藤袴



「しかしアレだなあ。シカと狼を見間違えるかなあ」

「その話はもういいじゃないですか」

 幸が初めて三野山の猟地に入った翌朝。むつみはまだ彼を馬鹿にしていた。昨夜も散々意地悪を言っていたが、次の日になっても物足りなかったらしい。

「狩人は目もよくないといけないからね。今日から魚の目玉をメニューに出してあげるよ」

「本当ですか?」

「知らない」

「……鳥を食べたら飛べるようになるわけでもなし、普通でいいですよ、普通で」

 昨日、何もできなかったのはショックだったが、鉄たちが少しおかしいだけでしようがないと言えばしようがない。

 自分には何もない。だから何か身につけたい。幸はそう思っていた。だからか、彼は山で《花盗人》を使わなかった。使うのが何だかずるいように思えて、恥ずかしかったのだ。使えば、どうなっていただろうか。自分もケモノを切り刻み、殴り飛ばして、空高くまで翔けられただろうか。



 放課後、幸は拾区に寄っていた。ここ最近はそれが当然のようになっている。

 今日は神社ではなく、最初に斧磨鍛冶店へ向かう。鷹羽に頼んでいる鉈の調整をするためだ。

「ごめんくださーい」

「ああ、お客さん」

 親方が営業スマイルを浮かべた。少々ぎこちなかった。彼が大声で鷹羽を呼びつけると、彼女が慌てて作業場の奥から顔を覗かせた。

「来やがったか」

「『いらっしゃいませ』だろうが!」

「わーかってんようるっせえなあもう」

 鷹羽は頭のバンダナを解く。汗のしずくが周囲に散った。

「こんなんでいいか?」

 鉈に使う鋼の種類。刃の形状、厚さ、長さ、重さ、表面をどう仕上げるか。柄の材料や形もそうだ。特注品であるゆえ、細かくすればするほど時間がかかる。そして幸はうるさかった。渡された試作品の鉈を握り、首を傾げる。

「なんか違う」

「『なんか』ってなんだよ!?」

「……ええ? その、なんかもうちょっと重い方がいいというか」

「あんまし重くすると振りづらくなるんじゃねえのかよ」

「だから『もうちょっと』だけ」

「もうちょっとってどんくらいだよ!?」

 親方は二人のやり取りを聞いていたが、ふと思い立ったかのように口を開いた。

「二本目も作ってもらえばいいんだがなあ。知ってますかい。使う鋼は色々あるんですが、最近は種類っつーのか、変わったもんが多くってですね。おれぁよく分かんねえし、よく知らねえから正直やりたかあないんですが、何でも、ケモノの血とか、そういうのを混ぜ込むんですと」

「ケモノの……?」

 親方は頷いた。

「大空洞のケモノは妙な体でできてるもんですから。宝石とも違うらしいが、そいつを高く買い取る好事家もいりゃ、そいつをてめえの武器にする狩人もいるんですよ。世の中には」

「血とか、お肉とか、そんなの混ぜて意味があるんですか?」

「あると思ってる人がね、狩人には大勢いるんですよ。実際、火に関わる力を持ったケモノの肉を食えば火に強くなるだとか、武器に混ぜりゃあ刀身が暖かくなるだとか、そういう話は聞きますがね」

「げー。アタシはそういうのわっかんねえけどなあ。ま、どっちにしろシカと狼の違いも判らねえやつにゃあまだまだ先の話だな」

「何で知ってるの、それ」

「へっへっへー、なんでだろうなー」

 この日も調整はあまり進まなかった。



 幸は神社に向かった。あんまり放っておくと天満の機嫌が悪くなるのは明白だったからだ。

「……何か」

 境内はいつもより静かだった。巫女の姿もない。適当に歩くと、大きな木の幹に誰かが寄りかかっているのが見えた。白髪で背の高い――――《猟犬》と呼ばれている男だった。幸は彼に用がない。だが、彼が木の幹に手をつき、天満を追い詰めているのが分かった時、幸の全身がかっと熱くなった。

