磑風舂雨しぃたぉちぇんつぷぅ

幸、委員長になる



「なあ」

「何だよ」

「さっきからあいつら、何話してんのかな」

「知らねえ」

「大丈夫かよ」

「知らねえって」

「おい、どうなってんだ」

 暗がりの空間に二つの輪郭が浮かんでいた。どちらも細く、すらりとしていた。呼びかけるのは二人の男である。二人は広域暴力団、藍鶴会あおつるかいの三次団体、練鴨組ねりかもぐみの構成員だ。要はチンピラである。

「聞こえてんのか?」

 チンピラはそこにいるはずの影に対して呼びかけた。返事はなかったが闇に目が慣れてきた。見えてきたのはひっくり返ったテーブルとソファ。ひびの入ったテレビ。室内は荒らされて血の臭いが立ち込めていた。練鴨組のやくざは転がった死体を数えた。全部で八人。

「合ってっか?」

「いや、ちょっと待て」

 物音がした。やくざの二人が反応するよりも早く、佇んでいた影が動く。ここは赤萩組の三次団体の組事務所だ。自分たち以外に音を立てるのは敵対者に他ならなかった。

「おい、停電か……かあっ!?」

 部屋へ入ってきたのは髭面の男だった。彼は咄嗟に得物を抜こうとしたが、それよりも早く迫っていた人影に顎を蹴り上げられる。

「おおっ、ちくしょうてめえらっ」

「イィィィ……!」

 髭面の男はすぐさま体勢を整えたが、眼前に妙なものが浮かんでいたのに気を取られた。それは極彩色の面だった。

「ヤァアァァァ!」

 甲高い発声の後、蹴りを受けた男の首が折れた。次いで、影は男の胸に拳を打ち込む。盛大に血を吐いて倒れると、それでもう動かなくなった。男が死んだのを確認すると、練鴨組のやくざはばつが悪そうに頭を下げる。

「これで間違いねえや。地回り含めて九人。これでしまいだ」

「……本当だな?」

「あっ、ああ、本当だって」

「なら、後は任せた」

 やくざは頷いた。二つの影は音も立てないでいなくなっていた。



 蘇幌学園の二年一組教室から歓声が上がった。教室では、男子生徒が掃除用具で野球をしている。ボール代わりの丸めた軍手は窓から外へ飛んでいった。

「ホームランだろ!」

「ライトフライだよ」

「ライトがどこにいんだよ!」

「審判! 審判決めろ!」

 みなの視線が、所在なげにしていた八街幸に集まった。

「見てたろ!?」

 幸はううんと唸り、高らかにファールと宣言した。

「そんでチェンジね」

「お前ルール知らねえだろ!」

「次はぼくが打つから、ピンチヒッター」

「いいよもう打たせてやれよ」

 箒を素振りすると、幸はそれで明後日の方角を示す。ピッチャーは別の丸めた軍手を受け取り、それを下手から投げた。幸は小さな体に似合わない豪快なフルスイングを披露するも空振りするし箒はすっぽ抜けて教室の壁にぶち当たった。

「あぶねえな!」

 教室の隅っこではカードゲームに興じているものや、ギターを弾いているものもいた。ロッカーの上に寝そべって携帯を触っているものもいる。好き勝手に遊び、騒ぐ男子ども。二年一組の、数日前からの日常である。

 数日前、蘇幌学園でとある事件が起こり、水原深咲の死によって終わった。その真実を知るものは少ない。だが、彼女の異能、《心臓抜き》のせいで学校に来なかった生徒も登校を再開し、少しずつ元通りになりつつある。真実を知るもの――――つまり幸はぼうっとしながらもメフで緩やかな日常を過ごしていた。

