驢鳴犬吠めふFeverズ

竹内すくね

プロローグ

Modorenai Live(戻らない日々-Ever Version-)




 触れた腕はとうに冷たくなっていて、指を押し込むと柔い感触が伝わった。

 こいつも同じだ。転がった骸は《骨抜き》にされている。強面の男は顔を上げると、同僚を見遣って小さく首を振った。

「五件目ですか」

 傍らの男に水を向けられて、強面の男は頭をがしがしと掻き毟る。

「どうだかな。抜かれてふらついてんのは他にもいるかもしれねえぞ」

「こりゃもう、自分たちの管轄じゃあなさそうですよ」

 二人は警察の人間だ。追っているのは巷を騒がしている連続殺人事件の犯人だった。ただの殺人事件ではなかった。五人の被害者には死体の一部から骨を抜き取られていたという共通点があったのだ。殺してから抜き取ったという見解だが、意味はない。しかしメディアはそれを面白がって発信し、聴衆は話題の種を有り難がった。

判定トリアージ黒のやつが相手じゃ話にも洒落にもなりませんもの」

「おう、とりあえず応援呼んでこい。それから……」

 言いかけた強面の男の右目に刃が食い込んだ。埒外の膂力によって頭蓋に達した刃は、男に断末魔の悲鳴を上げさせないまま絶命せしめた。同僚の男は既にこと切れていた。新しい骸が二つ、四月の路上に倒れ伏した。これが売布めふ市で起こった連続殺人事件――――通称骨抜き事件――――の、六件目と七件目の顛末であった。



 窓の外にはずっと前から桜が見えている。硝子には、眠たそうに目を擦る少年の顔が映り込んでいた。

 春になり、《花粉症》に罹った少年は今まさに、会ったこともない、顔も知らない親類の下に引き取られようとしていた。電車を乗り継いで二時間、バスに揺られて三時間が経っていた。いい加減腰も尻も痛くて座り直そうとしたところ、隣席の客が顔をしかめた。バスが停まったのはその時のことだった。

 少年は察した。ここがゲートなのだ。ここから先にはもう何もない。帰るべき道も今はもう見えなかった。彼の察した通り、バスは再び動き出し、大穴に架かった橋を目指そうとしていた。この先にある町の名は売布メフ。彼同様、病に罹ったものの終着点となりうる場所だ。

 不思議と悲しくはなかった。今はまだ神経が麻痺しているだけなのかもしれないが、そういえば数日前までひいひい喚いて泣いていたことを思い出し、少年は、そういった感情は枯れるものなのかとこの世の真理を知ったかのような気持ちに浸った。

 少年の視界を薄桃色が横切った。風に流された花びらが窓にくっついて、またどこかへと飛んでいったのだ。あれが扶桑ふそうかと、少年はここに来るまでの間、散々聞かされていたことを頭の中で復唱する。

 メフの地に深く坐し、枯れることなく狂い咲き続ける巨大な桜。それが扶桑だ。扶桑が『生えた』のは一世紀以上も前のことだ。その際に大崩落を引き起こし、亀裂はメフ市周辺を外界から隔離した。大崩落はメフ周辺の何もかもを地の底に連れて行った。麻痺した機能を回復させるべく、津々浦々から復興のための労働力が集まったが、何年、何十年経ってもどうにもならなかった。そうして現在、メフ近辺の自由な行き来は禁止されている。理由は簡単だ。

 危ないからだ。扶桑は今も成長している。その際の地震やらで復興作業は遅れに遅れた。復興の労働力として集められたのは不法入国した異邦人や、喰い詰めたはぐれものがほとんどだった。彼らは扶桑の周辺に住みつくようになり、それはいつしか大きくなってスラムと化した。暴力団関係者もかかわっていることから、メフの中でも扶桑周辺は特に危険視されて半ば以上放置されているのが現状だ。

