一水四見<2>



 翌日、幸は昼になる前に学校に来ていた。休校中だが門は開いている。中にはもう生徒会や葛がいるらしかった。

 正門の近くでは幸を待ち構えていたであろう蝶子の姿があった。

「おはよう、もうカツラはかぶらないんだね」

「カツラゆうな」

「昨日の今日だけどさ、どうにかなりそう?」

「おう、まあどうとでもなるわ。……今日くらいのもんやな」

 幸と蝶子は校舎に向かい、連れ立って歩き出した。

「何が?」

「自分の生まれに感謝すんのがや。あんたの役に立てるかもしれんからな」

 蝶子はどこか誇らしげにしていた。



 生徒会室の前には葛がいた。中に入らないのかと幸が訊くと、藤がいるから嫌なのだと彼女はぶっきら棒に言った。

「つーかそいつ誰?」

 葛は蝶子に視線を遣った。

「知らないの? 転校生の猪口さんだよ」

「あんまし興味ないんだよね、女には」

 蝶子は物静かだった。しかし幸は割れる寸前の風船を見ているような気分になっていた。

 生徒会室の前で話していると、階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。それからすぐに長田が姿を見せる。彼は鞄からファイルを取り出し、それを幸に向けて掲げた。

「遅くなった、すまない。鵤君は?」

「中だよ。ふんぞり返ってやがる」

「いつも通りだな。それでは始めようか」

 葛は眉根を寄せる。彼女を無視するようにして長田が生徒会室の扉を開けた。

「おはよう! いい日になりそうだ」

 椅子に座ってクッキーをぽりぱり齧っていた藤は、不思議そうに幸たちを見ている。

「その赤い子誰? あと、会長? 今日はどうして集められたのかしら?」

 藤の疑問に葛も同意しかけていた。

「説明する」

 長田は持っていたファイルを鵤に渡すと、慣れた手つきでお茶の用意を始めた。

「これ、何?」

 幸たちは適当な椅子に座っていく。藤はファイルの中身をぱらぱらと確認していた。

「署名だ」

「何の?」

「理事会についてのものだ」

 藤は白い目で長田を見ていた。彼はその視線を気にしないでそれぞれに菓子の乗った盆を配る。

「その署名がどうしたって言うのよ。今更そんなの出したところで……あら?」

「ンだよ?」

 葛がだるそうに動き、藤の持っているファイルを後ろから覗き込んだ。

「文面が変わってるじゃない」

 ファイルから署名のプリントを一枚抜き出すと、藤はそれを葛に渡した。

「……『第二回、理事会についての』……? 二回?」

「一回目も終わってないのに、というか、書いてること、これ!」

 藤はファイルを机の上へ叩きつけるようにして置く。幸はその音に驚いた。

「あの、会長。ぼくにも何のことだか分からないんですけど」

「新たに署名を募った。遅れたのはその作業に手間取っていたからだ。鵤君が怒るのも無理はないかもな。新しい署名には『二人で仲良くするように』と書いてある」

「二人で」

 幸にもそのプリントが回ってくる。文面をさらりと読んでみると、『現理事会に任せるのは不安が残る。しかし、今まで学校運営を経験していない新理事会にも不安が残る。だったら現理事会の半分を入れ替えてやってみてはどうか。皆はどう思う』といったようなことが書かれているのが分かった。

「そんなの私は聞いてない!」

「言ってなかったからな。しかし大多数の生徒は賛同してくれたぞ。いや、こないだ頑張った甲斐があったな。『会長の頼みなら』と快く引き受けてくれたよ」

 長田を指差すと、藤は立ち上がって不正だと叫んだ。

「いや、不正はしていない。俺は別に、俺の都合の良いように署名してくれと頼んだわけじゃない。イエスかノーか、どちらかに署名して欲しいと言っただけだ。選んだのは生徒一人一人の意志だよ」

「どっちにしたって無効よ!」

「つーか、何? あんたらタダイチもいかるが堂も気に食わないワケ?」

「そうじゃないよ」

 幸はお腹に力を込めて声を発した。

「そもそも二人の喧嘩にしないでよ。タダイチとか、いかるが堂とか、家は関係ないじゃないか。ここはぼくらの学校なんだから」

「ああ、その通りだ」

「……会長。八街くんに絆されたのね」

 藤は低い声で、呪うように言う。葛もまた怒りの念を押し広げている様子だったが、必要以上には口を開かなかった。この二人もまた私怨によって動くことに罪悪感を抱いているのかもしれなかった。しかし振り上げた拳をただ下ろすのでは決まりが悪い。やがて二人は事前に打ち合わせでもしていたかのように言い争いを始めた。幸が仲裁に入ったが口論はヒートアップするばかりである。

