行幸



「おはよう少年。昨日は楽しかった? まーた生意気に晩ご飯も要りませんなんて言っちゃってさ。古海あいつと何食べてきたのか教えてくれてもいいんじゃないのかな」

 むつみは翌朝になってもぐちぐち言っていた。昨晩、幸が帰ってからこうである。

「楽しいも何も、下見に行っただけじゃないですか」

「下見だけで夜までかかるかね。……まあ、ちゃんと帰してくれたからね。あいつにもまだその辺の良心は残ってたか」

「当たり前じゃないですか」

「どうかなあ」

 幸は古海から『デート』のことは言わないようにと釘を刺されていた。鍛冶店に寄った後は、彼女の気の向くままにドライブしたり、食事を楽しんだ。それが下見ではないことは幸にも分かっていたが、綺麗な女性に付き合って行動するのは思っていたより悪くないどころか、とても得難い経験だった。

「おぉい、何だかにやけてない?」

「にやけてません」

「しっかりしなよ。今日は山に入るんでしょうに。古海もいるから大丈夫だと思うけどさ」

 日曜日の朝。先週とはまた違う朝だ。幸は雲一つない空を見る。澄み切っていて、心が震えた。



 古海は朝からにやけ面が治らなかった。

 正直言って年下とのデートが楽しくてしようがなかった。ちょっと甘く見ていた。ただただ自分を慕ってくれる若者とのそれは久方ぶりに大いなる活力をもたらしたのだった。

「あの、さっきから大丈夫ですか」

「え? あー、へーきへーき」

 古海は自分の腿を抓って笑うのを我慢していた。

 気を引き締めねばならない。古海は後背にある山門をきりりとした目つきで見据えた。今日は山へ入るのだ。しかも素人同然の幸を連れて。笑っている場合ではない。

「えへへへへ平気平気」

「本当ですか……?」

 幸の視線が痛かった。古海は気を取り直そうとして咳払いする。

「ところでさ、さち君のお友達が二人来るんだよね。どんな子なん?」

「え。……どんな『子』っていうか……」

「んー?」

 この後、古海の顔からは長い期間、笑みが消えることになる。少なくとも丸一日くらいは。



 最初にやってきたのはワーウルフの女だった。

「あぁ八街殿、おはようございます」

「えーと。どこのどなた様?」

「申し遅れました。私は犬伏浜路と申します。この度はご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」

 古海は浜路をじっと見た。明らかに幸の同級生ではなかった。しかも剣道着である。さらに竹刀を持っている。狩人というよりこれでは剣士だ。

「あ、顧問の先生なんです」

 幸はまるで気にした様子を見せなかった。そういう彼は前日に言っていたとおり動きやすい服装をしていて、実に素直でよかった。

「……顧問て」

 これで素人がまた一人増えた。最初からそこまで期待していなかったが、古海は少々気落ちした。



 次にやってきたのは中国人の女だった。浜路同様、明らかに幸の同級生ではない。しかもラフな格好で肌の露出も多い。古海は、こっちは作業着だぞ。山を舐めるなと言いたくなった。

「幸、ご飯食べた?」

「食べましたよー。雪螢さん、この人が古海さんです」

「ああ、市役所の」

 雪蛍は古海を一瞥しただけだった。

「さ、さち君。この人とはどこで知り合ったのかな」

「えーと……アルバイト先の先輩です」

「ああ! なるほど、バイトの先輩ね」

 また素人だ。それにしてもこの中国人は空手である。小さくも可愛らしいリュックサックを背負っているだけでまるで行楽に来たかのようだ。

 幸の交友関係に若干の不安を感じたが、古海は頑張って気を取り直した。



 古海さんから笑顔が消えた。

 幸はそのことに不安を感じていた。それでも彼女ならどうにかしてくれるだろうという根拠のない信頼感を覚えていた。そうして山門の近くで待機していると、駆けてくる人影が見えた。こっちに手を振っているのは鷹羽である。肩にかけた鉈が邪魔で走りにくそうにしていた。

