維摩一黙болтовня

すっごいうっざいおっさん



 扶桑熱に罹ったものの内、二割は自死を選ぶと言われている。

 住み慣れた土地を追い出されて、親類や友人から白い目で見られ、受け入れ先での新たな生活に耐えられないからだ。北国ではそれが顕著だ。ロシアなどの国は扶桑熱患者を囚人のように扱い、永久凍土へと送る。自死を選ばなかったものは極寒の地獄でもがく。もがいて足掻いて大抵のものは無駄な努力と知り、諦める。逃亡を企てるものもいるが上手くいくことはほとんどない。

 それでも諦めないものもいる。

 銃口を突きつけられ、犬に追われ、傷つけられながらも地獄に背を向けるものがいた。

 それは今、傷口から血を滴らせながら銀世界を駆けている。少年、少女、どちらともつかない一人の子供だ。彼は必死に脚を動かしていた。体は凍てつき、末端の感覚はとうに失せている。がちがちと歯の根を震わせながらもただ進む。彼はじきに死ぬだろう。まともな装備もなく、身一つで往くには永久凍土はあまりにも冷た過ぎる。

 駆ける。駆ける。

 どこまで行っても景色は変わらず、見えるものはみな白く染まって凍えていた。

 やがてその子は積雪に足を取られると頭から倒れ込んだ。どうしようもないのだ。残った力を使い、老人のような緩慢さで空を見上げるしかできなかった。吐く息は白く立ち上り、口の端が凍りつく。血と共に力が抜けていた。その一方で、雪煙で判然としなかった視界が徐々にはっきりとしてくる。気づけば吹雪は止み、晴天が広がっていた。彼にとっては夢のような、嘘のような光景であった。

 このまま誰にも見つからなかったとしても、逃げ切れずに捕まったとしても先は見えている。この国において扶桑熱患者の逃亡は厳しく罰せられる。収容所に連れ戻されてしこたま殴られて死ぬだろう。高い塀の中で行われるありとあらゆる悪徳は誰にも見咎められはしないのだから。

 風に乗ってケモノの吠え声が聞こえてきた。寒冷地のケモノはそうでない地域のものより大きくなり、凶暴性が増す傾向にある。極寒の地では一人で出歩く人間はケモノたちにとって貴重な食糧である。ケモノは鼻が利き、執念深い。雪上に横たわる幼い子の命脈は尽きようとしていた。だが、今の彼にはこの永久凍土と同じく広大な空しか見えていない。だからか、彼は悲鳴が上がったことを気に留めていなかった。視界にはケモノの首が舞い、鮮血がかかる。まるで巨大な爪で薙がれたかのように、体の内側から破裂したかのように、ケモノどもは傷つき、肉を雪上にぶちまけた。

「……?」

「……男か。女か」

「すごいや」

 影が差す。倒れている子は、誰かが自分を覗き込んでいるのが見えたが、疲れ切っていてまともな口が利けなかった。しかし、ただ一言だけ発した。

「魔法使い(ヴォルシェーブニク)みたいだ」

「は。そう見えたか」

 彼は頷こうとしたが、上手くいかなかった。そうして目を閉じて、そこからはもう一人では起き上がれなかった。



 専業主婦である小日向緑こひなた みどりは売布で過ごす日々をそれなりに幸せだと感じていた。日常に不満などない。しかしまあ強いて言うならだが、せっかくの休日に家族を置いてゴルフや釣りに行く夫に対しては憤り、軽蔑すらしていた。優先すべきは家族のはずだ。彼は会社の付き合いだからしようがないんだと言うがそれだけではあるまい。嫌々の付き合いならば前日から鼻歌混じりで道具の準備などするはずがない。緑はそう思っていた。

 緑は誠実で貞淑な妻であり続けた。むしろ禁欲的ですらあり、遊びというものを知らない女でもあった。そんな彼女は同区に住む主婦連中からどこか気晴らしに行かないかと誘われた。常なら家事があるだとかで誘いを断っていた緑だが、夫との口論や長男の反抗期によって心を摩耗しており、笛吹き男についていく子供のような、ふらふらとした足取りで外出したという運びであった。

