生体解剖者<3>
朝焼けが玖区の森を照らす。踏まれた草も倒れた木も、ケモノも人も生者も骸も分け隔てなく晒される。転がったカエルのケモノを足蹴にしながら、幸は目を細めた。戦いは終わった。残っているのは後片付けだ。とはいえ、それは彼にはあまり関係のないことである。裂け目の調査に来たチームは解散し、ケモノの駆除に反対していたものは責を問われる。無意味にも。裂け目は市役所が管理し、一時封鎖されることにもなるだろう。
狩人たちはケモノの生き残りがいないか見回っている。幸はその列には加わらなかった。駆けつけてくれたものに礼を言い、玖区の森を後にしようとする。小さなカエルを見つけたのは、その時だった。
アマガエルだった。幸の足元にいたそれは、彼をじっと見上げている。
「生き残りいるかもだから、ちゃんと探してちゃんと殺せよ」
「うーっす」
幸は咄嗟に屈んで、カエルを自らで隠した。狩人たちがいなくなったのを確かめてから、そっとカエルの姿を確認する。大量発生したケモノの生き残りだろうか。それにしては体が小さく、幸には普通のカエルにしか見えなかった。
「ちょっと隠れてなよ」
幸はカエルを手で包むようにして捕まえると、倒木の隙間にそっと隠した。それから、裂け目の調査に来ていたものたちから許可を得ると、すっかりぐちゃぐちゃになった調査チームのテントへ向かう。その中から比較的まともな水槽などを見つけて引っ張り出した。ここを使っていたのが何者なのかは知らなかったが、ここで飼われていたであろう小動物たちはものの見事に死んでいた。魚が一匹、地面の上に投げ出されていた。
「あ。ただいま……」
「おかえり」
家に帰るとむつみがリビングで待ち構えていた。彼女は椅子から立ち上がり、ずかずかと廊下を歩き、三和土で立ち尽くしている幸を見下ろした。
「……何それ?」
幸は、自分が両手で抱えている水槽を床に置く。
「飼育セットです。ええと、森で」
「そのまま」
「え」
やたら景気のいい音が幸の頬っぺたから発せられた。彼は叩かれた箇所に手を当てようとしたが、むつみのビンタは一発では済まなかった。彼女は返す刀で反対側の頬も打つ。瞬く間に幸の両頬が赤くなった。
「痛い?」
「あの。とても」
幸の目には涙が浮かんでいた。
「そ。朝帰りしたバツだよ」
「ごめんなさい……」
むつみは腕を組んで廊下の壁に背を預けた。彼女は覗き込むようにして幸の顔を見ると、口の端をつり上げた。
「ゲンコツのがよかった?」
幸は困惑した。
「冗談だよ、で、何、そのおっきな水槽」
幸が答える前に、彼のズボンのポケットから小さな頭がぬぼっと現れた。むつみは目を見開く。
「ええ、カエル? 飼うの?」
「飼ってもいいですか?」
幸は頬っぺたを摩りながら訊いた。
「ええー、カエルかあ……」
「苦手ですか」
「そうじゃないけどさ、それ、ケモノじゃないよね」
「たぶん違うと思います。小さいし、大人しいし」
むつみは、幸のポケットから顔を覗かせているカエルをじっと観察した。確かに小さく、大人しい。というより死んだように動かずぼーっとしている。
「まあ、色も普通だし、変なところも見当たらないか。……しようがないな。ちゃんと世話しなよ。私はしないからね」
「やった! ありがとうございます!」
「カエル好きなの?」
「そうでもないです」
「ああ、そ」
幸は靴を脱ぎ、いそいそと自分の部屋に戻ろうとした。
「あ。幸くん。学校はどうするの」
「あっ……」幸は時間を確認した。あと一時間もすれば登校の準備を始めねばならない。
むつみは苦笑した。
「ズル休みだね」
「ちゃ、ちゃんと行きますよ」
「どうせ授業中寝てるだけになるんじゃないの? いいよ。連絡したげるから今日は休みな」
「いいんですか」