「その子から離れてください」

 猟犬という男は顔だけを幸に向けた。そうして天満を見下ろして苦笑する。

「やちまたくん。どうしたの?」

「どうしたのっていうか……」

 天満は常と同じく無表情だ。この状況をどう思っているのか分からない。しかし放ってはおけなかった。幸は猟犬と対峙する。

「いや、こいつぁどうも、やっぱり勘違いされちまいますね」

「勘違いも何も、ぼくにはその子を脅かしてるようにしか見えません」

「格好だけ見りゃあそういうことになるんでしょうが……お嬢ちゃんも何とか言ってやってくれませんかね」

「えー」

 天満は幸と猟犬を見比べて、それから、ぴくりと何かに反応した。

「何がどうか知りませんが、早く離れて。でないと」

「でないとなんです。まさか神域でやり合おうってわけじゃああるめえし」

「やり合うつもりなんですか」

「そういう目をしてますよ。こええ目だ」

 猟犬は天満から一向に離れようとしない。幸はしびれを切らした。

「やちまたくん」

「え? 何。止めないでよ」

「そうじゃなくって」

 天満は、猟地のある方角を指差す。それにつられて、幸も猟犬も振り向いた。

「何か、入ってきた」

「何かって……まさか」

 総毛立つ。幸は目を凝らした。ケモノの発したであろう甲高い声が轟いた。猟犬は天満から離れ、コートに両手を突っ込んでいる。焦った様子はない。彼は既に戦う準備を始めていたのだ。

「お嬢ちゃん、そっちのお兄さんと家の方へ。誰でもいい。他の狩人呼んできてくれませんかね」

「うん。……やちまたくん」

 天満は幸の袖口を引っ張っていたが、彼は動けなかった。

 否、動かなかったのだ。

 しかし次の瞬間には空手であることに、次いで武器を持っていたとして自分は全くの無力だということに気がついた。だから、ケモノが祈祷殿の屋根上や木々の上を駆けて、接近するのを許してしまった。

 猟犬は舌打ちし、幸を一瞥する。

「遅かったですね。これじゃあ半端に逃げてもしようがねえ。精々おれから離れないでくださいよ。つっても、二人もお守りするんじゃどうなるか分からねえ。期待はせんでください」

 ケモノと目が合った。

 サルどもだ。三野山のサルだ。……このサルどもは人を恐れない。人間が栄養価の高い餌をくれるものだと知っているからだ。仮にくれなくても奪ってしまえばいい。それをできるだけの力が備わっている。ケモノはそのことをよく理解していた。


「――――ィイイイイイッッ!」


 吼え声が迸る。

 幸たちを取り囲まんとする、花粉症に罹ったサルどもが飛び跳ねた。通常の個体より体が大きく、筋肉が発達している。色が変わり、歪み、片方の目玉が大きくなるなど変質している。

「こんだけうるさけりゃあ、わざわざ人を呼びに行かなくてもいいか」

 猟犬は歯を見せて笑った。ケモノはそれを威嚇と判断し、飛び跳ねるのを止めて目を見開く。いつしかケモノの数は増え、屋根の上から下りてきたものが数匹ほど、幸たちを包囲していた。

 ケモノの目が濁っていく。口からはちろちろと炎を覗かせるものもいた。電光を帯びるものもいた。

 けだものだが異能を使う。しかし言葉は通じない。出くわし、こうなれば、あとはもう戦うだけだ。命のやり取り以外にコミュニケーションの方法はない。幸は今更になってケモノがもたらす恐怖の所以を理解しつつあった。

 飛び掛かってきた一匹のサルがいた。それは、『獲物』の中で最も大きなものに狙いを定めていた。

 狙われたのは猟犬だ。彼は身を低くして、ぐるりと回った。ロングコートが翻り、それが元の位置に戻った瞬間、異形の長物が露わになっていた。分厚い刃を持つ鋸だ。猟犬が抜いた得物が、飛びかかったケモノの顔面を削いでいた。

 斬られたケモノは猟犬に頭を踏み潰される。彼は犬歯を剥き出しにした。

 別の個体が猟犬に走り寄る。彼は鋸を振ったが、身軽なケモノは攻撃を容易く避けた。ケモノもまた学習する。仲間はやられたが、猟犬の得物、その長さや威力を知ったのだ。

 だが、別の武器なら話は違う。猟犬は片手をポケットに突っ込み、再度突進してきたケモノに対して鋸を振るう。避けられたが、横っ飛びになって無防備になったケモノの腹には縄付きの短剣が食い込んでいた。驚いたのか、動きが止まったところを猟犬の鋸が襲った。サルの首が斬り払われて仲間の下に転がった。