 扶桑が引き起こしたのは大崩落だけではなかった。扶桑の根元から異形の生物がその姿を覗かせたのである。のみならず――――。

「降りろ」

 バスが、メフと外を結ぶ橋を渡り切ったのだ。バスが停まったと同時、冷たい声音が車内を満たした。その声に従って、乗客はドアに近いものから立ち上がる。思惟を断ち切った少年も降車の列に加わった。

 メフと外を繋いでいるのは八つの橋だ。町には八つの入り口があり、その全てに検問所が配置されている。それらメフの外側を管理し、監視しているのは自衛隊だ。少年は他の乗客と同じように彼らの指示に従い、検問所を目指した。乗客の成す列の先頭と最後尾には自衛隊員が二名ずつついている。彼らは自動小銃を持っていた。少年が本物の銃を見るのはこれで二度目だった。

 検問所付近ではこれといって大きな騒ぎは起こらなかった。誰も彼も通例に従って身体検査を受け、熱を測って血を抜かれた。少年は持っていた携帯電話を没収された。おおよその検査を終えた彼が注射された部位を指で押さえていると、遠くから高く乾いた音が響いた。勘違いでは済ませるには、あまりにもはっきりとした音だった。

 検問を通過すればもうメフの中だ。《患者》として中に入れば滅多なことでは外へ出られない。少年は検問所の先へ目を向ける。天を衝かんばかりの巨木を見上げると、風が吹いて花弁が散った。桜色の嵐であった。



 陽が沈み始めていた。少年は嘆息する。返された携帯電話は、機種こそ同じだが自分のものとは異なっていた。中身がそっくり別のものにすり替わっていた。好き勝手に外部と連絡を取られないような、メフ専用の電話であった。電波で繋がっていた関係がぷちんと切れてしまったことを嘆き、諳んじるメールアドレスや電話番号がほとんどなかったことを今更ながらに悔やんだ。

 検問所を抜けた先は、電車こそ走っていないが駅前のロータリーじみていた。タクシーが中心の島をぐるりと周り、適当な客を乗せて走り去っていく。少年は立っていても邪魔にならないところを探して屈みこんだ。彼と同じように屈むもの、荷物をかき抱いてその場に座り込むものもいた。抱き合う男女や、検問所を恨めしそうに見据え続ける老人がいた。当然だがメフも日本だ。空気も言葉も変わらない。高い壁もなければ鉄条網で囲われてもいない。中に入ったとて外と大した違いはない。結局、ここもまた自分の世界の続きなのだ。土地が変わっても身に備わったものはそのままだ。彼は鼻を啜り、熱っぽい額に手を遣った。



 最初は熱が出た。次に鼻水が止まらなくなって、涙も溢れてきた。頭がぼうっとして、知らない人物の声が脳内に叩き込まれる気味悪い感覚が何日も続く。それがただの風邪ではなく、治療法の確立されていない難病奇病の類だと知るのに時間はかからなかった。最初はかいがいしく世話をしていた父親も、最後まで少年の傍にいた妹を引き剥がして去った。

 少年が罹ったのは《扶桑熱》と呼ばれる病であった。大崩落だけでなく、人間にもたらした巨大な扶桑のもう一つの奇跡・・だった。扶桑熱の罹患者は特異な能力を身につける。体から火や雷を放つ。あるいは肉体の変質など異常をきたす。個々人によって差はあるが、おおよそ人知を超えたものがほとんどだった。原因は明らかになっていないが、扶桑出現後に発生した病に違いなかった。扶桑熱は扶桑の花粉を吸うことで発症するというのが通説になっており、アレルギーの一種ともされている。花粉症のようなもので、いつ、だれが罹るかも判然としない。何せ扶桑は巨大であり、その花粉は風に乗ってどこまでも飛ぶ。メフ周辺にだけ発症例が確認されていたものが、今やその奇病は一世紀という期間を経て世界中に拡がっていた。……そも、扶桑の花粉が原因かどうかですら不明なのだ。逃れる術はない。そして、扶桑熱に罹ったものは社会から危険視されるのが今の世の常である。扶桑の根元から現れる異形の生物の正体も、要は《これ》なのだ。扶桑熱に罹った獣は人を襲う。患者が親類縁者から見捨てられるのも珍しくない。少年もまた、見捨てられたのだ。

