野分
「うおおああああ嫌だああああ」
「田中さん、お静かに」
一つの物事が始まり、
「うおおああああああああああ」
「打墨さん、お静かに」
終わった。
火曜から金曜と四日に渡り行われた中間テストは学生たちに充足感や失望感、諦念やら妥協といったものをもたらした。
蘇幌学園二年一組には八街幸という少年がいる。彼は手ごたえを感じていた。テストというのは今までの積み重ねだ。葛のヤマが見事に当たったのも大きかったが、それでも自分なりに努力した甲斐はあった。そう信じている。彼は結果が出るのを楽しみにしていた。そう。これで三野山に入れる。狩人見習いとしての新たなる一歩を踏み出す時が来たのだ。
テストが終わった日の夜、幸は古海からの連絡がないことを不安に感じていた。最後に彼女から連絡があったのはもう何日も前のことだ。人集めに難航しているに違いないが、幸は既に浜路、雪螢の協力を取りつけていた。あと一人だ。一人くらいなら親しくなった十帖機関の巫女に頼み込んでもいいし、神社の別館にいるという野良狩人も四人いる。そのことは古海にも伝わっているはずだった。
「しようがないなあ」
むつみは、そんな幸の様子を見かねて電話を手にした。
「古海にかけたげるよ。少し待ってな」
「ありがとうございます。古海さん、忙しいんですかね」
「さあて、どうだろう」
むつみは携帯電話を耳に当てている。やがてお目当ての人物が電話に出たのか話を始めた。幸はそれを黙って聞いている。何か、電話口の向こうが酷く騒がしかった。
「うん。うん。そう。さち君が古海はどうしたのかって不安がってるから。そう。代わって。……何?」
むつみは眉根を寄せた。
「だったら自分で言いなよ。私は古海にさち君を任せたんだから。え? 何? 聞こえん。うん。うん。ああ、そう。だから自分で言いなって。さち君。ん」
電話を手渡される。幸はそれをゆっくりと耳のところへ持っていった。
「あ!? さち君!? いやー、ちょっとそのなんつーか色々あってさ! 今まで電話できなくってごめんね! それで、あのねー」
古海の声は馬鹿みたいに大きかった。いつもより呂律が回っていない感じもあり、おまけに後ろからは威勢のいい声やら男女の喧しい声が聞こえてきて鼓膜が破けそうだった。どうやら彼女は居酒屋らしき場所にいるらしい。
「まあー、そのー? ちょっと忙しくって、今日も夜遅くどころか上手くいけば……じゃなくて下手したら朝までかかっちゃうんだよね! だから土日に山行きたいってさち君の気持ちは痛いほど分かるんだけど! だけど私も色々あるんだよね! つーかお願い、マジで今週は勘弁して!」
「合コンですか」
「えうっ!? い、いや、ちが……」
「分かりました。仕方ないです」
「え、あっ、ちょ、ちょっと待って」
幸の声は自分でも気づかぬうちに冷たくなっていた。具体的には古海に対する態度が『知り合いの優しいお姉さん』から『なんかその辺にいるちゃらんぽらんな人』に格下げされていた。
「待って待ってむつみに代わって! 戻して!」
幸は無言でむつみに電話を返した。彼女は黙って古海の話を聞いていた。しばらくして、電話口が静かになる。そうしてむつみは幸に目配せした。
「うん。分かった。はいはい、分かったって、ありがとうね。さち君にも言っとくから。うん? 分かったって言ってるじゃない。え? だから分かったって泣かないでよ鬱陶しいな」
「……泣いてるんですか?」
「どうせ嘘泣きだよ。はい」
「ごめんねええええええええ!」
幸は目を白黒させて、恐る恐る通話口に耳を当てる。
「私が悪かったよおおおお! まさかさち君がそんなに私のことを慕ってたっつーか好きだったなんてええええ!」
「え」
むつみが笑っていた。幸は話が妙な方向に行っているのを感じつつも、古海の話をただただ聞くしかない。まくし立てる彼女が時折発する『青い果実』だの『たまには若い子もいいよね』みたいなワードに戦慄を覚える。