「あぁ、いけねえ」

 屋根上から新たなサルが躍り出る。それは猟犬ではなく幸たちを狙っていた。

 幸は天満を庇い、ケモノの爪を肩で受ける。失血したが量は大したことがない。問題なのは傷口から伝わる熱だった。見ると、ケモノの爪から炎が立ち上っている。

「やちまたくんっ、あのお猿さんの異能を盗って! 早く!」

 さっきから《花盗人》を使おうとしているが、まるで反応がない。

「ダメなんだ!」

「なん……ああもう、役立たずなんだから!」

「武器をっ」

 天満を抱えたまま、幸は声を荒らげた。

「武器を貸してくださいっ、何でもいいから!」

「あぁ? そいつぁいけねえですよ。素人さんにおれのは貸せねえ」

 猟犬は幸の言を鼻で笑い、別のサルを相手にしていた。

「いいから、ごた言わずにそこで待っててくださいよ」

「でも一人じゃ……!」

 猟犬は苛立ち紛れに鉈を振るう。サルの数は増えていく。彼の斬撃は唸りを上げるが掃討には追いつかない。

「黙ってろって言ってんですよ」

 幸がそうしているのは彼自身の責任だ。わき目もふらずに逃げているならまだましだった。迷うからよくない。浅はかさが己を殺す。それだけではない。幸が死ねば次に死ぬのは天満かもしれなかった。

「欲しけりゃてめえでどうにかしてくださいよ」

「分かりました」

 幸の眼に光輝が宿る。襲ってきたサルのこめかみに、横合いから投げつけた短剣が突き刺さった。幸は短剣を引き戻すと、片手で天満を抱いたまま、地面に伏したケモノの後頭部に剣を刺す。

 その光景を猟犬は横目で見ていた。ポケットに手を突っ込むと、そこにあるはずの短剣がなかった。

「こっの……!」

 幸は縄つきの短剣を手で弄んでいる。それが自分のものだと分かると猟犬は怒りをあらわにした。サルの顔面に鋸の刃がぎちぎちに食い込んで肉を削ぐ。

「てっめえ人様のもん盗ってんじゃねえ! どういう教育受けてきたんだ!?」

 幸は猟犬の怒りなどどこ吹く風でケモノどもを睥睨する。手にした短剣から彼の何かが目の奥へと流れ込むような錯覚。脳髄が甘くとろけて痺れるような感覚。喜んでいるのは《花盗人》だ。花盗人かれの狂喜が伝染している。

「ごめんなさい、話はあとにしてください」

「おっ、おおっ……盗人猛々しいたあこのことじゃねえか」

 そうだ。

 それが花盗人ぼくの力だ。ぼくの名だ。幸は歯を剥き出しにして笑った。まるで猟犬のような凶悪な顔つきで。



 巫女たちが駆けつけてきた時、既に境内に侵入したケモノのほとんどは屍を晒していた。彼女らは天満を捜した。無事のようだが、珍しく怖がっているようにも見える。

 猟犬は鋸でサルを刻み、好き勝手に暴れる幸をフォローするように動いていた。

「……あれが、八街君?」

 常夏は信じられないものを見るような目つきだった。

 やがて弓を手にした巫女たちの助けもあり、ケモノの駆除は完了した。

「返してやってくだせえよ」

 幸は短剣を握り締めたままサルの死骸を見下ろしていたが、我に返ったようにして得物を猟犬の手に渡した。

「助かりました」

「そいつはこっちのせりふでもありますが……後にしやすか。しっかし、こいつぁいけねえ。ちいとばかり数が多いですからね。下の買い取り屋呼びつけて、片づけ手伝ってもらった方がいいでしょうね」

 猟犬は得物を血ぶりし、軽く拭ってコートの中に戻す。どのように収納されているのかはまるで分からなかった。彼に言われるがまま、一人の巫女が参道の方を目指したが、双子の玉と初音に支えられながら石段を上がってくる老婆を認めて、慌てて頭を下げた。