 今となっては、ここは外よりもましかもしれない。メフは少年にとって流刑地に近しかったが、同時に唯一無二の逃げ場でもあった。

「ヤチマタ、サチくん?」

 自分の名前を呼ばれた少年は反射的に返事をした。顔を上げると、知らない女が覗き込んでいた。器量こそ悪くなかったが、陰気そうな雰囲気でそれを帳消しにしているような女だった。

「ぼくが八街です」

「うん。幸くん」

 幸という少年は少しげんなりとした。彼は自分の名前が好きではなかった。さち、という響きがどうしても男らしくないと、周りから揶揄われていたからだ。嫌になって、幸は女を睨みかけた。だが、右も左も分からぬこの土地で、自分の名前を知っているのは八街幸以外にはもう一人しかいないことを思い出して、彼はハッとした。

 女はまだ幸を覗き込んだままだった。目にかかった長い黒髪をかき上げもせず、茫洋とした様でいる。幸は少しだけ懐かしい気持ちになった。

「目元が」

「目が、何?」

「母さんと似てるかもって」

 女は口の端を歪めてみせた。笑っているのだと、幸は後になって気づいた。どこか母親の面影があるこの女こそが幸の待ち人であり、彼の引き取り先であり、今日生まれて初めて出会う叔母、周世すせむつみであった。

「周世さん、ですよね。あの、はじめまして。今日からお世話に……」

 なりますと言いかけて、幸は立ち上がった。叔母が自分より頭一つ分は背が高いことに気づいて、彼は目線を上げた。

「どうしてぼくを引き取ってくれたんですか」

 それはずっと幸の心に引っかかっていて、気持ちの悪さを訴え続ける疑いであった。この疑いを晴らすことを幸は何よりも優先すべきだと感じていた。

「判定は?」

 幸は耳を疑った。叔母はもう一度同じことを繰り返した。

「緑ですけど」

「熱は?」

「少し、高かったですけど」

「荷物は?」

 質問を無視されてむっとした幸は、くるりと回って背負っているリュックサックを叔母の視界に入れた。そうしてから向き直り、携帯電話を没収されたことも告げた。

「検問じゃあ、他には何も言われませんでした」

 小さく頷くと、叔母は口を開いた。

「判定緑。三号指定。君は国が認めた、立派な《花粉症》患者だよ。改めて、よろしくね」

 そうしてからまた、叔母は口の端を歪めた。

 幸が周世という名を聞いたのはメフへ送られる数日前のことだった。

 扶桑熱患者は《受け入れ先》のある町へ送られるのがほとんどだ。彼らはそこで一塊に集められて監視されるか、貴重な症例として管理される。従うほかない。拒否すれば撃たれるだけだ。異能に目覚めて絶望して、死にたいものだけがそうするのだ。初期症状の収まった幸は、家族に見捨てられても死を選ぶことはなかった。これから先、自分一人だけの人生になるのだと分かっていながらも、諦められなかった。あるいは、選ぶことを放棄したのかもしれなかった。

 幸は父親から謝罪の言葉と共に一枚の手紙を受け取った。手紙は周世むつみという人物からのものだった。そこからは、周世が継続的に幸の母親と手紙でやり取りしていたような事実が読み取れた。何かあった時は幸を助けてやってほしいという旨を、母は何度も周世に頼んでいたらしかった。