「ヤチマタ!」

 教室の外から声がかかり、幸はそちらに顔を向けた。クラスメートの打墨翔一が、幸のさっきの空振りを真似ておどけている。

「全然腰が入ってねーの」

 翔一は廊下の壁に背中を預けた。幸も教室を出て同じようにした。

「こう、手だけで打とうとすっからダメなんだよ」

「難しいよ」

「そっか?」

 翔一はふと窓の外を見て、真面目な顔つきになる。

「ちょっと賑やかになったな。なんかさ、他のクラスとか学年とかもそうなんだってよ。これってやっぱ、そういうことなんだよな」

「だと思うよ」

 幸は翔一に全てを話していなかった。

「委員長のことは残念つーか、寂しいけどさ。けど、これでよかったんじゃねーかって思う。お前は?」

「どうかな、まだ分かんないや」

「ま、そっか。おお、そういやさっき衣奈に会ったぜ。あいつも学校来るようになったんだとよ」

 絡まれなきゃいいなと翔一は笑う。幸は全面的に同意した。ホームルームのチャイムが鳴っても二年一組は騒がしかった。

「先生、どうなってんのかなあ」

「安楽土の代わりかー。俺ぁあの先生でよかったんだけどな、楽だし。楽で楽しーことはいいことじゃん? 俺も混ざってくっかな」

 翔一は教室に入り、バッターから箒を奪ってボールを打ち返していた。

「八街ー、お前もやらねー?」

 教室の隅にいたクラスメートからカードゲームに誘われ、幸はそちらに混じった。

「いいの?」

「デッキ貸すよ。ルール知ってる?」

「だいたい覚えたかな」

 カードゲームをやっているのは田中と田中だ。同性で同姓である。ややこしいのでクラスメートからは背の低い方が田中小、高い方が田中大と呼ばれている。幸は田中小からカードの束を受け取った。

「とりあえずやってみ。分からんかったら聞けよな」

 田中小は目つきこそ悪いが面倒見はよかった。

「そういやうちの担任、誰になんのかな」

「あ、翔一君ともその話してたんだ」

 ゲームをしながら話をしていると、田中大の顔が、歯に何かが挟まったようなものになった。

くろがねじゃなかったら何でもいいけどな」

「誰それ」

「八街知らなかったっけ? 現国の鉄。ほら、眼鏡で、すげーきつい女の」

 ああ、と、幸は鉄という教師の顔を思い出す。凛とした顔つきだが微笑むどころか眉毛すら動かさず、眼鏡の奥にある切れ長の瞳は生徒を睨みつけているようにしか見えない。冗談も無駄口も言わない。切り揃えられた黒髪と薄いメイクからはよく言えば真面目さが、そうでなければ遊び心のなさが色濃く滲んでいた。凛々しいと称すよりただただ冷たい感じである。

「確かに、厳しそうな先生だよね」

「厳しいなんてもんじゃないって。見ろよ、今の一組を……パラダイスだろ? あいつが担任になったらここがゲヘナと化すぞ」

「ゲヘナて」

「地獄でも墓場でも何でもいいよ。とにかくひでえことになる」

 幸が手札のカードを眺めていると、田中小と田中大の表情が強張った。廊下から規則的な足音が聞こえてくる。それはやがて一組の前で止まった。翔一が丸めた軍手をおもっくそファールしたのと同時、足音の主が教室に現れた。紺色のスーツを着た、二十代後半の女である。

「あ」間抜けな声がした。

 蘇幌学園教師、鉄一乃くろがね いちのの顔面にファールボールが当たったのは、翔一にとっては不運であり自業自得でしかなかった。鉄の顔に当たったそれは胸のあたりでバウンドし、スーツのスカートを掠めて床に落ちた。男子の視線が床の軍手から、彼女が履いているよく磨かれたパンプスへ行き、黒いストッキングで留まった。先までうるさかった教室が水をかけられたように静まる。