「ありゃあ……」

「おばあちゃんだよ。今日は起きてる日なんだ」

 天満は憎々しげに呟いた。

 老婆は境内の様子を見たが、気にしたそぶりを見せなかった。巫女たちは、彼女が社務所に戻るまでその場で立ち尽くして頭を下げ続ける。その折、骸に紛れていたサルのケモノが起き上がった。さすがに猟犬も反応できなかったのか、ケモノが老婆の方へ向かうのを阻めなかった。

「だっ、おおいバアサン!」

 杖を突いた老婆は、双子が制止するのを遮り、二人の前に出る。幸は目を見開いた。天満は舌打ちした。

 跳躍したサルが杖で額を突かれると、中空で縫い止められたかのようにその時間を止めた。だが、幸を驚かせたのはケモノの状態ではない。先まで杖を突き、生きているのか死んでいるのかも判別できないほど痩せて枯れた老婆が少女の姿に成り代わっていた。傍で控える双子と同様、巫女服に身を包んだ白髪の少女が好戦的な笑みを浮かべている。

 元老婆、現少女の巫女が顎をしゃくった。サルは動けないまま、雄たけびを上げた。しかし巫女らの放った数本の矢によって射殺される。ケモノの死を見届けると、今度は誰の手も借りることなく、白髪の少女は独りでに社務所の方まで歩き去った。

「何だあのババアは」

 猟犬は呆けていた。幸は、先の老婆が異能を使ったのだと見抜いていた。



 幸と猟犬は境内の隅っこにいた。間には天満がちょこんと挟まっている。三人は、巫女や、タダイチといかるが堂のものたちが境内の掃除をしているのをぼんやりと眺めていた。

「あのババア、おれぁ、人が入れ替わったようにしか見えなかったんですが。巫女さんもだーれも何にも言いませんが、これがここじゃあ普通なんですかい」

「普通じゃあないけど、おばあちゃんからしたら普通だよ」

「異能だね」

 猟犬は『入れ替わった』と評したが、幸は天満の祖母が若返ったように思えた。

「うん。おばあちゃんは自分の時間を操るの」

「時間を? そりゃあまた、何とも言えねえ話で」

 猟犬は瞼を擦った。

「豊玉さんと同じような力なんだね」

「うん」

 天満は頷いた後、幸を見上げた。

「やちまたくん、知ってたの?」

「おばあさんを見て察しがついたかな」

 幸はずっと、天満の力は『傷を治す』ことだと思っていたが、実際は『対象の時間を操る』ことではないかと推測していた。

「あぁ、なんですか。お嬢ちゃんも異能が使えるんで?」

「おばあちゃんとは違うけどね。おばあちゃんは自分の時間を操るけど、私は自分以外の時間を……操るってほどでもないかな。少し、戻すの。足を怪我をしてるなら、怪我をしてる前の時間まで戻してあげるの」