「明日はね、むつみには山へ下見に行くとか言ってるけど実質デートみたいなもんだね! えっへへへへ嬉しいでしょー!? いやー全然気づかなくってごめんというか下見とかテキトーに済ませてさあ、なんかおいしいものとか食べたいね、ね! ああでもさち君は私みたいなおばさんじゃアレかな、アレだよねえ……なんか。一人ではしゃいじゃってさ、馬鹿みたいで、あれ、なんか死にたくなってきた」
「し、死んだら駄目ですよ」
「そうかなあ……」
今度は愚痴を垂れ流される。古海の話は相変わらず長かったし感情の上下左右振り幅が無茶苦茶だった。
「それじゃあ、また明日に。なんだか、すみません」
「えー!? いいよいいよなんでもいいよー! そんじゃむつみにもよろしくねー! しゃああああ今日は飲むぞおおおおおお」
幸は電話を切った。
むつみは訳知り顔で頷く。
「許してやりなよ。あいつもいい歳だからね。焦ってるんだよ」
「いや、ぼくこそ楽しそうだったのに邪魔しちゃって……叔母さんは、そういうのないんですか」
「私? ああ、そうね、こう見えて結構モテるんだよ。私」
「そうなんですか?」
「でもなあ。今はコブ付きだしなあ」
「……そりゃ、申し訳ないです」
意地悪い笑みを浮かべると、むつみは美味そうに紅茶を飲んだ。
「冗談だよ。そうだね、明日は精々あいつに優しくしてやりな」
デートというわけではなかったが、幸も古海には世話になっている。何か恩返しの一つでもしたいと考えていた。
翌日、幸はマンションの駐車場近くで古海が来るのを待っていた。今日はここまで彼女が迎えに来るらしい。約束の時間まで間があるが、彼は本を読むことで――――。
「おっまたせー!」
クラクションが三度鳴り、ワゴンが幸の目前で停まる。彼の心臓も止まりかけた。
「さあ乗って乗って」
運転席から古海が急かす。幸は慌てて助手席に乗り込んだ。
「お、おはようございます」
「うん、おはよう!」
古海はあさイチから元気だった。幸はなんとなしに彼女の横顔を見る。彼女は作業着ではなくぱりっとしたスーツに身を包んでいた。いつもよりきらきらしているように思えたが、それは単に先日よりメイクが濃いだけだった。
実際、古海のコンディションは不調の域にある。昨夜はしこたま酒を飲んだ。目の前の男を忘れる勢いで。今日より明日である。そう信じて。
「さーてどこから行こうか」
「山に行くんじゃないんですか……?」
シートベルトは忘れずに。
運転中の古海はぐちぐちと言っていたが、車は拾区に向かっている。田舎道の短いドライブが終わり、やがて二人は神社の山門の前に立った。
「なんか、その格好だとここいらには合わないですね」
「そう?」
「そうです」
幸は何かに気づいた。
「古海さんがおしゃれというか、綺麗だから。こう、なんて言うんですか。都会? って感じで」
「ありゃ、それっておだててる? ……まあ悪い気はしないなあ」
「素直に思ったことを口にしただけですよ」
「んー?」
古海は不思議そうにしていた。幸は彼女に先んじて山門をくぐる。歩きながら、彼は古海を褒める材料を探していた。思いついてはそれを口にしてにこにこと笑う。
「さち君」
「なんですか」
「昨日、むつみに何か言われたでしょ」
ぎくりとしたが素知らぬ風を装う幸。しかし古海には見抜かれてしまっていた。
「まだまだ浅いなあ、さち君。気ぃ遣ってくれるのは嬉しいけどね」
「叔母さんに言われたのは本当ですけど、言ったことは嘘じゃないですからね」
「またまたあ、もう、そういうの大丈夫だって」
「嘘じゃないですよ」
幸はまっすぐに古海を見た。
古海は意外に感じた。幸は根っから素直で『いい子』だと思っていたからだ。彼が狩人になりたいと言ったのは気の迷いで、メフに来てやることがなかったからそうしているのだとばかり思っていた。体も小さく、線も細い。同年代と比べればまだ子供っぽく荒事には向かないはずだ。自分が狩人の研修を引き受けたのも、三野山に入る段になれば腰が引けて諦めるだろうと判断してのことであった。そういったことも含めてむつみから幸を頼まれていると認識していたのである。
