち解けたかどうか定かではないが、そういった叔母とのやり取りが滅入っていた幸の気を紛らわしていたのは確かである。
「制服は着てみたの?」
大概の問題は時間が解決する。心の傷は独りでに治っていくもので、痛いとか、悲しいとか、そういう風に感じたことも少しずつ薄れていく。何とかやっていけるかもしれない。幸が立ち直りかけた自分に気づいたのは、登校を明日に控えた夜のことだった。
「制服……」
「新しいやつ、袖通した?」
むつみに言われて、幸は制服の存在を思い出した。新しく通うことになる
「着られたかね、少年」
返答の代わりにドアを開けてやる。むつみは興味なさげだった。
「袖が少し余ってる」
「ま、まあ。多少は」
「まだ伸びるかな」
身長のことを言っているらしい。幸は自分の背が平均的な男子より低いのも少し気にしていた。
「伸びます」とぶっきら棒に言った。
「うーん、悪くないんじゃないかな」
むつみはリビングに戻っていく。開きっ放しのドアを恨みがましくねめつけると、幸はネクタイを外した。
本当に一人で平気か。翌朝、むつみは念押ししてきた。先日、学校にはむつみと二人して出かけている。書類の提出やら下見やらで行ったのだ。道順も覚えたつもりだったし、保護者同伴で登校するのも気恥ずかしいので、幸は叔母の申し出を断った。
「教室までついていこうか。気が早いけど参観日」
「来たら怒りますから」
強く断っておいた。
「ああ、余計なところには行かないようにね。まっすぐ帰っておいで」
「え?」
むつみが保護者らしいことを言ったので幸は目を丸くした。
「君は知らないと思うけど、ちょっと騒がしいことになっててね」
「何かあったんですか」
いや、と、幸は言ってから思い直す。メフでは毎日何かが起きている。外よりもその発生率が高いのだ。むつみもそれは百も承知だろうから、念押しするのは余計に珍しかった。
「骨抜きにされちゃうの」
「はあ」
「そういう殺人が起きてるの。からかってるわけじゃないから。《骨抜き》とかいう殺人鬼」
この家にはテレビもラジオもない。新聞を購読している訳でもない。むつみはいったい、その話をどこから聞きつけたのだろうか。幸はそのことも気になったが、殺人鬼という生々しい言葉に戦慄した。
「人が死んだり殺されたりするのは珍しくないよ。でも、ちょっとそういうのとは違う感じみたいだから」
「この近くで出るんですか」
「じき捕まるとは思うけど」
何せ殺人鬼とはいえメフの中にいる。そうそう簡単に出られるものでもない。町の外や中でさえも自衛隊や警察が目を光らせているのだ。
「誰から聞いたんですか」
「ん?」
「そういう話をです」
むつみは眉根を寄せた。怒っている訳ではなく、何か考え込んでいるらしかった。
「同僚かな……?」
「そういえば、むつみさんって何かお仕事してる人なんですか。ずっと家にいますけど」
「狩人だよ」
聞き慣れない言葉だった。
「狩るのは普通の鹿とか兎じゃないけどね」
幸の反応を予想していたのか、むつみはそう付け足した。
「ええ……?」
困惑しつつも幸は想像する。山中を駆け巡るむつみの姿を。銃を構えて、熊の毛皮を纏うむつみを。
「君の反応はもっともかな。あ、そろそろいい時間だね」
学校まで二十分はかかる。確かに、家を出なくては遅刻する時間だった。初日から遅刻して悪目立ちするのも嫌だったが、それよりも幸はむつみの仕事が気になってしようがなかった。
「ぼくをからかってるんですよね」
「ううん、違うよ」
マジかよ。幸は後ろ髪を引かれる思いで学校へ向かった。