『幸。周世っていうのは、母さんの旧姓なんだ。色々あって、中々言えなかったんだけどな』

 父親の言葉は覚えているが、その時の彼の顔や、声は、既に幸の中でうすぼんやりとし始めている。

 周世岬すせ みさき

 幸が扶桑熱に罹るひと月前に他界した、母親の名前であった。

 幸は周世むつみのことを知っていた。彼女が叔母であること、二十年近く前にメフへ送られたこと……扶桑熱患者として、そこで二十年も過ごしてきたことを。

「同情ですか」

 むつみは幸の顔を見るだけで何事かを察したらしかった。幸は何も察せなかった。

「君のことは姉さんに頼まれてたから。……ああ、あまり触れない方がいい?」

「別に、大丈夫です」

「そう? 君は随分と可愛がられてたみたいだから」

 幸はため息をついた。どうやら母は自分の知らないところでも色々と言っていたらしかった。そして、可愛がられていたというのは全くもって事実であった。ただし、幸にとって過保護な母親という存在はあまり嬉しいものではなかった。母がこの世から去ったのは悲しいが、自分が病に罹ったこともあり、母の死について実感が湧いてこないというのが本当だった。

「姉さん、どうして死んだの?」

「聞いてないんですか」

「誰に?」

「誰にって……」

「外の知り合いは姉さんしかいないよ」

 誰が生まれて誰が死んだのかすら、むつみは母の手紙の文面でしか知る由がなかったのだろう。幸は思い至らなかったことに対して悪いとは感じなかった。そうしてから母の最期を想起する。辛くはなかった。ただ、胸の内を掴まれたようにきゅっとした。

「病気です。心臓の」

 むつみの表情は変わらなかった。

「そう。やっぱり」

「病気のこと、母さんから聞いてたんですか」

「そんなところ」

 どこかそっけないむつみの態度を訝しむ幸だが、追及はできなかった。陽が沈むね。そう言って、彼女は長袖のセーターを指で弄り、目を細めた。

「歩きながら話そうか。ごめんね、今日は車じゃないの。君にここのことを教えといた方がいいと思ったし」



 幸はむつみの背を見ながら歩いていた。彼女は時折、幸がついてきているかどうかを確かめるようにして何度も立ち止まった。

「似てるような気がする。君と、姉さん」

「親子ですから」

「私は、お母さんになった姉さんを見てないからなあ」

「写真とか、母さんは送らなかったんですか? その、手紙と一緒に」

 むつみは小さく首を振った。長い髪が揺れて彼女の目を隠した。幸は遠慮がちに呼びかけた。

「ここ、全然普通ですね。ぼく、メフはもっとやばいところだって聞いてたから」

 検問所の近くは人が多い。商店の類こそ見えないが、タクシーやバスが行き交い、賑やかさがあった。雰囲気こそ幸の地元の繁華街にも似ていた。

「外の人は大げさに言うから。住んでる人全員が《花粉症》ってわけじゃなし。でも、ここが普通なのは当たり前なんだよ」

 振り返ったむつみは、幸の手首を指で示す。そこには緑色のバンドが巻かれていた。

「そろそろ外しな」

「これ、何なんです?」

「君が危ないかどうかを周りの人に教えてるの。判定トリアージって聞いたでしょ。色によって区別してる」

 幸はバンドを外して、それをズボンのポケットに突っ込んだ。

「緑は普通の人。黄色はちょっと危ない人。赤は危ない人。黒は」

「黒は?」

「すごく危ない人」

 要領を得ない回答だった。それでも、幸はそれなりに判定という意味を噛み砕いて呑み込んだ。

「ここが普通なのは、緑の人を集めた区画だから。君が通ってきたのと同じ検問所が他に七つある。人によって、通る検問所が違うんだけど。とにかく桜の木を越えちゃだめだよ」

「危ないんですか」

「花粉症の人だけじゃなくって、暴力団とか、外人とか、ああ、変な人が多いの。スラムって言うのかな。人でなしとかろくでなしが集まってるから。木の近くにも寄ったらだめ。分かりやすくていいでしょう」

 俄かには信じられなかったが、幸には、むつみが冗談を言うような人間にも見えなかった。

「この区画は外とそう変わらないよ。生きてくだけなら何も制限されていないし、不自由さも感じないと思う。ただ……」

 何か言いかけたむつみが、幸の頭を掴むようにして両腕でしっかと抱きかかえた。想像より柔らかな感触に包まれた幸は、自分の身に何が起こっているのかが分からなかった。驚愕は、近くから聞こえた一発の銃声によって霧散した。

