メンズーア



 それはどこにでもある朝の風景だった。

 人が行き交い、ごった返す教室で、生徒同士の肩がぶつかることは何ら珍しいことではない。男子生徒のぶつかった相手がケンタウロスの女子ということさえ除けば。

「いって……」

 男子生徒はぶつかった拍子に教壇に軽く頭をぶつけてしまった。それだけだ。血も出ていないし、怪我もしていない。本人も『ごめん』だの『すまん』の一言で済む話だと思っていただろう。

 だが、ケンタウロスの少女――――リリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラは謝罪の言葉を口にしなかった。それどころか転んだ男子を冷たい目で一瞥し、さっさと自分の席に座ってしまったのである。これに腹を立てたのは副委員長の猪口蝶子だ。彼女はリリアンヌの傍に立ち、謝れと詰め寄った。

「周り見てへんかったあいつも悪いけど、あんたも、何か一言あったってええやろ」

 リリアンヌは座ったまま、じっと蝶子を見上げる。教室内は静まり返っていたが、リリアンヌとぶつかった男子は気にしてないという風に笑った。

「いいっていいって」

 男子は軽口も叩いた。場の空気を明るくするためにやったことだ。それにつられて何人かも口々に冗談を飛ばした。毒気を抜かれた蝶子は、そういうことならとリリアンヌへの追及を止めにした。これでお開き。誰もがそう思った。リリアンヌが立ち上がるまでは。彼女は大きな胸をぐいと反らすようにして教室を見回す。

わたくしは馬ではありません」

 イントネーションに少し難はあったが、流暢な日本語であった。寡黙だったリリアンヌが口を利いたことに、皆が驚いた。そして思った。『またこういうパターンか』と。

「今、私を馬と呼んだ人がいます。私はケンタウロスですが、馬ではありません。誰ですか。無礼なことを言ったのは。名乗りなさい」

 名乗るわけがなかった。なぜなら『馬』関連で弄っていたのは一組の男子ほぼ全員だったからだ。良かれと思って冗談を言ったが人にはラインというものがある。怒りのラインだ。その線を踏み越えてしまったのなら後は争うしかない。

 リリアンヌは射抜くような視線を方々に向ける。焦れたのか、彼女は制服のポケットから白い手袋を取り出して、それを見せつけるようにした。

「拾いなさいな」

 持っていた手袋を叩きつけるようにして床に捨てると、リリアンヌはそれを指差した。

「け、決闘……?」

 察しのいい田中小がリリアンヌを見ようとした。しかしブチ切れた美人を見るのは恐ろしかったのか、顔を上げられなかった。

「み、みんな、アレを拾うなよ。拾ったらやべえ」

「どうなるんだよ?」

「手袋を捨てるってことは、決闘を申し込んでるってことだ。それを拾ったら『決闘を受けて立つ』って合図なんだよ」

「決闘て……」

 一組の生徒は引きまくっていた。リリアンヌの怒りは収まらない。

「昨日からの私に対する無礼な視線、振る舞い。許せるものではありません」

 怒りに打ち震えるリリアンヌ。じき、始業のチャイムが鳴る。誰もが鉄の到着を望んでいた。

「あぶなー! おはよう、まだセーフだよね? 間に合ってるよね? あれ、みんなどうしたの?」

 始業ぎりぎりのタイミングで幸が教室に入ってきた。彼は訳が分からないまま、自分の席に鞄を置く。リリアンヌが立ち上がってクラスメートを睨みつけているのは気になったが、彼は彼女の足元に視線を遣った。

「おはよう、リリアンヌさん。あ、なんて呼んだらいいのかな。リリアンヌさんじゃなくって、マリアンヌさんとかの方がいい?」

「あっ、ば、ばか」

 幸は落ちていた手袋を拾い上げてリリアンヌに手渡そうとした。

「はい、落ちてたよ。リリアンヌさんのだよね」

 リリアンヌは手袋を受け取ろうとしなかったが、幸が無理やりに手渡した。

「昨日も思ったんだけど、その靴って学校指定のじゃないよね」

「……いけませんか」

「あっ、あれ? 日本語分かるんだ。……ううん。そうじゃなくて、おしゃれな靴だよねって」

「はあ」

「よかったー、仲良くなれそうで。ぼくは八街幸。八つの街でやちまた、真田幸村の幸でさち。あんまり下の名前は好きじゃないから、名字で呼んで欲しいな。そいで、何か困ったことがあったらぼくに言ってね。こう見えて委員長なんだ」