 鉄は軍手を拾い、それをピッチャーに投げて返した。

「どうぞお続けになって」

 抑揚のない声だった。鉄は教壇に上がり、教卓に出席簿を置く。それから教室をゆっくりと見回した。見られたものはメドゥーサに見られたかのように固まって動けなくなった。

 だが、ハッとした翔一が号令をかけた。全員が慌てて教室を片づけ、机と椅子をきっちりと並べて席につく。鉄は特に気にした様子も見せなかった。

「まだ欠席が目立ちますね」

 出席の記入を終えると鉄は前を向いた。その視線の先にいる生徒は目を逸らした。

「皆さんにお知らせがあります。この度、安楽土先生が一身上の都合により退職されました」

 幸は出かかった言葉を噛み殺す。安楽土たちのことはそういう扱いになっていた。

「ここの担任は私が受け持つことになりました。これからよろしくお願いします」

「えっ」

 パラダイスの終わりである。

「一組の現状はおおよそ掴めました。課題は山積みのようですが、まずは新しい委員長を決めたいと思います」

 鉄は再び教室を見回す。誰も口を開こうとしなかった。

「立候補される方がいらっしゃらないようなので、こちらで決めてしまっても構いませんね」

 反論するものはいなかった。

「では、八街さんにお願いします」

「……えっ、ぼくですか」

 鉄が幸を見据えた。

「出席率が高いものですから。何かご不満でも」

「い、いえ、大丈夫です」

 委員長になるということは、彼女の後を引き継ぐことにもなる。幸は少しだけ前向きになれた。

「それから、放課後までにこれを」

 鉄はプリントを配り始める。幸はそれをためつすがめつ眺めた。

「進路の希望調査です」

「進路……」

 それから、鉄は簡単に連絡事項を伝えて教室を出て行った。クラス中から、石のように重く、固い溜息が零れた。



 一組の空気は一変した。昼休みだというのにまるで通夜のような有り様だった。通りがかった他のクラスの生徒がちょっと引くくらいだった。

「しばかれるかと思ったぜ」

 翔一は紙パックのジュースをずずずと飲み干し、空になったそれをゴミ箱に投げ入れた。

「知ってっかヤチマタ。鉄のあだ名」

「ううん、知らない。何ていうの?」

「俺も知らねえ。けどアイアンマンだぜありゃあ。鉄仮面でも被ってんじゃねえのって顔だし。超こええよ」

「そうかなあ。特に何かされたわけじゃなし」

 それよりも、幸は進路の方が気になっていた。

「翔一君はどうするの」

「進路? あー、就職しかねえかな。ヤチマタは? 進学?」

「分かんないや」

「放課後までって言ってたっけ。ま、その通りにしなきゃいけねえって道理はねえんだ。出すの遅れるよりかテキトー書いてでも提出した方がいいんじゃねーの」

 なりたいもの、やりたいこと。今の幸にはあまり思いつかなかった。つい先日まで自分の病気のことや、メフでの生活に慣れるのに必死だったのだ。明日のことを考えられる余裕などなかった。ただ、強いて挙げるならある。幸は机の中のプリントを引っ張り出し、少し迷ったが、ペンを走らせた。

 放課後になり、鉄がプリントを回収する。彼女はそれに目を通して教室を出ていく。残った一組の生徒は安堵の息を吐き出した。

「なーんか今日は溜め息ばっかだったな」

 頷き、幸は翔一と連れ立って昇降口に向かった。

「今までがあんなだったからね。楽しかったけど無法地帯って感じだったし」

「かもな。あ、どうする? どっか寄ってくか?」

 幸は少しだけ考え、まっすぐ帰宅する旨を告げた。翔一はその辺をぶらついてからタダイチで買い物するらしい。彼と別れた幸は家路についた。



 家に帰り、楽な服に着替えてリビングで一息つく。これももうすっかり幸の日常に溶け込んでいた。その日常の中には叔母のむつみの存在もある。彼女は相変わらずぼうっとしていて眠たげで、そのくせ意地悪いことを言うのだった。