「いやー、悪い悪い! お待たせして申し訳ねえ!」

 鷹羽は持ってきた革の袋から鉈を抜く。それを古海に見せつけると代金の支払いを迫った。

「はいはい。あ、財布車ん中かも。ちょっと待っててねー」

 古海は小走りで駐車場まで駆けていく。手持無沙汰になった鷹羽は幸に近づいた。

「これは一時的に貸してるだけだからな。お前の本命はまだだからな。忘れてないだろうな」

「はい。もちろんです」

 鷹羽は満足げに頷き、鉈を入れていた袋を手にした。

「ほらっ、つけてやるよ。これ鉈袋っつってな、刀の鞘ってわけだ。ほら、腰にこうやって……ああっ、くるくる回るなよ!」

「ああ、ごめんなさい」

「こいつは親方からサービスだってよ。あとでここ見てみ、『八街』って名前入れてあっからよ。なくすなよな!」

 持ち物に名前を書いてもらう小学生のようだが、幸は素直に喜んだ。

「おお、それからな、鉈とか持ち歩く時は気ぃつけろよ。ちゃんと袋とかケースに入れろよな。ケーサツに呼び止められたりもすっからよ。そういう時はうちの名前出して、『研ぎに出してた帰りだ』とか『友達からもらったんだ』とか言い訳用意しとけって親方が言ってたぜ。すらすら言えなきゃ疑われるからな!」

「う、うん、分かりました」

「おっしゃ、つけてやったぜ! 今度は一人でもやれよ」

 鷹羽は幸の腰を掌で叩いた。鉈の、ケモノを殺すモノの重みが直に伝わった気がした。

「ありがとう、斧磨さん」

「いいってことよ。金払ってる間はうちの客だしよ」

「あの、一つ聞いてもいいですか。どうして狩人が嫌いなんですか」

「その喋り方」

 幸をねめつけるように見据えつけると、鷹羽は腕を組んだ。

「鬱陶しいし、こそばゆいからやめろよ。歳も近いし、アタシら見習い同士だしな。『たか』でいいよ、たかで。親方もそう呼んでるだろ」

「じゃあ、たかちゃん?」

「ちゃんをつけんじゃねえや!」

「でも呼び捨てるのも……」

「呼び捨てでいいって」

 しかし幸は女性を呼び捨てるなと母から厳しく躾けられていた。一度戯れに妹を呼び捨てた時など、それはもう、母は烈火の如く怒った。

「努力するよ」

「変なやつ。……まあ、狩人は嫌いだけどよ。お前が死んだら商売上がったりだからな。せめてアタシが打ち終わるまで死んだりすんなよ」

「それも努力するね」

 幸は困ったように笑った。鷹羽は笑うなと怒った。



 おおよその準備は終えた。あとは上るだけだ。

 古海は、自分が引率するメンバーを見回す。どうにも頼りなかった。しかも一人足りないのだ。せめて、あと一人なんかまともそうな人がいてくれれば楽になるのに。誰か来てくれ。そう祈り、念じ、願った。

 そして祈りは通じた。

「……あれ?」

 山門に近づいてくる一台の車があった。カブトムシみたく丸っこい車体のそれは古海らの傍で停まり、運転席から野暮ったいジャージを着た女性が颯爽と降り立った。

 古海にはなぜか、その人物が救いの女神のように見えた。

「先生? どうしてここにいるんですか?」

 やってきた女こと鉄一乃は表情を変えないまま、幸に告げた。

「教師としてです。生徒さんの活動を見守りに来ました」

「教師? さち、くん? その人は、学校の先生なの?」

「そうですけど」

 最後にやってきたのは眼鏡の女だった。

 神様など信じていない自分が祈ったところでこんなものだよなと、古海は半ば諦めの境地に達していた。彼女は作業的に、機械的に自己紹介をこなした。ともあれこれで三野山の猟地に入れる頭数が揃ったのだ。初対面の三人には車に積んである市役所の狩人御用達の得物をすすめたが、誰も受け取らなかった。必要ないとのことである。

「ええー……あの、深いところまでは行かないけど、ケモノ出るよ?」

 浜路は竹刀があるからと言い、雪螢と鉄はそういうものは使わないのだと言い切った。何か問題が起きると自分のせいになるかもしれないのだが、古海はもう後は野となれ山となれだと捨て鉢になりつつある。こうなったらあとはもうケモノと出くわさないことを期待するしかない。

