幸、ピザを食べたくなる



 幸は品出しに没頭していた。黙々と商品を補充し、綺麗に整えて陳列する。彼はこういった作業が苦ではなかった。いかるが堂でのアルバイトにも慣れてきたような気がしていた。

 バックヤードに戻ろうとした時、幸は藤に声をかけられた。

「休憩もらっちゃっていいわよ。もうお昼だし、今日は朝から入ってるでしょ」

「もう少しだけやっていこうかなって」

「駄目よ。休める時に休んどかないと。一分先が地獄のように忙しくなるかもしれないもの。私も休憩だし、何か買って裏で食べましょう」

「じゃあ、うん。そうしようかな」

 よろしい。藤はそう言うと、幸を伴ってバックヤードに入った。二人は着替えてから買い物を済ませると、ロッカールームに連なる休憩室でほっと息を吐く。

 幸はクリームパンの封を開けてかぶりつこうとした。

「八街くん、菓子パンばっかり。甘いの好きなの? 将来太るわよ」

「別にいいよ。ちょっとくらい大きくなった方がいいから」

「大きくなるんじゃなくて太るのよ」

 幸は藤の食べているものを眺めた。自分よりもかなり食べているようにしか見えなかった。彼女はその視線に気づいたのか、ふっと真面目ぶった顔を作った。

「私たち育ち盛りだもの」

「疲れてるし」

「そうそう。そうなのよまったくもう」

 こうしていると藤は付き合いやすい人物である。しかし葛が絡むと途端面倒臭くなるのだった。

「鵤さんは自分の名前が好きじゃないんだね」

「え」

 藤は固まった。摘まんでいた唐揚げが箸から落ちそうになり、彼女はそれを慌ててキャッチした。

「ちょっと。どうして名前のことなんか持ち出してくるのよ。あの時のことは謝ったじゃない。まだ甚振り足りないって言うの?」

「ぼくも自分の名前が好きじゃないというか、変な感じになるから。ぼくたちって似てるよね」

「八街くんもそうなの? でも、幸っていい名前じゃない」

「カウントアウトウイニングキャンディもいい名前だと思うよ」

「それもしかして私の名前のこと? 違うわよ、キャンディしか合ってな……言わせないでよ」

「違ったっけ?」

 幸はあんパンに手を伸ばした。

「ふ。長いものね」

「葛ちゃんはちゃんと覚えてたね」

 藤は弁当を食べ終えると、虚空を掴むようにして箸を弄ぶ。その表情からは尖ったものがなくなっていた。

「名前のことを言われるとね、恥ずかしくなって、どうにもならなくなって固まっちゃうの。もっと子供の時はそれでからかわれてたから、今でも思い出しちゃうのね。でも、いい名前じゃんって、最初に褒めるみたいに言ってくれたのは葛なのよ。それでたぶん、間違えずに言えるのも今はあいつくらい」

「鵤さんのことはね、葛ちゃんが教えてくれたんだ」

「私をどっかで陥れようとしてたんでしょ」

「違うと思う」

 藤は手を止めて、箸を置いた。

「止めて欲しかったんじゃないかな。鵤さんと喧嘩みたいになった時、自分じゃ無理だって思って」

「あいつが? そんなこと考えるようなやつかしら」

 葛は案外友達想いだ。幸は、それを言うのは止めた。藤は自分よりも彼女と長く付き合ってきた。今更口にしなくたっていいだろう。彼はそう思い直したのだった。

「ま、ちょっとくらいは自分のことを好きにならないとね。これから」

「ぼくもそうなるといいな」

「じゃあ私の名前を間違わずに言えるようになりなさい。そしたら私が八街くんのことを好きになってあげるから。感謝しなさいよね」

「え?」

 幸は目を丸くさせた。

「何よ? 何か変なこと言ったかしら。……あ、言ったかもしんない。あのう? ちょっとまあ、ニュアンスが、ね? あ。それよりアレよ。午後からも頑張ってよね」

 わざとらしく話題をすり替える藤だった。しかし幸も彼女に乗っておいた。

「李さん、いきなり辞めちゃうんだもんなあ」

 藤は遠い目をしていた。

「うちのエースだったのに。寂しいなあ。八街くんは寂しい?」

「ううん。だってそんな親しくなかったし」

「ええ? 意外とクールね」

 幸は寂しかった。李の指導は少し厳しかったし、彼女の声も視線も冷たくって怖くもあった。何より蝶子を狙い、やくざと組んで自分たちを襲った。だが、優しいところも覚えている。何も言えないままいなくなられて妙な感傷だけが残っていた。

 新しく始まるものがあれば、終わってしまうものもある。もう二度と会えない人や、できないこと。せめて少しでも悔いのない人生を送れるように。幸はこっそりと決意するのだった。