「仲がいいのか悪いのか訳の分からないことしないでよ」

「ちょっと黙ってなさい」

「ウゼーんだよ横からごちゃごちゃとよ」

 幸は嫐られた。それを許さないものがいた。先からひと言も口を利いていなかった蝶子である。彼女は適当な椅子を蹴っ飛ばすと、やたら大仰に脚を組み替えてから二人の女をねめつけた。

「さっきから聞いてりゃ要らんことごちゃごちゃ抜かしよって。自分らな、やくざもんが学校に押し寄せてきた時何しとってん。そいつや会長さんみたいに矢面立って体張ったんか? ホンマに学校のこと思って動いとんのはあんたらとちゃうやろ。それを何か、親の威光笠に着くさって威張り散らしやがって。恥ずかしくないんかい。あ?」

 やくざもんとやらが襲ってきたのは今まさにドスを利かせて喋っている蝶子を狙ってのことだったが、彼女自身はそのことについて一切触れようとしなかった。

 怒りの矛先は幸から蝶子へと移り変わった。彼は蝶子がこの場を収めてくれるのかと期待していたが、彼女の気性は荒かった。売り言葉に買い言葉というやつで聞くに堪えない口喧嘩が加速した。

 幸は諦めた。長田は少し前から諦めていた。二人は部屋の隅で立ったまま紅茶を飲んだ。

「姦しいとはこのことだな」

「猪口さんは何しにここへ来たんでしょうか」

「聞いていないのか? 君の助けになりたいようだったが」

 火に油を注ぎに来たようにしか見えなかった。しかし三人ともよく回る舌である。ここまで来れば幸も感心するほかなかった。

「鵤君は、衣奈君と会うのは久しぶりだと言っていた。ああいうのもコミュニケーションの一つなのかもな」

 幸はふと、葛が言っていたことを思い出した。

「『キャンディちゃん』って何のことだか知ってます?」

「何? キャンディ? いや、何のことだ?」

「ぼくにもさっぱり」

 長田は不思議そうにしていたが、耳ざといものがいた。藤である。彼女は教科書の角っこで葛を殴ろうとしていたが、真っ赤になった顔を、油の切れた機械みたいにぎこちなく動かした。

