心臓抜き<3>
蘇幌学園には警官や狩人がいたが、彼らは中にいるであろう判定黒の骨抜きを警戒して二の足を踏んでいた。先行した警官隊と乱鴉が壊滅したことも尻込みに拍車をかけていた。
「なあ。行かせてよかったのかよ」
「え? 何が? そんなことよりオレの竹馬知らねーか? ここまで一緒にやってきた相棒なんだけどさ」
「相棒は俺だろうが。で、俺らもいいのかよ、行かなくて」
「いいんだよ竹馬。行ったらやばそう。落ち着いてからにしようぜ。ああ、竹馬じゃなくって相棒だったっけ。あれ? 竹馬だったっけ」
裏門を固めていたのは《花屋》の狼森たちである。彼は骨抜きとの戦いから辛くも生還し、『彼ら』に手傷を負わせた後で相棒と合流していた。狼森は野次馬の対処でいっぱいいっぱいになっている同僚や、動く気のなさそうな狩人たちをぼんやりと眺めた。
「誰が竹馬だ。だから、さっきのガキだよ。ほら、なんだっけか。お前がゲーセンで世話になったっていう」
狼森の傍にいるのは黄色いパーカーの少女である。いつか、幸と翔一がセンプラで出会って絡まれまくった少女であった。
「おお、あの
少女は笑顔だった。狼森は特に指摘しなかった。彼女はだいたい、こうなのだ。一々気にしていても時間の無駄だった。
「お前、そいつを中に行かせたろ」
狼森は顎をしゃくる。その先には憤懣やるかたないといった雰囲気をむんむんと漂わせる狩人たちがいた。彼らを止めたのは他でもない、狼森の相棒たる少女であった。
「だってかーちゃん捜してたんだぜ。じいちゃんが言ってた。あれ、じいちゃんだっけ? ばあちゃんだっけ? なあ、どっちだっけ? まあどっちでもいいか」
「いや、よくねえ。母ちゃんって誰のことだ?」
「かーちゃんはかーちゃんだろ。にーちゃんのかーちゃんはオレのかーちゃんじゃねーし、オレたちの捜してるかーちゃんとはまた別だけどさ! けど必死そうだったからさ! 邪魔すんの超怖いし!」
「……怖い?」
おう。少女は首をぶんぶんと振った。
「中にいるやつもまあまあ怖いけど、さっきのにーちゃんも怖かった! オレ鳥肌立っちゃったもん。ほら見てみここ、もうすぐかさぶた剥がれそう。早く剥がしたいんだけど引っ張るのガマンしてんだ」
「怖いって、なんで。ありゃあ花粉症かもしれねえけど、パッと見普通の学生だったじゃねえか」
「ふーん? そうかな? オレの勘違いだったかな。まあとにかくさ、あん時のにーちゃんにちょっかいかけるの怖かった。アレを敵に回すんなら、ここにいるやつら全員とやり合う方がずっといい」
狼森は頭をかいた。この頭のおかしな少女は、ナリこそチビだがそれなりの修羅場は潜っている。恐れるものなどこの世になさそうな豪胆なやつだとばかり思っていた。
「頼んます! お願いしますっ、誰か、誰でもいいってわけじゃないけど! とにかく誰か助けてください!」
この喧騒の中、特に馬鹿でかい声がしたので狼森はそちらに目を向けた。金髪の少年が誰彼構わず頭を下げて回っていた。切羽詰まって必死そうで、この町では少し浮いて見えた。
「……ありゃ、さっきの」
蘇幌の学生で、打墨翔一という名前だったはずだ。助けてやる義理はないが、翔一から少し離れたところに葛が立っているのが見えた。彼女は翔一のようにはしていなかったが、誰かを捜しているらしかった。
まずい。狼森は咄嗟に姿を隠そうとする。葛には借りがある。何か頼み事されれば断るのは難しかった。それを知ってか知らずか、翔一と葛は裏門の方へ近づいてくる。
「おい、おい」
狼森は近くにいた狩人の女に声をかけた。見た目こそOLっぽいが、彼女は古海といい、メフではそこそこ名の通ったベテランである。
「あ? 何よ?」
古海はメンチを切った。
「あそこ見ろ。困ってるガキがいんだろ。話くらい聞いてやれよ」
「ざっけんないでよっ、そっちこそケーサツでしょ! それに、そこのちっこいのに邪魔されてこっちのやる気は出ないっつーの!」
