水の檻<2>
幸は生徒会長の長田に呼び出されていた。幸はいつもより早く登校し、人の目を盗んで生徒会室にやってきた。ドアをノックすると、入りたまえと言う声が聞こえた。
生徒会室には長田一人だけだった。彼は机上に細長いバッグを並べているところだった。
「おはよう。いい朝だな、八街君」
「はい。それで、これが例の?」
長田は恭しく頷く。ゆっくりとバッグを開いていくと中からは釣り竿が現れた。
「なんか、本格的なやつですね」
「凝っていた時期があってな。だが」
釣り竿は折れていた。長田はそれを指し示して溜め息を漏らす。
「今朝、久しぶりに引っ張りだしたらこの有様だ。兄貴か、弟か、それとも父が勝手に持ち出して壊したんだろう」
「使えるんですか?」
「修理すれば使えるとは思うが、俺ではちょっとな。とりあえず持って来たんだが、八街くんはどうだ?」
幸は釣りをしたことはあるが、修理までは無理だと言った。長田は済まなそうな顔をする。
「せっかく約束をしていたんだがな」
幸は以前から長田と釣りに行くことを約束していたのだが、生徒会でのあれこれや、学校でのいざこざのせいで先送りになっていた。こうして朝、二人でこそこそしているのも、釣りとは無縁なうるさい女子二人の目から逃れるためである。あの二人が傍にいればうるさくて魚が寄ってこないと思われた。そして今日を逃せばいつになるか分からない。幸はふと、とあることを思いついた。
「釣具店ってメフにはないんですか?」
「心当たりがないな。これも外から買ったものなんだ」
「じゃあ、ぼくに心当たりがあります」
「本当か?」
「放課後、拾区に行ってみましょう。もしかしたらなんですけど、こういうの直せるかも」
「おお、それはいい。じゃあ直して、その足で釣りしようぜ! あ……んん。まあ、少しテンションが上がってしまった」
長田は咳払いした。
放課後になり、幸は長田と折れた釣り竿を伴って斧磨鍛冶店に来ていた。長田は店構えを見て、風流だなとか意味の分からないことを呟いていた。
「こんにちはー、あのー、どなたかいらっしゃいませんかー」
店内には親方も鷹羽もいなかった。呼びかけても返事がない。しばらくの間待っていると、寝ぼけ眼の鷹羽がカウンターにやってきた。彼女は目を擦り、大きなあくびをしている。
「あぁ、いらっしゃーい。……あー、なんだ。お前か」
「あ、よかった。あのね、たかちゃん」
「たかちゃんって言うな。そんで何だ? まさかそっちのでっかい兄さんも狩人とか抜かすんじゃねえだろうな」
「いや、これを直せるかもしれないと伺ったのだが」
長田がバッグから釣り竿を取り出すと、鷹羽は目を細めた。
「お、結構いいやつ使ってんじゃん」
楽しそうに釣竿を触りたくると、鷹羽は、ははあと納得したように頷く。
「最近は鉈ばっかだったから、たまにゃあこういうのもいいよな。いいぜ、預かってやるよ」
「預かる? すぐには無理そうなのか」
「おお、色々いじくり回してやるよ」
鷹羽はひひひと笑う。実に楽しげだった。
「でも、ぼくたち今日釣りがしたいんだ」
「だったら釣り堀行きゃあいいじゃねえか。竿だって貸してくれんだろ」
「釣り堀?」
「おお、拾陸区にあんだろ。知らねえの?」
知らなかった。長田は目を丸くさせている。鷹羽は得意そうに釣り堀のある場所を教え始めた。
「拾陸区の端っこの方だよ。あそこらへんは川がちけえだろ? そこの水を引っ張ってきてんのよ」
「たかちゃんは行ったことあるんだね」
「あそこにはアタシの写真とか飾ってるからな。でけえの釣ると撮ってくれんだよ」
「おおー……会長、どうします?」
長田は大きく頷いた。
「行ってみよう。俺は今日、何かしらを釣らないと気が済まない」
「やる気満々ですね」
店内をぐるりと見回すと、長田は低く唸った。
「しかし、そうか。八街君もこういったものを使うのだな」
長田には鉈や斧が新鮮なものに映ったらしい。
「釣り竿の方がよっぽどいいよ。鉈なんざそいつにだって使える簡単で乱暴なもんだからな」
「そうなのか」
「おう。鉈はな、切るってよりぶっ叩くって感じで使うんだ。ケモノを狩るためにちょっと違う打ち方してんだけどさ、その辺が腕の見せ所ってやつでよ。難しいんだけど、まあなんだ、アタシくらいにもなると、こう、なんてーかさ?」