「あの」

 むつみは周囲の状況を確認した後も幸を離さなかった。

「あのう?」

 ここでようやく、幸は自分が庇われたのだと気づいた。だが、あれは自分たちを狙ったものではないはずだ。

 むつみは幸を解放すると、彼を気づかわしげに見つめた。

「いきなりごめん。苦しかった?」

「それより、今のは?」

「今日は外から花粉症の人が連れてこられる日。週に二回あるんだけど、そういう日はだいたいこうなるよ。君が通ってきたのは八番の検問なんだけどね、そこは、君みたいな人が通るところなの」

「それって、引き取ってくれる人がいるかどうかってことですか?」

「そう。未成年が多いよね。メフで面倒看る人がいるってだけでも、他の人よりは大丈夫ってことで、結構楽に入れたりするの。私の時は検問抜けるのにもう少し時間がかかったかな。……でも、やっぱりトラブルってあるから。急に受け入れられないってことになったり、折り合いつかなくなったりして」

「……それで、どうなるんですか」

「どうもならないよ。自分とも折り合いつかなくなった人が腹が立って暴れるだけ」

 暴れた後どうなるのかは聞かなくても分かった。幸は改めて街並みを見回す。先までは目に入らなかっただけで、検問所付近にも自衛隊員の姿があった。彼らは町の中でも扶桑熱患者を見張っているのだ。

「君も見張られてると思うよ」

 ぞっとした。

「保護観察って知ってる? あれみたいなものだよ。大人しくしてれば解けると思うし、気にならなくなるし、安心すればいいと思う」

「全然できないです。ぼくには、とてもじゃないけど……」

「慣れるよ」

 幸はむつみの目を見られなかった。ぼうっとした印象で、どこか頼りなげな彼女だったが、今の声には自分以外の何もかもを突き放すような冷たさが滲んでいたのだ。

「君が特別辛い目に遭ってるわけじゃない。みんな同じだよ。花粉症とか、メフがどうとかなんて関係なく引っ越ししたり、転校する時だってあるでしょ。新しい家に住んで、新しい学校に通って、新しい人と会ってさ。君も、ここも、私も、何も特別なことなんかないし、当たり前なんだよ」

 そう言って、幸にとっての新しい家族は先に歩き出した。彼女は家に着くまでの間、もう振り返りはしなかった。



 検問所から歩いて小一時間ほどのところにむつみの住むマンションはあった。八階建てで、灰を塗り固めたような色の息苦しい建物だった。彼女曰く居住者は少ないらしい。勿体ないな、なんてことを幸は考えていた。

 エントランスからエレベーターに乗り込み、幸は息を吐き出す。彼の左隣にいるむつみは平然とした様子であった。息苦しくなって、幸は階数表示板をねめつける。「7」でエレベーターは停止した。むつみは扉が開き切るのを待たないで動いた。幸も後を追いかける。むつみの部屋は角部屋だった。

「上がって」

 むつみはさっさと靴を脱いでリビングへ向かう。幸は三和土で立ち尽くした。ふと、彼女の穿いていたスニーカーを見下ろす。歩いている時は気づかなかったが、側面が泥で汚れていた。気を取り直すと幸も靴を脱いだ。彼が廊下を抜けてリビングに入ると、むつみは椅子に座って髪をアップにしている最中だった。

 縦長のリビングにはテーブルと椅子が中央に置かれている。カウンター越しに見えるキッチンは真新しそうだった。ベランダへ繋がる窓にはカーテンがかかっていない。ウォールナットのフローリングの上にリュックサックを置くと、幸はむつみの対面にある椅子を引いた。だだっ広く感じたが、単純にものの少ない部屋だった。生活に必要なものしかここにはないのだろう。