平謝りするしかなかった。狼森は古海や、彼女の仲間の狩人に頼み込んだ。そうしているうち、翔一は幽鬼のように佇んでいた女に声をかけた。狼森は、その女をどこかで見たような気がした。
「なあ、古海さんだっけか。確か、ありゃあ」
古海たちは表情にこそ出さないが狼狽えているらしかった。狼森はよく分からないまま、翔一と女の動向を窺うことにした。女は最初聞く耳を持つどころか、翔一の存在すら認識していないかのようだったが、ヤチマタという言葉に反応した。そうして女は、
「ぇあ?」
狼森たちを跳び越えて、裏門を突破した。
「な、あッ?」
女の姿は既にない。
「と。止めなくてよかったのか?」
少女は満面の笑みを浮かべた。
「アレに近づけってのかクソボケ。オレを殺す気かよ」
「……どう見たって一般人じゃあなさそうだったが」
狩人たちは口々にやべえとか、どうしようと言っていた。古海はびしりと姿勢を正し、自分たちも学園内へ突入することを宣言した。
「やばいやばい、行かなかったら後で怒られちゃう」
「え? さっきの女にか?」
古海は狼森をねめつける。
「気をつけた方がいいよお花屋さん。あの女はこの町で一番やばい狩人だから。
メフにはいくつかの猟団があるが、その中でも別格の猟団が四つある。《百鬼夜行》はその内の一つであった。今はもうない。残っているのは過去の雷名だけだ。先の女が《百鬼夜行》の生き残りだと分かり、狼森はぞっとした。
「一人きりでもまだ猟団名乗ってんのは、そんだけやれるってことなんだよね。そんじゃま、とにかく私らも行くから。もう、終わってるかもしんないけど」
古海はおどけてみせたが、顔の強張りは隠し切れていなかった。
「い、いひ、ケヒ! ケヒヒッ! なあっ、これでいいんだよなあ水原! これで俺を嫌いにならないよな、好きのままだよな!? ヒッ、ヒヒ」
刺された傷口が熱を持つ。幸は脇腹を手で押さえていた。
「あ。ああ……そっか」
「水原ぁ、水原ぁ!」
深咲は呆然としていたが、安楽土を見るや冷たく言い放った。彼はその言葉に頷き、彼女の意に従って自らの首をかき切った。それだけでは足りないのか、腹を割り、息絶えるまで自らを痛め続けていた。
安楽土から視線を外すと、深咲は幸を見下ろした。
「痛い?」
幸は苦笑する。
「うん、結構。病院行かないとまずいかな。あんまり好きくないんだけど」
「だね。うん。ねえ……」
死んだ安楽土の手からナイフをもぎ取ると、深咲は幸に微笑みかけた。
「私のしたかったこと、もしかしたらなんだけど、こういうことかもしれない」
深咲はナイフの刃を自分の首筋に当てた。
「自分で死ぬことが?」
「……ううん。嘘つきは私だ」
彼女は幸にナイフを持たせようとした。幸は拒んでいたが、深咲が持っているよりはましだと判断してそれを受け取る。
「死ぬのが怖いんだ。一回死にかけたのに、自分でやるのはどうしたって無理。私、こういうことやってさ、誰かに殺されたかったのかも。この世界から消されたかったのかもしれない」
感傷的で、卑怯な言い分だった。幸は目の前が霞んでいるのに気づいた。
「ぼくは、そういうのは無理だよ」
「じゃあ、一緒に死んで欲しい」
「ふ、あはは、『じゃあ』って、何だよそれ」
ひとしきり笑ってから、幸は深咲にナイフを返した。
「水原さんのしたいようにしなよ。ぼくは少し疲れたし、ここまでやったんなら、頑張ったかもしれないって思えるし」
それに。幸は付け足した。
「一人きりって、寂しいし」
「……ごめんね、八街くん」
深咲が動くより先、獣じみた気配が周囲を充たした。それは、長い髪を振り乱して地面を蹴って飛ぶように駆けて、立ちはだかるものを蹴散らしながら進撃する。遠くても見間違えるようなことはなかった。幸はその人物を認めて、
「八街、くん……?」
「ごめん」
安心しきったかのように息を吐いた。
グラウンドに来たのはむつみだった。彼女はいつになく大きな声で幸を呼んだ。数秒で彼のもとに駆けつけると、拳骨を叩きつけた。白目を剥きそうなくらい痛かった。彼は間の抜けた声を漏らして地面に突っ伏す。
