Modorenai Live(戻らない日々-Ever Version-)<4>



 酷い目に遭った。幸は衣奈の一件を忘れようとして、マンションのエレベータの中で頭をぶんぶんと振った。帰宅すると三和土に見慣れぬ女物の靴が置いてあった。いつもなら開け放たれているリビングのドアも閉められている。むつみの客が来ているのだろうが、幸が引き取られてからは初めてだった。家に尋ねてくる人はいるのか。何となくつまらない思いを抱えて、しかし幸は気を遣ってそのまま自室に引っ込んだ。制服から動きやすい服に着替えている最中、荒々しい足音が聞こえてきた。次の瞬間、部屋の扉が開かれた。

「おっじゃまー、どもー、君がむつみの甥っ子の幸くーん? おっ、あれ?」

 扉を開けたのはむつみとは対照的な雰囲気を纏った妙齢の女である。カシュクールのワンピースを着こなし、派手で快活そうな、何となく親しみの持てる顔つきをしていた。幸はズボンを脱いでいる途中だった。

「何してるの」

 むつみがぬっと顔を覗かせる。彼女は幸の様子を見てふっと息を漏らした。

「これ、こないだ言ってた仕事仲間。後で紹介するから、着替えたらリビングにおいで」

 むつみは立ち去った。

「うわ、つまんねー反応。あっ、幸くんごめんね。またあとでね」

 ばたん。扉が閉められた。

 ぐすん。幸は涙ぐんだ。

「あ、さっきはホントごめんね」

 着替えた幸がリビングにやってくると、先の女が拝むように手を合わせた。女は古海うるみといい、むつみと同区に住む同僚らしかった。この人も狩人なのかと、幸は少しだけ緊張する。

 古海がこちらを見上げる。幸はどきりとした。気恥ずかしくなって俯くと、すらりと伸びた脚が目に飛び込んでくる。観念してむつみの隣に座ると、古海はにっこりと微笑んだ。彼女にはそこにいるだけで場が明るくなるような魅力があった。

「でも知らなかったなー、むつみに甥っ子がいたなんて。あ、あんたもこないだまで知らなかったんだっけ?」

「そう」

「幸くんは私のこと聞いてた? 聞いてなかった? あ、やっぱり。むつみさー、それくらい言っときなよ。そういうとこあるよね。少しは喋ったらいいのに」

「うん」

 古海がまくし立ててむつみが時折相槌を打つ。二人はいつもと同じように話しているらしかった。

「何しに来たの?」

 幸がお持たせのカヌレを勧められていたところで、むつみが古海を見据えた。

「んー、まあ幸くんもいるしちょうどいいか」

 古海は緩いパーマのかかった髪を弄びながら言った。

「ここだけの話にしといてね。骨抜きのことなんだけど」

「ああ、連続殺人の犯人のことですよね」

「そ。ただの連続殺人ってだけじゃあ、メフじゃあ珍しくないんだけどね。こんなに騒がれてるのはさ、ブッ……殺されてるのが判定トリアージ赤以上だってのに関係してんの」

 しかし、殺人だの殺人鬼だの、モデルのような外見の古海から聞くにはあまりにも色気のない話であった。

 判定赤といえば、むつみ曰く『危ない人』である。幸はどんな人間がそのように判定されるのかが気になった。

「あー、幸くんは分かんないよね? むつみ説明した? は? 何それ、そんなんじゃ説明にならないって。ええとね、赤色の花粉症持ちっていうのは……まあ、その、ヤバいの」