「…………え?」

 藤は腕をゆっくりと下ろしていく。怒りではなく羞恥によって染まった顔に、彼女はまだ気づいていないようだった。

「キャンディちゃんだ」

 長田は真面目そうな声で答えた。彼は何かを察していた。期待すらしていた。

「え?」

「だからキャンディちゃんだよ」

「いひ……ふ。ひっ、は、ぎゃはははははははは!?」

 下品な笑い声が葛から噴出した。

「今、ねー今の聞いたー? あははははっ、すげーウケんだけどー? え? 何ー? 八街さっき何つったのー?」

「キャンディちゃん」

「だよねー!? だよねキャンディって言ったよねー?」

「なんやこいつ」

 蝶子は葛の豹変ぶりに引いていた。

「いやー、久しぶりに聞いたなー。まーさ、あーしが仕込んでたんだけどさ」

 葛は、固まって動かなくなった藤の肩をばんばんと叩く。

「え? ……え?」

「キャンディちゃんさー、そんな怯えなくてよくない? ね?」

 幸たちには何が起こっているのか、キャンディとは何なのかさっぱり分かっていなかった。しかし鵤藤のウィークポイントを突くようなものなのは確かである。

「な、なんで? なんで?」

 藤はあたふたとしていた。

「衣奈君。そろそろ説明して欲しいんだが」

「あー、キャンディちゃんってのはこいつのことだよ? こいつの名前。知らないの?」

 葛はもったいぶって間を取って、死ぬほど意地悪い顔になった。

「や、やめて、やめて」

「うるせー、キャンディ。こいつホントは鵤・ノックアウトスイートアイキャンディ・藤っていうの。長くね?」

「ノックアウト……何? もっぺん言って葛ちゃん」

「ノックアウトスイートアイキャンディ。ミドルネームっていうの? 何かそんな感じ? ふふ、長いよね?」

「ひゃーっ!?」

 鵤・ノックアウトスイートアイキャンディ・藤は耳を塞いで目を瞑って屈み込む。

 確かに長いし妙な名前ではあるが、そこまで気にしていたのか。幸は藤をただただ不憫だと思った。

「もうその辺にしとこうよ」

「言ったのオマエじゃん」

「そ、そうだけど。でもさ」

「あー、もういいよ、もういい。めっちゃ笑ったし。話だっけ? 何だっけ? 理事会を半分半分でやるの? それでいいんじゃない? つーかよくね?」

 葛は携帯を弄り出す。投げ遣りな態度だった。

「っちゃけー、はじめっからこいつがイキってたのがうざかっただけだし?」

「葛ちゃん」

「なん?」

「本気で言ってるの?」

 短い付き合いではあるが、さすがの葛も幸が怒っているのが分かったらしい。

「あー。……まあ、落としどころ探してたのはマジだったりするんだよね。だからその、なんつーの?」

「……葛ちゃん」

「ごめん。結構助かった」

 葛は深く頭を下げた。

 それから、藤が落ち着くまである程度の時間を要した。彼女も葛も冷静になれば長田の提案を受け入れる度量はあったらしく、というか最初から受け入れる節があった。

 だが、葛も藤も一つだけ納得いかないことがあった。それは蝶子の存在である。

「で、こいつ何なん?」

「ていうか完全に部外者じゃない。口悪いし関西弁だし」

 蝶子は泰然としていた。

「話がまとまりそうやから口出しせんかっただけや。まとまらんで揉めとるようなら、うちが割って入るつもりやった」

 蝶子は制服のポケットから名刺を取り出した。『猪口興業』とあり、彼女の肩書きは相談役となっていた。葛はそれを見て鼻で笑った。

「聞いたことないんだけど。ショボいとこでしょどうせ」

「昨日できたばっかやからな」

「はあ? 舐めないでよね。そんなんでうちやタダイチに割って入るつもりだったの?」

「スーパーやドラッグストアは色んなもんを売っとるなあ」

 蝶子は椅子に深く座り直した。

「その商品がどっから来るか知っとるか? メフも広いようで狭い。工場の数もそんな多くない。大抵のもんはメフの外から入ってくるってことや」

「それがどうしたのよ」

「外の工場で商品を作って、そいつをトラックで運んでくる。検問を潜ってな」

「だから何?」

「猪口興業の主なサービスは輸送や。大事な商品を運ぶのが仕事なわけやな」

 藤はハッとした。

「メフにものを入れとるんは猪口興業、うちの会社や。せやからあんたらがごちゃ抜かすんなら、タダイチといかるが堂には商品が届かんようになるかもしれん、って言おうとしてただけや」

「お、脅しじゃない」

「何言うてんの、何も脅かしてないやん。かもしれんってだけやで」

「昨日できたばっかりって言わなかった?」

「そこらの配送業者まとめたんや。その元締めがうちらやと思えばええ」

「やくざの手口じゃない……」

「誰がやくざやねん」

 お前だ。その場にいる誰もが同じことを思った。



 生徒会室には幸と長田、それから蝶子が残っていた。

「これで話がまとまりそうだな。新しい理事会の設立がいつになるかは、まだ何とも言えないが」

「でも何とかなりましたね」

「うん。あの二人も仲直りのきっかけが欲しいだけだったのかもしれないな」

「仲直りですか。……最後まであの二人に振り回されてた気がします」

 長田は温くなった紅茶を飲み干した。

「衣奈君には生徒会に入ってもらおうと思ってる」

「葛ちゃんに?」

「新しく理事会を作るなら、生徒会もそうした方がいいと思ってな。彼女には副会長になってもらうつもりだ」

 幸は少し考えた。これで葛も少しは真面目になるのだろうか。いや、ならないだろうな。

「でも、面白そうなことを考えてくれそうな気もしますね」

「そういうことを考えられるのも君のおかげかもしれないな。もちろん猪口君にも感謝している。しかし、昨日の今日で会社を興すとはな。驚いたよ」

「気にせんでええで。元からな、おやじがうちのためにそうするつもりやったらしくって。それを速めてもろうただけ。ちょっとお願いはしたけどな」

 お願いするだけで会社が建つのか。幸は何だか空恐ろしい気分になった。

「でも、これで組に何か頼むんは最後にしたいわ」

「そうなの?」

 蝶子は気恥ずかしそうに髪の毛を指でかき回す。

「うちな、ほんまはメフに残らんはずやってん。ほとぼりさめたら帰ってこい言われててな。けど、やめる。蘇幌卒業してな、この町で何かやりたい。そう思って……あ、変かな?」