 幸はホッとした様子で自分の席に戻ろうとする。

 リリアンヌは彼から渡された手袋に視線を落とす。彼女は、自分がクラス中の視線を集めていることに気づいていた。

「委員長」

「はい、どうしたの?」

 リリアンヌは白い手袋を幸に見せつけた。そして言った。

「決闘です」と。

 幸はにこにこと笑っていたが、周りの反応から、自分が妙なことに巻き込まれたのだと察しつつあった。



 蘇幌学園生徒会役員選挙の日が近づいていた。狡っからい藤と葛は、選挙の前から動き、票を集めつつあった。

「ちっ、真似すんなや」

「あんた一年なんだから二年の教室にまで来ないでよ」

「八街とかと話すだけだからカンケーなくね?」

「分かってんのよあんたの魂胆は」

「くっつくなって、うぜーし」

 昼休みになるや、藤と葛は選挙の事前工作のために二年一組に向かっていた。しかし、一組はそれどころではなかった。

 机や椅子は教室の壁や窓際に追いやられていて、部屋の中央には幸と転校生のケンタウロス少女が大きな机を挟んで向かい合って立っていた。他の生徒は二人を囲んで固唾を呑んで見守っているようだ。机の上には紙皿に乗った、小さなシュークリームが五つあった。

「……何してんの?」

 葛は廊下の近くにいた翔一に声をかけた。彼は葛を見ないまま言った。

「決闘だ」

「は?」

 事情を知らない葛が驚くのも無理はない。しかしこれはれっきとした決闘である。

 ――――決闘。

 要はタイマンである。だが、幸とリリアンヌは学生だ。この場合、学生決闘メンズーアとも言う。決闘の方法はフェンシングスタイルでの戦いだ。ただし、二人は殴り合いなどはよろしくないと鉄に言い含められており、決闘の方法は安全なものになった。

「それでは……」

 一人の男子が歩み出て、幸とリリアンヌの様子を窺った。

「これより、第一回八街幸とリリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラによる……チキチキ! 蘇幌学園伝統、ロシアンシュークリーム対決を始めます!」

 幸はげんなりとしていた。リリアンヌの目は死んでいた。これは彼女の望むところではなかった。受けた屈辱を晴らすために決闘するつもりだったのだが、いつの間にやらこんなくだらない茶番に成り下がってしまった。しかし、自分から手袋を投げ捨てた手前、やっぱりいいですと引き下がることも難しかったのだろう。

 幸は幸で、自分がリリアンヌと対決させられている理由が分かっていなかった。

「あのー。よく分からないけど、シュークリームを食べればいいんだよね」

「五つのうち、一つはワサビ入りだ」

「どうしてそんなことになってるの」

「ワサビ入り食ったら負けな。リリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラさんもそれでよろしいですね」

 リリアンヌは壊れた人形のように緩慢な動きで頷いた。ちなみに、彼女は自分のことはフルネームで呼ぶように言っていた。神聖な決闘を汚した一組男子たちへのせめてもの嫌がらせだった。