「ヤバい」

「やる側に回ってもやられる側なんかには回らないくらいの力を持ってるとか、頭イカれてるとか。ま、ままま、そんな感じの」

 むつみは鼻で笑っていた。

「で、なんだけど。骨抜きが黒判定受けたみたいよ。やり過ぎだし当然っちゃあ当然だけど」

「黒は『すごく危ない人』でしたよね。黒になるとどうなるんですか」

「ケモノと同じ扱いになる」

 幸は小首を傾げた。

「ざっくり言うと『人でなくなる』の。普通の警察や自衛隊じゃ止められない。つまり私らの出番になるかもってわけ」

「……狩人はケモノを殺すんでしょう?」

「だから、黒判定のやつは『ケモノ』になるの」

「それって、もしかして……」

「軽蔑した? 出て行きたいなら止めないよ」

 むつみは突き放すようなことを口にする。

「やめなよ、そういうこと言うの」

 古海がたしなめるのも聞かず、むつみは幸を真正面からとらえた。彼は目を逸らせなくなる。

「君の言いたいことは分かるよ。『殺したんですか』でしょ。答えはこう。『うん』。そういう時もあったよ」

「破滅的なやつだなあ」古海は仕方なそうに息を吐いた。

「幸くん。あー、あのね。まあ、その、えーと、なんていうかだよね。一応、狩人は公務員みたいな仕事だし、好き勝手にバシバシ殺してもいいってわけじゃなくってね。というか仕事だからやってるだけだし、まあ殺しても捕まらないし、私もむつみも無罪というか、幸くんが思ってるほど悪いことしてないし悪い人でもないんだし、アレ何の話してたっけ?」

 古海は一生懸命フォローしていた。その内容はともかく、幸は彼女の慌てぶりを見ていると心が落ち着いてくるのを感じた。狩人という言葉や、今までのむつみの態度からそういうこともあるのだろうとは予想していた。そしてたぶん、甘くて、間違っているのは自分なのだということも分かっていた。

「そんなこと言いませんよ。それに、古海さんがそれだけ言うって、周世さんが悪い人じゃないってことだと思いますし」

 古海は不思議そうな顔をしていた。

「どうしました?」

「あー、ううん。それならそれで安心したというか」

「お代わり入れるよ」

 むつみは自分と古海のカップに新しい紅茶を注いだ。

「ありがと。何の話だっけ? ああ、そうだ。骨抜きってのが黒になったから気をつけてねって話。警察も猟団も、たぶんヤーさんも追っかけてるけどどうなるかなあ」

「リョウダンってなんですか?」

「狩人のチームとか、グループとか、互助会とか、そんな感じかな。集まって協力してケモノをぶちころ……殺すの」

 言い直してもあまり変わらなかった。

「私とむつみは別の猟団だけどね」

 どうやら古海は骨抜きについての話をしに来たらしい。それが終わると後は雑談ばかりになった。

「あ、結構長居しちった。私帰るね」

「お菓子ごちそうさまでした。ぼく、ああいうの食べたの初めてで、おいしかったです」

「幸くん可愛いこと言うなあ。また来ていい?」

 むつみは眉根を寄せている。冗談だってと古海は笑う。

 帰りがけにも注意を促すと、古海はじゃあねと言ってドアノブに手をかけた。

「でもびっくりしました。古海さんって綺麗な人なのに狩人なんかもやるんですね」

 古海の肩がぴくりと反応した。彼女はゆっくりとドアを開いて外に出て、その隙間からじっと中を見た。

「むつみ」

「閉めて」

「また来るから」

「閉めて」

 むつみはドアを閉めて鍵をかけた。

「いい人でしたね。最後までお茶目で」

「強く否定はしないけど」

 意味深なことを言うと、むつみは腕を回した。珍しく疲れているようだった。



 またやくざか。

 こと切れた被害者から目線を外すと、狼森おいのもりは眼鏡の位置を指で押し上げた。目の前に広がる川の水面は夕暮れを照り返して綺羅やかな光を放っている。メフ東部を流域とする稲川いながわ。その支流の道明寺川どうみょうじがわは常なら静かだ。今は野次馬でごった返して騒がしいが。彼はKEEPOUTのテープの外側から殺害現場を眺めていた。狼森は警察の人間だ。普通のそれとは違うが、準ずる権利は与えられている。