メフは大崩落の被害を受けたいくつかの市町村が合併してできた市だ。復興支援が当てにならないことを悟った市が自力でどうにかすべく、国からの補助金目当てに扶桑熱患者の受け入れ先として名乗りを上げたのである。はたしてそれはある程度成功したが、税金をケモノのために使うのかと批難する団体も生まれてしまった。幸はむつみから聞いた話を思い出して憮然とした。が、歩調が緩んだのに気づいて足を速める。蘇幌学園はメフの拾壱区に位置しているから、今のままではぎりぎりといったペースだった。
メフはいくつかの区画に分けられている。扶桑に近い場所から放射線状に若い数字を当てはめられているのだった。幸たちが生活しているのは第拾五区で比較的町の外側に位置している。数字が若い区ほど、つまり、扶桑に近い場所ほど危険度が高い。
『特に壱、弐区に近づいちゃいけないからね。まあ死にたいなら話は別だけど』
むつみはそんなことを言っていた。
黙々と歩いていると、自分と同じ学校の制服を着た少年たちの姿を見つけた。幸は少しだけホッとして、彼らの後を追う形で歩を進める。学校の正門らしきものが見えてくると、幸は一度立ち止まった。既にここへは来たことがあるが、あの時は私服だった。制服で目の前に立つと身が引き締まる思いがした。
蘇幌学園は新設校だ。校舎の壁も綺麗で、幸が前に通っていた学校よりずっと広い。けれど、構内に入ると妙な息苦しさがあった。幸は違和感を抱えたまま、ひとまず職員室へ向かうことにした。他の生徒同様に昇降口を抜けて、持参した学校指定の上靴に履き替える。目的地は一階の特別棟にある。話は通っているはずだが引き戸の前に立つと流石に緊張した。
「失礼します。あの」
幸の声に、出入り口付近に立っていた男性教師が反応する。まだ年若そうに見えるその男は、明るい茶色の髪をかき上げると相好を崩した。
「お、八街くん?」
幸が首肯すると、男性教師は何がおかしいのか、へへへと笑った。
「待ってたよー、そろそろだと思ってた。あ、俺、
教師というより近所の兄ちゃんみたいな気安さだった。裏表のなさそうな笑顔ではあったので、幸も微笑んで返す。それじゃ行こうかと、安楽土は出席簿で肩を叩きながら、のろのろと歩く。
「聞いてるよー、外での八街くんのこと」
幸の体が強張った。
「ま、色々あるよな。時期外れの転校生ってのもここじゃあ珍しくないから大丈夫だって、緊張すんなよー?」
安楽土はあまり気にしていないらしかった。そのように振舞っているだけなのかもしれないが、その心遣いが幸にはありがたかった。
「俺は花粉症じゃないけどさ、それでも色々あるよ。やらかしちゃってさー、メフに飛ばされちった」
幸が通うことになるのは二年二組だった。蘇幌学園は各学年、多くても三クラスまでしかないらしく、受け持つ方は楽だねと安楽土はのたまっていた。
「ちょっと待っててな」
安楽土は教室の扉を開けて、遅れてごめーんとへらへら笑っている。朝のホームルームの時間が始まっていたらしい。教室からはあまり生徒の声が聞こえてこなかった。大人しいクラスなのだろうか。幸はその時を待った。ややあって、安楽土が手招きしてくる。幸は教室に足を踏み入れた。その瞬間、頭の中で考えていた自己紹介のことが吹っ飛んだ。
「言ったろー? そんな緊張しなくていいってさー」
教室にいる生徒は、どうやっても、何度数えても十人にも満たなかった。机と椅子はあるが空席ばかりで、そこにいる生徒は離れ小島にぽつんと取り残されているみたいに所在なげだった。安楽土の反応からしてこれが当たり前なのだろう。それでも、がらんとした室内は寒々として見えて、幸は気を取り直すまで絶句していた。簡単な自己紹介をどうにか終えて席に案内されても駄目だった。授業が始まって、昼休みになってもまだ気味が悪かった。
「どっから来たの?」