 さっさと先へ進みたかったが、ここでまた問題が発生した。自己紹介が終わってから鉄と雪螢がギスっている。二人とも表立って事を起こす気はないらしいが、暇さえあれば睨み合い、剣呑な雰囲気が漂っていた。

「……もう帰りたい」



 五人は古海から狩人や猟地での振る舞いといった注意事項を聞きながら参道を上り、鳥居を潜って境内に到着した。待ち構えていた織星が人数を確認し、彼らは境内の奥まで案内された。幸は昨日下見に来たので既に知っているが、ここにはもう一つ山門がある。古めかしい鳥居に、幾重にもしめ縄が巻きついたものだ。

 しめ縄は結界の役割を持ち、この世とあの世の境目のようなものだ。

「これより先は不浄なケモノの領域です。皆さん、お気をつけて」

「ん、それじゃあ行きましょう」

 織星に見送られて、古海が先頭を切る。そうして幸は、三野山の猟地に初めて足を踏み入れた。彼が最初に感じたのは不浄なケモノの気配ではなく、濃密な森の臭いであった。

 鬱蒼たる雑木林の間を縫うようにしてできた道は先達者の功績だろうか。新緑のモミジが目立ち、青空に負けないほど瑞々しい光を放って輝いている。風が鳥の声を運んでくる。緩やかな坂道を歩いていると時間を忘れそうになった。

「古海さん、どこまで上るんですか」

「まだ先かな。ケモノと会いたいわけじゃないけど、ここいらを見せときたいからね」

 黙々と歩いているとせせらぎが聞こえてきた。道幅が少し広くなり、視界が開ける。

 三野山の風景は一つきりではない。曲がりくねり、いくつかの瀑布が懸かった山峡は時に奇岩を現す。渓間の道の両側には先と違った木々が生え、聞こえてくる鳥の声も変わる。水音に混じり、甲高いけだものの吠え声がこだました。

「サルの声でしょうか」

 浜路はぴくぴくと耳を動かしている。

「三野山名物ね。あ、もう一つ注意なんだけど、花粉症に罹ってないやつは殺したり、ケガさせたらダメだからね」

「は? それじゃあどうやって見分けるの?」

「色とかかな。花粉症のケモノが全部凶暴になるわけじゃないの。ただまあ、罹ってるやつは毛の色とか、目の色が違ったり、他のとは違う動きをするかな」

「色……」

 雪蛍は面倒くさそうに息を吐いた。

「元の色を知らないんだけど」

「その辺は説明してくから任せといて」

「細かいのね」

「来る前に三野山の生き物について調べてきたらどうなんですか」

 鉄がぼそりと呟く。それを聞き流すほど雪蛍は気が長くなかった。

「は? 何?」

「なんですか」

 鉄と雪蛍が立ち止まって睨み合う。古海が宥めようとするがこの二人には彼女の知らない確執があった。

 先日、蘇幌学園をやくざものが襲撃した事件に端を発している。というか、二人はその襲撃者の一味と蘇幌の教師である。そしてお互いがその正体を知っている。幸の手前、殴り合うような真似はしないつもりだったが、二人は『どうしてこいつがここに』という疑問を抱えていた。特に鉄の方が雪蛍を敵視していた。

「やる気がないなら帰られてはどうですか」

「……さっきから突っかかってくるけど、言いたいことがあるならはっきり言って。まだるっこしいのは嫌いだから」

「ちょっと! なんで!? あんたら初対面でしょ!? 女ならもっと裏でねちねちやりなさいよ!」

 浜路は深く頷いていた。

「前途多難ですね、八街殿」

「そ、そうですね」

 幸はこの状況を想定していなかった。まさか鉄が来るとは思っていなかったのである。今となってはどうしようもない。これでは狩人の研修どころではなくなるかもしれない。ケモノが姿を見せたのは、そう思った矢先のことであった。

