大氷結<2>



 魔区の森は以前と違う様相になっていた。

 鬱蒼と生い茂っていた木々は薙ぎ倒されて、僅かに残った草木には霜が降りた影響か、枯れてしまったものもある。ひと月ほど前には研究者たちの設置したテントや、タダイチ、いかるが堂の出張販売所で埋め尽くされていた空間が、今は広々としていた。騒々しいのは変わらず、今まさにここへ駆けつけた若い狩人は、戦いの音を聞いて得物に手を遣りつつあった。

「あぁ、出たってのはアレすか」

「おう、来たか」

 若い狩人は見知った狩人に話しかけた。事情は、裂け目の近くにいるケモノを見てすぐに察せられた。

 馬鹿でかい雄鶏だ。赤、金、銀のカラフルな鶏冠。広げた翼は飛べこそしないだろうが狩人たちを威嚇するのに使われている。特徴的なのは尾だ。蛇のように長くうねっており、付け根には鱗が見え隠れしている。雄鶏と蛇の合いの子のような姿であった。

 そのケモノは今、多くの狩人たちによって投げ縄などで体や嘴をぐるぐる巻きにされて動けないでいる。羽根をばたつかせてもがくのだが、拘束は解けないでいた。

「《長鳴》だ。前に出たのは、七年くらい前だったか」

「い? そうなんすか?」

「つっても同じ個体じゃない。同じ種類なだけだ。ほら、これ噛んどけ」

 若い狩人は見覚えのない葉っぱを手渡された。言われたとおりにそれを噛むと、濃厚な苦みが口の中に広がって吐き戻しそうになった。

「吐くなよ」

「……なんすか、これ」

 戦意が根こそぎ持ってかれそうなほど苦かった。

 男が噛んだのは大空洞の中で育つ新種植物の葉だ。

「あのトサカ野郎の吐いた息を吸っちまうとな、体ん中から固まって石になる。嘴で突っつかれても駄目だ。突かれた場所から少しずつ固まってく」

「だから嘴を縛ってんすね。で、さっきの葉っぱは?」

「あぁ……なんだ。もし《長鳴》の息を吸っちまっても、今の葉っぱの苦さで相殺できる」

「本当すか」

「そう言われている」

 若い狩人は黙り込んだ。暴れている《長鳴》の周囲には、石化した植物や地面が見えていた。彼にとって狩人の言うことの半分は迷信や呪いの類だ。ただ、何かしらの意味があるのは間違いない。そう信じて鉈を鞘から解き放った。



 森の方が騒がしい。喫茶店で洗い物をしながら、日限はケモノでも出たのだろうとぼんやりと思案していた。逃げる気はなかった。別に自分で得物を振るったわけでもないのに、彼はケモノや異能に耐性のようなものができたのだと考えていたのだ。

 ぼうっとする時間が増えた。それは悪いことではない。立ち止まって考え事をするのは日限にとって得難い時間であった。しかし思い返すのはメフに来てからのことばかりである。作業の手が止まり、無意味に流れる水流の音に紛れてドアチャイムが鳴った。彼は蛇口をひねりながら入り口に目を向けた。

「まだ開店前だ。悪いが……」

「なんだ。そうか。なら出直そうか」

 ドアの近くに立っていたのはアレクセイと、車椅子であぐらをかくオリガだった。日限は自分でも不思議だと思いながら、口元を緩めていた。目の前の二人が喫茶店を半壊の憂き目に遭わせて、魔区の調査では傍若無人に振舞っていたというのにも関わらずだ。

「いや、いい。よければカウンター席が空いているが」

 オリガはアレクセイに目配せした。

「コーヒーを二つ」

 頷くと、日限は準備を始めた。オリガたちはその様子をじっと眺めていた。

 コーヒーは大してうまくなかったが話題には事欠かなかった。まるで旧友に会った時のような感覚を覚えながら、日限はふと、あることを口にした。

「君らは《魔女の館》から来たんだろう」

 それはとある研究所の別称であり、蔑称でもあった。オリガは小さく頷き、自分たちの身の上を語った。彼女の語ったことは、日限が予想としていたものとあまり変わらなかった。オリガが、アレクセイが肉体を弄られていることも話した後、息をついた。