「いいよ別に。私もあんまり学校行ってなかったし」
むつみは何故だか楽しそうにしていた。
「友達とかもいなかったし……ああ、一人それっぽいのはいたっけ。ま、これで君も懲りたでしょう。後先考えず好きにやると、どっかで帳尻合わせることになるんだよ」
「はい」幸はシュンとした。
「ねえ」
「はい」
「私って過保護?」
幸は目を瞑った。
「そういうんじゃないと思いますけど……お母さんの方が、その、もっと細かかったですし、あっ、カエル。カエルも飼っちゃいけないって言うと思います。朝帰りも……やったらたぶん、一か月くらい外に出られないし、そうなったら妹も」
「あ、うん、分かった。そうだったね。君のお母さんはそういう人なんだったっけ。うん。分かった。私はやっぱり過保護なんかじゃない」
「はい? そうだと思います」
むつみは上機嫌になっていた。幸は部屋に戻り、水槽にカエルを入れた。そうしてネットでカエルの飼い方を調べた。どうやら幸がただの水槽か虫かごだと思っていたのはクリアースライダーというものらしく、カエルを飼うのに適していた。
幸はむつみの用意した朝食を食べ終えると、水で湿らせたキッチンペーパーをクリアースライダーの底に敷いた。それから水場を作ったり、餌のパンくずを置いたりしたが、カエルはぼけっとしたまま動かない。
「そういや、カエルって動くものに反応するんだっけ……ええ? 生きてる虫じゃないと食べないの……?」
スマートフォンと睨めっこしていると眠くなってきた。
「幸君?」
「あっ、はい、なんですか」
ノックの後、ドア越しに声をかけられて、幸の眠気が少しだけ飛んだ。
「仕事に行ってくるけど、ちゃんと留守番してるんだよ」
「はい。あの、もしかして玖区に?」
「それもね。ま、後始末ってやつ。お昼ご飯は……まあ、どうにかして」
「はい、大丈夫です」
「何かあれば連絡するように。夕ご飯は何が食べたい?」
「なんか、甘辛いやつがいいです」
「なんだそりゃ。それじゃあね、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
ドアの閉まる音、鍵のかかる音がすると、幸は長い息を吐き出した。カエルの世話をする前に眠りたかった。彼はそのままベッドに移動し、布団をひっかぶった。机の上には水槽があって、カエルはじっと一点を見つめて動かない。
「ちゃんと食べろよな、好き嫌いせずに」
幸は目を瞑った。すぐにでも眠れそうだった。
やがて意識がぐちゃぐちゃに混濁し、家に帰るまでにあったことがかき混ぜられて真実かどうかも判然としなくなる。
「すまないね」
幸は目を開けた。
机の上には夢でも幻でもないものが存在していた。幸は少しの間ぼんやりとしていたが、上半身を起こして頭を振った。
「何となく、そんな気がしていました」
「そうかい」
幸は水槽の中に目を遣った。カエルが、彼を見返していた。カエルは先までとは違い何だか眠そうな顔をしていた。そして真ん丸の瞳には理知的な光が宿ってもいた。
「私を狩人たちに突き出してくれても構わなかったのに」
カエルは人の言葉を話していたが、幸は大して驚かなかった。その正体にも察しがついていたが、声を聞いて実感を得た。
「酷い目に遭うかもしれませんよ」
「そうかな。ほら、私はもうすっかり人間じゃなくなったが、それよりも酷い目に遭うとは、どのようなことをされるのだろう」
「それは鬼無里さんの異能ですか」
「そうみたいだ。まさかこんなことになるとは思っていなかったが」
カエルこと、鬼無里笹鳴は自嘲気味に言った。
「花粉症だったんですね」
「うん。隠していた。ずっと隠し通せるとも思っていたんだけどね。駄目だったよ」
幸はベッドから起き上がって椅子を引いた。鬼無里カエルは彼の方に向き直った。