 最初に反応したのは古海だった。彼女もまた幸と同様、腰に鉈を携えている。それを無言で抜いた。近くにいた鉄たちはぎょっとしていた。次に反応を示したのは浜路である。彼女は木々の隙間を竹刀の先で擬した。

「あれはどうですか」

 幸には見えていなかったが、現れたのはサルだ。体毛が普通より赤い。それは鳴き声一つ上げず、彼らをじっと観察しているようにも見えた。古海は幸を庇うように先へ進み、ケモノをねめつける。

「たぶん一匹じゃないかな。はい、みんな見といてね。アレがケモノね。普通のサルにしか見えないけど、あいつは斥候か何かかな」

「斥候……」

「人が山に入ってきたからね。私らがどんなもんか見に来たんでしょ。ああ、とりあえず動かないで。そのまましてたらいったんどっか行くよ、あいつ」

 緊張感が場を満たしたが、はたして古海の言う通り、ケモノは踵を返した。浜路は悔しそうにしていた。

「今のは分かりやすかったかな」

 古海は鉈を鞘に戻した。幸は何が何だか分からなかった。

「覚えといてね。ケモノは見た目で判断できます。色とか、大きさとか、そもそも一見して『なんだこれ』ってやつも中にはいるから。あじ……まあ、人間もね、花粉症に罹ると体がどっか変わったりするから。それこそここにも羽の生えたクマとか出るよ」