――――マジのトーンでこっち見るんじゃないっつーの。
「じゃあ、そういうことにしとこうかな」
「はい、そうしてください」
じっと。真摯な目を向けられたのはいつぶりのことだろうか。古海はそのようなことを考えていた。
九頭竜神社の境内には月輪織星がいた。彼女は幸らを見つけると小さく頭を下げた。
「おはようございます、八街さん。それと……」
「どうも。市役所の方から来ました」
「ああ、どうも。それで、御用は」
「こないだの続き」
おや、と、幸は小首を傾げそうになった。先までご機嫌だった古海が今はぶっすりとしていたからだ。
「人が集まりそうだからね、明日にでも行かせてもらおうと思って。あと、入り口近くまで様子見」
「そういうことでしたか。どうぞ、決まりさえ守っていただけるならこちらとしても言うことはありません」
「……まあ、あと一人ばかり足りないんだけど」
「では、駄目です」
「あと、一人なんだけど?」
駄目ですと織星はきっぱりと言い切った。古海は何故か喧嘩腰である。幸は仲裁に入るわけではなかったが、口を挟むことにした。
「あの、そしたら別館にいるって狩人さんたちに頼んでみてもいいですか?」
「あなたが?」
「はい。ダメですか?」
織星は睨むような顔つきで幸を見下ろす。
「……構いません。でも、人がいないなら明日来ていただいても入れませんから」
「分かりました。あの、今からお願いしに行っても大丈夫ですか」
「ええ、どうぞ」
幸は古海と共に別館へ行ったが、狩人たちはどこにもいなかった。近くにいた巫女に聞くと、今朝から姿が見えないらしく、彼は頭を抱えた。
「まったく、ケモノを狩って欲しいのかそうでないのかまるで分かんない。どうしたいのかな、ここの連中は」
「そうですね。本当に」
幸はここの巫女たちと顔を合わせて言葉も交わしたが、彼女らだけでなく、この神社についてはほとんど何も知らないに等しかった。
ケモノは山にいる。いつ降りてくるか知れない。現に狩人だって殺されているのだ。だが、巫女たちは普通だった。天満もそうだ。ここでの生活に慣れているのだろうが、必要以上に怯え、恐れている節はない。もっと警戒するなり、対策を講じてもおかしくはない。それよりも決まりを優先するというのは、どういうことなのだろうかと考えを巡らせてみる。
「怖くないんでしょうか」
「何が? ああ、ここの人らが、ケモノをってこと?」
幸は小さく頷く。ここはメフだ。外とは少し違う。それでも中にいるのは同じ人間である。
「考えてもしようがないものはしようがないよ。ここにいたって誰かが助けに来るわけじゃなし、下に戻ろ」
古海の言葉に同意し、二人は境内を後にする。人気がなくなったところで、幸は気になっていたことを尋ねた。
「古海さんは月輪さんが嫌いなんですか?」
「月輪って? さっきの巫女さんのこと?」
そうですと幸は首肯する。古海はあははと手を振った。
「違う違う。別にさっきの子がどうこうってわけじゃないって。でも、
「市役所がですか?」
「そ。さち君は地脈とか龍脈とか、そういうの知ってる?」
「風水とかで聞いたことがあるような……」
「そそそ。私はあんま信じてないんだけどさ、パワースポットみたいなもんなのかな。すごい気が通ってるルートのことで、そういうの大事にする人は案外多いの。市役所なんかもどっかのえらい建築家の人が建てる場所まで指示したんだって。そんで、ここの神社もそういう場所なわけ」
「確か、神社はここに建て直したんですよね。前のは大崩落で潰れちゃったから」
古海は目を細めた。よく覚えていましたとでも言いたげである。