「ううん、変じゃないよ。皆も喜ぶと思う」

「そうかな?」

「そうだとも」

 長田は立ち上がり、窓の外に目を向けた。彼は、葛と藤が何か言い争いながら正門を抜けていく光景を眩しそうに見つめていた。



 つい数日前、練鴨組の襲撃を受けた赤萩組大小野会は雑務に追われていた。

 頭痛の種だった練鴨組や蛇尾は警察の御用になった。邪魔者を一掃できたというわけである。若頭の茄籐は分かりやすく気分がよくなっていた。彼は部屋住みの若者や弟分に指示を飛ばしている。

 新品のソファにどっかりと腰を下ろした茄籐は、短くなった煙草を、これまた新品になった馬鹿でかい灰皿に押しつけて火をもみ消した。客が来たのはその時だった。午前十時ごろのことだった。

「おーう、忙しそうにしてんじゃねえか」

 組の若い衆を押し退けるのはもじゃもじゃ頭の男だ。

「……あァ、そりゃあどうも」

 茄籐の気分は一気に落ち込んだ。やってきたのは警察の人間だ。しかもメフで最も厄介な《花屋》の人間だった。

 もじゃもじゃ頭の男は狼森という。彼の傍にはこの場に似つかわしくない少女がいた。彼女は物珍しそうに事務所内を見回している。茄籐はとびきりの愛想を振り撒いた。

「ついこないだまで事情聴取だのなんだので手間ぁ喰らって……こっちゃ今日から通常営業なんですがね。用がねぇなら邪魔しないでもらいたいんですが」

 狼森は茄籐の対面にあるソファに腰かけて、煙草を咥えた。

「そんな嫌そうにすんなよ。用ならある。令状はねえけどな」

「もう話すことなんざないと思いますがね」

「練鴨組のことは聞いてるよな」

「は。看板下ろしたらしいですね。つっても、どうせよその組の世話になんのがほとんどだろうが」

 練鴨組組長は『責任』を取るといって組を潰した。叩くといくらでも埃が出るので、若頭の玉吉という男に何もかもをおっ被せて、雲隠れを決め込もうという腹なのは見え見えだった。

「ンなことを花屋のあんたがわざわざ言いに来たんすか」

「柴さんなら来れねえぞ」

「誰すかそいつぁ」

「ええ? 柴さん知らねえの? 知らねえのかよお前。メフでやくざやってるくせによ」

 狼森は煙草に火を点けて、煙を天井に向かって吐いた。彼のもじゃもじゃした髪の毛を、退屈そうにしていた鍵玉屏風が引っ張った。

「よせよ、抜けちまう」

「喉乾いた」

「ええ? 我慢しろよ」

「我慢の限界なんだよう」

 茄籐は下っ端に目配せした。

「茶ぐらい出しますよ。つめてえのでいいすかね」

「オレあっついのがいいなー。すげーあっついの」

 屏風は狼森の隣に座り、真顔になった。

「随分きれーになったなあ、ここ。お前ら掃除すんの上手いよなあ。オレが見た時はもっと無茶苦茶だったのに」

 大小野会の事務所は、実は結構な修羅場と化していた。昨日まで目も当てられないような惨状であった。練鴨組が目につくものをすべて破壊する勢いで暴れ回っていたのである。

「弱っちまいますよ」

「その割にゃあ怪我人も出なかったみたいでさ。よかったな。オレさ、心からおめでとうって思うな」

 屏風は悲しそうな顔で言った。

「そりゃどうも。で、本当、何なんスかね。さっきも言ったが、溜まった仕事片づけなきゃあならねえんで忙しいんすよ」

「邪険にすんなよ」

 へらへらと笑う狼森に、茄籐は業を煮やした。

「……のらりくらりやんのは面倒だっつってんだ」

 そもそも茄籐という男は赤萩組の中では剛の者として知られている。我慢の限界が近づいていたのであった。

「言ってくださいよ。何しに来たのか」

「まあ、大した用じゃあないんだけどよ。気になる話を聞いたもんでさ。気になるとダメなんだよな。一度気になっちまうと他のことが手につかなくなるって経験ないか? 俺はあるんだよ。風呂場で頭洗ってる時とか、煙草に火ぃ点けた瞬間とか、楽しみにしてたドラマのいいところでもさ、ふっと『ああ、そういやアレってなんだったんだろうな』って。あんたにはないか、そういうの」