「部屋は用意してあるよ。でも、お箸とか、そういうのはまだなの」

 幸は一日分の着替えくらいしか持ってこなかったが、それはむつみの指示によるものだった。生活用品は後日実家から送られてくるので焦りはしていなかったが、その理由は幸には推し量れなかった。

「荷物が多いと目立つから。命まで持ってく人も、ここいらにはいないと思うけど」

 こともなげに言って、むつみは窓の外を見た。陽はとうに落ちていた。

「私が用意してもよかったんだけど、君が本当にここに来るかどうかは分からなかったし」

「逃げるとか、そういう風に思ってたんですか」

「何か食べる?」

「結構です」

「本当? 遠慮しないでもいいんだよ。ここはもう君の家なんだし」

 キッチンに向かったむつみは腕まくりして、冷蔵庫の中身を確認し始める。幸はその後姿を目で追いかけた。セーターとジーンズという地味な格好だが、体つきは華奢ではない。むつみからは妙な色香が発せられていた。彼女の低い声と落ち着いた話し方は、同世代の女子では真似できそうにない。露わになった、むつみの二の腕の白さを認識したところで幸は自嘲した。

 むつみから顔をそむけるようにして、幸はリビングの壁を見据える。彼女のことは道すがら聞いたが得心のいかないこともあった。……周世むつみが叔母であるというのは本当だろう。父親から聞いた限り、周世という旧姓を隠していたのはむつみの存在があったからだ。母が、身内から扶桑熱患者が出たのを隠そうとしていたらしい。今にして思えば親戚付き合いがほとんどなかったのも頷ける。しかし、むつみが叔母だったとして、それでどうして今まで見たこともない甥を引き取るのかが幸には分からなかった。ただ、真実を聞き出すには相手が悪かった。それに余計なことを聞いて部屋を追い出されるのも嫌だったのである。そこでふと、今の自分は今日初めて会った人間にしか縋れないのだと気づいた。

「ああ、だめだ。ごめん、何もなかったから買い物に行こっか」

 むつみは難しそうな顔になって、それから、何故だか薄い笑みを浮かべた。



 むつみの住む区画にはコンビニもあったが、買い物はもっぱらスーパーマーケットで済ますのだという。幸は荷物持ちをしながら、そういった話を彼女から聞いた。スーパーから出る頃にはすっかり暗くなっていて、街灯のないところでは足元も見えなくなるほどだった。

 しばらくの間、二人は無言で歩いていたが、目の前の信号が赤になったのを潮にむつみが口を開いた。

「どうせ無駄になると思ったから」

 幸はむつみの横顔を見上げた。

「用意しても、君がここから逃げ出したくなると思って」

 ああ、と、幸は内心で呻く。彼はメフへ来るのを嫌がらなかった。逃げることすら思い浮かばなかった。何故なら、メフへ来ること自体が幸にとっての逃げであったからだ。

「どこに逃げるっていうんですか」

「ついてきて」

 むつみは家とは反対に向かって歩き出す。彼女に付き従うほかない幸は慌てて追いかけた。

「どこへ行くんですか」

「桜の木」

 幸は足を止めかけた。そこには近づくなと他ならぬむつみが言ったのだ。だが、彼女はそれを知ってか知らずか先よりも歩調を速める。混乱した頭と食料品のたっぷり詰まったスーパーの袋を引きずるようにして幸は歩く。暗がりの中、むつみの背中だけが頼りだった。落ち着いてくると恐ろしさがじわじわとにじり寄ってくるのを感じた。桜の木、扶桑に向かうにつれて小綺麗だった街並みは薄汚れていき、通りを歩く人の雰囲気も変わっていく。

「も、戻りませんか」

「どこに?」

 短く返されると、幸はもうそれ以上何も言えなくなった。縋るなどととんでもない。生殺与奪を握られているのだ。

 ずんずんと歩いていたむつみは、木の根元が見える地点で立ち止まった。扶桑の根元は好き勝手に出入りされないためにか、鉄条網が敷いてある。だが街のあちこちに立っていた自衛隊員はどこにもいなかった。