「おう、花屋かい」

「随分な騒ぎじゃないの。祭りの夜店でも出てんのかと思うぜ」

 年配の刑事らしき男と言葉を交わすと、狼森は細い目を鋭いものにさせる。彼は細身だが妙な迫力を漂わせていた。

 花屋というのは《扶桑熱患者事件特別対策係》を指す。花というのは扶桑熱が花粉症とも呼ばれていることから由来している。狼森はそこに属する人間だ。《花屋》はメフで起こる特殊な犯罪の対処のために設立されたものだ。彼の知る限り、花屋の存在意義というのは警備部の『偉い人』が警察内部の扶桑熱患者に対するバッシングを緩和するためだ。彼らに仕事を与えて世に必要な存在であると喧伝しているのだ。しかし、そのようなことは狼森にとってはどうでもよかった。彼にとって大事なのは世間の声だとかメンツではない。狼森の信念は犯罪を憎み、それに手を染めるものを憎むことである。だからこそ花屋に回されてしまったのだが。

「そっちにもお鉢が回ってきたってわけか」

「まあな」

「やり過ぎんなよ。前みたいなのはごめんだぜ」

 年配の男はたしなめるような口調であった。

「罪を憎んで人を憎まずってかい。だがそりゃあ、普通の人に限った話だろ」

「……今日はいつもの相棒と一緒じゃねえんだな」

「よしてくれよ」

 狼森はおどけた風に言った。

「で、今回もまた骨ぇ抜かれてんのか」

「これで八人目ってわけだ」

 現場は殺気立っていた。最初に骨抜きの手にかかったのは赤萩組の構成員だった。それから四人続けて犠牲者が出た。殺されたのはみな赤萩組の人間で、判定赤以上の扶桑熱患者である。警察も赤萩組も他の暴力団の手によるものだと決めてかかっていた。事情が変わったのは六件目と七件目の事件後だ。殺されたのはやくざではなく、現職の警察官だった。その二人はかつて判定赤の扶桑熱患者であった。やくざとは違うが、やくざまがいのことをしていたのは身内ならだれもが知るほどの悪徳警官でもあった。

「やくざ、警官、今度ぁまたやくざか」

 警官殺しは厄介だった。身内がやられれば血相変えて血道を上げて犯人を挙げねばならなかった。

「ま、穏便に頼むわ」

 ぽんと肩をたたかれ、狼森は軽く肩をすくめた。

 犯人像はおおよそ絞り込めていた。しかし骨抜きを追うにはどうしてもあと一歩届かないというのが現状である。その理由として、骨抜きが判定赤を殺して回る異能の持ち主ということもあるが、もう一つ厄介なのは死体の方だった。被害者はたいてい、死後数時間経った状態で発見される。しかし失血量や血痕などから考えるに、発見場所と殺害場所が別であることがややこしさに拍車をかけていた。ある鑑識の人間は『まるで死体が独りでに歩いてきたようだ』とも言っていた。

「死体が歩く、ねえ」

 つまらない冗談だったが、この町にいるのは冗談じみたやつばかりなのを思い出し、狼森は現場を去った。



 幸が学校に着くと、正門の近くで翔一が待ち構えていた。彼は幸を見つけるなり駆け寄ってくる。

「まさかこっちに来て授業受けれんのがさ、こんな嬉しくなるとは思わなかったぜ」

「ああ、ってことは呼び出しナシ?」

 翔一は苦笑した。彼は安心しているようだが、幸は衣奈の来襲を警戒し続けていた。彼女は姿を見せなかったが、結局放課後になるまで幸は緊張しっ放しだった。

 幸が教室で帰り支度をしていると、にやにやとした表情の翔一が近づいてきた。

「センプラ行かねー?」

「せん……ああ、あそこか。危なくないの?」

 メフセンタープラザ通称センプラはアーケード街で、若者に人気のスポットである。というかメフで遊ぶ場所はここ以外にほとんどない。たとえ商品が外より遅れて入ってくるとしても選択肢はないのだ。