 茄籐は苛立たしそうに煙草を噛んでいた。

「話ってのはアレだ。お前ら随分と上手いこと立ち回ったもんだなってことだよ。蓋を開けてみりゃ大した犠牲っつーか、対価も払わねえで鬱陶しいもん全部追っ払えたもんな」

「そりゃあそうだ。何でもそうだ。蓋を開けてみなけりゃ何がどうなるか分からねえのが世の常じゃあないですか」

「内通者でもいなけりゃそんな上手くは動けねえよな。ああ、勘違いすんなよ。エスだとかスパイだとかそんなもんやくざだろうが警察だろうがどこにだっているからな。別にそいつを問題視してるわけじゃねえんだ。ただちょっとな、妙な話を聞いちまったもんだからよ」

 狼森は煙草を床に落とし、それを靴底で踏みつけた。

「お前ら異能使ったろ」

「……あァ?」

 それがどうしたと言わんばかりに茄籐は目を剥いた。

「まさかそれだけで俺たちを引っ張ろうってわけじゃあないっすよね。……なァ。そろそろ帰ってくれよ刑事さん。与太に付き合うほど暇でも酔狂でもねえんだよこっちゃ。それに勘違いしてるみたいだから言っとくけどな、大小野会には」

 テーブルの上に何かが乗った。人の耳だ。潰れていて、俗に柔道耳と呼ばれるものだった。茄籐はそれが知り合いのものだと気づく。

「大小野会は、何? 何だよ?」

 パーカーのポケットに手を突っ込んだ屏風が続きを促した。

「言えよ。どうしたんだよ。言えねえなら言ってやろうか。『大小野会には手出しできねえ。柴に話を通してからにしろ』とでも言おうとしてたんだろ。違うとは言わせねえぞ」

「柴となら話したぜ」

 狼森は眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭き始めた。

「確かにてめえのことを庇ってたよ。大小野会は俺の管轄だとか言ってたが、まあ、最後には『好きにしてくれ』って快く送り出してくれたぜ。どういう意味か分かるか? ここを、俺たちの、好きにしていいと言ったんだぜあいつは」

「てめェ舐めてんのか、アァ!?」

 撃鉄を起こす音が茄籐の頭を冷静にさせた。

「タニヤマァ!」

 弟分が銃を抜き、それを狼森に向けていた。その隣にいる屏風は笑っていた。まるで上手くいったでも言いたげな顔で。

 ここで事を構えるのはまずい。茄籐はそう判断した。

「道具なんか出してんじゃねえぞ」

「でもよ兄貴!」

「俺が話つけるってんだよ! いいからしまえってんだ!」

 タニヤマはすぐに銃を下ろさなかった。しびれを切らした茄籐に殴られて得物を取り上げられるまで、彼は狼森を睨み続けていた。

「今のは忘れてやるよ、茄籐さんよ」

 狼森は飄々とした態度を崩さない。

 我慢弱い弟分をしこたま殴りつけた茄籐は事務所内の人間を睥睨し、肩で息をする。狼森はくしゃくしゃの髪の毛を掻き毟った。

「話を戻してもいいか? 俺はな、挨拶に来たんだよ。異能使ったやつを出せって言ってんだ。それで収めてやろうつってんだから破格だろうがよ」

 茄籐は自分の手中にある銃に視線を落とした。

「つまり、そりゃあ、俺らシメようって話スか。あ?」

「あ? 何が?」

「俺らぁ襲われてんだぞ!? 練鴨組締め上げんのがスジってもんじゃねえのか! ナシつけようって相手がナンボ何でも違うだろうがよ!」

「だからその練鴨組は潰れちまったんじゃねえかよ。どう取ってくれても構わねえが、今日から忙しくなるんだろ? さっさと済ませようぜ」

 狼森の意図はうかがい知れないが、つまるところこれは仕来たりのようなものに違いなかった。今まで大小野会と繋がっていた柴の後釜に座ろうという彼が、自分たちに舐められないようにするためのものなのだろう。茄籐は乗ることにした。無茶苦茶言われているのは分かっていたが、揉めるのも面倒くさい話だった。穏便に事を済ませられるならそれに越したことはない。

