魔区の喫茶店
「なあ、俺の母ちゃんがやたら釣りにハマってんだけど」
「いいじゃんか。グランダーおかん」
「すげえ化粧して行くんだけど。何を釣りに行ってんだろうな」
「知らねえよ」
「最近、晩飯がカップ麺になるくらい釣り堀に入り浸ってんだけど」
「知らねえって! つーか何しに魚釣りに行ってんだよ! 魚食わせてやれよ!」
今日も蘇幌学園の二年一組は騒々しかった。
開いた窓からは風が流れてくるが、じめっとした空気が入れ替わるだけなので生徒たちはうるさくしつつも、常よりかはげんなりとしている。それでも通りがかる他のクラスの生徒が顔をしかめるほどで、やかましいことに変わりはない。幸もその中の一人で、制服のボタンを一つ外して涼を得ようとしていたがさして効果はなかった。
「冬にならねえかなあ、マジで」
そう言うのは翔一で、彼はボタンを一つ外すどころか上半身裸であった。シャツは自分の椅子にかけたままである。翔一に倣って数人の男子も同じようにしていた。この教室には猪口蝶子という女子もいるのだが、彼女は男子の半裸程度なら気にしていなかった。一組教室の動物園化は進んでいる。
「このまま冬になったら翔一くん凍えちゃいそうだね」
「茹だるよりかは全然いいって。俺ぁ寒さには強いんだ」
「そうなの?」
「たぶんな!」
チャイムが鳴っても騒々しい動物園に飼育員がやってきた。蒸し暑いが気温など自分には関係ないとでも言いたげに眉一つ動かさず、きっちりぴっちりした服装の鉄一乃である。彼女が教室を睥睨すると皆、しんと静まり返った。
「皆さん、おはようございます。打墨さん」
「は、はいっす」
翔一はぎくりとした。どうして自分の名が呼ばれたのか不思議そうにもしている。
「お風邪を引かれるかもしれません。どうぞシャツを着てください。打墨さん以外の方もそのようになさってください」
「いやー、しょうがなくないすか? すげー暑いんすよー」
「制服ですし、暑いのは皆さん同じですから」
「つーかクーラーとかないんすか? 職員室はクーラー利いてましたけど」
「おー、それな。先生ばっかずるくね?」
「私立なのに冷房ないとか酷くね?」
誰かの発言を皮切りに、それに便乗して好き放題言いまくる男子ども。鉄は彼らの様子をじっと見守っていた。こんな時に皆を静かにさせるのが委員長の仕事だったかもしれないが、幸もまた暑さでぐだっていたし、彼もできることなら服を脱いで授業を受けたいくらいだと思っていたので静観していた。
鉄は息を一つ吐き、蝶子を見た。
「教室にいるのは男の子だけではありませんから」
「いや、別にうちは気にしませんけど。そんなん若衆で見慣れてるし」
教室から感嘆の声が上がった。
「いえ、私が見慣れていませんので」
鉄がそう言うと、男子どもは彼女に視線を遣ったまま黙り込んでしまった。
「ですから困ります」
「あ、困らせるのはよくないですね」と幸が言った瞬間、蝶子が怒声を放った。
「オラァ! はよ服着んかい! 委員長と先生が困っとるやろ!」
「ええー、ちょっと蝶子ちゃん、言ってることが意味分かんねえんだけど……」
「なんでや!」
鉄は重い息を吐いた。
生徒指導室のカーテンを開けると、鉄は幸の方へと向き直った。
「その後はどうですか」
「その後ですか? ええと、何のですか」
幸は放課後に鉄から呼び出しを受けた時、てっきり朝のホームルームでのことを言われると思っていた。暑いからといってだらけている自分たちを見かねての呼び出しとばかり思っていたのだ。
「狩人のことです。私には声がかからなかったようなので、どうなっていたのか気になっていたのです」
幸は違和を覚えた。鉄の声音には妙な険があったように感じられたからだ。
「お陰様でこつこつやってます。あの、先生に言わなかったのは、いちいち言っても迷惑かなって思ったので」