鷹羽はちらちらと幸を見ていた。彼は小首を傾げた。そして少しばかり鈍かった。
「たかちゃん、何でか怒ってましたね」
「褒めて欲しかったんじゃないのか?」
「ええ? そうなんですかね」
鷹羽に釣り竿を預けた二人は釣り堀へと向かっていた。彼女に言われた通り、川沿いをずっと歩いていると目的地らしき場所が見えてくる。幸も長田も自然と早足になっていた。
さして大きくはなさそうだが、幸の胸は期待感で高鳴った。だが、事務所めいた木造の建物に入るも誰の姿も見えない。彼は仕方なく壁に飾られている写真を眺めていた。そうしているとキャップを被ったツーテールの少女が肩を揉みながら池の方からやってきた。パーカーを羽織り、長靴を履いた少女である。
「んー、どうしたんだ?」
長田は、この気さくに話しかけてくる少女の対応に少しの間困っていたが、釣りに来たのだと告げた。
「あー、ごめんな。待たせちゃったか」
少女は受付らしきカウンターの奥へと回る。どうやらここのものらしかった。彼女は酢昆布を口に咥えて、料金などの説明を始めた。
「時間はどうする?」
「一時間で」と長田が言うと、少女は眉根を寄せた。
「それじゃあ釣れないかもな。お客さん、ここは初めて? だったら二時間にしといた方がいいぞ」
「それじゃあ、二時間で」
「あいよー」
少女は快活そうに笑み、竿や餌の用意をし始める。
「お姉さん、ここの人なんですか」
「おね……おお、私のことな。そうだぞ、ここの店長だ」
「ぼくと同い年くらいなのにすごいです」
「そうかあ? すごいかあ?」
言いつつ、少女の顔は綻んでいた。釣りの準備を終えると、彼女は池の方を指差す。
「ちっこい池は初心用な、金魚が釣れるぞ。おっきいのは手前の方から中級者、上級者、超上級者用になってるからな」
幸はレンタルの竿をと池を見比べた。
「中級者とか上級者の池って何が違うんですか?」
「魚だな。奥に行くほど食いつきが悪くて手応えがある、と、思う」
店長の少女は腕を組んで低く唸った。自分でもよく分かっていないようだった。
「中級者用とやらで試してみるか」
「そうしましょう」
「はいはーい、ちょっと濡れてたりするから足滑らしちゃだめだぞー。なんか分かんないことあったら遠慮しないで聞けよなー」
幸は頷き、歩きながらくすくすと微笑んだ。面倒見のいい店長の所作が気に入ったのだ。
長田は周囲を見回して息を吐く。自分たち以外に客の姿はなかった。適当な場所にひっくり返したビールケースを置き、そこに腰を落ち着けると、慣れた手つきで団子状の練り餌をつけていく。幸は彼がやっていることをじっと見ていた。
「竿が直ったら、今度は野釣りに行きたいところだな」
「川とか、池でやるんですか」
「うん。釣り堀も悪くないが、あれはあれで趣がある。風情というやつだな」
「おお、会長が言うと一味違いますね」
「何のことだ?」
二人で話していると、店長の少女がいつの間にか後ろに立っていて、何か落ち着かなそうにしていた。
「……? あの、どうかしました?」
見かねた幸が声をかけると、少女の表情がパッと明るくなる。
「餌つけられないんならつけてやろうか?」
「あ、それじゃあ教えてもらえると助かります」
「よし。えっとな、見てろよ。こういう風にしてな」
少女の手つきもまたこなれたものだった。長田も感心した風にその様子を横目で見ている。幸も一度見て何となくやり方を掴んだ。礼を言おうとしたところで事務所から声がかかった。背が高い少女が手を大きく振ってこちらに呼びかけている。
「だんちょーう! だんちょー! ちょっといいすかー!」
「団長じゃなーい! てん・ちょう! 店長だー!」
「あー! ごめんなさーい!」
「まったくもう」
少女が立ち去ったところで幸も釣りを始めた。糸を水面に垂らすと、神社にいる時と同じように心が落ち着くのを感じた。
「だんちょー! だんちょー! あっ、ちが、じゃなかった、てんちょー! てんちょおおおう!」
幸と長田は無言で釣り糸を垂らしていた。一時間経過して釣果はゼロである。別に店員がやかましいから釣れないというわけではないが、何だか責任の所在を求めたくなっちゃうお年頃だった。