「あっ」
むつみは深咲の手からナイフを取り上げてそれを遠くへ放った。そうしてから、ベルトに差していた大鉈を引き抜き、深咲目がけて振り被った。
「待って叔母さん!」
むつみは幸を無視していたが狙いは外した。鉈は深咲の頭蓋ではなく、地面を叩き割った。むつみは得物を手元に戻した。
「あ、あの……?」
「心中なら止めなかったかもね」
幸はむつみを見る。先まで鬼のような顔をしていたが、今の彼女は『叔母』の顔に戻っていた。
「生きてるやつがこの世を儚むのはいいけどさ、何も死人に付き合って死ぬことはないよ」
「分かるんですか」
深咲は言った。むつみは彼女には答えなかった。
「その子、もうほとんど死んでる。今も動けてるのが不思議なくらい」
「死んでるって……違うよね。水原さん」
「ううん、違わないよ」
深咲は手で腹を押さえる。そうしてそこを愛おしげに撫でた。
「男爵にね、最初に会った時に私は『殺された』の。お腹から血がたくさん出てね。でも、その血のせいで男爵は私に力を使うことになった。本当なら私、とっくに死んでたけど、男爵に生かされてたって形になるのかな」
「だったら病院に行こう。お医者さんに診てもらえばいいよ」
「もういいんだ」
「何がいいんだよっ」
幸は深咲の手を無理矢理握った。宵のせいではない冷たさが伝わって身震いする。近づけばいやが上にも実感させられる。彼女と母の顔が重なって見えていた。まともに深咲を見られなくなって、幸は俯いた。
「魔法が切れちゃうね」
骸の巨人も、動かなくなっていた屍も、もう、ただの死体に戻っていた。今はピクリとも動かない。普通に、当たり前の現実に戻っただけだった。
幸は《花盗人》を使おうとした。骨抜きの《十字架男爵》を使えば、深咲はまだ死ななくて済むと考えたのである。しかし実行には移せなかった。
「気持ちだけで充分。ね、ありがとうね。私、何だかんだでさ、最後に日常に戻れた気がする。きっと八街くんのお陰だと思う」
「言わないでよ、そんなの」
「さっきはごめん。君のせいだとか言って。違ったね。君が来てくれてよかった、だった」
謝らないで欲しかった。やりたいことをやって、言いたいことを言って自分の前からいなくなるのは、ずるい。幸は深咲の手を強く握り締めた。陽だまりのような暖かさを分かち合いたかった。
「もう一つ訂正していい? 私は、八街くんが」
柔らかな風が幸たちの間を通り抜けていく。
「……水原さん?」
幸は顔を上げた。深咲はこと切れていた。立ったままで、幸に手を握られたままで。その死に顔は安らかだった。
朝はごはんかパンか。
むつみはどっちでも気にしなかった。同じ炭水化物だ。腹の中に収まれば同じである。強いて言うならパンの方が楽だから、朝はパンにしている。
「どっちがいい?」
対面に座る幸に聞いてみると、彼はぼうっとした様子で目だけを向けてきた。
「話、聞いてませんでした」
「朝食のリクエスト。何がいいのかって」
幸は鼻を啜って目を擦る。
「お任せします。叔母さんの料理はおいしいから」
「嘘つきだなあ。いつもいつもむすーっとした顔で食べてるのに」
「そんな顔してましたか」
今もしている。指摘すると、幸は困ったように頬をかいた。あまりいじめるのも可哀想かと、むつみは席を立って洗い物を始めた。
水原深咲が亡くなってから数日が経った。あの夜、むつみはグラウンドで岬を見た。彼女とは視線を交わしただけだったが、互いが姉妹であることには気づいていたはずだった。その後は、岬は幸の前にも姿を現していないらしい。まるで最初からいなかったかのように、忽然と。岬は幸にとっては母であり、むつみにとっては姉だった。二人とも一人の女に振り回されていたのかもしれなかった。ただ、むつみはあの夜以降、岬に対する憎しみが薄れたような気がしている。どうでもよくなったと言い換えてもいい。岬が子供の頃の姿でいた理由に、何となく思い至ったからだった。