 むつみは小言を言った。皮肉も言った。意地悪も言った。しかし幸は言い返さなかった。いや、言い返せなかったのだ。

「君は病院が好きなんだね。もう二度目だよ。お医者様もびっくりしてたじゃない」

 病院から帰ってくるなりリビングの定位置に座ると、むつみは幸にじっとりとした目を向ける。彼は小さな声で謝った。

「そんなんじゃあ狩人になるのはかなり先の話になりそうだね」

「何か、楽しそうですね」

「んー? それより特にどこが痛むの? マッサージしてあげるよ」

「安静にって先生が言ってたじゃないですか。触らないでください」

 幸はむつみから少しでも離れた椅子に座り、背中を摩った。

「背中が酷いみたいだね」

 むつみは立ち上がって幸ににじり寄る。

「階段で転んだんだっけ? 二度も転ぶかね普通。どんだけどんくさいの。いいかい。あの大空洞の中で転んだら下まで真っ逆さまだよ。死ぬよ」

「はい……」としか言えなかった。

 むつみはいつになくご機嫌斜めであった。その理由は病院の待合室で数時間も待たされたのに起因している。メフで評判の医師がいるせいか常にそうなのだ。おかげで陽は暮れ、彼女は夕食を作る気力すら失っている。

「私は病院が好きじゃないの。君と違ってさ。あそこに行くと嫌になるの。生きてる人が死んだような顔してさ、死ぬ前から死んでるみたいでこっちの気まで滅入ってきて」

 陰鬱とした空気になってきて、幸の表情が暗くなってくる。

「痛い?」

「そりゃあ、はい。痛いです」

「湿布でも貼ってあげようか」

「それじゃあ、あの、お風呂の後で」

 背中は果たして本当に良くなるのだろうか。幸は深く考えないことにした。

 むつみは椅子に戻り、机に顔を埋めるようにした。彼女のワカメじみた髪の毛が机の上に広がった。

「今日さー、手抜きしていい? 出前でも頼もうよ。買い物に行くのも面倒くさいし、ありもので用意するのも疲れるし」

「出前ですか?」

「嫌?」

「全然。何にしますか?」

 幸は楽しげだった。

「うちは母さんがそういうの嫌がってたんです。外で食べるのとかもなくって」

「じゃあ君の食べたいものにしなよ」

 散々迷っていたがピザを頼むことにした。むつみが電話で注文すると、幸はパーティみたいですねと笑った。

「さち君」

 見透かすような声だった。むつみは幸を指差した。

「あの子のこと、まだ気にしてる?」

 幸の顔が歪んだ。彼はそれを隠すようにして頬杖を突く。それでも、どうしても水原深咲のことが頭を過ぎって、離れなくなる。

「君が無茶して頑張るのはこれで二度目だね。それも君は自分のためじゃない。たぶん、誰かのために頑張れる人なんだろうね。でもそれってちょっと怖いよ」

「怖いですか」

「……君は人を助けられるかもしれないけど、助けた人に殺されるような気がするよ」

 それでもいい。

 幸はそう思った。それに、むつみには言っていないが、あの時、確かに声は聞こえたのだ。

「あまり気に病むなよ少年。人は生きてる限り他人に迷惑をかけ続けるよ。顔も知らないどこかの誰かにだってね。人はきっと人を殺してる。今も。私も。自分の意志があろうとなかろうと、関係あろうとなかろうと。蝶々が飛んだらどこかで嵐が吹くみたいなものなんだよ、きっと」



 しばらくするとチャイムが鳴った。むつみは、思ってたより早いんだねと言って財布を幸に渡した。立ち上がるのが億劫らしい。

「出てきますね」

「うん。よろしく」

 むつみはぐてーっとした様子で机に突っ伏す。

 幸は財布を手に玄関へ向かった。ドアを開けるとピザ屋の制服を着た女が立っていた。彼の視界がきゅっと狭まる。女はにっこりとした笑みを浮かべたが、我慢できなくなったのか目を伏せた。

「……おいくらですか」

 ピザ屋の女は――――李だとか、バオだとか呼ばれていた女は、幸をじっと見つめて、料金を告げた。

「細かいの出しますから、ちょっと待ってください」

「はい」

「あの……」

「新しいアルバイトを始めたの」

 幸は顔を上げた。

「前の仕事は……今までやってたことは辞めたから、あなたにも、あなたのお友達にも二度と会わないと思ってた。学校でのことは、ごめんなさい」

「ぼくは会えてよかったと思ってるのかもしれません。あの時、ぼくらを力ずくでやってもよかったのにあなたはそうしなかった。たぶん、ぼくはありがとうって言いたかったんです」

「どうして? 私は……」

「品出し、ちょっと早くなりました。鵤さんにも褒められたんです。あなたのおかげなんです。だから、ありがとう」

 女は、幸から料金を受け取った。彼女は手を離すことがなかなかできなかった。

「そういうこと言うと、みんなに怒られるかもしれませんけど」

雪螢シュエイン

 女は自らを指差した。幸は、それが彼女の本当の名前なのだと気づいた。

「あなたには借りができた。必ず返す。……あの時、あなたも学校の教師から私を庇ってくれた。だから逃げられたし、こうやって生きてる」

「じゃあまた会えますね」

「何かあったら飛んでいく」

 幸は温かい商品を受け取る。雪螢は愛想笑いを浮かべると、彼の持っている商品の上にペットボトルのお茶を二本置いた。

「冷めない内にね。値段の割に美味しいから」

「楽しみです」

 雪螢は去った。しかしまた会えることは分かっていたから、幸はもう寂しくなかった。

 蝶々が飛んだら――――むつみは言った。蝶にそのつもりがなくとも羽ばたきによって嵐が起こるかもしれない。しかし誰が蝶を責められようか。ぼくたちはただ、幾ばくの期待と不安を胸に抱き、この町を訪れただけなのだ。幸は自分の腹が鳴ってむつみに呼ばれるまで、そのようなことをぼんやりと考えていた。

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