「もう、アリョーシャには時間がない。いや、最初からなかったんだ」

 日限の脳裏に、アレクセイが血を吐いていた場面が過ぎった。

「どういうことだ」

「実験の副作用だ。アリョーシャは研究所でも珍しい適合者だったが、扶桑熱をその身に植えつけるなど普通には耐えられる代物ではない」

「……なら、どうしてメフへ来たんだね」

 治療のためというには、オリガたちの行動は消極的な気がしていた。日限の知る限り、彼女らは大空洞にも魔区の裂け目の中にも行っていないはずだった。ここでの調査もさしたる成果は出ていなかったように記憶している。

 オリガは自嘲気味に笑んだ。

「死にに来たんだ」

 その答えは日限の想像の外にあった。

「正確に言うと違うが、望んだものが手に入らなかった場合、そうなる。この地で生涯を終えることになるだろうという話だ」

「望みとは何だ」

 オリガの目が日限を捕らえた。試すような視線を受け、彼は息を呑んだ。

「問題には正解がある。必ずな。しかしその答えを導く出すまでには途方もない力と時間を要する。明確な答えは、聞いてみれば『そうか』と思うだけだが、それを出すまでが辛い。苦行だ。……扶桑熱の治療という問題に、私は答えを出せないでいる」

「君らの望みとはそれか」

「ああ」

 しかし、と、日限は唸った。扶桑熱の解明は未だ進んでいない。オリガたちも、他の研究者も、自分でさえも手をこまねいているのが現状だ。

「ロシアにいた頃、扶桑熱に関するある論文を読んだ。公にはされていない、隅っこに置かれて埃を被ったままのようなものだった。海を渡り、永久凍土にほっぽり出されて、異端とされたその内容は、しかし、蜘蛛の糸に縋りつきたくなるような私たちにとっては、確かに一縷の望みと言えた」

 オリガは続けた。

「もうずっと昔の話だ。当時の風潮として、『扶桑が扶桑熱をもたらしている』というのが当たり前だった。今もそうだ。あの馬鹿でかい桜を見て、あれを原因だと思わないものはいない。だが、私が手に取ったレポートを書いたやつはな『扶桑とは扶桑熱患者のもたらしたものである』と言っていた。まるで逆だ。全く真逆のことを言っていた。つまり、あの桜は『後』で『結果』にしか過ぎない。その前に何かがあって、そいつが扶桑を生み出したのだと。だから扶桑熱を究明するには扶桑の木ではなく、その先を、もっと深く、奥にあるものを調べるべきなのだと」

「そう……か。そうか。君らもあれを読んでいたのか」

「ああ。私は、その論文を書いたやつの顔は知らないが、名前は知っていた」

 日限の体から力が抜けつつあった。

「なあ、日限。日限弦太郎。お前はあの後、どこで何をしていたんだ」

「私は……大学を辞めて、地元の学校で教師をしていた。小学校の教師だ」

「お前の教え子か。変わった考えを持っていそうだな。将来の楽しみが一つ増えた」

 冷めたコーヒーに口をつけると、オリガは愉しそうにしてカウンターの方へ身を寄せた。

「あの論文が真実なら、扶桑を生み出し、扶桑熱を生み出した何かがあるはずなんだ。この街に。メフという土地に。私たちはそれを探しに来た。そうして、扶桑熱を……いや、アリョーシャを治せないかって、そう思ってここへ来たんだ」