幸は表面上は大人しかった。むつみが見ている限り、荒れることもなく、必要以上に嘆いている風にも見えなかった。休校になってからは家の手伝いをしたり、電話で誰かと話しているのが増えた。
「学校、今日からだっけ」
分かり切っていることをむつみは聞いた。幸は首肯し、また一口パンをかじる。彼女は、幸がそうやって当たり前の日常を送ろうとしていることに対して腹を立てた。
「嫌だったら学校行かなくてもいいよ」
「ぼく、そんなこと言ってませんけど」
「行きたいの? あんなことがあったのに」
幸は目を伏せる。深咲や骨抜きのことを思い出しているのかもしれなかった。
「聞いてもいいかな。さち君。どうしてあんなことしたのかって」
「あんなことって」
「切った張ったやっちゃってさ、怪我までして」
幸の傷は浅かった。体にはかなりの負担がかかっていたらしいが、それもメフの有能な医者が解決した。この町の医療行為は異能に拠っており、もはや魔法の領域に近い。むつみも何度か世話になっている。
「で、どうして?」
「たぶん、好きだったんじゃないかなって」
「あの、水原って子?」
「たぶんですけど」
幸は本当にそう思っているようだった。だが、むつみは他の狩人から深咲や骨抜きの異能について聞かされていた。幸はきっと悪い女に騙されていた。幸を突き動かしたのは彼女の異能のせいで抱いた偽りの好意である。
「ぜーんぶ嘘っこだと思うけどね」
「そうかもしれません」
幸は知らん顔で笑った。食事を済ませた後、彼は盛大なくしゃみをする。
「あ、ごめんなさい」
「風邪かなあ」
「熱はないんです。あの、薬とかってありますか。花粉症の」
「花粉症の? ……あ。普通の花粉症の?」
「え? あ、はい。普通の方の」
少しおかしかったので口元が緩んだ。むつみは咳払いして戸棚や引き出しを探し始める。
「目が痒くって鼻がむずむずしてて」
「いつから?」
「メフに来る前からです」
幸は同じ時期に扶桑熱と花粉症に罹っていたのだろう。
「もっと早く言いなよ」
「これもそういうものなのかなって。ずっと我慢してたんですけど」
「我慢って」
「くしゃみとか」
「扶桑熱と花粉症は似てるけど、扶桑熱はそういうの長引かないよ、普通」
むつみは幸を睨みつけるようにして見た。では、今までの彼の仏頂面や無愛想な態度はくしゃみを我慢していただけなのか。
「鼻も詰まったりしてた?」
「はい」
「じゃあ、料理の味なんかも」
「ええと、まあ、はい。ちょっとよく分かんなかったです」
気づいてみると案外簡単だった。だいたいはそんなものなのかもしれない。むつみは役に立ちそうにない薬箱を元の位置に戻し、後で薬局に行こうと決めた。
それじゃあと、幸はリュックサックを背負う。むつみは、玄関に向かう彼をリビングから見送る。
「ぼく、自分のことがちょっと分かった気がします」
「そう」
「いってきます、叔母さん」
「ん、いってらっしゃい」
手を振って、幸がいなくなって、ごく自然にいってらっしゃいと言えたことに気づく。外から誰かのくしゃみが聞こえて、むつみは何となく楽しくなった。
母に爪を剥がされた時は辛くて悲しかった。
父に殴られた時は痛いだけで何も思わなかった。
むつみにされた拳骨の感触はまだ残っている。痛かったが辛くなかった。少し嬉しいくらいだった。あの夜、彼女が現れた時の気持ちは、どれだけの時間が流れたって忘れられそうにない。自分らしくいられるくらい強くなりたくて、八街幸のまま生きていられるくらい誇れる何かが欲しい。
幸の鼻先に桃色の花びらが舞い降りた。彼はそれを摘まみ、ふと、むつみのようになりたいと思った。
今日も扶桑は狂い咲く。明日もその先もきっと、ずっと。あの大樹のように変わらないものを見つけられた気がして、幸は手の中の桜をいつまでも眺めていた。
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