「あ? どうしたよ? いいんだぜ俺は。てめえら全員しょっ引いてもよ」

「分かってるってんだろうが!」

「言ってねえよな相棒」

 屏風がげらげらと笑う。茄籐は息を呑み、腕を上げた。銃口の先にいたのは、新入りの若者だった。過日、バッティングセンターで囃し立てられていた青いジャージの男だった。

「……え、あ、あの?」

「わりぃな」

「じょ……!」

 若者は隠していた銃を取り出そうとしたが、近くにいたものに取り押さえられる。

「冗談じゃないっすよォ!? おれぁ何もしてねえ!」

 狼森は小さく笑った。

「そいつが異能使ったんだな?」

「あァ」

 若者は喚いたが誰も聞く耳を持っていなかった。

「そんじゃあちょっと撃ってみろ」

「……なんつったよ刑事さん」

「撃てって言ったんだよ。耳ねえのかボケ」

 茄籐は歯ぎしりする。狼森はこちらの思惑を悉く外そうとしてくる男だった。

「撃ったら俺ぁどうなんだよ」

「目こぼししてやるよ。何せお前は今、まさに、判定赤のクソッタレを差し出そうとしてんだからな。捜査に協力したってことで見逃してやるよ。ただし分かってるよな。俺らに楯突くような真似をしてみやがれ。そん時はてめえら全員撃ち殺してやるからよ」

 狼森はへらへら笑っていたがその目には真剣なものが宿っていた。茄籐は舌打ちし、引き金を引いた。若者は叫んだ。銃口から飛び出た弾丸は彼の肩を目がけてすっ飛んでいき、意志を持っているかのような挙動でその軌道を変えた。弾は若者の直前で停止し、直角に曲がる。そうして狼森の頬を掠めるとソファの中に埋まった。

 その光景を目にしたものたちは悪い夢か、不出来な手品でも見たかのような気分に陥った。

 狼森は頬の血を指で拭った。屏風は彼を指差した。

「あれ? 相棒さ、今撃たれなかったか?」

「そんな気がするな」

「おいおいマジかよ! お前ら見てたか!? オレの相棒の可愛いほっぺに弾がめり込みかけたところをさ! あぶねえじゃねえかまったく。このぺらぺらでくしゃくしゃの頭が弾け飛んだらどうすんだよ! 笑えねえぞそん時はよう」

「て、てめェら……!」

 茄籐は狼森に銃を突きつける。

「ハナっからこういうことやりに来たってんだなてめえは!? あァ!?」

「なんだとこの野郎! 言うに事欠いてさあ!」

 ニコニコ顔の屏風はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。大小野会の人間もみな、得物を抜いてそれを彼女らに擬す。先まで意気消沈だったタニヤマも下っ端から銃を受け取り、喜々としてそれを構えた。

「気づくのが遅かったじゃねえか」

 狼森は煙草に火を点けて、茄籐を見上げた。

「俺らはな、お前らを潰しに来たんだよ」

「上等だぞコノヤロウが! 花屋だろうがこの人数相手に吹かしてんじゃねえよ!」

 タニヤマが声を荒らげる。茄籐はぎりぎりのところで爆発するのを抑えていた。

「よう、最後に聞いときたいんだがよ。猪口蝶子を売ったのは誰だ? 吐けば見逃してやるぜ」

「黙ってろてめえは」

 我慢の限界が訪れた。茄籐が引き金に指をかけた。その瞬間、屏風はポケットから両手を抜いた。きんきらにデコレーションされた拳銃が二丁現れた。

「やりやがったなやくざもんが! 相棒! こいつらの罪状はなんだっけ!?」

「そうだな。公務執行妨害にしとくか」

「だそうです!」

「ふざけやがって」

「おっ、おお?」

 逸った下っ端が銃をぶっ放した。弾は天井にめり込んだ。それを合図に其処此処から発砲音が鳴り響いた。弾丸は狼森と屏風のもとへ向かい、空気を食みながら疾走する。彼女の目が光輝を帯びた。それと同時に弾丸の軌道が変わる。否、歪む。ぐるりと向きを変えた十数のそれは大小野会の連中に襲い掛かった。避けようとしても無駄だった。物陰に隠れても弾は跳ねるようにしてやってくる。銃丸は死体に集る蠅のように室内を飛び交った。事務所内は血煙と叫喚でいっぱいになっていく。