「三野山には色んなケモノがいるけど、実はね、あんまり山から下りてこないんだ。理由はいくつかあるらしいよ。山のケモノは山にいるもの同士で生態系が完結してるから、わざわざ人里に降りてこないとかね。でも、市役所のえらーい人はそう考えてないらしいの。ぶっちゃけ、九頭竜の神社が結界になってるとか考えてやがんの」
「それで地脈の話が出てたんですね」
「……一度ね、役所が神社に圧をかけるってのかな、猟地の所有権をよこせーって言いに行ったことがあるの。一々許可だの取るの面倒だし、神社は結構な人数の狩人も抱えてたし、役所が管理下に置きたかったのね。でも無理だった。大量のケモノが山から下りてきたからね」
「それを神社の人たちがやったんですか?」
「まさか。でも、そういうのを信じる人はいるって話」
幸も占いは嫌いではないが、俄かには信じがたい話だった。
「それだけですか?」
「えー、何が?」
幸は立ち止まって、古海の背中に声を投げた。
「古海さんが神社に来たら機嫌が悪くなるの、それだけが理由じゃないかもって」
ゆっくりと振り向くと、古海は下ってきた道を見上げた。
「変に鋭いね、さち君は。聞いたらちょっとヤな思いするよ。それでもいい?」
「聞かせてください」
「そ。……バカな子だなあ」
山門に戻るまでの間、古海は歩調を緩めてあることを話した。
メフに連れて来られるものの話だ。
通常、扶桑熱患者と診断された場合、幸のようにメフでの引き取り先や住居を見つけてから連行される。既に外で犯罪を起こしたものや凶悪だと認定されればその限りではないが、普通はそうだ。引き取り先などが見つからなかった場合は施設に送られる。これも普通だ。しかし古海が話の中で問題にしているのは、引き取り先が見つかった場合のことだ。
「さち君がむつみに出会ったみたいにさ、いいものばっかじゃないんだよね」
そもそも、メフの外と中の行き来は自由ではない。交流も盛んではないから、外から来るものは自分を引き取ってくれるものの正体を知らないことが多い。親せきや知人の名前を騙るものもいる。何も知らずにやってきた扶桑熱患者を好き勝手にするためだ。それらを正しいかどうか吟味する時間も人員も割けないのが実情である。
「別に女ばっかりじゃないけどさ、役所とか、狩人とかやってるとそういう話ばっか聞いちゃうんだよね。だいたい酷い目に遭うのは女でさ。異能があっても使ったら捕まるし、役に立つ力とは限らないしね」
扶桑熱係、通称、《花屋》という警察組織も動いているがどうしても患者の全てを把握することは難しく、メフへの出入りには不透明な部分が多い。古海はそうも語った。
「そんで、そういう『酷い目に遭った』女が行きつくところの一つがあの神社なの。あそこに匿われるみたく巫女になる」
幸は声を漏らしかけた。神社の巫女たちが名前を隠していた理由と、古海の話が繋がりかけたのだ。もちろん、そうでない可能性はある。彼女らの過去を邪推するのは簡単だ。
「……あれ。じゃあ、どうして古海さんは神社を嫌ってるんですか」
「巫女が可哀想な人たちって? まあ、そうだけどね。でも私はなんつーか、神さまとか目に見えないものをあんまり信じてないんだよねー。だからここが駆け込み寺みたいなもんで弱い人の味方してるんだとしてもさ、なんか気に入らないの。なんか『女だから』とか『花粉症だから』とかって諦めてるみたいで」
幸は古海の言うこと全てを善しとできなかった。彼女は強いのかもしれないが、自分だけではどうしたって物事を解決できない人もいる。彼自身、独りきりでは何もできないことを分かっていた。
「さち君はさ、今の内は誰かに甘えたり、助けてもらったりしなよ。でもね、もう少し歳を食ったら一人でどうにかしなきゃいけない時が来ると思う。うん、必ずね。その時は神さまだろうが何だろうが、そんなもの役に立たないよ。助けてくれるのはさ、今まできちんとやってきた自分自身だと思う」
幸は素直に頷く。
もう一つ、彼が分かったことがある。古海もまた酷い目とやらに遭ったのかもしれない。そして彼女は他者に頼らないで生きてきたのだ。幸は古海の生き方に憧憬の念を覚えた。