 連れて来られたのは古色蒼然とした釣り堀である。不思議に思った緑だが、疑問はすぐに氷解した。

「ああ、いらっしゃい。どうぞゆっくりしていってください、マダム」

「マダム……?」

 聞き慣れない言葉を発したのは釣り堀屋には似合わない燕尾服、あるいは執事服を着た男だ。彼は、髪は長いが後ろで結っていて清潔感があった。緑は最初こそ驚くばかりだったが、店員らしき男の横顔を認めて息を呑む。彼は美形だった。それもとびきりの。男が月なら自分の旦那はすっぽんどころかペットボトルの蓋のようなものだ。

 そうして緑は納得する。近所の主婦がここに集うのはドラマの役者よろしくかっこいい店員が目当てだったのだと。確かにかっこいい。騒ぎたくなる気持ちも分かる。しかしと彼女は自らを戒めた。

「おや?」

「え? あの、何か……?」

 店員の男は、緑をじっと見つめた。それだけで視界が狭まり、世界が固定されたかのような錯覚に陥る。

「ここは初めてですか。よろしければ、餌のつけ方をお教えいたしますが」

 男は少しぎこちなかったが、それでも柔らかな笑みを浮かべた。それで堕ちた。緑は一も二もなく頷いた。



「最近、お客さんが多いですね」

「そうなんだよー」

 そう言って満面の笑みを浮かべるのは、釣り堀屋『にゅーメフ』の店主こと鮎喰垂水である。彼女は、難しい顔で本を読む幸の傍に屈み込んだ。幸はぴくりともしない竿を半ば以上無視していた。

「嬉しい悲鳴ってこういうことなんだな。初めて知ったよ。いやー、深山のやつ、最初は生意気な口ばっかり利くし、お客さんにも失礼なことを言ってたけどさ、ちょっと仕込んだらアレだよ。素材がいいからああいうことさせても許されるんだよな」

 幸は、女性客の視線を浴びる深山を眺めた。

「あれだな。お金を落とすのはやっぱり男より女なんだよな。うちの子にメイドの格好させてたけど、誰も寄ってこなかったもんな」

 鮎喰は悪い顔になっていた。

 深山が釣り堀屋の店員として上手くやっているのを知り、幸は安堵していた。魚は全く釣れないのでそこは不満であった。

「しかし釣れないな、君」

「……はい」

 悄然としている幸のもとに、マダムの囲いから抜け出た深山がやってきた。

「八街、来ていたのか」

「どうも、こんにちはです」

「釣れるか?」

 幸は首を振った。

「あまり気にするものでもない。魚を釣ったところで意味があるとも思えん」

「おい、何てこと言うんだ」

「ああ、店主。今日はいつにもまして客が多い。マダムを人や女と思うな、野菜と思えばいいというアドバイスは大して効果がなかったが、いくぶんか気は楽になった。とはいえ少し疲れた。朝から立ちっぱなしで働き詰めだ。休憩をいただきたいのだが」

「えー? お前が抜けたらお客さん帰っちゃうじゃん」

「もう夕方ですよ? 休みなしはかわいそうというか、ぼくもどうかと思うんですけど」

「……じゃあ、お客さんの見えるところにいてくれればいいや」

「それで構わない。有難いことだ」

 深山はスーツを脱ぎ、シャツのボタンを外した。その仕草を近くで見ていた女性客が薄ら笑いを浮かべた。鮎喰は小さく頷き、事務所の方へ戻っていく。

「やれやれ、あの店主はどうして人遣いが荒い」

「でも、ここで働いてる深山さんは楽しそうに見えますよ」

「そう見えるか。……ここは彼女と繋がっているかもしれない場所だからな」

「釣り堀がですか?」

「ここの池がだ。川は大空洞にも繋がっている。彼女はあそこから来て、水を辿り、あの山で消えた。それでも世界からいなくなったわけではない。私はそう信じている」

 深山はビールケースの上に座ったが、それでも妙に様になっていた。

「八街。君は狩人になりたいのだったな。なら、これから先、大空洞へ行くことになるだろう。あそこには君の想像の外にあるものが山ほどある。私の力が必要になればそう言うといい」