「んだ……こりゃあ……?」

 茄籐は立ったまま、頭蓋を抉られるものや、臓腑をずたずたに刻まれるものの悲鳴を聞いていた。そして彼は見た。テーブルの上で両手を上げてやたらめったら銃を撃ちまくる屏風の姿を。

「よう」

 最初からこうなることが分かっていたかのように、狼森は座ったまま動いていなかった。

「小娘を売ったのは誰だ」

「こ、ここ……ここまでしといて、てめえは」

「お前よ、全部気づいてたんだろ。分かってて練鴨組泳がせたろ。お前は見たかよ。学校がよ、やくざだのマフィアだのに無茶苦茶にされてよ。そこにいた生徒も、先生も痛めつけられるところを。お前らが黙って見てなきゃやくざもんが潰し合うだけで済んだ話だったかもしれねえじゃねえか。一般人巻き込むような真似しといてタダで済むと思うなよ。俺はそういうのが許せねえし嫌いなんだ」

「てめえ何やったか分かってんだろうなァ!」

 狼森は無言で引き金を引いた。ジェリコ941が火を噴くと茄籐の額に穴が開き、彼は後ろ向きに倒れていった。

 やがて室内には静寂が訪れた。呻き声を上げたりするものもいたが、大抵は身動きが取れないでいた。屏風は死体の数を数えていたが、ふと、それを止めた。部屋の隅で蹲っていた男が立ち上がったからだ。