「その時が来るまで古海さんたちに精いっぱい甘えます。でも、古海さんにもそういう時が来て、どうしようって困ってたらぼくに言ってください。できることがあったら手伝いますから」
「それもむつみに仕込まれたのかな?」
「違いますよ」
幸は古海をまっすぐに見た。以前から、彼女と話す時はなるべくそうしている。何故なら古海があまりこちらを見ないからだ。冗談めかしてけらけら笑って明るい声で誤魔化すからだ。
「……ああ、そっか。何だかんだで男の子なんだね」
古海は幸の頭をくしゃくしゃに撫で回し、シニカルな笑みを浮かべた。その時になって彼は、それが彼女の本当の顔なのかもしれないと思った。
山門をくぐり、駐車場に向かおうとしたところで、幸は立ち止まった。がらがら通りが気になっていたのだ。
「あの、一つお願いしてもいいですか」
「んー、どったの?」
「斧磨鍛冶店って知ってますか?」
幸は、狩人研修の際に使う得物をレンタルしたいのだと古海に伝えた。彼女はあっさりとそれを認めた。
「経費で落ちるっしょ。それにしても根回ししてたな? 意外とやり手だな、さち君」
「いいんですか?」
「それくらいはね。けど斧磨……聞いたことないな」
二人はがらがら通りをゆっくりと歩いて目的の店にやってきた。幸にとっては二度目だ。しかし店の人間とは気まずい形で別れている。得物をレンタルするにしても他の店を使えばよかったのだが、件の鉈が気にかかっていたのだ。
「あのー、すみません」
店内は静かだった。誰かが作業をしている様子もない。幸が困っていると、古海がカウンターを指差した。そこには親方と呼ばれていた老人ではなく、鷹羽という少女が座って居眠りをしている。
「なんか流行ってないんじゃないの? ここでいいの?」
「ここがいいんです」
「……んん?」
話し声で起きたのか、鷹羽が目を擦りながら幸と古海にじっとりとした視線を向けた。
「あれ、お客さん。あぁどうもすいやせんで、何せ暇なもんですから……あれ? あんたもしかしなくても……」
「どうも、また来ました」
鷹羽は飛び起きた。
「帰れ!」
「ええー? どういう店なん?」
「まあ、その、色々あって……でもレンタルしたいですし、また来たらサービスしてくれるって言ったじゃないですか」
「言ったのは親方だ。アタシは知らねえよ」
立ち上がっていた鷹羽は椅子に戻って腕を組む。
「アタシは狩人にゃあ物は売らねえし作らねえ」
「アホか!」
店先に杖を突いた老人が立っていた。この店の主、斧磨包彦である。彼は壁に手をつき、杖をぶんぶんと振った。
「おめえまたお客さんに生意気な口利きやがって! そういうのはなァ、一端の職人になってから言いやがれってんだ!」
「アタシは職人だ!」
「見習いのぺーぺーじゃねえか」
「ぺーぺーじゃねえ!」
また口喧嘩が始まった。幸と古海はその様子をしばらく観察していた。先に音を上げたのは親方である。彼はカウンターの奥に回って、鷹羽を椅子から追い出した。そうして見え透いた営業スマイルを浮かべる。
「いや、まさかまた来てくれるたあ思ってなかったですよ。それでレンタルの話で? いや、どうぞどうぞ好きなの持ってってくださいよ」
「バッカ野郎じいちゃん! あれは駄目だからな!」
「ええいうるせえな分かってらあ!」
あの、と、幸がおずおずと手を上げる。そうして壁にかかったままの、件の鉈を指差した。
「あれはもういいですから、ぼくによさそうなものを借りたくて」
「ああ、そりゃあもう。たかっ、何本か持ってきてやんな!」
「ヤだよ。なんでアタシがこいつのためなんかに」
「いい加減にしねえかぶちのめすぞこの野郎!」
「ああもううるせえな! わーっかったよ! 持ってくりゃあいいんだろ!?」
鷹羽は喚きながら奥へ消えていく。そうして両腕に数本の鉈らしきものを抱えて戻ってきた。
「さっさと選びな」
「……どれがいいんでしょうか」