「手伝ってくれるんですか」

「無論だ」

 深山は言い切る。

「騎士団を抜けたが狩人まで辞めたわけではない。私と彼女が――――水の檻ネイトが君の障害を取り除く」

「ネイト? それって深山さんの花粉症ですか」

「ああ。彼女の名だ」

 深山は誇らしげだった。

「しかし、魚釣りまでは手伝えんな」

「それは結構です」



 繋がりとはいいものだ。

 深山は幸の帰りがけにそう言っていた。幸はその言葉を思い返していた。恋人だとか、仲間だとか、そういったものが自分にはできるのだろうか。焦燥感めいたものが彼の思考をぐるぐると回していた。

 さて。幸の思春期じみた思いなどいざ知らず、ここに金を稼ぎ、金の上にあぐらをかこうとすることを至上の目的とするものが二人いた。雪螢と犬伏浜路である。二人は市役所の扶桑熱係を訪ねていた。

「金をよこせとは言ってない」

「ええ。何がしかの仕事が欲しいと言っているのです」

「帰ってよ」

 窓口で仁王立ちし、ドアを指差すのは古海であった。彼女は酷く疲れた様子である。

「もうじき定時だってのに……」

 古海は椅子にどっかりと座り込み、しっしっと手で追い払うようなポーズをとった。浜路は苛立ちを隠さなかった。

「困ったものを助けるのが市役所の仕事ではないのですか」

「だいたいね、私は幸くんの手伝いをしてるだけで、別にあんたらの面倒まで看ようとは思ってないからね。そこははっきりさせとくけどさ」

「日本人って薄情ね」

中国人あんたらは図太いけどね」

「私は生粋の日本人ですが」

「でも亜人じゃない」

「差別するつもりですか」

 三人はカウンター越しにねめつけ合った。

「はあー……あのね、ここに来たって仕事なんか紹介できないわよ。ハロワ行きなさい、ハロワ」

「狩人としての仕事が欲しいと言っているのです。当の八街殿は大空洞どころか、ここ最近は山にも行かないではないですか」

「だって危なっかしいんだもん。梅雨が明けたら考えるわよ」

「甘やかしてはなりません。可愛い子には旅をさせよ、獅子は我が子を千尋の谷に落とすと言います」

「は? 幸をどこに落とす? 何言ってるの?」

 雪螢の細い目が更に細くなる。浜路は慌てた。

「そっちが反応してどうするんですか。今のは言葉の綾です。とにかく、このままでは私が干上がってしまいます」

「私はあんまり困ってないんだけどね。他のバイトがあるし」

「そんな他人事みたいに!」

「百パー他人事やんけ。というか……」

 古海はじっとりした目つきで雪蛍を見た。

「あんたがアルバイトでも何でも紹介してあげればいいじゃないの」

 雪蛍は溜め息を吐き、遠い目をした。

「もうした。でも、こいつ全然使えないからすぐクビになるし。剣を振ることしか能がないのね」

「あんまりな言い分ですね。しかしまあ、そういうことです。……おや、外が騒がしいですね」

 古海と雪蛍は顔を見合わせた。

「別に聞こえないけど?」

「こいつ、犬っころの亜人だから耳がよく聞こえるの」

「犬っころとはなんですか!」

「古海さーん、助けてくださいよう!」

 情けない声と共に、へろへろっとした様子の女が扶桑熱係に飛び込んできた。古海は頭を抱えそうになっていた。

「何なの、もう」

「古海さあん」

 市役所の職員らしい若い女はその場にへたり込んでしまう。古海は面倒くさそうにしながらも表へ出てきた。

「何なん?」

「すっごいうっざいおっさんが来てて、もう私たちじゃ駄目なんですよう。ここは百戦錬磨の古海さんじゃないと」

「ちょっと、それじゃ私がすっごいベテランみたいじゃない」

「違うんですかあ? だって古海さんって私たちからしたら結構先輩ですしー」

 古海は激怒した。しかしここで怒りをあらわにするとみっともないので彼女は『違います―』とかわいこぶってやんわりと否定するにとどまった。

「……それで、そのおっさんっていうのはどうして怒ってるの」

「大空洞で狩人と揉めたらしいんですよ。それで置いてけぼりにされたのをめちゃ怒ってるんです」

「置き去り? 置き去りにされたの? うええ、そりゃ誰だって怒るでしょ。……あれ、そのおっさんって狩人じゃないの?」