「ふう、助かったぜ。いや、助かったっつーか、なんつーか」

 タニヤマは無傷だった。彼は狼森たちに近づきながら、息のあるやくざを銃で撃ち殺す。

「あー!」

 屏風が叫んだ。

「また数え直しじゃねえか」

「数えなくていいよ、みんな死んだからな」

 タニヤマは茄籐の死体を足で退かすと、返り血のない場所に腰かけて煙草を咥えた。

「やくざのまま死ぬのか、カタギに戻って死ぬのとどっちが幸せなんだろうな。しかし焦ったぜ。俺までやりやがるとか思ったからよ」

「そりゃ悪かったな。ま、事前に連絡する暇がなかったからよ」

 狼森はタニヤマの煙草に火を点けてやった。彼は美味そうに煙を吐き出す。

「ともかく情報提供に感謝するぜ。俺ぁやくざは嫌いだが、協力的なやつは好きだからな」

「ま、沈むって分かってる船に乗るのもつまらねえんでな。……兄貴は世渡りってもんをあんまし分かってなかったしな」

 屏風はタニヤマの近くに寄って彼を指差す。

「でさあ相棒。こいつどうすんだ?」

「そりゃまあお望み通りってやつよ。組抜けてえって言うんならこっちから赤萩組に掛け合ってやってもいいし、このまま匿ってやってもいい。どうするよ?」

 水を向けられたタニヤマは思案顔になった。

「ツテがあってさ、外に出たいんだよな」

「へえ。ツテってのはどんなだ? 足洗ってなんか商売でも始めんのか?」

「おお、まあなあ」

「赤萩組の鵜塩んとこ行くのか」

「え?」

 狼森はタニヤマの右耳を撃ち抜いた。耳の一部はピアスと一緒になって吹っ飛んだ。

「いっ、うお? おおおああああああああっ、何してんだコラてめえはよ!?」

「いや、聞こえてねえみたいだからよ。だったら耳なんか要らねえんじゃねえかと思ってな」

「あァ!?」

「だから、てめえ鵜塩んとこ行くんだろ。メフで嗅ぎ回って仕入れたネタ土産にするつもりだろ」

「意味分かんねえよ!」

「分かんねえのか」

 狼森は引き金を二度引く。弾は、タニヤマの近くにあった茄籐の死体に命中して血を撒き散らした。

「ちょっと疲れたな。喉乾いたわ。お前もなんか飲むか?」

「オレさまコーヒー!」

「あいよ」

 狼森と屏風は場所を入れ替わる。彼は事務所のコーヒーメーカーを操作し始めた。

「ボタンいっぱいあって分かんねえな。おい、どうすんだ、これ」

「どうすんだって、俺の耳をどうしてくれんだ」

「聞こえねえのか?」

 屏風は二丁の拳銃を見せびらかすようにして、くるくると手の中で弄ぶ。

「……ボタン押すだけだ。勝手に始まるから押せよ」

「どのボタンだよ」

「スタートって書いてあるやつだよ! 他よりでかいボタンがあるだろ! 後ろじゃねえ、前だ、前! 前についてんだろ!」

「ああ、これか」

 がりがりという豆を挽く音が聞こえて、狼森は満足げに頷いた。

「屏風、砂糖いくつだ?」

「いっぱい! うんと甘くしろよな!」

「くそ、何でこんな目に遭ってんだ?」

「んー?」

 屏風は銃を手にしたまま、タニヤマに話しかけた。

「お前さ。嘘ついちゃダメだとか言われたことないか? 何でだと思う? 嘘をついちゃいけないのはどうしてだと思う?」

「…………なんか、その質問に意味があんのかよ」

「どうしてだと思う?」

 タニヤマは諦めた。

「ルールがあるからだろ」

「あ?」

「だから、ルールだからだろ」

「ルール! 聞いたかよ相棒!」

 狼森は頷いた。

「こいつすげー頭いいぞ」

「そうだな」

「そうだよなあ。ルールだもんなあ。嘘ついたら駄目だよな。じゃあさじゃあさ、そいつを破ったらどうなると思う?」

 タニヤマは息を呑む。

「赤いとこのお嬢さんを売っぱらったのは分かってんだぜ。あの子がメフに来たってのをチャイナに売ったろ? そうでもねえと青いとこの練鴨組があんな早く動けるわけないもんな。お前が売ったんだろ?」

「知らねえ。俺じゃねえ」

「嘘つけよ裏切りもんが」

 屏風はタニヤマの額に銃口を突きつける。まだそこに熱が残っていて、彼は顔をしかめた。

「何言ってやがんだ。俺は裏切ってねえ。お前らにちゃんと話しただろうが。組のこと全部、話しただろうが」

「そうだな。でもお前はやっぱり裏切り者だと思う」

「はあ!?」

 茄籐の死体。屏風はそれを銃の先で指し示した。

「お前はもうこいつらを裏切ってんだよ。一回裏切ったやつは二回も三回も裏切り続けるぞ」

「これ以上どうしろってんだ」

「全部話せ」

 屏風は泣きそうな顔で言った。

 それからタニヤマは洗いざらい話した。糸を引いていたのは赤萩組幹部の鵜塩であること。彼が赤萩組を抜けて別の組織へ移ろうとしていること。その手土産としてメフでの飯の種を持っていこうとしていること。邪魔者を全て取り除いてしまおうとしていたこと、何もかも。

「で、お前は鵜塩に引き立てられてついていこうとしてるってわけか」

「もういいだろっ」

「そうだなあ。どうする相棒?」

 狼森は砂糖のたっぷり入ったコーヒーを屏風に渡した。

「いや、よくねえよ。まだはっきりしてねえことがあんだろうが」

 タニヤマは助けを求めるようにして狼森を見た。

「誰が猪口蝶子を売った?」

 その問いはタニヤマにとって死刑宣告にも近しかった。狼森は彼の反応から全てを察したようで、無言で銃を突きつけた。

「兄貴分殺されといてその仇を討とうとしないってのもどうかと思うぜ。だからチャンスをやろうじゃねえか。屏風、銃貸してやれ」

「ええ? なんでオレのを貸さなきゃなんねえんだよバカじゃねえの? お前のだっさいジェリコちゃん貸してやれよ」

「いいから出せよ」

「くっそ、おい丁寧に扱えよ」

 屏風は不承不承ではあるがデコ銃をタニヤマに握らせた。彼はそれをじっと見つめている。

「俺を撃ってみろ。俺をぶっ殺せば見逃してやるよ。どこへでも行けばいい。嬉しいだろ」

「じょ、冗談じゃねえ。俺だってさっきの見てたんだぞ。お前ら、異能を使ったんじゃねえか。どうせ見逃すつもりなんかねえんだろ」

「勘ぐるなよ」

「だったらそこのガキを――――をっ? をおおおおお!? ふざけんなああああああ」

 タニヤマは倒れた。彼は肩を手で押さえて床を右往左往転がる。屏風が撃ったのだった。

「何してんだよ……? なんで撃ってんだよ?」

「だってうるせえんだもんこいつ。とっとと黙らせてちゃっちゃと引っ張ってこうぜ。まだ何か隠してるかもしれないしさ」

「……殺さなかっただけマシだと思っとくか」

 狼森はタニヤマに手を貸そうとする。だが、彼が、死体から銃をもぎ取っているところを見てしまった。

「お、勝負の続きといくか?」

「う。……いや」

 タニヤマは観念して銃を投げた。

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