昨夜スーパーで買っておいた総菜パンを二つ平らげて、三つめのパンに手を伸ばしかけたところで前の席に誰かが座った。赤い縁の眼鏡をかけた、スレンダーな体型の女子であった。つつましやかな笑みとは裏腹に、眼鏡越しの目からは旺盛な好奇心が見て取れた。
「東京の方。ええと、君は」
「
冗談めかして言うと、深咲は椅子をくるりと反転させて座り直した。翻った短めの黒髪の中に光るものがあった。鏡のような光沢のヘアピンだった。
「メフにはいつ来たん?」
「一週間くらい前だよ」
「じゃ、私の方が先輩だ。あ、ご飯食べてていいよ。こっちにはもう慣れた?」
「少しは。ええと、それで」
「扶桑はもう見た? 授業にはついていけそう? あ、それから徳先生ってどう思う? なーんか軽い感じだよねー」
深咲は矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。幸は彼女のペースについていくのに必死だった。二人で話していると他のクラスメートも寄ってきて質問を浴びせてくる。幸は自分が見定められていたらしいことに気づいた。
「蘇幌は花粉症の子が少ないの。いひひ、生徒も少ないけどね。他の学校はそんなことないって聞くけど」
「デン学はやべーのばっかりって聞くけどな」
「うちにも花粉症はいるじゃんか」
「学校には来ないけどな」
話は盛り上がって幸は置いてけぼりにされていた。深咲はそんな彼に気づいてか、ばつが悪そうな顔になったが笑声を漏らす。
「あ、そうだ、放課後空けといてね。私委員長なんだから」
幸がどうしてと問う前に、深咲は安楽土に学校の案内を頼まれたことを付け足した。幸はこの間むつみに連れられて学校見学したのは黙っておいた。彼は深咲に好印象を抱いていたのである。異性というよりも一個の人として好きになりかけていた。彼女と話していると懐かしさと温かさを感じられた。外の日常を想起させる、陽だまりのような人だと思った。
放課後になると、深咲は幸を連れて学校を歩き回った。教室棟と特別棟、中庭やグラウンドといった主要な施設を紹介すると、深咲は自動販売機でジュースを二つ買い、一つを幸に渡した。
「りんご好き? 私は好きなんだー」
そう言って深咲は階段を上っていく。ピロティに着くと中庭に面した窓の前で立ち止まり、ストローを口に咥えた。幸も彼女に倣い、同じようにした。
「こんなとこかな。後、分からないことあったらその都度聞いてね」
「ありがとう、委員長」
「えー? 肩書きはやだなー、名前で呼んでよ」
「そんじゃあ水原さん」
「うん、八街くん。あのね、八街くんがいい感じの人でよかった。あ、変な意味じゃなくってね。この学校って、色んな人がいるから」
幸は何となく察した。深咲は今までの転校生にも同じように接したに違いないが、全員が全員、彼女の厚意を素直に受け取ったということもなかったのだろう。教室の空席がそれの証左な気がした。
「それに……あ」
言いかけた深咲の顔が曇った。彼女の視線を追ってみると、中庭の方へ移動していく五、六人の生徒が見えた。
「知り合い?」
「うん。三年生の中に
「もしかしてクラスメートかな」
「うん、休んでたんじゃなくて、呼び出されてたんだ。いつもそうなの。彼が来た時からずっと、三年生のあんまりよくない人たちに絡まれてる。どうにかしてあげたいんだけどね。私じゃちょっと……」
どこの学校にも不良はいるのだろうが、メフのそれは外よりもたちが悪そうだと感じた。幸はジュースを飲み干すと、それを近くにあったゴミ箱に投げ入れた。
「案内はここまででいいよ。ありがとうね」
「……何するの?」
「難しいことはしないよ」
「喧嘩するの?」
「無理難題を言うなあ、水原さんは」