「あ、違うみたいです。なんか地質学者? みたいなこと言ってました。大空洞のことを調べに来たんですって。それでどこかの狩人に護衛か何かを依頼したんでしょうけど」

「どこかの狩人って、市役所うちの狩人なわけ?」

「違いますよう。どうせアレですよ、どっかのしょうもない猟団なんですよ。それを何度も説明してるのにぜんっぜん話を聞いてくれないんですう」

 古海は腕を組んだ。話が見えてきたのだ。

「あのう、古海殿。どういったお話になってるんでしょうか」

「ああ、どっかの学者さんがね、大空洞で調べものがあるからってその辺の狩人についてきてくれって頼んだらしいのよ。でも、中で揉め事があった。そんで学者は置いてかれた。逃げた狩人の行き先が分からないもんだから、怒りのはけ口にとりあえず市役所を選んだんでしょ。外から来た人らはねー、結構勘違いすんの。狩人が全部市役所の人間なんだって」

「ああー……なるほど」

 浜路は雪蛍に目線を遣った。二人は小さく頷いた。そんなことは露知らず、古海は後輩に急かされて、仕方なくすっごいうっざいというおっさんのもとへ向かうのだった。



「ゲームって何が面白いのかな」

 幸は朝食を食べる手を止めた。対面にいるむつみは至極真面目くさった顔で彼を見ていた。

「昨日、幸くんが部屋でピコピコやってたじゃない。アレには何の意味があるの?」

 意味を問われて幸は困ってしまう。困窮の末、楽しいからだと答えた。

「やらなきゃ分からないかもしれません。ぼくだったら友達と一緒に遊んでるからやってるってのもあるし」

「釣りもそうだよね。釣れないのにまあ、たびたび通っちゃってさ」

「釣れなくっても本が読めますし」

「……やっぱり分からない」

 ふと、幸は前から気になっていたことを口にした。

「テレビとか、パソコンとか、うちにはそういうのないですよね」

「必要ないからね。幸くんは欲しい?」

「ぼくは別に。でも、叔母さんは映画見たり、ドラマ見たりもしませんね」

「無趣味だって言いたいのかな。でも悪趣味よりかはよくないかい」

「狩人のお仕事やってるだけじゃあ疲れませんか? ケモノを狩ってばっかりで」

 むつみは口の端を歪めた。

「そりゃあ疲れるよ。でも狩人だってケモノを狩るばかりじゃないんだよ。市役所には色んな人が来るからね。自然、色んなことをする……というか、やらされるから」

「たとえば何をやらされるんですか」

「ボディーガードみたいなもんかな。お偉いさんがわざわざ大空洞を視察したいとかでね。あそこはやっぱり、慣れた狩人じゃないとダメだから」

「へえー、ちょっとかっこいいですね」

 幸は食事を再開した。

「テレビでも買おうか」

 むつみは窓の方を見ながら言った。幸は咀嚼を中断した。

「いきなりですね」

「いきなりじゃないよ。ちゃんと前振りしてたじゃない」

「そうでしたっけ」

「無趣味って馬鹿にされたからね」

「え?」

 幸は、この叔母むつみとはそろそろ数か月の付き合いになるが、今になっても話を唐突に切り出す癖や、妙な思考回路が読めないでいた。もっともそれはお互いさまというやつでもあった。

「君ひとりだけ楽しそうにしているのを見るのはしゃくだからね」

「そんなネガティブなところから趣味探しをスタートさせるんですか」

「私も釣りからやろうかな。今度連れてってよ」

「……叔母さんと一緒に、ですか」

「なんだその間は」

 幸は言いよどんだ。周世むつみという人間はそういった反応を糧としている。

「前に古海とは一緒に出かけたのにね。ああ、そう。三十路女とは一緒に出歩きたくないんだ」

「誰もそんなこと言ってないじゃないですか」

「言ってるよう」

「言ってな……遊んでますね?」

 むつみは喉の奥でくつくつと笑っていた。

「私は君を困らせたいだけだからね」

「やっぱり悪趣味じゃないですか」

 しかしと幸は考えた。いつまでも弄ばれるのはしゃくである。こうなったらむつみには新しい趣味おもちゃを与えるしかないのかもしれない、と。

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