「さっきのサルはいくらになるの?」

 雪螢が問うた。それに対して鉄がまた何か言おうとしていたが、どうにか堪えたらしい。

「あのサル? あれ一匹じゃ大した額にはならないかな」

「脳みそは食べないの?」

「え? サルの? 食べるの?」



「あっ」

「はい、みんなストップ。動かないでね。動いたら向かってくるから」

 山を登っていくうち、道は徐々に険しくなっていく。先へ進むにつれケモノの数が増えてくる。それを見つけるたび、古海は説明役を買って出ていた。

 浜路が見つけたのは馬鹿でかい蛇だった。それが木に巻きついている。こちらに気づいているのかいないのか大人しかった。

「コブラ……?」

「普通のよりか大きいけど、あれはアオダイショウね。花粉症に罹ったやつはたいてい毒を持ってるから特に気をつけてよね」

「あれはいくら?」

 雪蛍はケモノを見つけるたびにそれがいくらで買い取られるのかを聞く。

「あれは……いくらだっけか。そこそこじゃないかな。食べられるし、いかるが堂が薬の材料に使うし」

「そうですか!」

「ああっ、動くなって言ってるのに!」

 浜路が飛び出した。足場は悪いはずだが苦にした様子もない。彼女は異能を使い、竹刀に冷気を纏わせる。それで蛇の頭を串刺しにした。

「討ち取ったり!」

「勝手に殺してんじゃないわよ! 誰が持って帰ると思ってんのよ」

「ご心配なく。担いでいきますので」

「何なのこの女……」



「う、古海さん古海さん。今なんかいませんでした? ちょっと大きかった気がするんですけど」

「え、どこ? ああ、ホントだ」

「犬じゃないんですかあれ。……お、狼かも」

「狼ですか? 狼が三野山にいるんですか?」

「どうだろ? あー、でも、メフに元からいた生き物以外にもペットとして飼われてたものが野生化したり、ちっちゃいけど動物園があったからね。そっから来たやつかな」

「狼か何かですよ、あれ。絶対そうです」

「こっち来てる」

「うわあ目が光ってますって」

「狼ですか? 私にはそうは見えませんが」

「でもあんなに大きな動物いませんって」

 幸は一人で慌てていた。

「火とか、火はどうなんでしょうか」

「ダメだよ。山火事になっちゃうから」

「心配いりません八街さん。万が一の場合は私がバリケードになります」

「この先生ちょっとおかしいんじゃないの?」

「というか、狼にしては大きいような……八街殿。本当に狼ですか?」

「ぼく知ってますよ。あの歩き方間違いないですよ」

「えー? 本当ですかー?」

 雪蛍は木々の奥へとじっと目を凝らす。

「幸、見間違えてない? さっきのやつ、シカじゃないの?」

「あー。シカですか」

「いや、シカじゃないです」

「……角が生えてるんですが。長いのが見えませんか。古海殿。あれは普通のシカですか。それともケモノですか」

「んー? ああ、なんか生えてるわね。形が、ちょっと違うかな。ケモノかも」

「角の生えた狼じゃないんですか」

 幸は頑なだった。

「八街さん、あれはどう見てもシカだと思いますが……」

「うん、シカね」

「シカですか……」



 草むらから物音がした。のっそりと姿を現したのは大型のげっ歯類である。

「さち君さち君、これも狼かな? それともシカかな?」

「ちょっと古海さん、どう見たってネズミじゃないですか。弄るのやめてくださいよ」

 浜路は、のそのそと歩くネズミを見下ろしていた。

「これはおいくらになりますか」

「あんたら、ケモノを金の成る木か何かと勘違いしてない?」

「いくらになるの?」

 浜路と雪螢に問い詰められ、古海は仕方なさそうに指を三本立てた。

「三万?」

「や、三千。噛まれるとヤバいけど動きは遅いから、駆除しやすいってのもあってね」

 金に目がくらんだ二人はどうしたものかと悩んでいた。鉄は屈み込み、ネズミに熱い視線を送る。幸も彼女に倣った。

「これは、カピバラでしょうか」

「尻尾が生えてます。ヌートリアじゃないでしょうか。カピバラには尻尾がなかったと思いますよ」

「そうでしたか。ヌートリア……」

「先生、こういうの好きなんですか」

「興味深いとは思います」

 その時、ケモノが大きく口を開けた。その瞬間、鉄は異能を発動してケモノの頭部に拳を叩きつけた。一切の躊躇がなかった。幸の眼前でヌートリアらしき物体が四散した。

「せ。先生?」

「今、八街さんに噛みつこうとしていたように見えましたので」

 鉄はハンカチで幸の頬についた返り血を拭い、自らの右拳を拭った。

「ねえ。今、この先生、素手で殴り潰さなかった……?」

「手が汚れるので、次は手袋を持ってくることにします」

 鉄はこともなげに言うのだった。



 その後も三野山での探索は続いた。多様なケモノと遭遇し、買い取り金額の多寡によって彼らはその命を奪われた。

 浜路は剣の届く範囲にいるものならたいていは一撃で仕留めてみせた。

 鉄はイノシシの突進を受け止めても平然としており、殴り返してケモノを昏倒させた。

 雪蛍は空を飛ぶケモノすら追いかけて叩き落した。

 幸はショックを受けていた。ケモノを間近で見たのもそうだが、自分だけが上手く動けず、活躍できていなかったことが悔しかったのである。

「この人たち、本格的に狩人になってくれないかなあ」

「……ぼくの研修なのに」

「あ、あはは、ごめんねさち君。まあ、いきなりこういうのはさ、普通は無理だって。今日は色んな事を覚えて帰りなさい」

 幸は小さく頷く。

「でも見込みはあるよ。なんていうかさ、普通はもうちょいビビるんだよね。ケモノが襲ってきて怖いってのもあるけど、それをブッ……ぶちのめすことに対してもさ。さち君、そういうのはあんまし感じてないっぽいから」

「おかしいんでしょうか、ぼく」

「そんなことないよー」

 古海は幸の頭を撫でくり回した。

「だーいじょうぶ。いい狩人になれるよ」



 昼を回ろうとしたところで下山の運びとなった。帰りもまた古海を先頭に五人は山道を歩く。

「あまり稼げなかった……」

「山のケモノだからねー。最悪、狩人じゃなくても何とかなるのも多いし。地上だからね、原形を留めてるのが多いんだ。でも大空洞のは違うよ。もっと色んなのがいるし。ああ、ほら、深海ってあるじゃない? あそこにいるのも変わった生き物ばっかでしょ? ホントかどうか知らないけどさ、海のふかーいところに行った人ってめっちゃ少ないんだって。それこそ深海より宇宙に行ったことある人のが多いってさ。自分の足元にある場所のこと何にも知らないんだよね、人間って」