 そんな馬鹿な。そう、笑い飛ばしてやりたかった。だが、日限にはできなかった。夢物語じみた希望を胸にやってきたオリガたちを、どうして笑うことができようか。

「だが、扶桑には行けなかったのだな」

「ああ」

 日限にもオリガたちの気持ちが痛いほど分かった。そこに何もなかったら終わるからだ。お前は間違っている。お前はおかしい。そうやって突きつけられるのが恐ろしいのだ。

「時間ならまだ残っている。扶桑へ行くんだ。私も手伝う。いや、私がいては邪魔にしかならないだろうが……」

「いや、もういいんだ」

「なぜだ。そのためにここへ来たんだろう」

「限界なんだ」

 その時、日限は、アレクセイが先からひと言も発していないのに気づいた。彼は穏やかな顔つきだが、どこか遠くを見ているようでもあった。

「アリョーシャはたぶん、自分がメフにいることも、もう、分かっていない」

「馬鹿な……」

 オリガは車椅子から降りると、アレクセイを代わりに乗せた。

「お師匠、これ、私が乗っても構わないのですか」

「ああ。大人しくしてろよ」

「はい」

 アレクセイは聞き分けのいい子供みたく素直に頷いた。日限は、もはや彼が軽口を叩くことはないのだろうと実感した。

「どこに行くつもりだ」

「静かな場所がいい。誰にも邪魔されないような、そんなところがいい」

 そうか、と。日限は、オリガたちが望みを果たせないと悟ったのだと分かった。彼女らは死ぬつもりだ。それが分かっていながら、彼は引き留める術を持たなかった。

「どうして、そんなことを話したんだ」

「ありがとう」

 オリガは振り向いた。どこにも嫌味や邪気などない、雪代のような笑みを浮かべていた。

「それが言いたかった。お前の書いた論文が、私たちの命を少しの間だが繋いでくれた。お前がいなければ、私たちはもっと前に、絶望を抱いたまま死んでいただろう」

 日限は愕然とした。そこでようやく気がついたのだ。オリガたちには、最初から扶桑の何たるかを突き止めるつもりなどなかったのだと。彼女らは答えを得ないまま、自分たちが間違っているのかどうかを確かめないまま――――つまるところ、希望を抱いたまま死ぬつもりだったのだと。

 ドアチャイムが鳴る。オリガたちが出て行ったのだ。しかし、日限はその場から動けなかった。

 森がまた、一段と騒がしい。オリガたちの行き先には見当がついている。日限は思わず、携帯電話を手に取っていた。電話は繋がっている。彼は跪いた。

「すまない。すまない。私のせいだ。すまない。もう、どうしても、君しか思いつかなかった」

 ややあって、通話口から声が漏れ聞こえた。

『すぐに行きます』



 森では、狩人たちと《長鳴》の戦闘が続いていた。

「あっ、やべ」

「駄目だな、そりゃ。おい、下がってろ」

「っス」

 若い狩人は、石化しつつある自分の右腕から視線を外した。

《長鳴》の拘束は解かれていた。遮二無二暴れ回った末のことだ。縄を持った狩人がケモノの嘴に狙いを定めているが、ケモノとてそれを警戒していた。

《長鳴》の異能は狩人たちを苦しめていた。この場にはメフの病院からほとんど無理矢理連れ出してきた、異能持ちの医者がいる。ケモノに石化されても致死の心配こそないが手が足りなかった。

 警戒すべきはケモノの嘴。それから息だ。しかしケモノの爪や、巨体からなる膂力も尋常のものではない。

 毒を持つもの。素早いもの。ケモノには厄介なものが多くいるが、狩人が特に恐れるのは体が大きいケモノだ。単純に力の強いやつこそたちが悪い。《長鳴》は石化の異能と巨体をもってして暴虐の限りを尽くさんとしていた。歯止めになっていたのは《救偉人》といった猟団や、ベルナップ古川などのベテランである。彼らは最前線で善く戦っていた。

「おぉい来たぞっ、軽トラだ!」

 その言葉を聞いた狩人たちが奮い立った。《猟会》から援軍が到着したのだ。

「氷見さんか」

「これでどうにかなりやすかね」

 大概のケモノは寒さに弱い。《猟会》の軽トラックと言えば狩人の間では有名で、《霜の朝》の氷見浪が来たのだと皆は喜んだ。だが、軽トラックから降りてきたのは氷見浪ではなかった。彼の孫娘、庄出愛子が一人きりだった。彼女はサングラスを外し、周囲を睥睨する。愛子の近くにいた狩人は、恐る恐る彼女に口を利いた。

「あ、あの、氷見さんは」

「爺ちゃんはぎっくり腰で動けねえ」

「えっ」

「なもんで私がピンチヒッターってわけだ。めんどくせえ」

 狩人たちは明らかにがっかりしていた。愛子はかっかっかと笑った。

「そんじゃやるか。おい、あのでけえニワトリをやればいいんだよな」

「あー、まあ、無理しない感じで」

「呼びつけといてなんだよそのやる気のなさは! こっちゃイライラしてっから派手にやらせてもらうよ」

「えっ、あのー、そういうのはちょっと」

 愛子は話を聞いていなかった。狩人たちはいったん、《長鳴》から、この森から距離を取り始めた。

 氷見浪。

 彼は《猟会》の狩人の中で最も経験を積んだ、ベテラン中のベテラン狩人である。一線を退いたが、鉈を振るえば昔日の剛腕は健在であり、ケモノに対する造詣が深く生き字引とも呼ばれている。しかし氷見が他の狩人から信頼されているのは仕事に対する細やかさだ。異能だけに頼らず、自らの《霜の朝》を使う際にもケモノの習性を利用し、周囲の影響を鑑みて、無駄なく、的確にターゲットを狙う。齢七〇にもなる氷見が引く手数多なのも彼の手際を買うものがそれだけ多いということだった。