「そのようなことは……生徒さんから頼られるのは嬉しいですし、休日なら私としても構わないのです」
「何がですか」
「狩人の研修に付き合うことです」
幸は目を丸くさせた。彼の反応をどう捉えたか、鉄は息を吐く。
「悪いですよ、そういうの」
「……雪螢とかいう方が気になるもので」
ああ、と幸は呻きそうになった。鉄と雪蛍には因縁があり、相性が悪いのだ。先日の三野山でも一触即発であった。
「あまり素行のよろしい方ではありません。ご友人は選ぶべきです」
「悪い人じゃあないと思うんです」
「いい人とも思えません」
鉄は切り揃えられた黒髪のようにぱっつんと言い切った。
「あの、あの時は色々ありましたけど、でも……あ、ちょっとごめんなさい」
ぶるぶると携帯電話が震えたので、幸はポケットからそれを取り出した。間が悪いことに相手は雪螢であった。彼は電話を持ったまま固まってしまう。
「あ、用事ができたので、ぼくはあの、そろそろ」
「電話の相手は雪螢さんですね」
「違いますよ」
鉄は首を振った。
「悪い大人にはならないでくださいね、八街さん」
幸は頷くしかなかった。
雪螢は浜路と一緒にいるらしい。幸も市役所に来るようにと言われ、彼は学校を出た足でそこへ向かうことにした。仔細は聞かされなかったが、場所が場所である。狩人のことで何かあったのかもしれないと、幸はバスを降りるや扶桑熱係へと急いだ。
プレハブ小屋の前には雪螢と浜路がおり、幸を認めるや小さく手を振ってきた。
「こんにちは、あの、用事って何ですか」
幸が訊くと、浜路は彼の手を取ってぎゅっと握った。亜人ならではの力がこもっており、幸は痛がった。
「八街殿、玖区に行ったことはありますか」
「きゅう? いえ、ないですけど。あの、痛いから離してください」
「駄目です。そうですか。行ったことがないと」
幸は雪蛍に助けを求めたが、彼女は視線を逸らした。
「ではちょうどいい機会です。行きましょう」
「今からですか」
「私は善玉です。善は急げと申します。であるなら急ぐしかないかと」
「でも、どうしてまた……」
「お仕事ですよ八街殿! 狩人としての責務を果たすのです!」
「お仕事……?」
幸は浜路の目を見た。彼女の目には言ってることとは裏腹な、邪な光が湛えられていた。
「雪螢さあん、説明してくださいよう」
「……仕方ないか」
頭に手を遣ると、雪蛍は口を開いた。
「狩人の仕事ってのは本当。ある人をある場所まで連れて行くのが私たちがもらった仕事」
「ある人を? それってボディーガードみたいなやつですか」
「アー、そういうやつ」
幸は、むつみとの会話を思い出していた。
「かっこいい……でも、ぼくたちだけで平気なんですか」
「大空洞に潜るわけではありませんから。玖区まで連れて行けばそれでいい話なのです」
浜路が得意げに言う。最初から話して欲しかったと、幸は恨めしそうに彼女を見上げた。浜路は不思議そうにしていた。
「へえ、それで、ある人ってのは」
幸が言いかけた時、扶桑熱係の建物から古海が出てきた。彼女は幸に愛想よく微笑みかけて、雪蛍と浜路には冷たい視線を送った。
「話はまとまったー?」
「仕事、受けるって」
「ちゃんと説明したんでしょうね? まあ、幸くんには実地訓練みたいなもんでちょうどいいか」
もう一人、古海の後に続く影があった。現れたのは達磨のような体格をした中年の男である。脂ぎった丸まるとした顔に縁とレンズの分厚い眼鏡が乗っかっていた。男は禿げかかった頭をぽりぽりと指で掻き、幸や雪蛍たちにじっとりとした、訝しむような視線を遣っていた。
「頼りなさそうだが、大丈夫なのかね」
声音には他者を侮る色があった。