「へーきだって。俺も何度か行ってるし、内回りじゃねえし」

「じゃなくって、猿喰とかいう人たちがいそうじゃないか」

 翔一の顔が分かりやすく曇った。しかし後には引けないのか『大丈夫だって』としか言わないようになる。

「何? センプラ行くん?」

 話を聞きつけた深咲が口を挟んできた。学校帰りにどこかへ寄ることを咎めるつもりはないらしかった。

「おー、委員長も行かねー?」

「んー、私はいいかな。ちょっと用事あるし。あっ、遊んでもいいけどあんまり遅くなったら駄目だからね」

「なんか委員長っぽいこと言ってんなー、委員長」

「委員長だもん。そいじゃねー」

 深咲は手を振り振り去っていく。脂下がった面のまま、翔一は手を振り返していた。

「あー、フラれちまったな」

「水原さんって誰かと付き合ってるんでしょ」

「俺のカンは当たるからな」

 センプラは拾肆区と拾五区の狭間にある。家からも近いので帰りは遅くならないだろう。むつみに嫌味を言われるまでに帰宅すればいいだけだと幸は決めた。

 翔一の目当てはゲームセンターだった。新作のビデオゲームが楽しみで仕方ないのか、店に入るなり早足で一階のクレーンゲームコーナーを素通りし、階段を軽やかに駆け上がっていく。お目当てのゲームは二階にあったが、台は学生たちによって占拠されていた。幸の見覚えのない制服を着た少年たちであった。

「くっそ、タマ高のやつらじゃねーか。先越されちまったな」

「どうするの?」

「あいつらよく見かけんだけどさ、結構上手いんだよな」

 幸はゲーム画面を見るが、キャラクターの動きが早過ぎて何が起こっているのか全くと言っていいほど分からなかった。

「違うので時間潰す?」

「そうすっか。あ、俺ちっとトイレ」

 やることがないので幸も翔一にくっついていくことにする。トイレは二階の奥まったところにあるらしく、翔一は客とゲーム機を掻き分けるようにしながら通路を進んでいく。が、翔一が突然立ち止まった。幸は止まり切れずに彼の背中に顔をぶつけた。鼻を摩る幸に短く謝ると、翔一はフロアの隅を指差した。黄色いパーカーを着た少女が、タマ高の男子生徒数名に囲まれている。

「なんか妙じゃね?」

 少女は何事かをまくし立てており、タマ高の生徒も彼女に対して怒鳴っているようだった。ゲームセンター内の騒音のせいで幸たちには話の内容までは聞こえてこない。他の客は見て見ぬふりをしているらしかった。翔一は『結構可愛くね? チビだけど』と独り言ちている。幸は少女の方へ歩き出した。

「お、おいヤチマタ?」

「ぼくらでだめなら店員さんを呼ぼうよ」

「正義感あんのな、お前……」

 そんな御大層なものではなかったが、幸は特に訂正しなかった。タマ高の生徒が幸と翔一に気づく。彼らは二人を認めると、何事かを叫んだ。翔一は咄嗟にファイティングポーズを取った。

「や、やんのか!」

「助かった!」

「あと頼むわ!」

「やべー、やべー」

「え? お、おおっ? どういうことになってんだ!?」

 翔一は叫ぶが、先まで少女を取り囲んでいた学生たちは蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去ってしまった。訳が分からずその場に立ち尽くす幸だったが、ぐいぐいと余り気味の袖を引っ張られた。パーカーの少女がこちらを見上げていた。確かに。幸は内心で翔一の『可愛くね』という言葉に同意する。体型こそ『チビ』だったが人形のように整っている造作だった。被っているフードから覗く髪は蜂蜜色に光っていて、ハーフかもしれないと幸は思った。

「かーちゃんを捜してんだけどさ! 人が多いよな! 人が多いってすげーことだと思う!」

 少女は幸の耳に顔を近づけて、ほとんど怒鳴るようにして声を発した。よく通る声でありていに言えばうるさかった。幸が何か言いかける前に少女は続けた。

「空はなんで青いんだろうって不思議に思ってじーちゃんに聞いたんだ! そしたら『本当は青いわけじゃない。青い色だけがおれたちの目に映ってるんだ』って! 意味分かんねーし! だったら海が青いのはなんでだよ! 青いっつったらオレの目もちょっと青いんだ! 見てみ! な!?」

 至近距離に少女の顔があった。彼女はにっと笑った。ぎざぎざの乱杭歯だった。幸は驚くが彼女は次の瞬間にはしごく真面目そうに見返してくる。

「オレの目はなんで青いんだってじーちゃんに聞いたんだ! そしたら『お前の父ちゃんがキンパツをこましたからだ』ってさ! そん時になって気づいたんだ! オレのかーちゃんはキンパツだったんだって!」