幸はピロティを出て階段を降りる。打墨というクラスメートが連行された場所へ向かうつもりだった。無論、喧嘩や決闘などはしない。近づいて様子を見て、打墨に声をかけるだけである。水を差されれば不良たちの興も覚めるだろうという目論見だった。
喧嘩をしたことはあるが、幸はそういう、腕っ節に頼ることが好きではないし得意でもない。自ら首を突っ込むようなこともしてこなかった。だが、今日は――――少なくともこの瞬間だけは『行かなくてはならない』と強く思った。ちょっと気になっている子の前で格好つけようとする小学生みたいな気分だった。
囲まれている金髪の少年が打墨だということは分かる。彼を囲んでいるのが上級生の男子ということも分かる。ここまでは外の学校でも見たことのある光景だった。
「豚が喋ってる……!」
五人分の視線が幸に注がれた。……彼は一つ計算違いをしていた。ここがメフだということを勘定に入れていなかったのである。
「あ?」
「お前今なんつったよ?」
怪物じみた相貌が憤怒の相を象った。打墨の胸ぐらを掴んでいたのは、豚のような――――否、豚の顔をした大きな男であった。周りの上級生と同じく制服を着ているが、その体つきは異様に発達というか、ぱんぱんに膨れ上がっている。幸はまだ知らなかったが、件の豚面は扶桑熱の影響によるものだ。巷では《亜人》とも呼ばれている突然変異体で、いわば人と獣のハーフのようなものであった。
豚面は打墨をその場に投げると、お供を引き連れてゆっくりとした足取りで近づいてくる。幸はしまったとも思ったが、もう遅かった。
「一年か……?」
五人の上級生は幸を見下ろした。みな体が大きかった。豚面は幸の二回りは大きかった。五人とも制服を着崩して姿勢も顔つきも悪い。幸の失言がなくとも常にいきり立って触るものをみな傷つけてしまいそうな雰囲気があった。
「二年です」
「うるせえよ!」
理不尽だった。この手の輩に絡まれるのは初めてではなかったが(そもそも自分から絡まれにいった形ではある)、恐ろしさで竦み上がりそうだった。幸は死ぬほど因縁をつけられてぼろくそになじられていたが、隙を見つけて声を振り絞った。
「あのう、そこの打墨くんに用事があるんですけど」
「だったら何だってんだオォルルァ!?」
幸は豚面の取り巻きに胸ぐらを掴まれた。ぐっと喉が絞まって目が飛び出そうになる。やめろという声がした。打墨が叫んだのである。
「やめろって。んだよそいつ知らねーし、全然カンケーねえだろ」
打墨は立ち上がった。ワックスで固めていたであろう髪は乱れ、目元には青あざがあった。十代の少年にしては精悍な顔立ちとがっしりとした体つきをしているが、彼よりも大きな豚面たちにしこたまやられていたのは明白である。
「指図する立場かよそのザマでよ。いいから寝とけって、な」
「パシリがイキがんなよ」
「もっぺん言ってみろや、あぁ!?」
打墨と取り巻きによる言い合いが始まった。豚面はそのやり取りには興味がないのか、幸をじっと見下ろしたままだった。幸はえへへとはにかんだ。
「おーい、何してんのー?」
中庭にいた全員が二階の窓を見上げた。安楽土が気楽そうな面でのんきに手を振っていた。豚面はぶるると鼻から息を吐き出す。
「何でもねーっすよ!」
「そうかー? そんじゃ早く帰れよー」
安楽土の姿が見えなくなった後、興を削がれたのか、豚面は幸たちに無言で背を向けた。取り巻きは打墨に対して言い足りない様子ではあったが、豚面を追いかけていった。
緊張の解けた幸はお腹を摩った。打墨は力なくその場に座り込む。二人でただただそうしていると、さっき安楽土が立っていた窓から、ひょっこりと覗く顔があった。
「大丈夫ー? 保健室行くー?」
深咲だった。恐らく、彼女が助けを呼んでいたのだろう。
「行く?」
「行かねえ」
「行かないってさ!」
打墨は頭を指で掻いた。
