胡蝶
人は一人では生きられない。
支え合い、助け合わなければならない。時には絡み合い、もつれ合う。そう、それこそ比翼の鳥のように。連理の枝のように。
この現代社会において誰とも関わらないことはほぼ不可能である。だが、そうではない。
人は人と積極的に絡み合い、助け合うべきだ。それが生きるということに違いない。
俺は生きたい。
生の実感を得たい。
それだけを望んでいる。
昼休みになり、むつみから持たされた弁当箱の蓋を開けると、白米の上にはこれ見よがしに昆布巻きが乗っていた。幸は苦笑する。彼女はあれで負けず嫌いなきらいがあるらしい。
「お、美味そうじゃん。何、手作り?」
「叔母さんのだけどね」
へええと翔一はしきりに感心していた。
「羨ましいな、おい」
「翔一くんだってお弁当じゃないか」
「つったって冷食ばっかだぜ。ちょっと交換しねえ? その肉と、俺の」
「ヤだ」
幸は昼ご飯をもぐもぐしながら、昨日のことに思いを馳せていた。
古海は幸の狩人研修に関して心配ないと言ったが、市役所の狩人は現在進行形でストライキ決行中である。人数が揃わないのでは山に入れない。入れないのなら研修も何もない。三野山で狩人の研修をするから手伝ってくれ、などと頼めるような知り合いもいない。
しかし幸は諦めていなかった。自分のことだ。自分でやるしかない。古海に頼りきりではよくないはずだ。そう思い込んでいた。まったくもって空回っていて、そういうことをするなとむつみに言われていたのだが、彼は気づけなかった。
今日も無事に一日が終わる。当たり前のことに小さな幸せを感じるようになったのは少し老けたせいなのかもしれない。いや、まだ二十代だ。老けたというようなことはない。断じて。最近は調子もいい。生徒は誰一人として気づいてくれないが、自分ではよく笑うようになったと思う。放課後のホームルームを終えて、職員室に向かおうとしていた鉄は空回り男に捕まった。
幸はまっすぐに鉄を見上げてくる。彼女は頭を抱えそうになった。彼は問題児ではないが、手に余るような、想像の外にある事物を持ち込んでくることが多いのだった。
「どうされましたか」
尋ねてみると、幸は言いづらそうにしていたが、一枚の書類を鉄に差し出した。彼女はそれを何気なく受け取る。
「先生のハンコが要るみたいで」
文面に目を通せば、それはあろうことか幸が狩人になるために大空洞やら三野山へ行くことを許可して欲しい、といった旨のものであった。
「これは?」
何となく分かっていたが、鉄は幸に訳を訊いた。彼は前もって用意していたかのような台詞をつらつらと述べる。その間、彼女は許可を出すかどうかを考えていた。
幸が狩人になりたいというのは既に聞いている。鉄は自分にできる範囲なら助力を惜しまないつもりであった。しかし、いざ彼がケモノの棲息する猟地に行くという現実に直面すると答えはすぐに出せそうになかった。
先日、やくざものが学園を襲った事件に、幸は大いに巻き込まれている。戦い、怪我もした。血を流して怖い思いもしたはずだ。自分の生徒を侮るつもりも嘲るつもりもないが、彼の脳みそのブレーキが故障しているような気がしてきた。
「猟地に行くのは危険なことですよ」
「必要なことですし、付き添いの人もいますから平気です」
そう言って幸は笑顔を浮かべた。屈託のない表情だ。もう、自分が浮かべられないような類のものだ。
幸は素直だ。しかし愚直でもある。彼は迷い、惑い、停滞するだろうが、一たび目標を定めて動き出せば、そこに辿り着いて目的を完遂するまでは誰の言うことにも耳を貸さないであろうことは、鉄にも分かりつつあった。要は頑固なのだ。
「……では、この書類は預かっておきます。その意味が分かりますね、八街さん」
「考えてくれるってことですよね」
「そうです。結果が出るまで軽率な真似はしないように、ということです」
「分かりました」
本当だろうか。しかし今は信じるほかなかった。
「ところで、体調に問題はありませんか」