「勝ったらどうなるの?」

「さあ?」

「負けたら?」

「さあ?」

 決闘ちゃばんを仕切っていた男子は雑な対応だった。

「いいから、ほら、早く始めろよ」

「もう。仕方ないなあ」

 幸はリリアンヌを見上げた。

「そっちからでいいよ」

 リリアンヌは迷っていたが、シュークリームに手を伸ばす。その時、幸はアッという声を出した。

「……なんですか」とリリアンヌは幸をねめつける。

「それ、ワサビ入りだよ」

 彼女は動きを止めたが、冷静な態度を崩さなかった。

「なるほど。ゆさぶりをかけているのですね」

「ううん、食べない方がいいと思うよ、それ」

 見物していた男子が面白そうに『心理戦だ、心理戦』などとはしゃいでいた。

 リリアンヌは幸を観察していたが、ふっと微笑を浮かべてシュークリームを口にした。その笑みが消えて、彼女の目がかっと見開かれた。

「ギブ? ギブ?」

 問われたリリアンヌは口元を手で押さえながら首を横に振った。

「だから言ったのに」

 幸は残ったシュークリームをぱくぱくと食べ始める。リリアンヌは何か言いたそうにしながら彼を何度も指差した。

「ギブアップ?」

「んー、んー……」

「ギブアップしないって」

「ぼくの勝ちじゃないの?」

「でも耐えてるしなあ……」

「ルールが違うじゃないか!」

 決着はつかなかった。



 それから、幸とリリアンヌはことあるごとに決闘した。あるいはさせられた。娯楽に乏しい学校生活で、彼らは格好の標的だったのだ。

「いや、転校生との垣根を取り払うためのレクリエーションだ」

 一組の男子の中には、そのように言うものもいる。

 いつしか、休み時間に行われる学生決闘の見物客が増えた。

「第一回八街幸とリリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラによる……チキチキ! 蘇幌学園伝統、ババ抜き対決を始めます!」

「あ、右端のがジョーカーだから、引かない方がいいよ」

「またそのようなことを……あっ」

「だから言ったのに」

 決闘は一組の男子が段取りすることがほとんどだった。まれに、リリアンヌからこっそりと幸に決闘を申し込む時がある。彼女は幸が通りがかったところを狙い、手袋を落とす。条件反射のようなもので彼が手袋を拾うと、リリアンヌは言うのだ。

「拾いましたね」と。

「……今度は何するの」

「小テストの点数で勝敗を決めましょう」

「いいよ、はい」

「…………この勝負はやめておきましょう」

「何点だったの?」

「お下がりなさい」

「ねえ、何点だったの?」

「お下がりなさいと言っています」



 ある時、リリアンヌが決闘に異議を申し立てた。

「運や頭脳だけで決めるのはいかがなものかと」

「えー? 次はチキチキロシアンコロッケにしようと思ってたんだけどなー」

「もう辛いのはうんざりですわ」

「じゃあ予定を繰り上げてセンブリ茶にしとくか」

「それ苦いやつでしょう。知っていますわ、バカにしないでくださいまし」

 リリアンヌは、知力と運ではなく、体力で勝敗を決したいのだと言った。それを聞いた一組の男子は高校生クイズみたいだなと思った。

「でも体力ってなあ……人間とケンタウロスじゃ差があるよな」

「皆さんの生まれを呪うほかないですわね」

「こいつ……まあいいや。委員長、どうすんの?」

 話を聞いていた幸は、いいよと気楽そうに言った。

「リリアンヌさんの好きなようにしたらいいんじゃないかな」

「決まりだな」

「どうでもいいけどなんで八街だけ『リリアンヌさん』なんだよ。これはどういうことですかね『リリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラさん』」

「私の名前を覚えられないとおっしゃるんですもの。変な風に呼ばれるよりずっとましです」

「はあー? じゃあ俺らもリリアンヌって呼ぶし! なんかそっちのが仲良しって感じしねえ?」

 ガンという物音がした。リリアンヌが自分の後ろにあった椅子を蹴飛ばしたのだ。その衝撃たるや木製の椅子が教室後方にある壁と衝突して、ぽろりと足が取れてしまうほどだった。

「あら、失礼。皆さまも私の後ろには立たないことをおすすめします」

「誰か後ろ足にリボン結んどけ」

 リリアンヌは決闘の種目に一〇〇メートル走を選んだ。昼休みでは時間が足りないと言うので、彼女の意向に沿って決闘は放課後に行われることとなった。

 放課後。幸は制服のままでグラウンドに立ち、一組男子と共にリリアンヌが来るのを待った。

「来ねえし……」

「着替えたいとか言ってたけどな」

「なんで? なんで着替えんの?」

「スカートがめくれるからとか言ってた」

「は?」

「誰も気にしねえだろ」

「それナチュラルに差別発言だからな」

 五分後にリリアンヌが姿を見せた。彼女は制服ではなく上下のジャージに身を包んでいた。スカートではなくなったので馬の下半身ががっつり見えている。毛並みが整った尻尾もふりふりとさせている。