「八街くんは平気―? 救急車呼ぶ―?」
「呼ばないでー!」
幸と深咲は間の抜けたやり取りをしていた。
「じゃ、気をつけてねー、また明日―! 打墨くんも明日は来なよー!」
打墨は深咲のいる方へ、ゆらゆらと手を振る。彼女は満足げに頷いて去っていった。
「じゃ、ぼくも帰るよ」
「おう」と頷きかけた打墨だが、幸の顔を見て頓狂な声を上げた。
「誰だよお前!」
「八街だよ。今日転校してきたんだ」
「転校生?」
打墨はそこでようやく幸の存在に気がついたかのような反応を見せた。
「そりゃ何も分からねえよな。でもこれで分かったろ。あいつらに関わるのはやめとけ。……つーか、今もなんで来たのかわかんねーけど。俺ら知り合いでもねーし、初見じゃん」
「大丈夫。ぼく、なんでかこういう時に殴られたことないんだ」
「……ああ、まあ、何となく分かる」
幸は小首を傾げる。
「どう見たって弱っちいもん。お前殴って勝ったって自慢にならねえ。それどころかお前みたいなんと喧嘩したら笑われそうっつーか。やるだけ損するっつーか」
「酷いよね、それ」
マジだよと打墨は笑った。張り詰めていた空気がなくなったのもあってか、少年特有の無邪気な顔をしている。
「イキってるやつはイキってるやつ狙うんだよ。お前じゃなくって、俺みてーなハンパなやつを」
「ね、さっきの人さ、あれって花粉症のせいかな」
「さっきの?」
「豚の顔した人」
打墨は豚面たちが去っていった方向をねめつけた。
「そうじゃなきゃびっくりだぜ。ちきしょうムカつくけどよ、マジでクッソつえーったらねーよ。蘇幌シメてんのあいつだしな。まー、他にヤンキーいねーんだけど」
「……花粉症なんだろ君も。力、使わないの?」
「や、違うけど」
幸は打墨の顔を改めて確かめる。人を見かけで判断してはいけないと母に言われていたが、それでも、いかにも問題を起こしていそうな、やんちゃそうな人間にしか見えなかった。
「あ。メフの人?」
「いや、引っ越してきた。半年前にな、東京から」
「ぼくも」
「マジで!?」
打墨は何故だか満面の笑みを浮かべて立ち上がり、幸をまじまじと見つめた。
「んだよ先に言えよー、同郷? ってやつじゃんかよー」
話す暇はなかったのだが、幸はお茶を濁しておいた。
「もう知ってっかもしれねーけど、俺ぁ
「目、つけられてるのはどうして?」
翔一は自分の髪を指した。
「目立っちまった。ちっと調子乗ってたしな。一時はあいつらともつるんでたんだよ。越してきて知り合いいなかったし、手っ取り早いかなーって。ま、したらあいつら思ったよりつまんなくてよ。イノーっつーのか? 力使って調子こくし、アカハギだかアカオギ組とかいうヤーさんもバックについてるみたいだしな」
合点がいった。翔一の事情は分かったが自分では何もしてやれそうにない。しかし、幸は何かしてやりたいとは思った。
「えーと、ヤチ、マタ? お前はなんで越してきたん?」
「ぼくは……」
言いよどんだ幸を見て、翔一はばつが悪そうにして頭をかいた。
「あー。そりゃ、普通そうだよな。わり。ん? つーか、お前こそさっき使えばよかったじゃんか! 力!」
幸は力を使うことを恐れていた。叶うならあれを忘れたかった。第一、使ったとしてしようがない場面というのもある。
「嫌なんだ。そういうの」
「喧嘩こえーか?」
「こえーよ。でも花粉症の力で喧嘩しても意味ないと思うし」
翔一は呻いた。
「お、おお、だよな、やっぱそうだよな。アレだな。さっき弱っちいとか言ったのわりい。メンタルつえーじゃんヤチマタ」
げはげは笑うと、翔一は幸の肩に手を回してきた。おまけにバンバン肩を叩いてきた。そうして益体もない話をしていると、翔一は殊更に大きな声を出した。