「少し背中が痛いくらいで、あとは平気です。お医者さんが言ってたんですけど、扶桑熱の人はメンタルが強いみたいで。だから治りがいいんだって言ってました」
心が強いと怪我の治りがよくなるとは聞いたことがあるようでない。鉄が不思議に思っていると、幸は小さく笑った。
「『病は気からって言うだろ』ってお医者さんが」
ではやはり怪我とは関係ないではないかと思ったが、鉄は頷いておいた。
「クラスの皆さんも登校されていますし、男の子って丈夫なんでしょうね」
「見栄を張ってるだけかもしれないですよ。田中くんなんか体中に湿布貼りたくってます。翔一くんは笑う時に時々顔が固まるんですよ。あ、先生は調子がよさそうですね」
「はい?」
幸は眉のあたりを指で揉む。
「ちょっと角度が上がったり下がったりしてて、笑ってるのかなーって」
「そのようなことは」
「そうですか? あっ、それじゃあぼくは行かなきゃ。ハンコのこと、よろしくお願いします」
まだ言いたいことはあったが、慌てて走り去っていく幸を呼び止められず、鉄は廊下で立ち尽くす。彼女は自分の眉のあたりに指を当ててみていた。
幸は九頭竜神社へ向かっていた。昨日は古海の車だったが、今日は彼女と合流する予定はない。彼はバスを使い、記憶を頼りに第拾区へ入り、陽が暮れる前には三野山の麓に到着していた。
彼は神社にいた巫女にある提案を持ちかけようとしてここを訪れていた。それは自分たちと
昨日と同じように参道を歩き、人の少ない境内に立つ。ぼんやりしながら鳥居を潜ると、近くにいたであろう巫女に呼び止められた。彼女は昨日と同じく、庭帚を手に、彼を冷たい目で見下ろした。
「真ん中」
「え? あ、昨日の。……ああ、ごめんなさい」
道の真ん中は神さまの通り道だと、昨日叱られたことを今になって思い出す。幸は小さくなって頭を下げた。
黒髪の巫女は幸を指差した。
「制服のボタン、一番上が留まっていません」
「ごめんなさい」
「ここは神域です。服装の乱れは心の乱れ。乱れたものが立ち入る場所ではありません。狩人になりたいそうですね。ですが……」
巫女は説教を始めた。これでは提案どころではない。幸が心底から困っていると、一人の少女がこちらに近づいてくるのが視界の端っこに映った。昨日境内で縄跳びをしていた小学生くらいの女の子である。
巫女よりも髪は短いが、同じように切り揃えられた黒髪。やたらデフォルメされた猫がでかでかとプリントされたパーカーにハーフパンツを合わせた格好でとてとてと歩くその姿は、幸には座敷童に思えた。
黒いハイソックスを履いている少女は巫女の脇腹をつんつんと指で突く。
「あっ、何をするんですか」
「可哀想だからやめたげなよ」
巫女を軽くあしらった少女はピンクのランドセルを背負っている。幸は自分が小学生に庇われたことに情けなさを感じた。
「あのね」
少女は幸をじっと見上げてくる。整った造作だが、どこか人形のように硬い感じがあった。
「別に道なんてどこを通ってもいいんだよ」
「そうなの?」
「道の真ん中とか、服がどうとか、神さまはそんな細かくないよ。大ざっぱだもん」
「またそういうことを」
「お姉ちゃんが細かいだけー」
少女は真顔でピースサインを決めた。巫女は息を吐き、幸への説教は諦めた様子である。
「はじめまして。私、
「神社の?」
だから境内で遊んでいたのだろうか。幸は何となく納得する。
「お兄ちゃんはどこの誰?」
「ぼくは……」
『ねえ、さち兄はさ――――』
ふと、幸の脳裏を懐かしさが過ぎった。彼は苦笑すると中腰になって天満と視線を合わせる。
「ぼくは八街。君のお兄ちゃんじゃないよ」
幸がそう言うと、天満と名乗った少女はむっとした。せっかく庇ってやったのにとでも言いたげな目であった。
「この人は天満ちゃんのお姉さんなの?」
「初対面なのにちゃん付けとかしないで」
「ごめんよ豊玉さん」
天満は目を丸くさせると隣にいる巫女の袖を引っ張った。
「『豊玉さん』だって。なんか大人っぽい」
「そうですね、大人ですね」
巫女は薄く微笑み、幸に向き直る。
「私はこの子と血の繋がった姉妹ではありません。ここでお世話になっている身です。八街さんと言いましたか。私は
幸は事情を説明した。天満はつまらなそうにしていたが、織星という巫女は根が真面目なのか、しっかりと話を聞いているらしかった。
「そういうことですか。ですが」
織星はどこか遠い目をして言った。
「その提案を受け入れることはできないでしょうね」
「ぼくが足を引っ張るからですか?」
「ああ、いえ、そういうことではなくって、あなたが男だから無理なんです」
織星は続けた。
「
「ええ……巫女さんだからですか?」
「さあ、そうかもしれません。でも、昔からの決まりらしいので」
決まりならば仕方がない。ルールならば諦めよう。しかし頭では分かっているつもりだが、幸はぶっすりと押し黙った。彼の不満を気にしたのか、織星は更に話を続けた。言い訳じみた話だった。もっとも、彼女は幸に対して弁解している訳ではないのだろう。
「できるなら私も狩人としての職務を全うしたい。そう思っています。でも、そうでない人も狩人の中にはいますから」
「やちまたくん」
天満は社務所の方を指で示す。幸は釣られてそちらを見た。
「あれ、私の家なんだ。自宅兼社務所ってやつ。あそこにはね、
「どういうこと?」
「
「え? それじゃあ……」
幸は織星を見た。期待に満ちた目だったが、彼女はふいと目をそらしてしまう。
「確かに天満ちゃんの言う通りです。ここは重要な場所といえばそうですから。私たち以外の狩人を置くことでケモノに対処していました。行き場のない人の受け皿にもなっていましたし。ですが、今、ここにいる狩人を入れても数は賄えませんし、男の人ばかりですから」
「みんな出て行っちゃったんですか」
「ええ。あ、いえ、というより」
「追い出したんだよ」
天満はこともなげに言った。
「あ、追い出したのは私じゃないよ」
そうして彼女は織星を見上げる。
「よその人に話すことでもありません」
織星は箒を持ち直す。
「とにかく、我々が力を貸すことはありません。人がいない以上、あなたが山に入ることもないでしょう」
それだけ言うと織星は掃き掃除に戻った。取り付く島もない。残された幸は大人しく引き下がろうとした。
ふと、鳥居を潜る男が目に入った。春の大型連休も過ぎたというのに冬物の長コートを着込んだ、背は高いが猫背のせいか、やけにひょろりと見える男である。年のころは三十を半ば過ぎたほどだろうか。目が青く、無造作に伸びた髪の毛は白い。全体的に浮世離れしているが、何よりもこの世全てを憎み切って嘲笑っているかのような凶相が、幸には印象的に映った。
男は幸たちの方へ小さく頭を下げると、社務所の方へ歩き去っていく。
「今の人は?」
「あの人も狩人だよ。ついこないだからうちでお世話してあげてるの。《猟犬》って言うんだって」
「猟犬? さっきの人が?」
そうだよと天満は頷く。幸は、先の男は犬というよりも餓えた狼にしか思えなかった。しかし今の自分には関係ないことである。今度こそはと境内を立ち去ろうとした彼だが、袖口をぐいぐいと引っ張られて立ち止まった。
「やちまたくんは狩人になりたいんだね」
「うん、そうなんだ」
「やちまたくんは花粉症?」
幸は訳も分からず頷いた。
「じゃあ、狩人になる手伝いをしたげる」
神社の社務所は豊玉家の住居をも兼ねていた。別館には他の狩人や《十帖機関》の巫女たちが寝起きしている。幸はそのような話を天満に聞きつつ、今は客間に通されていた。和室に入るのは久しぶりで、彼は祖父母の家を思い出していた。
天満の姿はない。ランドセルを部屋の隅に置いてどこかへ行ってしまった。仕方ないので幸はじっと待つ。畳の上にいる感覚が懐かしくて苦ではなかった。そも、ここまでのこのこと付いてきたのだ。予定があるわけでもなし、気楽な気分でもある。
天満は狩人の手伝いをすると言っていた。幸が花粉症かどうかも聞いていた。それはつまり、異能に関わりのあることなのではないか。しかし静かな場所である。参詣するものも自分以外にはおらず、他の狩人がいるはずのここにいても風の音しか聞こえない。天満の家族はどこにいるのか。自分のようなものが上がり込んで構わないのだろうか。彼はい草の匂いを嗅ぎながら思惟に耽る。
しばらくするとガラス障子が盛大な音を立てて開かれた。天満は足でそこを開けたらしく、お茶請けと湯呑が二つ乗った盆を持ちにくそうにしている。
「あったかいのでもいいよね」
「あ、おかまいなく」
「ええ? 構うよ。お客さんだもん」
天満はぎこちない手つきで、湯呑を座卓の上に置く。そうして幸の近くにちょこんと座り込んだ。
「やちまたくんは花粉症になってどれくらい経つの?」
「二、三か月くらいかな」
「じゃあ私のが全然先輩だね」
天満は真顔でみょうちきりんなポーズを決めていた。
「学校で流行ってるの、それ」
「そうだよ?」
「先輩ってことは豊玉さんも花粉症なんだね」
すごいでしょと天満はない胸を張る。
「クラスでも私だけなんだ。他のクラスや学年には花粉症の子もいるけどね。でも私が一等先輩なの。六年生の子よりずっと長いもん」
「いつからなの?」
「ん? 生まれた時からかもしれない」
天満はそのことを誇らしげにしていた。
「花粉症のことはね、私のが大人よりも知ってるの」
「へえ。あ、手伝いって何をしてくれるの?」
「あ、そだったそだった。やちまたくんはご神託って知ってる? 聞いたことある?」
「何となくは」
神からのお告げだ。幸は占いのようなものだろうと捉えていた。それが狩人に、自分にどう役立つのかははかりかねていたが。
「そう。神さまの言葉を教えてあげるの」
「神さまの」
「うん。でもね、花粉症の神さまなんかいないんだ」
だから。天満は幸をじっと見た。
「私の方が、神さまよりずっと花粉症を知ってるの」
幸はそうだねと頷く。
「だったら、私は神さまよりえらいし、神さまみたいなものなんだよ」
論理が飛躍している気もするが、それは子供特有の全能感や万能感から到る独特の思考だろう。真っ向から否定するつもりも対立するつもりもない。幸はまた頷いておいた。そして同時に天満の言いたいことが分かったような気がした。
「ご神託っていうのはね、
そんな気はしていた。つまりこれはままごとのようなものだ。
「そっか」
「うん」
天満は先ほどからずっと幸を見続けている。視線を一切外さない。
「そうなんだよ。信じてないでしょ」
「そんなことないよ」
「あ。ズボンのチャック開いてるよ」
幸は股間に視線を落とした。その瞬間、跳び上がりそうになった。頭から熱い茶をかけられたからだ。湯気さえ立っていたそれが幸の頭から首筋を伝い、背中まで侵入してくる。
抗議の意を込めて顔を上げた瞬間、幸は、お盆を振り被っている天満の姿を確かに認めた。鼻先に盆の縁がぶち当たり、彼は後ろへごろんと転がる。血は出なかったが強く打ち据えられて涙が零れた。
「……なに?」
意味が分からなかった。
天満は幸に熱い茶を浴びせて、盆でぶん殴って、そうして倒れている彼の傍に屈み込む。
「痛い?」
「は、あ……?」
天満の掌が幸の鼻先に触れる。彼女はそこを愛しげに撫でた。撫で続けた。
「痛いよね。嫌だよね。でも狩人になるってこういうことなんだよ。でもね。やちまたくんは花粉症があるから、痛いのとか、嫌なのとか、他の人より少なくできるかもしれないんだよ。だからやちまたくんのことを教えて。そしたら私が教えたげる。それでね。早く目覚めた方がいいよ」
幸は天満を見つめるしかできない。彼女の目は据わっていた。痛めつけた彼を心から心配しているような目をしていた。慈しみのこもった視線。そこには愛玩動物を相手にしているかのような、一種の無邪気さすら宿っていた。
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