「ケモノのことは知ってる?」

 幸は小さく頷く。音を立てたくなかったのだ。持っているビニール袋の擦れる音や、心臓の鼓動ですらうるさく感じていた。

「人を襲う未知の生物ってさ。でもそんなに怖いものじゃないよ。だって、あれは私や君と同じようなものだからね」

「……え?」

「頭がかーっとして体が言うこと聞かなくなって、変な力を使うじゃない。要はさ、みんなが怖がってるケモノは花粉症になった動物ってだけの話なんだよ。人と同じ。違う?」

「でも、ケモノは人を襲うって」

「人だって人を襲うんだけどな」

 ならば花粉症に罹った人はケモノと同じだというのか。反論しかけた幸だが、全くもってむつみの言うことは正しかった。嫌になるほど正しかった。危険視され、管理され、時に駆除される。メフに送られてくる扶桑熱患者もみなそうだった。

「だいぶ落ち着いてきたんじゃない? 麻痺してたものが戻ってくるくらいには。だいたい、そうなんだよ。メフに来たばかりだとそうでもないけど時間が経つとさ。逃げたくなってくるんだよ。どうしても」

 むつみは幸を見下ろした。冴えた月のような目をしていた。

「どうする?」

「どうするって……」

「死にたいなら死なせたげる」

 幸の腕から力が抜けていく。彼はスーパーの袋を落としかけたが、むつみがそれを中空で奪うようにして掴んだ。

「人はいつか死ぬし、別に、外でだって自分で死ぬ人はいるじゃない? 今だってそうでしょ。君がこうしてぼーっとしている間にも死んだり死ぬような目に遭ってる人がいると思うけどな。珍しくもなんともないよ。そうだね。たとえば、今日、君と同じ日に来た人たちの半分は近いうちに死ぬと思う。君がその半分に入るかどうかってだけの話をしてるの」

 未だ幸の頭は混乱し切っていた。だが、死ぬとか生きたいとかそんなことはどうでもよくなりつつあった。人はいずれ死ぬ。そんなことはひと月も前から分かり切っているのだ。それよりも目の前の女の無神経さやら、自分を見捨てたものたちへ対する『ふざけるな』という気持ちがむくむくと芽生え始めるのを感じていた。夜の暗がりも得体の知れない唸り声もむつみの眼も、喉元まで迸る熱量の前ではどうということもなかった。

「泣いてるよ?」

「それがなんですか」

 幸は泣いていた。

 泣きながら笑っていた。その表情が奇異に映ったか、むつみの表情が少しだけ歪む。幸は服の袖で目元を擦り、彼女に強いまなざしを向ける。それを嫌がったのか、むつみは視線を逃がした。

「先に言っとくと、私は姉さんが嫌い。君も嫌い。もう分かってると思うけど、君を引き取ったのは厚意じゃないよ。でも、君がこの町で生きていこうって思ったんなら少しは歓迎するから」

 むつみは視線を戻さないまま、ん、と、手を差し出した。幸はその手を取らなかった。

「……意地悪いねえ、君」

 そこはやはり血筋なのだろう。幸はそんなことを考えた。むつみから荷物を受け取って扶桑に背を向けると、彼は独りで歩き出す。

「帰ったらご飯にしようか。ねえ、嫌いなものとかあるかな」

「お店で言っといてくださいよ。買ってから聞くなんて」

 一人で歩き出したのはいいが道が分からなかった。むつみもそのことを分かっていて、仕返しのように彼の背をゆっくりと追いかけていた。


 

 むつみの作った料理は味がしなかった。幸は砂を噛むような思いで食事を終えた。

「男の子には合わなかったかなあ。あ、先にお風呂入っちゃっていいからね」

 他にやることも思いつかない幸は、言われた通りに入浴を済ませて、あてがわれた部屋に入った。ベッドと机だけが置いてある洋間だった。掃除こそ行き届いてるらしかったがむつみに歓迎されているとは思えなかった。ベッドの上に横たわり、いつもの習慣でスマートフォンを確認したが通知は一つもなかった。連絡を取るべき人も思い浮かばなかった。