「っべー、俺ここまでだわ。ちっとスーパー寄らなきゃいけねえ」
「もしかして、スーパーってタダイチ?」
「おう、知ってんの? そろそろタイムセール始まっちまうからさ」
メフにはタダイチというスーパーがある。タダイチ以外のスーパーはない。幸もむつみに連れられて買い物に行ったことのある、拾五区にある店だ。
「もしかしてヤチマタも拾五区住み?」
「うん。打墨くんも?」
「お前もかよー! マジかー、つーか翔一でいいって。『打墨くん』とかくすぐってえし」
幸は翔一の見た目を良く思っていなかったが、彼よりも恐ろしい上級生の存在や、見た目のわりに人のいい気性のよさで最初の印象は薄れていた。幸は自分もスーパーについていくと告げた。翔一はおうと威勢のいい声を発した。
「俺、母子家庭でさー」
買い物の途中、翔一はそんなことを言った。幸はどう返していいものか分からなかったので何も言わないことにした。
「かあちゃ……オフクロはパートだからよ、こっち来て俺が買い物とか、家の掃除とかしてんだ。外じゃあ家の手伝いなんてしなかったんだけどな」
「偉いね」
「偉かねえって。こないだも掃除やりきって満足してたらよう、『翔、あんたテーブル拭き忘れてんじゃないよ。どこでメシ食うと思ってんだバカ息子は』ってケツにケリ入れられてよ。まあ、そんなうまくいかねえよ」
「あはは、仲いいんだね」
翔一は持っていた見切り品の野菜を買い物かごに入れると、表情を消した。
「そんなことねーよ。あの、さ。オフクロが花粉症にかかっちまったんだ。クソ親父はオフクロ一人でメフに行けなんて抜かしやがってよ。あげく見捨てるみてーにして離婚しやがった。正直、俺ぁオフクロに迷惑ばっかかけてた……今もかけてるけど。何回も学校に親呼ばれたりして、ろくに口も利かなかった。けど、なんつーか、オフクロ一人でわけわからねーとこ行かせんのはすげーヤだったからよ。無理矢理ついてきちまった」
「……ごめん。ぼく、最初翔一くんを見た時、怖いし、ちょっと嫌だなって思ってた」
「は?」
「ぼくのが嫌なやつだったよ」
「んなことねーって。そうやって謝ってくれてるし。つーか言うかー、そういうの? まあ、アレだって、俺はそーゆー風に思われることしてたし、慣れてるし」
幸は自分の浅ましさを嫌った。翔一の母親を羨ましいと、妬ましいとも思ったのである。
メフに住むのは扶桑熱患者だけではない。元からの住民もそうだが、希望さえあれば外部の人間も付き添いとしての居住が許可されている。幸は、ぼくにはどうして誰もついてきてくれないんだろうと思った。
「ヤチマタはおばさんと住んでんだっけ?」
「うん」皮肉屋でいじめたがりの、と、内心で付け足した。
「そっか。……なあ。あ。豆腐買うん忘れてたわ」
翔一は何か言おうとしていた。幸は聞こえなかった振りをした。
スーパーを出るとすっかり暗くなっていた。それじゃあと翔一と別れようとしたところで異音がそこここから発せられた。翔一はその音の正体を知っているようで、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「え、何これ。地震?」
「いや、ちげーよ知らねーのかよ」
幸も自分のスマートフォンを確認した。通知が来ている。その内容を見るより早く、サイレンが鳴った。それは宵の静けさを切り裂くように長く尾を引いた。
「とりあえず店ん中戻ろうぜ、外こえーよ」
「これって」
「バッカ、ケモノだって!」
翔一は幸の手を引っ掴んで足早に店内へ戻る。他の客も、店員でさえもスマートフォンを見つめていた。幸はスマートフォンを操作する。指が震えていた。『肆区周辺でケモノが出た』というようなことを淡々とした文面が伝えていた。