「便利じゃないですか。医者いらずだ」

 猟犬は気楽そうに言った。さして興味もなさげである。

「怪我は戻せるけど病気は、どうなんだろう。たぶん戻せないと思う。戻せるって言ってもずーっと昔までは戻せないし、戻せたとしても時間がかかるよ」

「あ。もしかしてそこに触ってる間だけ力を使えるの?」

 肯定も否定もしなかったが、幸には、天満がその時笑っていたような気がした。

「見たんだね。やちまたくん。『私を』」

「え?」

「ご神託も少しは意味があったのかも。あっ、おじさん、ありがとね」

 困ったように頭を掻くと、猟犬はポケットに手を突っ込む。

「さっきね。やちまたくんが来た時、おじさんと二人で私を取り合ってるみたいで、ちょっと楽しかったよ。テンション上がった」

「ええ、何それ?」

「じゃあね」

 天満は境内にいる巫女に向かって駆けていく。彼女が何を言っていたのか、今の幸には理解できなかった。

 取り残された二人は顔を見合わせた。

「ありがとうって、どういう意味なんですか」

「そりゃあまあアレだ。おれぁ、あの賢いお嬢ちゃんにちいとばかし聞きてえことがあったんですよ。その代わりにお願いを聞いてくれなんて言われちまいましてね」

「何を頼まれたんですか」

「はあ。壁ドンってやつです。何でも、壁際に追い詰められて見つめられたいんだと。最近の子はよく分からねえことを言うんですね」

「じゃあ、さっきのは」

「だからおれぁ勘違いされるから嫌だって言ったんですがね。おまけに大した話も聞かせてくれねえときたもんだ」

 幸は猟犬に謝った。彼は気にしていないと手を振る。

「その代わりと言っちゃあ何ですが、ちょっと頼まれちゃくれませんかね。確か、八街さんでしたっけ」

 原因は天満にあるが勘違いしたばかりか、一度は《花盗人》で猟犬の武器まで奪ってしまっている。幸はもちろんだと答えた。

「そいつぁいい。何せ、あんたはここの巫女とは仲がいいし、さっきのお嬢ちゃんとも親しいときてる。ここを探るにゃあうってつけってわけだ」

 猟犬は歯を見せた。

「名乗るのが遅れちまいましたが、おれぁベルナップ古川ふるかわ。しがねえ狩人です。まずはケモノとやり合って血が昂ってるでしょう。涼みがてら、おれの話でも聞いてくれると助かるんですが」

 古川と名乗った男は笑っていたが、やはり顔つきは凶悪そうで、凶暴そうだった。



 古川はここに来た理由と、ここで何をしているのか。そして、ここで何が起こったのかを幸に話した。

「おれぁ神社の誰かに殺されたんじゃねえかって東屋さんのね、お仲間に頼まれてここに来たんですよ」

「犯人を捜してくれって、ですか」

「いや、本当は何があったのかを、ですよ。おれぁ狩人たあ名乗っちゃいますが、ご覧の通りはぐれものでして。食うためなら何だってやってますからね。失せもの探す《猟犬》としても色々やってるんすよ」

「でも、ぼくに名前を名乗ったのはどうしてですか」

 幸は、古川は素性を隠した方が仕事をやりやすいのではないかと考えていた。

「そこはそれ、あんたを見込んでってやつです。実は前から八街さんは使えんじゃねえかって思ってましてね。人畜無害を絵に描いたようなお人だ。おれぁ巫女に警戒されてるが、あんたなら上手いこと話を聞き出せるし、社務所の中にだって入っていけるじゃあないですか。協力を求めんなら全部話しといた方が上手くいくんですよ」

「ぼくが断ったらどうするんですか。巫女の人たちに全部ばらしちゃったら」

「そん時はそん時ですし、たぶん、あんたはおれの頼みを引き受ける。そう思ったんですよ」

 幸は東屋という人物を知らない。ここで誰かが死に、その仲間が追い出されたことは知っていたが、それだけだ。関係ないと切って捨てるには充分である。しかし、彼も神社の人間に対して違和感を覚えていたのは確かだった。

「……協力します。もし人を殺した人がここにいるんなら、他の人も危ない」

「恩に着ますよ。正直、おれ一人じゃあこの先どうしたもんかと悩んでたところでして。いや、しかしどうして何もしてねえのに警戒されちまうかな」

「猟犬さんに食べられちゃう」

「ああ? 何ですって?」

「双子の子たちが言ってましたよ。それに」

「それに?」

 古川は幸を見た。本人にとっては見ているだけなのだが、傍からは強く睨んでいるようにしか見えない。

「古川さんは顔が怖いので」

「おれの? ……まあ、そうかもしれねえですが、いや、おれぁ本当に何もしてねえんだがなあ」

 大層困ったように髪の毛を掻き毟ると、古川は俯いた。

「ごめんなさい。ぼくも見た目で判断してました」

「自分では気づかねえもんですね、そういうのは」

 二人は互いの知っていることを話した。幸はその中で、東屋が山で死んだという事柄が気にかかった。

「その人、夜中に、一人で山に行ったんですよね」

「巫女たちの話じゃあそうです。ケモノに食い散らかされたとかで、死体もほとんど見つからなかったそうですがね」

「どうしてなんでしょう」

 古川は目をぱちくりとさせる。

「どうしてって、そりゃあ……」

「ぼくもこないだ猟地に初めて行ったんですけど、あんなところ、その、好き好んで行こうって思う人は少ないですよ。しかも一人で。狩人だったらなおさらじゃないですか? どんなに腕が立ったって、そもそも意味なんかないっていうか……」