 古海。

 彼女の背に熱い視線を送るものがいた。浜路である。彼女は山に入ってから幸に気を配っていたが、途中からは彼のことを忘れかけていた。

 幸はいいやつだが、狩人には向いていないような気がしている。あまりにも鈍過ぎるのだ。目も耳も、手も足も、何もかも。他の二人は素人にしてはマシだが、浜路から見ればまだまだである。

 が、古海は違う。彼女は今日一度たりとも鉈を振っていないが、ケモノを見つけるのは誰よりも早かった。それこそ目も耳もいいワーウルフの自分よりもだ。浜路はそれがちょっと悔しかった。

「色んなものがいるんですね。世の中には」

「そうそう。まだまだ世界は広いってね」

 浜路は昏い笑みを浮かべていたが、それに気づいたものはいなかった。



 下山し、神社の巫女に簡単な報告を済ませると、浜路と雪蛍は先を競うようにして参道を下りて行った。駐車場にある、タダイチといかるが堂の出張所に向かったのだ。さすがに出くわしたケモノ全てを殺して持ち帰ることはできなかったが、それでもある程度の量は持ち帰っていたのである。

「さち君も、ケモノの解体の仕方とか覚えないとね」

「難しそうです……」

「実は私も解体とかはしないんだよね。お給料分だけ狩るので充分。あんなんばっかやってたら血の臭いが染みついちゃいそうで」

 幸と古海も下まで戻ろうとしたが、鉄は山を見たまま中々動かなかった。

「センセ、どしたの?」

「ああ、古海さん。ケモノのことが気にかかっていて……思っていたより多かったなと、そう思ったものですから」

 古海は苦い顔になった。

「春ってのもあるから数は毎年あんなもんなんだけど。ちょっと、近いかな。あいつら、市役所うちが入らないもんだから、調子こいて割と下の方まで降りてきてたんだよね」

「まずいってことですか?」

「んー、さすがにストライキしてる場合じゃないよね。上にかけ合って山狩りかな」

 どうやら人を増やさないことにはどうにもならない事態になっているらしかった。

「まあ、今日で少しはケモノどももビビったでしょ。何せバケモンが三匹もやってきたんだから」

「それは、私も数に含まれているのでしょうか」

「当たり前でしょうが」

 三人は浜路たちに遅れて下山した。先行していた二人は既に駐車場で買い取りの交渉を始めている。幸も何となくそっちへ向かってみると、見知った顔が二つあった。タダイチの出張所には葛が、いかるが堂の方には藤がいた。二人とも幸を見つけるなり素早く近づいてくる。

「どうだった」と仲良く声を揃えてから、そのことが気に入らなくて葛と藤はガンを飛ばし合った。

「どうにか無事に戻って来られたよ。ぼくは、あんまし、何もできなかったんだけど」

「怪我がないならそれでいいじゃない」

 藤は幸の周囲をぐるぐる回り、笑みを浮かべた。

「でも、二人ともどうしてここにいるの?」

「遊びに―。八街が山行くって聞いてさ、見にきてやったの。どう? 嬉しい? 超有り難くない?」

「そうなの? ありがとう、結構嬉しい。なんかホッとしたかも」

 猟地を出てから、幸は手汗をかいていることに気づいた。

「あれ? 八街君、大丈夫? ちょっと顔色悪くない?」

「あ、うん。今になって怖かったかもって思っちゃって」

「あらら。あ、こっち来て座る? あとね、狩人として出かけるときは私に一声かけて。八街君たちの持ってきたやつなら、ちょっと高く買い取ってあげる。ちょっとだけよ、ちょっとだけ」

 藤が幸を引っ張ろうとするが、葛がそれを止めた。

「おめー何いかるが堂連れてこうとしてんの? せんぱーい、タダイチのがいいよねー。うちならいかるが堂より高く買い取るしー、死ぬほど可愛い看板娘葛ちゃんがいるんだよー?」

「看板娘って……何それ。アホじゃないの?」

「殺すぞ」

「は?」

 疲れている時に喧嘩は止めて欲しかった。

 その後、幸は鉈を古海に預けたり、葛や藤に慰められたり煽られたりした。帰ったらむつみに色々聞いてもらおう。そんなことをぼんやりと考える幸であった。

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