「やっべ、どうすっかな。オフクロはパートで、あー、やべーなー」
翔一はその場で足踏みしながら天井を仰いでいる。
「翔一君のおばさん、パート先にいるの?」
「お、ああ、そうだけど」
「何区?」
「ここ。拾五区」
なら下手に動かない方がいい。幸はそう言った。そうしてからむつみに電話をかけたが、彼女には繋がらなかった。
「ケモノ出ると電話繋がりにくいんだよ」
「ぼくは家に帰るよ」
「家、近いんか?」
「これ、収まったらまた通知来るのかな」
翔一はこくこくと頷いた。
「おばさん、心配だもんな」
少し違うが、そういうことにしておいた。別れ際、翔一は無理矢理に作ったであろう笑顔を見せた。
「けど大丈夫だって、ケモノとかさ、狩人の人らがどうにかしてくれっから!」
遅かったね。リビングで声をかけてきたむつみを見遣り、幸はリュックサックを下ろした。
「ひどいじゃないですか」
むつみは幸に視線を定めた。何を考えているのか分からない真っ黒な瞳は一切の揺らぎを見せなかった。
「何のこと?」
「ケモノとか、通知のこととか、教えてくれなかったじゃないですか」
「早く帰りなさいって言ったじゃない」
口調には幸を咎めるものが含まれている。言いつけを守らなかったのは事実だが、それとこれとは別だと幸は食い下がった。
「狩人ってなんですか。むつみさんの仕事もそうだって言ってましたよね」
「知りたい? まあ座りなよ」
むつみは、対面に座った幸を認めると口を開いた。
「狩人っていうのはね、ケモノを狩る人たちのことなの。専業にしてる人もいるし、副業にしてる人もいる。やってることは普通の猟師と同じだよ。食べるために殺すし、害獣だって依頼があれば殺す。もちろん、感謝の気持ちを持ってやってるよ。たいていの人はね」
「むつみさんも、本当に?」
むつみは、こともなげに首肯する。
「扶桑熱に罹った人の義務というか、税金みたいなものだよ」
「でも、警察や自衛隊の人だっているじゃないですか」
「あの人たちは危ない人を捕まえたり、見張るのが仕事。けだものは対象外」
「花粉症の人に危ない真似をさせるんですか!?」
「私に怒らないでよ。あのね、そういう風に決まってるんだから仕方ないの。嫌だからってルールを破ったら、それこそ本当のケモノになっちゃうと思わないかな。人間とケモノを分けてるのは言いつけを守るかどうかだよ」
幸はショックを受けていた。彼を見かねてか、むつみは少しだけ柔らかな笑みを作った。
「君の気持ちは分からないでもないけどね。でも、ここはそういう風にしてやってきた場所だから。狩人も悪いことばかりじゃないんだよ。役割とか仕事がある人ってまともでいられるんだと思うし。そういう仕事があるから助かってるって人もいる。狩人がいないとケモノはずっと人を襲うよ?」
「でも」
「それほど危なくもないんだよ。普通はグループで事に当たるし、意外かもしれないけど、メフじゃあそれほど人は死なないよ。人を傷つける力もあれば、人を治す力だってあるからね」
理屈では分かっていたが、それでもなぜか幸は嫌だった。彼がその理由に気づくのはもう少し先のことになる。
「私だってもうずっと狩人やってるけど、ほら、まだ生きてる。大きな怪我だってしたことは……なかったかな。うん」
幸はむつみにも異能が備わっていることを、たまに忘れてしまう。
「ぼくたち病人だってことでメフに来たのに、病気の人を矢面に立たせるようなのは気持ち悪いですよ」
「……何だか今日はいじめる気にはならないや。少年、虫の居所でも悪いのかい」
幸はハッとした。自分が喚いていた理由は義憤などではない。子供じみた八つ当たりだったのだ。
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