長田は竿を立てかけて読書に興じていた。幸も彼に倣ってそうした。時折、思いついたことをしゃべり、相槌を打つ。ただ、気まずくはなかった。これはこれでありかもしれない。葛や藤がいては有り得ない時間だ。二人ともそう思っていた。
「あ、あのう。あのな? なんか、うるさくってごめんな」
店長の少女は屈み込んで手を合わせて謝った。
「いえ、お気になさらず」
ぺらりと本をめくり、長田はそれきり口を利かなくなった。店長は少し泣きそうだったので、幸が相手をした。
「どうして団長なんですか?」
「え?」
「あのおっきい人、店長さんのことを団長、団長って」
店長兼団長は渋面を作った。
「私たちは狩人なんだ。猟団って聞いたことあるか?」
「そういうことでしたか。店長さんで、団長さんなんですね」
「まあー、そうなんだけど。狩人としてはもうほとんど活動してないんだ」
どっこいしょと言って、少女は幸の隣に腰を下ろした。
「兼業狩人ってやつだな。メフじゃあ大抵の人が兼業で狩人をやってるから、珍しくはないんだけどな」
「ケモノを狩りに行かないんですか?」
「来たやつは狩るぞ。仕事だからな。でも自分たちから山とか、大空洞に行って狩ることはないかな。潜るやつばっかじゃないんだ。むしろケモノが街にいない時は普通にしてる人のが多いし」
猟団には自警団のような側面もあると古海は言っていた。幸はそのことを思い出していた。
「おかしな話だけどさ、狩人よりケモノの方が少ないんだからしようがないよな」
話を聞いていた長田が反応を見せる。
「確かにそうだ。ケモノは何も毎日襲ってくるわけじゃない」
「だから狩人にも縄張りみたいなものがあるんだよな。獲物の取り合いだ。うちみたいに小さい猟団は兼業をしなきゃやってけないよ」
「だが、ケモノはいなくならない。狩人は大勢いるのにな」
「会長?」
長田の反応はどこか冷めたものだった。
「……狩人になるやつはさ、最初に『ケモノを殺し過ぎるな』って言われるんだ」
「そうなんですか?」
「生態系が変わるとどうなるか分からないからな。ケモノはケモノ同士で食い合って数を勝手に減らすんだし、現状維持ってわけだ」
「どんなものでも、そうなるんだな」
「それに……ケモノがいなくなったら狩人が仕事に困るし」
どういう意味かは幸には分かった。正規の狩人は役所勤めだが、そうでないものも大勢いる。ケモノがいなくなれば
「ま、まあ? ちっこい猟団には関係ないんだけどな」
「今ーっ、団長のことをちっこいとか言ったな!」
「え?」
事務所の扉が荒々しい音を立てて開かれる。店員のでかい女が仁王立ちになって幸を指差していた。
「団長はなーっ、団長はすごかったんだぞ! いや、今も現在進行形ですごいんだ!」
店員の女は大股でずんずんと近寄ってくる。その度に釣り堀に似つかわしくないふりふりのスカートやらふわふわの髪やらそこに纏わりつくようにごてっとつけられたリボンやらクレーターじみた織星とは違う豊満な胸だとかが揺れた。長田は目を丸くさせた。
でかい。
先までは距離が遠くて分からなかったが、近寄ってきてもなお女は大きかった。長田は思わず立ち上がった。彼は自分よりも背の高い女に驚いていた。そして彼女が身に纏うロリィタな服装にも驚愕した。思わず『そのでかさでそれを着るのか』と言いそうになったが、生徒会長になってから培われた鋼の自制心によって『そのでかさで』まで出かかったところで言葉を飲み込めた。
「団長、言ってやってくださいよ!」
指差された店長兼団長の少女は狼狽えた。
「あ、あのな、こういうのは自分で言うとちょっと恥ずかしいというか、かっこ悪いというか」
「えっ! そうなんすか!?」
「そうなんだ! だからお前が」
「確かにそうっすね。じゃあ話すのやめときます」
背の高いロリィタファッションの女はくるりと背を向けた。
「ばかっ、そこでお前が言えばかっこついたんだよ!」
「えっ、じゃあ話せばいいんすか」
「ばかーっ、もう遅い!」
魚はまるで釣れなかった。
釣り堀からの帰り道、長田は何度もため息を漏らしていた。
「釣れませんでしたね」
「まあ、そういう日もある」
「また行きますか? サービス券もらっちゃいましたし」
「……考えておこう」