「一人かあ」

 寝返りを打つと小さなあくびが零れてくる。眠るにはいつもより早い時間だったが、どうやら酷く疲れているらしい。ほどなくして睡魔がやってきた。部屋の明かりはついたままだが起き上がるのも億劫だった。目を瞑ってじっとしていると、ここがどこで自分が誰だか判然としない錯覚に陥る。朝になったらここがメフでなく、何事もなく、いつも通りの朝が来る。そのような妄想に耽る歳でもないと自らを戒めた。



 この子、最近変なの。

 扶桑熱に罹ったのではないか、と。むつみの病を親に告げ口したのは姉だった。そのような安直な理由では憎んでいなかったが、メフでの生活が長くなるにつれて悪感情はぶくぶくと肥え太り、募っていった。

 むつみがメフに来たのは中学一年の夏だった。夏休みに入ってすぐのことで、仲の良かった友人とも、気になっていたクラスメートとも挨拶の一つすらできなかった。入部したバスケットボール部で先輩に褒められたジャンプシュートのフォームも、おろしたての新しい服も、最後まで好きだと言えなかった母親の手料理も、何もかも置き去りにさせられた。

 嫌いだ。幸に言った言葉を思い出す。自分で言ったことだ。本当のことだった。誰かを恨まねば、強い気持ちを持たなければ生きていけなかったのである。

 むつみは幸のいるであろう部屋を見遣り、リビングのテーブルに頬杖をついた。幸が甥であることは――――姉の子供であることは間違いなさそうだった。あれは、姉とよく似ている。目元や鼻筋もそうだが向こう気の強さがそっくりだった。

 むつみが幸の存在を知ったのは一年前である。どうやって住所を調べたのか、姉からの手紙で知ったのだ。姉妹仲は良くも悪くもなかった。むつみが一方的に嫌っているだけだった。最初、むつみは手紙の返事を返さなかった。何通かは破いて捨てた。それでもしつこく送られてくるので、抗議の意を文面に綴ったのだ。したためた思いが通じることはなかったが。

 幸を引き取ったのは甥っ子可愛さでもなければ同情でもない。ほんの少しの好奇心だった。石のように。メフに来てからのむつみは人と深くかかわらずに生きてきた。もはや他人の生き死にくらいでは何も感じなくなった。ふと、そんな自分が、姉が猫かわいがりしてきたものを奪えばどうなるのかが気になったのだ。幸をいじめてやれば少しばかりは溜飲が下がるものなのか、と。

 まるで宇宙人みたいだ。

 むつみは幸をそのように評していた。思春期の男子が全てそうなのか、幸が特別そうなのかは分からないが、とにかく彼と接しているとストレスが溜まってしようがなかった。何せ同じ空間に誰かがいるということが久しぶりなのだ。煩わしかったが、摩耗する神経や心が残っていることには気づけた。


『それがなんですか』


 幸の泣き笑いの顔を思い出すとどきりとした。木の根元まで連れて行ったのは少し怖がらせてやるだけのつもりで、幸はその目論見通りめそめそ泣くだけだと思っていたからだ。

 舌打ちして、むつみは頭を撫でまわした。明日は幸の実家から荷物が届くだろうし、彼の使うものを買いに行く必要がある。面倒くさいが、面倒くさいと感じるのも久方ぶりのことで、しかもそこまで嫌ではなかった。

 リビングの明りを落とすと、幸の部屋から明りが漏れ出ているのが分かった。さてここは保護者らしく『もう寝なさい』と一喝すべきなのかどうか考えていると、部屋からすすり泣くような声が聞こえてきた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「……?」

 幸はひたすらに謝っていた。誰かと電話をしている訳でも、寝言を言っている訳でもなさそうである。何に対して、誰に対しての謝罪なのかは分からないが不気味だった。いつかの自分を見ているようで不快でもあった。

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