「正規の狩人ではありませんが、腕は確かです。あのですね。不満たらたらみたいですけど……さっきも言いましたけどね、
「ふん、一端の学者にはやってない、だろう? 知っているよ。馬鹿にされたものだ」
幸は察した。市役所の人間が持て余していた、この面倒臭そうな男の護衛を浜路たちが請け負ったのだ。
「ああ、こいつが」
雪蛍は男の全身をさっと見て、薄い笑みを浮かべた。彼が身につけている安物でくたびれたスーツや、艶のない革靴を見て笑ったのだ。
「早く済みそうね」
「そう願いたいものだ」
男は雪蛍に笑われていることなど気づいていないのか、はたまた気にしていないのか、何の反応も見せずに古海から離れた。彼は手で庇を作り、太陽を仰ぐ。
「まったく、暑い暑い。しかも大空洞に入れんとはまるで意味がない。……まあ、付き添いが女子供だけならば仕方あるまい。我慢しよう」
「なんですか、この人は」
「おお、おまけに亜人じゃないかね君は。少し耳を見せてくれ」
「正義を執行します」
浜路はブチ切れしかかっていた。この男の護衛は彼女が自分で手に入れた仕事なのだが、既に放り出しても構わないといった風情である。
「はあ。それで、玖区のどこまで行くんですか」
「私についてくればそれでいい」
幸の問いに、男はそっけなく答えた。彼は相当な暑がりらしく、脇の辺りにはじんわりと汗がにじんでいる。
「幸くん、断ってもいいよ。君が決めな」
「ぼくが?」
古海に水を向けられると、幸は腕を組んで思惟に耽った。
「ぼくたちでいいんですか」と幸が訊くと、古海は曖昧な感じに笑った。
「ま、危ないとこに行くわけでもなし……」
古海は幸を呼びつけて、声を潜めて言った。
「大空洞でフィールドワークがしたいんだーとかなんとか言ってるけどね、たぶんこの人、そんな大それたことしないよ。つーかそういうのしたこともないんじゃないかな。ま、気にしないでテキトーにやんな、テキトーに」
「いいんでしょうか」
「ちゃんとおカネは出すって言ってんだし、道案内して小遣いもらえるもんだと思っておっさんに付き合ってればいいのよ。それに」
「それに?」
「ま、ままま、社会勉強だと思って。なんかあったら連絡ちょうだいね。飛んでくからさ」
「おい、こそこそ話はもういいだろう。私には時間がないんだ」
中年の男は苛立たしそうに体を揺すっている。幸は古海に対して小さく頷いた。
「あ、じゃあ、ええと、お引き受けします」
幸がそう言うと、浜路はホッとした表情を浮かべた。古海は舌をぺろっと出して、ごめんねと謝った。彼が男の護衛とやらを引き受けたのは古海が可哀想だったからである。厄介ごとを押しつけられたきらいはあるが、浜路や雪蛍は喜ぶだろうし、彼自身も玖区がどのような場所なのか興味があったのだ。
メフの玖区には《魔法使い》たちが住み着いている。無論、この世界には魔法を使うものなどいない。ただ、扶桑熱と呼ばれる奇病をもたらした
そうした魔法使いたちの日々のあんまり実を結ばぬ実験のせいで、濛々とした、多様な色のついた煙が其処此処から上がり、大空洞の裂け目から伸びた木々が建物を覆う。煙と緑が立ち込める土地。それが玖区である。誰が言い出したかは知らないが、玖区は《魔区》とも呼ばれていた。
幸はため息を漏らした。自然にできた緑のアーチは、夏の日差しに照り映えて扶桑と同じように雄々しい生命力に満ち溢れていた。
「綺麗ですね」
「そう? 歩くのに邪魔だけど」
雪螢には情緒というものがなかった。しかし彼女は薄く微笑んでみせる。
「
「潜伏って……」
「犯罪の巣窟というわけか」
先頭を進む中年の男がぼそりと漏らした。幸は彼が護衛を頼んだ理由に思い至った。男はまだメフに来て日が浅い。このような場所を一人で歩くのに抵抗があったのだろう。蔦が伸び、緑が映える玖区は景観こそ珍しく、美しくもあるが、見えないものが多過ぎるのだ。