「今日は早かったね。お腹空いてない?」

「あ、少し減ってます」

「そう」

 むつみは体を伸ばした。それからじっと窓の外を見つめる。鳥か雲でも見ているのかもしれなかった。幸は紅茶を一口飲んで、読みかけの本を開く。

「何か作ってくれるかと思った?」

 幸は無視して本のページを繰った。むつみはつまらなそうに頬杖を突く。

「つれないなあ少年」

 幸はなおも無視した。さも読書の邪魔だと言わんばかりにつんとしていると、むつみは無言で立ち上がり、戸棚を開けた。そこから適当な菓子を見繕い、皿に盛って出す。

「どうぞ」

「どうも。いただきます」

 菓子に手を伸ばすと、むつみは皿をひょいと移動させた。

「……もう、なんですか」

「学校は楽しい?」

「楽しかったです」

「おや、過去形」

 幸はクラスの担任が変わったことや、よく遊んでいるカードゲームについて話した。むつみはあまり相槌を打たないが、話はしっかりと聞いているらしかった。

「そう。君が委員長になったんだね」

 幸はちょっと胸を張る。

「大変そうです」

「大丈夫。猿にでも務まるよ」

「それを聞いて安心しました」

 再び本の世界に耽る。むつみはじっと幸を見つめていた。視線がくすぐったくなったので、彼は咎めるような目で彼女を見返す。むつみは自分の鼻を指差した。

「マシになったみたいだね、花粉症」

「薬が効いたみたいです」

「もう少し飲んでなよ。飲むのやめたらまた酷くなるから。それにしても、最近の薬局は色々なものが売ってるねえ。買い物はタダイチでしかしないから知らなかった」

 鼻水もくしゃみも目の痒みも収まってきた。しかしもう一つの花粉症こと扶桑熱が治ることはない。幸は己の異能花盗人について思索する。骨抜き事件の際に何度か使ったが、結局、詳しいところは分かっていない。幸は何となくこんなものだろう、というような感覚で異能を使っている。そのことをむつみに聞いてみると、

「まあ、みんなだいたいそんなもんだよ」

 との答えが返ってきた。

「実は自分がそう思ってるだけで、本当はもっと別の力なのかもしれないね。でも、それでいいと思うよ。曖昧でさ」

「いいんでしょうか」

「曖昧な方が人間らしいでしょ。分かり切ったものなんかなかなか見当たらないもの。たぶんね」

 しかししっかり決めなくてはいけないこともある。進路のことだった。

「叔母さん。ぼく、将来のことを考えました。進路の調査票があって、それにもう書いたんです」

「ふうん。将来か」

「狩人になりたいって書きました」

 むつみは真顔になって幸の顔を見る。彼がふざけてもいなければ嘘も吐いていないことを知ると、厳しい顔つきになった。

「猿にもさち君にも務まらない仕事だよ」

「反対ですか」

「反対しない。賛成も協力もしない。君の人生だからね。大いに好きにやりな」

 幸は気落ちした。むつみの理解を得たかったからだ。

「しかしまた、どうしてそんなの選ぼうとしちゃうかな」

 目の前の女に憧れたからだ。しかし、幸はその理由は言わないことにしている。言うと醒めてしまいそうだったし、自分の胸の内で秘め事にしたかったというのもある。

「危ない危ない、また手が出そうになっちゃった」

 幸は何となく頭に手を遣った。むつみの拳骨を思い出して口元が緩んでしまう。

「どうして笑ってるの」

「いや、何でもないです」

「まったく。変なのが私の甥っ子になったもんだ」

 よっこらせとむつみは立ち上がり、夕食の支度を始めた。幸はまた本を読もうとしたが、彼女の背を無意識に目で追いかけてしまい、読書に集中できなかった。



 翌朝、むつみは幸の進路について話さなかったので、彼もそのようにした。ただ、幸の出しなに学生の本文は学業であることを諭すようにして言った。

 幸が学校につき、昇降口で靴を履き替えていると鉄が通りかかった。彼女は昨日と同じようにきっちりした服装であった。

「ちょうどよかった。八街さんにお聞きしたいことがあります」

 鉄は出席簿に挟んでいたものを広げた。幸の提出した進路調査票である。

「狩人が第一志望とありますが」

 幸は小さく頷いた。鉄は彼をじっとねめつけていたが、ふと、視線を外した。

「少し弱りました。これまで狩人になった生徒はいましたが、狩人になりたいという生徒はいなかったもので」

「やっぱりだめですか」

「いえ。生徒さんの手伝いこそすれ、邪魔をするつもりはありません」

 幸は意外に思った。てっきり反対されるとばかり思っていたからだ。

「狩人がどのようなものかは知っているつもりです。ですが、どのような仕事であっても辛いこと、厳しいことがあります。狩人は確かに危険なものかもしれませんが、どうやら八街さんは適当に書いている訳ではなさそうですし」

 それに、と、鉄は付け足す。

「この町では東京の大学に行きたいとか、プロ野球選手になりたいとか、楽して暮らしたい、などと考えるよりよほど現実的です」

 他のクラスメートはそのようなことを書いて出したのだろう。幸はそう邪推した。

「私が聞きたかったのはそれだけです」

「あっ、あの……」

 鉄は幸より頭一つ背が高い。見下ろされる形になって彼は少し委縮した。

「狩人って、やっぱり大変なんでしょうか。叔母さんにはあんまりよく思ってもらってないんです」

「……私は狩人のことを詳しく知りません。進路のことでしたら保護者の方とよく相談してください」

「は、はい。すみませんでした」

「いえ」

 短く言うと鉄は去っていく。彼女は定規を背中に差しているみたく背筋がまっすぐ伸びていて、立ち姿にも歩く姿にも風格があり、凛々しく見えた。

 自分のことだ。自分で考えるほかない。鉄の背中を見て、幸は気を引き締めねばと心がけた。



 この日、二年一組の生徒のほとんどは進路希望調査票の再提出を求められた。放課後になっても埒が明かないので、鉄は提出の期限を伸ばした。

「お時間よろしいですか」

 ホームルームが終わり、翔一と下校するつもりだった幸だが鉄に呼び止められた。翔一は彼女を恐れてか、そそくさと廊下へ出ていってしまう。

「進路のことですか?」

 鉄は頷く。

「分かりました。あ、ごめんなさい、ちょっとだけ待っててください」

 幸は、廊下でこそこそしている翔一に用事があることを告げた。

「うへえ、マジかよ。時間かかりそうか?」

「ちょっと分かんないな。先に帰ってていいよ」

「そうすっかな、今日は掃除も洗濯もあるし。んじゃヤチマタ、また明日な!」

 翔一に手を振って教室に戻ると、鉄だけがぽつねんと佇んでいた。

「すみません、お待たせしました」

「よろしいんですか」

「え?」

「打墨さんとの約束があったのでは」

 幸は苦笑する。特に予定があるわけではないのだ。

「そうですか。では進路指導室へ参りましょう」

 指導室は特別棟の三階にあった。あまり使われていないのか、物ばかり置いてあって半ば以上倉庫と化していた。

「昨日のうちに少し片づけたんですが、まだ埃っぽいですね」

 鉄は窓を開けて空気の入れ替えを行った。

「どうぞおかけになってください」

 勧められるまま椅子に座ると、幸は指導室を見回す。背の高い書棚がいくつか並んでいて、大学のパンフレットや赤本が収まっているのが見えた。鉄は彼が見ているものに気づいた。

「おかしいでしょう? メフを出て外の大学に通えるわけでもないのに、ああやって資料だけは取り寄せて置いてあるんです。本当はもっと必要なものがあるはずなのに」

「そうですね。でも、それを必要だって思う人もいるかもしれません。狩人みたいな仕事だって大事なんですって。叔母さんが言ってました」

 鉄は幸の対面の椅子を引き、テーブルに山積みされている本から一冊を引き抜き、ページをめくっていく。

「差し出がましいとは思ったのですが、狩人について自分なりに調べました」

「……先生が調べてくれたんですか?」

「はい。八街さんはご存じかもしれません。狩人というのは公務員なのですね」

 完全に初耳だった。

「あれ、でも、確かに、公務員みたいなものとか、言ってたっけ……?」

「市役所の環境整備課、そこの扶桑熱係というのが狩人にあたるそうです」

 むつみは公務員だった。しかも役所勤めだった。しかし、幸は彼女が出勤しているのを見たことがない。

「毎日登庁するわけでもないようですね。あくまで公務員みたいなものですから。それに、何事にも例外はつきものです」

「でも、そうですか。狩人って公務員だったんですね」

「ご存じなかったのですか」

「う。す、すみません」

「いえ。お役に立てたのなら幸いです。それに、分からないことは少しずつ知っていけばいいですから」

 その後も、鉄は狩人について調べたことを幸に話した。彼の知らないことがほとんどだった。勉強不足を痛感する幸であった。

「あまり気に病むことはありませんよ。狩人も難しいことはなさそうです。どちらかといえば知識よりも技術や経験が重視される仕事ですから。……教師が推薦する仕事でないのは確かでしょうね」

「そうですよね」

「生徒さんを危ない目に遭わせるのは、私も気が進みませんから」

 鉄はさっきからまるで表情を変えていない。ただ、物言いは優しかった。幸はそのことを何の気になしに言ってみた。

「……はあ、私が優しいですか」

「みんなは先生が怖いって風に言ってましたから」

 実際、幸も鉄と話す時や、彼女に見られている時は緊張しっ放しだった。

「当たり前のことをしているだけです」

 鉄はそっけない。しかし彼女に対する幸の印象は変わった。

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