「扶桑熱患者は幻聴を訴えるそうだ。頭の中で知らないやつの声が聞こえると。君もそうなのか」
「はい。それはきっと、頭の中のもう一人の自分が言ってるんだと思います」
「そうか。……その声は、もう一人の私とやらは
「そうなんですか」
「試したからね。ネズミや、虫、それから、カエル。最初は分からなかったが、不思議なものでね、私がそうあれと思うと、小さいものはそのように動く。動くなと思えばそうなる。麻酔もなしに解剖してたって動かなくなる。でもダメなんだ。小さいものじゃないと駄目なんだ。私が、ちょっとでも怖いとか思うとね、効き目はなくなる」
「じゃあ、森のケモノがたくさん出てきたのは」
鬼無里は頷いた。
「私の力が、私の手の届く範囲を超えてしまったということだろう。まるで制御ができなかった。気づいたら、ケモノの卵はみな孵ってしまっていたよ」
鬼無里は続けた。
「君には訊いていたね。どうして人は花粉症に罹るんだろうかと。私は、私はね、罰だと思うんだ。だって今まで自分より小さいものをいじめて、殺してきた。……いろいろな生き物を見ているとね、どうしてこいつらはこんな風に生まれてきたんだろうって思うことがあるんだ。オタマジャクシが溺れて死んでしまうみたいに。どうしてこいつらはオタマジャクシのままでいられないんだろう、カエルになって、肺呼吸にならなきゃ溺れずに済むのにって。扶桑熱も同じだ。そんなもの、人間が生きていくためなら、地球が回っていくだけなら必要なんかない。そんなものなくたっていいはずだろう? だから、神さまがいたとしたらこれは罰なんだ。花粉症に罹ったのは天罰なんだ。悪いことをしたら罰を受ける。扶桑熱はそのシステムとして」
「ただの病気だと思いますけど」
幸はあくびを噛み殺した。
「花粉症なんですもん。ただの病気ですよ、こんなの。罹るかどうかなんて誰にも分からないし、あるとしたら、運じゃないですか?」
「しかし」
「花粉症の人がみんな悪いことをしたからって言うんなら、人間はみんな花粉症になってます。ぼくだって虫を殺したことがありますし、お母さんにもよく怒られてました。『幸は悪い子だ』って。でも、そんなの普通じゃないですか」
「普通?」
「人間に良いも悪いもないですよ。みんないいし、みんな悪いし、だから……何言ってるか分からなくなってきちゃったな。寝ます」
「あ、ちょっと」
幸はベッドに戻った。
「おやすみなさい。鬼無里さんも疲れたでしょ」
「……あ」
幸は目を瞑った。
「ああ。……ああ、おやすみ」
脳みそが小さくなったからだろうか。カエルとなった鬼無里は小難しいことを考えるのは止めた。
「くあ……」
鬼無里は大口を開けて目を擦った。見慣れたはずのクリアースライダーも、中から見るとこれはこれで新鮮である。この中にいる小さいものを観察する立場にあったが、今では自分がその対象のようなものだ。
腕を上げる。
今までそこにあったはずのものはない。アマガエルのそれは、鬼無里の心に少なからずショックを与えていたが、人間に戻りたいと強く思わないのはどうしてだろうか。
よく分からなかった。なくしたものはたくさんあって、得たものといえば――――駄目だ。ただひたすらに眠たくて、鬼無里はゆっくりと目を閉じた。
「……ああ、なんだ。寝れるんじゃないか」
笑みがこぼれていた。
ここでならよく眠れるかもしれない。鬼無里は、安住の地を見つけたのかもしれないと、そんなことを小さくなった頭で考えるのだった。
げこ。
げこげこ。
誰もいなくなった魔区の大空洞付近でカエルの鳴き声が聞こえた。それは産声だ。だが、その声は誰にも聞き咎められなかった。
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