 一方の愛子だが、一言で現すなら彼女の仕事は雑である。雑そのものである。それは愛子の性格もそうだが、行使する異能にも原因があった。

《大氷結》。冷気を広範囲に放つそれは氷見の《霜の朝》とほとんど違いはないが、出力が段違いだった。氷見のものより力が強く、範囲も広いので標的を選べないのだ。おまけにそれを扱うのが大ざっぱな愛子ということもあって、彼女が出張る度に余計な被害が出ることもままある。周りの狩人たちはそこを危惧していた。

 しかし愛子は、そんなもん関係ないんだと言わんばかりに異能を発動していた。瞬間、彼女の周囲からかちかちという音が鳴る。既に《大氷結》は始まっていて、夏の森は瞬く間にその姿を変えつつあった。

 ぱきんと乾いた音が周辺から上がり、樹氷が現れる。《長鳴》も足元から伝わる冷気に戸惑っているらしかった。

「よっしゃ、もうその辺で……」

「今日すっげー調子いいな! もうちょいいけんじゃねーの!? なぁ!?」

「ひみちゃんだめだって!」

 たちの悪いことに愛子は調子乗りだった。扶桑熱に罹ったものが異能を使う際、視界が狭まり熱に浮かされるという。周りが見えなくなることが多いのだ。彼女の性格はそれに拍車をかけていて、こうなると気が済むまで《大氷結》を使いまくる。

「はっはっはァ!」

 不用意に近づけば凍らされる。実際、そうなったものもいる。狩人たちは遠巻きにして見守るしかなかった。

 やがて一帯の森は時間を忘れたかのような有様で、雪すら降り始めていた。

「……冗談みてーだな」

 手のひらに乗った雪が溶けていくのを見て、狩人たちは呆れ返っていた。

 銀世界が広がっていた。草木は雪で化粧され、冷えた風が魔区にいたものたちを刺すようにして吹いた。薄着の狩人たちはやめるように叫んだり、懇願していたが、愛子はげらげら笑うだけで聞いちゃいなかった。



 死ぬなら静かで、二人きりになれる場所がいい。

「ひっひ! あっはっは! なんかすげー楽しくなってきたんだけど!?」

「いい加減にしろや!」

「ふざけんな氷見さんに言いつけんぞ!」

「やってみろじいちゃんなんざ怖くねえ! 私はもう庄出愛子じゃねえんだ! これでバツニだぞこの野郎!」

「あっ! こいつヤケになってやがる!」

「最悪だ。誰だよこいつ呼んだの」

 うるさい。

 オリガは、アレクセイの乗った車椅子を押しながら舌打ちした。しかし、この景色はどうだ。故国のそれとは違うが、この冷たさ、凍てついた空気はどうしても郷愁を呼び起こさせる。

「お師匠」

「どうした? どこか痛いか?」

 先までぴくりともしなかったアレクセイが、空に向かって両手を伸ばした。

「帰ったら、あなたの作る、スープが飲みたい。そうして火に当たりながら、あの話を聞きたい。なんでしたか、ほら」

「扶桑熱の話か? 聞いていてもつまらないだろう?」

「その話をしている時、お師匠の顔がいつもと違って見えるんです。僕はそれが嬉しくて」

 アレクセイの心はここにない。今、彼はかつて自分たちが暮らしていた場所にいた。

「私はどんな顔をしてる?」

「悲しそうなんだけど、でも、誇らしげでもあるんです」

「……そうか。そんな顔をしていたのか」

 オリガは、アレクセイの頭を撫でた。こうすると彼は安心して、どんな吹雪の夜でも寝息を立てた。彼女は思わず目を瞑った。そうすると、自分たちが本当にあの国の、自分たちの住んでいた小屋にいるような気がしてならなかった。

 温かなスープ。獣の遠吠え。怯えるアレクセイを抱きしめてやった。彼と共に日が経れば、その分だけ誰かに許されたような錯覚すら覚えた。短い春も、長い冬も、ずっと二人きりだった。吹雪が建物を叩く音、強い揺れ、それらに脅かされながらも、確かに人として生きた。そう思えたのは二人でいる時だけだった。だから、死ぬ時も二人だ。

「ああ、お師匠の歌……なんだか、久しぶりな気がするな」

 オリガはアレクセイの頭を撫でながら歌った。吹雪が、二人の姿を隠した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る