「別に、亜人だから悪いことをするって決まりもありません」
「分かってますよ」
浜路は言い訳するみたいにして言って、それからあまり口を利かなくなった。日頃一番うるさい彼女が話さなくなったので、自然と道中は静かになった。木々に覆われた道を縫うようにして歩いている内、幸は、男が玖区は初めてではないのだと知った。彼は道に迷うそぶりを見せず、鈍重そうな見た目とは違ってすいすいと進むのだ。
「あ」
亜人とすれ違い、幸は少しだけその人物を盗み見た。そうして件の人物が見えなくなったところで、小さな声で雪螢に話しかける。
「確かに多いですね、外人さんも亜人さんも」
「別に玖区だけじゃないけど。分からないかもしれないけど、最初っからメフには中国人とか、日本人以外のが多い」
「そうなんですか」
「メフみたいな場所は少ないから」
扶桑熱患者を受け入れる街はメフ以外にもあるが、その数は少ない。だからか、大抵のものは国籍を問わずメフに送られる。
「メフ以外には、そういうのどこにあるんでしょうか」
「ロシアにはある」
「へえ、どんな場所なんだろう」
幸がそう言うと、雪蛍は眉根に皺を寄せた。
「一度仕事で行ったことあるけど、いいところじゃない。国によって花粉症患者への対応は違うから。放置してるところもあるし、捕まえて縛り上げているようなところもある。そこと比べたらメフはまだ桃源郷みたいなもの。よかったね、幸」
「……ロシアにも扶桑みたいな桜が生えてるのかな」
「さあ。見たことない」
雪蛍はそれだけ言って歩調を速めた。
中年の男は立ち止まり、ハンカチで額の汗を拭った。そうして、ここだとある建物を指で示した。森の中に建てられたかのような、こじんまりとした喫茶店であった。手書きの立て看板には『喫茶タミィ』とあり、今日のおすすめのメニューについても書かれていた。
「……休憩ですか」と幸が訊くと、男は低い声で唸った。
「ここが目的地だ」
「喫茶店ですけど」
「ここに知り合いがいるんだ」
幸は納得した。
「君らは帰ってよろしい。報酬は後日振り込んでおく」
「ああ、それじゃあこの口座に……」
浜路はいそいそとメモ帳を開こうとしたが、幸が首を振った。
「お金は要りません」
「は?」
「八街殿ォ!?」
雪蛍が怖い顔つきになり、浜路が幸の胸ぐらを掴み上げた。
「これはれっきとした仕事なんですよ!」
「で、でも、何もしてませんし、ぼくらここまでついてきただけじゃないですか。なのにお金をもらうなんてそんなの悪いですよ」
「悪くない! 悪くないんです!」
「だってぼくが決めていいって言ったじゃないですか」
「そこまで決めろという話ではなかったはずです!」
「こんな風なお金のもらい方は気持ちよくないって言ってるんです!」
「お金に気持ちの良し悪しがあってたまりますか!」
男は幸たちの剣幕にたじろいでいたが、咳払いを一つして気を取り直したらしかった。
「おい、店先でみっともない真似はやめたまえ。金を受け取らないというなら、せめてコーヒーの一杯でもおごってやるから、それでいいだろう」
「いや、そういうのも悪いですし」
「君が人の厚意を素直に受け取らないのが悪い。いいから大人しくして入りたまえ」
幸は浜路に捕まれたまま悩んでいたが、男の言う通りだと思い、小さく頷いた。
「ありがとうございます。……ええと」
「ああ、私は
人を下に見て馬鹿にして虚仮にしきった目と口調であった。
「……どうも」
やっぱり帰ろうかなと思ったが、やけになった浜路が『お腹いっぱいケーキも食べてやる』と息巻いたので、そうはできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます