「九頭竜……?」

 夕食後、家事が終わってゆっくりとした時間が流れ出した時、幸はむつみに神社のことを訊いてみた。

 むつみは何か思い出すようにして目を瞑っていたが、あぁと息を漏らす。

「あそこへ行ったとは聞いてたけど、まあ、そうだね。私も行ったことあるよ。三野山も行ったし、神社のおばあにも会った」

「おばあ? お婆さんがいるんですか」

「あれ、会わなかった? まあ歳だし、亡くなったのかも。知らないか。神社のおばあだよ。『神託』とやらを教えてくれる偉い人」

 むつみは口の端を歪めた。

「神託……叔母さんは聞いたんですか」

「異能のことでしょ? 聞いたよ。他の人にも勧められてさ。でも何を言ってるか分からなかったから、半分聞き流してたけどね」

 神社の神託は狩人の間では知られていることらしかった。ただ、幸は少し状況が違うことを理解しつつあった。彼はおばあという人物を知らない。神託を行おうとしたのは天満だ。

「神託って、痛いこととかされるんですか?」

「ええ? されないよ。話を聞くだけだもん。何、痛いことされたいの?」

「誰もそんなこと言ってないじゃないですか」

 冗談だよとむつみは笑った。

「ところでさ、さち君。さっきからずっと鼻触ってるけど、痒いの?」

 幸は適当に誤魔化した。痒くはない。痛くもない。彼の鼻には何の異常もなかったのだ。

「そう? それよりおばあだって。懐かしいな」

「花粉症のこと、そんなに詳しいんですか、おばあって人」

「まあね。メフじゃあ一番知ってんじゃないかな。どっかの学者さんがわざわざ話を聞きに来るくらいだし。何? 君も神託を受けたいの?」

「そりゃ、まあ」

「そうかい。でも、どっちかというと異能がどうとかより、自分のことを教えてくれるって感じかな。別に話聞いたから強くなるってわけでもなし。まあ、気の持ちようかな、何でもそうだけど」



 翌日。中間テストのことも気になっていたが、幸はそれよりも昨日に起きた出来事の方が気になっていた。

 九頭竜神社の境内に着くと、ぺしんぺしんと情けない音が響いていた。天満だ。彼女は縄跳びをしているが上手くいかないらしく、しきりに首を傾げている。

 幸が近づいていくと天満も彼の存在に気がついたらしく、縄跳びを止めてピースサインをした。昨日、茶をぶっかけて殴った相手に対してである。

「こんにちは、やちまたくん。また来たの?」

「うん。また来たよ」

「ということは、昨日の続きをしに来たんだ?」

 幸は言葉に詰まった。天満は縄跳びで石畳を叩いた。彼は気を取り直し、目を逸らすまいと少女を見据える。

「昨日、ぼくを殴ったよね。お茶もかけた」

 天満は舌を出した。所作こそ可愛らしかったが真顔では奇異に映る。

「でも鼻は何ともなってないし、制服には染みだってついてなかった。確かにやられたのに。痛いし、熱いのはずっと残ってるんだ。それが君の異能なの?」

 殴られた箇所は何ともないが、殴られたことだけは覚えている。鼻や服を騙せても、脳だけは真実を見通している。あったことを現実だと認識している。

「そんなとこかな。ふーん。やっぱり痛いんだ」

「……痛かったよ」

 幸は鼻を摩った。

「神託は痛くないって聞いたよ。本当はお婆さんがいるんだよね」

「おばあちゃんのこと誰かに聞いたの? ふーん。いるよ。おばあちゃんがそういうのやってたんだ。最近はやってないけどね」

「だから君が代わりに?」

 社務所の方に向き直ると、天満はどこかつまらなそうに息を吐く。

「やちまたくんはさ、生きるってどういうことだと思う?」

 幸は、天満が顔に似つかぬことを言うので可笑しかったが、目の前の少女は普通とは少し違うことを思い出した。

「ぼくにはよく分からないよ。でも、ご飯を食べて、友達と遊んだりしてさ、自分のやりたいことをやるのが生きてるってことなんじゃあないのかな」

「私もそう思う。ただ息を吸って、吐いて、心臓を動かしてるだけじゃ生きてるとは言えないよ。死んでないだけだよね。うん。あのね、おばあちゃんは三日寝て、三日起きるの」

「どういう意味?」

「そのままの意味だよ。寝てばっかなの。おばあちゃんは優しいかもしれないけど、それだけじゃあダメだよ。それじゃあ遅いんだ」

 どうやら天満にとっての神託とは、彼女の言う生きることとやらに関わりのあるものらしい。幸はそう判断した。

「それで。やちまたくんは何しに来たの? 怒りに来たの?」

 昨日、幸は何もできなかった。天満を跳ね除けることも叱り飛ばすこともしなかった。それは彼女が怖かったからだ。彼女の在り方が酷く恐ろしかったからだ。

 幸はメフで怖いもの、変なものを見て、出会った。その中でも豊玉天満は異彩を放っているように感じられた。彼女からはおよそ感情と呼べるようなものが認められなかった。

 たとえば周世むつみ。彼女は薄い。しかしよく笑うし、怒ったりもする。

 たとえば鍵玉屏風(現時点での幸はまだ彼女の名前を知らないが)。彼女は歪だ。心と体が一致していないように感じる。それでも人一倍笑うし、怒る。

 たとえば鉄一乃。彼女は固い。感情を隠そうとしているかのようだ。

 しかし豊玉天満はそもそも感情が欠けている。ないのだ。幸にはそうとしか思えなかった。

「ご神託を受けに来たんだよ」

 幸がそう言うと、天満はやっぱりと言い切った。

「そうだと思ってた」

 神託はどうでもよかった。ただ、幸は天満に付き合ってやろうと思った。



 幸はまた客間に通された。天満はまた、熱いお茶を持ってきていた。

「遠慮しないで飲んでね」

「ありがとう」

 天満は幸の近くに座り、テレビの電源を入れた。再放送のドラマが流れていて、彼女はこの俳優のここがかっこよくて、ここがかっこ悪いのだとか喋り始める。

「豊玉さんのお母さんとかお父さんはいないの?」

「え? いるよ。メフにはいないけどね。外で働いてるの。そんでたまに帰ってくるんだ」

「そうなんだ。寂しくない?」

「先生みたいなこと言うんだね。でもそんなに寂しくないよ。神社にはお姉ちゃんがいっぱいいるし」

 天満は十帖機関の巫女たちのことを言っているのだろう。幸は、この神社がそういったものを受け入れているのは彼女のためなのかもしれないと思い始めていた。

「やちまたくんにも家族はいるでしょ」

「うん。メフにはいないけどね」

「お父さんもお母さんもいるの?」

「お母さんはいないかな。妹はいるけどね」

 天満は首を傾けて幸を見た。

「ちょっと豊玉さんと似てるかな」

 強引なところや、袖を引っ張ってくる仕草などが似ている。しかし幸はそれを口には出さなかった。

「似てるの?」

あいつの方がずいぶん大きいけどね」

「あっ、どこ見てるの? ブザー鳴らすよ。お姉ちゃんたちが飛び込んでくるよ。それでどっちが可愛い?」

「え? そりゃ妹だよ」

「えー?」

 天満は畳の上に寝転がった。

「続きはしないの?」

「神託の? してるよ。まだ分かってないんだ」

 幸は小首を傾げる。

「花粉症を知るってことは自分を知るってことだよ。だって自分の中に花粉症があるんだから。ねえ。やちまたくんの力のことを聞かせて」

「ぼくの?」

 迷ったが、幸は《花盗人》について知っていることを話した。とはいえ断言できることは少ない。そのほとんどが当て推量なのだ。

 それでも話していると何となくだが分かってくることもあった。ドラマがCMに入ったところを見計らうかのようなタイミングで、天満は彼の話を遮った。

「やちまたくんの力は、他の人の力を奪うんだ? ふーん。本当に?」

「本当も何も」

「奪うって、よその人のものを自分のものにするってことだよね。でも、やちまたくんの花粉症はそうじゃない。だってさ、もし本当にそうなら、今も、やちまたくんは今でも他の人の花粉症を使えるってことだよ? それが奪うってことじゃないの?」

 幸はもう《心臓抜き》も《一水四見》も使えない。それは確かなことだった。しかし彼らの力を使えたのも確かなことである。

「一時的に奪ったってことじゃないかな」

「一時的? それって借りたってことじゃないの?」

「借りるっていうのは、あとで返すって約束をしてなきゃ成り立たないよ。でも、ぼくは『今から力を借ります。あとで返します』なんて言った覚えはないし」

「でも今は他の人のを使えないんだよね。人の花粉症が元に戻ってるんじゃないの。ってことは返してるってことになるよね」

「……そうかも、しれないけど」

 ほら、と、天満はピースサインを決めた。

「自分のことなのに分かってない」

 幸は若干の悔しさを覚えつつ話を続ける。天満はドラマに夢中のようだった。それでも彼はめげずに話をつづけた。

「やちまたくんはどうやって人の力を『奪ってる』の?」

「どうやって……それは」

 相手を見ることが大事だ。

 相手の大事なものを見ることが条件なのだと答えた。

「見る。見るだけ? 見るだけでできるの?」

「できない、使えない時もあったよ」

「それは相手の大事なものが分かっていないから?」

 分からない。幸は素直に答えた。

 そうして今までを振り返る。《花盗人》が発動した時、しなかった時。思い出してみる。

「……その人のことを知らないままだと、何も起こらなかったかも」

「その人のこと。好きなこと。好きなもの。嫌いなこと。嫌いなもの。その人の花粉症のこと。どんな花粉症なのか。どんなものを持っているのか?」

「あ、そうかもしれない」

《花盗人》は花粉症だけではない。持ち物を奪う。その持ち物を通して相手のことが分かり、経験すらをも奪う。だから幸は《骨抜き》事件の際、死した狩人の武器を使うことで戦えた。犬伏浜路の竹刀を奪うことで打ち合えた。蛇尾の男から武器を奪うことで《一水四見》をも奪えたのだ。

「死んでる人からも?」

「そっちのがすぐにできた。死んでる人のは、もう見えてるんだ。まるで抵抗されない、と、いうか……」

 抵抗。その言葉が何か引っかかって、幸は難しい顔をした。

「奪えるのは異能だけじゃない。……武器とか、その人のやってきたこととか」

「じゃあ相手が花粉症じゃなくても《花盗人》だっけ? それは使える時があるんだね」

「うん。でも使えなきゃ何の意味もない。ぼくの力は相手がいてこそ成り立つし意味がある」

 異能を使えなければ自分はただの高校生だ。幸はそのことを痛いほど分かっている。

「それじゃあやっぱり奪えるのは花粉症だけじゃないんだね。むしろ、花粉症はおまけなのかも」

「おまけ?」

「そう。お菓子についてくるおもちゃみたいに」

「じゃあ、ぼくの花粉症って本当は何なんだろう」

 むつみは異能など曖昧なままでいいと言っていた。しかし幸は知りたかった。知らねば強くなれないとも思っていた。

「場所を変えよっか」

「どこに行くの?」



 連れて来られたのは社務所の近くにある蔵だった。中は埃っぽくて暗い。おまけに床は冷たくて春だというのに身震いしそうだった。

 天満は木製の薄汚れた椅子を奥から引っ張ってきた。脚の一つを床に空いた穴にすっぽりと埋めると、幸にそこへ座るよう促した。穴で固定された椅子は彼が動いてもびくともしない。

「どうするの?」

 天満はいつの間にかロープを持っていた。彼女は幸の後ろに回り、それで両手をぐるぐる巻きにしていく。

「ちょっと、あの」

「自分のことがよく分からないやちまたくん。言っても話しても分からないならどうすればいいと思う? 私は花粉症には無限の可能性があると思うの」

 よく見ると、椅子の汚れの大半は染みだ。赤黒いそれが血だと気づくのにさして時間はかからなかった。

「成長が大事なの。人が生きていく上では大事なことだと思う。私も、花粉症も成長するの」

 異能が成長する。幸はその言葉に魅力を感じた。しかし両手首を締め上げる縄の感触にはうんざりだった。やがて天満はしっかりと幸の両手の自由を封じた。

「成長するのに大事なものは何だと思う? 木や草が光を浴びなきゃいけないのと同じように、やちまたくんが成長するのに大事なもの。答えて」

「えっと」

 天満は幸の頬を軽く打った。続いて、力強い一撃を放った。彼の頭が軽く揺れる。小学生にしては腰が入り、堂の入ったビンタであった。人を殴ることに慣れているとしか思えなかった。

「答えて。答えるまで打つよ」

 彼女は幸の頬に手を当てて、いつかのようにそこを優しく撫でた。

「……成長には経験が大事なんじゃないかな」

「よくできました。そう、経験。じゃあ何を経験すればいいと思う? 私はね、痛いこと、怖いことだと思うの。やちまたくんはゴキブリが好き? 嫌い? あのね。ゴキブリは意外と飛ばないんだよ。本当は飛べるのに地面を這い回るの。でもね、アレは死ぬ寸前に、自分が死ぬかもしれないって怖くなった時に飛ぶことを思い出すんだって。それで飛ぶの。飛べるようになるの」

「つまり……?」

「だからね、私は考えたの。私はおばあちゃんじゃないから、花粉症の人を強くするためにどうすればいいのか。それは、死ぬほど痛い目に遭わせればいいってこと。そうしたらやちまたくんも成長できるでしょ。それにね、痛さや怖さに慣れておくのはすごくいいことだと思う」

 要するには天満は人もゴキブリと同じだと言っている。自分があの黒光りした虫と同一視されていることに、幸は仄かな不安を感じた。

「やちまたくんは死にそうになったらどうする? 殺されそうになったらどうする? どうなると思う?」

「それは……」

 天満はまた頬を打ち、持ってきていた縄跳びを解き、それで床を叩く。次いで彼の顔を縄跳びで打った。

「意味のないことを言っても打つからね」

 さて。

 幸はここいらでよく考え始めた。それは自分のことや異能のことではない。はたして自分は何をしているのかについてである。彼は狩人になりたいがためにここまで足を運んだのだ。確かに自身や異能のことを深く知り、成長するのはいいことだ。しかしそれは狩人の研修には何らかかわりのないことでもある。

 そして。豊玉天満のことも考えていた。ぶたれて、殴られている内、幸は離れ離れになった妹を思い出していた。

 ああ。あいつもこういう風なことをしてたっけ。

 天満と妹は少し似ている。

 幸は妹にされたことを思い出していた。天満は異常だ。恐らくだが、彼女をこのままにしている九頭竜神社も十帖機関もがどこかおかしいのかもしれない。幸は天満を放っておけないと感じ始めていた。

「やちまたくんは怪我を気にしなくてもいいからね。私が元通りにしたげるから」

 痛みはない。血も消えている。

 ただ、痛かったこと、血が出たことは覚えている。幸は脳が軋んでいるのが分かった。現実との差異にストレスを感じているに違いなかった。このまま負荷をかけ続ければ自分がどうなるのか、少しばかり興味がわいていた。

「ねえ、豊玉さん。他の人にはこういうこと、しない方がいいよ」

「ここまで付き合ってくれるのはやちまたくんだけだよ」

「そう。だったら、ちょっと安心したかな」

 縛られて。打たれて。殴られて。

 それでも幸は安心したと口にする。天満はそんな彼の様子を好ましく思ったのか、幸の怪我が治ってもまだそこを撫でていた。

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