「アタシに聞くんじゃねえ! まあ、でも、なんだ。あんたちっせえからな。こんなんでいいんじゃねえのか。ちょっとそれ持ってみ。振り回すなよ、あぶねえからな」
言われたとおりのものを持ってみると、ずっしりとした重量感があった。
「おお、お客さん、サマぁなってるじゃねえですか」
「え? そうですか?」
「バッカ野郎お世辞だよお世辞」
鷹羽はつまらなそうにしていたが、幸の身振り手振りは存外悪くなかった。古海もへええとか、ほおおと感心している。
たぶん、骨抜きの時に使ったからだろうな。死した狩人の斧やら鉈をぶんぶん振り回していたことを思い出し、幸は何となく恥ずかしい気持ちに陥った。
「で? どうなんだ?」
問われて、幸は首を傾げた。
「なんかしっくり来ない……」
「あァァん!? てめーいちゃもんつけやがって! だったらこっちは! 今のよりちょっとでけえのだ!」
幸は鷹羽から別の鉈を受け取って感触を確かめる。
その光景を見ていた親方は古海に声をかけた。彼女の格好がこの辺りでは浮いていることも気になったのか、物珍しそうにしている。
「そちらの方は、新人さんのお連れさんで?」
「保護者みたいなもんですかね。……ああ、役所のものだから心配しないでください。怪しいもんじゃないので」
「市役所の? あー。ちょっと、その、折り入ってご相談があるんですがね」
古海はカウンターに寄っていった。
「まぁたよからぬことしてやがんなあ、じいちゃんめ」
鷹羽は幸にぶしつけな視線を送り続けている。彼はその視線に気がつき、申し訳なさそうに目を伏せた。
「こないだは生意気なこと言っちゃってごめんなさい。ちょっと舞い上がっちゃってて」
「……何さいきなり」
「特注品作りたいとか、あの、壁の鉈を使いたいとか言って」
「あァー……」
鷹羽は持っていた小ぶりの鉈の柄で頭を掻いた。
「逆鱗ってのがあるじゃねえか。誰だってさ、うっかり八十一分の一を引いちまう時だってあらあな。アタシも、まあ、お客さんにあんな風にして悪かった。すまねえ。許してくれ」
「あれ、大事なものなんですね、やっぱり」
「大事ってか……まあ、そういうもんかな」
幸は色々な鉈を試したが、どれもしっくり来ていなかった。鷹羽はからからと笑った。
「見習いのくせに生意気だなあ、お前。今持ってんのも親方が打ったやつで出来栄えだって悪くねえんだぜ。しようがねえなあ。色々悪く言っちまったしなあ。おおい、じいちゃん!」
「ん? おお、どうした」
親方は顔を上げて眉根を寄せた。鷹羽の機嫌がよくなっていることに不信感を募らせたのだ。
「こいつの鉈でも斧でも……そうさ、この際、剣でも槍でも打ってやるよ!」
「あぁ? 打ってやるだあ?」
「ああもう、打たせてもらう、だろ!」
「お客さん、こいつでいいんですかい!?」
幸は鷹羽を盗み見た。彼女は莞爾とした笑みを浮かべている。
「やってくれるんですか?」
「気が変わったんだよ。アタシは狩人も嫌いだし、お前もなよっとしてて気に入らねえけど、商売だし、罪滅ぼしってやつだ。おお、安心しろよ。だからって手は抜かねえしつまらねえもんはお客には渡さねえからよ」
「おめえ素直に『ありがとうございます』って言いやがれ!」
「うるせえええええよ!」
斧磨鷹羽は幸に合ったものを作ると約束した。きっちり書類も作った。しかし、何せ特注品だ。時間はかかる。三野山へのアタックへは別のものを携行することとなった。
「御品は明日、たかに持ってかせますよ。山門のところでいいんですかい?」
「それで大丈夫ですよー」
「へっへ、それで古海さん。もう一個の方も」
親方は下卑た笑みを浮かべた。
「ああー、まあ、そっちもね。掛け合うだけ掛け合ってみますんで」
「頭ぁ上がらねえですね、いやあ、助かるってもんです」
幸と鷹羽には何のことだか分からないやり取りだった。
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