長田は指で眼鏡の位置をずり上げると、気を取り直したように頭を振る。
「少し寄っていくか」
「川にですか」
「ここまで来たついでだ。付き合ってくれるか?」
幸は頷き、長田の後についていく。彼は神妙な顔つきで川を見つめていた。川の流れに沿うかのように進み、橋の真ん中で立ち止まった。
幸はこの川を知らない。
メフという街には自分の残滓がこびりついていない。だが、長田にはあるのだろう。彼の横顔からは郷愁だとか、そういったものが窺い知れた。
「昔、この川で溺れかけたことがあった」
「会長がですか」
「ああ。兄貴たちと釣りに来てな。ここは水深こそ深くはないんだが、底がぬかるんでいて足を取られやすい場所があるんだ。すぐに引き上げられたんだが、いや、あの時は焦ったな」
そうは言うが、長田はどこか楽しげにしていた。幸も釣られて微笑み、二人して山の方を見た。じき陽が落ちる。巣へ帰ろうとする鳥の声や下校する中学生の笑声。それらを掻き消さんとするトラックのクラクションも遠くの世界の出来事に感じられた。幸は、自分が川底にいる魚や貝にでもなったような気分だった。
携帯の着信に気づいた長田が帰ろうかと告げた時、幸は、水草や藻の間に動くものを認めた。暗がりで判然としなかったが小さな魚ではない。人のようにも見えて、彼は焦ったように水面を指差した。長田は瞬きをして身を乗り出すようにして川を見下ろす。
「……俺には見えないが、放っておくのもな」
「下りますか」
二人は来た道を引き返して土手を下り、背の高い草を掻き分けながら岸へ近づいていく。注意深く周囲を見回すも、これといったものは見えなかった。
「何も見えないし、聞こえませんね。溺れてたらもがいたりして助けを呼ぶでしょうし、気のせいだったのかもしれません」
「俺の昔話のせいかな」
長田は困ったように頭のてっぺんを指で掻いた。そして目を見開いた。彼は、水草が騒めくようにして動き、水面の藻が蠢き、水が隆起したところを捉えたのだ。幸も長田の視線を追う。盛大な水音と飛沫を撒き散らすものを認めたのである。最初、二人はざんぶと浮かび上がってきたものをケモノかと思ったが、それは人の姿をしていた。人間であった。背が高く、髪の長い男だ。男が頭についた藻を体を振って弾き飛ばすと、きらきらとした光の粒子が周囲に舞った。
男は、薄手のジャケットもパンツがずぶ濡れなのも幸たちの視線も意に介さず、ゆっくりと、ともすれば堂々と歩いて岸に上がり、目にかかった前髪を指で弾く。幸は息を呑んだ。自分よりも年上の男は同性だろうと見惚れてしまうような顔の造作をしていた。ふと、男は幸を見る。冷たい目であった。
しかし、冷たい目で見ているのは幸たちも同様であった。男は顔こそいいが全身ずぶ濡れの黒ずくめで、先刻まで川に潜っていた人物である。六月になって蒸してきたとはいえ大の大人が涼を求めて水浴びをしたのなら頭の中身を疑われてもおかしくない行為である。気づけば、長田は幸を庇うようにして前へ出て、男へ話しかけていた。
「大丈夫ですか」
そこには主に『あなたの頭が』という意が含まれていた。男は最初、自分が話しかけられているのだと思っていなかったのか、そのまま歩き去ろうとしていたが、同じことを幸に問われて立ち止まった。彼はじっと少年二人を見つめると、ふっと息を吐き出す。
「……ああ」
放っておけ。男の目はそう言っていた。できることなら幸も長田もそうしたかった。やがて男は歩き去っていく。害はないらしかったので、二人はそのままにしておいた。
「驚きましたね」
幸が言うと、長田は大きく頷いた。
「魚でも捕ろうとしていたのかもな」
「釣り竿も何も持ってなかったと思いますけど」
「まあ、うん。そうだな」
長田は言ってみただけだった。しかし幸にも彼の気持ちは分かる。理解できないものを目にした時、人はそれを無視するか、自分の中で理屈をこねて納得するのがほとんどだと思っていたからだ。
思えば、幸はこの街に来てからそういった事柄と向き合ってきた。あの男もその中の一つなのだろうか。何となくもやもやとした気分のまま、家路についた。
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