「お待たせしました」

「ホントだよ」という男子の声を気にも留めずに髪の毛をリボンで結ぶと、リリアンヌは幸と相対した。

「じゃ、一〇〇メートル走な。ええと、とりあえずトラック一周しちゃって」

「本当に一〇〇メートルですの?」

 疑うリリアンヌをよそに決闘が始まった。よーいどんの声を合図に、最初にハナを切ったのは幸で、第一コーナーの前にリリアンヌの前に立つ。コーナーを曲がり、短い直線を終えて第二コーナーを曲がり終わった時点でも彼が先頭だった。

 レースを見ていた男子はリリアンヌを指差した。

「ありゃ逃げ馬じゃねーな」

「脚質が差しっぽい」

「性格的にな」

「オッズは?」

「さすがに今回は委員長低いな」

「前走、前々走は酷かったけど、まあリリアンヌ・マリアンヌ・ド・ッゴーラはここがホームグラウンドみたいなもんだから」

 決闘は賭けの対象となっていた。元締めは一組の男子である。

 そんなことは露知らず、幸は第三コーナーを曲がろうとしていた。が、リリアンヌが外からまくってくる。彼はあっという間に追い抜かれてホームストレートに二人が戻ってきた。

「いけ! いけ!」

「残せ!」

「八街オラァ!」

 野次を浴びながらリリアンヌが一着でゴールインする。そこから何馬身か差をつけられて幸が二着でゴールした。

「あー、くそ、三連単外したわ」

 幸は肩で息をしていたが、リリアンヌは涼しい顔で髪の毛をかき上げていた。彼女は息を一つつき、自分を馬扱いしたものたちをねめつけて追いかけ回す。

「よーうヤチマタ、思ってたより足速いんだな」

「これ……ずるくない? 勝てるわけないよ」

「けど見ろ、あいつの顔を。初めて勝ったから結構嬉しそうだぞ」

「だったらいいんだけど……」



 ある日の放課後、幸は昇降口で現生徒会長の長田と遭遇した。彼に会うのは久々だったので、幸はご機嫌で話しかけたが、長田の調子は悪そうだった。

「会長、痩せました?」

「そう見えるか」

 靴を履き替えながら、長田はため息を漏らした。

「やっぱり、生徒会のことで忙しいんですか」

「そうだな……実は、鵤くんと衣奈くんから板挟みにあっていてな」

「モテモテですね」

「そういうやつではない。今度の生徒会選挙のことでな。ああ、八街くんは帰りか?」

 幸は頷いた。

「今日の決闘は終わったので」

「決闘? ああ、例の転校生の」

「一緒に帰りましょうか」

「ああ、みちすがら話そう」

 二人は連れ立って昇降口を出た。正門を抜けた時、長田は口を開いた。

「あの二人が立候補するのは知っていると思うが、選挙の時、演説をやるんだ」

「そうなんですね」

「応援演説というものがある。あの二人は、俺にそれをやれと言っているんだ」

「会長が応援してくれたら心強いですもんね」

 長田は眼鏡の位置を指でずり上げた。

「しかし両方ともを応援することはできない」

「それであの二人が会長を取り合っているんですね。どっちの応援をするつもりなんですか」

「俺は……学校をよりよくしてもらいたい。そういう人の応援なら喜んでやりたいが」

 そこで長田はまたため息をつく。幸は彼の心労を察した。

「俺の最後の仕事だからな」

 長田の横顔には照れがあったが、生徒会長をやり遂げたという自信のようなものも見え隠れしていた。

「ちゃんとして終わりたいですよね」

「……ああ。しかし衣奈くんにも鵤くんにも参ったものだ」

「何か、変なことされてませんか」

「俺には色仕掛けも袖の下も通じないと知っているからな。大丈夫だ。今のところは」

「会長?」

 長田は立ち止まり、じっと幸を見ていた。彼は不思議そうにして長田を見返す。

「どうしました?」

「いや、何でもない。気にしないでくれ」

「えっへっへ、疲れてますねー。生徒会卒業して時間ができたら、また釣りに行きましょうよ」

「あの釣り堀か。それもいいな。よし、楽しみにしておこう」

 年相応の笑みを浮かべると、長田は肩の骨をばきばきと鳴らした。夕焼けに照らされた彼の表情に、少し生気が戻ったように見えた。

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