「まあ、おれが頼まれたのもそこが理由になってるんですよ。東屋さん、どうやら死んじまった夜にはしこたま酒をかっ喰らってたそうですよ。お仲間に愚痴なんかも吐いて。何を言ってるのか分からねえくれえ支離滅裂だったそうなんです」

「酔っ払って山に行っちゃったんでしょうか」

「前後不覚になってたのは確かでしょうが、東屋さんね、怪我をされてたみたいなんですよ。足をね、ちょっと痛めてたらしく。そんなことがあったから、お仲間がおかしいと思っておれに頼んできたんでしょう」

「じゃあ、酔っ払ってるところを誰かに運ばれたのかもしれませんね」

 狩人とはいえ無防備なまま一人で置いていかれれば、ケモノに集られて食われるのは何よりも容易い。

 古川は深く頷き、社務所を見た。否、睨んでいた。

「気がかりなことがあるんですよ。ここにゃあ女しかいねえ。東屋さん、まだ若かったとはいえそれでも男だ。しかも狩人の。寝てる人間を運ぶのは思ってるより重労働でね。しかも山まで運ぶにしては、あの巫女さんたちゃあ細腕だ」

「異能を使ったんじゃないんですか?」

「そうなるとおれには荷が重いかもしれませんね。何せ、おれぁ花粉症じゃないもんで」

 古川の言葉に嘘はない。彼に異能は備わっていない。縄付きの短剣を奪った時、幸はそのことに気がついていた。

「じゃあ、最後の最後にはぼくが見ます。神社の人たちがどんな花粉症なのかを」

「分かるんですか」

「全部まるっきりじゃあないですけど、ある程度なら」

 古川は声を上げて笑う。

「そいつぁ頼もしい。だが、そいつは取っておきにしておきやすか。異能を除外するんなら、あとは一つだ」

「東屋さんを山まで運んだのが、一人じゃないってことですね」

「ええ。神社ぐるみで何か隠してる。おれぁそう踏んでますよ」

 風が吹き、木々がざわめいた。もう日が暮れそうだった。

「いい人だったんでしょうね。東屋さんって。仲間がいて、古川さんだってこうして躍起になってる」

「ああ、そりゃあ間違いないでしょうね。だが、いい狩人じゃあなかった」

 幸は古川の顔を見上げた。彼は遠くの方をぼんやりと見つめていた。

「いい狩人ってのは、どんな時でも、どんな場所でも必ず生きて戻るやつのことを言うんですよ」

 八街さん。そう呼びかける古川の声音は、存外優しいものであった。

「さっきのアレ。あんたの異能ってやつ。どうしてそいつをもっと早く出さなかったんですかい。その力に引け目も負い目も感じるこたあないじゃないですか。せっかく身についたんだ。この町はよそより人間が死にやすくできてる。だったらあるもん全部使って生き延びなくちゃあいけねえ」

 自分語りになっちまいますが。古川はそう前置きしてから話を始めた。

「おれの親父は傭兵でね。あっちこっち世界を飛び回ってました。おれもいつしか親父にくっついてね、外国で人様にゃあでけえ声で言えねえようなことをしてきましたよ。そうしてまあ、気づいたら日本ここにいたんですが……何でもそうだ。人でもケモノでも、生き死にってもんはどうしたって付きまとう。そいつを多少なりとも飯の種にしてるのがおれたち狩人なんですよ。日本には日本の、フランスにはフランスの、大空洞には大空洞のルールってもんがある。そんで大概の場合、何をやったって生き残ったやつが正しい。だってそうじゃねえですか。『おれは正しい』って言ってやれるのは自分だけでしょう。生きてて、口が利けなきゃあおしまいだ」

 迷い、惑い、躊躇った。一瞬だとしても、人を殺すには十分な時間だ。

「生きて帰らなくっちゃあいけませんぜ」

「帰る……」

 ぼくにはそういうのがあるんだろうか。

 ぼくは、どこへ帰ればいいんだろうか。

 幸はどこも見られなかった。迷子のように、ただ視線をさ迷わせていた。

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