 幸は翔一を見た。助けを求めた。

「……何? 何だこの子」

「分からない。どうしよう」

「おいって!」

 少女は幸の腕をぐいぐいと引っ張ってくる。そうして満面の笑みで声を荒らげた。

「話聞けってぶちのめすぞ! 人の話は目ぇ見て聞けってじーちゃんに言われなかったのかよ! あっ、悪い。お前、じーちゃんがいなかったんだっけか。ごめんな、悲辛かなつらいこと思い出させて。わりーと思ったからオレをぶちのめしていいぞ! マウント取って顔面ボコボコにしてくれ! しなきゃオレがお前をぶち転がすぞ! 人の頼みを聞かないやつはあんましいい人じゃねえってじーちゃんに言われたからな! あっ、悪い。お前、じーちゃんがいなかったんだっけか」

 笑いながら凄まれていた。怖い。そりゃあさっきの人たちも逃げ出すよな。幸も逃れようとしていたが、少女はどこまでも追いかけてきそうな気もした。

「鼓膜破けそう」

「そういやなんかかーちゃんがどうとか言ってなかったか、このちっこいの」

「お母さん捜してるの? 迷子?」

 幸は気丈だった。頑張って少女に微笑みかける。彼女の表情が見る見るうちに怒りの色に染まっていく。

「なんで知ってんだ!? お前すげーなエスパーじゃねえか! ちょっと走り幅跳びしてくれよ!」

「いや自分で言ってたじゃないか」

 この噛み合わなさはどうだろう。少女の言動と表情は一致していないし、そもそも脈絡がなさ過ぎて何を言っているのかも判然としない。

「でもさでもさ! 迷子はお前だろ!? お前もかーちゃん捜してんだよな!?」

「……え」

 幸の体が、心臓が強張った。

「もしかしてお前がオレの探してるかーちゃん……!? でもキンパツじゃなくね? あれ? オレのかーちゃんってキンパツだったよな? お前ニセモンだろ!?」

「もうやだ!」

 少女は幸を押し倒さんばかりに詰め寄ってくる。だが、ふと彼女の動きが止まった。

「な、なに?」

 パーカーのポケットに手を突っ込むと、少女はそこから様々なものを取り出した。しかし目当てのものではないのか、苛立たしい様子で辺りに投げ捨てていく。幸はそれを律義に拾った。翔一はもはや耐えられなかったのかげらげらと笑っていた。

「あった」

 少女が探していたのはスマートフォンだった。彼女はそれを大仰な動作で操作してくるりと回り、ぴたりと止まった。

「はい、どちらさまですか」

「電話だと普通になるんだな」

「ああ、どうもお世話になってます。今は、ゲーセンです。ええ、センタープラザの。はい。はい? いや、いえ、そんなことは。はい。誰にも迷惑なんてかけていません」

 少女は嘘つきだった。

「はい。ではまた後ほど。え? あ、電波が悪いみたいで」

 話がややこしくなりそうだったのか、少女は通話を終了した。そうして、幸の両手から投げ捨てていたものを受け取った。少女は幸を見上げる。泣きそうな顔になっていた。

「キスしていいぞ」

「いや、いらない」

「じゃあハグしてやんよ! ありがとうかーちゃんじゃないにーちゃん! ここで会ったが百年目だな!」

「ひっ!? い、痛い痛い! もうやだああ!」

 鯖折りを仕掛けた少女は満足したのか、くるくると回りながら幸たちに背を向けた。途中で人にぶつかったりもしていたが、彼女の奇矯を見ていたものたちは何も言えなかった。

 幸は壁に手をつき、ううううと呻いた。

「なんかおごるわ」

「うん。うん」

 酷い目に遭った。いや、ここ最近ずっと酷い目に遭ってばかりだ。幸は嘆いた。しかし、今日までのことなど、これから先起こることに比べれば何でもない普通の日常だった。そのことに幸が気づくのは、全て終わってからのことであった。

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